08:A Couple Steps Back

 一日を置いた月曜日の放課後、雨宮はまたの家を訪れていた。
 見た目はいつも通りだ。きれいに整頓されていて、掃除も行き届いている。ただし普段ならあるはずの工場から聞こえる機械音がこの日はなかった。もしかしたら、明日や明後日も途絶えているのかもしれない。
 そのせいかの顔色はあまり良いとは言えないものだった。
「わざわざ来てくれてありがとな。フタバとモルガナは?」
「今日は留守番」
「ふーん」
 残念がっているのか、はたまた興味を持てるほどの体力もないのか、は曖昧に頷いて西日を浴びて鈍く光る食卓に頬杖をついた。
 実際のところ双葉はお留守番ではなく何某かのデータ解析に忙しく家にこもりきりで、モルガナは家の前で別れて周辺の哨戒に出てもらっている。己が立ち寄る以上、この家にも何らかの監視や捜査が入っていてもおかしくはない、雨宮などはそう考えている。同時にそれなら近寄らなければいいとも思うが、あんなことがあったばかりだ。双葉も解析作業に手を取られていなければこの場に来ていたはずだった。
 なにより、前の日の夜におやすみと別れてからもずっと気にかかっていたことがある―――
 ただしはじめからご自宅に伺う予定はなく、病院のほうに見舞いも兼ねての寄り道のつもりだった。その証拠に彼の手には途中で買った手土産がある。病気ではなく怪我での入院だから、菓子を渡したって問題はないだろうとして。
 ところがそんな気遣いもむなしく、のほうはこの日学校を休んで従業員と取引先への連絡に追われていたらしく、昼ごろからずっと家に足止めされていたのだという。
 寝る間もろくに取れなかったのだろう、彼の目の下にはうっすらとくまが刻まれていた。
「ちゃんと寝た?」
「寝た寝た。二時間くらい。なに、心配されてる?」
「そりゃね」
 しないわけがない。と応えて、雨宮は出された茶をすすった。茶菓子には手渡したばかりの手土産が添えられている。
「一応お見舞いの品なんだけど……」
「いいのいいの。黙ってりゃバレないって」
 言いつつの手はさっそく柔らかそうなスポンジ生地をつまみあげる。
 都内の駅ならどこにでも売っているような定番菓子の一つだ。そういうものは案外そこに住んでいると食べ損なったりするものだとしてのチョイスだったが、このもったりとした甘さが特徴の菓子は正解だったらしい。一口を飲み下して、は歓喜の声をもらした。
「は〜……昼食ってないから助かるわ、ホント」
「食べてないのか?」
「ああ。ちょうど切らしてたところでさ」
 手軽なインスタント食品の類は試験勉強中に消費して買い足さないままでいた上、普通に料理をするような体力も、店屋物を頼む気力もなかった。タイミングが悪いこともあるもんだと愚痴っぽくこぼして、彼はまたスポンジ生地とクリームを口に詰め込んだ。
「それならもっとなにか買ってくれば良かったな」
「あ、そっか。来るついでに頼んどけばよかった。その手があったか」
「カレーなら得意だ」
「作るところまでする気かよ」
「まかせろ」
 メガネのブリッジを指先で押さえて雨宮はふんぞり返った。すると何故かもまた、どこか皮肉っぽい笑みを浮かべる―――
「カレーなら俺もちょっと自信あるし。ブイヨンから作ったりするし」
「こっちはスパイスの調合からだ」
「ふぅーん? 素人の調合なんて当てになるもんかね?」
「残念だったな。マスター直伝の秘伝レシピだ」
 静かな部屋にパチッと静電気が走るような音がした―――気がする。二人はほんの少しの間睨み合ったが、やがてどちらともなく破顔して笑い出した。
「マジで? マジでそんなカレーに自信ある感じなの?」
「あるよ。双葉なんかもうヤミツキだ」
「それは盛ってるだろー」
「そうでもない」
 今度ごちそうしてやるよと笑う雨宮に、もまた「じゃあ俺も」と気安く約束をし返した。
 そんなふうにカレーの話などしたせいか、彼はますます空腹を覚えたらしく、またさらに一つをつまんで口に放り込んだ。
「あーあ、親父のほうは今ごろみんなにもっといいもん山ほど貢がれてんだろうなぁ……」
