『休憩』を終えた坂本を出迎えたのは、受信機器を失っている間に侵入していたらしい頭領だった。
 彼の小脇に抱えられた鞄からはモルガナが顔を覗かせているが、その毛皮が寒さによって膨らんでいる様は残念ながら確認することは叶わない。ただ少年のほうは鼻の頭や頬が赤くなっていて、指摘してやると彼は坂本を指し返して「お前もだよ」と笑って言った。
「イヤホン潰しやがって。けっこう高いんだぞ」
「お前らが笑いすぎるからだろうが」
「あんな面白いことがあるか?」
「ニャはっ、やめろ思い出させるんじゃねぇよ―――あいたッ!」
 坂本の指が猫の鼻先を弾いた。
 モルガナは怒鳴りつけようとしたが、少年の手が彼を鞄の中に押し込んで言葉とともにしまわれてしまう。
「お前がさんとイイ感じになってる間に杏のほうは作戦完了した」
「だから別にそういうんじゃねえ……って、あーっ! しまったそうじゃんお前らに……」
「筒抜け」
「あーっ、あー……っ!」
 両手で顔をおおってその場で足踏みをする友人の尻を叩いて、少年はさっさと歩き出した。
 モルガナは「置いてくぞ」と親切に声をかけてやったが、坂本が己を取り戻して後に続くのはもうしばらく後になってのことだった。

 少年たちは同ホテルの上層客室で合流を果たし、部屋の広さやそこから見える夜景に室内の調度品の豪奢さ、ルームサービスの豊富さにひとしきりはしゃいだ後、やっと落着いて膝を向き合わせた。
「あー……つっかれたぁ……」
 言葉通りくたびれてベッドに腰を下ろした高巻は、すっかりいつもどおりの彼女の姿に戻っている。
 それを残念に思いつつ、それでもいつもの彼女もまたきれいだとモルガナはその足元に駆け寄った。
「アン殿、大丈夫か? 変なこと、されたりしなかったか?」
 気遣わしげに見上げてくる青い瞳に、高巻はにっこりとして首を縦に振った。
「ん、ヘーキ! でっかい番犬もいてくれたしね。あんがと、祐介」
 礼の言葉を投げかけられた喜多川は小さく首を横に振った。
「気にするな。すべきことをしただけだ」
 彼もまたいつもどおりの格好に戻っている。
 そんな彼を横目で眺めて、ご自慢のラップトップ型パソコンに向かっていた佐倉がぼそりと呟く。
「番犬と化したおイナリ」
 これに高巻がくすっと笑って、勢いよく喜多川の前に陶器のように白く眩い手を差し出した。
「お手っ!」
「むっ!?」
 言葉に、彼は反射的に手に手を重ねた。
 すると高巻はいよいよ調子に乗って次の指示を飛ばす―――
「おかわり!」
「はっ!?」
 これもまた反射的に、左手が差し出される。
 高巻は満面の笑みで彼に命令した。
「ワンとお鳴き!」
「わっ―――ワン!」
 プライドは無いのか。二人の足元でモルガナが呆れたように言い放ったが、喜多川は呆然として床に崩れ落ちて己の両手を見つめている。
 俺はなぜ今言われるがまま犬のように動いてしまったんだ―――
 屈辱とほのかな歓びに打ち震える喜多川を見下ろして、窓辺に腰掛けて珍妙なやり取りを見守っていた少年は静かに傍らの坂本に手を差し出した。
「……竜司、お手」
「しばくぞ」
「ちぇっ」
 足をバタつかせて、少年は立ち上がる。
 するとちょうどタイミングを測ったように奥村がやってきて、お待たせしましたと彼らに合流を果たした。
「もういいの?」
 はしゃぐ下級生らから離れたところで一人思案にふけっていた新島が顔を上げて問いかける。奥村もまたいつもどおりの私服に着替えた姿で頷いてみせた。
「そう、じゃあ……」
 ちらりと新島の目が坂本に向けられる。彼はそれが訴えるところを聡く読み取って立ち上がり、空いていた椅子に腰を下ろした奥村の前、テーブルの上にマイクロSDカードを置いてやった。
さんから春にって」
「確かに受け取りました。ご苦労さま」
 労りの言葉に苦笑して、坂本は手近なソファに腰を落ち着ける。
「それじゃあ、早速中身を見てみようか?」
 奥村が指先で爬虫類を象った奇妙なマスコットキャラクターを弄りながら告げる。
