06:Party Starter

 身の回りの問題も片付き、中間試験もやっと終わりと、がしばらく自らに禁じていたPCの電源を入れてすぐに双葉は反応した。オンラインの表示に変わるところを目撃したのか、それとも待っていたりしたのかもしれない。普段ならから声をかけることのほうが多いから、彼は少しだけ驚いて通話の打診を受け入れた。
 そして耳にした双葉の声によってひどく驚かされる。
「フタバ……? どうしたのよ。なんか元気ないっていうか……声ヤバいよ?」
 問いかけに彼女は少しの間をおいて、
「あ゛ー……ちょっと寝てなくてさー……」とくたびれた様子を隠しもせずこたえた。
「えー? あんま無理するなよ。どうする? 今日はやめとく?」
 なにがあったのかを訊かないのは二人の間のお約束だった。特にそうしようと取り決めたわけではなく、互いのネット上における処世術がそうさせていたというだけだ。
 このときも双葉はそれを受け、また自ら語ることもせず、ただ口内で言葉をこねくり回してうめき声を発した。
「ん……ん、あー……あの……」
「うん」
 どうしたい? と問うの声は双葉をよく落ち着かせた。彼女は深呼吸のための長いブレス音をマイク越しに寄越して、それからまだためらいがちに求めた。
「あのさ……顔、見たい」
 にとって意外にすぎる要請だった。双葉自身にしても、よもや己がこんなことを誰かに求める日が来るなどと思ってもみていなかった。ただ彼がすぐにイエスと答えることだけははじめから、どちらともが理解していた。
「わかった、いいよ。カメラつけるからちょい待ち―――」
「い、今じゃなくて。……直接会って」
 は再び驚いて言葉を失う。
 ―――なんだか急にかわいいこと言い出したなこいつ。
 胸がやたらと不規則に跳ねていることを自覚しつつ、しかし彼は見えていないのをいいことに顔中を渋く歪ませた。
 ―――でも、『そういう』んじゃないんだろうな。
 そんなふうに思われていることは双葉とて承知の上だろう。それを見据えた上での要求でもあった。勘違いをするような相手であれば、彼女はそもそもこんなことを願ったりしていなかっただろう。
 固まっていた手をモニターの前でぶらぶらと揺らしながら、は取り繕って応えた。
「わかった。いつでもいいよ、そっちに予定合わせるから。またうちくる? あ、そうだ。前言ってた鉄騎のコントローラー手に入ったよ」
 ついでにと試験前から告げようと思っていたことを伝えると、マイクのむこうでガタンと派手な音がする。
「ほんとっ?」
 声もまた。歓喜に華々しく彩られている。
「うん、やっとだよ。じゃあ用意しとくから……」
 会話は金曜日の夜のことだったから、翌日の土曜日、午後にと決まるのは早かった。

 待ち合わせはの家の最寄り駅で、彼が学校から直接そこへ乗り付けるころにはもう二人と一匹は揃っていた。
「よっす、なんか久しぶり」
 軽く手を上げて笑顔をみせる彼の正面、多くはないが人の往来の絶えない駅前のロータリーで少しだけ居心地悪そうにする双葉のそばには、当然みたいな顔をして雨宮が立っていた。もちろん、その鞄の中からはくつ下を履いたような柄の黒猫が顔をのぞかせている。
 そのことを咎めるでも怪訝そうにするでもなく、彼こそがそれを当然と受け止めているだろう姿に雨宮は口元を緩ませた。双葉はともかく、久しぶりは己と鞄の中へ向けられた言だろうとして。
「こっちはいろいろあってね」
 あれからどうだ、と言外に尋ねると、もまた軽く肩をすくめてそれを答えとした。問題なし、ということだ。口はまた全く別の話題に触れる。
「ああ、そっちも中間あった?」
「あった」
「アハハ、余裕そうな顔」
