05:One and Only

 事は至極単純だった。
 物証がそこにあるのならそれを衆目に晒してしまえばいい。ただそれだけだ。
 猫の散歩を装った雨宮と高巻はの家を出てすぐにモルガナを離してやり、さも彼に逃げられてしまったという態度で大騒ぎしながらあちこちを走り回った。その間にモルガナ自身もよそ様の家の中や仕事場に潜り込み、これでもかと己の存在感をアピールしていく。
 想定外があるとすれば彼を捕まえるために手を貸してくれようとする住民が何人も現れたことだった。一人くらいは高巻の容貌に釣られてくれるだろうと思っていたが、どうもこの辺りにはお人好しが多いらしい。
「東京の人ってもっと冷たいと思ってた」
「なにその田舎者っぽい発言」
 だらだらと足を運びながら雨宮が言うことに、高巻は苦笑しながら彼の背をひっぱたいて真っ直ぐにさせた。
 放っておくとすぐ猫背になるのはこの少年の悪い癖だ。
 それも長い前髪も度の入っていない眼鏡も、顔を隠すためのものだと彼女も仲間たちも気がついている。それが世を騒がす怪盗団の長という身分故ではなく、この土地へ追いやられるようにしてやってきた出来事に由来しているということにも。
 ただし高巻は……彼女は訊こうとさえしたことはないが、仲間たちも皆それを悪いこととは思っていない。勝手な憶測や噂から身を守るための虚勢なら誰だって身に覚えがあった。
 ただ高巻の場合は己からそれを取り払ってくれたヒトがそうしていなくちゃいけない現状……外的要因にも内的要因にも我慢がならないというだけだ。
 そういう意味では彼女は、双葉が連れてきたという少年に期待もしている。彼は秀尽学園にまだはびこる噂も、地元に残っているだろう誇張された事実も知らない。なにより人一倍警戒心が強く人見知りな双葉と自分たちより前から繋がりを持ち、かつ交流を保っていたということからみても、人柄も悪くないと推察が立つ。
 高巻が知る限りの雨宮の交友関係というのはそのほとんどが怪盗団絡みだ。活動メンバーと、正体を知りはしないだろうが協力してくれている人たちがいることくらいは彼女も聞き及んでいる。
 つまり、雨宮のこの土地での繋がりというものはおおむね怪盗団ありきになってしまっているところがある。
 それも決して悪いことではないし、高巻自身だって仲間だ一味だという括り以外のところで友情と―――それ以上のものを抱いている。坂本や喜多川、新島と双葉と、奥村だってそうだろう。怪盗団が今すぐなくなったとして、皆すぐに彼のそばを離れるようなことはない。友情だとか絆だとか言い表してしまうとなんだか安っぽい気もするが、たとえ距離を置くことになったとしてもきっとずっと続いていくものとして残るはずだ。
 だけど、輪の外から本当になんの掛け値なしに繋がる相手だっていていいだろう。
 高巻は今は遠くに越していってしまった相手のことを胸に返しながらそう思う。某とやらがそういうなんてことのない存在になってくれたらいいのになぁ、と。
 その思考がちょっと過保護なお母さんめいているとは彼女自身は気が付かぬまま、叩かれて眼鏡をずらしてしまった彼の横顔を眺めつつ追い抜いていく。
「杏、痛い」
「男の子でしょ、我慢しなさい」
 発言もやはりどことなく『オカン』くさい。
 雨宮は少しだけ眉をひそめた。嫌じゃないしいたわりや気遣いは感じているけど、どういう感情で見られているのかが彼には少しもわからない。
 とりあえずと背すじを伸ばして顔を上げると、目的地はもうすぐ目と鼻の先だった。

 同じころ、は追加の茶菓子を喜多川に差し出してやりつつ首をひねっていた。
「やっぱり俺はほんとにお留守番なの?」
 素早く応じたのは喜多川の対面に座して相変わらずすね気味の双葉だ。
「前科もちはしゃーない」
「うっ……」
 うめきつつも彼の手は麦茶のおかわりを坂本の手元のコップに注いでやる。よく冷やされた水出しは冷房の効いた室内にあってなお喉をよく通った。
 とみに乾きものを口にしては……喜多川はザラメの振られたせんべいをかじりながら言った。
「……君が今やつに接近すれば、周囲の者にいらぬ疑いをもたれる可能性が大きい」
 やつというのはもちろん保田某のことで、周囲の者というのはこの場合、地域一帯の住民と保田自身、それとその背後にある非合法的組織のことだ。そして双葉の言う前科というのは、の顔や服の下にまだ小さく残っている青あざが出来上がった一幕を指している。
