「ぷっ」
 思わずといった風情で吹き出した喜多川を、坂本は渾身の眼力を籠めて睨みつけた。
 二人は都内のあるホテル―――その従業員用ロッカールームに居て、糊の効いた制服にそれぞれ袖を通している。
 というのも、小早川秀樹を色仕掛けで釣って情報を引き出すと決めたは良いが、作戦を女性二人だけに任せることに不安があったからだ。これに関してだけは、演技力どうこうの話ではなく、男性陣と猫が紳士としての振る舞いを心得ているということの証明であった。
 しかもバイト代まで出るというのだから、二人としては張り切らないわけにはいかなかった。喜多川などは臨時収入の使い先をすでに考えている様子である。
 しかし、坂本の前には一つの難題が立ち塞がる。
 それは彼の見た目の問題だ。社会への反抗心だとか大人への反逆だとか、あるいは単純にファッションとして―――
 派手派手しい金髪は、社長令嬢が主催する親睦会のポーターとして潜入するのにはちょっと相応しくないだろう。
 そういう理由で、彼は今真っ黒な仮髪、つまりウィッグを被らされている。
 それを見て喜多川は笑いを噛み殺しきれずに身体を震わせているというわけだ。
「似合ってるぞ、竜司。くくっ」
「おうちょっとツラ貸せよ祐介クぅン」
「ふっ、ふふふ……すまん……うくく……っ」
「てんめぇいい加減にしろやコラ!」
 しわができてはいけないと厳重に言い付けられているために胸ぐらも掴めないと声を大に詰め寄るが、喜多川は少しも動じる様子を見せなかった。
「ふ、ふ、いや、すまん、本当に……ふっ、なんだ、竜司、髪の色一つで人の印象というものは大きく変わるものだな?」
「うっせ」
「いっそずっとそのままでいてはどうだ。男ぶりが上がるぞ」
「うるせえっつってんだろ!」
 鋼鉄製のロッカー扉を叩く音が狭い室内によく響いた。奥村によって二人だけが他の従業員と違う部屋を使用出来るように計らわれているが、それはやかましくして良いという意味ではないだろう。
 事実咎めるような声が二人の耳に届いた。
『うるさいぞ召使いどもー』
 佐倉の声は二人の耳に取り付けられた小型のイヤホンから響いている。傍目には補聴器にも見えるそれは、同じく会場の奥村と高巻、ホテル内の客室に待機する新島と佐倉、遊撃として外をうろつく猫と頭領の耳にも取り付けられている。
「マイクテストの手間が省けただろう?」
 のんきな様子で喜多川が言ってのける。
 その詰襟の下には集音マイクがあって、これもまた皆が似たような物を装備している。
 これによって拾われた音は客室―――作戦本部に持ち込まれた佐倉のPCを経由、調整されてからそれぞれのイヤホンに吐き出される。
 先のやり取りは皆にもつつ抜けであった。
『んっとにもう、うるさいっての……響くんだからやめてよね』
『ちょっと音量調節するか……おイナリなんか言え』
「なぜ俺に。そもそもなんかとはなんだ?」
『よし。オッケー』
「なんかとは」
『なあ、外寒い。モルガナが膨らんでる』
『猫に限らず動物は寒いと膨らむわよね。雀とか、ハムスターとか……リーダー、写真撮っておいて』
『猫じゃねーしっておい撮るな! こらぁ!』
 鼓膜に直接響くモルガナの喚き声に眉を寄せて、坂本は詰襟の息苦しさを振り払うように頭を振った。
「なあ、野郎はまだかよ」
『まーだー……顔見た瞬間に殴りかかったりすんなよー』
「誰がするか。狂犬か俺は」
『退屈なら会場に出てきたらどう? お賃金分の働きをしてくれてもいいんだよ』
「そうだな。相応の働きをしよう」
 喜多川は何故かうきうきとした様子でさっさとロッカールームを後にしようとする。
 目当てはバイト代かはたまた……
 坂本は慌てて彼の後を追った。

