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02:Evil Omen
それでも念の為、雨宮はの身辺調査を開始した。それは怪盗団のためでもあったし、かわいい妹分のためでもあった。
悪いオトコに騙されてやいないか。なんて兄貴ヅラをするつもりはなかったが、惣治郎がやたらとどんなやつだったかと訊いてくるのも一因ではあった。
血のつながりはなくとも父親だ。突然現れたボーイフレンドなるものに―――様々な意味で―――興味津々らしく、雨宮がその日に見聞きしたことを伝えただけでは満足してくれなかった。
袖の下にねじ込まれた樋口一葉の肖像に買収されたわけではないと、雨宮は訊かれてもいないのにモルガナに強く主張した。
翌日、雨宮はが通っていると語った都立の工業高校の最寄り駅まで足を伸ばした。目的は彼の自宅を突き止めることだ。
この目論見は半分成功して半分失敗した。
学生が多く行き交う放課のころ、見知らぬ高校の正面門が見える場所に佇んだ少年は、じっと息を潜めてが通りかかるのを待った。
しかし三十分待っても一時間待っても、は姿を現さない。
そういえば部活をやっているとも先日の歓談の折耳にしていたことを思い出すころには、秋が近づきつつある空が茜色に染まりかかっていた。
「しまった」
「オイオイ……ここまで来てムダ足かぁ?」
癖のある前髪を指先でいじりながら息をつく彼を、鞄の中のモルガナがせせら笑った。怪盗団とは関わりのない用件だからか、モルガナにやる気はあまりなさそうだ。
どうしようかなと考えているうちに校門から吐き出される人の数は減っていく。思えば通用門だって一つではないし、自転車通学であれば正面門を利用するとは限らない。
やってしまった。時間を無駄にしたか。
肩を落としつつ踵を返した彼の背に声がかかったのは五時半を過ぎたころのことだった。
「あれ? 雨宮?」
聞き覚えのある、一般的にみて爽やかと形容していい、声変わりの済まされた少年の声だ。
モルガナは鞄の底にへばりつき、雨宮はぎこちなく振り返って彼を見た。
250ccの国産アメリカンバイクに跨って不思議そうな顔をしているのは間違いなくその人だった。
「あ、やっぱり雨宮だ。雨宮蓮。俺のこと、憶えてる? ほら、昨日フタバと一緒に―――」
忘れるわけがないだろう。言い返してやりたかったが、朗らかな笑顔を浮かべているところを見るに馬鹿にしての発言ではなさそうだった。
雨宮は頭をかいて、身体を彼に向きなおした。
「覚えてるよ。だろ」
「でいーよ」
気さくな提案に、雨宮は困ったように眉尻を下げた。
のこのような振る舞いを前にすると、己がしようとしていた間諜めいた真似がまったく馬鹿らしく思えてならなかった。
雨宮はふっと緊張を消し去って口元を綻ばせた。
「俺も蓮でいーよ」
は少しだけ照れくさそうに頭をかいて「そう?」と首を傾げたが、雨宮が頷いてやるとやはりどこか恥じらいつつこれを受け入れた。
「それで……蓮はこんなところでなにを?」
「あーその、なんていうか」
「ん?」
「えっと……」
正直に「双葉のことが心配でお前の身辺調査に来た」などとはちょっと言えなかった。曖昧に誤魔化そうと頭をかく少年に、しかしは笑ってこの企みを見抜いてしまう。
「もしかして、浮気の心配とかしてる?」
「は―――?」
ちょっと斜め上の方向に受け取って。
「心配しなくてもフタバと俺はそういうんじゃないよ。あくまでもチームメイトで、戦友ってやつ。昨日会ってもやっぱ女子って認識できてないし、むしろ応援してる。アイツだって絶対悪く思ってないって」
「いやいやいやいや。俺だってあいつのことを女子だと思ったことなんてないよ」
それはそれで大変失礼なことだったが、雨宮としてはなんとか解きたい誤解だ。必死になって言い募る。
