← ↑ →
17:Meaningless
逸る双葉をどうにか説得して待つこと一時間、パレスへの入口にあたる場所―――明かりの落ちた家の玄関口に集合した若者たちは、情報を共有させる時間も惜しいとパレスへ侵入する。
灰に埋もれる廃墟に踏み入ってすぐ、真っ先に異変を感じ取ったのはやはりナビだった。
「おっ、おい、あれ―――」
驚愕する彼女が指し示した先に目をやって、一同もやはり各々の仮面の下で瞠目する。
すっかり見慣れた侵入口のすぐそばに白煙を燻らせる鉄くずの山がいつの間にか出来上がっていた。それはほんの数時間前に訪れた時には無かったはずのものだ。
「これ、最初に襲われたヤツじゃないの……?」
恐る恐ると鉄くずの山に歩み寄ったパンサーの言葉に、ジョーカーとスカル、そしてもちろんナビは頷いて応じた。彼らは残がいのところどころに見覚えがあった。
ただならぬ彼らの様子にノワールはまばたきをくり返しながら問いかける。
「それって、ええと、例の大きな戦車のことだよね? それが、あれなの?」
戸惑いがちな彼女の声に答えようとしてか、ジョーカーはパンサーを追い抜いて見上げるほど近くまでそれに歩み寄った。
「スカル、ここを見ろ」
「あん? どしたよ」
「ん」
顎をしゃくって示したのは崩れたハンバーガーのように階段状に積み重なる巨大な円盤だ。それが戦車における砲塔にあたる部分であること、普通なら一つの車両にいくつもあるものではないことは明らかだろう。またそこから突き出したいくつもの円筒の一つは根本近くからきれいに斬り落とされている。履帯の外れた車輪とそこに焼き付けられたアスファルト片にも彼らは覚えがあった。
ただし、損傷のひどい車両前部については誰にも心当たりすらない。機関部になんらかの衝撃等が与えられた結果爆発炎上したのであろうことはちぎれ飛んだ金属片と焦げ跡、たなびく煙が教えてくれているが、具体的な原因は判然としない。
いずれにせよ、とスカルはため息めいた吐息とともに吐き捨てる。
「あんときのやつで間違いないなさそうだな」
感心と呆れをない交ぜにしたような調子でもあった。彼はまた、鼻を鳴らしてジョーカーとナビに目を向ける。
状況説明を求めているのだろうが、しかし向けられたほうの二人にだって目の前の鉄くずの山がどうやって作られたのか、そもそもこの緊急招集に至る経緯さえろくに説明できはしない。ただ『もしかしたら』と思い至ってここに駆けつけたというだけだ。
とはいえ、この場にこの鉄くずがある時点でなにかがあったことは明白だ。問題はそれを『誰が』やったのかというだけであって―――
「あったぞ」
かけられた声に、重苦しく沈黙していたジョーカーたちははっと息を呑んでふり返った。見ればいつの間に移動したのか、フォックスが車体側面の影から顔を覗かせながら一同を手招きしているではないか。
驚かすなと文句を付けながらもそちらに回ってすぐ、彼らはフォックスの言わんとするところを理解する。
爆発した形跡のある機関部からやや離れた防盾左部、角度のつけられた鋼板にちょうど拳一つ分ほどの穴が穿たれていた。
「……なるほど?」
器用に片眉だけを上げ、ジョーカーは地を蹴って跳び上がり、たわんだ泥除けの上に足を乗せる。それでも穴はまだ彼の頭上にあったが、観察するには十分だった。
なにより見たところで解ることはさして多くない。穴の形状からして内部からの力によるものではないこと、高速で飛来した硬度のある、鋭い形状の物体によって穿たれたものである可能性が高いことくらいだ。
ジョーカーは視線を足元に落としてフォックスに尋ねた。
「穴だけか? 他は?」
「今のところは。時間を掛ければ見つけられるものもあるかもしれないが……」
「のんびりしている時間はないわよ」
わずかに苛立った様子でクイーンが指摘した。
