15:Taking Aim With Care

 三度目になるパレスへの侵入地点はそびえ立つ塔のすぐ間近だった。一度目は家の玄関先、二度目は地下鉄駅入り口からだったことを鑑みると着実に近づいてはいる―――ただし玄関先は巨大戦闘車両の巡回があり、地下鉄駅は前回の顛末を思うと再利用は避けたほうが無難だろう。一歩進みこそしたが、その一歩を進んだルートが軒並み潰れてしまっているというのが現状だった。
 だというのにジョーカーはごきげんだ。真紅のグローブに包まれた手をもみ合わせ、楽しそうに足元の灰を蹴散らして先導している。
「さて、やるぞ」
 仲間たちに向けた顔にも満面の笑みがある。
「やるってなにをだよ。てかどっから入んの?」
「とりあえずはあそこからだな」
 ジョーカーが指し示した先には正方形に積み上げられたブロックがある。現実であればなんらかの建物か像や碑の基部であろうものの瓦礫だろう。訝しげにしながら歩み寄ったスカルの目には灰にうっすら覆われた瓦礫の山が捉えられた。
「これがなによ」
 首を傾げた彼を一瞥して、ジョーカーはその瓦礫の一つを蹴り飛ばした。
「あいた!」
「なにしてんだよ……」
 子どもの頭ほどもあろうコンクリートの塊は無事遠ざけられたがジョーカーはつま先をひどく痛めたらしい。自らの足を抱えて器用に片足で悶えている。
 それを呆れながら見上げてモナは歩み寄る。
 別に心配なんかはまったくしていなかったが行動に支障をきたされてはこちらがたまらん。と肉球を差し出してやろうとして、彼はなにかに足先を引っ掛けて盛大にすっ転んだ。
「ニャアーッ!」
「お前らなにしてんの? バカなの?」
「よせスカル。お前に馬鹿にされることほど傷つくことはないんだぞ」
「あ? ああ……ってどういう意味だコラぁ!!」
 喚くスカルの背後で幾人かが熱心な様子で首を縦に振っている。
 さておき、ひっくり返ったギリシャリクガメのように手足をバタつかせるモナとミユビトビネズミのように飛び跳ねるジョーカーのそばにパンサーが駆け寄って具合を見ようと首を伸ばした。
「実際バカみたいだもんね。アンタたち全員……ん?」
 彼女はふとその首をわずかに傾げる。モナの足元、先にジョーカーが蹴とばした瓦礫があった場所に細めのグレーチング溝蓋がひっそりと顔をのぞかせていたからだ。モナが転んだのはこれのせいだろう。
「なにこれ」
 高いヒールの先を挟んではたまらないとパンサーがとっさに身を引くと、その前髪が風もないのにフワッと浮き上がった。
 もったいつけることでもないとジョーカーは―――今度はきちんと手を使って―――コンクリート片をまた一つ足元から取り除いた。
「通気口だ。地下に繋がってると思う」
 彼はまたコートの裾を掴んでスカートの翻りを押さえるような仕草をしてみせた。白いドレスでも金髪の美女でもないからか、皆は揃って眉をひそめたが彼は気にした様子も見せずに笑ってグレーチングに手を掛ける。
 開け放たれた暗闇を恐る恐る覗き込んでみると、錆の浮いたはしごがずっと地下に続いていた。
「よくこんなの気がついたね」
「昨日望遠鏡で見たとき、ここだけ灰があんまり積もってなかったから」
 地下から吹き上がる風によってこの一帯だけは定期的に灰が散らされているのだろう、彼の言うとおり雪のように足元を覆う灰は他と比べれば薄い。それでピンときたのだという。
 百円の投資は無駄ではなかったわけだと話を結んでさっさと降りていった彼を追って一同は地下に場所を移した。そこはどうやら地下鉄の線路上であるらしく、コンクリ道床の上にレールがずっと続いている。
「あーメメントスっぽい」
「そうかぁ? あっちはもっとこう……なんかいろいろ……ブキミじゃん?」
「言い方はともかく言いたいことはわかるわ。少なくともこちらの見た目は普通の地下鉄のようね」
 物珍しげにあたりを見回す一同の中、クイーンはどことなくホッとした様子で胸をなでおろしている。
「……ちょいちょい聞くけどそのメメントスってなに?」