 その折保田は彼と彼の父親を知っているふうな言動をみせた。今回の作戦にこの少年が噛んでいると知られた場合、報復行動に出られる恐れがある。
 それは怪盗団の面々にも言えたことではあるが、相手の狙いがこの地域に限定されている以上、作戦が成功すれば逆恨み以外で彼らに悪意が向けられることはないだろう。
 坂本は自信深げに笑ってみせた。
「俺らに任せといてくれればいいって」
「それはわかっちゃいるんだけどね。うーん……」
 腕を組んで唸る彼を見て喜多川が喉を鳴らした。その眼は面白がっているようでもあったし、なにかを感じ入っている様子でもあった。
「ふッ、性分か」
 声には共感かなにか、親密さを感じさせる色がある。はそれにこそ照れくさそうに、
「まあね」と返して頭をかいた。
 そんな二人を眺めて双葉は引き続きへそをちょっぴり曲げている。
 まだ自己紹介もろくにすませていやしない、名前くらいしか明らかにしていない間柄だというのに、二人はすでに打ち解けはじめているらしい。確かには元より人懐っこい性格だし、喜多川だって人見知りでないどころかどこに出しても誰の前に連れていってもほとんど物怖じしないような人物だ。間に坂本が入ると界面活性剤か緩衝材のように働いてなお滑りよく話は弾む。
 やっぱり双葉はちょっと―――だいぶ―――面白くない。
 ちびちびと麦茶をすすりながら、彼女は小さな指を喜多川に突きつけた。
「……おイナリ、おまえちょっとあっちの様子見に行ってこい」
「なぜ俺が」
「竜司は、ほら、そのへん歩いてると補導されちゃうから」
「されねえよ。なんでだよ」
「うるさいおイナリいけ!」
 ムキになって身を乗り出す彼女の姿になにを見出したのか、喜多川は切れ長の目を狐のように細めてふむと一つ唸ってみせる。
「……まあいいだろう」
 やがて彼は立ち上がると、物理的にも精神的にも大上段から見下ろして笑ってみせた。
、吉報を待っていろ。すぐに戻る」
 そのまま彼は快活な笑い声を残して出ていってしまう。去り際、双葉に意味ありげな一瞥を寄越して。
 は、見送りする暇もなかったと再び頭をかいた。
「なんか変わったやつだね。いい意味で」
「ばかもんやつは稀代のヘンタイだぞ。あんまり近づくな」
 ムスッとする双葉にも彼は首を傾げる。
「えー? たしかに変わってるとは言ったけど変態ってほどじゃないでしょ? どうしたのフタバったら」
「べつに」
「なによ」
「ふんっ」
 ツンとして顔を背ける双葉の心情になどまるで気がつけず、は困りきった様子で喜多川がしっかり空にしていったコップや菓子盆を片付けはじめる。
「気難しい年ごろねぇ」
「ほぼほぼ同い年だろっ!」
 歯を見せて喚く彼女の心の有様を理解できていないのはだけだ。出ていった喜多川も、そして坂本も彼女の不機嫌のわけをきちんと理解してしまっている。
 台所に向かったの背をぼんやり眺めつつ、坂本はフォローするつもりで声を潜めて告げてやった。
「……まあ、自分が一番仲いいと思ってるダチが他のやつとつるんでるの見るとちょっと複雑になったりするよな」
「ち……ちげーし……」
 そういうんじゃないから。と双葉は言い募ったが、坂本は「わかるよ」と押し付けがましい共感を返すばかりでまったく聞き入れてはくれなかった。
 ……する必要もない。何故ならそれは真実そのとおりだからだ。

 家の玄関を出た喜多川は一度SNSのチャットを利用して雨宮たちに連絡を取った。
 ―――進捗如何許か。
 応えは明確で端的だ。
 ―――恙無く。ポイントには到達済み。これよりフェーズスリーに移行する。
 了解と返して喜多川は大股に歩き出した。十月の頭、夕方に差し掛かった外は傾きつつあってなお強い日差しとムッとする湿気に包まれている。ほんの数分歩いただけでうっすらと汗をかくような気温だ。喜多川は大股になって現場へ急いだ。
 ほどなく保田某が根城にしている新築の建売住宅へたどり着くと、そこには予想より多くの人が右往左往している姿があった。
「おーい、見つかったか?」
「いやこっちからは見えないなぁ」
「誰かここんちの人の連絡先とかわかんないの?」
「最近越してきた人だからねぇ」
 井戸端会議めいたやり取りが交わされる程度に集まった中に目当ての姿を見つけ出して、喜多川はそちらに足を運ぶ。
「蓮、どうなっている?」
「来たのか」