 少年たちは頷いて返した。
 ならばと両手を差し出して己の出番を主張する佐倉のその手にSDカードが渡される―――
 現れたのはどこか見覚えのある英文とグラフの群れだった。
「ん? これ……アレか。小早川の論文だ」
 言葉通り、ラップトップの液晶ディスプレイにはつい先日盗み見た新たな合成甘味料に関してのデータが羅列されている。
 覗き込んで、少年たちは首を傾げた。
「姉ちゃんがなんでこれを春に……?」
 率直な坂本の疑問の声に応えたのは高巻だった。
「あ、そっか……竜司は聞いてなかったんだよね」
「なにを」
「私と小早川の会話」
「あー?」
 確かに彼は任務の途中でイヤホンを握り潰してしまったから、高巻と小早川の会話の殆どを聞き逃している。
 どういうことだと視線を向けた彼に高巻が答えて曰く。
「まずとりあえず、さんとアイツ、付き合ってはないみたい。これはガチ。よかったね、竜司?」
「うるっせえ! 別に気にしてねぇーし!」
「はいはい。で、どうもね、この論文、さんも関わってるんだって」
「ふうん……」
 関心を示したのは坂本ではなく新島のほうだった。彼女は目を細めて、指先であごをトントンと叩いて考え込む素振りをみせる。
 対する坂本のほうはあっけらかんとしたものだ。
「あー、さんすっげー甘い物好きだから……たしかに興味はありそうだわ」
 などと言って頭の後ろで手を組み、ソファの背もたれに深く身を預ける。
「へー? んまあ、とにかく……アイツと話をしてる流れでね、これの話をして、そこでさんの名前が出たの」
 なるほど、と頷いて続きを促す。高巻は腕と脚を組んで言を重ねた。
「この研究、小早川がメインになって、学外のどっか研究所とも組んでやってるんだって。で、さんは助手みたいなことをしてるらしいよ」
「リケジョだりけじょ」
 囃すような声を佐倉が上げた。彼女の目はじっと液晶画面、開かれたままの研究データを見つめているが、耳はしっかりとこちらへ向けているらしい。
 これに高巻はおざなりに「そうだね」と同意してやりながらまたさらに続ける。
「なんだろなー、なんか……なーんか、言い方が引っかかったんだよね……」
「なにか気になることがあるのか?」
「うーん……イヤな感じ? 明らか下に見てるって言うの? バカにしてるっていうか」
 うーんと唸って眉根を寄せ、言語化の難しい感覚を伝えようとしているのだろう、高巻はその白魚のような手指を空中にさまよわせた。
 それを見るともなしに、坂本は下唇を噛んで顔をしかめる。
 小早川の人となりなどよく知りはしないが、しかしのことであればこの場の誰よりも解っているつもりだ。そんな相手を、曖昧な情報とはいえ馬鹿にされているのだと聞かされて、良い気持ちはしなかった。
 そして彼はまたその訳を知りたいと欲する。
 どうして、なんで、なにがあって今こうなっているのか……
 自然と彼の目は、が奥村にと願ってその手を介し、また彼女の手から佐倉に受け渡されたデータに向けられる。
 受けて佐倉は顔を上げ、にんまりと笑ってみせた。その笑顔は底意地の悪さと共に、どうしてかどこか自慢げな、誇らしげな色も含んでいる。
「りゅうちゃんのおねえちゃん、すげーひとだな」
 口から出た言葉は奇妙でもあった。
 坂本はりゅうちゃんでもないしおねえちゃんでも無いと反論を緩衝材に置いてから問いかける。
「どういう意味だよ」
「そのまんま。すげーひとだよ。これ……」
 トントンと軽い音を立てて佐倉の指先が液晶を叩いた。
「小早川じゃない。おねえちゃんの研究だ」
 沈黙―――
 やがて驚愕とともに全員が佐倉に向き直った。
「はぁ? なに? おねえちゃんって……さん? どゆこと?」
「だからそのまんまだって何回言わせるんだよ。この論文を書いたのはおねえちゃん。小早川じゃない。たぶんあいつがおねえちゃんから盗んだんだ」
 ひやりとした空気が暖房のよく利かされた室内に降り落ちる。