 咀嚼の合間に出る言葉はやはり愚痴めいている。雨宮は今食べているものだって安物ではないと言い返そうとしたが、そこからうかがい知れる彼の父親の様子が悪くなさそうだと読み取ると安堵が勝った。
「人気者なんだな」
 たしなめるつもりで言ってやると、は照れくさそうに頭をかいた。
「まあ、そうなのかもな。ああ見えて親父ってけっこうすごい人なんだぞ?」
 見た記憶も混乱に紛れて薄いが、確かに見た目はどこにでもいそうな中年男性だった。自慢気に胸を張る少年の姿とはうまく繋がらない。
 ましてや続く言葉は彼にはにわかには信じられなかった。
「蓮も知ってるような会社のCEOやらCOOが直に会いに来たりなんかもすんだぜ」
 はいくつかの社名やブランド名を挙げてみせた。なるほどそれらは雨宮もよく耳にするような、世界的大企業と言い表して差し支えのない有名企業ばかりだ。
 しかしそれを鵜呑みにするには―――
 家の中を探る視線に、は不快になるでもなく笑ってみせた。
「あんまり信じてないだろ?」
「……ごめん」
「いいよ。こんなボロ家にちっさい工場だもんな。でもここらのはみんなそんな感じだぞ」
 それはつまり、あたりにひしめく小さな工場のいずれもが世界規模に展開するグローバル企業だということか。
 ますます怪訝そうな顔をする雨宮に、はやっぱりおかしそうに笑った。
「ま、そんなん言ったってどこも苦しいばっかりだけど。銀行は貸し渋りするし、なんなら引き剥がしまでしてくるし……」
 けれどその笑みも、己が口にする内容に現実を思い返したのか、視線が下に落ちるのとともに苦々しく変化していく。
 今のところ雨宮には事実かどうかは分からないが、実際現実苦しいことに間違いはないだろう。彼はわずかに身を乗り出して彼に問いかけた。 
「そんなに苦しいのか?」
「や、そりゃまあ、今はどっこも不況だから。CO2削減目標なんてのもあるし、エンジン車はここ何年か需要が落ち込み気味だったりするしさ」
 なるほど、先に挙げられた名はいずれもが車の製造に関わる企業ばかりだった。ここの工場は車に搭載するエンジンに関わるパーツ製造を行っていたのか―――
 納得するのと同時に、雨宮はまた問いかける。
「親父さん、いつごろ復帰できそうなんだ?」
 あの様子では数ヶ月か半年か、いずれにせよ今日明日にも現場復帰とはいかないだろう。すべての作業を一手に引き受けているわけではないだろうから工場の運営自体はすぐに再開されるはずだが、やはり経営者の不在は営業にせよ実作業にせよ影響が大きそうだ。けれどそれは裏返せば、一人の帰還が大きな意味を持つということでもある。息子であるこの少年のためにもその日は早いほうがきっといい。もちろん無理をしてほしいということではないが―――
 そういう様々な意図を込めての問いだったのだが、はどう受け止めたのだろう、
途端にきつく眉を寄せ、唇を噛んで押し黙ってしまった。
?」
 呼びかけてやっと彼は口を開いた。
「親父はさ、すごい人なんだ」
 彼は先と同じ言葉をレコーダーのようにくり返した。
「すごい人なんだ……」
 ―――の息子が語って曰く。
 この小さな工場が世界展開しているという話は嘘偽りのない真であるという。
 この国のものづくり産業は近年、多くの苦境―――例えば新興国の興隆によって競争に敗れ、それに長引く不況が合わさり大企業の多くは生産拠点を海外に移転、これにより国内の零細、中小の工場の大半は採算を取れずに毀棄される。結果残された者たちは針に糸を通すようなわずかなマーケットシェアを獲得するため、大きな選択と努力を強いられる。コストの削減や業務の効率化、大規模な工場には不可能な短納期、あるいは個人が有する精密な技術力をより高め、継承していくことで生きながらえてきた。
「ほかにもISO規格の認証取得だとかさ」
 IOS-9001、IOS-14001、IATF-16949……
 折って数える指は骨が太く、よく見ればしわに紛れて傷あとや火傷のあとが無数にあった。明確に父親を尊敬しているとは口にしてこそいないが、熱っぽい語り口と己とはまったく違う手は彼が父親の背を目標にしているのだと雨宮によく教えていた。