現在時刻という意味ならば、そろそろ日付が変わるころだ。この場の誰にしても保護者や管理者に無断で抜け出してやってきているから、時間的猶予なんてものは最初から無い。
けれどクイーンが気にしているのはそんな現実的かつ切実な問題ではもちろんなく、この場にわざわざやってきた『原因』を慮っての苛立ちだ。
手を突っ込んで探るまでもなく、ジョーカーの頭の上にある穴は弾丸―――おそらくは貫通力の高い徹甲弾によって空けられ、硬い芯がエンジンにまで至って爆発させたのだろう。ジョーカーがフォックスに『他に』と問うたのはその弾丸自体の行方を尋ねてのことだった。
彼はまた、鋼板に背を預けて真正面を見上げる。
降りしきる灰のむこうには荒涼とした景色が続いている。なぎ払われた家々とビル、商業施設や国道とそれを支える高架、それらを見下ろすいくつかの塔―――
射線からみてこの大物を撃ち貫いた射撃が高所から行われたものだろうことは推察できるが、それが具体的にどれかと問われれば、ジョーカーには即答はできない。そもそも距離がありすぎるように彼には思えた。
「ナビ」
呼びかけに少女は顔を上げて高所に陣取る彼を見上げた。
「できると思うか?」
主語のない問いにナビは少しの間も置かず答える。
「ここが認知世界だってことを差し引いても、あいつなら可能だ」
声には確信とともに、友人の暴走を確定付けることに対する罪悪感や後ろめたさが見え隠れしている。言い終えると同時に俯いてしまったことがなによりの証拠だろう。
ジョーカーは努めて平静に、決して彼女を責めるつもりはないと言わんばかりの優しげな声で応える。
「そうか。やつが……ゴーストが来ているのは間違いなさそうだな」
「だけどどうして」
肩を落とすナビに歩み寄ったノワールもまた、物憂げに目を伏せつつ述べる。どうしてと疑問符を浮かべたところで、彼女には彼の少年の心地が幾ばくか理解できてしまっていた。唯一の肉親の血を見て平静でいられる子どもが世にどれだけいるだろうかと。
―――自分が『こう』ならずに済んだのはひとえに仲間たちのおかげだ。彼もまたそうのはずだと思っていたが、こうなってしまったということは、一人でいる時間になにかあったということなのか、それともやはり、以前からずっと『こう』する腹積もりだったのか……
ノワールはひどく悲しげな声で、誰にともなく訴える。
「……どうして私たちにも相談してくれなかったのかな……」
これに、スカルとパンサーはばつが悪そうに肩を縮こませる。彼女の言う『相談』とは今この場でのことに対してではなく、以前にこの二人に対してゴースト……が持ちかけたいくつかの問いかけのことだ。
様々な意味で頼もしい先輩たちよりも自分たちが選ばれたからといって、二人は誇らしい気持ちにはなれなかった。なんとなればそれは信頼によって持ちかけられたというより、もっと後ろ暗い動機によるものだと二人も気がついているからだ。
もっと強い言葉で諌めてやったほうがよかったのか、それとももっと寄り添って親身になってやったほうがよかったのか―――
悔悟の念に囚われることに意味は―――時としてあるかもしれないが、今ではないとクイーンは意図して小馬鹿にするように鼻を鳴らしてみせた。
「この二人になら言ったところで悟られないと思ったんでしょ」
からかいと嘲りのたっぷり籠められたそれに、しかし二人は首を傾げる。
「ん……? どういう意味?」
「えーっと……あはは……」
「……いや! バカにしてんだろセンパイおうコラ!?」
「さあね〜」
生意気にも噛みつこうとする後輩を精神的に上から見下ろしつつ、クイーンはナビとノワールの肩を叩いてその視線を塔の方へ誘った。スカルとパンサーもそれに倣い、一同の会話に耳を傾けていたフォックスも地面を探っていた眼を上げる。
皆の視線の先、いずれかの塔にゴーストはすでに潜伏しているのだろう。
