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19:To the victor belong the spoils
……
吹き込む風が汗をかいた身体を冷やしたからか、それともまったく別の要因からか、ゴーストの背すじを冷たいものが撫でていった。
怖気のようなそれにブルッと身体を震わせ、彼は得体の知れない予感と恐怖を振り払うようにゆるく首を振ってから足元に視線を落とした。
そこでは一人の少年が膝を抱えてうずくまっている。落ち込みたいことがあったというわけではなく、そこに穿たれた大きな穴からあふれる血と耐え難い苦痛のため、傷を押さえて声もなく叫んでいるところだった。
「……ごめんな。でもそんなの、すぐ塞げるんだろ?」
だから急がなければならないとまだどこか後ろめたく言いながらもゴーストは彼に背を向けた。
実際にジョーカーは明滅する視界の中で自らの内にある仮面の一つを呼び寄せて傷を塞ぎ、半身が残した甘やかな蓮の花の香りさえ消えぬうちにその背に手を伸ばしている。傷は癒え、痛みも消えたが、友人と思っていた相手から与えられた手痛すぎる一撃による衝撃からか、肩を掴んだその手は震えていた。
それを知覚していてなおゴーストは煩わしそうに口元を歪める。
「邪魔しないでくれよ。頼むからさ。俺は別に、お前とやり合いたいわけじゃないんだよ」
「俺だってそうだ。だけど、邪魔しないわけにはいかないだろ」
ゴーストはバイザーの下で眉をひそめた。
「平行線ってやつか」
「そうみたいだな」
「ならしょうがない」
「やめろ、。やらせるな」
苦しげに吐かれた台詞にしかしゴーストは鼻を鳴らすだけだ。
「まるで自分が勝つのが当然みたいな言い方だな」
キュッと床が鳴り、ゴーストの右肩が下がった。それが腰部を狙った殴打と気付くより早く、ジョーカーはほとんど反射的に脇を締めて拳を防いでいた。
してやったりとほくそ笑むが、これは釣りだった。次の瞬間には振り戻しを利用した左フックが右頬に突き刺さり、彼は一流のバレエダンサーのように回転しながら床に倒れ込んだ。
その身の上に嘲笑が降りかかる。
「立たないの?」
卑俗的な笑い方はジョーカーの知るその人らしくなかった。
意図して悪役じみた振る舞いをしているのか、そうした友人の一面をただ知らなかったというだけなのか……いずれにせよ、ジョーカーは鋭い打撃によって切れた口の端を拭いながら立ち上がった。
「……舐めるなよ」
この程度、もっとヤバい攻撃なら何度も味わってきた。
赤いものの混じったつばとともにそう吐き捨ててジョーカーは得物を構えてみせる。
ある意味ではこれは去勢であった。正面切っての戦いは彼の得意とするところではないからだ。もちろん大火力によって無数のシャドウを叩き伏せる真似ならいくらでも可能だが、それをゴーストに向かって放つほどの豪胆さ、あるいは冷酷さは持ち合わせていない。
手足をへし折ってやったほうがずっと早いと理解しつつも、彼はもう少し無難かつ穏便な手段を模索して友人に飛びかかった。
肉厚の刃は大型拳銃の銃身で受けとめられるが、同時にくり出した膝が強かにゴーストの腹に突き刺さる。
うめき声が食いしばった歯の間からこぼれ落ちるのを耳にしながら、ジョーカーは先に彼がしたように戻しを利用した勢いを左拳に乗せ、姿勢を崩したことでがら空きになったわき腹にお見舞いしてやった。
「ぐっ!」
明確な苦悶の声が上がったことに喜びはなかった。友人に暴力をふるうことによろこびを得る質ではなかったし、なにより傾いだ躰にはまだ戦意が満ちている。
そろそろ相手を友人としてだけでなく厄介な相手として捉え直すべきかと考えながら、ジョーカーは彼の胸ぐらを掴んで足元に叩きつけた。
「諦めろ! 誰もお前にそんなことをしてほしいなんて思ってない!」
「俺がやろうって決めたことなんだよ!」
覆い被さるようにして胸元を押さえるジョーカーの眉間、仮面の上に再び大型拳銃が突きつけられる。ゴーストはほんの一瞬、まばたきにも満たない間を置いてから引き金を引いた。