「双葉の悋気に追いやられてな」
「あー……トモダチ取られたと思われたか」
「そのようだ」
 応えて喜多川はゆるく首を振った。あの場に居なかった雨宮にさえも筒抜けかと思うと少しは双葉に対して同情的になろうという気になってくるが、しかしそれも雨宮が指し示したものに消え失せる。
 そこにあるのは豆腐を思わせるような真四角の二階建て住宅だった。民家と隣接する三方はブロック塀に囲まれ、カーポートと一体化したファサードは広く開放されている。庭は一応それらしいスペースこそあるが日当たりはよくはなさそうで、新築のはずなのにすでにシダやソテツが支配権を広げて我が物顔だ。
 その中から俊敏な動作でブロック塀に跳び上がる小さなシルエットがあった。
「あっ! いたよ! あそこ!」
 主婦らしき二人組の女性の片方が大仰に指差した先に現れた小さなけもの……黒猫のモルガナは、塀を足継ぎに身軽に伸び上がり、カーポートの上に着地して自慢気に尾を振ってみせた。
 難しいことなんてなにもない。猫の散歩からの脱走を装って衆目を集め、この場に誘導して中にある物を晒し出すというだけだ。仕込みはこの日の午前中に済ませてある。
 モルガナは想定以上の数のニンゲンの姿に小さな眉間にしわを寄せたが、計画に支障なしとハンドサインを寄越す雨宮の姿を見つけてすぐに次へ移った。
 予め小さな隙間をつくっておいた二階の窓にするりと入り込んで、それで彼の姿は一旦人だかりの前から消える。
「コラぁ、なにしてんのぉー出てきなさーい……」
 雨宮らから少し離れた場所から高巻が必死に―――白々しい棒読みで呼びかける声が虚しく響き渡った。
 あまりにひどいと雨宮はしわの寄った眉間をつまんだが、喜多川は気にもしていないのかそれとも関わり合いになるまいというのか、スッと足を引くと人だかりから距離を置く。それから彼はそもそも様子を見てこいと言われただけの身だとそのまま退場していってしまった。
 なにしに来たんだと言いたくはあるが、なにをしに来たわけではないのだろう。ただ双葉のご機嫌取りのためにむこうの席を外しただけだ。元より喜多川が今日ここへ来たのは下町風情の残る周辺の様子に興味があるというところが大きい。それならばとお守りを言いつけたのだが、それもお役御免となって本来の目的を果たすつもりか。
 なんでもいいけど目立つ真似だけはしてくれるなよ。
 胸の内だけで遠ざかる背中に吐きかけて、雨宮は再び二階の窓に目を戻した。
 モルガナの姿はまだそこにはなく、家の前に立つ人たちはまた「この家の人に連絡取れないかな」などと言い交わしている。
 その必要はないさと雨宮は思う。手首に巻いた時計をチラと見下ろすと、時刻は六時になるころだった。
「……なんだよ、これ」
 低く唸るような声が人だかりのむこうからするなり、預言者の前の海のごとくそれは左右に割れ、目当ての人物が姿を現した。
 保田康広という男の行動はすでに双葉によって漏れなく把握され尽くしている。言動には表れていないが、双葉なりにこの男のへの仕打ちに激怒しているらしく、お気に入りのウェブサイトから一日のトイレの回数まで―――
 ゾッとするものを覚えつつも、雨宮もまた予測通りにねぐらへ立ち寄った男に密かに悪い笑みを浮かべてみせた。
 すると素知らぬ顔をする彼の脇を通って、高巻が妙に媚びた笑みを浮かべて彼の前にまで歩み出る。もちろん、周囲の人々に彼がこの家の主だと教えてもらってからだ。
「あのぉ〜、すみませぇん。実は、ウチのペットがお宅に入っちゃってぇ……」
 幸いなるかな、相変わらずの棒読みもいかにも日本人離れした美貌の前ではそういうものと受け止められる。戸惑った様子を見せる男に、高巻は瞳をうるませて迫った。
「よければぁ、おうちの中、探させてくれません、かぁ?」
 しなをつくって小首を傾げもする。雨宮はただ黙って二階の窓を見つめ続けた。
 その耳に保田の困惑と焦りに満ちた声が届く。
「それはちょっと無理っていうか……猫が入っただけなんでしょ? したら自分捕まえてくるから……」
 拒絶は想定内だ。そうやすやすと入れてもらっては却ってこちらが困ってしまう―――
「え〜? でもでもぉ〜、ウンチとかオシッコしちゃってたら悪いしぃ〜」
 雨宮は演技上のこととはいえモルガナに強く同情を寄せた。惚れた女にペット扱い……は、好む者もいるかもしれないが、シモの心配とはなんて悲しい話だろう。もちろんモルガナはウンチもオシッコもしない。するが、時と場所はきちんと選ぶ。