パンサーは髪に絡む灰を払い落としながら大仰にため息をついた。いかにも演技めいたそれは、先にクイーンがしたように全体を覆ううっすらとした自責の念を打ち払うためだろう。
「無駄だって釘刺しといたんだけどなぁ……」
拗ねた素振りも同じ意図からだった。フォックスは豊かな金の髪を視界の端に留めて笑った。
「言われて思い直すような男ではないんだろう」
「頑固ってこと?」
「いいや―――」
ただし、彼に雰囲気を払拭するつもりがあるかはわからない。
「お前たち以上の大馬鹿者ということだ」
「ンだとコラ!?」
「お尻引っぱたかれたいの!?」
パーン! と派手な音がしたのは、パンサーが振った鞭が足元を叩いたからで、決してフォックスがご褒美を頂戴したわけではない。
ジョーカーはそんなやり取りを眺めつつ、不安定な足場のもとで器用に膝を折り、膝に肘をついて頬杖をついている。
―――どうしようかなぁ。あいつを阻止するのは確実としても、このデカブツが破壊されたことであちらさんは少なからず警戒を強めているはずだ。なんならこの間みたいに工藤経助が姿を現している可能性だってある。
と、そこまで考えてジョーカーは「あー」と低く呻いた。そういうことか、と。
単体では予告状の作成・送付は不可能だ。そうなればパレスの主である工藤経助はオタカラ同様に姿を確かめられない。だから彼は敢えてこの超大型車両を破壊せしめ、警戒を強めさせておびき寄せようとしたのだろう。その成果はこの場では確かめられないが―――
「しまった……」
突然呻いたかと思えば今度は頭を抱えはじめた彼に仲間たちは不審げに目を眇めている。
彼はやっと車体から飛び降りると、皆に憂鬱の訳を説明し始めた。
「祐介、モルガナに予告状を渡しただろ」
「ああ」
したり顔で頷くところを見るに、なるほど彼をして満足のいく渾身の出来だったのだろう。それはいい、とジョーカーも首を振る。
「で、あいつ―――の目的はなんだ?」
「そりゃ……工藤への復讐、とか? うちらと別れたあと、なんかあってさ」
「それか、はじめからそのつもりだったかね」
そう思いたくはないけど、とクイーンは小さく付け足した。
ジョーカーはまた、いずれの意見にも頷いて今度は先の推察を語った。の目的が工藤であり、居場所を捉えるためにこの車両を破壊したのだろうと。
「それで本当に工藤がまた姿を現すかはわからない。だけど……祐介、本当に、モルガナに、予告状を渡しちゃったんだな?」
「……口に咥えてはるばる行かせるのも可哀相だと、紐で背に括ってやった……」
答えてフォックスはガックリと項垂れた。
遠からず予告状を携えたモルガナは工藤のもとに現実でたどり着き、予告状を叩きつけてくれることだろう。つまり、今この場がの思惑通りになってもならなくても、工藤のシャドウはいずれ予告状に反応して確実に姿を現してしまう。そうしたのは最悪の場合に備えてオタカラを奪取することでパレス自体を崩壊させてしまおうという目論見だったのだが―――
「完全に裏目に出たちゃったね?」
「言わないで」
フォローのつもりだろう。朗らかに言ってみせたノワールがトドメとなって、ジョーカーもまた肩を落とした。
「ってことは、祐介のところから工藤の居場所……どこ?」
「竜司がいったとこ。港区のマンション」
「それならけっこう余裕あんじゃね? 猫の足なら一時間以上かかんだろ」
「モルガナはけっこう普通に一人でも電車乗るよ」
「ちょっと、目立つ真似は控えてっていつも言ってるじゃない」
「マコちゃん、そこじゃないよ。お背中に予告状をつけていたら人に見られちゃう―――」
「そこでもないだろう。やつは電車賃を持っているのか?」
「おイナリ、わざとだろさすがに」
「へそくりを毛皮の下に」
「ちょっとリーダーも黙ってて」
諸々の問題に目をつぶり、電車に乗ることを想定すると、とパンサーは視線を上空に向ける。
