10:Op:Tightrope Ⅱ

 とりあえずまずすべきは非戦闘員の避難かと双葉―――ナビは転がったままの少年の胸ぐらを両手で掴んだ。
「ちょっとがまんしろよ」
「えっなに、えっ?」
 大きなゴーグルで顔の半分を隠したナビの表情はからはほとんど窺えない。唯一さらけ出したままの口元にあるのも感情の推察できない曖昧なものだ。なにより理解しようとする間もなく彼の全身を浮遊感が包みこんでいた。
 ついでヌルッとした触手の感覚―――
「うわ!? なにこれなんのプレイ!?」
「やかましいぞ! おとなしくしくしてろオラぁん!」
「いやあぁっ!」
 無体な仕打ちを受ける婦女子のような悲鳴を上げる少年は、ナビもろともアダムスキー型の未確認飛行物体から伸びた触手に巻かれ、引き上げられてその中に姿を消した。
 そのまま、浮遊体は高度を上げて迫る巨大戦闘車両からいくらか遠ざかる。地上に取り残された雨宮……ドミノマスクと黒のコート姿に変じたジョーカーは、さてと腰元から短剣を引き抜いた。
 ―――こんなものがあの巨大な鉄の塊に通用するとも思えないけど、どうしたもんかな。
「ナビ、撤退は可能か?」
『出入り口はすぐそこ。ちょうどんちの玄関だな。逃げようとおもったらすぐいけるよ』
 未だ混乱のさなかにあるらしい少年のわめき声を背後にナビは淀みなく答える。
「したらいったん引いちゃう? とりあえずパレスには入れたワケだし、わざわざ相手してやることもなくない?」
「でもよ、せっかく入れたんだしもうちょい見ときたくね? デカいぶん小回りはきかなさそうだし、案外楽勝だったりしそうじゃん」
 スカルとパンサーの意見は対立しているが、双方ともに互いの意見を無理に通そうという気もなさそうだ。二人の眼は判断を求めてジョーカーを仰いでいた。
 そのジョーカーの眼はモナに向けられている。そっちの鼻はどんな感じ? と。
「ふ〜む、あのデカいヤツはたしかに、逃げ回ってりゃ撒けそうではあるが……」
 けれど、と猫のような生き物は鼻を震わせる。
「さっきの爆発するシャドウの気配がまだある。デカいのに気ぃ取られて囲まれちゃたまんねぇぜ」
 察するにあのニンゲン―――認知上の大見藤彦は文字通りの捨て駒だったのだろう。爆発したことからして人間爆弾とでもいったところか。胸くそ悪いぜと吐き捨てて、モナは身丈ほどもある曲刀を小さな肩に担ぎ上げた。
「まっ、いつでも撤退できるんだ。小手試しってのも悪くないんじゃないか?」
 彼の意見はどちらかといえばスカル寄りらしい。ジョーカーはふむと唸って自分自身に目を向けた。
 ―――どうしようかな。戦力的には不安はないけど、まさかまで引きずり込むことになるとは思わなかった。イレギュラーな事態もまたいつものことだし、ナビのそばなら安全だろうけど……
 そのイレギュラーはナビのペルソナ、ネクロノミコンの内部で平静とはほど遠いものの、ひとまず喚いたり叫んだりすることはしない程度には落ち着きを取り戻していた。
 その隙にすかさずナビは改めてここがパレスで、ペルソナの内部だとおさらいしてやるが、彼はまだ訝しげだ。
「ペルソナって……なにこれ夢なの? どこから?」
「夢だと思うんならそういうものだって納得しちまえ。想像力を働かせろ」
「ええ……」
 引き気味の返事を聞き流し、ナビは空中に収まりよく腰を下ろす。その手元と目の前には再び浮かび上がるようにしてタッチコンソールと投影型モニターが現れ、地上の様子を様々な角度から教えていた。
「なあにあれぇ……フェルディナント? なんであんな砲塔重なってんの」
「縮尺よく見ろ。デカさもアホくさい。おチビちゃんがマジでおチビちゃんに見えるレベル」
「ほんとだ。十メートル以上ある。ウケるわ」
「だよな、デカけりゃいいってわけじゃないってそれ一番」
「胸に刻んどくべきよね」
 アハハと朗らかに、しかしどこか白々しく笑いあう二人の足元で、ジョーカーが注目を促すように指をパチンと鳴らした。
「傾聴。とりあえずちょっと遊んでいこう。倒せなさそうなら余計にデータは欲しいし、この戦力でいけるのならそれでいい」
 いくぞ、と指先で空を引っ掻いて彼は走り出した。追ってスカルがすぐ後ろに付き、少し遅れてモナとパンサーが続く。
「……フタバは追わなくていいの?」
「わたしはナビだから。戦力分析担当官」
「あーそういう」