鼓膜を破るような銃撃音と同時にジョーカーは横ざまに転がりながら倒れ込んだ。一拍の静寂のなかに残響が尾を引いて耳鳴りのようにあたりに散らばり、ゴーストは歯を食いしばりながら立ち上がる。ともすれば震えそうになる膝を、必要以上に強く床を踏んで抑え込み、倒れた友人につま先を向ける。
「蓮……」
脚は一瞬だけ彼のほうへ向かおうと動きかけた。硬い靴底に踏まれたガラス片が床材を引っ掻く耳障りな音が拍子をつけるように鳴ったが、けれどそれ以上は続かなかった。
ぐっとなにかを飲み込むような仕草だけを残して、彼は再び倒れたままの友人に背を向ける。その歩もまた、やはりというべきか長くは続かなかった。
「勝った気になるのはまだ早いだろ」
倒れたはずのジョーカーが血の一滴も垂らさず二本の足で立ち、ゴーストの背後に佇んでいた。その顔に穴は見当たらず、ただ仮面の端にごく小さなへこみがあるのみだ。
なんということはない。彼はゴーストが逡巡する間に顔をわずかに逸し、弾丸の直撃を免れていた。すぐに飛び起きれなかったのは仮面を擦過した鉛玉の勢いに首をやられて悶絶していたからだった。
あるいはいっそ砕けるなりしてくれていれば首は痛めなかっただろうが、その場合は耳を吹き飛ばされていたかもしれない。
どちらがマシかと戯れに問いかけることなく、ジョーカーはまた別の半身を引き寄せて背後に従えた。
「ちょっと痛いぞ」
それはメタリックカラーの翼を備えた天使だった。人と同じ四肢を備えたそれは拳を握り、ふり返る隙さえ与えずゴーストの背を打った。
ペルソナを従えるほうに反動などありはしないが、打たれたほうは受け身さえ取ることもできず前方に吹き飛ばされる。ジョーカーは『ちょっと』などと言ったが、その痛みは間違いなく『ちょっと』ではなかった。
靴底が踏んだガラス片が床を擦って鳴き声をあげさせる。今度はジョーカーがそれをさせていた。
「もう容赦はしない。するとこっちが痛い」
痛いのは嫌いだと忌々しげにつぶやきながら迫る彼の姿はちょっとした恐怖映像以外のなにものでもなかったが、ゴーストにその恐怖刺激を楽しむ余裕はなかった。
容赦をしていて痛い目にあったのは彼も同じだ。瓦礫とガラス片の上に倒れ込んですぐ、彼はバネのように跳ね起きるとふり返りざまに長い足をくり出した。
鋼板に覆われた踵は距離を詰めようと駆け寄っていたジョーカーのすねを捉えていたが、彼は素早くゴーストの肩に手をおいて跳ね上がり、後方転回まで披露して回避してみせる。
振り回した足の勢いに引っ張られたゴーストと反転して着地したジョーカーは背を向け合い、ほとんど同時に身を翻して互いの肘をぶつけ合った。どちらもが相手のわき腹を狙った打撃だったが、互いをせき止めるだけの結果に二人は揃って仮面の下で眉をひそめる。
ならばとそれぞれ手にしたままの得物の底、あるいは頭を突き出すとこれもまたぶつかり合う。
「……気が合うな?」
「嬉しくもないだろ」
短く応えて飛び退ったゴーストに、ジョーカーは軽く肩をすくめてみせた。
「俺はそうでもないよ」
不敵な笑みを浮かべた彼の背後にまた新たな影が炎とともに出現する。
「すぐに治してやるから心配するな」
秤を掲げた黒衣の騎士の肉のない顔に、しかし明らかな嘲笑が浮かんだ途端、身構えていたゴーストの手足に鋭い輝きがまとわりついた。
触れるなり弾けたそれがばら撒いた閃光はデッキ全体に至り、『逃げ場』を消された彼はまともにこれをくらってのけぞった。
明滅する視界にチラつく黒い影が振り回した自身の腕なのか、はたまたジョーカーのコートの裾なのかさえ彼には判別できない。この上耳にヒヤリとしたものが触れ、あまつさえ小さな痛みを伴ってつねり上げられると驚きと恐怖に肉体が振り払おうと反射的にそちらを向いてしまう。
途端ゴーストの延髄に鋭い衝撃が走った。すり抜けざまに耳に触れたジョーカーが、がら空きになった彼の後頭部に踵を打ち込んでいた。