「難削材……たとえば耐熱合金だとかチタンだとか、アルミ合金なんかも……ウチじゃそういうのから作る切削部品をやってて、車のエンジン周りにはこれが欠かせない。親父はそれの、国内……いいや、世界でも指折りの技術者なんだ」
 もちろん工員たちだって彼の技術を継承しようと、もしくは盗み取ってやろうと日々たゆまぬ努力を重ねている。だけど、それでもやっぱり、この少年にとっては父親こそが最も偉大な男なのだろう。
 雨宮は羨望とともに彼の瞳を見つめていた。己が持ち得ないものを抱く輝きは、黄金や透き通った宝石より価値のあるもののように思えた。
 しかしその輝きは瞬き一度の間に失われてしまう。
「だけど親父はもう」
「……どうして?」
「蓮だって見ただろ。腕が……ああそうか、見てないのか。親父の右腕がさ……」
 消沈した様子のはそこで一度言葉を止めると、うつむいてまた唇を噛んだ。震える肩には葛藤と矜持がのしかかっているようにうかがえる。さほど長い付き合いがあるでもない相手に言っていいものか、雨宮蓮という少年はそこまでの信頼に値する存在か―――歳の変わらない相手にまるで縋るような真似をしていいのか―――
 は小さく首を横に振ると、皮肉めいた笑みをたたえ、肩にこもっていた力を抜くようにすくめてみせた。
「ごめん。こんな話聞かされても困るよな。ごめんな。あのときも……」
「謝るようなことじゃない」
 あの場の誰かが悪いと言えるような状況じゃなかったと告げる雨宮に、はまた自嘲的な笑みを浮かべる。
「でもさ、そもそもあんな現場に居合わせちゃったコト自体がマズいだろ。血とかバーって……それもごめん」
「俺は気にしてない」
 謝罪の裏に隠された拒絶の意思表示をひしひしと感じながらも雨宮は食い下がった。
「結果的にお前の親父さんは助かった。それは俺たちがあそこにいたからだ。あれで良かったんだ」
「そうかもな。だけどさ、フタバはどうだ? 奥村さんも……なんであそこに居たのかはわかんないけど……あんな光景見て、怖かったんじゃないのか?」
 探るような卑屈な視線を受けて、どうだっただろうかと雨宮は考える。双葉は確かにショックを受けていたようだし、奥村だって色んな意味で衝撃を受けていた。だけど二人とも、最終的には『の父親が助かってよかった』というところに落ち着いていたではないか。
 別れて後、一人きりになって震えがきたのは雨宮だってそうだ。多量の出血に人ひとりの濃厚な死の気配は彼を怖気付けさせるには充分すぎた。
 だけど少なくとも、それでもなお己はここにやってきていると、雨宮は胸を張ってを見つめ返した。そこにある絶対の自信か、あるいは去勢を前にして、は気まずそうに視線を逸した。
「……ほんとなに言ってんだろうな。まだ混乱してんのかも……」
 ハハ、と乾いた笑いを喉奥から漏らして、は頭をかいた。
 もちろん雨宮は話をずいぶんはぐらかされてしまったことに気がついている。彼の父親の状況はどのようなものなのか……命に別状はなさそうだが、その周囲を取り巻く環境はどうやらその次か次の次程度には最悪らしい。
 かといって無理に聞き出すのも難しそうだ。重みのある甘さがまだ居残る舌先で上唇を舐め、彼はこの日の訪問の本来の目的を果たそうと口を開いた。
「一つだけ確認させて」
「なに?」
「あれは『事故』だったのか?」
 途端、はそこだけ時間が停止してしまったかのようにピタリと動きを止める。
 気遣って言葉を止めるが、いくらかの間をおいても彼が動き出さないのを見て雨宮は矢継ぎ早に告げた。
「先の件からしておかしい点がいくつかあった。どうして保田はお前のことを、直接じゃなく父親伝いで知っていた? どうしてあんなずさんなやり方をしていたくせになかなか証拠が掴めなかったんだ? やつが出入りしていたビルには確かにリフォーム業者が入ってたけど、明らかに社員でも客でもない連中の出入りが多かったし―――」
「それもフタバが調べたのか?」
 静かな声が雨宮を遮った。視線をテーブルの上に落としただ。この場には彼と雨宮以外に、猫さえいないのだから当然のことだった。