 頷くはすっかりいつも通りになりつつある。これは落ち着いたというより、単に居直っただけだろう。ナビに言われるがまま夢だと思い込もうとしているのかもしれない。
 実際に彼の眼はゲーム画面を見るときのような、熱心でありつつもどこか無関心な、他人事を楽しむ無邪気で残酷な子どもめいた輝きがある。
「夢、ね。ふうん……」
 見下ろす地上を、ジョーカーたちが駆け抜けていく。
 こんな巨大物をはたして牽ける車両が存在するのかは謎だが、見上げる高さに取り付けられた牽引用の鈎を足次に、ジョーカーは真正面から飛びついて折り重なった砲塔とそこから伸びる主砲―――おそらくは四十六センチ砲―――の影に音もなく潜り込んだ。
 彼が飛び上がる直前その背から離れたスカルは脇に回り、アスファルトを粉砕しながら回転する無限軌道の、やはり人ひとり分はありそうな直径の起動輪に目をつける。地面からは砕かれた石や土がひっきりなしに飛ばされていたが、スカルは構いもせずにそこへ担いでいた長物を叩き込んだ。
 衝撃は車輪を支える軸にまんべんなく行き渡り、摩擦によってかん高い悲鳴めいた不協和音を地鳴りの底に貼りつかせる。彼はそのまま速度を緩めず、車両の背後を目指して走り抜けていった。
 またそのあとを追うように車両の進行方向に炎の壁がせり上がる。熱はアスファルトを溶かし、ねばついた液体にまで戻しながら車両の前面にぶち当たった。けれどこれは大した効果もみられず、鋼鉄の車体にわずかな焦げあとを残すだけに留まる。パンサーはちぇっと拗ねたように唇尖らせると、長い尾を振りながらそばの民家の庭に駆け込んでいった。
 するとその影を追ってようやく車両の砲塔が動き出す。ギリギリと耳障りな音を放ちながら八つ重なった砲塔のうち下から三番目が回転し、パンサーが飛び込んでいった民家に照準を合わせる―――
「パンサー、狙われてるぞ」
 焦るわけでもないナビの警告に、了解と返したのはモナだった。
「ワガハイが守るぜパンサー! 安心してくれ!」
 ニャッと彼が鳴くのと同時に、至近距離で三尺玉の花火が爆発したような大音響が轟いた。
 掠るだけでヒトの身体など粉々になりそうな弾丸は真っ直ぐにパンサーに向かい彼女を壁のシミにするはずだったが、しかし足元から吹き上がる強風がわずかに軌道を逸らすと、そのまま狙いを大きく反れて民家の屋根瓦を砕きながら中空へ突き抜けていった。
「さっすがモナ! あんがと!」
 ナビを中継にして届けられるパンサーの礼と賞賛の言葉に、モナはデレデレしながらそばの茂みの中に姿を消した。
 一連の怪盗たちのやり取りを眼に、は相変わらずの傍観者の態度で誰にでもなく頷いてみせている。
「スカルが突っこんで、パンサーが面制圧、モナは遊撃に回って……」
 彼の瞳はネクロノミコンの内部にいくつも浮かび上がるモニターのうちの一つ、砲塔の根本をじっと見つめている。そこにはジョーカーが息を潜め、退屈そうに手をこすり合わせている姿があった。は彼の視線を追ってまた深く頷いた。
「……まずは機動力から? やっぱりそうするよな」
 言葉の後半に低く長い音が被さるようにして鳴り響いた。
 巨体の足元を見ると、先にパンサーが火炎によって溶かしたアスファルトが回転する履帯に絡みつき、転輪の動きを鈍くさせていた。巨体を支える八つの履帯には元より相当な負荷がかかっているのだろうことは見た目からして明らかだが、そこへ粘り気のある液体が絡んで金属への負担をさらに増し、スカルが初撃によって与えた効果を明らかにする。
 連なって履帯を回す転輪の先頭にあたるのが起動輪だ。これを支える軸が負荷に耐えかねて内部で断裂したのだろう、鈍くかん高い音が鳴ったかと思うとともにガタガタと激しく震えはじめ、そのうち押し出されるようにして軸ごと車体から弾き出される。
 すると回転をせき止められた履帯の接続が連鎖して途切れ、カーペットのように車両の後ろに敷かれていく―――
 とはいえこれで停止するのであれば、そもそもの設計思想からして失敗しているといえる。速度こそ大きく落としたが、八つのうち一つを失った程度ではグラつきもせず、巨大車両はなおも前方、の家がある方向に突き進み続けた。
 空中からその様子を観測し続けるナビは怪訝そうに眉をひそめている。
「こいつ、なにが狙いだ……?」
「俺んちじゃないの?」
「あ? あー、出入り口の封鎖ってことか? だとしても大事なのは位置だから、家自体がぺちゃんこになっても退避に問題はないぞ?」
