木曜日の放課後、坂本は四軒茶屋の駅を少し行った先の路地にある喫茶店、ルブランの屋根裏部屋で一人の少年に突っつかれていた。
「よしよしりゅうちゃん、やっと俺を頼る気になったんだな、えらいぞ。モルガナ用に買っておいたけど砂かけられた猫用おやつ食う?」
 差し出された細長い棒状のジャーキーを、坂本は手ごと叩き落した。
「犬かよ!」
「猫用だけどな」
 床に落ちたジャーキーを拾い上げて埃を払う少年は、しかしどことなく満足げである。
 なにが楽しいというのか。隠すこともなく舌打ちする坂本にそれでも彼は楽しそうにしていた。
 さて―――
「観念する気になったのね」
 こう言って手を合わせたのは奥村である。
 屋根裏部屋にはすっかりいつもの面々が集っている。
 面々というのは即ち、坂本の友人で、悪友で、親友で、奇妙な縁によって結ばれた人々であって、そして世を騒がす『心の怪盗団』の仲間たちだ。
 この屋根裏部屋は怪盗団を率いる頭領の住屋であると同時に彼らのアジトでもある。であれば彼らが一堂に会するのは不自然でもないのだが、しかし集合をかけたのはリーダーである少年ではない。
「じゃ、作戦会議しよっか?」
 指先に金糸の髪を巻きつけながら笑う高巻に、屋根裏部屋の主は肩を竦めて坂本へ目線を送った。それは「今回はお前に任せる」と語っている。
 それを受けて坂本が口をへの字に曲げるのを見て、モルガナを膝の上に乗せて耳の下を掻いてやっていた佐倉が口を開いた。
「なんだよりゅうちゃん、ビビってんのかぁ?」
 揶揄するような目と声に、やはりと言うべきか、テーブルの上に広げられたスナック菓子を口に運んでいた喜多川がフォロー……のようなものを投げる。
「……怖気づくのとはまたべつに……覚悟を決めるための時間というものが……男には必要なんだ……」
「食べながら喋らないの」
「ひゅいまふぇん」
 奥村に優しく咎められて、喜多川は己の口に手を当てて沈黙した。
「男の覚悟ねぇ……私たちには解らない領分ね」
 どことなく感慨深げに頷いてみせる新島はさておき、佐倉の膝から降りたモルガナが尾っぽをふりふり坂本の足元にまで歩み寄って問いかける。
「だが今回ばっかりはオマエが音頭を取るしかなさそうだからな。ほら、さっさと始めろよ」
 無遠慮な物言いに坂本はむっと眉を寄せて唇を尖らせたが、しかし猫の言うことはもっともであると理解しているのだろう。特別反論はせず、ただじっとその白い前足を睨みつけ
「今回は俺からの依頼って形になるわけだけど」と、やっとのことで絞り出すようにして告げた。
 椅子に深く座したまま事情を説明してやることしばし―――
「相手は小早川秀樹。さんと同じ理学部で、二つ年上だったかな」
 名前と付属情報を告げると、これにさっそく新島が食い付いた。
さんより二つ上なら博士課程かしら。双葉、論文の一つくらい検索で出てこない?」
「やってみるー……やってみたぁ。大室研究室……うん、の名前もあった……よし、これ!」
 テーブルの上のラップトップパソコンを軽快に叩いていた佐倉は、皆の前に『それ』を示してみせた。
 ほのかな光を放つ液晶画面を覗き込んだ少年たちは、しかし、うっと呻いて沈黙する。
「英語じゃん。読めねぇよ」
「ちょっとどいて。えっと……」
 少年たちをぐいっと押しやって中央に高巻が陣取る―――しかし、彼女もまた困惑気味に眉を寄せて首を右に左に傾けて呻き声を上げるばかりだった。
「あんだよ、読めよ」
「や、えっとね……専門用語が多すぎて意味がわかんない……」
「役立たず!!」
「じゃあアンタが読んでみなさいよ!!」
 いがみ合う二人は直ちに引き剥がされて中央から右と左に別たれた。代わりにそこへ座したのは新島と奥村、それから伊達眼鏡のグラスに液晶画面の輝きを反射させる少年である。