 不思議そうに首を傾げたのはもちろん、未だかの地に足を踏み入れていないゴーストだった。
 これに他の面々は顔を見合わせる。そういえばパレスに関してはいくつか語ってやったが、メメントス―――大衆のパレスとでも呼ぶべき場所については詳細を伏せたままだったなと。別段隠そうとして黙していたのではなく、単に話す機会がなかったというだけのことだが、さて、じゃあと言ってどう説明したものか……
 路線脇に設けられた点検用の細い通路を進みながら雑談代わりに語ってやるが、見た目について言えることはあっても、そこがどうして存在するのか、どこに繋がっているのかという問いには誰も答えることができなかった。
「モナもわかんないんだ」
「ウッ……うっせーな。しょうがないだろ、ワガハイにだってわかんないことくらい……」
「猫だもんな」
「ネコじゃねーよ! ネコじゃねーけど、いろいろおぼえてないんだよっ!」
「へー」
 軽い調子で受け流して、ゴーストは足元で先導する丸い頭を優しく撫でた。それはモナを気遣ってのことというよりは、視界の下方で揺れる尾と丸々としたシルエットに惹かれてのことのようだった。実際に彼は嫌がったモナが先頭まで進み出て逃れると残念そうに頭を振った。
 いずれにせよその脚が路線から離れ、どこか覚えのある細い通路に入ると話題は自然と途切れてしまう。
「塔の下部に繋がっていそうだな……ふりだしに戻ったようだ」
 フォックスは皮肉っぽく笑った。そうする姿は彼によく似合っていたが、声にはなんとも言えない苦々しさもある。ここから先の道程……長く変化のないエレベーターでの移動を面倒に思っているのかもしれない。
 ジョーカーはそれをせせら笑って昨日入手した地図を叩いた。その横ではいつの間にスリ取られたのかとクイーンが愕然としている。
「そうでもない。地図もあるし、なにより……」
 彼の手はまた、次いでゴーストの肩を叩いた。
「俺たちにはこいつがいる」
「あ、嫌な予感」
 その予感は正解だ、と仲間たちは肩をすくめた。

 もちろん。
 影の中を移動して任意の場所へ誰にも悟られず移れるとなればそれは破格の能力だ。ナビに言わせればチート以上のゲームシステムの根幹を破壊しかねないほどの力を秘めている。
 なんとなればオタカラの位置さえ掴んでしまえば、予告状によって出現したその場に現れて懐に入れまた消える……などという芸当が可能だからだ。ダンジョン攻略とボス戦というゲームの大部分をスキップさせたがる開発者などいないだろうが、ゴーストの能力というのは一歩間違えばそういう類のものだった。
「周回プレイでのイベントやらアイテム収集時にはぜひほしい機能かもだけど……そんなうまい話はそうないよな〜」
 そのように漏らしたナビの前には展開された投影モニターが浮かんでいる。画面には正方形がみっちりと並び、方眼紙めいた図柄が大きく表示されていた。
『ちょ、ちょっと、待って……酔いそう。酔う。酔った……うえっ……』
 耳にはジョーカーの泣き言がある。先に自信たっぷりにゴーストの肩を叩いた男と同一人物とは到底思えない情けない声色だった。
「交代してもいいんだぞ」
 対して、ナビのそばであぐらをかいて得物を抱えるフォックスは挑発的だ。ジョーカーの置かれた状況というものは、彼にとって羨ましい以外のなにものでもないらしい。
『あー、そうする? いったんそっち戻るよ』
「まだ半分も地図うめられてないのに! 根性みせろジョーカー!」
『根性でどうにかなるもんじゃないよコレ……あっ、動くのか。はい。あの、優しくして……』
『どう動くのが優しいのかわかんないんだよなぁ』
 か細い悲鳴とともにナビの感知外に二人は消える。
 ジョーカーがゴースト、及びナビにさせていることはつまり、簡単にいえばただのマッピングだ。
 彼らがいる場所は昨日足を踏み入れた展望台からさらに上層、防音シートに囲まれた足場の上、その壁際に揺らめきながら張り付いていたセーフルームだ。地下の停車場から人用のエレベーターではなく大型の昇降機に荷物とともに紛れてやってきている。