「三十分くらい……?」
「場合によってはもっと早く着くかもしれないね。モナちゃんならなんにだって忍び込めるんですもの」
困ったように笑いながらのノワールの弁に、スカルはやっと顔をしかめ、必要もないのに声をひそめた。
「あれ……ヤバくね? 俺ら三十分以内に見つけるかオタカラ盗むかしなきゃなんないの……?」
そういうことだと仲間たちは頷いて、各々うんざりとした様子で手や肩を回し始める。この後の運動量を想定しての準備運動だった。
その内手首の柔軟を入念に行っていたフォックスがふと思いついて言う。
「終わり次第を殴らねば」
「そうね。一人三発まででいい?」
特別反対する声は上がらなかった。
……
時間との勝負であることは彼も承知していた。どうしたって『邪魔』が入ることは、そう表現することに疚しさを覚える程度には彼らに恩義や友情を感じている時点で予想できることだからだ。
少年はもう何度目かもわからないため息をついた。人ひとりいない無人の廃墟の中にそれは虚しく響き渡った。
そうした静寂のなか、どうにか焦燥感をやり過ごしていると次いでそれを誤魔化すための強い怒りの感情が波のように襲いくる。
それにはほんの数時間前に受けた屈辱と、肉体と精神の両方にいまだ残る痛みが伴っていた。
少年の意識はいつかのようにまた病室に飛んだ。今度は不可思議な力によってではなく、閉じたまぶたの裏に思い描く形でだった。
足繁く通っている甲斐もあってか、ナースセンターに詰める看護師は少年の顔を見るなりにこやかに対応し、
『今ならまだお客さんもいるかな? お仕事の関係の人だって言っていたけど……』と告げた。
仕事の関係者となれば、工員の誰かか、取引先のどこかだろうか。自分も挨拶をしたほうがいいかと早足になって廊下を急ぐと、個人病室の戸はぴったりと閉ざされ、はめ込まれたくもりガラスにはスーツ姿らしき人物の後ろ姿が透けて見えた。
やはりどこか取引先のひとが見舞いに来てくれたのだろう。扉の向こうからはその人物のものだろう朗らかな笑い声も漏れ聞こえた。
そうした人物に挨拶をするのも少年の日常の一部だった。父親の仕事や工場を継ごうと具体的に考えているわけではないが、近い仕事には就くだろうと想像していたから、面倒がるでもなくこなしてきていた。
この時もそうしようと戸を開け、彼にとっては二度目となる光景を目撃する。
「親父、お客さん来てるの―――」
踏み込むのと同時に言って、彼は息を呑んだ。
寝台の上に伏せるはずの父はおらず、目の前には仕立てのいいスーツを着た男と、窓際に明るい髪色の痩せた男―――彼はその顔に見覚えがあった。
「保田……!?」
どうしてここにと瞠目する彼を眺めて保田康広は喉を引きつらせるような笑い声を発した。
「うっわ。息子、タイミング悪すぎ」
目の前に壁のように立っていた男が反応してゆっくりとふり返る。その人物にも見覚えがあった。
「……なんでお前がここに……」
「あれえ、俺のこと知ってるんだ。じゃあ挨拶はいいかなぁ」
妙に間延びした口調で親しげに言ったのは間違いなく工藤経助その人だった。
そのようにして彼が体をずらして初めて少年は父親の姿を見つける。見慣れた病衣の背は床の上に丸まり、血の気の失せた顔が彼を見上げていた。
「……」
震えて掠れた声が父親のものだと理解するには少しの時間が要った。そこで父親が『なにをしているのか』を理解するにも。
「誰が頭上げていいったよオイ」
ドスの利いた声で保田が告げ、身を乗り出して父親の背に濃い影を落とした。すると影に重量があるかのように父親は腕を折って肩を下げ、額を床にこすりつける。
「親父! なにしてんだよ!」
駆け寄ろうと身を乗り出した少年を工藤の腕がせき止めた。
「立派なお父さんだねぇ。息子のためにこんなことまでしてくれるなんてさぁ」
