01:The usual day

「お願いそーじろー! お願いお願いお願い~!」
「駄目ったら駄目ってんだろうが! 双葉、お前は……!」
 階下から響く喚き声に強制的な起床を促され、少年は渋面を浮かべて枕元に放り出したままのスマートフォンに手を伸ばした。
 時刻を確認する。デジタル表示の時計は午前の九時を示していた。
 なんだまだ寝ていていい時間じゃないか。せっかくの貴重な休日を邪魔されてはたまらない。少年は布団を頭の上にまで引き上げて騒音をシャットアウトしようと足掻いたが、目論見は直ちにご破算となった。
「れんー! 蓮! 助けてぇ!!」
 どたどたと荒々しく階段を上る音が鳴り響き、それとともに何度も何度も名前を呼ばれ、ついにはどすんと重量のあるやわらかなものが上に圧し掛かってくる。
 呻き声をあげて、少年―――雨宮蓮は寝台の上から転がり落ちた。
「お、死んだか?」
 窓の桟の上で日光浴を楽しんでいた猫……モルガナが吐き捨てるように言う。雨宮は呻いて、寝台の上を占拠して己を蹴り出した少女を睨みつけた。
「双葉! オトコのベッドにほいほい入ってくるなって何度も言ってるだろう!」
 お説教めいた台詞に、佐倉双葉はイーッと歯を剥いてみせた。
 馬の耳に念仏とはこのことか。雨宮は痛む腹をさすって起き上がり、階段のほうへ目を向ける。
 ちょうど彼女と彼の保護者にしてこの屋根裏部屋と地階の喫茶店、ルブランの持ち主である男が困り顔を覗かせたところだった。
「マスター、どうしたんですか」
 気安く呼びかける程度には打ち解けてこそいるが、雨宮にとっても双葉にとってもこの男は血縁者でもなんでもない。ただ、彼がこの二人の保護者であることに間違いはなかった。
「あー……ちょっとな。ほら双葉、降りてこい」
「やだっ! 許可くれるまでここから降りない! われわれは待遇の改善を要求する!」
「俺を巻き込むな」
 寝ぐせか地毛か判別のつけ難い癖っ毛を掻きながらぼやくが、双葉はやっぱり歯を剥いて抵抗を示している。
 起きるにしても寝るにしても、このまま部屋に居座られてはままならない。雨宮はため息をついていまだ階段で困り顔を見せる男に向き直った。
「なにがあったんですか?」
 問いかけに惣治郎はいかにも困ったと言わんばかりに白髪の混じり始めた頭部に手をやった。
 曰く、双葉が一人で出かけようとしていた、とのこと。
 それだけなら心配はしたって引き止める必要はない。その目的がいただけないのだと言う。
「……オフ会?」
 店をいつまでも空けるわけにはいかないと惣治郎は階下に戻り、屋根裏は寝間着のままの雨宮と相変わらず寝台の上でむくれたままの双葉、そして彼女に抱えられて若干迷惑そうな顔をするモルガナだけになっている。
「そう。顔も素性も知れないやつに会うなんてだめだーってそうじろうが……古いんだよ考え方がっ」
 オヤジめ! と足をバタつかせる双葉に、雨宮はうーんと唸る。惣治郎の心配も、双葉の言い分ももっともだと思えたのだ。
 唯一の肉親である母を失い、心無い大人たちによって心身ともに深く傷つけられたこの少女は惣治郎の元へ寄越された後も心を開くことができず、つい先ごろまでずっと部屋に引きこもっていた。
 惣治郎としてはそんな彼女が心配でたまらないのだろう。ましてや顔もろくに知らぬ相手となればなおのこと。
 さりとて、部屋を出るようになった双葉が自主的に己だけの人間関係を構築しようとするのを阻むのはいかがなものか……
 考え込む雨宮に、双葉は涙目になって訴える。
「せっかく勇気を出したのに……そーじろーのばか……」
 しおらしいところを見せられてしまうと、雨宮はどうにも逆らうことができない。隣に腰を下ろして、なだめるように頭を撫でてやる。
「惣治郎さんはお前が心配なんだよ。それは分かるだろ」
「うん……」
「俺も言ってみるけど、どうかな。どんな人たちなんだ?」
 問いかけに、佐倉はうっと呻いて俯いてしまう。代わりにか、モルガナが顔を上げて彼女と雨宮を見上げた。
「えっとお……人たちって言うか、なんていうか……」
「まさか」
「一対一、みたいな……?」
「……相手は女の子?」
「え……えへっ! うへへへへっ!」
「今日は家にいなさい」