「いや、そうじゃなくて―――」
 と、少年は自らを指し示した。
 ナビはますます怪訝そうにして彼をみやった。学校から帰って、着替えも済ませていないままの長袖のワイシャツだ。白い生地はあちこちが土埃で汚れ、鼻の上には小さなすり傷ができている。
 その根拠は、と尋ねると、彼はやはりまだこれを夢かなにかと思い違えているのだろう、平坦な様子で語った。
「さっきの大見さ……いや、人間爆弾。あれ、明確に俺を狙ってなかった? 蓮には……あ、ジョーカーか。あいつには目も向けてなかったよ」
 目の前で見知った相手が爆死した事実を軽々に語ることこそがその証明だろう。実際にアレはシャドウ―――パレスの主による認知存在であり、現実の大見某にはなんの影響もないが……
 パニックに陥られるよりはとも思うが、もう少し現実と向き合ってほしい。
 出そうになった言葉をごくりと呑みこんでナビはモニターに目を戻した。
「あ、捕捉された」
 のんきな声に唇を尖らせもする。
 重なった砲塔から伸びる八つの砲身のうち、先にパンサーを狙った一門以外のすべてがネクロノミコンに照準をつけていた。
「これ回避できるの?」
「必要ない」
 やはり慌てることなく言い切るナビに、はどういうことかと首を傾げている。その彼にしても同じようなものだが、こちらは前述の通りだ。
 そして彼はすぐにナビの態度のわけを知る。轟音に地面と大気が揺れ、地上の様子を教えるモニターに大量のノイズが走った。
 はじめ彼はそれを、直撃を喰らったからだと思うが、映像はすぐに元通りになったし、彼にとっての夢の終わりも訪れなかった。
 鮮明になったはずの映像は今度は黒煙に包まれ、火山雷さながらの電光までもがほとばしっている。
 なんだ、と見開かれた眼をさらなる瞬きが焼いた。
「……問題なさそうだな」
 低いささやき声が煙のむこうから漏れ聞こえる。鋼鉄のシャシーを踏むかん高い足音もだ。
 ハッと息を呑んだ少年の瞳に、コートの裾をはためかせて立つジョーカーの姿が映り込んだ。彼はその背後に、青ざめた馬にまたがったいかにもな死神を従えている。口元には、まるで視線に気がついているかのような笑みがあった。
 再び、耳を脅かすような重低音が鳴り響いた。ジョーカーのすぐ直上、砲手用の直接照準口らしき小さな―――それでもまだ人の頭くらいなら余裕で通りそうな―――穴が火を吹いた音だ。
 ジョーカーはやっと慌てたような素振りをみせて車体から飛び降りた。
 すると一瞬前まで彼が立っていた場所に、八つの砲身がまとめて転がり落ちてくる―――どうやらこれらが揃って同じ方向、ナビに狙いをつけて縦一列に並んだところをまとめて切り落としたようだ。
 彼は走りながらナビに問いかけた。
「どうだナビ。倒せたか?」
「ん……いや、まだだな。主砲を破壊しただけだ」
「うへ。他に武装は?」
「機関銃がふたつに発煙筒。それから……ん? なんだこりゃ……」
「ねえフタバ、なんか出てきてる。翼か?」
 眉をひそめるナビの横からモニターを覗きこむの言葉はジョーカーにも届いている。彼は踵を鳴らして速度を緩めると、言葉の意味を確かめようと視線を後方にやった。
「……なるほど、翼。翼ね」
 煙を上げてなおそびえ立つ砲塔のさらにむこう、エンジン冷却用の排気口だと思っていた部分が開かれ、内部から奇妙なパーツがせり上がっていた。それは左右に広がると、なるほど、翼のように展開して正体を明らかにする。
 もちろんそれは翼などではなく、平行に並べられた鋼鉄製のレールだ。上には巨大な鉛筆状のナニカが羽のようにずらりと並べられている。
 ネクロノミコンの内部の二人はポンと手を打った。
「カチューシャじゃん」
「メタルマックスかよ」
 二人は、顔を見合わせて笑いあった。
「―――笑ってる場合か! なにあれなんなの!?」
 鋭いパンサーの指摘が光るが、ナビはやはりのんびりとしたものだ。ゆったりとした手つきでパネルをなぞると、地上で駆けずり回る面々の視覚上にオレンジ色の斜線を浮かび上がらせる。
「多連装ロケット砲だ。無誘導弾だから着弾予想範囲から出ればこわくないよ」
「なんでもありかよ! ……なんでもありか。猫がバスになるトコだったわ」
「ダレがネコだよっ!」
 お前だよとスカルが笑っていられるのは、彼のいる場所が巨大車両の後方に位置し、着弾予測地点から大きく外れているためだろう。一方のジョーカーやパンサー、モナは浮かび上がる斜線に取り囲まれ、慌ててその場を退こうとしている最中だ。