「てめぇがやらせて―――」
いるんだろうが、と続くはずの言葉は少年にとっての死角、扉のすぐ横に控えていたもう一人の男によって止められる。こちらもまた初めて見る顔で、偉丈夫を誇る少年よりもさらに逞しい体躯の人物だった。その男に背後から羽交い締めにされてしまうと、少年にも抜け出すことは難しい。
驚愕しつつ身を暴れさせる彼を横目に、工藤は不気味なほどに優しく父親に語りかけた。
「いい息子さんですねぇ、男前だ。ご自慢でしょう」
顔を伏せる父親の肩や背が『息子』という単語に反応したのか、けいれんしたように震える。
工藤はなおも気味の悪い猫なで声で続けた。
「跡継ぎにとか、考えてらっしゃるんですかね? たしか……福益高校に通っているんでしたっけ。大学はどちらに?」
床に着けられた父親の手は怒りか屈辱か、あるいは恐怖からか、先から断続的に震え続けている。もちろん彼の右腕は回復していないから、身体を支えているのは左だけだ。右はギプスに固定されて腹の下で縮こまり、ピクリとも動かない。
少年はそんな父親の姿を目にしたくないと、きつくまぶたを閉じて叫んだ。
「あんたらには関係ないだろ!」
そうすることで看護師や警備員が駆けつけることを期待していたのだが、今すぐには現れず、振り抜かれた工藤の手が素早く彼を沈黙させた。
鋭い痛みと一拍遅れてやってくるめまいに似た感覚に、少年は工藤がふり向きもせず裏拳を頬にくれたのだと理解する。ジンと響く痛みの次には熱がじわじわと湧き、視界が一瞬明滅して彼から抵抗の意思を削ぎ落した。
「病院では静かにしてなきゃ駄目じゃあないか。親の躾が悪いのかなー」
空とぼけた調子で吐き捨てた男はやはり、ふり返りもしない。代わりにか、父親が意を決したように頭を上げる。
「やめてください、息子には―――」
「オメーは頭下げてろっつってんだろ!」
また強く訴えようとする彼の首すじに保田の手がかかる。大した力を込める必要さえなく、父親はまた床に顔を伏せられた。
なんの思惑があるのか、工藤はたっぷり時間をかけてふり返った。
痛みよりも唐突に振るわれた暴力に驚いて動けない少年の眼に映ったのは、特別この状況を愉しむわけでもない、やらねばならない仕事を淡々とこなすくたびれたサラリーマンのような男の瞳だった。
「一人息子だからって甘やかしてちゃダメですよ。なあ、くん? 口のきき方ってのを覚えないと―――」
正対した工藤はたたらを踏むように二、三歩後退ると、キュッとかかとを鳴らして右足を振り上げる。輝くセミスクエアトゥは息を止める間もなく少年の腹に突き刺さり、肺を下から強く叩いた。
切り裂かれたような痛みと息の詰まる感覚に仰け反ろうとする彼を、背後の男がますますきつく締め上げている。工藤にしても、名も知らぬ巨漢にしても、一連の動作は手慣れているように少年には思えた。
身動きもままならぬなか激しく咳き込み、身もだえる彼に工藤は朗らかに笑っている。
「おーっと、ちょっとやり過ぎちゃったかな。大丈夫?」
気遣うように声さえかけるが、これは誰の眼にも明らかな嘲弄だろう。父親の首を押さえ続ける保田などは、あからさまに嘲りの笑みを浮かべている。
いっこうに落ち着きそうもない呼吸を待つことは少年にはできなかった。
「……を……離せ……」
「うん? なんて?」
「……親父から、手を離せ……」
工藤は目を細めて唇を尖らせた。少年の言葉が期待していたもの―――哀願や罵声の類い―――ではなかったからだ。
少年は怒りに身体を震わせながらなおも言い重ねた。
「親父の怪我が治るのを、待ってる人がいるんだ……その人は、あんたらみたいな奴が触れていい人じゃない……!」
―――実際に、父親の負傷からこちら、少年は数えるのも忘れるほどの人数に頭を下げている。もちろん、そうした場には社員や役員にあたる人が居て、彼はあくまでもおまけでしかなかったが。