 会場に入るなり、喜多川は『美しい』と呟いて動かなくなった。
 彼の視線の先には場に相応しく盛装した高巻と奥村の姿があって、これには坂本も反論する余地もつもりも一欠片も無かった。
 いつもなら二つに別たれている高巻の金の髪は、一つにまとめられて高い位置で結われて透き通るような白いうなじを露わにしている。同じくらい白くなだらかな胸元は見せつけるように開かれているのに、大人っぽくはあっても下品では決してない。性差を問わず人目を引き寄せる強烈な魅力がそこには存在していた。
 対する奥村は楚々とした立ち居振る舞いと相反する華やかなXラインのドレスに身を包んで、彼女のグラマラスさをより際立たせている。その脚はちょっと大胆すぎるくらいに露出しているのに、肩や腕がきっちりと包まれているのがかえって色気とでも表現するものを呼び寄せていた。
 生唾を飲み込んで見惚れる理由は双方ともに十分すぎるくらいにあった。
『どうよ、見直した?』
 隅で固まる男子二名に遠くから片目をつむってみせて、高巻は自慢げに胸を張る―――
 喜多川は胸を押さえてその場に膝をついた。
「死者一名」
 答えて喜多川を軽く蹴っ飛ばすと、高巻どころか奥村までもがどことなく勝ち誇ったように笑ってみせた。
『えーいいな。俺も見たかった』
『ワガハイもぉ……』
『ならエスコートしてくれれば良かったのに』
『うん。それに、外は寒いでしょう?』
 高巻の提案に追随するように奥村が同意の声を上げるが、少年は素っ気ない笑い声を上げるだけだった。
『今回ばっかりは俺は予備役。裏方担当で……そう、ジェレミー・レナーだ』
『じゃあわたしベンジー!』
 すかさず佐倉がはしゃいだ声を上げ、少年もそれに応えてますます饒舌に語り出した。
『そうなると杏はジェーン・カーターか? いや、シナモン・カーターのほうが近いかな』
『ドラマ版も考えていいのならわたしバーニー!』
『俺はジム・フェルプス!』
『おはようフェルプスくん!』
 きゃっきゃと不可能作戦について語り合う兄妹のようなものに呆れたようながっかりしたような声があちこちから上がった。
 ともあれ、あとは小早川某の到着を待つばかりだ。
 興味のないラジオを聞いているときのような心地で兄妹のようなもののトム・クルーズに対する批評に耳を傾けているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。
 やがて報がホテル内の監視カメラ映像を黙々と見つめていた新島からもたらされる。
『来た、小早川。一緒に居るのはおそらく大室ね』
『こっちでも確認した。どうやら二人だけみたいだな』
 屋外で直接駐車場を監視していた裏方からも声がかかる。
 坂本はそこにの名が上がらなかったことにひっそりと安堵して、会場で男の到着を待った。慣れない給仕をしながらであっても、彼の神経はこの上なく研ぎ澄まされているようで、視界はいつになく広く感じられた。
 やがて大室教授―――齢六十ほどの小柄な老人の供として小早川が姿を現す。
 それは確かにあの日の顔を叩いた男だった。視界の端でそれを確かめるなり、坂本は頭に血がのぼる感覚にきつく目をつぶった。
 間違いない。アイツが姉ちゃんを傷つけたやつだ。
 そう思うと、してはならないと理解していて、しないと口にしたのにもかかわらず飛び掛かって殴り返してやりたい衝動に襲われる―――
『竜司』
 名前を呼ばれて彼は我を取り戻した。
 屋外にいて、音声でしかこちらの状況を確認できていないはずだというのに、いったいどうしてこうもタイミングよく声をかけられるんだろう。あるいは、マイクやイヤホンなんてものがなくても、『彼』には俺たちの心そのものが丸見えだったりするのだろうか?