「猫のってクッサいんですよぉ、アンモニア臭がヤバくってぇ〜」
 あまりこの会話を長引かせるとモルガナの知らぬところで彼の名誉に傷がつけられそうだと雨宮は窓越しにこちらの様子を窺う彼に再びサインを送ってやった。
 すると音もなくモルガナが窓から身を踊り出させる。長い尾とは別に身体に括り付けられたハーネスから伸びる手綱が、もう一本の尾のように彼の後を追った。
「あ、出てきた」
 さも今気が付きましたよと言わんばかりの態度で雨宮が言うと、衆目は玄関ポーチの屋根の上に降り立った彼に集まった。
 それを見てよしとして、雨宮は彼を招くように指先をチョイチョイと揺らしてみせる。ゴーサインだ。
 従ってモルガナは身を中空に踊らせた。身体に括り付けられたハーネスから伸びる綱も当然後を追って宙を舞う。
 窓のむこうに入ったままのその先端が引かれるがまま飛び出すと同時に、繋がれていた塊が飛び散った。
 それは何百枚もあろうかという紙だ。片面に何某かの文言と画像が印刷された安い紙―――
 雪のように降り注いだその一枚を拾い上げて、高巻が演技ではなく心底からの嫌悪感を滲ませた悲鳴を上げた。
「ちょっとヤダ……! なにこれ!」
 そこにあったのは不特定の誰か―――おそらくは独身女性―――への卑猥な妄想めいた暴言と、薄いモザイクに隠された男性器らしき写真だった。
 年性別の区別なくおぞましく思えるようなそれに、あちこちから悲鳴と罵声が轟いた。この騒ぎはさらに人を呼び、呼ばれた人々がビラを目にしてまたさらに広がっていく。
 高巻はモルガナを乱暴につかみ上げると胸に抱きかかえ、かん高く喚いてみせた。これもおそらく演技ではないだろう。
「こんなもん家に『用意』しとくなんてなに考えてんの!? この『犯罪者』!」
 高巻の今日の役目はこれで果たされる。モルガナがばら撒いた物証を目にした人々に『保田こそが近ごろ続いている一連の嫌がらせの犯人だ』と印象付けることが彼女のシゴトだった。
 印象もなにも事実そのとおりなのだが、それを知らぬ人々は高巻がそう声高に告げることで辺りに散らばったビラと最近の出来事を結びつけ、やっと『保田が犯人』であると認知する―――
 青ざめて後退ろうとする彼にむけ、どこからともなく声が飛んだ。
「今までのビラもあなたがやったんでしょう!」
 誰のものとも知れない声に促されるかのように、一人の主婦らしき女性が顔を真っ赤にして安田に詰め寄った。
「やっぱり……そうなの!? よくも娘にあんな……!」
 どうやら以前に撒かれたビラによって被害を受けた女性の母親であったらしい。彼女を皮切りに同じような身上の人々が口々に彼を指し示して道を塞ぎ、囲んで責め立てはじめる。保田のほうも口汚く言い返してはいたが、やがて誰か―――すでにこの場を立ち去った『猫の散歩をしていた高校生のカップルかなにか』―――が通報したのだろうパトカーがやってきて、保田のねぐらがある通りは一時騒然となった。
 駆けつけた警察官らが事情を尋ねると、集まった住民たちは揃って保田が近ごろ相談を寄せていた一連の嫌がらせの犯人だと訴える。当然保田は違うと喚くのだが、するとまたどこからともなく、先とはまた違う声が飛んだ。
「じゃあどうしてさっき、あの子を家に入れてあげなかったの? 他にも見られて困るような物があるの?」
 集団の視線が真四角に集まった。そうとも、やましいところがないのなら隠す必要などないはずだ―――
 集団心理の暴走を感じ取ったのか、警察官は慌てた様子で彼らの間に割って入った。
 それなら、自分が調べてくるから、皆さんはひとまず家に帰りなさい、と。
 住民たちはしばらく納得できないとその場に留まったが、保田の同意を引き出して家の中に入った二人の警察官がすぐに引き返すなり保田を左右から掴むのを見て溜飲を下げた。
 どうも、入ってすぐの玄関に彼の犯行の証がこれみよがしに並べられていたらしい。
「どうしてこんなところに出してあるんだ」と口にしてしまったのが駄目打ちとなって、保田は「ちょっと署でお話を」ということになった。

 聴取の後、名誉毀損と侮辱、脅迫、またこれらによる偽計・威力業務妨害の罪状で保田は逮捕され、翌日には送検された。被害の規模は大小分かれるが、範囲が広大ということで事は刑事裁判にまで持ち込まれるだろうと目されている。
