07:Begins at Night

 数十分か数時間か、時間の感覚を忘れそうになるほどの静寂のなか、雨宮たちは人気のない病院のロビーで言葉もなくソファの上に腰を落ち着けていた。ガラス張りのむこうは駐車場とバス停のロータリーになっているようだが、とっぷり暮れた中に車の姿はあまりない。時折ライトが横切り、そのまま敷地外に消えていく程度だ。
 警察とレスキュー、救急が到着してすぐの父親はプレス機から解放され、この病院に運び込まれた。雨宮たちは彼らを放って家に帰ることもできず、追ってこちらへやってきたものの、緊急手術は未だ続けられている状態だった。現場では見るなと救急隊員たちに遠ざけられたため直接目にしてはいないが、あの出血と状況だ。処置には時間がかかるのだろう。
 それでもやはり皆、帰ろうとはなかなか言い出せなかった。
 第一にまず疲労がある。体力的には消耗は無いが、精神面は誰もが大幅に削られ、まだ回復しきっていない。
 第二に、のことが気がかりだったからだ。付き添いと輸血のためと救急車に同乗したきりだが、その顔色といったら―――
 雨宮はチラと横に座ってぼんやりと外の灯りを眺める奥村に目をやった。
 ……あんな顔は誰にも二度とさせたくないと思っていたところだったのに。
 意識を失った父親を見つめるの顔は、液晶を保護するゴリラガラス越しに映った男……血を吐いて崩れ落ちた父を目撃した奥村とそっくりだった。
 その彼女はどうしてあの場に居合わせたのだろう。父の葬儀や家宅捜索、事情聴取は済んだのだろうか。いま、どんな心地で自分の隣に座っているんだろう。
 雨宮はひりつく喉を指先でさすった。院内は空調が効かされ、心地よい気温に保たれているはずだというのに、じっとりとしたいやな汗が指の腹にねばついた感触を返した。
 誰もなにも言うことはできなかった。疲労よりもなによりも、沈黙すべきという思い込みがそこにはあった。
 がロビーに降りてやって来たのは重い静寂が一時間も続いた後のことだった。彼は雨宮たちが居るとは思っていなかったのか、ロビーの奥に設けられた自販機のコーナーにまっすぐ向かい、スポーツドリンクらしきペットボトルを手にぶら下げてやっと雨宮たちのくたびれきった顔に気がついた。
「蓮、フタバ、それに奥村さん」
 モルガナが雨宮の鞄の中でウトウトとしていることには気が付かないまま、彼は大股になって一同に走り寄った。
 その顔色はまだ青いが、それは輸血のために血を抜かれたからだろう。表情は明るかった。
「いてくれたんだ。ありがとう」
「や、べつに……おまえのためじゃねーし……」
 双葉はズルズルと椅子からすべり落ちながら奇妙な強がりを返した。彼のためでなければ他にいったい誰のためだというのか。少なくとも名前さえ知らない、今日初めて顔を見た彼の父親のためではないだろう。
 は苦笑して、それからやっと皆が知りたがっていた、聞きたいと願っていた言葉を告げた。
「親父、一命は取り留めたって」
 雨宮は自身も気が付かないうちに浮かしかけていた腰をドスンと座面に戻した。衝撃に目覚めたモルガナが驚いてギャッと鳴き、それでも彼の存在に気がついたようだ。
 ―――院内への動物の連れ込みは原則禁止のはずだけど……この際、それを指摘するのは無粋というものだろう。彼は口を閉ざした。
 代わりに奥村が感嘆の息とともに述べる。
「そっか、よかったぁ……」
 一時間か二時間ぶりに聞く彼女の声は少しかすれていた。ほんの数時間前、皆をさんざん怒鳴りつけた影響がまだ残っているのだ。