「俺はただ、あいつの保護者があんまり心配するから。どういう家のやつなのかとか、ヤバい連中と付き合いがないかとか、そういうのを調べに」
「ふーん」
「あっ」
企みをすっかり口にしてしまってから、少年は慌てて口を押さえた。覆水盆に返らずとはこのことかと恐る恐ると見上げる先に、呆れたようなの瞳がある。
「いやその……ごめんなさい……」
素直に頭を下げた彼には快活に笑った。目を糸のように細めて、まるで人懐っこい大型犬や熊のようになる。
「気にしてないよ。最近じゃそういうの怖いもんな。心配は解るし……」
言って、はふうむと考えこむ仕草をみせた。太い腕を組み、視線を斜め上に投げて思案することしばし―――
沙汰を待ってしおらしく項垂れる少年の肩をちょいと指先で叩いて顔を上げさせると、彼は快活に笑って言った。
「俺んちくる?」
当初想定していた形とは違っているが、願ってもない申し出だった。
タンデムシートに相乗りさせてもらって連れてこられたのは、まだ下町風情の残る工場町とでも呼ぶべき場所だった。
錆の浮いたトタン板と鉄骨、開け放たれたシャッターに年代物の軽トラックやフォークリフト。あちこちから金属が削られる音や大型の機械が回転する音が鳴り響いているが、それは不快感よりも活気というものを雨宮に強く印象付けた。
そのうちの一角、いかにも年季の入った工場の裏手に家はあった。
二階建ての、こちらも築年数のありそうな木造住宅だ。雨宮にはどことなく懐かしさを抱かせる佇まいだった。
―――田舎のじいちゃんち、こんなんだったな。
思いつつ通されたの部屋はいかにも年ごろの男子の部屋という風情だ。壁には古い洋画のポスターに、棚には漫画単行本に映画のディスクケース、それにゲームがぎっしりと隙間なく詰め込まれている。
これだけなら雨宮の右腕ともいえる親友、坂本竜司の部屋と大差ない。
最大にして唯一の違いは部屋の半分を占有する巨大なデスクトップパソコンだ。マルチモニタにゲーミングマウス、複数種のゲーム用コントローラーとフライトシミュレーター向けの専用コントローラー……アーケード型の対戦格闘ゲーム用の大型コントローラーまである。
雨宮は驚きつつ、それらをまじまじ眺めて羨望の眼差しをに送った。
「すげー」
「ほとんどは中古だよ。譲ってもらったり、壊れてたのを直したやつもあるし」
モルガナは耳をそばだて、ひくつかせた鼻をわずかに鞄から覗かせている。他所様のお宅のにおいだ、狭い額にしわを寄せるがしかし警戒するようなものも感じ取れないと、彼はすぐにまた底へ伏せた。
雨宮はそんな猫入りの鞄を畳の上にそっと置くと、興味深げにして部屋を歩き回る。
「うわ、これ子どものころやった。めっちゃハマった」
「どれ? あーこれかぁ、俺もすげーやり込んだよ。対戦がアツいんだよね」
「そうそう。みんなで集まってさ、でもテレビ小さいから四人で遊ぶと全然見えないんだ」
「それ。わかる。映像も荒いからキャラと自分の手と壁の見分けつかないのよね」
ほんの数年前の思い出を肴に二人は笑いあった。
モルガナはなんのこっちゃと呆れているが、鞄の中の様子は知れない。二人はそのままコントローラーとゲーム機本体を引っ張り出して遊び始める―――
雨宮が目的を思い出したのは、さんざん土をつけられ、それが悔しくてムキになって何度も再戦をねだった挙げ句お菓子とジュースを頂戴し、また別の、今度は協力型のゲームを小一時間ほど堪能してからのことだった。
校門前で再会を果たしてから二時間は経過している。時計を見ると、午後八時ちょっと前、外はすっかり暮れてしまっていた。
「あっ」
鞄の中のモルガナはもう一時間も前から丸まっている。かすかな寝息は幸いなことに大型のモニターから垂れ流されているチープなBGMにかき消されて二人の耳には届いていない。