「わああぁん! ばかばかけちけち! オニ! アクマ! すけこまし!」
「双葉!! 根も葉もないことを言いふらそうとするな!!」
 それはこの自分には関わりのないことだと雨宮はきつく双葉を叱りつけた。


 それでも、どうしても。お願い。帰ってきたらお手伝いもするからと涙目で言われてしまうと、この父のような、兄のような男二人が折れるしかない。
 ただしそれにはもちろん条件があった。
「くっそー……モナはともかくなんで蓮まで着いてくるんだ」
「お前が野郎と一対一でオフ会とか言うからだよ。そらマスターも怒るわ。かわいそうに」
 ため息をついた雨宮と頬を膨らます双葉、そして足元に置かれたカバンの中から顔を覗かせるモルガナは、あまり通い慣れない駅の改札口、その目の前に建てられた時計台の前に並んでいる。時刻はちょうど一時になったところだった。
 休日の昼過ぎ、改札からは電車が停まるたびに人の群れが流れ出て、そのたびに双葉は期待するような、怯えているような顔をする。雨宮だって、人の多さにげんなりとした表情をつくっていた。
「心配しすぎじゃないのか?」
 ただ人の世の事情にあまり通じていないモルガナだけが呆れたような声を上げる。周りを通る人々は時々ちらりと彼に目を向けたが、多くの人はちょっと瞳を輝かせたり、驚いたり興味深げにして、それでも足早に歩き去った。その声が言葉として耳に届くのはこの場では雨宮と双葉だけだ。
 だからというわけではないが、雨宮はいくらか声を落として反論してやる。
「相手が良いやつかどうかなんて分からない。口先だけなら、どんなことだって言える」
「ふうん? でもよ、そんなのは直接目の前にいたって同じことじゃないのか?」
「だから、だろ。二重の意味で危ないって言ってるの」
「危ないって、なんだよ」
 口を尖らせた双葉が不満げに漏らすのに、雨宮は顔をしかめた。
 じっと改札口を睨むように目を向ける双葉はそれに気が付かない。彼女はそのまま悔しそうに言を重ねる。
「あいつはそんなやつじゃない」
「どうして言い切れるんだ?」
「わたしとあいつは、チームなんだ」
 チーム? と首を傾げたのはモルガナのほうだった。雨宮は黙って双葉を見下ろして、言葉の続きを待っている。

 佐倉双葉が語って曰く……

 なんの気もなく息抜きのつもりで始めたネットゲームがきっかけである、というのは雨宮にも予想のできていたことであった。
 ただ、彼女の言うところの『終焉』――フェーズ7あたり――を迎えつつあったそのサービスは、自動周回の不正プログラムやチート行為を嗜むプレイヤーが跋扈する不健全な遊び場になっていたのだという。
 双葉はそこに降り立って、それら混ざって遊んでいたのだと。趣味の悪い遊びだと雨宮は目を眇めた。
 とはいえ対戦相手もまた改造を加えた編成でもって挑んでくるのだから、それはそれで釣り合いが取れていると言えば取れていた。
 しかし―――
 ゲームは単純な十対十のチーム戦だった。遊びにならないからと当たり判定だけは残して挑んだそこで、双葉と彼女のチームメイトは完膚なきまでに叩きのめされた。
 それも、なんの改造も加えていない、加速も倍化も、無敵でもないプレイヤーに彼女は撃ち抜かれて『死亡』した。
 驚愕する彼女たちに彼は『gg』とだけ言い残してそこを去った。
 噂はまたたく間に千里―――人のほとんどいなくなったゲーム内コミュニティを飛び越え、一部のインターネット界隈にまで広がって、サービスはにわかに賑わいを取り戻した。
 奇妙なことに、チーターたちが一般プレイヤーに敗北したことで彼らは居場所を失い、また大挙して押し寄せた物見遊山の新規プレイヤーや出戻りたちによってゲームには再び秩序が取り戻された。もちろんそれでもまだ違反プレイを続ける者もいたが、少数派と成り果てたことを実感するとやる気を失って散り散りになっていった。
 双葉は時流に乗って一般プレイヤーに混じりプレイを続けた。
 どうせあれはbotだったと言う者もいたが、実際に対戦を行った双葉はあれがプログラムの類ではないと確信していた。
 あれはちゃんと、中に人が入っている動きだった、と。
 双葉は好奇心の赴くままに彼を探した。大した手間ではなかった。ユーザーネームは覚えていたから、サーバーに手を突っ込んで登録ユーザー情報を抜き出し、名前とログイン時間、挙動を調べればすればすぐに見つかった。