 最も多く彼女にそれをぶつけられたはギュッと唇を噛むと、目を細めた。目尻にじわじわとにじむものがあることには皆すぐに気がついた。
 その目が奥村の、繊細なチュールレースの折り重なったワンピースを見つめていることにも。
 彼女のきれいなワンピースにはところどころに赤みがかった黒のしみがこびりついていた。ひざの上には足元を隠すようにカーディガンが掛けられているが、それにも点々と赤黒いまだら模様ができてしまっている。きちんと揃えて置かれた手にも、よく手入れされた爪にも、それらはまだ落としきれずに付着している。靴は色合いの関係で目立ちこそしないが、エナメル素材に本来あるべき艶はすっかり失われてしまっていた。
 は、まず真っ先にと彼女に頭を下げた。膝に自らの額を擦り付けようとでもしているのかというくらいに深く、心底からの感謝の念を籠めて。
「奥村さん、ありがとうございました!」
「えっ!? わ、私はなにも……」
 声はある程度潜められていたが、人のいないロビーにはよく響き、その反響にこそ驚いて奥村は肩を震わせている。
「そんなことないです。あなたがいなかったら、俺はなんにも考えずに親父にトドメ刺してました。親父が助かったのはあなたが的確な処置をしてくれたからです。本当に、ありがとうございました……!」
 頭を下げたままそう告げる彼に、奥村は顔を見せてと促した。それじゃ話すほうも聞くほうもやりづらいから、と。
 幸いなことにはすぐ素直に頭を上げた。瞳はまだ潤んでいたが、泣き出すほどではなさそうだった。
 泣き出しそうなのは奥村のほうだ。
「……あなたのお父さまがご無事で、本当によかった。助けることができて、命をつなぎ止められて、本当に……」
 震える舌がいよいよもつれ、言葉を吐き出せなくなると同時に彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「お、奥村さん……!?」
「あれ……? おかしいね、ふふっ、嬉しいはずなのに……」
 汚れた手で拭うこともできず、彼女はただ困り顔で頬をつたい、顎から滴り落ちるものを見つめていた。
「ご、ごめんなさいね。ふふふっ、変なの。どうしてかな、アハハ……笑いが、止まらない……」
 涙だって止まる気配はないが、彼女はそのことにはまるで気がついていないかのように眉尻を下げたまま笑い続けた。
「ハル、しっかりしろよ」
 モルガナが鞄から抜け出し、あたたかな毛皮をすり寄せてやっても彼女は回復しなかった。
 喜びのあまりにということであれば、それは別段奇妙なことでもないだろう。実際双葉などは一命を取り留めたという報に目に涙を浮かべていたし、先の強がりはそれを隠すためだった。
 だけど奥村は……
 これもやはり、ただ狼狽するばかりのには知り得ないことだが、怪盗団の面々はよく解ってしまっている。
 彼女が本当に助けたかったのはこの少年の父親ではなく、自らの父親に違いない。きれいな服と手と、ふわふわの髪やピカピカの靴を血で汚してでも……
 たった今ここで人ひとりの命を繋ぎ止められたという喜びと、たった今ここで成し遂げられたことがどうしてあのときできなかったのかという自責の念や後悔と、それに伴う逆恨みめいたへの感情が入り混じり、それをどう扱ったらいいのか彼女自身も解らないでいるのだろう。
 誰もが声をかけそびれて沈黙し、こぼれ落ちるしずくを見つめるだけになっているなか、ただ一人雨宮だけが動いて彼女に手を伸ばした。
「あっ……」
 細く白い手首を掴んだ彼に、奥村の喉から驚きに満ちた細い声が上がった。彼女のみならずモルガナも双葉も、も驚愕に目を見開いて硬直する。ただしそこに存在する想いはそれぞれ違っている様子でもあった。