雨宮は慌てた様子でスマートフォンをポケットから引っ張り出した。
ロック画面にはメッセージログがいくつも積み重なっている。
『遅いってそうじろうが怒ってるよ』
『心配してんのかも』
『おーい』
『なんかあったのか?』
『連絡求厶』
いずれも双葉からのもので、最新の通知は怪盗団のグループチャットに投げられている。
『リーダーと連絡つかないし帰ってこないんだけど誰かなんか知らんか』
タイムスタンプはほんの数分前にメッセージが受信されたことを示している。慌ててロックを外したが、タッチの差で既読の文字が付き始めた。
『彼なら授業終わって普通に帰ったよ?』
『俺も見た。ちょっと急いでる感じだったけど、なんかあったのか?』
その上、同じ秀尽学園生である高巻杏と坂本竜司が反応してしまった。
まずい、と青ざめる隙こそあれ、事態を重く見た怪盗団の作戦参謀官、新島真が発言する。
『まだ帰ってないの? ちょっと心配ね。双葉、心当たりはある?』
『ない!』
では個人的な用件か、あるいはまたトラブルのニオイを嗅ぎつけて調査でもしているのか……
真剣に論じ合う怪盗たちの中に喜多川祐介の発言がポップする。
『既読の数が6になっているじゃないか。リーダー、ここを見ているんじゃないのか?』
雨宮は凍りついたが、今更アプリを閉じたところで付いた既読は消せはしない。
『あれホントだ』
『なんだよいんのかよ』
『行き倒れでもしたのか?』
『どうしたの? なにか問題?』
『おイナリじゃあるまいし』
は不思議そうな顔をして雨宮とその手元を交互に見比べている。
雨宮は観念して、現状を簡潔に言い表した。
『ごめんゲームしてた』
―――チャットは数十行に渡って罵詈雑言に埋め尽くされた。
もちろん、だってここに至る前に帰らなくて大丈夫かと、迷惑そうにするでもなく問いかけていた。そのたびに雨宮はそんなことより再戦だとコントローラーを固く握りしめ、場合によってはのほうがこれを乞うこともあった。
「なんか通知やばくない? ごめん、もしかして引き留め過ぎたかな」
「いや、それは俺も……あ、あ、あー……」
チャット上のお叱りはいよいよ今日のことだけでなく日頃の行いにまで至り始めている。やれ無駄遣いするな、やれ持ち物の整理整頓をしろ、やれちゃんと忠告に耳を傾けろ、もっと位置取りに気を配れ、きちんと弱点を把握しろ、指示は短くはっきりと―――
その場で膝を抱え始めた雨宮を前に、は頭を掻いた。
「大丈夫? あのさ、もしなんなら俺からも謝ったりしたほうがいいかな」
「いいよ、それは本当に大丈夫。なんか日頃の、恨みつらみが噴出しただけっぽいから…
…」
それは大丈夫とは言えないんじゃないのか―――
はそう伝えようとしたが、雨宮は頑なに首を振って不要を訴える。
そもそもの話、彼はここにゲームをしに来たのではないのだ。目の前で気遣わしげに眉をひそめている少年の身辺調査に来たのであって、おやつを頂戴しに来たわけでは、決してない。
(けど……)
双葉にとって危険のない相手かを知るという意味では、目的は半ば達成できたと言ってもいいだろう。
二階の東側に位置するこの部屋に上がるまで他に居室らしきものは一つしか見当たらなかった。おそらくそちらがの父親の部屋だろう。あとはトイレが一つと物置が一つ。一階には広めのダイニングとキッチン、風呂とトイレと、裏に隣接した工場に繋がる廊下と扉……
推察するにきょうだいはおらず、父との二人暮し。貧しくはなさそうだが、家の中を見るに特別裕福ということもなさそうだ。
部屋に物は多いがきちんと整頓され、掃除が行き届いている。壁に取り付けられたフックに下げられたジャケットやシャツもきれいなものだ。きちんとアイロン掛けがなされ、チラと見た父親の部屋らしきスペースも整理整頓されていた。