 思うが、しかし不快ではなかった。心が近いという感覚は彼をすぐに落ち着かせた。
 坂本は長く細い息を吐いて、呼びかける声に応えた。
「なによ」
 返されたのは忍び笑いと、マイク越しに口付けを寄越すようなリップ音だけだった。
『―――おい! 俺にも繋がっているんだ、気色の悪い真似はやめろ! そういうのはお前たち二人きりのときにやれ!』
 喜多川が非難の声を上げたが、坂本にしたって背筋が冷えていた。
「いや二人きりでもやらねぇよ。やんなよ。うわ、鳥肌……」
『お前ら覚えてろよ。寝てるところに忍び込んで朝まで添い寝して温めてやるからな』
 あくまでも周りの者に悟られぬよう、控えめな声で悲鳴が上げられる。
 女性陣は各々複雑な心持ちと面持ちでもってそれを聞き流して、やっぱり周囲の者に悟られぬよう、小さく肩をすくめたりため息をついたりした。
 ともあれ、役者は揃った。
 水の入ったグラスを喜多川が手にしたトレイから頂戴して、高巻は堂々とした歩みでもって進み出た。
『リーダー、指示出しよろしく』
 ―――この少女に色仕掛けをさせることに誰も異論はない。なにしろ彼女は顔もプロポーションも、並の女性では太刀打ちできないものを持ち合わせている。たいていの男なら彼女にちょっとそこに跪いてとお願いされれば、喜んで片膝どころか両膝を床につけるだろう。
 しかし天は二物を与えなかった。
 高巻の演技力というものは、一言で言い表せば酷いの一言に尽きる。それでも喜多川が騙されてくれたのは彼がまだ年若い初心な少年だったからだろうが、小早川にそのアドバンテージは通用しない。初見時は誤魔化せても、二度目となれば、とみにこのような状況が加味されればなおのこと。
 そういう訳で、作戦会議の段階で台本と演技指導が付けられることが決定した。曰く、『オトコゴコロを最もよく知っているのは、同じオトコだ』とのことである。
 高巻は耳元から飛ばされる指示通りの言葉を、いくらか棒読み気味に、それでも忠実に口にした。
「また会えるなんて……なんかぁ、ウンメイ、感じちゃう、な~……?」
 甘ったるくちょっと舌足らずに、正面からではなく利き手側に立って上目遣いに―――
 やたらと細やかな指示が与えられたことを、女性陣はそういうものかと感心するのと同時にひっそりと気持ち悪がった。
 そして小早川の反応はともかく、仲間たちは好き勝手に彼女のお芝居の出来を評価する。
『うーん、五十点』
『採点甘くない? 三十ね』
『すまないアン殿、これはさすがに……でも八十点!』
『点数は付けられないけどこれはこれで一部のマニアに需要があるぞっ!』
 ―――強いノイズが全員の耳朶を叩いた。
 どうやら高巻が胸元に隠されたマイクを指先で思い切り弾いたようだ。静かにしていろということらしい。
 辛い点数付けがなされたが、小早川には通用したらしい。にわかに食い付いた彼と高巻は、楽しげなおしゃべりを開始した。

 何十人かが入れ代わり立ち代わりに行き来する会場内は人目も多い。小早川も迂闊な動きは出来ないだろうと護衛を喜多川に押し付けて、坂本は従業員用出入り口からするりと会場を抜け出した。
 念のため休憩に入ると告げておいたが、これに咎める声は返されなかった。