 盗むというワードにはこの場の誰もが馴染みがあったが、しかし研究データをとは未知の領域だ。
「論文の剽窃ということか?」
 喜多川の言に、佐倉は大きく首を縦に振ってみせた。
 また補足して彼女はさらに皆を驚かせる。
「そう。このファイルの作成日時、小早川のやつより古い。署名もアイツのじゃなくておねえちゃんのだ。おまけに、この動物実験データ、大学のサーバーにあったやつとちょいちょい食い違ってる」
「改ざんも行われているということ?」
 新島の問いにも佐倉はまた首を縦に振った。
「そ。主に危険性に関する試験結果のほとんどが入れ替えられてる。ラットにウサギ、サル、イヌ、マウスへの過剰投与時の……」
「ほらやっぱり!」
 パチンと指を鳴らして、高巻が勝ち誇ったように立ち上がった。
「私の言った通り裏でヤバい実験してんじゃん!」
「動物実験においてそういった哺乳類が用いられるのはよくあることだし、人間が摂取することを想定しての過剰投与もごく普通に行われるものよ」
 窘めるような新島の言に、高巻は出ばなを挫かれて再びベッドの上に戻った。
「そーゆーのにおける倫理的な配慮や可否は置いておくとして……」
 モルガナの狭い額を撫でつつ少年が言う。
「実際にはどうなんだ? 先に読んだ小早川のデータでは安全性に問題はないとなっていたはずだけど」
「んー、微妙なライン。小型のナマモノに関しては大腸がんの発生が認められてるけど、他の動物では確認されてない。弱い発がん性がある『かもしれない』って意味では、サッカリンに似てるかも」
「使用量に制限がつきそうってことか」
「そゆこと。おねえちゃんの論文自体は、さらなる研究を重ねて実証データを得た上で審査を受けるべきだって結ばれてる」
 なるほど、と頷いてみせた彼に、坂本の視線が突き刺さる。それは説明を求めていた。
「だからな、竜司、お前のお姉ちゃんはすごい人だってことだよ」
「いやそれじゃわかんねえから。えっ? お前ら分かった?」
「小早川がさんの論文をパクったってことなら……?」
「体に悪そうだなということなら……」
 二年生組が困り顔を見合わせて自信なさげに振舞う姿に、少年は悲しげに項垂れた。
「要するに……さんが作ろうとしているのはまったく新しい食品添加物なわけだ。本来こういった新たな化合物が食品に使用されるには、たくさんの試験を突破して、厚生労働省から認可を受ける必要がある」
「うんうん」
「で、さんが実験していた段階ではその試験を突破できるだけの安全性を確認できなかった」
「うんうん」
「ところが小早川の論文にはそういった記述が見当たらない。たぶん、さっき言った認可も貰えるとおもう」
「うんうん……うん? でもダメなんでしょ?」
「だからデータが改ざんされてるんだよ」
「ああー……えっ? ヤバくね? 体に悪いんだろ?」
「改ざん前のデータを見ると、一度に大量に摂取したらどうなるかってレベルではある。でも、日本のこういった食品安全基準は他と比べれば厳しいほうだから、国内では使用量に制限がかかるかもしれないな」
「だがまったく使用できないというわけではないのだろう。改ざんの必要性はあるのか?」
「祐介、お前なら百億円と一億円だったらどっち欲しい?」
「え……くれるのか……?」
「ねえよそんなもん! もうヤダ! 真、バトンタッチだ!」
 両手を上げて降参を示した御大将に、作戦参謀官は苦笑しつつ場所を代わってやった。
「流通を制限されれば儲けは減るでしょ。一口で確実に死に至るというわけではないようだし、ちょっとの誤魔化しで何億も収入が変わるとなれば、誰だって誤魔化すんじゃない?」
 そうでしょう、と言って、新島は薄っすらとした笑みを浮かべていた奥村に目を向ける。
 奥村はそれでやっと少しだけ困ったように眉尻を下げた。膝の上で上品に重ねられた手が動揺を示すようにわずかに震えている―――
 小さなため息とともに彼女は口を開いた。