つまりこの少年の身辺は、少なくとも見かけ上は荒れていない。
懸念があるとすれば、この時間になっても父親が影も形も見せないことか―――
「親父なら今日は自治会の会合だよ」
問うとはなんの疑問も警戒も挟まずに答えた。親父は会長やってんだ、と。
帰り支度を整え、部屋を出ると二人はそのままダイニングに降りる。
「そんなにかかるものなんだ」
「普段はそうでもないんだけどね。最近は―――飲みでもしてるんじゃない?」
快活に笑って先を行くに続き、雨宮も食卓の脇を通る。すると入るときは気が付かなかったが、出口近くの壁に備え付けられたまだ新しそうな仏壇が目に入った。
金の吊灯籠に花立に生けられた仏花、高月には果物や菓子が供えられ、火立ても線香差しも、おりんも磨かれて鈍く輝いている。
それは小さな額に納められた写真の女性が、この家の中でまだ色濃く影響をもたらしている象徴のように雨宮には思えてならなかった。
通り過ぎがてらの目を盗んで軽く頭を下げ、心の中で「お邪魔しました」と挨拶をする。返るものはないが、そうすることが礼儀にかなっているだろうと彼は思った。
「送ってかなくて平気?」
玄関口ではそう言ってバイクのヘルメットを叩いてみせたが、雨宮はやはり首を左右に振った。警戒する必要はない人物だとは判明したが、さりとてルブランに近寄らせるにはまだ時期尚早だろうとして。
なんにせよは笑顔で彼を見送った。
「また遊びに来いよ。今度はフタバと、なんだっけ、モルガナ? も連れてさ」
鞄の中の本猫がピクピクと耳を震わせているのを感じながら、雨宮もまた笑顔を彼に向けた。
「そうするよ。あ、ID教えて。今度はちゃんと、連絡してから来るから」
「ふっ、そういやそうだ」
二人は連絡先を交換して、その日はそれでお開きとなった。
ねぐらに戻った雨宮を惣治郎は睨みつけたが、のことを話してやると渋い顔をしてお叱りを飲み下した。
男はむつかしい顔をして言う。
「ま、双葉の『トモダチ』だ。本物の悪党ってこたぁねえだろう」
あの子にだって人を見る眼があるんだ、と惣治郎は己こそを納得させるように言葉を噛みしめた。
その目の前で、本物の悪党であるところの少年は、やたらと強調された『トモダチ』という単語に苦く笑うばかりだった。
約束はしたものの、と雨宮の次の接見はすぐにとはならなかった。
なんとなれば雨宮が修学旅行でちょっとハワイに行くことになったからだ。それも、目的地こそ違っているが日程が重なり、秀尽学園と洸星高校と、二つの学校に通う怪盗団の面々は揃ってこの地を離れることとなった。
こうなってしまうと猫ではないと常々主張するモルガナも―――その正体が本当にニンゲンかどうかは未だ不明だが―――少なくとも生き物であることに間違いはないから、飛行機にまでは潜り込めない。
双葉は留守番となった彼を自宅に引き取ると黙々と、時々独り言と忍び笑いを交えながら己の仕事に取り掛かった。
とはいえそればかりをしていると飽きがくるものだ。
そういうときに大切なのが友達というものだと、この双葉はもう知っている。
『! あそべー!』
前置きも遠慮もなく送りつけたメッセージに返信はすぐにはこなかった。
それもそのはずで、時刻はまだ昼の十時をやっと過ぎたころ。は授業中だった。
やっと返事が帰ってきたのは昼飯の時間になってからだ。双葉はモルガナとともにルブランで昼食をとりながらそれを受け取った。
『今日はムリ』
『なんだよーバイトか? ついに女ができたか?』
の通う高校は以前こそ男子校だったが、近年生徒数の減少から共学に移行している。とはいえまだ女生徒の数は少なく、科によっては片手で数えられる程度だ。
競争率の高さ故にできるわけがないだろうと含んでの文言だったが、の返事はそっけない。
『ちょっと忙しいの』
『えー』
『ごめんな。また今度な』