 ところが―――
「……あれ?」
 空中に向けて射出された十六発のロケット弾は真っ直ぐに飛び、やがては地面にぶつかって爆発するはずだった。
 ところが、空中でブルッと震えたかと思うと、これもまた小さな翼を生やして急旋回し始める。
「おいナビ!! 無誘導って言ったよなコラぁ!!」
 一転して慌てふためいた声を上げて、スカルは走り出していた。怪しく光るロングホーンめいた砲弾のうち、四発が弧を描いて反転したかと思うのもつかの間、明確に彼を狙って突き進み始めたからだ。
 もちろんと言うべきか、スカルのみならず他の面々も誘導装置付きのロケット弾に追われている。
「ちょま、ちょっ、待っ、ヤバいって!」
 パンサーの叫び声を耳に、ナビは頭を抱えていた。
 確かに現実、誘導機能を有したロケット弾というものはいくつか存在する。レーザー誘導だったりGPS誘導だったり……
 いずれにせよ、一度発射機を離れたロケット弾は推進剤が尽きるまで止まらない。それも現実に限った話だ。あんなばかばかしいデザインの巨大戦闘車両を登場させるようなパレスの主が、果たして常識的な飛行距離で済ませてくれるだろうか。
 あちこちから響く悲鳴とアラートを耳にしながら、はなんてことのない様子で言った。
「撃ち落とせば?」
「それだ! みんな、距離とって撃ち落とせ!」
「簡単に言うんじゃねーよ!」
 打てば響くようなテンポで返されるモナの悪態にも負けじと、ナビは身を乗り出してコンソールを叩き始める。
「そうでもないぞ! さすがに旋回機動は大したことない! 距離稼げるルート出すから……これに沿って走って!」
 再び、一同の認知が限定的に操作され、今度は点滅する矢印が浮かび上がった。家々の角を右に左に、振り回して距離を稼がせるための道順を示す表示に、怪盗たちは明日の筋肉痛を覚悟して速度を上げる―――
「……ナビ、ここ。これ」
 はまたナビの横からモニターを覗きこみ、指先で画面のあちこちを弾いてみせた。
 なんだと目を向けると、そこここの影からなにかがぬるりと抜け出し、ヒトの形をつくってぎこちなく走り出しているところだった。
「げっ、このタイミングで人間爆弾まで!」
「勘弁してくれ」
 ジョーカーのぼやきが妙に楽しげなのは、言い終わるのとほとんど同時に響いた爆発音のせいだろう。彼を追う四発の誘導ロケット弾のうち二つはすでに撃ち落とされていた。
「あと二発……」
 ささやくようにして言って、彼はルートを外れて角を左に折れていった。
「ああもう。この際ジョーカーはほっとくぞ」
「えっ」
「ジョーカー以外は傾聴! 例の人間爆弾がぞろぞろ出てきてる」
「あの、もしもし?」
「ぶつからないよう逐次ルート変更するからな」
「ナビ?」
「ちゃんと矢印見て移動しろよ!」
「ナビちゃん? 俺は?」
「いいかジョーカー。その爆発もあの爆発も、物理だ」
 ナビが言わんとするところはすなわち、物理攻撃が効かないようなペルソナを使えと、そういうことだろう。言い換えればそれは『さっさとぶち当たりにいって済ませてこい』となる。物理的な効果を一切受け付けないような仮面の力を利用すればダメージはないし、逃げ回って撃ち落とすよりよっぽど時間もかからない、実に合理的な判断だった。
 かといって心理的には無傷というわけでもない。真正面からロケット弾を撃ち込まれる感覚を想像して、ジョーカーはうなじの毛を逆立てながら仮面に手を触れさせる。彼をしてもあまりやりたい方法ではなかった。
「私もあんまり、焼かれたくはないかなぁ」
「まあなー。半減してるって言われてもな」
「イテぇもんは痛ぇんだよな」
 今のところ無効化できない面々はささやかな同情を寄せるに留め、パッと切り替わった矢印に従って再び足を早めた。
 一発、二発、三発と続けて離れた地点で爆発が起き、一拍おいてさらに離れた地点でまとめて二回爆発が起きる。
「あと……爆発でできた瓦礫とか、砂埃やらはどうしようもないから……ゲホッ……」
 うんざりだと頭に積もった砂や小石を払い除けた彼の傍らには、もつれた長い黒髪を振り乱して笑う怪物じみた姿の魔女が佇んでいる。
 ゆるく手を振って己の半身を仮面に戻し、彼は手近な民家の屋根に飛び上がった。広がった視界から確認するに、車両との距離は走り回っている間にずいぶん離れてしまっていた。なんならナビのほうが接敵しているくらいだ。