「飲み物買ってくるから手伝ってくれ。みんなはそこで待ってて」
 白々しくそう言った雨宮はそれらいずれをも視界の端に追いやって少女の手をぐいぐいと引き、皆の前から彼女を連れ去ろうとしている。それが強引なものとならないのは奥村が驚きつつも立ち上がり、引かれるがまま彼に従っているからからだ。
「うっ、うん……お手伝い、するね……」
 奥村も彼の意図を察したのか、それとも本心から手伝いを受け入れたのか、半ば引きずられるかっこうで彼の後に続いた。その足はここからでも見える自動販売機のコーナーにではなく、薄暗い廊下の奥へ向かっていく。一応そちらにも併設されたカフェレストランとコンビニがあるのだが、やはり雨宮の目的は飲み物などではないのだろう。
 実際二人は十分経っても二十分経っても戻ってはこなかった。
 置いてきぼりにされてしまったはモルガナと双葉を放っておくこともできず、雨宮が座っていた席に腰を下ろして少しの休憩を取ることにしたらしい。大人しく鞄の中に戻ったモルガナを不思議そうに見つめつつ、言葉を探して指先をこすり合わせた。
 双葉も彼女なりに思うところがあるのだろう。唇を尖らせ、行儀悪く足をぶらぶらとさせて、入口正面に掛けられた時計を見ては唸り声をあげている。
「のどかわいたなー」
「……だな」
「ニャー……」
 さらに五分待っても雨宮と奥村は戻ってこなかった。
 奇妙な沈黙とただ過ぎるばかりの時間に想像を膨らませたのか、がぽつりとこぼす。
「あの二人って付き合ってるの……?」
「え? あ、あー……しらん……でもそういうんじゃ……ない、と、おもう、けど……」
「どっち?」
「ない。……たぶん」
「ふーん……でもそっちのほうがすごいよね。見た? フタバあれできる?」
「いや無理。マンガかよあいつ……」
「そうね。雨宮クンってすごいのね……」
 二人は、同時にため息をついた。泣いてる女の子―――双葉の場合は男の子になるのだろうか―――の手を引っ張って二人きりになるだなんて、双葉にしてもにしても、想像するだけで震えがくるような状況だった。憧れるとかおぞましいという意味ではなく、その後どういった振る舞いをすべきかまったく未知の領域であるという意味で、恐ろしかった。
 二人の間に挟まれたモルガナもまた想像してみる。大好きなあのコが泣いているところにあって、ワガハイは、ワガハイは……猫は己の肉球をじっと眺めて鞄の底にへばりついた。引っ張ろうとする時点で今の彼には不可能だった。けれどもしそういう状況になったとしたら、懸命になる愛らしい姿はそれだけで『泣いてるあのコ』の心を充分慰めるだろう。ただしモルガナはそれこそが気に食わない。そういうことじゃないんだ。
 また五分が経過して、それではやっと本来言うべき言葉を告げる覚悟が決まったのか、向き直るでも頭を下げるでもなく、ただ遠くのかすかな灯りを見つめて小さく言った。
「……フタバも、ありがとう。モルガナも……」
 また助けられてしまったと恥じ入る様子を見せる彼にゆらゆらと手と尾を振って、双葉とモルガナは首もゆらゆらと揺らした。
「んー……」
「ニャー……」
 喉からは言葉にならないうめき声。蓄積した疲労と適温に保たれた空気、それに静寂の中小さく聞こえる機械音が眠りを誘ったのだろう。二人はウトウトと船をこぎ始めているところだった。
 タイミングが悪かったなと苦笑して、はなるべく音を立てないようそっと立ち上がった。
「タクシー呼ぼうか?」
「いらない……」
「いらニャい……」
「そうか。そうだな。でも家に連絡はしなきゃだろ」