 そこを拠点としてゴーストが影の中を移動、監視や作業員の数が少ない部分に入り込み、姿を現した彼をナビが捕捉、周辺情報を彼の知覚越しに収集する。これには少しの時間を要するから、その間の護衛として一人……この場合はジョーカー自らが随行してそれを果たしている。
「せめてもう一人だけでも一緒に行ければよかったけど……それはさすがに高望みかな?」
 ノワールはおっとりと笑って手元のミルクティーに口をつけた。当然それはパレスに侵入する前、コンビニで購入したミニサイズのペットボトルであってブルーフルーテッドなどではないが、彼女はどこかくすぐったそうに安っぽい茶葉の香りと舌にまとわりつく甘ったるさを楽しんでいる。あるいは、この状況をかもしれない。
 実際に彼女はこの作戦の開始時、全員で行くのも目立つと人員を厳選してゴーストの影の中に彼らが潜り込もうとした瞬間―――
 ……要のゴーストと護衛役のジョーカー、観測手のナビと影の中というものに興味津々のフォックス。以上四名が当初の作戦メンバーだった。ところがいざやいかんとしたその時、彼らは影に『引っかかった』。なんらかの比喩としてではなく、そのままの意味で腰や肩や腕に首とを影と床の境目に引っかけてもがく彼らの姿は前衛的な一種のアートのようだった。どちらかと言えば笑える方向の。
 それでノワールは笑いを堪えきれずに吹き出してしまった。今も思い出し笑いが唇の端を震わせている。
『影の中自体は広いんですけどね』
 入り口はそうでもなかった、とゴーストが諦観を滲ませて言う。
 つまりはそういうことだった。ナビに言わせればチート以上のゲームシステムの根幹を覆す破壊的な能力は、これもまたありがちなことにひどく限定的で、おまけに随行者に大変な負担を強いる。もっと言えば無限の距離を移動できるというものでもなかった。
『息継ぎするからちょっと待って』
 ゴースト自体にもそれなりの消耗があるようで、定期的に影の外に出なくてはならない。当然、出現の瞬間は無防備だ。なにしろ二人ともが不明に近い状態になっている。
 結局二人がナビたちのもとに戻ってこれたのは行きより長くかかった二〇分後のことだった。
「これは、思ったより時間がかかりそうだな……」
 待機組が詰めるセーフルームに戻るなり、ジョーカーはそう言って床に寝転んだ。
「あっ、コラ! 汚れんでしょ! 寝るならせめてソファーの上とかにしなさいよ!」
 どこかよそ様のお宅の内部を再現しているとはいえ、自分たちが土足で歩き回った部屋だとパンサーがそれを叱りつける。母親かよ、と周りの者は笑うが、ジョーカーにとってはそれどころではなかった。
「動きたくない……パンサー、膝枕して……」
「……甘えんな! まったくもう、ほら〜」
 足を掴んで引きずられていく彼を見送って、ゴーストは大きく息をついた。膝枕なんてしてもらえるのなら彼だってしてもらいたいと思う程度には疲れてはいる。疲れていなくたってこの場の女性のいずれかにしてもらえるのであれば喜んで傅いたっていいとも。
「あ〜……いい考えだと思ったんだけど……」
 ぐんにゃりとしてソファーに沈み込んだジョーカーにフォックスはからかうように笑ってみせる。
「下手の考え休むに似たり、か?」
「そこまで悪くもないと思うけどな。俺は役に立てて嬉しいよ?」
 かろうじてゴーストはフォローめいたことを口にするが、「時間がかかるのも事実だけど」とも苦々しく付け加える。
 実際に遅々としてではあるが、目的――オタカラの位置の絞り込みとそこへの道筋を確立する作業は進んでいる。現在の階層よりさらに上方、防音シートに遮られて見えない頂上部にあるだろうとはモナの鼻もすでに確信している。
 そこに至るまでの道がただただ狭いと判明しつつあることが唯一にして最大の問題だった。
 搬入用エレベーターは現在の階層までで止まり、あとは細い仮設用の階段やはしごばかり。おまけに巡回警備の数もやはり先日の戦闘が響いているのか常に絶えず必須と思われる場所を見張っている。
「俺としちゃ、工藤のヤローがどこにいんのかも気になんな」