双葉は渋々これを受け入れ、次は断るなよと厳命してスマートフォンを置き、代わりにさじを取った。
「……アイツらか?」
声は足元で丸まっていたモルガナのものだった。低くささやきかけるその声はいつもの高慢さや覇気を欠いているように思えたが、双葉がこの猫の声を言葉として聞き取れるようになったのはつい先ごろのことだ。気のせいかと彼女はこれを受け流し、ただ緩く首を左右に振った。
なにより惣治郎の目もある。大っぴらにモルガナと会話して、いらぬ疑いを持たれて医者に連れて行かれるのはごめんだった。
「そうかよ」
モルガナは短くそう応えると、再び床に伏せてしまう。双葉はやはりなんだか様子が変だと思ったが、再び持ち上げたスマートフォンに表示された情報……雨宮ら修学旅行組の現在地を見てすぐに忘れてしまった。
ハワイか―――
心ははるか彼方の異国の地を夢見ている。
行ってみたいかと問われればそれは……まあまあイエスだ。陽キャの嗜みみたいな真似をしたいわけではないが、つい先日、夏休みの終わりに皆と行った海は思いのほか楽しかった。
あんなふうに遊べるのなら、人の多いところも、騒がしさも、きっと悪くない。
(それに……もしまたどこか遊びに行くなら、そんときはも誘ってやろうかな。蓮とは顔合わせ済んでるし、他の連中ともたぶん、へーきだろ。あいつ人懐っこいし)
少年の笑顔を薄い胸に返す。糸のように細くなった目に、歯を覗かせる大きな口……
別に恋なんかでは全然なかったが、双葉はそれを思い返すと愉快な気持ちになった。
自分はまた、友達をつくることができたという実感がじんわりとした不思議な暖かみを手足の先に与えている。
それ故に双葉はスプーンを握る手に力を籠めた。
手放したくはないと控えめに訴える仕草は惣治郎の目には止まらなかった。そうであれば彼は優しく『友達ってのはそんなに肩ひじ張るもんじゃねぇだろ』と諭してくれたかもしれない。
モルガナはただ床の上で丸まっている。
そのモルガナが家出したのは、修学旅行から帰ってまだ一週間も経たない内のことだった。
本猫曰く立派なニンゲンのオトコなのだから、一晩二晩帰ってこない程度で心配する必要もないだろうが、今回に限っては放っておくこともできない理由がある。
それは微笑ましく見守れる範疇を超えたケンカだ。決定的な決別となる前に、雨宮は―――怪盗団はモルガナを捕まえなければならなかった。
そういうわけでほうぼうを走り回った末、猫ではないと主張する猫はすぐに見つかった。けれどそこでまたひと騒動あって、怪盗たちはほうほうの体で逃げ帰る羽目になる。
なんだかまたぞろ妙な展開になってきたとうんざりする暇さえなく追い立てられ、汗だくになってパレスと現実とを疾走していると、タイミングの悪いことにもう一つの厄介ごとが影を覗かせはじめた。
「んっ?」
飛び込み乗車の勢いで電車の中に滑り込んだ雨宮は、にじみ出る汗を手の甲で拭いながら上ずった声を上げた。
隣では同じく汗をかいた坂本が、空調の効いた車内に心地よさげに目を細めている。どうやら彼には雨宮の声が届いていなかったようだ。
反応したのは二人に半ば担がれながら車内に放り込まれた双葉だった。
「……あれ、だよな?」
「あん? 誰?」
今度は坂本も声を聞き取ったのだろう、顔を上げて車中を見回し始める。
やがて彼は雨宮と双葉が怪訝そうな視線を向ける先、似合わないサングラスで顔を隠した偉丈夫を発見する。
「……誰?」
坂本は首を傾げて二人に再度問いかけた。
「わたしのダチ。だと思うんだけど……」
「なんでサングラスなんてしてるんだ?」
推定らしき人物は雨宮たちの存在に気がついておらず、彼らから顔をそむけてじっと隣接した別車両のほうを熱心に見つめている。