 目を細くして笑う姿にもそろそろ見慣れてきた。体格のせいかどちらかといえば威圧感を人に与えかねない見た目をしているくせに、糸のようになった目は人懐っこい大型犬や熊のようだ。それは見る者に『こいつの傍なら安全だ』という類の安心感を抱かせる。
 だというのに双葉はまだまだ通りかかる人の姿が気になるらしい。それとも別件が心に引っかかっているのか―――
 人ひとりが死んだとあっては誰だって平常ではいられまい。ましてそれが自らのしくじりによって招いた結果だとしたら。
 もちろん雨宮も鞄の中のモルガナも、自分たちがとは思っていない。それよりも考慮すべきは以前から存在の示唆されていた『認知世界を悪用している』個人もしくは集団であって、世間が謳うように自分たち……心の怪盗団が、悪辣な意志によって殺人など犯すはずもない。それは揺るぎない事実だ。
 だから堂々としていろとに見えない角度から背中をごくごく軽く叩いてやると、双葉はハッと息を呑んで大きな瞳をやっと彼のほうへ向けた。
「フタバもひさびさ」
「……そうでもない」
 昨日だって話をしたと告げる双葉に雨宮とは顔を見合わせて笑いあった。素直にあいさつの一つもできないのかと、どことなく苦々しく。
「なんだよおまえら。その顔やめろ」
「生まれつきなんで無理です」
 ほら行くよと先導するの後を双葉は不満げについていった。
 そのさらに後を雨宮と、彼の鞄の中のモルガナが追うが、しかし一人と一匹はまばらな人通りの中でふと足を止める。
「……どうした?」
 問いかけたのは二本足のほうだった。尖った耳を持つほうは鞄から頭を出してはその耳をアンテナのように前へ後ろへ向けてピクピクと震わせている。どうもなにかあるらしいと察した雨宮もそばにあったコンビニのガラスを鏡面代わりに背後を確認するが、あるのは見知らぬ人々の姿ばかりだ。この場にあって不自然なものは見当たらない。
 あるのは心当たりだけだ。
「監視か」
 低くささやきかけると、モルガナはかすかに鼻を鳴らしてみせた。
「いや、今のところそういうのは感じられねぇな。ただ……」
 どこかで嗅いだことのあるニオイがすると言って、モルガナは前足で鼻先を掻いた。
 この駅を利用するのは今日が三度目だ。初回はのバイクで直接家に向かったから、作戦実行のための先々週とその報告のために先週、そして今日ということになる。こちらにはまだ慣れたとは言い難いが、それでも見た目に大きな変化は窺えない。
 じゃあなんだと言われれば、それが判らない。雨宮とモルガナはうーんと唸ったが、先を行く二人が立ち止まって不思議そうにしているのを見て足を早めた。
「本当に監視や追跡じゃないんだな?」
「それは間違いないぜ。視線やニオイは気になるが、そういうんじゃねぇ」
 ―――そういうことならば今は泳がせておこう。
 雨宮はすぐに二人に並んで歩きはじめた。

 しばらくはいつもどおりだった。ゲームをして、お菓子を食べて、とりとめも益体もないバカ話に花を咲かせる。
 雨宮は双葉のお守り兼護衛兼お目付け役のつもりで来ていたから大抵は沈黙していたが、気がつけば彼も四十個ほどボタンがあるコントローラーを前に悪戦苦闘させられていた。
「多すぎる。なんだこれどうなってるんだ」
「でもおもしろいだろ」
「せやな」
 頷きつつも、だけどやっぱり難しいよと訴える彼の膝の上に、ニヤつく双葉がモルガナを置いた。
「ンにゃ? なんだよ野郎のヒザの上なんてイヤだぞワガハイ」
「モナにもやらせよう」
「アホかできるか! ていうかやるとしてもコイツのヒザの上はイヤだよ!」
 ひどい、と胸の内で打ちひしがれる雨宮をよそに、はまたしげしげと物珍しそうにモルガナを眺め下ろして言う。