 もういい時間だぞと優しくかけられた声に双葉はパチッと大きく目を開くと、振り子のように足を一度大きく上げてから勢い込んで立ち上がった。
「んっ!!」
「うおっ!?」
「んニャッ!?」
 男二人が驚くのも構わず、双葉は慌てた様子で腰に下げたベルトポーチを漁り始める。
「そうじろうに遅くても七時には帰るっていったんだった……!」
「九時ですよ」
「やべー! でんわ! れんらく!!」
「院内での携帯電話の使用と大声はご遠慮くださーい」
「うわっ、うわわっ、ひええ……そーじろーからの着歴やばぇ……」
 慌ただしくスマートフォンを操作する彼女のそばには立ち上がって近寄った。
「貸して」
「あえ」
「俺が事情を説明するよ」
 差し出された大きな手に双葉は目を白黒させながら挙動不審な動きをみせる。
「えっ、えっ、でも……」
「おまえがいなくても親父は死んでた。そのこと伝えさせてよ」
 借りを返すってわけでもないし、こんなことでチャラになるとも思わないけど、せめてこれくらいはさせて欲しい。
 そう乞われて双葉は恐る恐る彼に着信履歴画面のままのスマートフォンを渡した。
 彼の指はすぐに発信ボタンに触れる。幸いロビーは通話可能エリアに当たるから、そうすることに問題はなかった。ほどなく流れ始めたコール音は、スピーカーモードにしているでもないというのに静かなロビー中に響き渡った。
 それは双葉にとって死の宣告に近いものだ。
 受話口からあふれる惣治郎の怒号も。
『双葉か!? この不良娘、こんな時間までどこほっつき歩いて……!』
「すみません、ともうします。はじめまして」
 けれどにとってはどうということもないのだろう。彼は平然とした様子で名乗ると、必要もないのに頭を下げた。
 声変わりを済ませた低く太い声だ。惣治郎の衝撃たるや、雷に打たれたどころでは済まされない。
『ンあっ!? オトコっ……まさか……!?』
「あ、違います。今フタバさんと一緒にいて」
『あ゛あ゛っ!?』
 双葉は、惣治郎の恫喝めいた唸り声と、から『フタバさん』と呼ばれたことにそれぞれ震え上がった。
 どちらも無視しては淡々とこの日にあったことを告げる。
「実は今日、自分の父が事故に巻き込まれまして……」
 説明には少し時間がいったが、少年が心からの感謝を述べると惣治郎もそれが事実だと理解したのだろう。気遣わしげな声が返りはじめる。
『そうか……そちらさんも大変だったみたいだな。ああその……お父さんのご容態は?』
「今は手術も終わって落ち着いています。本当に、フタバさんと蓮と、お友だちのおかげです」
 重ねて告げられる謝辞に男はどことなく誇らしげにしながら応えた。
『ああ……双葉と蓮はそこにいんのかい?』
「蓮は飲み物を買いに行ってくれてます。フタバならここに」
『代わってもらっていいか?』
「はい。……あの、差し出がましいかもですが、あんまり叱らないでやってください」
 はじめて声を震わせた少年に回線の向こうの惣治郎は安堵の息をもらしていた。どうやら本当に、心配するような相手じゃなさそうだと。
『わかってるよ。そういう事情なら仕方がねぇさ』
「ありがとうございます……じゃ、代わりますね。ほら、フタバ」
 大丈夫だからと返された己の持ち物をこわごわ受け取り、双葉は極めて慎重に耳を押し当てた。
「ん、んー……そ、そーじろー……?」
『双葉』
「ひゃい」
 はああ言ったが、こういうやつだ。海千山千の惣治郎を前にしてはコロッと騙されていて、実はやっぱり怒っているかもしれない―――
 勝手気ままな想像力で恐怖心をふくらませる双葉の耳に、しかし穏やかな男の声が触れる。