好奇心をくすぐられて三人がそちらへ目を向けると、貫通扉のガラス越しに二十代と思われる男がつり革につかまってスマートフォンを覗き込んでいる姿があった。
知り合い……にしては、妙な雰囲気だ。
似合わないサングラスに、不自然な距離感。なにをするでもなく下げられた腕と拳には力が籠もっているように窺える。
雨宮たちは顔を見合わせて首を傾げ合った。
「あれナニしてんの? つかどうすんの? 声かけんの? 俺どうしたらいいのよ」
坂本が困った様子で声を潜めて告げる。
「尾行みたいなことはされてないだろうから、あいつと接触してもいいとおもうけど……」
双葉もまた、雨宮を困り顔で見上げている。
判断を任された雨宮はうーんと呻きつつポケットからスマートフォンを抜き出した。
しばしの後、らしき少年が煩わしそうに肩から下げたスクールバッグをまさぐりはじめる。その手が再び雨宮たちの目に晒されたとき、彼もまたスマートフォンを手にしていた。
するとまた少しの間を置いて、雨宮の手元からチャットアプリの通知音が控えめに鳴らされる。
「双葉、捕獲していいよ」
メッセージに目を通しながら雨宮は双葉を前に押し出した。
彼女は乗車率の低い車内を小走りになって通り、すぐにらしき少年のもとへたどり着いた。
「……いいのかよ?」
「双葉のトモダチだ。悪いやつじゃない」
「や、そっちじゃなくて。寄り道すんなって怒られねぇかなって」
「あー……」
雨宮の脳裏をつい先日のお叱りの連鎖が思い起こされる。
とみに怪盗団の作戦参謀官殿のお怒りは大変なものだった。母親だってああも口やかましくはないだろうと思わせるほどの正論に次ぐ正論―――ロジハラだとうっかり言い返した途端の静かな怒りったらなかった。
いいや、あれはちゃんと自分がすべきことを欠いた報いなのだから、反省して受け入れるべきお説教だった……そう解っていたからといって潔くはなかなかなれない。
それ故若者は要らない反抗の灯火を一つ上の先輩に燃やして断然と言い放った。
「真が怖くて道草もできないなんて言うつもりか?」
「それパイセンに伝えとくわ」
「やめてよ」
反抗心は直ちにへし折られた。
さておき、双葉はとっくにらしき少年に歩み寄っている。
彼女に無駄な反逆の意図はない。ただ街角で偶然見かけた友だちに声をかける、それだけだ。
「? おまえなにしてんだ?」
しかしかけられたほうは、ビクッと肩を大げさに震わせ、決して似合わない色付きのグラス越しに彼女を見やる。
雨宮は己の意気込みをへし折った憎たらしい親友のすねを蹴りながらその動向を注意深く見守っていた。それは袖の下に残る小銭の数とは関係なく、ただ仲間の一人の身上を慮ってのことだ。
自らの判断の妥当性を推し量るためでもあった。あいつは安全そうだと思えたが、果たしてそれは正しかったのだろうか―――
何故なら双葉は、友人であるはずのの思いもよらない反応……一種拒絶的な、こんなところで会いたくはなかったと言わんばかりの緊張ぶりに失望感を滲ませている。
果たして彼はまったく似合わないグラスを素早く取り去り、いささか引きつってこそいるものの笑顔を浮かべてみせた。
ホッと息をついたのは雨宮が先か双葉が先か……坂本は訝って眉をひそめ、そんな彼らを一歩下がった場所で眺めている。
「フタバこそ。一人か? 蓮は?」
「いつも一緒にいるわけじゃない」
そうはいうものの、雨宮は双葉の隣に並んで軽く手を上げてみせた。
「いるんじゃん」
案の定はそのことを指摘してくる。肩からはやっと力が抜けたらしく、大きな手はゆっくりと下ろされて腿の上に置かれた。
ただしその視線は、まだチラチラとガラスのむこうの男へ移りがちだ。
雨宮と双葉は顔を見合わせて問いかけるべきかを無言のうちに確かめあった。どうしよう、踏み込んでいいものだろうか、と。
すると今まで二人の後ろで所在なさげに佇むだけだった坂本が無遠慮に口を開く。