「ほんとよくしゃべる猫だな」
「だからーっ! ああもうオマエら、ワガハイはニンゲンだってコイツに伝え、ニャッ!?」
 喚く猫の頭を撫でて、彼は朗らかに笑っている。そこには悪意も悪気もなさそうだ。ただの猫と思っている以上、そんな気も湧いてはこないだろう。
 そうやって過ごすことしばし、少し休憩とゲームの電源を落としたときのことだった。チャンネルを変えると退屈そうな討論番組をやっているところで、テロップにはちょうど心の怪盗団の文字が大きく表示されていた。
 そもそも改心とはどのようなものなのか、その罪はどうやって裁かれるのか、『今回の件』は殺人罪に当てはまるのか―――
 そんなことを知識人を名乗る見知らぬ男女が真剣に議論している。元刑事だとか弁護士だとか、作家やら政治部所属のジャーナリスト、現役の都議会議員……彼らの話は概ね『怪盗団は処断されるべき』という方向へ向かっているようだった。
「怪盗団、か……」
 声高に怪盗団を非難する薄い色のサングラスをかけた男の声にのささやき声が重なった。
 チャンネルを変えようにもリモコンは彼の手の中にあって、雨宮たちには手が届かない。しかたなくというわけでもないが、雨宮は顔色を悪くする双葉を横目に収めつつ、一つの問いを彼に投げかけた。
「手を借りなくてよかったと思ってるのか?」
 ヒュッと双葉は喉を鳴らして息を吸った。おいおいマジかよ訊いちゃうのかよそれ、と冷や汗までもを垂らし始める。
 けれどにはそんな双葉の心地も、雨宮の質問の意図も掴めていない。そも彼は二人こそが件の心の怪盗団の一員―――おまけに片方は彼らを率いる頭領だ―――とは知らないのだから、それも当然のことではあった。彼はただの世間話のつもりで答える。
「俺ははじめから手を借りるつもりはなかったよ」
 言っただろ、と苦笑する彼の瞳に非難の色や怒り、侮蔑の感情は窺えない。
「それは……それは、もともと怪盗団は悪いやつらだって思ってたってことか?」
 続けての問いは双葉からのものだった。
 これには少しの間が置かれた。腕を組み、うーんと唸って天井の木目を睨み、熟考して彼はやっと答えた。
「わかんない」
 もったいつけられた挙げ句に肩すかしをくらって、双葉は横に傾いて畳の上に転がった。家と同じく古いのだろうそれに鼻を近づけてやっと、い草の香りがかすかに触れた。
 気の抜けた双葉の腕の中にモルガナを放り込んで、雨宮が彼女の代わりに訊いてやる。
「わからないって、どういうことだ?」
「そのまんまだよ。解らない。手口も目的も、今回の殺人だって、そこまでするほどだったのかなって」
「……怪盗団が殺したって言いたいのか?」
「それも、解らない。というか、どうやったらあんなんなるの? 遅効性の毒薬? にしたってあんな狙いすましたタイミングでできるもん? それにあの社長が殺されて、今までのヒトらが見逃されてたのはなんで? そもそも改心の対象の選別基準も謎じゃない?」
「それは」
 雨宮がなにかを言わんとするのをは遮った。また天井に視線を投げ、記憶を探るようにして続けて語る。
「最初は、どっかの学校の元メダリストだったよね。セクハラだっけ」
 雨宮はわずかに目を細めて沈黙する。それは自分の通う学園のと言わずに済ませるためだった。
 そんな彼の様子にも、双葉がぶ厚い眼鏡の下で目を泳がせているのにもまったく気が付かないままは指折り数えて続ける。
「次が……なんか偉い画家の先生? お弟子さんらから盗作してたとか聞いたけど」
 雨宮たちはまたしても沈黙した。盗作だけでなく詐欺と弟子たちへの虐待、場合によっては自殺関与罪や傷害罪にも該当するとも、お前の目の前でヘンタイ呼ばわりされたやつがそのお弟子さんの一人だとも言わずに済ませるために。