内側からも火花が散るようにゴーストの視界は明滅し、膝から力が抜け落ちて彼はその場に崩れ落ちた。脳幹への強い衝撃が呼吸と心拍にも影響しているのだろう、水っぽい咳をしながら胸を押さえる背中は完全に無防備だった。
ジョーカーはただ立ってそれを見下ろしている。仮面の下の瞳にはなんの感慨もなく、耳には風音があるばかりだ。
「……帰るぞ、。どんな事情があっても、お前に馬鹿な真似はさせられない」
伸ばされたジョーカーの手がやさしさの欠片も感じられない力強さで背を掴む。ゴーストはいよいよ身体をくの字に折って固くしたが、彼はそれすら構わずに強引に偉丈夫を引き起こした。
「ごほっ、げほっ……ぐっ、うぅっ、ああ……」
苦しげな喘ぎがつばと胃液を率いて床に落ちる。
「……謝らないぞ」
苦痛に歪んでいるであろう顔を覆い隠すバイザーの下から何某かの意志のこもった視線を感じて、ジョーカーは思わずと目を逸らした。謝るつもりは毛頭なかったが、だからといって気まずさや罪悪感めいた痛みを覚えずにいられるほど厚かましくもなれなかった。
早くこいつを回収して皆の顔を―――この空間では仮面に隠されているが―――見たいと視線を外に投げた彼の耳に、ふとうめき声が触れた。それ自体はずっと続いていたが、たった今漏れ聞こえたものは明確な言葉としてまとまっている。
「やれ―――ランピオン―――」
幾度か耳にした名だ。ハッと息を呑んだジョーカーの眼に揺らめく炎……暗く沈んだ蒼い火炎が飛び込んだ。
けれど素早く辺りにやった視線に映るものはない。もちろん先からあった光景は変わらずそこにあるのだが、目に見えてわかるような変化は捉えられなかった。
動揺を抑え込んでゴーストの腕を取ろうと身を屈めた彼の胸を何かが貫いていった。
「なんだ……!?」
激しい痛みと驚愕に身を強張らせながらも強引に脚を動かし、床を蹴って飛び退る。勢い余って天井を支える巨大な柱に背をぶつけると同時に、彼は自らを貫いたものの正体らしき物体を見つけて眉をひそめた。
基部がむき出しになった鉄骨に小さな穴が穿たれ、赤いものがしたたり落ちている。色と粘質からして血液なのだろうが、今しがた少年の身を穿ったからといっていささか量が多すぎる。
「構うな、いくらでも使えよ。それくらいしなきゃ《ジョーカー》には勝てないんだから―――」
ふらつきながら立ち上がるゴーストの口からは誰に向けているのか判然としないうめき声が漏れ続けている。
彼が両足を地につけ、背すじを伸ばすと自然とジョーカーの視線も上がる。これまで意識したことのなかった体格差が、今このときばかりは彼の精神に強く忌々しく印象づけられた。それはという相手に対し、はじめて明確な敵愾心を抱いたということの証だ。
けれどただ体躯に差があるだけなら、明らかな敵意を向けられているだけなら、ジョーカーにとってはさしたることもない。彼をその気にさせたのは先に身体を貫いていった不可解な攻撃だった。
その名を呼んでいた以上ペルソナを介した能力なのだろうが、目に見えるものはなにもなかった。『なにか』が射出されているのだろうことは傷と残骸に穿たれた痕跡から推察できるが、『なに』を『どうやって』そうしているのかがわからない。
ただし焦る必要はジョーカーにはなかった。正体が知れなかろうがそれが物質的な攻撃である以上、対処のしようはいくらでもある。
それでも突っ立っているわけにもいかないかとその場を退いた彼の足元をまた『なにか』が穿っていく。視界の端にそれを確かめたが、無数の穴は大きさもまばらで間隔も不規則だった。また先ほども認めた赤い飛沫はそこにもあった。
『なにか』は血だろうとはすぐに分かったが、では誰のかと問われれば―――崩落した天井や歪んでせり上がった基材の間を縫うように走りながら、ジョーカーは自身を睨めつけるゴーストの様子を窺う。彼の首から肩部を覆うキチン質は今や明確に脈動し、触手めいた管を本体である少年に絡みつかせていた。管はまた呼吸するように収縮と弛緩をくり返しては彼からなにかを吸い上げているようだ。
―――やっぱりお前もそういう、触手とか、名状しがたいモノ、とかがスキなの?