 先のナビとのやり取りを胸に返してジョーカーは仮面の下の眉をひそめる。
「……まさかな」
 首を振り、前髪に絡む砂を指先で払ってやっと視界が完全に元通りになる―――はずだったが、チラと視界の端に映った灰色の埃に、彼はうんざりしながら頭をかいた。
 ところがはらはらと舞い落ちるものは一向に途切れる気配を見せず、視界に現れてはゆっくりと降り落ち、ついには足元に積もり始めつつあった。
 なんだこれ、と思いながら辺りを見回して、彼は自分がパレスの中に侵入を果たしたのだと強く実感する。そういう光景が目前には広がっていた。
 空はぶ厚い曇天に覆われ、そこから灰のようなものがはらはらと降り続けている。視界が妙に霞んで見えるのはこれのせいだろう。
 そのむこうに、倒壊し折り重なる家々や、辛うじて直立を保つビルの残骸が見える。それすらほとんどがなにか巨大な力に蹂躙されたかのように壁や窓が失われ、内部が雨風にさらけ出されている状態だ。
 まるで相互確証破壊後の世界―――この国は非核保有国なので現実には一方的な破壊になるだろうが―――いわゆるポストアポカリプスを思わせる光景だった。降りしきる灰のなか見える著名な二つの塔も、辛うじて原型を留めているにすぎない。首を巡らせて背後を覗えば、なんということか水平線までもがそこから望めるではないか。
 そんな残骸の山にも形を保った建築物がちらほらと残り、小さな集落を作っている。か細くたなびく白煙は狼煙というよりは炊事のために起こされたもののように窺えた。ジョーカーたちが侵入した地点も、おそらくはそんな文明の名残の一つだったのだろう。
 それも未だ進み続ける巨大な動く鉄の塊が粉砕しつつある。
「あと一発!」
「こっちはあと二発だ!」
「ナビ〜、あと何発だっけ!?」
「いち」
 ……何割かは怪盗たちの回避行動の結果によるものだろう。
 パレスの中でのこととはいえひと様のご自宅を破壊する行為に、ジョーカーの胸にじんわりと罪悪感がにじみ出るが、彼は空気とともにそれを飲み下した。
 ―――そんな場合じゃない。
 今の今まで気がつけなかったことが信じられないようなものが、集落のすぐそばにそびえ立っていた。
 奇妙な塔だ。ピラミッド型の土台の上に、透かし彫りの施された白磁の器を縦に引き伸ばしたような建造物が収まり悪く鎮座している。首を真上に向けて見上げれば、上層部を灰色の防音シートが包み、無数のタワークレーンが角のように生えている様も辛うじて見て取れる。どうやらこれはまだ建築途中らしい。
 ジョーカーの脳裏に『モニュメント』という単語が浮かび上がった。パレスに侵入するためのキーワードだが、この未完成の塔が『それ』ということだろうか?
 首をひねったところで分かることは多くない。ただ連続する爆発音と仲間のやけくそ気味な勝どきが彼らの無事を教えてくれている。あちらもそろそろ逃げ切るころだろう。
 ふう、と息をついて、ジョーカーはまた注目を促すように指を鳴らした。
「走りながらでいいから聞け。それ落としたら一旦撤退だ。さすがに火力負けしてる」
 了解、と返る声がきちんと四つ揃っていることに今度こそ安堵して、ジョーカーはわずかに脱力する。
 同時にまたいくつかの派手な爆発が起きて、今度こそ本当に危機が去ったことを一同に教えた。
「……さあ、また妙なものを出される前に帰ろう」
 様子見には十分すぎる『成果』だと訴える彼に、再び、しかし一様にくたびれきった声が返された。

……
 そのようにして帰り着いた彼らを出迎えたのは、冷たくはないがいかにも呆れたと言わんばかりの参謀総長の生ぬるい眼差しだった。
「それでなんとか逃げ帰ってきたってわけね」
「マジでやばかったんだって! クソでけぇ上にドカドカ撃ってくんの! しかもそれがパレス入ってすぐんとこにいんだよ!」
「それはもうわかったってば。侵入地点の安全が確保できていないのはたしかに問題よね」
 命からがらパレスを脱した少年たちはすぐさま他の面々にも連絡を取り、日も傾きかけたころにこうして集合することと相なった。
「ねえ、その前に……彼、大丈夫なの……?」
 そうとも、この場―――家の居間には『幾人か』が集っている。気遣わしげな奥村の視線の先には、古ぼけたソファに深く腰掛けて呆然とするの姿があった。