 椅子の背もたれを前にだらしなく腰掛けたスカルが言った。彼の目はナビの手元、方眼紙から立体的な図形となって浮き上がる上層階の地図を見つめている。
「下にもこの辺にも、あのいかにも金持ちでーすってヤツがいそうな場所ってなかったじゃん?」
 確かにここまでの行程で判明した範囲にそれらしい居室や事務所と思わしき区間は存在していなかった。そも身体を休める寝台どころか椅子の一つさえあるのかも疑わしい。また警備員の詰め所や監視所、機関室や警備システムを統括しているサーバールームといった重要な施設の位置だけならば把握しているが、そこへ至る道の確保もまだ済んでいない。それらにだって工藤がいるかと問われれば、垣間見えた人物像からして可能性は低そうだ。
「そもそも、現場主義って感じではなさそうだったよね」
 自身にせよその父親にせよ、近隣住民にせよ、実行犯は常に別の人物だったとクイーンは眉をひそめた。彼女はまた「だから」と言葉を続ける。
「ここみたいな工事現場には来ないんじゃないかしら。昨日みたいに私たちの侵入を嗅ぎつけられでもしない限り……つまり予告状を突きつけないうちは姿を現さないんじゃないかな」
「んじゃ、そっちは今のところ心配しなくてよさそう?」
「たぶんね。言っておくけど、予告状を出さなくても警戒レベルが上がればまた昨日みたいになる可能性は十分あるんだから、気を抜かないでよ」
 しっかりと釘を刺して、クイーンは仲間たちを見回した。厳しい眼差しから逃れて目を逸らす者もいれば、同意するように頷く者もいる。
 ゴーストはどちらにも属さずただ苦笑するだけだ。昨日みたいな展開は彼にしてもごめんこうむりたくはあるが、じゃあと言ってこれ以上張り詰めては身はともかく心が裂けてしまいそうだ。
 その身もそれなりに回復してきている。疲労によって丸まっていた背を伸ばして彼は口を開いた。
「予告状って、オタカラの位置を把握できたら出すんだよな?」
 そうだ、とこちらもだらしなく伸びていた身体を起こしたジョーカーが肯する。
「で、そうするとオタカラが盗める状態になって、それを外に持ち出すと改心させられる、と」
 記憶をさらって以前に受けた説明を口頭に上げる彼に、怪盗たちは律儀に頷いてやる。
「同時にパレスも消える」
 これにもまた。
 ゴーストは少しだけ考えるように視線をさまよわせると、やがて立ち上がっていたずらっぽい笑みを口もとに浮かべてみせた。
「そしたら入念に探索しなきゃだよな。宝箱の取り逃しとかしたくないし」
「そういうの気になるタイプか」
「ジョーカーは気になんない?」
「すっごい気になる」
「だよな」
 顔を見合わせて笑う二人に仲間たちは呆れつつも釣られて笑った。
 その後も適宜休憩を挟んではマッピングに努め、ナビの強い要望でサーバールームへの侵入経路を確認してその日はお開きとなった。

 パレスを出たのは二十一時を回ったころになってからだった。入念な探索によるものでもあるが、最後に護衛役を務めたパンサーがひどく酔ってしまい、その回復を待ったためでもあった。
「うー……ごめん。次からは待機させてもらっていい……? なんかまだ、う〜」
 よろめきながら訴える彼女を責める者は現れない。興奮が打ち勝ったフォックスと波長かなにかが合うらしいノワールと、入る必要のないナビ以外は皆同じような状態だったからだ。モルガナなどはどうにかして彼女に寄り添おうとするのだが、双葉の腕に抱かれて抜け出す気力もわかないらしい。
 その小さな額に手を添えながら双葉は傍らの雨宮を見上げて言う。
「じゃあ次からはわたしの手伝い担当でいいか?」
「いいよ」
 杏のぶんも頑張る、と応えて雨宮は頷いた。
 一方では申し訳無さそうに頭をかいている。
「俺のほうでなんとかできたらよかったんだけど……あ、なんか飲みもん、買ってこようか?」
「うーん、お願いしていい? 水かお茶でー……」
 気遣う少年とそれを受ける少女のやり取りのそばに小馬鹿にするようなに笑い声がこぼされた。体力的な差からか、今になってもまだ比較的余裕のありそうな坂本が二人に揶揄するような眼差しを寄越している。