『よくやったな』
「おっ……お、おお……」
『なんだ、その腑抜けた声はよ?』
「……怒ってない?」
『まあちったぁな。だがまあ、人を助けたんだ。今日は折れるさ。……今日はな?』
 実際連絡もせず帰宅を遅れさせた娘に対する怒りは完全にすすげてはいないのだろう。忘れず釘を刺してから、惣治郎はまた優しげな声を発した。
『まだ帰れなさそうか? 迎えに行くからよ、病院の場所送ってくれ』
「うん」
『飯は?』
「まだ」
『他には?』
「汚れちゃったからおふろー……」
『あいよ。支度終えたらすぐ出るからな』
「うん、わかった」
 脱力して椅子に戻って、双葉はそっとを見上げた。通話はもう切られているというのに、ポーチにスマートフォンを戻す手がプルプルしていることにも、見上げる双葉がいかにもくたびれきった下手くそな笑みを浮かべているのにもは吹き出してしまう。
「な、なんだよ。なんで笑うんだよ! やめーや!」
「くくっ、だってフタバ、変な顔してんだもん……」
「うるさいっ」
「ごめんごめん」
 おざなりな謝罪に双葉は頬を膨らませる。
「ほんと、ごめんって」
「うー……まあ、いい。許しちゃる。代打してくれたしな」
 フンと鼻を鳴らして足を伸ばす彼女の隣にまた腰を落ち着けて、はゆるく首を横に振った。
 そんなことはなんの代えにならないと彼はかすれた声で言う。
「この間のことも、今も……お前がしてくれたことは、俺がなにかした程度じゃもう返せそうもない」
「……べつに、そんな大それたことしたおぼえはないぞ?」
「そっちはそうでもこっちは違うんだよ。本当に―――」
 はひざの上の拳を固く握り、向き直って真剣な瞳で彼女を見つめた。
「ありがとう、フタバ。俺の親父の命を救ってくれて」
 双葉は軽く目を見開いて感嘆の息をもらした。
 ―――そうか、わたしは本当に、『トモダチ』を助けることができるようになったんだ。誰かの命を救うことも。
 彼女の胸に過ぎったのは明確な目標だった。かつてまだ母が健在だったころにつき続けた一つの嘘の記憶でもあった。
 今なら……今度こそ、臆することなくあの子に接することが、助けるための行動さえもできるかもしれない。
 閃きと確信に、双葉はこの上なく嬉しそうに微笑んだ。

 同じころ、ようやく涙も止まり、しゃくりあげる喉と腹も落ち着いた奥村の手に、よく冷やされたペットボトルのミルクティーが手渡されていた。
 もちろんそれを渡したのは雨宮だ。彼は人気のない廊下の奥へ奥へ進み、深夜外来の受付の手前、閉店時間も過ぎて非常灯のみが輝くカフェレストランに奥村を押し込んでずっと、彼女のそばに寄り添っていた。
 ただ「春が嫌じゃなければそばに居る」とだけ告げて。
 奥村はなにも応えなかったが、自由になった手で彼のシャツの裾を掴んだ。迷子になった小さな子どもが縋るものを求めるかのように弱々しく。
 それで、雨宮はただ黙って彼女のそばに居続けた。
 やっと涙が止まったのを見て、少し待ってと離れたのもほんの一、二分だ。戻ってきたとき彼は少し息を切らせていたから、薄暗い廊下を走ってコンビニへ飛び込み、そこでこのミルクティーを購入してきたのだろう。とんでもない悪行だった。
 奥村はすんと鼻をすすりながら、渡されたボトルの蓋をねじって開け、一口をゆっくりと飲み込んだ。
 ―――甘い。
 普通冷たくなると甘味は舌から遠ざかるはずだが、だというのにこれほどの甘さを感じるのは、それだけ砂糖が含まれているからか、あるいは身体が甘さを求めているということなのか……