 現象界に戻ってからこちら、はずっとこんな調子だ。どうやら本気で先ほどまでの経験を夢だと思いこんでいたらしく、パレスを脱して地を踏みしめた瞬間から一気に顔色を悪くして戻らない。パレスを出た先こそが今いる『ここ』なのだからそのまま置いて帰ってもよかったが、あまりの放心ぶりに気が引けてしまい、こうしてここを集合場所として指定する羽目になったというわけだ。
 ―――だから本当なんだってずっと言ってたのに。
 畳の上に直接あぐらをかく雨宮は口を尖らせて拗ねたような、非難がましい視線をせっせとに注いでいる。あれだけ真摯な気持ちで真実を訴えたというのに、どうして素直に受け入れてくれなかったのか……
「そりゃ普通はこうなるでしょ。イセカイだとかニンチだとか、そうそう簡単に納得できるもんじゃないし。フィクションならともかくさ」
 肩をすくめて両手を広げる高巻の仕草こそ、フィクションにありがちなステレオタイプじみている。もしかしたら彼女なりのジョークだったのかもしれない。
「しばらくはそっとしておきましょう。怪我なんかはないんだし、時間が経てば落ち着くわよ」
 ご面倒をおかけしますと掠れた声が返る程度には回復したらしいが、しかしまともな会話となるとまだ時間がかかりそうだ。新島もまた肩をすくめてそれを待とうと態度で示した。
 奥村はそれでもまだ心配そうな目を彼に向けていたが、やがて彼女も必要なのは時間だと判じたのだろう、正座した膝の上に手を揃えて仲間たちに向き直った。
「じゃあ……えっと……その大型のシャドウへの対処方法をまずは考えなくちゃ、かな?」
「―――その必要はなさそうだ」
 小首を傾げた奥村の背後、開けっ放しの障子戸の向こうから声がかかる。敷居と畳のへりを踏まないように跨いで進み出たのは喜多川と、モルガナを抱えた双葉だった。
「そういうからには上手くいったのね」
「ああ」
 頷きながら部屋の中央、テーブルのそばに腰を落とし、喜多川はそわそわと卓上に視線を這わせはじめる。けれどやがて茶菓子は出ないと察したのだろう、肩を落として背を丸めてしまった。
 その隣にモルガナごと座る双葉が代わって首尾を報告する。
「パレス自体がかなり広範にわたって存在してる。侵入するだけなら、とくにここからじゃなきゃダメってことはないっぽいよ」
「あのデカいクルマの動き自体は鈍重だったからな。背後を取るかたちで侵入しちまえば、ぶつからずに済むかもしれん」
 事のおおよそを受けた作戦参謀の示した策は至って単純なものだった。圧倒的な火力と強固な装甲を敵が有しているというのであれば、そんなものは相手にしなければいい。怪盗というものは盗みをするから怪盗なのであって、逐一敵を撃破する必要はないのだ。これまであったすべての戦闘は、ただ必要に迫られてそうしていたというだけ―――そうでないとしたらそれは、怪盗ではなく押し込み強盗ではないか―――
 そういうわけで、喜多川はここへ来る途中にちいさいの二人と合流、彼らとともにパレスの端に当たる場所を何か所か探ってからやってきている。それもこれも茶菓子が出ることを期待しての遠征だったとは、流石の彼も口にはせずに済ませた。
 報告を受けて本部参謀総長新島は組んでいた手をほどいて顎に置いた。
「先遣隊を出して向こうの状況を把握してから侵入するのがいいかしら。パレスの本体はその―――」
「妙な塔があったから、そこだろうな」
 視線を向けられた雨宮は頷いて言を引き継いだ。
「あの状況でチラっと見ただけだから警備なんかの状況はなんとも言えない。ただ、目立った武装の類は見当たらなかった」
「けどよ、あのクソデカいやつもイキナリなんか出してきたじゃん。そっちもやっぱなんか仕掛けがあったりするんじゃねえの?」
「なんだ竜司、珍しく慎重だな」
 揶揄するような発言が喜多川から飛び、坂本は一度低く唸るように喉を鳴らしてから言い返した。
「お前は見てねぇからンなことが言えんだよ! 俺らがどんだけ全力疾走させられたと思ってんだ!」
 そんな恫喝も柳に風どころか、喜多川はいかにもおかしそうに喉を鳴らしている。相手をするだけ無駄……ではないが、疲労の回復速度は格段に落ちると坂本は不機嫌そうに、こちらは歯をかみ鳴らした。
 単なるじゃれ合いの範疇と放置された二人の間に静かな声が割って入った。
「……搬入路が地下にあるはずだ。そこなら安全だと思う」
 それはやっと心の均衡を取り戻したのものだった。