「なあ、あのヒトがなんかあんの?」
思慮を欠いた発言に二人は咎める視線を送ったが、肝心の彼の目はその『あのヒト』に注がれている。そちらの男は相変わらず、スマートフォンに夢中だ。
のほうは意識の外に居た人物から唐突に声をかけられたからだろう、キョトンとした顔をして、肩には再び緊張が満ちはじめている。
雨宮は慌てて坂本を小突いた。
「挨拶くらいしろ。驚いちゃってるじゃないか」
「あ? あっ、ごめ……すいません。坂本ッス。こいつらの、あー、ダチっていうか……」
なんていうか、と照れくさそうに語尾をにごす坂本を、雨宮は再び蹴りつけた。そこは普通にトモダチって言っていいとこだろ、他にどんな関係だっていうんだ、と。
は瞬きを幾度かしてから、揶揄するような、ちょっと意地悪な笑みを浮かべた。
「ああ……二人の引率?」
「お、ソレ。ぴったり」
「どこがだよ。わたしがおまえらをナビしてやってるんだろ」
「少なくとも竜司には率いられてない」
二人からの突き上げにも坂本はへでもないと受け流して、なおも気安くへ語りかける。
「てか、えっと、? は……こいつらの知り合い? お前どこで人脈広げてんの?」
この場合のお前は雨宮を指している。彼は軽く肩をすくめて顎で双葉を示してみせた。
「俺じゃなくて、双葉の知り合い」
「えっ……」
「ちょっとなんだよその反応。シツレーだぞ」
「だってよ、えーっ? 双葉のぉ?」
どういう経緯で知り合ったのかと重ねて尋ねる坂本に、双葉はごく簡単にいきさつを説明してやる。
彼はやはり訝しがったが雨宮がゆるく首を振るとなにかに納得した様子で「ふーん」と短く、関心も薄そうに応えてまた『あのヒト』に顔を向けた。
「で、はあっちになんか用でもあんの?」
再度の問いにはわずかに顔を俯ける。
「……知り合いに似てるなって。声かけて違ってたら恥ずかしいじゃん?」
もっともらしい理由だ。雨宮と双葉にはつい先ほどに覚えのある経験でもあった。
けれど坂本は頷かなかった。
「知り合い……? マジで言ってんの?」
その眉間にはしわが寄っている。
にわかに漂いはじめた剣呑な雰囲気に、雨宮は思わずと彼の腕を掴んだ。
「どうした」
気遣わしげな声と眼に坂本はわずかに鼻白んだ。傍らの双葉から送られる、怯えの色を湛えた視線もあったからかもしれない。
彼は一度大きく息を吸うと、それをゆっくりと吐き出しがてら低くささやくようにしてわけを語った。
「……俺もあいつ……あのヒトを知ってんだよ。こっちが一方的に知ってるってだけだけど、ああ、よく知ってる」
一同の視線が一斉に貫通扉のむこうの人物に向かう。
彼らよりは年かさだが、まだ若い。二十代前半ほどで痩せ型、髪は明るい色に染められている。目の下にはくまが目立つが、身体つきは不健康ということもなさそうだ―――
その目は相変わらずスマートフォンに落とされている。当然、なにをそんなに熱心に見つめているのかは雨宮たちには分からない。
坂本は電車の走行音に紛れそうなほど声を潜め、言を重ねた。
「あいつがマトモなやつじゃないってことをな」
ギョッとしたのは雨宮と双葉だけだった。はただ拳を握り、静かに坂本を見つめている。
やがて彼は男に目を戻して言った。
「マトモじゃないってどういうこと?」
……それはこっちのセリフだ。とは全員が思っていたが、坂本でさえも口にはせずに済ませた。
何故なら彼が問う前にのほうが問いかけたからだ。
「その話、詳しく教えてくれないか? 頼む―――」
ふざけているのかとも捉えられる言動だった。
さっきと言っていることが矛盾しているじゃないか。それともやはり他人の空似で、の心当たりとは別人だったのか―――
言葉は再び喉奥に押し込まれる。
が人目も憚らず深々と頭を下げたからだ。
にわかに同じ車中に乗り合わせた人々の耳目が集中する。