 はやっぱり気が付かない。言葉にされていないし、そもそも彼はまだ上を睨んでいる。
「それで次がマフィア? だっけか。 渋谷のあたりでクスリ売ってたとかなんとか」
 この辺りになってくると己の生活とはかけ離れていて加害者にしても被害者にしてもあまり想像が及ばない、と彼はどことなく申し訳無さそうな顔をしてやっと視線を二人と一匹に戻した。
「その次が―――」
「メジェド」
 被せるようにして言ったのは双葉だった。
 一種の冷たささえ感じられるこの声に、しかしは明るくポンと手を打った。
「そうだ、ハッカー集団。これはむこうからケンカ売ってきたんだよね」
「ああ」
「だけどさ、この辺怪しくない?」
「なにが?」
 モルガナまでもが揃って首を傾げる様に口元を緩めながら彼は言った。
「そもそもこれ、本当に怪盗団なの? 名指しされてはいたけど、ここだけちょっと他と違うよね。予告状とか改心だとか……」
 出てたっけ、と語尾に付け足すようにして彼もまた首をひねる。
 もちろん予告状は出され、改心も行われた。今もそれは当事者の部屋の机の中に大事にしまわれているし、盗み出されたオタカラは気まずい顔でそっぽを向いている。
 ただしそれは内部の者でなければうかがい知れないことだ。当然としてこの少年には知る術がない。
 癖のある長い前髪をいじりながら雨宮が辛うじてこたえた。
「……売られたケンカだから?」
「あー、だから必要なかったのかな?」
「たぶんね」
 双葉は口を結んだまま、胸の内でホッと息をつく。誤魔化せたか、と。
 しかしが朗らかに言うことに怪盗たちは身を固くする。
「そういえば二人が知り合ったのもこのころだろ?」
「な、なんで知って……」
 狼狽する双葉に、しかし彼は変わらぬままだ。どことなく嬉しそうですらあった。
「だってフタバ教えてくれたじゃん。トモダチできたって。あれ、蓮とモルガナと、あと坂本に、喜多川と……高巻さんとか、先輩方のことでしょ」
 高巻と先輩方の名を上げるのにやたらと照れた様子を見せたのはさておき、そういうことかと双葉は、雨宮とモルガナも密かに息をついた。
「いてっ」
 未だ双葉の腕の中に収まったままのモルガナが肉球に力を込めて彼女の腕に爪の先を立てていた。肌に傷も穴もできるほどではないが、しゃべりすぎだと釘を刺しているのだろう。
 それ以上とならないのは、当時はこのような状況になると想像もできなかったし、そもそもに懸念材料が少ないからだ。もう少し鋭い知性とひらめきの持ち主であったなら警戒に値したかもしれないが、フタバの言と怪盗団のメジェドへの対処、そして双葉の特技を結びつけるほどのものは持ち合わせていないらしい。
 だからこそ彼らは今日この場にやってきている。心と胃を苛む怪盗団がらみの一件から数時間離れて冷静さを取り戻したいと。
 だというのに、この怪盗団に関する問答はまだ続いた。
「で、そこから今回の事件」
 おまけにいよいよ話は今最も触れたくないことの核心に迫りつつある。ここいらで止めたほうがいいんじゃねぇかとモルガナは忠告したが、には当然伝わらず、また雨宮も双葉も彼の本心を知りたがって語らせるままにした。
「ブラックって噂は、まーあったよね。ビッグバンバーガーのバイトはキツいって先輩も言ってたし……だけどさ、殺されるほどのことかなって。もっとヤバいバイト先なんていくらでもあるし、なんならマフィアのほうがよっぽどヤバくない?」
「……まあ、そうだな」