父親を筆頭とした仕事の完成を待つ人々は口々に言った。
『あの人はいつまた仕事を再開できる?』と。
失望や憤りを見せる者も少なくなかったが、そうした人々も最後にはそう切望していた。
間違いようもない苦境のさなかにあって、少年ははじめて明確に、元より抱いていた尊敬の念をはっきりとした形で自らの中に感じ取っていた。自分の父親は人に誇れる仕事をしているんだ、と。
だから、こんなところで妙な連中に躓かされてはたまらない。早く怪我を治して、戻ってきてもらわなければ。そのためにも手を離せと、彼は無謀にも訴える。
「その人から手を離すんだ……その汚ねぇ手を離せってんだよ!」
彼の言う『その人』を押さえつける保田はいかにも気分を害したと言わんばかりに眉をひそめた。
一方で工藤は一転嬉しそうに目を細めている。
「いやあ、ほんとうに出来た息子さんだ。父親のことをきちんと尊敬しているんだねぇ」
感心しきりに頷きさえして、再びゆっくりと、今度は父親のほうに向き直る。
「こうなると、悪いのはお父さんのほうになっちゃうのかな。ねぇ?」
なにを言っているんだと訝しがる少年の視線の先で父親はまたひどく震えはじめていた。
工藤は恭しく父親のそばに跪いて言った。
「こんなに尊敬してくれてる息子さんに大事なことを伝えていないなんて、ひどい父親もいたもんだ」
離せと再三に渡って要求されているにも関わらず、父親の首には保田の手が掛かったままだ。とはいえ力自体ははじめに頭を下げさせたてからはさほどでもない。苦痛があるとすればそれは折り曲げ続ける腰の鈍痛くらいのものであるはずだった。
ところが父親は工藤の言葉に反応するようにして呻いたかと思うと、喉を引きつらせて嗚咽を漏らしはじめる。
父親が何某かの苦痛によって涙しているのだということは少年にはすぐに察せられた。それが無理な姿勢によって生じているのだろうとも。彼はまた「離せ」と訴えようとして締め付ける腕から抜け出そうとあがいた。
工藤はそんな二人の様子を嗜虐的な眼で眺めていたが、やがて見るのにも飽きたのか、さらなる刺激を求めてか、期待のこもった声で告げる。
「ちゃんと教えてあげなきゃ。あなたの腕はもう二度と治らないって」
苦悶の声が父親から上がった。
少年は暴れさせていた手足を止め、緊張に身を強張らせて呼吸を止める。
「お、親父……?」
否定を求めて縋る声と視線に耐えきれず、父親は押さえつける手を引っ張るほどに身を縮こまらせた。またそれだけでは済まされないと、先までの強制によるものではなく自らして額を床にこすりつけ、我が子に涙ながらに謝罪しはじめる。
「ごめんな、ごめん……、ごめんなぁ……」
少年の瞳や肉体にあった敵愾心や強い憤りは瞬時に失われた。
もしかしたらという予感はあった。しかしそうだとして乗り越えられるという意志が彼にはあった。
けれど今この場で、自らの父親に無様な姿を取らせているのが『敵』ではなく自らであることに気がつくと、その意志さえもがしぼんでいく。
「じゃあ……ここまでの全部……」
ぼう然とした少年の口からこぼれたつぶやきの意図は父親にも誰にも理解できないものだった。興味を抱いたらしい工藤が膝を床から離すが、それを問うより先に廊下から慌ただしく看護師と警備員が現れた。
「ちょっと! なにをしているんですか!?」
工藤は小さく、しかし少年の耳に届く程度に舌打ちすると、大仰におどけてみせた。
「あっあーすみません! ちょっと盛り上がり過ぎちゃったんですよー」
彼があごをしゃくると少年をあれだけ強固に押さえつけられていた腕が信じられないほど軽く解放される。父親に至っては背を掴んだ保田の腕が顔を上げさせ、自らに寄りかからせてすらいた。
「お前らふざけすぎだって。さんに恥かかせちゃうだろ」
軽薄にもそう告げるなり工藤は父親に手を差し伸べて立ち上がらせ、至極丁重に寝台の上に導きさえする。