「フタバ、あの場所の地形図は記憶してる?」
「ん? うん、まあ……」
 おぼえてるよ、と戸惑いつつも返す彼女に目もくれず、立ち上がった足が向かったのは部屋の隅に置かれた古めかしい本棚だ。彼はそこから一冊の地図帳を引きずり出すと、踵を返して一同の中央に広げてみせた。
「正直夢だと思ってしっかり見たわけじゃないけど……」
「搬入口があったの?」
身を乗り出して問うたのは新島だった。しかしこれに、は首を左右に振る。
「いいえ、見てません」
「あ? んじゃなんで『ある』なんて言えんだよ」
 次いでの問いは坂本からだ。先の喜多川とのやり取りがまだ尾を引いているのか、その声はやや低い。
「『なにもなかった』からだよ。例の塔は建設中っぽかっただろ。なのにそのための資材を運搬できそうな道路やトラックは一つも見当たらなかった」
「だから地上に、ってこと? けどさ、それに入るための出入り口はやっぱ地上にあるんだよね?」
 高巻が。
 彼は彼女にではなく、広げられた地図帳……付近一帯を含む首都郊外を広く捉える五万分の一地形図を見つめる双葉に目をやった。
「そうだな。そう。そりゃ地上と繋がってなきゃ意味ない。そんで、パレスはほぼ現実の地形と一致してる……」
 むうう、と呻いた双葉は、腕を組み右に左にと身体ごと揺らし、やがて「よし! いける!」と自己完結して叫んだ。
 しかし一連の奇矯な振る舞いを無言で見守っていた一同にはなにが良くて、いけるのか解らない。雨宮は苦笑しつつ訊いてやった。
「なにがいけるんだ?」
「だから、ほら、塔だよ。の推理どおり地下から侵入できるとして、ここ」
 トン、と小さな手が地図上の一点を叩いた。雨宮が記憶している限り、そこはパレスにあった塔の位置と合致する。言わんとするところを薄っすらと察した彼は頷いて言葉の続きを促した。
「で、ここ」
 次に示されたのは現実のここ―――家の最寄り駅だ。
「それからここと、ここと、ここも……」
 トン、トン、トン、とリズムよく叩かれた箇所はいずれも駅を示している。そのころにはこの場の全員が答えにたどり着いていた。
「地下鉄か」
「そう! 地上はひどいもんだったけど、地下にほられたトンネルはきっと無事なんじゃないかな。そこを利用すれば物資の運搬は上よりきっとずっと楽だとおもう」
「推測でしかないけどね。空輸って手だってあるんだし」
 だけど、とは雨宮に目を向ける。
「調べる価値はあるはずだ。もし、またあそこに行くのなら」
「行かない理由がないな」
 現状を顧みたとき、実際には大いに問題はあるのだが、それについては皆口を閉ざした。あえて言うこともあるまいとして。
 そんな仲間たちの態度に雨宮はしたり顔をして指を弾いた。
「よし、次は地下鉄の調査だ。いつもやってることだな。やろう」
 頭領の決定に異を唱える者も現れない。そのことに安堵すると途端に今日の疲れがドッと襲いくる。図らずも先遣隊の第一陣を担うことになった面々は揃って机や椅子の背もたれに体を預けた。
 筋肉痛の予兆めいたものに肩や首を回す彼らに労りの視線が投げかけられるのと同時に彼は言った。
「さっきの場所に行くときは俺も連れてってほしい」
 そのひどく思いつめたような、焦燥感に駆られているような声に、怪盗たちは無言のうちに視線を交わしあった。まあ言い出すだろうなぁとは皆想像していたから、驚きはない。
 心情的な意味ならばもちろんイエスだ。彼にとっては親の仇で、近隣の住民たちも被害を被っているのだから、その性分と併せて考えれば同行させてやりたいと誰もが思う。しかし一方で、たとえ彼が体格のよい偉丈夫だとしても、シャドウ相手ではひとたまりもない。今回の潜入は何事もなく済んだが、次は敵の懐に忍び込もうというのだから、うまくいくとは限らない。
 さて、どうしたものか―――
 膠着しはじめた場に一石を投じたのは意外なことに新島だった。
「別に、いいんじゃない?」
 誰もが―――でさえもが驚きでもって彼女を見つめるなか、高巻が皆の気持ちを代弁するように述べる。
「あれ、意外。反対しないの?」
「そうする理由がないってだけよ」
「いやあるだろ。戦えないやつ連れて敵の本拠地に突入はマズくね?」
「そうかもね。でも絶対に不可能ってこともないでしょ」
 新島の態度はそっけない。返答も含めてこれは彼女らしからぬことだった。厳しい態度も冷たい言葉も皆を思ってのことであるのが新島真という少女だ。であれば、これにもなにかわけがあるに違いない―――