 盗み見た情報は日本時間における深夜帯に姿を現すらしいという目撃情報とも確かに一致している。
 双葉は再び彼に勝負を挑んだ。十対十のランダムマッチ、Tierは彼の側のほうが格下で、オープンチャットはマッチングシステムを呪う言葉であふれ返った。
 けれど、やっぱり負けたのは双葉たちだった。
 ゲーム自体は単純な陣取りゲームでしかない。相手の陣地内の規定のエリアに一分間留まるか、相手を全滅させると勝利となる。単純明快なものだが、それだけにやりがいがあった。
 フィールドの中央はまたたく間に鉄火場となったが、双葉はそこに加わらず、敵の攻撃を掻い潜って駆けずり回り、彼を探した。
 そうすることに深い理由があるわけではなかった。やられたからやり返したいとか、鼻を明かしてやりたいとか、そんな深長な理由ではなく、ただ単純に、彼女は好奇心のみによって突き動かされていた。
 このゲームにおける強さというものには課金要素やプレイ時間はさほど重要ではなく、純粋なプレイヤースキルが要求される。新しい装備や車両を得るのに楽をしたければ課金という手段があったり、特別な衣装やペイントが施せるといった側面はあるが、ゲームを遊ぶだけなら金は一円も掛からない。
 それだけにプレイヤー層は多岐にわたっている。双葉が追っているような者もいれば、右も左も分からないようなnoobまで。
 ランダムマッチの醍醐味はその無作為さであると双葉などは思っている。雨宮に言わせれば、同じ実力の者同士が集まったほうが楽しいはずだが、それはさておき。
 プレイの総数時間を見るに、双葉が探す彼はやりこんだタイプのプレイヤーではなかった。もともとこの手のゲームが好きでスキルを備えていたのか、天性のものなのか。それを見極めてみたかったのかもしれない。
 軽車両を駆って回る双葉は敵陣地深くまで入り込んだ。それだけでも役目は果たしているから、彼女の無軌道な行動に文句を付けるものはいなかった。接敵すればチームの共有マップに数秒間だけ相手の位置がマークされる。
 もっとも、なにを言われたところで彼女は己の行動を改めたりはしなかっただろう。それもランダムマッチの良し悪しだった。
 さて、疾走する彼女はぐるりとマップを一周したが、彼を見つけ出すことは叶わなかった。
 大した期待もしていなかった。
 覗き見た彼のスコアから推察するに真正面からのぶつかり合いは彼の本領ではない。敵の裏をかいての奇襲を得意とするか好んでいる。
 であれば中央の戦闘はブラフだ。そこに目が集まっているうちになにかしら仕掛けてくるはず。
 もちろん双葉以外にもその可能性を警戒して外周から敵陣地に切り込もうとする者もいる。
 しかしどうにもその進みは遅い。そう入り組んだ地形ではないはずだが、警戒が動きを鈍くしているのか、あるいは―――
 マップの外や内を適当に走り回りながら考えていると、そのうちに自陣に敵が侵入したことを教えるサイレンが鳴り始めた。
 にわかにチームチャットに動揺が奔ったが、双葉は喜んで手を打ち鳴らした。実際にはマウスとキーボードにかじりついていたから、心の中で。
 待ちわびていた展開がやっときた。やはり中央の戦闘は目くらましだったのだ。
 双葉は直ちに本陣へ向かった。武装は乏しいが、彼女には実力と自信があった。それに、単騎で自陣中央まで踏み込んだとなればおそらくは同等の身軽な装備である可能性が高い。単騎でも十分対処は可能だろう。
 もちろん急ぐのはチームメイトのためではない。そこに彼がいるかもしれないという期待によって双葉は突き動かされていた。
 そして望みは果たされる。
 推察通り自陣の旗の下には小型の軽車両、BT-2が震えながら勝利を待ちわびていた。装甲の薄い、低Rankでも操作、購入が可能な車両だ。乗り込んでいるのはおそらく初心者だろう。
 こいつもおとりか?だとしたら、これが見える範囲に彼もいるはず―――
 双葉は最大速でもって初心者の前に滑り込み、機銃の先端を向けてマウスの左クリックボタンを押した。
 途端に画面の中のカメラが激しく揺れ、続いて爆発が起きる。
 なんだと目を剥いて画面を除き見れば、アラートが表示されて、車両の脚部破損をやかましく訴えていた。