「でしょ? それがいきなり今回のアレじゃん。それとも裏じゃもっと非合法なことしてたってこと? ネットじゃヒト殺してバーガーの材料にしてたからやり返されたなんてハナシもあるけどさ」
 それもあながち間違いではないと雨宮は胸にパレスの様子を返した。
 コミカルな見た目のロボット―――オクムラ・フーズの従業員たちが壊れるまで働かされた挙げ句、ベルトコンベアで運ばれて溶鉱炉に投げ込まれる様は衝撃的な光景だった。あれが現実の暗喩であるとしたら、実際に末端の従業員たちはどんな仕打ちを受けていたというのか。そういう意味では確かに、安価なバーガーの材料はヒトに違いない。
 それも、は知り得ないことだ。彼はただメディアから得た断片的な情報と曖昧な伝聞のみを頼りに結論を述べる。
「やっぱりさ、わかんないんだよね。怪盗団の目的も手段も判断基準も……だから良いも悪いも、殺したか殺していないかも判別できない」
 そういうよくわからないものを無闇やたらに頼るのは、やっぱり性に合わない。
 双葉は改めて胸をなでおろした。友人の差し出した答えは彼女にとって満足のいくものだったし、いつもの通り安心させるものだったからだ。
 ―――よかった、やっぱりこいつは敵じゃない。仲間ってわけでもないけど、中立よりの味方でいてくれる。
 双葉にとってのこのときの敵はすぐ隣にいた。癖のある黒髪をした、伊達眼鏡の少年だ。彼はじっとの瞳を見つめながらさらなる問いを投げかけた。
「じゃあ、知りたいと思うか? 例えば俺がその怪盗団の一人だとして……」
 ギョッとして口を半開きにする双葉とモルガナをよそに、雨宮は淡々と言を重ねる。
「手口も目的も、やったかやってないかもなにもかもご存知だとして、教えてやるって言ったら、知りたいと思う?」
 もまた驚いて彼を見つめ返していた。なんとなれば意味のない問いかけだったからだ。そんなありえない仮定の話をしてなんになるんだ、と。
 だからやめようと笑い飛ばそうとして、しかしは言葉を呑み込んだ。長い前髪と度の入っていないらしいグラスのむこうの雨宮の眼に、ほんのわずかな不安を垣間見たからだ。彼は目だけは良いようだった。
 は真剣にその意味を吟味して熟考する。もしも目の前の彼が……フタバが連れてきた少年が、怪盗団の一員だったら。
 彼は恩人だ。この辺り一帯を困惑と恐怖に陥れていた小悪党をあっという間に片付けてくれた。
 そうでなくたってはもうとっくに彼のことを友人だと思っている。そんな間柄の相手が怪盗だとして、瞳に不安をチラつかせているとなれば……
 もちろんそれらはすべて仮定の話だ。けれど彼はただ独りにさせるべきではないという母の教えに従った。
「そうだな、知りたい……っていうか、知るべきだと思う。もしかしたら怪盗団のヒトらもこの現状にビビってるかもしれないし。俺に話してそれで多少なりとも気が紛れるんなら、話を聞いて、それで可能な限り手を尽くすよ」
 相手がアンタならな。と笑うに雨宮は満足げにして頷いた。モルガナもまた、居丈高に鼻を鳴らしつつもパタパタと尾を振っている。
 傍ら双葉はバネ細工のように勢いよく跳ね起きた。衝撃に腕からこぼれ落ちたモルガナが代わりに畳の上に転がった。
「びっ、ビビってねーし!」
 はちょうどテレビの電源を落とそうとリモコンを向けているところだった。雨宮はちょっとトイレでも借りようかと腰を浮かしかけている姿勢で、唐突な双葉の宣言に奇妙な姿勢で硬直している。
 ……確かに、彼女は怪盗団の一員だ。怯えているならと手を差し伸べられてはプライドに傷がつく。
 けれど前述の通りそんなことはには承知し得ない情報であって、彼にはまったく理解し難い行動で強がりだった。
「フタバのことじゃないわよ」
「うっ、そうだった……」