「……人工、酵素……アミノ酸? ペプチドの合成……」
「あ、もしかしてこれ、甘味料かな?」
「ああーそうね。ほらこっち、比較対象としてアスパルテームの名前が挙がってる」
「あーあーあー、なるほどこのグラフ発がん率か。杏、拗ねていないで戻ってきてくれ。読むなら杏のほうが早いんだから」
 お株を奪われたと膝を抱える高巻に呼びかけて、少年たちはまた示された論文にああだこうだと没頭する。
「いや、それの中身は別に関係無くね?」
 すっかり蚊帳の外に置かれた坂本がぼやくように言うが、しかしこれに奥村が顔を上げて首を横に振った。
「そうでもないよ。私、たぶんこの小早川さんのこと知ってるもの」
「そうなのか?」
「ええ。お父さまが以前言っていたの。人工甘味料……つまり、お砂糖の代替品って、加工食品に多く用いられるものでしょう。より安価で安全なものが安定して生産されるようになれば、版図が大きく塗り替わりかねないって。あれは多分、このことを言っていたんだわ」
 奥村の父―――奥村邦和は日本国内と一部海外にもテリトリーを広げるビッグ・バンバーガー、その親会社であるオクムラフーズの元・経営者だ。ファストフード以外にも広く食品業界に手を加えていた彼とその傘下であれば、確かに開発中の新たな甘味は興味深い対象だろう。
「このデータが本当なら、オクムラフーズ以外のどこの食品関連会社も欲しがるでしょうね」
「有害性と栄養価の低さに対して甘味の強さを考えたら、美容業界も食い付きそうだな」
「普通の砂糖の五百倍……五百倍ってなに? スプーン一杯でバケツいっぱいの水が甘くなる、みたいな……?」
「五百倍となるともっといけるんじゃないか? センタッキくらいか?」
「甘くてもエネルギーにならないのではな……俺には縁がなさそうだ」
「おイナリには二重の意味で縁遠い話だろうなー」
 どういうことだと向けられた視線に、佐倉は肩をすくめた。
「だから、いろんな人が、この新しい合成物を欲しがるんだろ? 欲しがる人がたくさんいるってことは、需要が高いってことだ」
「ああ、なるほど。高値が付きそうだな。……なるほど……」
「たぶんナン億って規模になるんじゃね」
「おくッ!?」
 素っ頓狂な声をあげた喜多川にけらけらと笑って、佐倉はラップトップを己の手元に引き戻した。
 残された少年たちも、確かにそれくらいの市場価値を産む開発であると頷いてみせている。
「何億もの金を産み出す研究、か……きな臭くなってきたな」
 癖のある長い前髪をいじりながら呟かれた台詞は、内容に反してどことなく楽しげである。
 咎めるように眉を寄せるが、しかし新島もまた腕を組んで深く思案する表情を見せた。
「そうね……別に研究者が全部清廉潔白でなければいけないなんてことはないでしょうけど……同じ研究室の女性を殴ったという事実を知っていると、どうしても結び付けたくはなるかな」
「それもまた認知の歪みの一種だな。初頭効果だ。わからんでもないけど」
「んー、例えば砂糖の研究ってのは表向きで、裏ではヤバい実験とかしてるとか?」
 頭を捻る高巻に返されたのは苦笑だった。
「さすがにそれは、映画の見過ぎ」
「あれ?」
 きょとんとした顔で首を傾ける彼女はさておきとして、怪盗団は膝を向き合わせて再び議論を再開させる。
「パレスがあるほどじゃ無いみたいだけど、メメントスのほうはどうかな。名前はあるから反応の有る無しはさらえるだろうけど……」
「あったらどうする? 改心いっちゃう?」
「そこは竜司次第」
 こたえて、伊達眼鏡の奥の瞳がじっと坂本を見つめた。彼は無言の内に訴えている。どうする? お前が望むならいくらでも手を貸してやるぞ、と……
 坂本はそれに縋り付くこともできた。心の赴くまま、己の大切なひとを傷つけた罰を与えたいと望むことが。