 その穏やかさと平坦さに雨宮は面食らって一瞬呆けるが、すぐに頷いてみせた。いずれの情報も監視カメラを乗っ取り、ほぼ二十四時間体制で監視し続けた双葉の手柄だとして。
 はまた頭をかいた。口をへの字に曲げ、眉尻は下がっている。そのいかにも困ったと、小さな子どものわがままに振り回されているかのような風情に、雨宮はちょっと唇を尖らせる。
「いけないか?」
「いけないってわけじゃねえよ。ただ……」
「ただ?」
 わずかに首を傾けた彼から顔をそらし、視界の端に留めては不明瞭に告げた。
「……ありがたく思うべきだってのは解ってるし、実際そう思う。だけどもうやめたほうがいい。ここにも来るな。明日からはフタバも近寄らせないでくれ」
 雨宮は長い前髪の下で器用に片眉だけをひそめた。
「最初っからうちの問題だったんだ。あんたらのためにもこれ以上の手出しはしないでくれ」
「それ、どういう―――」
「頼むからさ」
 もはや隠す気もないらしい。明確な拒絶に雨宮は言葉を飲み込んだ。これ以上の問答は時間の浪費かと。
 代わりに別のものを彼は差し出した。
「俺が言ったことおぼえてるか?」
「どれ?」
 複数の心当たりがあることにほくそ笑みつつ、雨宮は伊達眼鏡のブリッジに中指の先を置いた。
「俺がもし怪盗団の一人だったら……」
 怪訝そうに歪められた眉と口元に笑みを深くして彼は続ける。
「誰かを≪改心≫してほしいって思う?」
 はしばらくの間沈黙した。それは質問に対する答えを探すというよりは、ただ呆然としているだけのようだった。しかしやがて我に返ると、彼は眉間にしわを寄せて律儀に熟考する。そこには先日似た問いを持ちかけられたときと同じような考えがあったに違いない、彼はすぐに答えにたどり着いて首を横に振った。
「いいや、思わない」
「そうか」
 雨宮もまた残念がるでもなくすぐに頷いてみせると、湯呑に残った茶をぐっと飲み干しておもむろに立ち上がった。
「そういうことなら帰るよ。またな、
 普段と変わらない笑みを湛えた彼に見下されて、はがっくりと肩を落とした。こちらも、言っても無駄かと一種の諦観を抱いた様子だ。
「……ああ。じゃあな、蓮」
 ただし言葉には喜びがにじみ出ている。目の前の少年がしぶとくまだ友人でいようとしているということに、感服の念を抱いてもいるようだった。
 それでも彼は決して雨宮のように『また』とは言わなかった。
 翻って雨宮も、決して、の要請に対して『わかった』とは言わなかった。

『―――それにぃ、明日からは近寄らせるなって言ったんだろ? まだ今日だからノーカンだなっ』
 スマートフォン越しに仔細を聞き終えた双葉は、ガチャガチャとやかましいキータイプ音とともにそう言った。雨宮はの家を出て徒歩で駅に向かい、そこのパン屋に併設されたイートインスペースで寛いでいる最中だ。手元にはトレイに乗ったフレンチトーストとコーヒーがある。
 ……インカムを取り付けての会話は、はた目には独り言を言っているように見えるかもしれない。不安になってこれみよがしにスマートフォンをスタンドに置いてやったが、効果はいかばかりか―――
 羞恥心と戦う彼の心境などかけらも気にかけず、双葉はマイク越しに一層元気よく打鍵音を鳴り響かせた。
『ぬっふっふ、モナもうまくやってくれたみたいだな。おしっ、書き換え完了! あとはこっちと接続……おわりっと』
「早いな」
『バックドアさえ構築できりゃこんなもんだよ。蓮もおぼえたら?』
「双葉がいるのに?」
『わたしだっていつもおまえのそばにいるわけじゃないだろ』
「そうかな」
 最近ずっと一緒じゃないか、とからかうような調子で少年が告げると、双葉はいくらか不服そうに口ごもった。
『それは、まあ、そうだけど〜……』
「双葉は一人で充分」
『……おまえわたしを冷蔵庫かなんかと捉えてないか!? 検索履歴と閲覧履歴ひっこ抜いてみんなのとこに転送するぞ!』
「やめてください」
 肩を落としておやつと夕食の中間を口に運ぶ少年の足元に、ぬるりと忍び寄るものがあった。
「まったく、ワガハイばっかりこき使いやがって、優雅におやつかよ?」