 驚嘆の声を上げる間もなく再びの衝撃が襲いかかる。車両前方に取り付けられた機銃がボンネットごと吹き飛ばされてしまっていた。
 双葉はカメラを引いて車体を確認する。リアリティがウリのゲームだったから、撃ち込まれた弾丸の痕が車体には生々しく刻まれていた。
 車軸に穿たれた弾痕の入射角を見て、おおよそのアタリを付けてまだ生きている主砲を向ける。チームの勝ち負けにも、目の前でオロオロしている初心者にも興味は無かった。
 射撃モードに入ってレンズを覗くが、動くものはなにも見当たらなかった。すでに移動したのか、あるいは……自走砲等による砲撃ではない。威力を鑑みるに大口径ライフルによる長距離狙撃か。
 数ドットの単位の小さなきらめきがスコープの端を過ぎったのを見てESCキーを押したときにはもう遅かった。画面の中の双葉のアバターは表現が困難な形状になって吹っ飛んだ。
 こうなってしまうと、後はもうなりゆきを眺めるしかない。双葉は呆然としたままゲーム画面を見守った。
 ―――あの小さな輝きはおそらく、狙撃用大型ライフルの高倍率照準器だ。それによって長距離から撃ち抜かれたのだということは解るが、推測するに彼我間の距離はゲーム内にして二千メートルはあるはずだった。
 最後の一撃は、まだ解る。動かない大きな的など素人にだって当てられる。
 だけど初撃は……猛スピードで滑り込んだ軽車両の車軸を破壊するなんて曲芸めいた真似は……まぐれ当たりかとも思えたが、双葉の直感は否を訴える。
 マップに表示された味方を示す光点のいくつかが双葉の敗北を知って自陣を取り戻そうと後退をはじめていたが、それも順繰りに消失していく。
 どれもがまず脚、次に腕を破壊されて。
 前線の維持が難しくなってきたころ、感知範囲外をじりじりと進んできていたのだろう歩兵が左右から挟撃をかけてくる。
 鳴り止まないサイレンと極めて単純な戦術に翻弄された味方が敗北の近いことを教えている。
 赤い旗の下でぶるぶる震える初心者は結局一発も発射せず、一発も喰らうことなく、ゲームは終了した。
 双葉はすぐに彼にメールを送った。
 ――君のプレイを見た。なにか特別なことをしている様子はなかった。どうして我々は負けたんだ?
 返信は早い。
 ――チームで戦わなかったから。
 双葉は簡潔に返した。
 ――ランダムマッチだ。
 ――始まる前に一分だけブリーフィングの時間があるでしょ。
 確かに彼の言う通り、ゲームが始まる前には一分程度の猶予が与えられる。けれどたいていその時間は益体もない『雑談』に費やされる。
 双葉はなにも言い返せなかった。誰かと協力してゲームを楽しもうなんて発想がそもそも彼女には無かったからだ。
 彼はまたさらに追加の返信を寄越した。
 ――一人でできることなんてたかが知れてる。
 双葉はそのメッセージを削除した。彼の言うことに理解を示す気も、またしようとする気持ちも湧かなかったからだ。
 期待を裏切られたような気もしていた。
 なにか己でも感知できないようなツールやマクロを使用しているのかと想像していたのに、単なる戦術クラスの話だったとは、拍子抜けだ。
 起動させっぱなしのゲームも落としてしまおうとキーボードに手を伸ばした。もう興味は失せていたから、このままゲームそのものをアンインストールするつもりでいた。
 けれどゲーム内の通知アイコンが点滅しているのを見て彼女は手を止めた。フレンド申請の通知だ。
 それは彼からだった。申請にはメッセージが付属していた。
 ――あんたも一人じゃないほうがいいよ。
 双葉はこれを拒絶することもできた。
 というより、彼女はこれを却下することができる立場だった。
 フレンドもチームも必要とは思えない。彼女には母親から受け継いだ明晰な頭脳があり、優れた記憶力と情報処理能力は彼女を常に同じ年頃の子どもたちとは別の場所に追いやってきた。
 その終着点が今の居所―――この狭い墓場だ。
 彼女の内にあるじくじくと膿んだ傷が申請を却下させようとしたが、しかし一方で同じところにあるものがそれを押し留めた。
 それは彼女が生来から有する、煌めく好奇心だ。
 チームってなに? 一人で戦うより強いのか? 誰かを頼ってもいいの?