「いっても罰金刑だけどね」
 やれやれ、と肩を回したのは新島だ。隣では奥村がそんな彼女に労るような笑みを向けている。
 彼女たちの今回のシゴトは人混みに紛れて集団心理の流れを調整することだった。これ自体は大した労力ではなかったが、の家には立ち寄らずに機を待ったおかげで日焼けが少しだけ気になっている。
 それももう一週間も前の話だ。新島も奥村も今は家の居間に座し、彼に先の報告を終えたところだった。
「これでしばらくは安全になったはずだけど……実際どう? 身の回りに変化はある?」
「今のところ、俺が知る限りではありますが、嫌がらせは完成に停止してます」
 先輩だと聞かされているからか、は至極丁寧に答える。
 対して隣に腰を落ち着ける双葉はいつもと変わらない。それどころかキッチリ落とし前をつけさせてやったと満足気に鼻息をもらしている。
「むふー、もしかしたら大本も諦めたのかもなー」
 などと太平楽なことまで言い出しはじめる。あまりの楽天ぶりに我が身を棚に上げて坂本までもが苦々しくする始末だった。
「そんな都合よくいくもんかぁ?」
 しかし、意外なことに新島もまた気楽な様子でこれに応じる。
「仮に諦めていないとしても、手口はずっと控えめなものになるはずよ」
「今回のことで警察への相談も通りやすくなっているだろうしな」
 喜多川もまた。ただし彼が嬉しそうにしているのはが用意した茶菓子が、客が多いからと潤沢に用意されているからかもしれない。どれも個別包装されているから、余ったら持って帰ってよと先に彼は告げていた。
 ぬるめに淹れられた深蒸しの煎茶を一口すすって、奥村は立ち上る湯気のようにやわらかな笑みを浮かべた。
「よかったね、くん」
 彼女もまた先輩だと聞かされたからだろう、は丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。……これで親父も、やっとゆっくりできるようになります」
 父親の存在を示唆されて、奥村はなお強く瞳に穏やかな光を宿した。かすかな羨望の覗くそこには、きっと自分もという想いがあるのだろう。彼女の父親、奥村邦和の怪盗団による≪改心≫の結果ももうじきに表れる―――
 そんな心情など知る由もなく、は皆もありがとうと深く頭を下げる。捧げられる感謝の念に子どもたちは少しだけ照れくさそうに笑って返した。
 そのうち、妙なむずがゆさを覚えた双葉はいささか乱暴な仕草で彼の腕を掴み、激しく揺さぶって声を跳ねさせる。
「おっ、おまえもゆっくりしろ! わたしと遊べ!」
 最近ちっともゲームできてないぞと訴える彼女に、だけでなく他の面々も呆れ顔をみせる。けれど彼女がこのようにわがままを言うのは平和な証拠だ。誰もこれを咎めはしなかった。
 雨宮は―――
 ただ黙って、満足感と充足感を胸に湛えながらに眼を向けている。
 もう惣治郎に報告するようなことはなにもないだろう。元より彼自身に双葉のトモダチとして欠けたところはなさそうだったのだから、その身に抱えたトラブルが消えた今、心配するようなことはなにもない。
 一番の功労者はワガハイだぜと訴える猫の声など届いていないはずだというのに、モルガナ用にちょっとお高めのおやつなどを複数用意しているのも雨宮的にはポイントが高い。
「ワガハイは猫じゃねぇが……まあ、いい心がけだな。もらっといてやるよ」
「ほんとよく鳴く猫だな。触ってもいいかー?」
「だからワガハイは猫じゃねぇし気安く触んじゃ……ンぎゃっ!?」
「ほーれ〜、モナの腹で深呼吸していいぞ〜」
「やめろフタバ! 野郎にそんなことされるなんてジョーダンじゃねぇよ!」
「嫌がってるじゃん。やめてあげなさいよフタバ」
「ダイジョーブ、なに言ってるのかなんてわかんないだろ?」
「そういう問だ、うぶっ」
「ぎゃあーっ!」
 すでに一度やられたことであるはずだが、モルガナは大仰に嫌がってる仰け反った。のほうも、顔にたっぷりと毛をなすりつけられてちょっと嫌そうにしている。
 騒ぐ猫にも間抜けなの姿にも、雨宮はよく笑った。

 結局茶菓子のほとんどは手を付けられず『お持たせ』になり、喜多川の手に委ねられることとなった。
 は帰ろうとする彼らを見送る際、もう一度深々と頭を下げた。
「本当にありがとう。この恩はきっとなにかの形で返させて」
 構うことないのにと彼らは応えたが、それじゃあ自分が納得できないと訴える。そういう性分なんだ、と笑って。