 人気のないところでクールダウンしたいという意図もあって、おそらく皆もそれを承知しているのだろう。だから誰も彼を引き留めなかったのだ。
 あるいはその先に転がる幸運を予期していた者もいるかもしれない。
 通路を抜けて屋外に取り付けられた非常用階段の踊り場に足を踏み入れた彼は、思いもよらぬ人物の姿を発見して危うく大声を出すところだった。
「なっ、なんで……!?」
「りゅうちゃん? どうして……あれっ?」
 非常灯のほのかな灯りに照らし出されているのは、他でもないだ。
 坂本にとって見慣れないパンツスーツで身を包んだ彼女は、彼の頭の天辺から足先までをまじまじ観察してから、ちょっと場にそぐわないようなことを言いだした。
「髪伸びた?」
 ある意味では少年のよく知る彼女の姿ではあった。
「や、これはウィッグで……じゃねえ! なんでこんなところに居るんだよ!?」
 怒鳴りつけると、はばつが悪そうに口を歪めてそっぽを向いた。吹き付けるビル風が彼女の髪を激しく揺さぶっていたが、もごもごと発せられた声は耳によく届いた。
「あー……その、迷子に? なったみたいで……」
 坂本の記憶の中の彼女は確かに間の抜けたところがあるが、しかしこんなところに迷い込むほどの方向音痴ではなかったはずだ。
 彼の耳元ではこの会話を聞き付けた連中もまたざわめいている―――
? なんで?』
『……おかしくは無いわね。大室教授の付き添いとして遅れてやって来た可能性はあるわ』
『うん。招待客以外にもその同伴者としていらっしゃった方も会場には出入りできるから』
『ごめん、完全にノーマークだった……真、手元の名簿で確認できるか』
『待って。同伴者のお名前はその場でしか取ってないの。こちらで確認させます』
『うい。じゃあこっちはこっちで監視カメラ映像から確認するぞ』
『お願い』
『そういうわけだから、竜司―――』
 ちょっと数分、その人をその場に引き留めて。
 難しい注文を付けられて、坂本はに見えないように眉をしかめた。
「だ、誰かと一緒に来たん?」
「えっ? あ、う、うん。そう、教授の付き添いでね、うん」
「そっかー……あー……」
「りゅうちゃんは……その格好、お仕事?」
「そ、そお。ダチからぁ、割のいいバイトがあるって紹介? されて?」
「そのお友だちって、やっぱり……」
「えっ?」
「……ううん、なんでもないよ。じゃあ私、会場のほうに戻るよ。やっぱりここにいちゃいけないよね」
 小さく頭を振ったは、ぎこちない動きで脇をすり抜けて鋼鉄製の重量ドアに手をかけようとする―――
 坂本の耳元で誰かが『もうちょい引き止めろ』とやかましく言い付けた。同じく誰かが『なんでもいいから気を引いとけ』とまったく気楽に言ってくれる。そんな簡単にできるのならそもそも冷や汗なんてかいていない。
 それでも彼はの手を捕まえて、彼女の関心を引くことに成功した。
 振り返ったスーツ姿の女性は、瞳に驚きを湛えて彼を見上げている―――
 なにかを言って、彼女をここに引き留めなければならない。少なくともどうして彼女がこの場にいるのか、それが明らかになるまで自由にさせるわけにはいかなかった。
 しかし『なにか』とはなんだろうか。今日の天気のことでも話せばいいのか。昨日読んだ漫画の話でもしたらいいのか。それとも一昨日の献立の話でも?