 思考を巡らせながら、奥村はもう一口を飲み込んだ。鼻に抜けるかすかな紅茶葉の安っぽい香りも今は心地よかった。
 ほうと息をついた彼女が本当に落ち着いたのだと雨宮は見たのだろう。彼もまた安堵の息をもらして自分用の緑茶を口に運んだ。
「……ごめんなさい。恥ずかしいところを見せちゃったね」
「別に恥ずかしくなんてない」
 役得だといたずらっぽく笑う瞳には気遣いの色がありありと覗えた。
 奥村はそれにくすっと小さく笑い、己がごく普段どおりに笑えることに気がついてまた笑み崩れた。
「もう大丈夫みたい。ありがとう。その、そばに居てくれて……」
 雨宮は首を左右に振った。
「大したことはしてない」
「あなたにとってはそうでも、私には……大変なことなの」
「……そうなのか?」
 ふうん、と解っているんだか解っていないんだか、よくわからない反応を返して、雨宮はまた茶をすすった。
 奥村もペットボトルを傾け、二人はほんの少しの間沈黙する。一分にも満たない時間だったが、奥村にはひどく長く感じられた。
 やがて雨宮はおもむろに切り出した。
「後をつけてただろ」
 唐突な切り口に奥村は幾度かまばたきをしてから眉尻を下げる。
「やっぱり、バレてたんだね」
「気がついたのはモルガナだ。それに、春だとは分からなかった」
 見事だったと賞賛する彼に、奥村はやはり困り顔で応えた。
「ごめんなさい」
「ん?」
「その、後をつけたりして―――」
 言葉の途中で彼女は小さく首を振った。言いたいことは、謝りたいのはそんなことじゃない、と。
「……そうしたのは、あなたたちを疑っていたからなの。だからね、ごめんなさい」
 雨宮もまた苦々しく笑った。彼女の言う疑いとは、おそらく先にへ投げた問いかけと同じものだろう。
 彼女の父親の命を奪ったのは『怪盗団』なのか―――
 当然として、それは違っている。彼には虚勢に似た確信があった。けれど同時に仲間たちが不安を覚えるのも、奥村が自分たちに疑いの目を向けることも理解できる。
 それも当然のことだと。
「……むしろその言い方だと疑いが晴れたように聞こえる。どうして?」
 廊下の先の深夜受付からは泥酔しているらしい男のうめき声が響いている。これは二人にとっては幸いだった。こうやって閉店後の店舗内に留まって他聞をはばかる話をするのには好都合だ。おかげで声を潜める必要がない。
 奥村ははっきりとした口調で告げる。
「だって、あんなに動揺していたんだもの。人を殺せるような―――お父さまをあんなふうにしてしまう人が、たったあれだけのことにうろたえるなんて、おかしいよね?」
 彼女の言は間違いなく人に聞かせてよい類のものではなかった。
「……あれだけ、ね」
 皮肉っぽく笑ってみせるものの、雨宮の腰はどことなく引けている。奥村はそれこそがおかしいと言わんばかりに喉を鳴らした。
「ふふっ、あれだけ、だよ。だって助かったんだもの」
「……そうだな」
 なんにしたっての父親は死なずに済んだ。それは本当に幸いなことだ。予後の具合も気にかかるが、最悪の事態だけは退けられた。
 その事実を噛み締めて、雨宮は細く長く息を吐き出した。奥村は今度こそはと追跡も疑心も捨て置いて手と服を汚したが、それは雨宮にしたって同じことだ。今度こそはと彼なりに手を尽くし、それでこの結果なのだから、一先ずは及第点といったところだろう。
 けれどこれで終わりとは言い切れない。気にかかることはまだあった。
 あの時、現場には駆けつけたと彼の父親以外に人の姿は見られなかった。おそらく工員はすでに全員退社したところだったのだろう。であれば、あれは事故ということになるのだろうか?