 元より報告だけのつもりだったから滞在時間は短かった。放課後行くからと雨宮がと怪盗団とに告げたところ、全員が集まることになってしまったことこそが今回の件における最大の誤算だったかもしれない。自分と双葉とモルガナと、あと誰か一人くらいならもう少し長居してもよかったのに、と。
 しかしこうして怪盗団のメンバーが集まることにも意味はあった。
 駅へ向かう帰り道、
「そういえば」と新島が切り出して、そろそろ中間試験だけどちゃんと対策してる? と続けそうな気配を感じ取ったのか、高巻が遮るように「あーっ!」と声を上げた。
 怪訝そうな、一部呆れたような視線が集まるのにも構わず、高巻は前を歩く双葉に並んでツンとそのこめかみを一度突っついた。
「そういえば双葉、なんか引っかかることがあるとか言ってないっけ?」
 そういえば、と新島が再び反応する。
 の怪我を目撃した日の作戦会議中、保田にパレスが存在しないことから改心は不可であり、また直接現場を取り押さえることも難しいかと歯を噛んだときのことだ。
 双葉は言った。
『そこんとこもなーんかちょっと引っかかるんだけど……』と。
 そこんとこというのは即ち、が青タンをつける羽目になった出来事だ。
 双葉すぐに該当する記憶を思い返して「あー、あれな」と応えて手を打った。
「ほんとにちょっとしたことなんだけどさ、ほら、が例のやつが生ゴミばら撒いてる現場をみつけたときにさ、監視カメラに決定的な瞬間が映ってなかったって話だっただろ」
「そんなことも言ってたな」
 本人から直接話を聞き出した雨宮が頷いてみせる。伊達眼鏡の下の瞳は続きを促してもいた。
「うん。その監視カメラって、警察とか行政とかじゃなくて、自治会が働きかけて町ぐるみで設置したものなんだよね」
 これもまた双葉がから得た情報だ。町内会費をやりくりして、その上で不足分を寄付という形で出し合ってどうにか設置したのだと。
 だけど、と繋げて双葉は人差し指を立て、空中に円を描きつつ重ねて述べる。
「保田は新参で、つきあいもないし町内会にも所属してなかった。だからカメラの存在を、知ってはいたとして、その位置を正確に把握なんてできるもんなのかなって」
「事前に下調べを済ませていた可能性は?」
 これは新島が。彼女はすでに双葉が言わんとすることを把握している。そのためこれは結論を見越しての問いかけだった。
 双葉もまたそれを承知しているのだろう、小さく頷くとまたさらに続けた。
「それも考えられる。けどそんなことしてまわってたら、それはそれで人目につくよな? だけどそういう話も記録もないんだ。他のカメラからの映像とか、地元系の掲示板とかもあたってみたりしたけど、そういう系のは一切見つからなかったんだよ」
 怪盗たちは揃って眉をひそめた。
 それは頭の良い悪い、勉強ができるできないの区別なく、彼らがすぐに双葉の考えを理解してしまった証明だった。
「ちょっと、それって……」
「内通者がいる、と?」
 胸をよぎった嫌な想像にはっきりとした形を与えたのは喜多川だった。あえて口にせず濁した高巻などはそれにも目を眇めている。
「そういう可能性もある、って話」
 けれど双葉の反応というのは軽快なものだった。頭の後ろで手を組み、大股になってさっさと先を行きはじめる。
 ―――まあでも今はいいじゃん。難しいこと考えるのやめようよ。なんといっても明日は……
 自然と視線が双葉のすぐ後ろを歩く奥村に集まった。
 この日の朝に彼女は皆に伝えていた。お父さま―――つい先ごろに≪改心≫を済ませた彼女の父親、奥村邦和が明日、報道各社を招いて記者会見を行うと通達したのだと。どうやらやっと≪改心≫の効果が出たからしい。
 これによってかねてより計画されていた怪盗団の打ち上げも同時に行おうということになっている。場所は国内有数のアミューズメントパーク、それも貸し切りだ。これまでだって散々いい思いをしてきたがこれは格別だった。ビュッフェも鍋も寿司も海もそれぞれ特別な思い出だが、比べたらちょっと色あせてしまいそうだ。
「そういやそうじゃんな! っべ、今からテンション上がってきた!」
「竜司うっさい。……わかるけどね!」
 にわか子どもたちの間に浮ついた空気が流れる。
 雨宮もまた心もち足取りを軽くして、モルガナの収まる鞄を揺らしてみせた。
「んニャッ、こら、もっとそっと扱えよ!」