「新人をさっそくパシリ扱いかよ」
 もちろんその意図は皆承知しているし、それが彼なりの発破であると理解している。その上でばかばかしいとして白けた空気が漂うのだが、肝心の高巻は抱えた膝に顔を埋めてそのままだ。
 期待して―――いたわけではないが、来るだろうと予測していた反撃の罵倒がこないことに、さしもの彼も若干の驚きとともに焦りはじめた。
「あれ……? マジでそんなに? え……ご、ごめん……?」
 そこかしこから与えられる威圧感に彼が頭を下げると、引き換えに高巻は肩を震わせてながら顔を上げた。
「……あっ! 杏、テメぇ!」
「騙されてやんの、バーカ」
 そこには小馬鹿にするような笑みが湛えられている。ただし満面のとはいかず、若干の陰りが垣間見える。気分が悪いのは本当のことのようだと坂本もそれ以上は噛みつかず、手近な自販機に足を向けたのほうに顔をそらした。

 そのがペットボトルの緑茶を携えて戻ると短い時間に皆の姿はすでになく、相変わらず腰を下ろしたままの高巻が一人ぽつんと残されるだけになっていた。
「あれ? なんだよみんな帰っちゃったのか」
「残る理由がないから帰らせたの。なんか用事あった?」
「や、ないけど……」
 高巻などはあっけらかんとした調子でそう言ってのけるが、さて。はいくらかドギマギしながら彼女に茶をそっと手渡し、それじゃあ俺もこれでと立ち去るわけにもいかずその場にとどまった。
 ―――美人は三日で飽きるときくが、とんでもない。あいつら、どうして平気なツラしていられるんだ。
 そんな彼とは対照的に、高巻は何事もなく財布から小銭を取り出して彼に差し出してくる。
「はい、あんがとね」
「ん、ああ。いいのに」
「こういうのキッチリしとかないと気になっちゃうんだよね」
 照れたように笑いながらボトルのキャップを捻り、熱い緑茶を少しだけ口に含む。屋根と壁こそあるが風通しのよい駅の構内だ、冷えた身体にその温かさはありがたいと彼女は頬を緩ませた。
 そんな彼女を観察しながらは少しの間だけ沈黙した。失礼だとは承知の上だったが、高巻はやはり気にした様子もない。こんなふうに視線を向けられることに慣れているんだなと、きっと子どものころから―――今だって子どもだが、それよりずっと幼いころから、彼女の日常には常に他人の視線があったに違いないと彼は勝手に納得する。そう思わせるだけの美貌だった。
 また同時に、少年の脳裏にはほんの数時間前に交わした会話が蘇った。
 大幅に端折られていたが、その人目を引く整った容姿ゆえに与えられた苦難と苦痛の物語だった。他者の口を介した仄聞だけでも大きな衝撃を受けたというのに、張本人となればそれは如何程か。想像して、彼は恐る恐ると口を開いた。
「あ……杏はさ」
「ん? なに?」
「訊かせてほしいんだけど、杏は……どうして……」
「うん」
 高巻はただ不思議そうに首を傾げている。そのあまりの無防備さに彼は一瞬躊躇するが、舌先に乗った言葉を止めることもできずに吐き出していた。
「しゅっ……秀尽のさ、その……怪盗やることになったきっかけをさ。その、聞いて……」
「あー……」
 碧の瞳が一度軽く見開かれ、すぐに苦笑するような、けれど決して拒絶的ではない笑みに細められる。どちらかといえばそれは呆れているとか、子どもの失敗やいたずらを見咎めるような風情だった。
 は慌てて両手を振った。
「あ、いや。俺が知りたいっつったからで。別に向こうから好きで話したわけじゃなくて。ホントに!」
 高巻はますます深く、嗜める調子を強めて笑った。
「うんうん、大丈夫。わかってるって。キミだって好奇心だけで訊いたんじゃないんでしょ?」
 その時も今も、と言外に問われて、は縋り付くような心地で首を縦に振った。
 それを見てよしとして、高巻もまた頷いてみせる。
「私は、まあまあヘーキ。私はね。ぜんぶじゃないけど……いいよ。なにか訊きたいことあるんだよね?」