 言ってからしまったと思ったのだろう、彼が冗談めかして返したのをいいことに、双葉はおどけた仕草で座り直した。
 雨宮もまた一度浮かしかけた腰を戻した。あったような気がする尿意は双葉の奇矯なふるまいのせいで吹き飛んでしまっていた。
 代わりにかが「なんか飲むもの持ってくる」と立ち上がった。それを見上げる雨宮の隣から猫のお声がかかる。爪や牙を立てられるでもないが、それは愛らしい見た目にまるで似合わず、重く低いものだった。
「なに考えてんだ?」
 先のとのやり取りを指しているのだろうそれに彼は肩をすくめるだけで応えた。双葉からも咎めるような視線が向けられているが、どこ吹く風と廊下へ出るの背を眺めている。
 やがて部屋の主の姿がふすまの向こうに消えてやっと彼は言葉を発した。
「別になにも。特別なことを考えてたわけじゃない」
「それであの質問はねーだろー……」
 呆れた様子を隠しもせず漏らしつつ、双葉は膝をにじって窓際に置かれた本棚に手を伸ばした。並べられた漫画本のほとんどは古い少年漫画だ。
「双葉は反対?」
「なにが?」
に俺たちのことを話すの」
「やっぱり。オマエなぁ、今どういう状況かわかってんのか?」
 いよいよ前足を出しつつあるモルガナを手のひらでせき止める。ちょうどお手をするような格好になったからか、モルガナは鼻の上にしわを寄せてすぐに手を引っ込めた。
「わかってる。わかってるからこそ、味方は多いほうがいい」
「あいつになにかさせるつもりなのか?」
「それも特に思いつくようなものはないよ」
 強いて言うのなら彼の反射神経や思考速度、そこから発揮される判断力は魅力的だが、いずれもゲーム上の話でしかないし教わろうと思って教われるものでもないだろう。
 ただ雨宮は安全地帯が欲しいと思っただけだ。ルブランの居心地は最高だけど、マスターは俺たちが裏でやっていることを知らないし、知られればひどいお叱りをくらうだろう。最悪の場合にはあの屋根裏を追い出されてしまうかもしれない。
 なにより、ぶっきらぼうで人を突き放した言動の下に広い懐と情を隠し持つあの人のことだ、自分たちがしていることを知ればなにをしてでも辞めさせるに違いない。
 今ここでやめるわけにはいかなかった。それは身の安全のためでもプライドの問題でもない、どうしてあんなことが起きたのか、そのわけを知るためだ。
「んまあたしかにここは安全っちゃ安全よな」
 以前の騒動のおかげで町中に監視カメラが設置されていて、それらは双葉に言わせればセキュリティが甘い。乗っ取って自分たちが利用するのは容易だった。それをして要塞のごとくここを利用することも。
 双葉の心情としてはあまり推奨したくはないが、が仲間になってくれるいうのであればやぶさかではないというのもまた本音だった。
 その双葉の手は漫画本を読むでもなく次々と棚から抜き出している。
「……なあ、フタバはなにしてんだ?」
「わかんない」
 率直なモルガナの問いに、雨宮もまた素直に首を振った。山と積まれつつある単行本を見ても、分かるのは一千万パワーはやりすぎだったということくらいだ。一体なにをしているのかと首をひねる一人と一匹の前で、双葉は悔しそうにひとつ唸った。
「うーん無い。もっとべつのところかぁ……?」
「なあ、何を探してんだ?」
「すけべブック」
「双葉! コラ!」
 雨宮は素早く腕を伸ばすと少し強めに丸い頭をひっぱたいた。
「あいて」
 衝撃こそあれ痛みはさほどなかったが、双葉は唇を尖らせて彼を睨みつけた。
「なにすんだよ」
「自業自得。そもそもそんなものを見つけてどうするんだ」
 だいたい今どき本で、なんてこともないだろう。あってせいぜい青年雑誌等の巻頭にお約束のグラビアか―――