 猫は鞄をから首を伸ばして彼を叱りつけたが、ヒトの耳にニャン仏だ。あまり聞き入れてはもらえず、彼はしばらく振り回され続ける羽目になった。

 玄関口で雨宮らを見送り一人になったは、ゆったりとした足取りで居間に戻ると客用の座布団やコップ、菓子盆などを片付けはじめた。
 この家から母親という存在が失われたのは四年前、ちょうどこの少年が中学に上がってまもないことで、病死だった。生まれついて身体が丈夫なことを誇っていたようなひとだったのだが、風邪が長引くなぁと言っているうちに倒れてしまった。その場は病院に搬送、処置を受けて事なきを得たが、なかなか回復せず入院生活が半年も続くとそのままコロリと逝ってしまった。
 直接の死因は肺炎ということになるんだろうな、とは考えている。
 曖昧な記憶になってしまっているのは亡くなった時刻が丑三つ時迫る夜中の出来事だったからだ。いよいよ病状よろしくないと父に連れられて病院に行ったはいいものの、うつらうつらとしているうちに寝入ってしまい、朝になったら母親がいなくなっていた。いやさ遺体はあるのだが、死んだといわれてもなんだかよく解らなかったし、葬式だ手続きだなんだと慌ただしくしているうち、結局どうして母親が死んだのか訊かずじまいになってしまった。
 穿って尋ねるつもりもなかった。不審なところがあるわけでもなし、下手にほじくり返して父親を刺激したり傷つけたりしたくはなかったからだ。
 父と子と二人だけで暮らしはじめて四年、家事全般もすっかり身についた。はじめのころは男二人で途方に暮れていたものだが、慣れるものだ。
 洗い物を片付けた少年はついでにと仏壇に生けた仏花の水を取り替える作業に移った。またさらなるついでにお茶を入れて、花と一緒に供えてやる。
 彼は線香に火をつけながら、朗らかな笑顔の女性に語りかけた。
「母さんの言った通りだったよ」
 両手を合わせた少年の胸には母親の言葉が蘇っていた。
 ―――、決して独りになるんじゃないよ。人ひとりの力なんてたかが知れてる、だから決して独りになっちゃいけないし、誰かを孤独にさせてもいけないんだよ。
 誰かに向けて差し出した手は必ず自分にも差し出される。
 だから、人には親切にしなさい。と、少年の母親は彼が今よりもっと子どものころから噛んで含めるように教え続けた。亡くなる直前までというわけではないが、それは今も深くこの少年の人格に根差している。
 彼が双葉と出会ったのはほんの偶然だった。今はもうサービスの終了したあのゲームで遊んでいたのだって、混沌とした場に秩序を取り戻してやろうだとか、ゲームを破壊するチーターが許せなかっただとか、そういった想いに駆られたというわけでもなく、ただ暇つぶしに選んだだけだ。
 そこで彼女と出会い、フレンド申請をしてクランに誘ったのだって特別な理由があるわけではなかった。なんで負けたの? と訊かれたからには悔しかったのかと思って彼なりの勝ち方を説き、手ほどきしただけのつもりだった。本名も年も性別も、個人を個人たらしめるパーソナルデータをなに一つとして知らない、そういう知り合いが彼には無数にいて、フタバもそのうちの一人でしかなかった。
 だけどあの子は……あのころはジンニーと名乗っていた子は、いつも一人でいるようだった。それもまた珍しいものでもなかったが……
 母の言葉を胸に返して、少年は彼女―――当時は小学生男子あたりだと思っていた―――に一緒に遊ぼうと声をかけた。すると彼女は少し迷ってから、「三十分だけなら」と応えた。
 それが一時間になり、二時間になり、無制限になるのに時間はかからなかった。二人の腕前はほとんど拮抗していて、対戦するにしても協力するにしても、他と組むよりよっぽど楽しかったからだった。けれどそれも毎日のことではなく、連日朝までなんてこともあれば一週間も二週間も連絡が取れないなんてことはざらにあった。それでも断絶することなく続いてきたのはやはり、掛け値なしに楽しかったからだろう。
 そうやって遊ぶようになってしばらく、二人はとあるフライトシューティングで大敗を喫した。機体性能や装備の問題ではなく、完全に連携した相手方にしてやられての敗北だった。
 というのも、そのゲームにはトラブル防止策の一環か定型文のみでしかプレイヤー間のやり取りは行えず、密に連携を取るにも一秒が惜しい試合中にそれを多用するのは難しい。対して相手方はどうもゲーム外でなんらかの音声通話アプリを利用しているらしい。