ゴーストの能力に関してナビの影響色濃いことはそれを経験した者に薄っすらとした共通の認識を抱かせていたが、それは体験に従ってのものとも思われていた。けれどこうして目を逸らしたくなるような情景を見せつけられると本人の資質そのものを疑いたくもなってくる。そうか、だから二人はトモダチなんだなと。
さておき、実情がなんであれ状況を解決する糸口とそれとは縁遠い。なにより飛来するものの正体が分かった時点で彼には勝ち筋が見えている。
文字通り自らの身を削って攻撃しているというのなら耐え続けることが出来れば相手は勝手に自滅する。
(なんて、そう上手くことが運べばいいけど。当初の目論見がそのまま上手くいったことってあったか? たいていいつも、はじめは上手くいっても後々敵に裏をかかれて痛い目に……いや―――)
こういうふうに考えること自体が前フリだと気を引き締め直したことが功を奏したのか、視界外から襲いかかった血の飛礫による損傷は最小限で済んだ。
「ほらみろ、やっぱり」
物陰に飛び込んだジョーカーを追って現れた銀の毛皮をまとう獅子が自慢げに身を揺らした。するとその毛に絡めとられて防がれた塊が音もなく床に落ちる―――それは凝固した血液の塊だった。
思った通りだとほくそ笑むことはできなかった。何故ならつい今しがたの攻撃はゴーストが立つ方向とは正反対からやってきていた。つまり『アレ』は自身を起点に攻撃を行うのではなく任意の場所に発生させることができるのだろう。
もちろん、それ自体はジョーカーにだって可能だ。距離に限界はあるが、狙った場所に雷を落とすくらいはお手の物だ。
物陰から飛び出したジョーカーはまだ同じ場所に留まり続けるゴーストの背を一瞥すると、己の仮面を引き剥がした。
「いけ、バロン!」
呼ぶ声に獅子は嬉しそうに吠えて雷鳴を招来し、ジョーカーの視界外で雷撃を偉丈夫に直撃させる。
雄叫びめいた悲鳴が響き渡ると同時にジョーカーのすねを血の飛礫が掠めていった。
小さな痛みに眉をひそめつつ覗いた足元には、自らが落とした影とその中でなお宝石のようにきらめくガラス片がある。
(影の中を通して狙ってるのか―――?)
であればやはりジョーカーには対処が可能だ。あるいはスカルやパンサー、クイーンにも。ただし彼らはこの場にはいない。
一人でやることの気だるさを奥歯で噛み砕きながらジョーカーはさらに速度を乗せようと大きく脚を踏み出した。
するとまたすねか膝を狙って血の塊が撃ち込まれる。素早く出された足に直撃こそしなかったが、皮一枚を引っ掻くように持っていかれたふくらはぎは意に沿わず収縮してしまう。
高いヒールが床にまき散らされたガラス片を踏んでかん高く不愉快な音と感触を彼に与えた。
ヤバいと思ったときには彼はもうつんのめって前に倒れ、両手を床につけていた。思いもよらず全体重を掛けられた手のひらがジンとしびれ、背すじと下腹を焦燥感が駆け抜けていく。
「ごめんな、でも……」
低くかすれた声はジョーカーが思っていたよりずっとそばから聞こえた。
ハッと息を呑むより早く、這いつくばった彼の下に落ちた影から無数の弾丸が現れ、腹から膝にかけてを乱雑に撃ち貫いていった。
「これくらいしなきゃお前には勝てないんだ」
崩れ落ちようとするジョーカーの下に鋼板で補強されたつま先が滑り込み、リフティングでもするかのように彼を蹴り上げる。
鮮血とともに転がされた視界にほとんど崩れ落ちて曇天を覗き見させる天井が映るが、すぐにゴーストの青ざめた口元がそれを覆い隠した。
「……!」
喘ぎながら呼びかける彼のへそから下の間隔はほとんどない。痛みばかりが襲いくり、動かそうとしても動いているのかさえ定かではなかった。
けれどそれも治せば済む話だ。事実彼にはそれが可能だった。
「このさ……この、仮面ってどれくらい硬いんだろう」
「なに―――」
痛みにあえぐジョーカーの肩にゴーストの足が乗せられる。それは体重と力をかけて、さらに彼を床に縫い付けた。
「足は潰した。次は武器だ」