 音もなく跳び上がって口の開けられた鞄に飛び込んだのはモルガナだ。雨宮は手早くトーストと、イヤホンの半分を彼にうやうやしく差し出してやった。
「ありがとう、モルガナ」
『お役立ちだぞ! モナ!』
 画面のむこうの双葉もすぐに彼の合流に気がついて賞賛の言葉を送るが、どうも猫はそれで納得はしてくれなさそうだ。砂糖とミルク、バターがたっぷりしみ込んだやわらかなトースト生地に牙をたてつつ鼻を大きく鳴らしている。
「フンッ!」
「俺の真似か?」
『やかましいわ』
 わたしもお腹空いてきた、とまたマイクのむこうでゴソゴソやりつつ、双葉は片手間にキーボードに指を滑らせている。
 そのうち腹が膨れて怒りが収まったのだろう、モルガナが口のまわりについた砂糖を舐めつつ顔を上げる。すると彼の黄色い首輪に下げられた奇妙なチャームが鞄の金具にぶつかってかすかな金属音をたてた。ネームタグにも見えるそれは、ほんの少し前にも怪盗団が利用したハッキング用デバイスの一種だ。汎用キーボードに偽装され、USBポートに挿し込まれるとセキュリティを回避してPC内に侵入、以前用いられたものはデータの吸い上げを行ったが、今回は独自の接続回路を構築する役目を担った。これにより双葉は自室から一歩も出ずに対象端末に接続、操作権限を取得するに至っている。
「ほんとにお手柄だぞ、モナ。むふ、んちの情報セキュリティは今やわたしの支配下だ……うひひっ!」
「もう少しおしとやかに笑って」
『おーっほっほっゲえっホ、ゲホッ、うへ〜……さあ丸裸にしてやるますわよぞ〜!』
「フタバは熱でもあんのか?」
『ノリ悪いなこのやろ』
 双葉は再び手元に夢中になり、少年と猫はしばらくコーヒーとトーストに舌鼓をうった。

 ……話は少し遡る。
 この前日、雨宮以下怪盗団の面々はルブランの屋根裏に集合し、一同を取り巻く状況についての情報のすり合わせと確認、今後の振る舞いについてを話し合った。結果、行動方針は『しばらくは様子見』に定まった。これに不平を唱える団員が出ないわけではなかったが、むこう―――誰とも知れない相手の出方が分からない以上、こちらとしても動きようがないと諭されると不承不承決定に従った。
「なにかあったらすぐに連絡を取り合いましょう。リーダー、わかってるわね?」
「そろそろ許して」
 うなだれた少年に厳しい視線が突き刺さる。どうやらまだ音信不通の件に対する懲役は解かれていないらしい。
「日ごろの行いだな。君はもう少し身ぎれいにしたほうがいい」
「服はちゃんと洗ってるし風呂にも入ってる」
「そういうことを言っているんじゃない」
 じじむさいお説教はごめんだと手を振る彼に、喜多川は処置なしかと肩をすくめる。雨宮からすればお前のほうこそもう少し行動に計画性を持たせろと言いたいところではあった。
 そんなやり取りを交わす二人から少し距離をおいて、高巻は毛先を指に巻きつけつつ言う。
「んじゃ、今日は解散? そしたらさ、あの、お見舞いって行って大丈夫かな……?」
 もとより張り詰めていた屋根裏部屋の空気がますます緊張したものになる。
 の一件は今回の会議を始めるにあたり、奥村が見聞きした情報と併せて伝えられていた。彼女があとをつけていたことも含めて―――この点に関して、他の面々は驚きこそすれ誰も咎めはしなかった。また奥村は雨宮に手を引かれた一幕については秘匿した。
 議題からは逸れると脇に置かれたの状況を、高巻はずっと気にしていたのだろう。落ち着きなくつま先で床板をにじりながら悲しげにまつ毛を震わせている。
「お父さんが怪我って、無事だったにしても心配だよね。あでも、私が行ったら変かな。事故なんだっけ?」
 彼女の言葉はいつも通り、その華やかな見た目に相反して率直だ。飾り気がなく、裏もない。だからこそ他者の胸に響くものがある
 この場合は雨宮と双葉に。二人はチラと短く視線を交わすと目を伏せた。
「事故かどうかはわからないな」
 視線を追うように床に落とされた言葉に怪盗たちは揃って眉をひそめた。
 わからない、ということは、事故ではない可能性があるということか―――