 そりゃ負けるわ。こっちはボタンポチポチして定型文出してるのに、むこうは文字通り音の速さでやり取りしてるんだから。
 あらかじめいくつかの戦術を考案、仕込んでおいて状況次第で発動という程度では勝てなかった。じゃあどうやったら、と少年が思案する傍ら、フタバは長いこと沈黙していた。
 拗ねちゃったかしらと思っていると、やがて彼女は「もう一度やろう」と言い出した。それにはゲーム外のルームIDが付属していた。
 結果から言えば二人は勝った。声で繋がり、相手の裏をかいて勝利をもぎ取ったのだった。それで満足したのか、すぐに彼女はボソッと「寝る」と言い残してログアウトしていった。
 それから、ずっと二人は勝ち続けた。時に戦車や装甲車を駆り、時に戦闘機で空を駆け、あるいは星々の海を航行して海賊行為に勤しんだりもした。あまり一つのところに留まることはなかった。世の中には飽きるほどたくさんのゲームがあったから、二人がお互いに飽きることはなかった。
 互いのことを話し始めたのは知り合ってから半年も経過したころになってからだった。それも話そうとしてのことではなく、ただお互いのユーザーネームやチーム、ギルド名、機体につけた名前から「それ好きなの?」と訊いたというだけのことだ。
 その点においてフタバはひどく慎重だった。少年だって無用なトラブルは可能な限り避けるべきだと考えていたから、それを咎めるつもりも無理に踏み込むつもりもあまりなかった。プライベートを詮索されたくない人というものは一定以上いる。
 だから今年度に入ってすぐの四月六日を過ぎたころ、フタバから学校ってどう? と訊かれたとき少年はたいそう驚かされた。高校生活ってどんな感じなの? と。
 それは単にフタバの中の人が中学生で受験を控えているからかと思ったが、どうもそういうことではないらしいと彼はすぐに察してしまった。思えば彼女はたいていいつもログイン状態か取り込み中、あるいはAFKの表示を掲げて放り出していることが多かったから、PCをずっとつけっぱなしにしているか、あるいはずっとその前にいるかだった。
 それを気にしたこともないようなどんくさい人物だったからこそ付き合いが続いていたともいえる。
 少年は可能な限り彼女の問いに答えた。朝起きてからの己の生活のほとんどを明らかにして、授業や部活、合間合間の休み時間にクラスメイトらとどんなふうに過ごすのかをつぶさに語ってやった。もしかしたらそれは彼女を傷つけるかもとも危惧していたが、フタバは淡々とした様子で「そんなもんなんだ」と応じるに留まった。
 一体全体どういう心変わりだろうと思っていると、それからまたしばらくして彼女が「トモダチができた。っぽい。たぶん。うん、おそらく……」と自信があるんだかないんだかよくわからない調子で言った。
 もちろん彼はこれを喜んだ。
 そうなんだ、よかったな、どんなやつ? 俺と同い年なの? 眼鏡仲間? なにそれ。まあいいや、それでそれで? 猫? モルガナ? 海に行ったの? 女子と!? いいなーうらやましいーかわいい子いた? 俺のアバターよりかわいい? それはさすがに、盛ってんでしょ。
 根掘り葉掘りとまではいかないが、当たり障りのない部分を訊いて、それで少年は心の底から喜んだ。同時に感嘆もした。なんだ、別にこの子は独りなんかじゃなかったんだな、と。
 それからまた少しして彼女は少し唐突に、しかし強く切実に、会いたい、と訴えた。
 おまえと会って、顔を直接見て話をしたい。だってトモダチなんだから。
 少年は応えた。肯定の意を籠めて約束の時間、約束の場所に向かい、そして人違いをした。小学生か中学生の男児だと思っていただけにフタバの容貌には驚かされたが、それでも接見に際した言葉に嘘や偽りは一つもなかった。
 会えて嬉しい、来てくれてありがとう。
 そう言って差し出した手をとった小さな手が自分を―――唯一残された肉親である父と、母親を亡くした己になにくれと面倒を見てくれた工場の従業員たちと隣近所の人たちと、多くの人たちを助けてくれた。
 元よりフタバとの付き合いに親切にしてやろうなんて意図もなかったが、母が言っていたのはきっとこういうことであろうと少年は深く納得する。
 独りになるな、独りにさせるな。母の言葉はまた強く彼の心に刻み込まれていった。それこそが彼にとって必要なことだった。