 なにかが引っかかっているのだが、そのなにかが解らない。
 うーんと唸り、雨宮は違和感の正体を掴もうと記憶と知識をあさり始める。プレス機に挟まれた腕、そこから滴る血を目に顔面蒼白のに、双葉は『あのとき』なんと言ったのだっけ……
「ねえ―――」
 思考に奥村のか細い声が割って入った。
 顔を上げると、彼女がまた瞳に不安を滲ませている姿が目に映る。雨宮はすぐに思考を放り投げて彼女に向き直った。
「一つだけ確認させてほしいの」
「なんだ?」
「校長……秀尽学園の校長先生に、予告状を出した?」
 修学旅行から帰国してすぐに聞かされた衝撃的な一件のことだとすぐ理解して、雨宮は首を左右に振った。
「いいや。そもそもあの件は俺たちにとっても寝耳に水だった」
「うん、そうだね。それにその時、あなたはハワイで私に声を……ナンパ、してたもんね?」
「あれは、その」
 違うんだ、と訴えようとするものの、しかし事実そのとおりであるから否定もしきれず、少年は大きく肩を落とした。
 そんな彼の様子に笑いを誘われたのだろう、奥村はまた小さく笑う。けれどすぐに表情を引き締め直すと、硬い声で告げる。
「……私の家にも公安の捜査が入ったわ。そのとき、現場の指揮をとっていた方が言っていたの、校長室に予告状が隠されていたって」
 雨宮は眉をひそめた。記憶のどこを探ったってそんな覚えはなかったし、そもそも怪盗団には秀尽学園の校長をターゲットにする理由がない。個人的には嫌味を言われた気もするが、その程度でいちいち改心など行わない。
「身に覚えがない」
 断然として答えた彼に、奥村もまた確信とともに頷いてみせた。
「ええ。そもそも校長先生の場合、私たちはハワイにいたんだもの。犯行自体が不可能だわ」
「それならどうして―――」
 動揺を隠そうと口元を手で覆う彼の横顔を見つめながら、奥村は静かに彼の言葉を遮った。
「皆を集めるべきだと思う。……私も、作戦会議に参加させてくれる?」
「当たり前だ。春はもう俺たちの仲間だろ」
「うん―――ありがとう……」
 一瞬たりとも迷わず返した彼の瞳と声の力強さに、奥村は少しだけ照れくさそうに目を伏せた。その手は先ほど掴まれた己の手首をさすっている。
 痛むわけではなかったが、今も妙な熱をもってじわじわなにかを訴えかけるそこに、彼女は落ち着きなく汚れたつま先をこすり合わせた。
 ライバルが増えたぞ、とこの場にはいない誰かと誰かと誰か……に伝えてやれる存在もまた、この場には不在だ。

 双葉たちを迎えに来た惣治郎は、奥村のみならず少年までもを送り届けると申し出た。まったく心配りの行き届いたひとだと感心半分、恐縮半分のは一度は遠慮しようとしたのだが、押し切られて結局は車中に収まった。
「すみません、なにからなにまでご面倒をおかけしてしまって……」
 位置の関係や入院の手続きに諸準備と忙しいだろう彼の家がまず行き先に選ばれたことも関係しているのか、道中からはじまり玄関先で止まった車から降りても彼は頭を下げ続けていた。
「もーいいって。しつこいぞ」
 あまりの汗顔ぶりに双葉はうんざりだと彼を追い払うように手を振っている。雨宮もモルガナも、奥村も苦笑気味だ。肝心の惣治郎は『なかなか躾がなっているじゃないか』と感心し返している様子だが、しかしどことなくもういいよと言いたげだった。
 けれど口にはせず、男はまたぞろ親切心を覗かせる。
「このあとまた病院にとんぼ返りだろ。なんならまた来てやってもいいが……」
 とんでもない、とは両手を大げさなくらいに振った。
「そこまでお世話になるわけにはいきません。お気持ちだけいただきます」
 丁寧に断って、は一歩彼らから遠ざかった。それを見て惣治郎もこれ以上のお節介は不要と汲んだのだろう、頷いて手を引いてやった。
「まあなんだ……手続きだなんだいろいろ手間かかるよな、入院ってだけでよ。だからってわけじゃねぇが、余裕ができたらうちに遊びにきなよ」
 飯くらいは出してやると告げて、惣治郎は寂しくなりつつある頭をかいた。少年のほうもそれが遠回しながらの援助の申し出だと、これ以上の遠慮はかえってこの男の面子を潰しかねないと理解しているのだろう。やっと少しだけ肩から力を抜いて首を縦に振った。
「はい、ありがとうございます。きっとそうさせてもらいますね。今日はお世話になりました」
「ああ―――気ぃつけなよ」
「はい!」
 落ち着きなくハンドルを指先で叩く壮年の男の横顔に、は時間帯をはばからない元気な返事を返した。助手席に収まった双葉と後部座席の雨宮らはそんな惣治郎のやや湾曲した優しさに相好を崩している―――
 やがて一言二言おやすみのあいさつを交わして、車は閑静な工場町を遠ざかっていった。
 一人残されたは鍵も掛けずに出ていった家の中に入ると、火の元や保険証の確認、着替え等の用意―――そもそも自身の身繕いさえもせず、まっすぐに工場のほうへ足を運んだ。病院で父の安否を確認した直後から気にかかっていたことがあったのだ。
 ―――工場の電気、落としてないよな?