 しかしそうはしなかった。少年はただ静かに首を左右に振った。
「まだ決め付けんのは早えだろ。小早川はムカつくし、やり返してやりてぇとは思うけど……これはまだそういう話じゃない。まずはどうして姉ちゃんが殴られなきゃならなかったのか、そのわけが知りたい」
 これに頭領は満面の笑みを浮かべて、ずっと手の中に握り込んでいたらしい猫用ジャーキーを再び彼の鼻先に突き付けた。
「偉いぞ竜司。ほら、あーん」
「だから犬じゃねぇし!!」
「あっ、ワガハイのまねっ子か?」
「やかましいわっ!」
「はいはい―――それじゃあまずは情報を集めましょうか」
 パンパンと手を打ち鳴らして軌道修正を図ったのは当然と言うべきか、新島である。
「まず、疑うべきはこの小早川とさんの色恋沙汰でしょうね」
「あー……やっぱそうなる?」
 肩を落とした坂本に、彼女は事も無げに言い切ってみせた。
「他に考えられる動機としては怒りや衝動という線もあるけど……そのどちらも含む可能性があるのが異性関係のトラブルでしょ? 二人の関係を探るのが一番手っ取り早いと思うわよ」
「うーん、でも、付き合ってるってことはないんじゃない?」
 異を唱えたのは高巻だった。彼女は新島の促すような視線に応えて続けて語る。
「だって普通、カノジョがいたらナンパなんてしないでしょ? アイツ、普通に私の連絡先知りたがってきたし……」
「教えたの?」
「ないない。でも向こうのは貰ったっつーか、一方的に渡されたっつーか」
 手の中のスマートフォンを見せびらかすようにして、高巻は視線を男子三名と、ついでに猫にも向ける。そこには非難と期待の色があった。
「……フツー、付き合ってる相手がいたら、知らない女子の番号とか、欲しがったりしないよね?」
「当然だろ。心に決めた相手がいて、他に目移りなんて、ワガハイは! しないぞ!」
 真っ先に応えたのはモルガナだった。
 ピンとひげを広げて誇らしげに胸を張った彼とは対象的に、二足歩行の三名は背を丸めて互いの腹を探るように見交わし合っている―――
 さっさと『その通りだ』と答えればいいものを、彼らは真剣にお互いの本音を吟味した。
 連絡先を入手すること自体に問題があるわけではないのだ。人間関係というしがらみに満ちたこの現実世界において他者との意思疎通手段が多くて困ることは―――時にはあるかもしれないが、しかし適切に用いるのであればないだろう。
 つまり問題はそこではなく、下心が有るか無いかということだ。
 少年たちは額を突き合わせて無言の内に議論を重ねる。時間にして十数秒、出た結論は無言だった。
 少年たちは俯いたり天を仰いだり、窓の外に視線を投げたりして誤魔化そうと努めた。
「春、窓開けて。コイツらそこから叩き落としてやる」
「あらまあ……でも、そうね、女の子を悲しませるのはいけないことだもんね……?」
「俺らを窓から投げ捨てんのもイケナイことだからあっ!」
「ちゅーか、ルブランに変な噂が立つだろ。やるなら別の場所にしろー」
「そうね。えーと、バンジージャンプが出来るところ……」
「おいやめろ。真、なにを調べて……!?」
 次の打ち上げを県境にまたがる遊園地で行うことに決めて、彼らは再び本筋に戻った。
「じゃ、もう一回接触してみる?」
 再び高巻がスマートフォンを取り上げてみせるのを横目に、新島はそうねと同意して、しかしその手をやんわりと止めてやる。
「文字情報ではいくらでも誤魔化せるわ。できれば直接会ってみたいんだけど……」
「誘いかけたら来るんじゃん?」
「二人だけっていうのは避けたいわね」
 それは確かに。と一同は様々な意味を込めて肯定を示した。釣り上げることは容易だろうが、その後の動向に関しては不安が残るのが高巻杏という女の子だろう。この点において怪盗団の意見は一致していた。