「そうだね……お父さまなら、調査会に裏から手を回して認可が降りるように操ることもできたし、やっただろうなって思う。いいえ、それ以前に研究自体をオクムラフーズのものとして指定要請を行うかしら……いずれにせよ、お父さまが小早川さんに興味と関心を寄せていた理由はきっとここね。リスクを負うだけの価値とともに、つけ入る隙があった……」
 言い切って、奥村はやっと笑みを消して一同を見回した。
さんが私に接触を図ろうとしていたのは私がお父さまの娘だからだろうね。けど、なによりも……」
 感情を押し隠した瞳が坂本へ向かう。透き通ったそれに見つめられると、彼は己の心の内だけでなく体の内側、内臓までを見通されているような気になってわずかに身を後退らせた。
 それを見たからだろうか、奥村は可笑しそうにくすっと笑って口元に手を添える。見惚れるほど洗練された動作であった。
「私があなたのお友達だったからだよね、きっとね」
「へ……」
「だって、私がさんのことを知らないように、さんも私のことなんて知らなかったはず。でも、私とさんには共通の知り合い……つまり、あなたがいる。だから彼女は私を信用していいと思ったんだよ」
 このために『これ』が『ここ』にきたのだ、と奥村は表示されたままの動物実験データを指し示した。
「私―――ううん、私たちならこの企てを止められると信じてね。もちろんさんは私たちが怪盗だってことは知らないだろうけど……」
 なるほどね、と手を打って立ち上がったのは高巻だった。彼女は嬉しそうに頬を紅潮させてこぶしを握っている。
「やっと分かりやすくなった! つまり、いつものアレってことだよね!」
「うむ、俺たちの出番と言うことだな」
 喜多川もまた同調を示して立ち上がり―――
「いや、ちげーだろ」
 佐倉によってまとめて叩き伏せられた。
「あれぇ……?」
「違ったか……」
「いやまあ、間違ってるわけじゃないよ。ただ―――」
 癖のある黒髪をかきながら、少年は少しだけ困った様子で坂本を見やった。
 受けて彼は静かに告げる。
さんの望みが改心とは限らないだろ。なんなら怪チャンにでも依頼してくれりゃ……いや、ログが爆速で見つけ辛いかもだけど、三島なら持ってきてくれるだろうし。とにかく、改心してやりたいって思ってたんなら怪盗団を頼ってたはずだろ。でもさんは自分で春に接触を図ろうとしてたじゃん。たぶん自分の手でなんとかしたかったんだ。それなら……俺もなるべくさんのやり方を優先してやりてぇっていうか……」
 もごもごと口内で言葉をこね回す彼の姿に、叩き伏せられた二人は揃って口角を釣り上げて目を細めた。
「りゅうちゃんがそう言うってんなら仕方がないかぁ」
「そうだな、俺も倣ってやろうじゃないか、なありゅうちゃん?」
「うるっせえわ! 気色悪ぃんだよ!!」
 喚いて腕を伸ばす坂本から二人は身軽な動作で逃れ、年甲斐のない追いかけっこが始まった。
 バタバタと広い部屋の中を走り回る彼らを行儀が悪いと咎めても追いかけまでして止めようとはせず、新島は残された頭領と電子情報処理担当、それから靴下猫を膝の上に乗せて穏やかな様子でその背を撫でてやっている令嬢に向き直る。
「とりあえず……さんの論文を先んじて発表させる? どうしたものかしら」
「単体だとインパクトが弱いな。権力のあるところの目に入らないと、広まる前に潰される可能性がある」
「こばやかわのとセットにして適当な科学雑誌にチクるのがいいとオモ。こゆのは海外のほうがいいだろ」
「せっかく英訳してくださっているのだものね。双葉ちゃん、なにか宛はある?」
 問われて、佐倉はうーんと唸った。
「……『メジェド』にやらせるか」
 それは彼女がかつて名乗っていたハッカーとしてのコードネームである。しかし奇妙な言い回しだ。その名は捨てたとはいえ、彼女こそが『メジェド』であるはずなのに―――
 佐倉の手は軽快に動き始めた。傍らでそれを見守っていた一同が顔を見合わせるのに、彼女はなにごとかを手元で操作しながら答えを与えてやる。