 今のところ実例はないが、深夜帯まで重低音やノイズがあっては近所迷惑になるだろう。こういうことがあったとはいえ……
 早足になって踏み込んだ工場は、警察の現場検証もとっくに終わっているらしく人っ子一人おらず、危惧していたとおりまだモーターの唸る音が低く響いている。主電源が入れられたままなのだと、彼は工場のシャッターをくぐったすぐ先、頑丈なコンテナハウスのほうへ足を運んだ。内部は小規模なサーバールームめいた様相になっている。メタルラックに所狭しと並べられたボックスからは色とりどりのコードが伸び、電源や他の箱と繋がり合っている。
 そこは経理処理等を行う事務所であると同時に、工場内の大小様々な機器の電源を一括管理する場でもあった。
 最奥に置かれたPCに手を触れると、ずっとスリープ状態のまま放置されていたのだろうそれが眠りから目覚めてパッと彼の顔を青白く照らし出した。
 ―――機器の操作を行う端末だ。本来であれば彼の父親と一部の工員以外は認証コードさえ知らされず、触れたところでログイン画面で弾かれてしまうはずだった。しかし青い背景にそっけない操作パネルを表示させたままになっているところを見るに、誰かが触れたあとログアウトせずそのまま放置してしまったのだろう。
 は苦笑してせめて主電源のオフと端末のシャットダウンくらいはしておこうとマウスを動かした。
「あれ―――」
 声を出して動きを止めた彼の目はモニターの下部、ログインユーザー名に定められている。
 ……てっきり親父が例の機械を点検かなにかのために動かして、それでそのままになっていると思っていのに。
 そこにはoomiとローマ字が記されている。心当たりのある名前だった。それもそうだ、オオミ―――大見藤彦は長年彼の父親のもと、それこそこの少年の物心がつくより前から工場で働く古株の一人だ。彼からすれば血の繋がらないもう一人の父親か、叔父のような存在だった。
 彼は幾度かまばたきをくり返してからそこを離れ、メタルラックのうちの一つの前で足を止めるとおもむろにしゃがみ、最下段に置かれたスチールボックスを引っ張り出した。中にはブラウン管と一体化した古いレコーダーが収められている。これは先の保田康広による嫌がらせが続いていたころ―――正確に言えばあの男に殴られ、殴り返した際にぶつけられた言葉……彼の身上をすっかり把握しているかのようなこれに警戒するために用意した監視カメラシステムだ。父親にも告げず工場内を撮影し、そのまま忘れていたのだった。
 その場にあぐらをかいて箱の中をいじくり回すこと数分、彼の眼にほんの数時間前の『事故』の状況が映り込んだ。
「……なんで……」
 うめき声同然の声は工場から響く駆動音に半ば埋まり、ほとんど言葉として意味をなしていなかった。
 背を丸め、両手で顔を覆った彼は、この日の疲れもあるのだろう、しばらくその場を動くこともかなわず、夜の間じゅうずっとそうしてうずくまっていた。