 ならばと奥村が控えめに手を上げる。
「そういうことなら私が、というか……私のお父さまが遺してくださったものが役に立つかもしれないよ」
 気遣わしげな目線が集中したが、しかし彼女はちょっと悲しそうな微笑を浮かべただけだった。
「今、うちの……オクムラフーズの内部は混乱してる。いろんな人がいろんな思惑をもってバラバラになって……だからね、お父さまの死を悼むのと同時に、親睦会を兼ねたパーティをやらないかって打診されているの」
「なんつーか……マジで別世界な」
「そうかもね? ふふっ」
 笑って、奥村はもう一度佐倉の手元、ラップトップに表示されたままの英文とデータに目を落とした。
「それを私に打診した人は、社内と外と、いろんなところの結束を再確認したいんだと思うの。私を改めて皆さんにお披露目したいって意図もあるんだろうけどね。となれば……この小早川さんを呼び出す口実にもならないかしら?」
 オクムラフーズがこの研究に注目しているのだと広く知らしめるために―――
 そう結んで、奥村は口元に手を添えて変わらぬ笑みを湛えている。
「だが、その小早川某とやらが必ずしも参加するとは限らないのでは?」
 もっともな疑問である。
 これに奥村はちょっと困ったような、恥じらうような顔をしてみせた。
「やっぱり、私じゃダメかな?」
「え?」
「その、だからね……ほら、婚約の件はみんなが頑張ってくれたおかげで、有耶無耶になったでしょ? それで、その、私のお披露目っていうのは……そ、そういう意味でもあるの……」
 言葉とともに奥村は俯いて、顔を赤く染める―――
 つまり、この場合の親睦会とは彼女の婿候補を探す意味もあるということだ。そしてそこに小早川を招致するということは即ち、これもまた色仕掛けに他ならない。
「も、もちろん私はそういう目的じゃないんだけど、あの、たぶん相手はそういうふうに受け取ってくれると思うから……」
「だが、ハル、それじゃ―――」
 また同じことになるんじゃないか。
 モルガナの心配そうな声を遮ったのは一人の少年だった。
「お願いします、先輩」
 皆が驚きをもって目を向ける。その先で、彼は両膝に手をおいて深々と頭を下げていた。
 プライドもなにもかもかなぐり捨てて、仲間にさえ無茶をさせようとしているのだ。
 奥村はそれを咎めもせず、細い腕に力こぶを作るようなポーズをとって頷いてみせた。
「うん、任せて!」
 彼女がそうと言うのであれば、もはや誰にも口を差し挟むことはできなかった。
 誰もが苦笑するなり肩をすくめるなりして諦めを示してこれを受け入れると、話がまとまるのは早かった。
「来ることが確定した時点でソッチの線は無し?」
「んや、こいつらの言うこと―――なにも言ってないが、態度を見てるとまだアヤシイところではあるな。ハニートラップの出番だぞ」
 ちらりと高巻に視線を送って、佐倉は揶揄するような声を上げた。送られたほうはちょっと困ったように血色の良い唇を尖らせたが、やがて口角を吊り上げて意地の悪い目で坂本を睨みつけた。
「なんか私に言うことがあるんじゃない?」
「……お願いしますゥ」
「ふふーん! いいよ! 感謝してよね!」
 坂本は高笑いして胸を反らす彼女に特大のため息をついた。恩を作りたくない相手というものは無数にいるが、今この時においては彼女が筆頭であった。
 部屋の隅ではすでに作戦参謀長官が御大将と電子情報処理担当、それから釣り餌の片割れとともに具体的な方針と用具の下拵えに関してを話し合っている。
 御大将がやたらとウキウキとした様子を見せているのがいささか気掛かりではあるが……
 頼もしい仲間があることを坂本は、なにに対してかは分からないが、それでも心からの感謝を捧げた。