 どうぞと促されてしまうと却って戸惑いが勝るのか、はすぐには口を開かなかった。高巻はそんな彼の煮え切らなさに苛立つこともなく、冷えた指先をペットボトルに当てて構内の雑踏に耳を傾けている。
 けれどそう長い時間待たせることも、待たされることもなかった。数秒か、十数秒か、は視線の高さを揃えるようにしゃがみ込み、決して目を合わさずに語りかけた。
「……杏はさ。どうしてその……カモシダ? を、許そうと思ったんだ?」
 高巻は、再び碧の瞳を軽く見開いた。
「え? 別に許してないけど?」
 かろうじてそう答えてやると、今度はのほうがキョトンとする。
「えっ? だってそいつのこと……その、そいつってまだ生きてるんだよな?」
「うん」
「なんで?」
 そうできなくしてやることだってできたはずなのに、どうしてやらなかったのか―――
 受け取りようによっては侮辱とも取れる彼の疑問に、しかし高巻は憤慨することなく落ち着いた声で答える。
「……生きてるほうがしんどいことになるかなって」
 それはまるで彼女らしくないと、さして長い付き合いではないはずの少年でさえ気付けるほどの平坦な口調だった。瞳はじっと足元に落とされ、古いLEDライトの明かりを鈍く照り返すタイルを睨んでわずかにも揺れていない。
「私、今も許してない。全然。今も、ほんと今、ここで。苦しめって思ってる」
 つややかでふっくらとした唇から溢れる言葉は魔女の呪詛かなにかのようにには感じられた。
「そのためには生きててもらわなきゃダメだった。は聞いたんだよね? あの子のことも。あの子が……」
 事の詳細をすべて知り尽くしているわけではないが、高巻が言わんとしているのは怪盗団発足のきっかけとなった最も重大な事象、その主役のことだろうと察して、は慎重にあごを引いた。まるで似合わない無表情に気圧されたこともあるが、自身がそれを知っている事実が彼女を傷つけるのではないかと思っての気遣いでもあった。
 それを敏く嗅ぎ取っているのか、高巻もまた慎重に頷いて言を重ねる。それもまた抑揚のない平らな調子だった。
「あの子が、死にたいって思い詰めるくらいに苦しんだのと同じように……」
 膝の上の華奢な手は拳をつくり、計り知れない感情を湛えて震えている。
「一生、死ぬまで……死にたいって思いながら……生きてもらう……」
 瞳はまた床に落ちている。はもちろん鴨志田なる男の顔など知りはしないが、まるでそこにあるのかと錯覚させるほどの迫真の―――
「なんてね! どう? どお? 今の、ケッコー決まってのなかった?」
 ……演技だった。
 は壁に預けていた背を思わず滑らせ、決してきれいとは言えない床の上に尻を落とした。そんな様子にこそ彼女はなお朗らかに、先の肝を潰しかねない様とはまったく対極の姿でコロコロと笑ってみせている。
「モデルから女優狙い、どう? いけるかな?」
「ええ……目指してんの?」
「んーん、今は別に」
「あ、そう……」
 肩と首をガックリ落として項垂れるに高巻はまた笑うが、耳に心地よい声は今度は長く続かなかった。
「てか、こんなん訊くってことはさ、、アンタ……」
 演技などではない、取り繕わない真剣な眼差しに射すくめられては背すじを伸ばした。
「ウチらが春のお父さんをって……そう思ってるってこと?」
 雨宮が彼とその仲間たちの正体をに明かしてからこちら、今現在怪盗団を取り巻く窮状についての説明を彼はほとんど受けていない。
 黒い仮面の人物に、認知世界を利用して悪事を働く者の存在。彼らこそが奥村の父親を死に追いやり、それを怪盗団の仕業として喧伝せしめた。そも奥村の父を改心しようという発想からして、怪盗たちは操作されていた節がある―――
 そういった事情を雨宮は語らなかった。知らせる必要もないと思っていたのかもしれない。
 何故なら顔を上げたの眼は驚愕に見開かれ、跳ねるようにして立ち上がっては声を大に高巻の言を否定しにかかったからだ。
「まさか! そんなの……蓮やフタバがそんなこと……!」
 春先輩だって、竜司と祐介も、真先輩も……