 ―――おまえはわたしを、助けてくれるのか?
 いずれの問いも口にされたことはなかったが、答えはすべてイエスだった。

「……それで、わたしとあいつは、チームを組んだ。ほんとに強くなれた。そのゲームは結局すぐにサ終しちゃったけど、他のゲームに移住して、そこでもたくさん勝った。ボイチャで連携し始めたら、もう、負けることなんて一度もなかった」
「ぼいちゃ?」
 聞き慣れない単語にモルガナは首を傾げている。
「ボイスチャット。電話みたいなやつ」
 注釈を入れてやりつつ、雨宮もまた首をひねった。
「お前が人と話せるなんて意外だな」
「シツレーなっ! ……まあ、ボイスチェンジャー入れて、ロールプレイみたいな感じだったから、できたんだけどさ……」
 なるほど。雨宮は頷いてみせた。それもまた一つの仮面だろうと。
 双葉はまた多量の人を吐き出す改札に目を向けながら言い重ねる。
「いつの間にかお互いのこと……当たり障りのないことばっかりだったけど、いろいろ話して。歳も近くて、都内にいて、あいつもフェザーマン好きだって。それから……」
 人の多さ故か双葉の呼吸は少し落ち着きがないようだった。浅くて早い。雨宮はカバンから猫を引っ張り出して彼女の膝の上に乗せてやった。
「あ……あいつもお母さん、いないみたいで」
 柔らかく猫を抱きしめた少女は、小さな声でそう言った。
「みたい、っていうのは?」
「言質を取ったわけじゃない。ただ、時々ボイチャ中に親フラがあって……」
 雨宮は猫に親フラという言葉の意味を説明してやった。
「父親しか現れないんだ。あいつの周りに。話をしてても、母親らしい人物はまったく登場しなかった」
「だから、親近感?」
「ちがう。そんなんじゃない。そこんとこでわかり合うことなんてない。誰とだって。ただ、わたしは……」
 双葉は立ち上がって、毅然とした態度でもって猫を少年の腕に押し返した。潰された猫は「みぎゃあ」と奇妙な悲鳴をあげた。
「わたしは確かめたいんだ。チームって言葉の意味を。そんで、おまえたち以外にも、わたしが誰かと繋がることが……ほんとうの意味で、ネット越しじゃないともだちを、また、つくれるのか……」
 雨宮は目を見開いて目の前のオレンジ頭をまじまじ眺めた。
 つい少し前まで自分たちと会話するのにもおっかなびっくりだったこの子が、なんだかずいぶん成長したものだと。腕の中に猫がいなければ抱きしめて振り回してやりたいくらいだった。
 小さな女の子の瞳の中にはたくさんの輝きがある。それは無数に存在する彼女の未来を映し出しているかのようだった。
 雨宮は、モルガナを収まりよく抱え直して、少女にむかって微笑みかけた。
「じゃあ、確かめないとな」
 言葉に双葉は満面の笑みを浮かべる。
「うんっ! ―――にしても、あいつ、おっせーな。このわたしをこんなに待たせるなんて、なってない!」
 やっと調子を取り戻したらしい少女は、キョロキョロとあたりを見回し始める。雨宮とモルガナもまた倣って視線を巡らせるが、二人はそもそも相手がどんな人物かも知らなかった。
 諦めて双葉に目を戻すと、彼女は憮然とした様子で腕を組み、唇を尖らせている。
「むーん……ちょっとわたし、行ってくる」
「どこに?」
「き、訊くなばかっ」
「あー……一人で大丈夫?」
「おいっ! おまえ、わたしをなんだと思ってるんだ!?」
「よちよち歩きのかわいい赤ちゃん」
「バカにすんなーっ!」
 喚きながら、双葉は二人から素早く離れて遠ざかった。
「あっ、オーイ、大丈夫かぁ……?」
 未だ抱えられたままのモルガナが虚しく前脚を伸ばすが、少女は振り返ることもなく人ごみに紛れて消えてしまった。
 取り残された少年たちはしばらくそちらの方法を見守っていたが、帰りを見つめて待つのも失礼かと改札口に目を戻した。