「ハア!? 待てよ、保田の野郎は捕まったんだろ? あいつの後ろについてるって連中もヤバいことはしばらくできねぇって話じゃなかったのかよ!」
「竜司、声を抑えて」
 冷たささえ感じさせるほど押し殺された声は新島のものだ。窓際に立って外の狭い路地を見下ろしたままの彼女の背からは、先に大声を出した坂本以上のいらだちが垣間見えた。
 屋根裏はまた、沈黙に閉ざされる。
「……見通しが甘かったということかしら」
 新島はまだ外を睨んだままだ。その背に雨宮は首を横に振った。
「タイミングの問題だ。あの時点で入手できた情報からはあれ以上の手は打ちようがなかった」
 だから自分たちのせいではないと声として発せられるほどの度胸まではなく、雨宮は身体を預けていた椅子の背もたれにますます体重をかける。
 ……新島の言う『見通し』というのはもちろん、先にあった一連の嫌がらせに関する対処とその後の予測のことだ。『これでしばらくは安全』だとか、『大本も諦めたのかも』だとか、『手口はずっと控えめなものになる』……彼らはその口で確かにそう告げた。根拠のない言ではなかった。実働として動いていた人員が一人きりだったこと、それが下っぱもいいところの人物だったことと土地の利用価値を概算した結果を併せれば、強硬手段に出る根拠のほうが薄かった。
 翻って雨宮は事故かどうか『わからない』というが、仮にもし『事故ではない』としたら、保田の逮捕からまだひと月も経過していないうちに、少なくない量の流血を伴う行動を起こしたということになるが―――
「俺たちが想定した以上の『動機』があるということか?」
 落ち着き払った喜多川の声に、新島はやっとふり返った。
「そういうことになるわね」
 苦々しげに吐き捨てた参謀総長は腕を組んで重く唸った。
「双葉」
「アイマム」
 ビッと音がしそうなほど素早く敬礼した双葉は、背すじを伸ばして手元のラップトップをいじりはじめる。
 実情を顧みたとき、双葉は全面的に雨宮の言に同意する。見通しよりもタイミングの問題だと。の近辺迫っていた障害は順調に排除できたが、順調すぎたのだ。おかげで収集した情報をデータベース化させるどころかダンプする暇さえなかった。極めて個人的な感情で保田なる男のプライベートを暴いてはやったが、さて。
 この場は双葉の「ちょっと時間くれ」で一旦お開きということになった。
 各々が家路についた後、夜の時間を無差別に収集したデータの整理と仕分けに費やして、翌朝に彼女は雨宮とモルガナに要請した。『ちょっとんち行ってきてくれ』と。

 それで頭領と猫はここで甘いトーストをついばんでいる。
『いちおう、集めた映像やデータからおおよその筋は読めてる。ただあれが……の親父さんの件が事故かそうじゃないか、確信が欲しかった』
 薄いコーヒーで唇を湿らせる少年の耳に双葉は淡々と告げる。猫のほうも鞄の中で肉球を揉みながら同じ言葉に耳を傾けていた。
「それでどうだ? 確信とやらは得られたのかよ?」
『まだ。いま現場の映像見つけたとこ。これから確認する』
「一人で見るのか?」
 現場となれば凄惨な光景であることが予測される。一端を目の当たりにしただけで震え上がるような状況だったのだから、その全貌となると……想像して雨宮は待ったをかけた。
「すぐ戻る。それまで待機だ」
『過保護かー……まあいいけど……』
 渋々ながらも双葉は『じゃあすぐ帰ってきてよ』と了承した。

 念の為、二人は怪盗団のグループチャットにこれから事件当時の映像を確認すると、この日の簡単な経緯を添えて送信した。
 返事を待たず再生させた映像の右上には、午後五時八分と刻まれている。ちょうど雨宮らがとともに四十個ほどのボタンがついたコントローラーに悪戦苦闘していたころだ。映像のみで音声はなく、ざらついた画面には四人の従業員との父親がホウキやら掃除機を手に端から端へと行き来している。これはおそらく終業後の清掃だろう。この辺りは関係なさそうだと双葉が映像を早回しさせると、バレエダンサーのように動き回る人影は一人、また一人と減っていき、ついには無人になる。タイムスタンプは五時四十二分だ。これは雨宮がに奇妙な問いを投げたころだろう。