 ここしばらくの間ですっかり馴染んだ面々の名を挙げ、胸にその姿と人となりを返しながら彼は言った。
「そんなことする人じゃないって、わかってる」
 狭い通路の端に位置する彼の声は床や壁、天井に反響し、周りを取り囲む雑踏に包まれてやわらかく高巻の耳に飛び込んだ。
 もちろん、高巻も彼がそう言うだろうことは確信していた。双葉は元より、雨宮が介入したがるような人物というだけで、彼女にとっては信用に値する人物であるといえる。
 問いかける者はいないが、それならどうしてこんな問答を行ったのかと尋ねられれば、彼女はただ少し割の良い賭けをしてみようと思ったのだというはずだ。彼がそう答えることにではなく、その先にあるものを見据えてのちょっとした悪巧みだった。
 ただし一つ気に食わないことがある。
「ちょっと、私は!?」
 ……目の前にいるからといって端折られてはたまらない、と眦を釣り上げて迫ると、はまた青ざめて手を振った。
「あっ、ごめっ……違うくて……!」
 間近に寄った少女から立ちのぼる華やかな香りに半ば目を回しながら後退り、背後の壁に頭をぶつける。その慌てぶりと間抜けな姿―――双葉が言うところの童貞ムーブ―――に憐れみが勝ったのか、それともやはりこれも演技だったのか、高巻はすぐに身を引いて怒り顔をいたずらっぽい笑みにすり替えてみせた。
「まったくもう、しょうがないから許したげる」
「お、おう。うん。はい……」
 自身も自らの言動がいかにも……異性に対する免疫を欠いている自覚があるのだろう。恥じ入るように俯いては消え入りたい気持ちをどうにかして抑え込もうと足掻いている。
 当然それは、高巻が見せた満面の笑みの前には無駄な努力だった。
「そうだよね。はウチらより前から双葉とトモダチで、それで蓮とも知り合って……それでそんな勘違いできるわけないよね」
 は再び、逆恨みめいた感情をこの場にいない男子メンバーに抱いた。お前らってどうやってこんなかわいいコと平気な顔つき合わせていられんの? と。
 そしてこれもまた当然のこととして、高巻はそんな少年の煩悶に気がついた素振りもみせず熱心に喋り続けている。
「もしそんなんしてたらひっぱたいてたから! もうね、首とか一周回るくらい」
「こえーよ……」
 顔を引きつらせたところで高巻は快活に笑うだけだ。
 見るに気分もだいぶ良くなってきたのだろう。先までの顔色の悪さは完全に消えていたし、彼女は立ち上がって自分の鞄を肩に担いでもいた。も彼女を送り出すためにゆっくりと足を前に運んだ。
 その背にこころのこもった、やわらかな声がかけられる。
「たぶんね」
「ん?」
 ふり返った彼の視線の先で、高巻は自信深げに目を細めている。
「私、たぶんほんとはそうしたかったんだと思う。さっきが言ったみたいなこと。殺してやるってけっこう本気で思ってたし。だけど……」
 改札を目指して一歩を踏み出した彼女の踵がタイル床を叩く音が警鐘のように狭い通路に響き渡った。
「私一人じゃなかったから。だから、やらなかった。やれなかったんじゃなくて、やらなかった」
 そのとき、彼女のそばには坂本とモルガナ、そして雨宮がいた。そうした状況から―――世に広く知られることはなくとも、多少なりとも人目があるから『仕方なく』諦めたのではなく、自らの意志で後ろ暗い感情を断ち切ったのだと彼女は述べる。
 気まずそうに目を伏せた少年に彼女は続けて告げた。
「アンタもどうせそんなこと考えてんでしょ?」
「そ―――」
「んなことないって? 本気で言ってる? それ」
「俺は、別に」
「そう? まあでも、先に言っといたげる。無駄だからね、それ」
 断定的な口調には顔を上げた。先まで何度も、それ以前にだって眼にするたびに落ち着かない心地にさせられていたはずの少女の面立ちが、今の彼にはまるで魔女のように思えてならなかった。
「できないよ。絶対。蓮がいる限り、キミは絶対に、工藤のことがどれだけ憎くたって……」
 よくできた人形のように整った、色つやの良い唇は予言者のように未来を彼に告げる。
「無理だから」