「わたしじゃなくて、ハッカー集団としての『メジェド』な。Xデー関連のアレコレで活動は縮小されているみたいだが、完全に消滅したわけじゃない。まだコミュニティ自体は生き残ってて、そんで、復権を願ってる……」
「なるほど。渡りに船だな」
「お互いにな。わたしたちは怪盗団としてシゴトするべきじゃないって思っていて、むこうは自分たちの手柄が欲しい」
 相互扶助だと言い切って、佐倉はひと際強くYキーを叩いた。
「今晩中にでもデータの受け渡しは完了できるぞ。むこうの行動も、明日には済むんじゃないかな」
「じゃあそれで……ちょっとあなたたち? ちゃんと会議に参加してよ?」
 まとまりつつある議場から声をかけられて、喜多川の肩を固めていた坂本が振り返る。彼らのそばでは高巻が楽しそうにカウントを取っていた。
「あ? 決まったん?」
「キマって……るのは、こっちだろ……ッ」
「スリー、ツー……」
 最後のカウントが取られる前に、喜多川は脚を振り上げて絡め取る腕からぬるりと抜け出してみせた。
「いてて……竜司、お前本気だったな……?」
「たりめーだろ」
「なにが当然なんだ、この俺から腕を抜いたらなにも残らんじゃないか」
「ソレ、自分で言っちゃう?」
 全員の口から呆れとともにため息が落ちる。
 さて、着席し直した一同は佐倉の作業の完了を待って部屋を出る。一部は馴染みのない高級感溢れる内装に名残惜しげにしたが、促されてとぼとぼと従った。

 これで―――
 問題は片付いたのだろうか。
 凍り付きそうな夜風の中を歩みながら、坂本は仲間たちの背に語りかけた。
 振り返った少年たちは少しだけ考える素振りをみせ、そして軽々しく断言することを避けた。
「少なくとも、さんが危惧していたのであろう改ざんされたデータが発表されることは無いはずよ」
 代表として口を開いた新島に、坂本もまた首肯を返した。
「そうだよな……」
 まだなにか物言いたげな彼の様子に、歩調を緩めて彼に並んだ少年が応じてやる。
「気になることがあるのか?」
「んや……結局、さんはなんで叩かれなきゃならなかったんかなって……盗まれたのはあの人のほうなのに……」
 それは、と振り返って彼を見つめる奥村が答えた。
「盗用にか改ざんにか、どちらにかは分からないけど、説得か非難をしようとしたんじゃないかな?」
「それを聞き入れられなかったどころか、暴力的な対応でもって応じられたというところか」
 許し難いなと結んで、先頭を歩く喜多川は振り返りもせずに天上の輝きを睨みつける。星々の瞬きは煌々と点されたビルや街頭の明かりによって窺い知ることはできないでいる。
「やっぱり……」
 喜多川のすぐ後ろを歩いて、同じように高い位置で輝く光に目を向けていた高巻が囁くように言った。
 自然と視線が集中するが、特別それを気にすることも臆することもなく彼女は続けた。
「やっぱりすごい人だってことじゃない?」
「誰が?」
「アンタのおねーちゃん」
「姉じゃねえし」
「なんだっていいよそこんとこは」
 豊かなブロンドを揺らして振り返った彼女の眼差しはこの上なく優しかった。坂本は小さく呻いて口を引き結ぶ。いつもの、逆らえない『アレ』だ。
「独りでなんとかしようと行動して、勝ち目を引き寄せたってことでしょ」
 かっこいいじゃん。
 満面の笑みと白い息とともに吐き出された言葉には、誰もが言葉もなく同意を示した。
 会話によって落とされていた歩くスピードが再びもとの勢いを取り戻す。
 結局、怪盗団としての出番は無かったが、それでもやりきった満足感と清々しさが一同の胸の中には宿っていた。
 この現実の世界で、不可思議な力が及ばないくせに理不尽な世にあって、それでも悪しき企みを潰すことが出来たのだ。これはこれでひどく痛快なことであった。
 坂本にしても、知らない仲ではない相手をかっこいいねと評されて悪い気持ちはしない。
 機会という言葉がまた彼の胸をよぎった。