ジョーカーの鼻筋、その顔を隠す仮面の中央に、鈍く輝く超大型オートマチックが突き付けられる。指は引き金にかかっていた。
「あっ」
やめろ、と懇願する間もなかった。あるいはそれは、《ジョーカー》が許しを乞う姿を誰にも―――ゴーストにさえ見せないための慈悲なのかもしれない。
発射された銃弾はもちろん仮面に命中した。しかし彼の頭部は砕けることなく、また血や脳漿を撒き散らすこともなかった。
ただ彼の、心を守る盾であり、剣であるはずの仮面だけが砕かれる。
ゴーストは安堵するような、残念がるような、奇妙な反応を覗わせていたが、それを雨宮が確かめることはなかった。彼はおこりにかかったように背を弓なりにして、踏み付ける力にも構わず身体をしならせて声にならない悲鳴をあげるのに夢中になっていた。
「あっ、ぃ―――!!」
その両手はひきつけを起こしてガクガクと震え、やたらめったらに床や空を掻きむしっている。気が付けばゴーストの足は引かれて遠ざかり、彼に踵を見せていた。
「はあっ! はあっ! あああ! あ……!!」
雨宮は腕を伸ばして遠ざかる彼の脚と背に追い縋ろうとしたが、砕かれた膝と心がそれを許さなかった。
心臓がめちゃくちゃに脈打ち、顕になったまだ幼さの残る顔には玉のような汗がいくつも浮かび、瞳には涙すら滲んでいる。ぼんやりと歪み、身体の震えによって振れる雨宮の視界の中央に、ゴーストが再び射撃位置につく姿が捉えられた。
「やめろっ……待て……!」
伸ばした手が空を掴み、もう間に合わないと彼に強く諦観させる。
―――きっとなにか、あいつにそこまでさせるなにかがあったに違いない。想像はつく。あの怪我と出血だ、彼の父親は腕を失ったのかもしれない。そしてそれは二度と元通りにはならないのだろう。
例えば、双葉の母親が生き返らないように。春の父親が生き返らないように。比べて死ぬよりマシだと言えるのは当事者以外の遠くの誰かだ。
なんにせよ自分がいわれのない罪を負わされたのと同じで、もうなにもかもが終わったことで、出来ることなんて何一つとしてありはしないんだろう―――
悟りめいた思考が伸ばした腕を下ろすように命じた。そこでうつ伏せて、じっとして、泣いていればいいと。
(でも……)
諦めることが可能だということは、諦めないでいることもまた、可能だということでもある。
雨宮はうめき声をあげながらガクガクと震える身体に鞭打って上体を起こした。しかし諦めないのだとして、さてどうしたものかと項垂れる。《ジョーカー》の仮面は呆気なく砕かれてしまった。傲慢で不遜な笑みを常に湛え、超然とした態度で影の間をすり抜けるための仮面を取り戻すにはどうしたものか。
ここに居るのは、むき出しになった素顔を隠すことすらできないただの子供だ。
そのただの子供は、しかしただ泣いて、うつ伏せて、じっとしていることは許されなかった。誰かが彼にそうしろと命じたわけでもないのに、這いずって、震える身体を叱咤して、砕かれた膝を叩いて、なんでもいいからなにかをしなければと立ち上がった。
……彼は知りもしないが、かつて高巻は少年にこう言った。『私一人じゃなかったから』と。決断を迫られたとき、そばに仲間がいたというそれだけのことで過ちを犯さずにすんだのだと。
それは雨宮にも言えることだった。
今や彼には大勢の仲間がいる。怪盗団ありきで構築された人脈だ。彼、あるいは彼女たちの存在は、雨宮に強迫観念めいた意志を抱かせていた。
―――あのひとたちにガッカリされたくない。
もちろん真実を知ったとしても、彼らは決して失望などしないだろう。この少年の奮闘を労い、慰めか、あるいは再起を促しこそすれ、落胆することはない。これは≪ジョーカー≫であることも、怪盗団の頭領であることとももはやなんの関係はなく、ただ雨宮少年の性格上の問題だった。
何故なら彼は仮面があろうがなかろうが、早く逃げろと促されても留まり、関係ないでしょとなじられながらも後を追い、帰れと怒鳴られても譲らず、正義を示してみせろと迫られてやってみせた。心を盗めと請われて盗み出しもしたし、嘆き苦しむ花嫁を横から掻っ攫ってもみせた。そして、助けてと泣いている女性がいたから、駆け寄った。