「なあ……ほんとにいいのか?」
「いくら双葉でもトイレくらい一人でできるだろ」
「そっちじゃねーよ! そうじゃなくて、会わせていーのかってことだ」
「ああ。まあ、いいんじゃないか」
「オマエ反対してたじゃねーか」
「一人で会うのはね。俺たちがいるならまあ……ちゃんと守ってみせるよ」
「言うじゃねーか、にわかボクサー」
「にわかじゃねーし」
「そういうのならマコトにタイマンで勝ってみせろよ」
「……ペルソナはあり?」
「ナシに決まってんだろ」
「ええー……」
 言い負かされて、少年は相変わらず猫を抱えたまま項垂れた。その猫のほうも、いい加減降ろせと爪を立てる。
「あいてて、降ろすから爪を引っ込めろ。真にはともかく、ネトゲにかかりきりの陰キャくらいなら―――」
 負け惜しみを口にしたときだった。
 モルガナを床に降ろしてやるために屈んでいた少年の目に、セダークレストのワークブーツが映り込んだ。それはちょうど目の前に立つように八の字を描いて止まっている。
 顔を上げると、そこには雨宮より上背のある少年が立っていた。よく日に焼けた肌は少し浅黒く、短く切り揃えられた髪は真っ黒で、しかし顔立ちは一般的に『濃い』と称されるタイプだ。
 雨宮ははっきり言ってちょっとビビりが入った。友人の金髪頭にも初見時はちょっとビビったが、これはそれ以上だ。
「えっ、と……」
 ぽとりと手から猫が滑り落ちる。危なげなく着地した猫は少しだけ呆れた顔をしていた。
 なにか用? と語りかけようとして、しかし彼は喉を引きつらせる。嫌な記憶が頭を過ぎっていた。暗い夜道、女の悲鳴……
 しかし、それらすべてを打ち壊すような笑みを目の前の少年は浮かべた。
「もしかして、誰か待ってる?」
「え……」
 ナンパか? と少年は今度はまた別の恐怖を覚えて後退ろうとした。しかし彼のすぐ背後には待ち合わせの目印の時計台があって、それを阻んでいる。
 助けて、竜司! 叫び出したいのを堪えるのに必死になる彼に、しかし少年は困ったような風情で頭をかいた。
「あれ、違ったかな……フタバじゃないの?」
 フタバ―――聞き馴染みのある名に、雨宮は目を見開いた。
 もしかして、この男が双葉の言っていた『彼』だろうか。
「ええと……場所も時間もここで、目印の猫。そうだと思ったんだけど……」
「ま―――間違ってない。けど……」
 本人は今トイレに行ってしまって。と告げようとする雨宮に、彼はまた人懐っこい笑みを浮かべた。
「なんだ、そっか! よかったぁ、ぜんぜん違う人に声かけちゃったってちょっと恥ずかしいコトになるとこだったじゃん!」
 また彼は、その大きな手で馴れ馴れしく少年の肩を叩いた。痛くはなかったが、衝撃は大きかった。
 違うんだ。俺じゃなくって。
 また言おうとするのを、感慨深げな真っ黒い瞳が遮った。
「外、出れたのか。平気になったって本当だったんだ」
 雨宮とモルガナは再び目を見開いた。本来の彼の待ち合わせ相手である少女が、彼にそこまでの事情を話していたことがまったく予想外だったからだ。
 そんな二人の心情など露知らず、彼はまだ饒舌に語り続ける。
「お前から会おうなんて言われて、ほんとびっくりしたけど、良かった。待たせてごめんな。怖いことなかったか?」
 大きな手が、叩いた肩を宥めるように擦る。暖かな手だった。雨宮はまた、この接見が双葉のほうから仕掛けたことと知って驚いていた。
 その決意の深さにも。
 たからこそ彼は訂正しようと、背筋を伸ばして少年に向き直った。
「ごめん、俺はあなたの待ち合わせ相手じゃないんだ。付き人。保護者が心配だからって派遣された」
「へ……」
「双葉はそっち」
 彼の背後を指し示す。そこにはオレンジ頭が後ろ手にもじもじとして俯いて立っていた。
「え? フタバ?」
「あ……あ、あの……っ、わたし……」