 こんなことがなければ、あの人にこんな一面があるのだなどと……まして予てから願っていたとおり、謝罪の言葉を口にすることは叶わなかっただろう。
 明後日になったら―――作戦の本当の完了には明日いっぱいかかるようだから、明日一日をインターバルとして置いて、明後日になったら、今度こそ正面から彼女のもとを訪れよう。運命だとか、偶然としてではなく、己の意思によって、彼女に会って話をしよう。
 決めて、坂本は顔を上げると意気揚々と歩き出した。
 身を切るような寒さは少しも彼の足を止める障害になり得なかった。


……
 明後日、若者たちは大学の門前に集るマスコミとそれを遠巻きに見守る見物人、さらにそれを眺める野次馬に混じって事の次第を確認していた。
「うまくやってくれたみたいだな」
 人の多さに若干腰の引けた佐倉が、そばに立った喜多川のシャツを目一杯引っ張りながら呟いた。
 その声を聞き付けたのは仲間たちのみだ。一同は無言のまま頷いて、カメラに向かって小早川による論文の改ざんとそれを支援していた国営の研究所との繋がりを大げさなくらいに囃し立てているアナウンサーらしきスーツの男を見つめている。
 ハッカー集団『メジェド』は本家本元の『元・メジェド』から受け取ったデータをさらに掘り広げ、またうまく喧伝してくれたらしい。怪盗団が及び知らぬところまで引きずり出し、公知に晒し出してくれたようだ。
「使えるなー『メジェド』」
 ぽつりと怪盗団頭領が呟くのに、新島が苦笑して肩をすくめる。
「たしかに、人海戦術は私たちにはない力だよね」
 怪盗団とて市井に無数の情報源や協力者を抱えているが、あちらは総数不明のハッカー集団だ。佐倉によれば、枝葉の先までを数として数えれば数百人に及ぶという。
「数は力、か……」
 どことなく感慨深げに目を細めた彼の手が、唐突にカバンに収まってあくびをしていたモルガナの胸元、柔らかな毛皮に伸びる。
「ぎゃあっ!」
 悲鳴とともに手は直ちにカバンから蹴り出された。
 また妙な振る舞いをしているなと呆れるやら同情するやら……横目でそれを窺っていた坂本は、ふと集団に目を戻して、「あっ」と驚愕の声を上げた。
 釣られるように仲間たちが彼の視線の先を追う。
 人波からするりと猫のように抜け出して小走りに離れていくのは、間違いなくだ。
「あ、さんじゃん」
 言って、高巻はニンマリと笑って坂本の脇腹を指先でつついた。
「ンだよ、やめろよ」
「んふふ……声かけたらぁ?」
「だぁら俺とさんはそーいうんじゃねえって何回言わせんだよ」
 執拗にくすぐってくる手を振り払って怒鳴りつけると、どういうわけか反対側に立っていた奥村がぱちんと音を立てて両手を合わせた。
「じゃあ、私が声をかけてこようかな?」
 また彼女はにこやかにこんなことを言い出すから、坂本は顔をしかめてこの上級生に問い掛ける。
「なんで春が行くんだよ」
「あら、だって私はさんのおかげで悪い企みに乗らずに済んだんだよ。直接会ってお礼を伝えるべきではなくて?」
 もっともらしいことを告げる唇には、しかしちょっと意地悪で、いたずらっぽい微笑みが乗せられている。
 つまり、彼女は言外に訴えているのだ。
 早くしないと『機会』を逃すぞと―――
 坂本はむっと眉を寄せ、口をへの字に曲げて渋面をつくった。
 彼女の言うことはそのとおりだと思うのだが、しかし、他の面々までもがなんとも表し難いニヤついた顔でこちらを見てくるのが気に食わない。
 けれどまごついている内に頭領が伊達眼鏡のブリッジを押さえながら
さんって五つ上だっけ? なあ竜司ぃ、お前が『そーいうんじゃねえ』って言うのなら、紹介してくれてもいいよ?」などとまた彼の脇腹をつついてくる。
 正直どストライク。と口元を歪めて吐き出された台詞が本心からかそれとも謀りのためかは解らぬが、坂本は拳を作って彼の肩を強かに叩いてやった。
「いって!」
「ふッざけんな。そーいうんじゃなくたってお前だけはさんに近づけさせねぇからな」