看護師や警備員は懐疑的な眼差しで彼ら―――個室の全員を厳しく眺め、入院者を除いた全員に退室を促した。
それに特別不満げにするでもなく、むしろ恐縮する様子さえみせて慇懃に頭を下げ、工藤はにこやかに父親と彼に寄り添う息子を見やった。
「じゃあまた明日お伺いします。お返事はその時にでも」
ペコッと軽くお辞儀をする姿は営業職のようでもある。父親はぎこちなく首を振ると、彼は満足そうにして保田らを伴って退散していった。
残された二人のうち、子は看護師に「もう少しだけ」と哀願する。やはり知らない仲でもないからか、客人の存在で話もできなかったと見てくれたのか、その人はしぶしぶながらも面会時間外の面晤を聞き届けた。
ただしあまり長引かせないようにと言いおいて、警備員とともに退室する背に深く頭を下げ、やがて彼はベッド脇に置かれたパイプ製の丸椅子に力なく腰を落とした。
残らせてくれと頼み込んだくせに、彼はしばらく沈黙した。父親のほうもまんじりともせず項垂れ、植物のように静かな呼吸だけをくり返している。
完全な静寂というものはなかった。ホワイトノイズめいた何某かの駆動音や、入院者か看護師が行き来するかすかな足音、遠くを走る大型車両の走行音……
少年はそれらに耳を傾けながら先につぶやいた言葉の続きを胸の内でくり返していた。
―――じゃあここまでのは全部、無駄だったのか。あいつらを巻き込んで、自分だって少しは危なかったのだろうが、それ以上に危険なことをさせて、色々と気を遣わせて。
パレスだペルソナだ、《改心》だなんてものは、もうなんの意味もないのか。
苦労や苦心が水の泡となったどころか、己が知らなかっただけではじめから水泡でしかなかったことを知って、少年はひどく失望していた。
父親は、言葉がなくともそんな彼の様子からすっかり察しているのだろう。意を決して声をしぼり出し、弱々しく述べる。
「ごめんな、ごめん……本当に……」
少年が欲しかったのは謝罪などではなかった。大丈夫だとか、心配しなくていいだとか、なにかしら威厳を感じさせるものを彼は求めていたが、背を丸めて涙する父親からはついぞそういう言葉が出ることはなかった。
彼は父親がそのような態度を見せることにも、そうさせているのは己自身でこそあることにもまた、強い失望感を抱いていた。
「もういいよ」
「……」
「そんなふうにしなくていいって。謝らなくちゃいけないのは俺のほうなんだからさ」
顔を上げた父親が見たのはきちんと向き直ってぎこちなくでも笑ってみせる息子の姿だった。
どちらかといえば母親のほうに似た彼は、ちょっと昔風の色男と称して差し支えない。ただしこれには親のひいき目が大いに影響している。少しうつむき加減になるといかにも陰のある男といった風情で、まるで古い人情物の映画や舞台から飛び出してきたようではないか―――
場違いな思考は一種の現実逃避だ。明日には答えを出さねばならず、息子には大きな挫折と失望を刻み込んだ。仕事も遠からず失うことになるだろう。そうなればどうやってこの先生活していけばいいのか、来年には息子の受験が控えているというのに……
そうした不安のうちのほとんどは少年にも共通している。多くは細々とした生活、および経済的な懸念であったが、悲しげに父親に謝罪する少年にとってはどうでもよいものとなりつつもあった。
胸の内で彼はまだ先の文言をくり返し続けていた。
―――ここまでの全部、無駄だった。あいつらを巻き込んで危険なことをさせておいたくせに、もう《改心》なんてものはなんの意味もない―――
呪文のようにくり返された言葉はやがて別の形を得、少年はすこし急ぎがちになってスツールから腰を上げた。
「父さん、ごめん」
―――なんの意味もなかったのなら、せめて……
―――奪われたもの以上のものを奴から奪い返してやる。
……