「ちょっ……こら、っ……見られてるから、注目されてるって!」
慌てた双葉が身を滑り込ませ、直角に折られた上体をウェイトリフティングの要領で持ち上げる。上げられたの表情はやはり冗談やからかいを口にしているふうには見えなかった。
双葉を見下ろす瞳には後ろめたささえあるように窺える。
どうしたものかな―――
雨宮はの死角になるところで坂本の背をつつき、返答を保留させながら電車の釣り広告の一つに目をやった。
春先にあった地下鉄事故の顛末を仰々しく煽る見出しが大きく、派手な色合いで印刷されている。交通省の大臣が辞任しただとか、その後任に指名された某氏の醜聞がどうのこうの……
雨宮はやたらと扇動的な文章を頭と視界から追いやり、度の入っていない眼鏡のブリッジを押さえながらに向き直った。
「取引といこう。情報はタダじゃやれない」
妙に芝居じみた外連味のある台詞だった。耳をそばだてている者がいたとしたら、演劇の練習か、あるいはドラマや映画の真似事と思われたかもしれない。
も一瞬そんなふうに受け取ったのか、ぽかんと口を開け、間の抜けた表情を晒している。
―――しまった。滑ったか。
少年の背を冷たい汗がつたい落ちる。
けれど幸いなことには雨宮の発言の意図するところを賢明に解し、苦々しく口元を歪めつつも頷いてくれた。
情報の対価は、正直さと誠実さによって支払われるのだと。
「……俺は、たぶん解ってるだろうけど、俺はあいつを跡けてたんだ」
密かに息をつきつつ、雨宮は三度隣の車両の男へ視線を送った。相変わらずの様子だが、つり革を掴む手が左右入れ替わっていた。
「なんでそんなこと、してるんだよ」
不安げな双葉の声には申し訳なさそうに顔を俯ける。
「最近……ここ半年くらい前からかな、近所で嫌がらせみたいなことが続いてて……その犯人があいつじゃないかって睨んでるんだ」
「嫌がらせって?」
例えばどんなことだと問う雨宮に、はますます困った様子で肩を丸めた。その視線を追うに、どうもあまり双葉には聞かせたくない内容らしい。
「その配慮いらーん。わたしのほうがおまえに何回セクハラしたと思って……おっと」
「双葉……」
「いやいや、おまえらが思ってるようなやつじゃないから。ゲームのアバターに対する感想で……! 話! 続けて!」
「ええー……まあ、うん。ええと……」
だからね、と前置きをして、それでもまだ言い難そうには続ける。
「ごみ捨て場が荒らされてたり、アパートやマンションの共有部を住居者とか関係者でもないのにやたらと行き来したり……あと、あー……アレな画像や文章が書かれたビラが撒かれたり……」
あー、と少年たちは声を揃えての態度のわけを理解する。アレ、というのはつまり卑猥な内容なのだろう。
それは確かに、双葉がなんであろうと異性である以上、あけっぴろげに話したい内容ではないだろう。
おまけにこの場合は悪辣な意図が垣間見える。
ただ気になるのはその対象だ。の発言からは不特定多数の存在が垣間見えるが、嫌がらせの顔ぶれは個人を狙ったストーカー行為めいた印象を受ける。
そのことを指摘すると、は首を左右に振った。
「場所がね。一つの住所に限定されてないんだ。あの辺……俺んちの近く一帯で、連続もしてない。すごく散発的なんだ。パターンみたいなものも掴めてなくて」
このため自治会が行った監視カメラの設置や見回りもあまり功を奏さなかったという。
じゃあどうしてあの男に目を付けたのかと問われると彼はまた自信なさげに、自宅のガレージから街路に向けたカメラに昨晩深夜やたらと大きな荷物を担いで歩く見慣れない人物を発見したからだと語る。
それがあの男―――最近になって同じ町内の建て売り住宅に越してきた人物なのだと。
「現場を抑えたわけじゃないから、今はとにかくなんでも情報が欲しいんだ」