 雨宮は我が身を顧みつつ新たな友人の名誉のため双葉を叱りつけた。
「そういうプライベートを探ろうとするのは感心できない。誰にだって立ち入られたくない場所ってものはあるだろう」
「ネットの検索履歴とか動画の視聴履歴とか?」
「双葉!」
 咎められて手こそ止めたが、双葉に反省の色は窺えない。それどころか実に楽しげに口角をつり上げ、眼鏡の下の瞳をあやしく輝かせている。
「まあまあ、いいじゃん。やつの弱味をにぎれれば、味方に引き入れるのはぐっとかんたんになるぞ?」
「そんなやり方で味方を増やしたくない」
「ていうか後ろから刺されるだろソレ……」
 モルガナまでもが呆れ顔だ。双葉はわかってないなーと舌を鳴らしつつ指を振った。
「おまえらはのことぜんぜんわかってない。あいつは生半可な交渉には応じないぞ。最悪条件提示の段階でシャットアウトだ」
 それもゲームでの話だろ、とは雨宮もモルガナも言わなかった。
「――――――ッ!!」
 何故なら会話を遮るような声が階下から響いたからだ。言葉として意味をなさないそれは驚嘆と、多大な苦痛に満ちた悲鳴のように彼らには聴き取れた。
「な、なんぞいまの……じゃないよな……?」
 かといって表からでもないと眉をひそめた双葉を尻目に、雨宮とモルガナは素早く立ち上がって廊下へ飛び出した。ふすまのすぐ左手に階下へつながる階段があって、はその中ほどでコップと麦茶を乗せた盆を手にぼう然としていた。その視線は階段から続く廊下に落とされている。
、今のはなんだ? お前にも聞こえてただろ」
 トンと音を立てて一段下がると、ははじめて雨宮とモルガナ、そして彼らの後ろから不安そうに覗き込む双葉の存在に気がついたのだろう。薄暗い階段の中にあって判るほど彼は青ざめていた。
「今の、たぶん……親父の声……」
 古ぼけたの家はすぐ裏手に経営する工場と繋がっている。雨宮はあまり詳しくは教えてもらっていないがここでは手作業による旋盤によって独自規格のネジの製造が行なわれ、世界中に出荷されていっている。町並みからはあまり想像できないがこの辺りの工場は皆、独自技術を有する熟練工が多数集まったグローバル企業ばかりだ。
 当然の父も。経営者であると同時に戦前から培われてきた機械金属加工技術を継承するこの国の産業を支える重要な人物だ。
 ガシャンと音がして空のコップが砕け散り、滝のように麦茶が階段を流れ落ちていった。震えたの手が盆ごとそれらを取り落したのだ。
 そして彼はその音に弾かれたように走り出した。
!!」
 雨宮の背後から双葉が呼びかけるが、彼はふり返りもせず廊下を奥へ進み、姿を消してしまった。
 二人と一匹も慌てて後を追うと、廊下の奥に大きく開かれたままの滑り戸があった。そのさらに奥はコンクリ打ちっぱなしの床になっていて、その上に汎用旋盤等の旋削加工機器が並んでいる。高い位置に取り付けられた窓や開け放たれたシャッターの向こうから射し込む夕日を受けてキラキラと輝いているのはおそらくそれらによって削られた金属のくずだろう。
「親父!!」
 機械の向こうからの悲痛な声が響いた。やはり先の悲鳴は彼の父親のものだったのかと足を早めると、モーター音を上げ続けている背の高い機会にもたれかかるようにして膝をつく中年の男と、それに縋りつくの姿があった。
「ヒッ!」
 息を呑んだ双葉の小さな声が、低く唸るモーター音の中いやに大きく鳴り渡った。
「親父! しっかりしろよ!」
 薄緑色のつなぎを着た父親の背を強く擦るたび、の手に付着した赤い液体がそこを汚している。床には同じものが滴り、小さな水たまりをつくっていた。
「なんだよこれ、こんな、なんで……クソッ!!」