その結果として犯罪者のレッテルを貼り付けられることになっても、少しの後悔もしていなかった。それを反省がないと詰られても、それこそどうすることもできない。
雨宮蓮という少年が多くの人の《切り札》足り得ているのはただこの性質によるものであり、ワイルドの素質だとかペルソナ使いだなんて表号はただのおまけだ。ただ唯一、『死ぬほど』諦めが悪いだけの少年は、血を吐きながら無理やり足を前に押し出した。
「勝った気になるのはまだ早いぞ、……!」
痛み以外に感覚のない脚を引きずり、苦悶に身悶えながら彼は身体の奥底に呼びかけた。
目に見える仮面が砕かれたからといって、なにもかもが消えたというわけではない。彼はまだ諦めることなく立ち向かおうとしているのだから、資格は充分に満たしている。
胸に当てられた手に掻きむしるように力が込められた。その内側に叛逆の灯火がまだ燃えていることは、雨宮自身こそがよく知っている。
「まだ居るんだろう、そこに……」
震えて掠れた声にゴーストが振り返る。彼はそのバイザーの下から、雨宮が己自身を喚び起こす姿を目撃した。
「さっさと―――顔を見せろ―――! アルセーヌ!!」
彼は再び仮面を得て、蒼い炎をまとい、その背後に己の半身を従えた。濡羽色の翼を広げ、伝承のトリックスターがうるさいくらいに高笑いしている。
「冗談だろ、不死身かよ……!?」
ゴーストは再び大型拳銃を構えたが、アルセーヌが先んじた。やたらと大仰で気障ったらしい仕草で投じられた針がグリップを握るゴーストの手に突き刺さる。大した痛みも衝撃もなかったが、彼はひどく動揺して射撃の反動のまま大きく腕を跳ね上げさせてしまった。
アルセーヌは低くあやしく、しかし今度は静かに、こんなところで躓かれてはたまらないとでも言いたげに笑い、そのまま姿を消した。また会おうと言い残して、自らの半身のもとへ―――仮面という形を得て戻った。
それに応えることもなく、ジョーカーは跳ね上がった腕の下からゴーストの胸に飛び込んだ。当然それは熱い抱擁などではなく勢いと体重を十分に乗せたショルダー・タックルであり、下方から押し上げるように肩部をねじ込まれたゴーストは踵を浮かせて身体を大きくのけ反らせる。二人はそのまま、受け身もろくに取らずに床の上に倒れ込んだ。
「あああ……しんど……痛い、マジで痛い……」
「げほっ、げほっ、おえぇっ……吐く……今度こそ吐……」
言い切る前にゴーストは顔を伏せ、胃液をその場にぶちまけた。腹部と延髄、今また肺を強打され、いよいよ堪えていたものを抑え込めなくなったらしい。ジョーカーは立ちのぼる臭気に催吐感を覚えつつも起き上がり、優しく彼の背をさすってやった。
「やめ……それされると余計に……」
「好都合だ。出せ出せ、ほら、もっと出せるだろう?」
「うっ―――」
ジョーカーはなるべく遠くに視線をやり、なおもしつこくさすり続けた。そうしている間、ゴーストは決して反撃に出ることはなかった。単に出られなかったのかもしれない。
やがて吐くものもなくなり、涎と鼻水だけになったころ。ボロ雑巾のように疲弊したゴーストに、傷こそ塞いだもののすっかりくたびれきってダウン状態のジョーカーが寄りかかる。もはや背すじを伸ばしているのも気だるいと言わんばかりだ。
あたりはひどい惨状だった。男二人のいくつもの体液が広がり、悪臭すら漂わせている。
「……本気で、そろそろ帰ろう……一緒に……」
もうなにもしたくないと体重を預けてくる友人に、ゴーストは諦め悪く銃を握ったまま応えた。
「どうしてだ……? なんでそこまで……あいつみたいなのを生かしておく理由は?」
「別に、そっちはどうでもいい。正直な話、俺はそこは反対しないよ。好きにすればいい」
「ええ……」
引き気味のうめき声にジョーカーは唇を尖らせる。
「お前を連れ帰らなきゃならないわけはそんなことじゃない。もっと簡単な理由だ」
「なに」