「そろそろかな」
 妙に平坦な双葉の声が狭い―――面積としてはそこまでではないが、モノの多さに空間が圧迫されて相対的に狭く感じられる―――彼女の部屋に重く響いた。それを耳にして雨宮はぐっと喉を鳴らす。つばを飲み込もうとしてしそこなった音だった。彼はまた同時に、双葉の部屋を目だけで見回して『こいつが寝た隙にでもまた掃除してやる』と心に固く誓っていた。
 さておき、画質の悪い映像の右下から一人の男が明かりの落とされた工場内に急ぐでもなくやってくる。の父親ではないようだったし、先の清掃にも参加していなかった人物だ。不参加というわけではなく、外の清掃を任されていたか、なんらかの事務的な処理を行っていたのだろう。
「コイツか」
 断定的な口調で、液晶ディスプレイを横から覗き込んでいたモルガナが言った。映像の中の男は今まさに、画面の左奥に位置する鍛圧機器に腕を突っ込み、ゴソゴソとなにか不審な動きをみせているところだった。
「まだわからない。双葉、これは拡大できないのか?」
「できるけどこの画質じゃな。補正噛ませればある程度は鮮明にできるけど、その前に結果を見ちゃおうよ」
 十中八九こいつが『犯人』だろうけど。
 やはり断定的な口調で言い足して、双葉は雨宮を促した。男は何某かの作業を終えたのか来た方向へ戻っていく。
 双葉の言う結果はすぐに知れた。
 一度立ち去った男はの父親を伴って戻り、例の機械の前で何事かを話し合いはじめる。深刻な話か、片方は腕を組み、もう一方も動きは少ない。けれど穏やかな雰囲気ではあるようで、笑い合うような仕草も垣間見えた。その延長線上か、やがての父親が機械に歩み寄って軽薄な様子で腕を差し込んだ。
「あ」
 誰ともなく声が上がった。
 男が踵を返すのと同時にプレートが猛烈な勢いで下がり、の父親の腕が呑み込まれるようにして消える。と同時に、男も足を縺れさせながら早足に画面から退出した。数十秒か数分か、映像は激しく見悶えるの父親を捉えたまま進み、ほどなくが飛び込んでくる。十秒ほど遅れて雨宮らもやってきて、後は直接その目で見た光景が続いた。慌てふためいたが操作盤に取り付き、奥村が駆け込んで―――
 また誰ともなく、今度はため息がもれた。双葉は無言のままキーボードを撫で、映像を巻き戻してから制止させる。いくつかのキータイプ音の後、拡大された画面を占拠するノイズが軽減され、立ち去ろうとする男の顔が鮮明に表示された。
「フン、事故ってことはなさそうだな」
 不愉快そうに振られるモルガナの尾を双葉の手が押さえつける。
のとーちゃんとのやり取り的にも従業員の一人か知り合いってかんじだな。ふんむ……」
 唸りながら彼女はまたもう一方の手でキーボードを叩いた。メインモニターに表示された男の顔はそのまま、サブモニターに項目化された文字列が浮かび上がる。
「これは?」
「顧客リスト」
 どうやら保田康広が勤めていたリフォーム業者のものらしい。軽く目を通したが、雨宮にもモルガナにも、そこから読み取れるものは多くなかった。なにぶん数が多い上に氏名と年齢、住所に電話番号がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。一つ言えることがあるとすれば、それは少年と猫が想像しているよりずっと多いということくらいだ。
 そもそも二人はこの会社を真っ当なリフォーム業者だとは思っていない。保田はどう控えめに見たってチンピラ風情だったし、その就職活動の場が刑務所というのもいかにもだ。リフォームというのもなんらかの隠語か比喩表現だろうと当たりをつけている。だからといって、じゃあ正確にはなんなの? と訊かれてると困ってしまうのだが――― 
 そこのところを正直に明かすと、双葉は特別嘲るでも呆れるでもなくすぐに答えを差し出した。
「答えそのものじゃないけどな。この一覧に名前があるひとら、全員ブラックリストに載ってるんだよ」
「なんの?」
「CICとかJICCとか全銀協……いわゆる借金のブラックリストだな」