「えっ? 釣り?」
「ちっちが! う。わたし。わたしが、ふ、双葉だっ……です……」
 彼は間抜けな驚き顔を晒して、雨宮と俯く双葉、そしてモルガナを見比べた。
 しかし、やっと顔を上げた少女がなにかに怯えるように、
「ご、ごめ……ごめんなさい……」と謝罪を口にすると、彼は直ちにその場に膝をついて彼女に目線を合わせた。それはごく自然な動作だった。
「なんでごめん?」
 問い掛ける口調もまた穏やかなものだった。厳つい外見に見合わぬ、優しい声だ。雨宮とモルガナが思わずと安堵の息をつくくらいだった。
「だ、黙ってたから。わたしが、女だって。言ったら、変なカンジになるかもって……だからボイスチェンジャーで、男っぽくして、それでごまかして……だから……」
「まあ、ちょっと、びっくりはしたよ」
「ごっ、ごめんなさい……」
「いいよ。隠してたってことは、知られたくなかったんだろ。でも、フタバは俺に会おうって言ってくれた。それは、つまり、俺にバラしても大丈夫だと思ってくれたってことだ」
「うん、うん……おまえなら、態度変えたりしないって。思った。でも、がっかりさせて、ごめん……」
 彼は快活に、しかし決して大きくない声量で笑ってみせた。
「がっかりなんてしてないって。お前って、ほんと不意打ち上手。さすが忍者、汚いな」
「おっ、お前ほどじゃ、ない。アンブッシュは、そっちの得意技、だろっ」
 双葉はやっと僅かに口の端を持ち上げた。あんまりうまく笑えているとは言えなかったが、しかし、彼女の身体から緊張がゆるゆると解け落ちていっているのは目に見えて明らかだった。
「お前に会えて、嬉しいよ。来てくれてありがとう―――」
 差し出された手を、双葉はおずおずと両手で掴んだ。まったく日に焼けていない少女の小さく細い手指は、彼が握るとすっぽりと中に収まってしまいそうなくらい、大きさに差があった。

 場所を移動しようという雨宮の提案に乗って、彼らは駅にほど近いバーガーショップを訪れていた。これは昼も取らずに引っ張り出された彼の腹が、待ち合わせのときからずっと食物を求めてやまなかったからだ。
「じゃあ改めて……って、言うのすごい恥ずかしい! やだぁ~!」
 Lサイズのフライドポテトとチキンナゲットの前で、偉丈夫は乙女のように恥じらって両手で顔を覆ってみせた。ふざけた振る舞いだが、本気で恥じらっているようにも、場の空気を和ませるためのようにも思える。
 しかし双葉は冷淡だった。蛍光緑の炭酸ドリンクをストローですすりながら、冷たい目を彼に向けている。
「キモい。普通に言え。というか、わたしは知ってるから言わなくてもいいし」
「俺は知らないんだけど……」
 季節限定のバーガーを口に運びながら雨宮が口を差し挟む。彼の前には他にもポテトとアイスコーヒーとアップルパイ、それから骨付きのチキンが並んでいた。
「だよなぁ。それに、こういうのはキチンとやらないとね。あー、でも照れる。ごめんホント……やーん……」
「んもう。くねくねすんな、こっちがはずかしーだろ」
「はい。えっと……おれは。曽我与一です。よろしくおねがいします」
 深々と頭を下げた彼の横で、双葉が何故かモルガナの前脚を掴んで掲げさせながら「ねこですよろしくおねがいします」とふざけていた。
 雨宮は口の端にソースを付けたまま慌てて彼に倣って頭を下げる。
「雨宮蓮です。こちらこそ、コンゴトモヨロシク……双葉がお世話になっているようで」
「あ、いえいえ。こいつ、あいや、この子にはいろいろ助けてもらっていて……」
「いやいやそんな。ご迷惑をおかけしていないでしょうか」
「いえいえ。おれのほうが……」
「いやいや……」
「いえいえ……」
 バンッと音を立てて双葉がテーブルを叩いた。人の多い店内にその音は響かずに済んだが、何故か頭を下げ合う少年たちを静止させるだけの威力はあった。