 どれも相応しいとは思えない。
 進退窮まった坂本の脳裏に閃いたのは、三十、あるいは五十、もしくは八十点で一部に需要のある声と棒読みだった。
「こっ、こんなところで会えるなんて……運命ってヤツじゃね!?」
 ……少年の耳元に取り付けられたイヤホンの向こうで、都合六人と一匹が盛大に吹き出した。
『げほっ! えほっ! すっ、すみませ……っ、む、むせちゃ……って……!』
『っ、は―――あははははははは!! あはは! げほっ! うえぇ……っ! ひぃっ、ひいぃ……!』
『いいえ、なんでもないんです。ええ、大丈夫ですわ。うふふ……こほん、んん……っ』
『ちょっと、笑い過ぎ―――っふふ、んふふ、ふっ、あはははは……!』
『おいよせ、やめろ……っ、こっちは笑える状況じゃないんだぞ……ふっ、くく……』
『ひーっ、ひぃーっ、りゅっ、りゅーじっ! 今日のMVPは間違いなく、お前だ……!』
『ニャッ、にゃふふ……くっ、くくくっ、ぶふふ、ふニャははは!』
 坂本はさりげない動作でイヤホンを取り外して、その拳の中で握りつぶした。
 彼の耳には届かなかったが、ひと際強烈なノイズが走って笑い転げる者たちの耳をひどく痛めつけた。
 さて、抱腹ものの発言をぶつけられた当の張本人であるはどうかといえば、きょとんとした顔をして、目を皿のように丸くして目論見通り動きを止めてくれている。恥をかいた甲斐は十分あった。
 なにより彼女の頬はほんのりと紅く染まっている。それこそを彼は笑ってくれた連中に見せつけてやりたかった。十分効果あるじゃねえか、と。
「えっ、あ―――そっ、そうかな……そうなのかな。たしかに、りゅうちゃんとこんな場所で逢うなんて、ちょっと、珍しいことなのかもしれないね……?」
 また彼女はこうも述べた。集音マイクは生きているだろうから、連中にもしっかりと聞こえていることだろう。
 どうだ見た―――聞いたか。姉ちゃんはお前らと違って、純粋なひとなんだよ。
 坂本は何故か自慢げに思って、掴んだ手に力を籠めた。
「そうだよ。そう……だから……ちょっと話でもしねえ?」
「でも、りゅうちゃん、お仕事中だよね?」
「あいや、俺、今休憩中でよ。だから十分くらいなら……だ、ダメ?」
「りゅうちゃんが困らないのならいいよ。私で良ければ、いくらでも」
「お、おう……」
「うん」
 よかった、引き留めることには成功したようだ。
 思えどしかしなにを話せばいいのか、坂本にはさっぱり分からなかった。
 子供のころは学校であったことだとか、テレビで見たアニメや特撮ヒーローの話をしていれば良かった。だってそれに楽しそうに耳を傾けてくれていたではないか。
 けれど彼はもうそこまで子供でもない。あのころ瞳を輝かせて見つめていたヒーローたちは現実には存在せず、ただの絵や俳優であると知ってしまった。憧れの存在は娯楽に成り下がったのだ。
 そうでなくたって彼はもう高校二年生で、そんな話を幼馴染のお姉さんにするのはちょっと恥ずかしい。
 首の後ろをかいて話題を探しつつちらりとを見下ろすと、彼女もまた会話の緒を探っているらしかった。
 気まずい沈黙が踊り場に満ちて、それは吹きすさぶ風でさえも払拭できずにいる。
 なんでもいいから、なにかを口にしなければ。
 そう思っていたのは坂本だけではなかったらしい。二人は同時に口を開いた。
「あのさ」「あのね」
 ぎょっとして視線を交わして、二人はその場で円を描くように物理的にも場を譲り合う。
「あっ、お先にどうぞ」
「いやいや、姉ちゃんが」
「いいんだよ。どうしたの?」
「えっ、あ、え―――その……だから……」
 そう言われても、話すことなんて決まっていなかった。なんでもいいからとにかくなにかと呼びかけただけだ。
 もちろん、訊きたいことは山のようにある。
 あの小早川って男はアンタにとってなんなんだとか、どうしてアイツに姉ちゃんが叩かれなきゃいけなかったのか。
 あのとき、心配してくれたのに、ひどい言葉をぶつけてごめんと謝れたら……
 少年はきつく口を引き結んだ。
 言うべき言葉はあるのに、どうしても素直になることができなかったのだ。