「ああ、そうか」
 ポンと手を打ったのがよりにもよって喜多川であることに、新島は青ざめた。
「どしたおイナリ」
「いやなに、以前同じことを……まったく同じ状況というわけではないが、真も似たようなことをしたなと」
「まあ、マコちゃん、そうなの?」
「それは、まあ、そうだけど。だけど今は関係ないわ」
 好奇心で瞳を輝かせる奥村の視線を手で追い払って、新島はぽかんとしたままのに向き直った。
「とにかく。反対もないようだし、いい? あなたには双葉と一緒に行動してもらうわよ。決して前に出たりしないで、戦闘になったら私たちに任せて」
「は―――はい。ありがとうございます!」
 感じ入った様子で深々と下げられる頭を眺めて、奥村はクスッと小さく笑った。
「よかったね、くん。一緒に頑張ろうね?」
 そこには一種の共感と、絶対的な隔たりのむこうの羨望が垣間見える。だからこそという決意もあった。それらに気がついているのか、は不思議そうにまばたきをしてから、奥村にも丁寧に頭を下げた。
「ッス、ご迷惑をおかけしないよう、精一杯やらせてもらいます。よろしくおねがいします」
 双葉あたりは「わたしらにはヨロシクしないのかよー」などと唇を尖らせているが、心底から求めているわけでもないのだろう。じゃあとが向き直ると、彼女は慌てた様子でモルガナを押し付けた。
 確かに、と新島と奥村は頷き合う。彼はすでに怪盗団の正体も手段も知ってしまっているのだから、あまり他人行儀にされると―――おまけに自分たちばかりがそうされるというのは、あまりよい気分ではなかった。歳など一つしか違わないではないか。
「……あんまり畏まられるとこっちの息が詰まりそうだわ。呼び捨てにしてくれていいから」
「えっ。でも先輩……ッスよね」
「そうね。他校のだけど」
「他校でも先輩は先輩ですよ」
 慌てた様子で手を振る彼から嫌悪は感じ取れない。嫌だから呼びたくないのではなく、遠慮と……照れがあるのだろうことは、頬が薄っすらと紅潮していることからしてすぐに察せられた。
 ―――そういえば、彼の通う学校は数年前までは男子校で、共学となった今も女生徒の数は少ないんだっけか。
 新島と奥村は顔を見合わせて忍び笑う。
「……いいから、ちょっと呼んでみて」
「えっ」
「これは先輩からの命令です。さん、はい」
「えーっ……」
 案の定と言うべきか、はますます挙動不審になって、両手をパントマイムショーのようにさまよわせては顔を赤らめている。その視線は助けを求めて雨宮に向かったが、どういう意味があるのか彼は片目をつぶるだけだった。
 目の前には急かすように期待をふくらませる二人の少女。どちらも平均以上の容姿とスタイルの持ち主で、ルッキズムとは縁遠いこの少年にしても胸をざわつかせるだけの要素をありありと有している。
 彼はあらゆるものに敗北して口を開いた。
「ま、まこ……」
「うん」
「真……先輩……」
「まあいいでしょう」
 なにがいいというのか。したり顔で頷く新島の隣で、奥村は両手を合わせて待ちわびている。
 やはり彼は抗えなかった。
「……春先輩……」
「うふふ。はい、なぁに?」
「なんでもないっす……」
 うなだれる彼の姿を見てなにを思ったのか、動向を見守っていた高巻はいよいよ我慢ならぬと身を乗り出した。
「ねえねえ! 私は? 私は?」
「ひいッ」
 この世に生を受けて十七年ほどになるか。は産道を通ってからこれまでで一番恐怖して震え上がった。
 そんな彼の態度に、高巻は背すじを撫で上げられた猫のように身をくねらせている。
「この反応、新鮮。クセになりそう……」
 もちろんそんなつぶやきはの耳に届いている。低いテーブルに突っ伏した彼に、トドメの一撃があらぬ方向から突き刺さった。
「やめろおまえら! の童貞ムーブをいじるでない!」
 双葉の声は朗々としていて、もしかしたら家の外にまで届いたかもしれない。彼女の言が真実かどうかなど誰にも知れたことではないが―――
 触れればこちらに累が及ぶと、坂本はそこを避けてコメントしてやった。
「双葉が一番ダメージ与えてンだよなぁ……」
「生きろ、
 喜多川の声には力強い響きがあった。心の底から彼に同情し、寄り添うような優しさも湛えられている。
 しかし、だからこそ、そんな慰めの言葉はかえって彼をより打ちのめしただけのようだった。