 なにをしようというのか、はサッと身を起こして父親から離れた。すると雨宮たちにもようやくなにが起きたのか理解する機会が訪れる。
 大型の鍛圧機械に父親の右腕が呑まれていた。二の腕の中ほどから先はプレス用のプレートの下にあるのだろう、血はそこから滴っていた。
 出血があると知ると途端に金臭い血のニオイが鼻をつく。雨宮らがそれに思わずとたたらを踏んでいる間に、は機械の操作盤に手を伸ばしていた。
「親父、今これどかすから……!」
 父親はなにも応えず、ただ熱に浮かされたようなうめき声ばかりをもらしている。痛みのショックか出血性のものか、どうやら意識はほとんどない様子だ。
 の指先がプレート操作用のボタンに触れる直前、モルガナは聞き慣れた足音を耳に後ろをふり返った。
 開け放たれたシャッターから俊敏に飛び込んでくる小柄な影は少女のもので、膝丈のワンピースの裾を翻し、転がりそうになりながらも駆け、猫のすぐ横を通り過ぎてに飛びついた。
「待って! だめ!!」
 ふわふわの髪からは血臭を忘れさせるような甘い香りが立ちのぼり、混乱する少年らの鼻に優しく触れる。それは雨宮にもおぼえのある香りだった。
「……春!?」
「なんでココに!」
 雨宮とモルガナはギョッとしつつも納得する。今日あった追跡の気配はもしかしたら彼女だったのかと。
 なんにせよそんな二人も、真っ青になって固まる双葉も無視して、奥村は唐突な闖入者の登場に驚愕するを怒鳴りつけた。
「いきなり外しちゃダメ! 今機械を上げたら余計に出血が酷くなっちゃう!」
「じゃ、じゃあどうしたら―――」
 奥村はを機械から引き剥がしながら今度は雨宮に怒号をぶつけた。
「蓮くん! レスキュー隊を呼んで! 警察にも連絡! 急いで!」
「は、はい!」
くんはタオル……ううん、清潔なものならなんでも構いません。止血に使えそうなものを持ってきて!」
 叩き出されたかのように表へ出てスマートフォンを取り出す雨宮に対し、はまだ状況が―――父親が危険な状態であることからして飲み込めていないのだろう、ぼう然とした様子で立ち尽くしたままだ。多量の出血、おまけに肉親のものを目にしたショックもあるのだろう。
 奥村はしかし妥協も容赦もしなかった。
「……なにをしてるの! 早くなさい! お父さまが亡くなってもいいの!?」
「―――ッ!!」
 今度こそもまた射出されたような勢いで家の中に戻っていった。
 モルガナは慌てる雨宮に寄り添い、あれこれと指示を出してやっている。結果的に取り残された双葉はどうにか冷静になろうと幾度も深呼吸をくり返し、拳を握りしめて奥村へ目線をやった。
「わ、わた、わたしはっ……」
 なにをしたらいいのかと問う瞳に、奥村はこの場に不似合いなほど穏やかな、人を安心させる笑みを湛え、彼女を手招いた。
「双葉ちゃんは私と一緒にこの人に呼びかけて。大丈夫だよ、必ず助かるから……」
「うっ、うん……!」
 促されて双葉ははじめて目にするの父親の肩に手を置いた。苦悶する男の顔を間近で覗き込み、声をかけながら場違いなことを考えたりもする。―――あんまりと似てない。あいつ母親似なんだな。
 そのうちにが山ほどのタオルやブランケットを抱えて戻り、外からは救急車のサイレンが響き始める。すぐ表にあったはずの雨宮の姿が見えないのは、車両の誘導に向かったためだろう。
 ざわめきのなか、奥村は低く、双葉にもにも、いわんや半ば意識を喪失している彼の父親にも聞こえないほど小さく低く囁いた。
「今度こそ、今度こそは……お父さま……」
 床につけた膝を隠すスカートの裾もその下の厚手のタイツも、滴る血液に見るみる間に汚されていった。