 ただ彼は、これを『機会』だと思った。己が口にした馬鹿みたいなセリフ―――運命じゃないかという言葉も、あながち間違ってもいないのかもしれない。
 彼はずっと気になっていたことを口にした。
「なんであんなに親切にしてくれてたんだ?」
 主語のない問い掛けに当然は首を傾げた。
「だからさ……姉ちゃん、俺がガキのころ、親が帰ってくるまでよく遊んでくれてたじゃん。姉ちゃんにだって都合とかさ、宿題とか、部活とか、他の連中との付き合いとか、あったはずじゃん。なのになんで……」
 補足して語ってやると、は得心したように一つ頷いて返した。
 答えようとしてくれることに安堵して言葉を待つ。は少し困ったようにしばらく遠くを眺めていたが、やがてはっきりとした口調でもって告げた。
「友達がいなかったからだよ。あのころはね。今も多いとは言えないけど……」
 坂本にとっては意外な発言であった。しかし言われてみれば、が友人と連れ立って歩いているの姿を見かけたことは一度もない。それは単に通学路や進学先の関係かと思っていたのだが、まさかそんな理由であったとは。
「さすがに覚えてないかなぁ。りゅうちゃんと遊ぶようになったのは、私があの辺に引っ越してきたばかりのことだったんだよ」
「だから?」
「うん。友達の輪にもなかなか入れないで……放課後はいつも退屈していたからね。だからだよ。親切なんかじゃなくて、がっかりした?」
「や、別に……なんか納得できたし。だとしても、あんときは、あ、あり……」
「ん?」
「……助かりましたし」
「そうかぁ、良かった」
 朗らかに笑って髪を押さえるの頬にはまだ薄っすらと叩かれた痕が見える。化粧で誤魔化されてはいるが、完璧ではなかった。
 はその視線に気が付くこともなく、懐かしむようにまた言を重ねる。
「でもお礼を言うのは私のほうだよ」
「なんで?」
 首を傾げた坂本の利き手側、手すりに寄り掛かって、上目遣いで彼女は言った。
「いつの間にかりゅうちゃんはお友達をたくさんつくって、その子たちと遊ぶようになった。それを見て、私もいつまでもまごまごしているわけにはいかないって思えたの」
 それもまた初耳であった。
 そしてなにより、効果のほどを思い知って彼は言葉を失った。
 特別美人だとかスタイルがいいなんて思ったことは一度もないのに、今この時ばかりは、着飾ったわけでもなく大した化粧もしていないであろうをかわいいと思えた。
 なによりも―――
 己の振る舞いや成してきたことが誰かの、この場合はの助けになっていたことを知らされて、坂本は胸を締め付けられるような心地になった。
「今もそう。りゅうちゃんの言う通り、運命なのかもしれない」
 けれどどうしてか、はふっと表情を曇らせてこんなことを言い出すのだ。
「本当ならお礼を言う前に謝らなくちゃいけないんだけど。自分のためにまたりゅうちゃんに声をかけたりすることを……」
 どういう意味だと問い掛けるのは簡単だった。
 今のこの状況は、彼女の都合によって成り立っているということか―――?
 坂本は手すりに腕を乗せて、距離を詰めて彼女に問うた。
「なに言ってんの?」
「ごめんね。あなたのほうがよっぽど親切にしてくれているのに」
「だから、どういう意味?」
 はただ首を左右に振るばかりだった。
「姉ちゃん?」
 呼び掛けに返されたのは非常灯の灯りによって緑色に染め上げられた手のひらだった。
 首を傾げてよくよく見れば、そこには奇妙なマスコットにマイクロSDカードが繋げらた物が乗せられている―――
「りゅうちゃんのお友達に、奥村春さんって子がいるでしょ」
 少年ははっと息を呑んで目を見開き、SDカードからに目を移した。決意の籠められた瞳が彼を見上げていた。
「その子にこれを。信頼できる人に見せるように伝えて、渡して欲しい」
 思いもよらぬの真剣な声色に、坂本は面食らって彼女の手の上の物と彼女の顔とを交互に見比べた。
 彼はもう一度だけ「どういう意味だよ」と問いかけたが、やはり彼女はただ小さく首を左右に振るばかりだ。