「あっそう。おい祐介、お前の出番だぞ、行け」
 肩を抑えてなお笑みを消さない少年がまたさらに傍らの喜多川の背中を押す―――佐倉に引っ張られたままのシャツがピンと伸びきって、ぽとりと元の通りに落ちた。
 一歩前に踏み出た喜多川は、ふむと腕を組んで指先であごをさすり、思案する様子を見せる―――
 やがて彼はとんでもないことを言い出した。
「そうだな……興味深くはある」
「……は?」
「竜司から聞いた話では穏やかなひとのように思えたが、己の研究を守るために多少の無茶ならば通そうというあの情熱……人は決して一側面では語れないというが、彼女はまさしくそのようなひとらしい。俺の筆で描ききれるか……よし、頼んでくる!」
「待てよオイ。ちょ……姉ちゃんにナニをする気だオメーは!」
「モデルを依頼するつもりだが?」
「またヌードとか言い出す気か!?」
「それは当然、そのほうが……俺もやる気が出る」
「なんのやる気だコラ!」
 腰元のベルトを掴んで引き戻し、喜多川を笑う少年の元に押し返す。ちょうど間に挟まれていた佐倉が二人の間で押し潰されて「むぎゃあ」と奇妙な悲鳴を上げた。
「なにすんだこらー!」
「ああもう……大きな声を出さないの。目立っちゃうでしょ」
 心なしか平たくなった佐倉を救出してやりながら窘めるのは新島だ。彼女はまた、埒が明かないと言わんばかりに坂本をねめつける。彼にとってはとばっちりであった。
「もうさっさと行ってこいよ。延々終わらないぜコレ」
 モルガナがもまた呆れ返った様子でカバンから顔を覗かせている。
 坂本は拳を握って恥辱に震え……やがてヤケになったのか、大声でもって訴える。
「ああもお! わあったよ! じゃあなお前ら!さっさと帰れ!」
 これに仲間たちがまたニヤついた顔を見せることこそが気に食わない。坂本は背を向けて歯を噛んだ。
 その背に、高巻が呼びかける。
「竜司」
「あんだよ……」
「がんばれっ!」
「うるっせえっつってんだろ!!」
 怒鳴りつけて腕を振るってやると、高巻は新島や奥村の背に隠れてまた笑った。
 苛立たしいが、やっぱり彼はもう言い返す言葉を失っていたし、なにより囃し立てられたことが恥ずかしくても小走りになって角を曲がろうとするに声をかけたいのは彼の本心だった。
 もう大丈夫なのだと言ってやって、それで……それでまた、昔のように、一緒に遊ぶなんて歳ではもうないけれど、目が合うだけで嬉しそうに笑いかけてもらえる関係に戻れれば―――
 追って角を曲がった坂本の目にはしかし、の姿は見当たらなかった。
 駅方面に続く大通りだ。車通りは多いが遮るものは無く、横断歩道もずっと先だから、見失うようなことはないはずだ。
 首を傾げつつ進むと、右手の路地に見慣れた後ろ姿を見つける。はどうやら角を曲がってすぐにそこへ入ったらしい。なるほど確かに、駅へ向かうのならばそこを行ったほうが近いかもしれない。
 しかし不用心だと坂本などは思う。
 まだ日が昇っているとはいえ、夕方の人通りも少ない道に女一人で歩くのは、ちょっと警戒がなさ過ぎる。
 彼は急いでに追いつこうと後に続いた。
 声をかけようとして、腕を伸ばして―――
 そして彼はまた、別に血の繋がった姉というわけでもないのに「姉ちゃん」と呼びかけようとして、そして「姉ちゃん」の「ね」の口の形をしたまま硬直した。
 はっと息を呑んだ音が彼の耳にも届いた。
 入り組んだ狭い道の前方、の目の前に一人の男がその道を阻むように現れたのだ。
「先輩……」
 愕然とした様子のの声には怯えの感情が滲んでいる。
 現れた男―――小早川秀樹は、彼女を鋭い目つきで睨みつけている。その顔は酒に酔っているかのように赤らみ、髪やシャツは乱れていた。
……」
 声はしわがれている。
「お前―――お前がやったんだろ、こんなこと―――このままで済むと思ってんじゃねえだろうな」
 剣呑な男の声が狭い路地に不気味なほどよく響いた。