 過度の多重債務や自己破産の申請をした場合に登録されるものだが、一度これに名が記載されてしまうと最短で五年、長ければ十年は借り入れどころかクレジットカードさえ使えなくなってしまう。どちらも暮らしようによっては不要かもしれないが、そもそもそれらが不要な人はブラックリストに載ること自体が早々起こり得ない。つまり大抵の場合、こういったリストに名前が掲載される人物というのは、元よりなんらかのキャッシングを必要としていた、あるいは現在も必要としている人物であると推察できる。
「……闇金ってことか」
「それそれ」
「ふぅん? で、それがどう繋がるってんだ?」
 いまいち要領を得ていないモルガナだけがまだ不可解そうに尾を振ろうとして、しかし双葉に押さえられたままで尻の毛をピクピクと震わせている。
 手のひらがくすぐったいと双葉は手を浮かせ、すぐにキーボードに取り付いた。すると表示されたリストのうち一行だけがハイライトされ、名前と連絡先が明らかにされる。
「この人。んとこの古株だ」
 雨宮は器用に片眉だけをひそめると、それを隠すように前髪に指を触れさせた。なるほど確かに、男の住所はの家近辺と一致する。
「この男か?」
 雨宮のいう男はメインモニターで停止され、拡大、補正をかけられ大写しにされたままの人物のことだ。双葉はそれをチラと視界の端に収めて頷いてみせた。
「そう。これで全部の点が線でつながった」
 椅子を回して身体ごとふり返った双葉の手は指を三本立てている。点は三つということだろう。リフォーム業者を隠れ蓑にしたヤミ金融、その顧客リストと信用情報機関に事故情報が掲載されていた人物、そしての父親が決して小さくない怪我を負う状況を作り出した男……
「やっぱり土地目当てなのかな」
のとーちゃんは世界的に見てもオンリーワンの技術者だから、そこを狙ってって可能性もあるけど……」
 あ、それってのハッタリや誇張じゃなかったんだ。
 至極失礼な雨宮の思考に気がついているのかいないのか、双葉はまた椅子を回してモニターに向き直った。
「だけどとーちゃんを潰し……怪我させたところで、ヤミ金に上がりがあるとも思えない。競合他社がないわけじゃないけど、そういうのとは繋がってないみたいだし、どっちかってーとのとーちゃんが自治会長をしてるってほうが関係してるかな」
「そういやそんな話だったな。ワガハイにはそのジチカイってのがよくわかんねーが……ようはあの辺り一帯の相談役みたいなもんだろ?」
「うーん、その解釈で間違ってもない、か?」
 実際には自治会長の仕事というものは多岐にわたる。地域行事の企画や運営、そのための役員の招集と諸連絡、治安維持、美化活動、これらへの地域住民の参加要請。場合によっては行政、または警察と連携し、防災や防犯対策における公費運営に関する意見交換を求められることもある―――責任と手間に対する褒章が見合わないせいか近年はなり手不足が嘆かれる土地も多い。幸いにもこの地域一帯は持ち回りで充分やっていけている様子ではある。
 それが今回、たまたま家に回ってきた。双葉の推察通りであるのなら実に運の悪いことだ。
「さて」
 雨宮は双葉の丸い頭を肘置き代わりに身を乗り出して画面を覗き込んだ。嫌がってむずかる彼女を気にも止めず画面の男を注視する。……そこに映る男の表情は、どちらかといえば悲哀に満ちているように見て取れた。確信はまだ得られていないがこちらの動機は金銭問題だろう。
「つまりこの人も使いっぱしりの一人ってことだ。金か安全と引き換えにの親父さんを痛めつけるよう指示されたってところか。リストを見るにこの人を退かしてもまた似たような境遇のヒトが送り込まれるだけかもしれないし……」
「やっぱ大元叩くのがてっとり早いよね」
 激しく頭を振って雨宮の腕を追い払い、双葉はモルガナを掴み上げると代わりにしろと言わんばかりに乱暴にその腕に押し付けた。
「ニャー……」
 嫌そうな鳴き声は聞き流される。
「やるか」
「よっしゃ」
「オマエら、ちゃんと皆に相談しろよ?」
 忠言のほうは耳に逆らうことなく受け入れられた。
「……怒られるかな」
「真もピキッてたし大丈夫じゃね? たぶん……」
 ただし二人の姿勢はひどく消極的ではあった。