 諦めたわけではないが、それでも少年は手を伸ばしてSDカードを手に取って拳の中に握り込んだ。
 それを見て、はほっと息をつく。それは安堵のようにも、疲れからのようにも思えた。
 坂本はぶら下げられたストラップの奇妙な―――おそらくは爬虫類かなにかのマスコットキャラクターを見つめながら口を開く。
「これ、アイツに関係あったりすんのか?」
「あいつ……?」
「こば……ね、姉ちゃんを叩いたやつ」
 彼女が困ったような顔で俯いたことこそが答えだった。坂本はなおきつく手の中の物を握りしめて、それを少し乱暴に尻のポケットに放り込んだ。
「なんにも教えないくせにあれをしろあれはするなって、ウザいよね。ごめんね」
 謝るくらいならわけを語ってくれればいいのに。
 思えど、それを口にしないで済ませるくらいの分別は持ち合わせていた。とはいえ彼は下唇を小さく噛んでこれを堪えていたから、本当に間際のところではあった。
 ただ彼はの声の調子や高さから、普段見せない強い緊張―――決意のようなものを読み取って沈黙する。
 謝罪を口にして俯いても、胸に秘めたそれだけは決して譲るまいとする気概だ。ただの感情論とも、意地を張っているだけとも言うことができるだろう。
 けれど坂本には見慣れた光景でもあった。
 機会を説いた先輩やただの女子高生、ギャップが顔つけて歩いてるのと、誰にも逆らえない『コレ』を持つ女子と、口やかましい猫に底を抜けて奈落までほじくり返すオレンジ頭と……
 マイク越しに寄越されたリップ音。
 坂本は首の後ろと背のうぶ毛が粟立つのを感じつつ、差し出していた手を己の胸に返してこぶしを作るをまじまじ眺めた。
 そこにいるのが全く知らない女の人のように見える。
 本当にこのひとのことをなんにも知らなかったんだとまた強く自覚して、しかし今度は悲しさも苛立ちも感じず、引き換えに敬慕の念と頼もしさのようなものをその胸の内に覚える。
 認め難いが、それは仲間たちを前にしたときと同じ感覚だった。
 わけは何一つ明かされていないが、しかし、坂本は漠然ともまたなにかしらの信念に基づいた正義のためにここにいるのだということを直感的に感じ取ったのだ。
「ウザいとか、そんなの、姉ちゃんに対して思うわけねぇよ」
 発した彼自身もちょっと驚くような穏やかな声だった。
 もまた顔を上げてぽかんとした表情を晒している。
 その顔がよく知るつくりと形をしていることに安堵して、小さく息をついて続ける。
「そもそも謝るのは俺のほうだし」
「どうして?」
「その……あんとき、ほら、一年くらい前……」
 あっと声を上げて、は視線を床に落とした。彼女もよく記憶しているのだろう。この少年に気遣いから声をかけて、荒々しい言葉とともに追い払われたことを―――
 再び彼女は驚きに目を見開いた。
「ごめん。姉ちゃんは俺のこと心配してくれてたのに、俺、イラついてひでぇこと言ったよな。バカだった。ごめんな」
「そ……そんな、あれは、私が考え無しで、りゅうちゃんを傷つけたから」
「だとしても、謝りたいんだよ」
「でも」
 戸惑いに震える瞳に、坂本は笑いかけた。
「なら取引だ。俺は姉ちゃんの依頼……荷物の受け渡しを引き受ける。そんかわり、姉ちゃんは俺の謝罪を受け入れる」
 いいアイデアだろ?
 満面の笑みで最高のいたずらを披露するような彼の様子に、はちょっと困ったように、しかし笑って頷いてみせた。
「わかった……奥村さんによろしくね」
「あいよ」
 パシンと音を立てて己の尻―――のポケットに押し込んだSDカードを叩いてやる。するとはまた困ったような顔をして髪を押さえ、くるりと踵を返して彼に背を向けた。
 その背中は小さく震えている。
「……じゃあ、私は帰るね。本当は迷子なんかじゃないんだ。ここまで忍び込んできたの」
「まあ、なんとなく分かってたけど」
「やっぱり?」
 背を向けたまま小さく笑って、彼女はそのまま手すりに手をついて非常階段をゆっくりと降りていった。
 坂本は何をするでもなく、冷たく強い風が吹いてくるのも構わずしばらくそこに佇んで、彼女の足音が遠ざかるのに耳を傾けていた。