「サラリーマンかおまえら。……、こいつは、モルガナ。見ての通りの猫だ。ほら、にゃーん」
「猫じゃねーって……ああ、もう。コイツには通じねぇのか……」
 ニャーと鳴いて、モルガナは床に降りた。はそれを追ってテーブルの下に頭をやったが、目の前にショートパンツから伸びる双葉の脚があることに気が付いて慌てて頭を元に戻した。
「ぎょ、行儀の良い猫だな」
「まあね。モルガナは……『特別』なんだ」
 含みをもって告げてやると、は不思議そうな顔で首を傾げた。
 さて、曽我与一は雨宮と同じく高校二年生であるということらしい。
「いやでもほんと、びっくりした。だって特徴一致してるよ二人とも。眼鏡と猫」
「一致してないとこのが多いよなそれ?」
「めはねひはあうふうへん」
「おまえは食ってから喋れ。不愉快」
「……そっちこそ、人を指さすんじゃありません」
 は睨み合う二人を交互に見やって首を傾げた。
「二人って兄妹なの?」
 雨宮と双葉は同時に、その勘違いだけはやめてくれと言わんばかりに激しく首を左右に振った。
「ふーん、そう」
「保護者ね。保護者。それ以外の何者でもない」
「保護されたおぼえはいっこもないけどな!」
「なんだと。こんなに懇切丁寧に面倒みてやってるのに」
「誰がだよ。手間かけさせられてんのはこっちだろ」
 はまた二人を見比べる。癖のある黒髪とつやつやストレートのオレンジ頭……
 やがて彼は安堵するように息をついて、穏やかな様子で目を細めた。
「なにニヤニヤしてんだ?」
 無粋な双葉の問いかけに、 は困ったように、ますます目を細める。そうすると彼の目は糸のようになって、どちらかといえば威圧感を人に与えかねない印象を一変させ、人懐っこい大型犬や熊のようになる。
「友だちできたって聞いたときは驚いたけど、ほんとなんだなって。頑張ったんだなぁ、フタバ」
 まるで保護者のような物言いに、双葉は思い切り顔をしかめて、雨宮とモルガナは再び驚いて言葉を失った。
 双葉はいったい、どこまで己を取り巻く状況を語っているのだろうか? まさか怪盗団絡みの話まではしていないだろうが……
 世間は今、空前の怪盗団ブームだ。猫も杓子も怪盗団かいとーだん。そんな風潮だった。
 雨宮蓮という少年の、なんの変哲もない、どこにでもいそうな、どこにでも埋没してしまいそうな、ごく普通の男子高校生という肩書は仮の姿でしかない。その正体は世を騒がす怪盗団の頭領にして、無数の仮面を使い分けて道を切り拓く怪盗団のエース・イン・ザ・ホール―――彼こそが万人の《切り札》、ジョーカーだ。
 もっとも彼に言わせれば、ジョーカーのほうが仮の姿なのだが―――それはあまり余人に知られたくない、彼の極めて個人的な秘密の一つだった。本当の彼というものは……ただの小さな臆病者でしかない。なによりそれこそを知られたくないと強く怯えて生きている。
 そんな雨宮少年はちらりと横目で双葉……同じく怪盗団のナビゲート、及び電子情報処理担当、コードネーム『ナビ』(ちょっとややこしいと雨宮は思っている)を見やった。
 彼女は雨宮や足元で耳をそばだてるモルガナの危惧になんにも気が付かないで、 とつっかえつっかえ、それでも談笑を続けている。
 歳や背格好に見合わぬ知恵者だが、迂闊なところがないわけじゃない。それにとは怪盗団以前からの知り合いのようだし……現状を予測して回避策を取るのはさすがのナビにもちょっと難しいだろう。
 しかしそんな彼の心配をよそに、双葉は顔中で笑って、雨宮やモルガナには分からない話題でと盛り上がっている。
 雨宮は肩から力を抜いて、すでにしんなりしはじめたポテトを口に放り込んだ。
 彼女が笑ってくれていることは、彼にとっても幸いだった。であれば、なにも言うことはない。