ジョーカーは怒りと苛立ちを目一杯籠めてゴーストの胸ぐらを掴み、顔を寄せて彼を睨みつけた。
その背後には、兄貴風がやかましいほどに吹き散らかされている。
「双葉が泣いてる」
見えないはずのバイザーの下でゴーストが目を見開いた気配を感じ取って彼はほくそ笑んだ。
するとその瞬間、狙い済ませたようにナビが息を急き切らせて非常口から飛び込んでくる。ジョーカーの瞳は現れたばかりの彼女を間違いなく捉えていた。彼にはずっと慌ただしくもつれがちな軽い足音が聞こえていたのだろう。
「ぜひっ! ぜひっ! っはぁー! はー! げほっ! うえっ、うげえぇ……っ!」
すっかり乱れきって彼女こそが吐きそうになっている呼吸音も。
ナビは息を整える時間さえ惜しいと視線を巡らせ、やがて二人の姿を見つけるとゴーグルの下の眦を吊り上げて大股に歩み寄った。
「はっ、はひっ、ひっ……だっ、だからぁ……っ」
顔を隠すゴーグルが小さな手に掴まれて乱雑に押し上げられると、元々乱れていた髪が巻き込まれてますますひどいものになる。反してさらけ出されたその目元は、怒りを孕んでこそいても少しも潤んでなどいなかった。
「わたしは! 泣いてないっ! おまえらと一緒にするな!!」
―――いや別に、俺らも泣いたりはしてない。それ以外のものはけっこう色々出したかもしれないけど。
言い返すことはできなかった。憤怒を湛えたナビの細い足が二人のすぐ側にまでやってきて、射殺さんばかりのきつい眼差しを投げつけたからだ。
「ていうか、なんじゃこりゃ! おまえらなにしてんの!? なんで血とゲロまみれになって抱き合ってんだ!?」
「気色悪いこと言うな。抱き合ってはいないだろ」
「すいません。我慢しようとしたんだけど蓮が」
「待て。ゲロはともかく血はのせいだ」
「それはそっちが」
「なにいって」
「ちょっと黙ってろ」
「はい」
「はい」
肩を並べて項垂れた二人にナビの唸り声がぶつけられる。小さな足はもっと寄ろうと前に出され、そのたびに汚れを踏みそうになって戻された。
「うわああ汚いぃ……みんなぁ、ジョーカーとゴーストがいろんな汁まみれになってるよぉ……」
『は? どういうこと?』
『え……キモ……』
「誤解だ!」
「わざとやってるでしょ?」
辟易としつつ投げかけられたゴーストの問いかけに、ナビはニヤッといやらしい笑みを浮かべてみせた。彼女は答えるように床を汚す液体を踏みつけ、ビチャビチャと音を立てながら手の届く距離までやってくる。
その満足げな笑みといったら、男二人から怒りと戦意を削ぎ落とすには充分だった。
『なんだかよくわかんないし気持ち悪いけど……とにかく、ゴーストは確保したってことでいい?』
呆れ返った声はパンサーのものだ。
促されるようにジョーカーとナビの目がゴーストに向けられる。
―――そもそも、先からの怪盗団の面々の罵声は機器もないのにゴーストにも聞こえている。それはつまり、ナビが確認さえ取らず己の能力を彼にまで及ぼしたことの証明だ。そのナビは彼の手の届く距離で膝を折り、そばにしゃがみこんでいる。流石に髪を汚したくないからか、毛先を自らの手で捕まえてそれを猫じゃらしのように目の前で振ってもいた。
ゴーストは、これみよがしにため息をつき、手にした拳銃を捨てて代わりにナビの髪を汚れていない指で優しく捕まえた。
「髪伸ばすんなら、ちゃんと結びなさいよ」
「そっちのほうが好みってことか? んー?」
「ハハ、うける」
「鼻水垂らしてよくいうよ」
軽口の応酬をする二人の横で、ジョーカーは捨てられた拳銃を拾いあげた。その視線はもの言いたげに持ち主に向けられる―――
「……いいよ、持ってっても。使わなくなったら返せよ」
「やった」
威力は自らの身でもって測り済みかつ限定モデルだ。特定のシャドウにはさらに大きな効果が見込めるかもしれない。
ジョーカーは上機嫌になって先のパンサーの疑問符に答えた。
「任務完了だ。戦利品持って帰るよ」
それはどっちを指して言っているんだとゴーストは尋ねたが、ジョーカーが答えることはついぞなかった。