と、心に決めたまでは良かった。
しかし実際に行動に移そうとなると、これがなかなかうまくいかない。タイミングよりも度胸の問題だった。
自分はこんなに意気地のないやつだったっけ―――
土日を過ぎた月曜の昼休み、坂本はしょんぼりしながら校舎の屋上へ続く階段を登っていた。
本来は立入禁止のはずだが、しばらく前に唯一の園芸部員―――怪盗団の一員でもある奥村春が小さな菜園を作ったとかで、大っぴらに開放されたわけではないが禁止ではなくなったらしい。
そうでなくたって坂本はそこへよく足を運んでいたから、禁止されたままでも関係のない話ではあった。
「あれ―――りゅうちゃん、珍しいね、こんなところで会うの」
穏やかで優しげな声で意地悪なことを言ったのは、件の屋上菜園にじょうろで水をやっていたジャージ姿の奥村だった。
「センパぁイ、マジでやめてくれよ……」
がくっと肩と首を落とした坂本に、奥村はいかにもお嬢様然とした優雅な仕草で小さく笑ってみせた。
「うふふっ、ごめんなさい。私は……ううん、私だけじゃなくて、みんなも、あなたとあのひとに興味津々だから、つい」
「他人のことなのにぃ?」
げんなりとしつつ歩み寄り、よく手入れのされた土のそばにしゃがみ込む。たっぷりと水を含んだそれからは独特の臭気が立ち昇っていた。不快ではないが、アスファルトが雨に濡れるのとはまた違ったにおいと、野菜特有の青臭さは彼の鼻腔の奥をむずむずとさせた。
「あら、薄情なのね」
「へ?」
「私があなたたちのところに加わったのはつい最近だけれど……他のみんなはもっと長い付き合いでしょう? それが今になって急にあんなひとが出てきて、私たちの知らない坂本くんの話を覗かせるんだもの。気になるのは当然じゃないかな?」
それともあなたは、他の仲間に似たような存在が現れたとき少しも面白がらずに、興味を惹かれずにいられるの?
問い掛けを重ねられて、坂本は押し黙った。奥村の言うことは全くそのとおりだったからだ。
「私たちは仲間だけれど……お互いに知らないことも多いから、みんな機会を逃したくないんだと思うな」
「なんの機会だよ」
どことなくげんなりとした風情でぼやく少年に、奥村は満面の笑みでこたえた。
「あなたと仲良くなれる機会」
この一つ上の物腰柔らかな先輩にこのように言われてしまうと、坂本はもうもろ手を挙げて受け入れるしかない。
とはいえ彼にだって譲れない領分というものはあった。
「でもりゅうちゃんって呼ぶのはやめてくれる?」
「どうしても?」
「どうしても!」
しぶしぶといった様子ながらも奥村は頷いてみせた。
いまいちなにを考えているのか分からないという意味では、奥村と
は似ているかもしれない。
そんなふうに思いつつ、坂本はため息をつきつき立ち上がってまだ菜園の手入れを続けようとする奥村のそばに寄った。
「これどーすんの? 雑草とか抜くやつ?」
「うん。あとはそろそろビニールを張って、藁も敷いて、ミニ温室みたいにしないと……」
言いながら、奥村はおやと首を傾げた。隣に並んで手元を覗き込んでいた坂本が、彼女に倣って土いじりに参加し始めたからだ。
「手伝ってくれるの?」
「ちょっとだけな」
「新入部員はいつでも大歓迎だよ」
「それはいいや」
不満げな声をあげながら頬を膨らませた奥村を軽く受け流しつつ、坂本は作業に没頭しようと努めた。
結局、坂本は貴重な昼休みどころか放課の時間までも園芸部の手伝いに使ってしまった。そんな己を人が良いと褒めるべきか、ほだされやすいお人好しと罵るべきか。
今日はシゴトもないからよしとすべきだろうと結論付けて、彼は痛む腰をさすりつつ校門をくぐった。
奥村はまだ少しやりたいことがあるからと校内に残ったし、他の怪盗団メンバーはどこでなにをしているのやら。坂本は一人でだらだらと足を運びながら思索する。
確かに、シゴトが無いとき、連中がなにをしているかなんて知りもしない。元々全く趣を違える奴らの集団だ。むしろどうしてまとまっていられるのかが不思議なくらいだった。
「あら竜司……いえ、りゅうちゃん、奇遇ね」
校門を出てすぐの自動販売機コーナーを通りかかろうとしたとき、おもむろに声を掛けられて坂本は苦虫を噛み潰したような顔をして立ち止まった。
錆びついたブリキ人形のようにぎこちなくそちらを向くと、自動販売機のすぐそばに新島真がスチール缶を片手に立っていた。シンプルな黒のデコレーションを見るにおそらく無糖のコーヒーだろう。坂本にはまったく信じられないことだった。
「だからぁ、やめろってんだろ、それ」
ブラックコーヒーにではなく忌々しい呼び名に対しての正直な所感を述べると、新島はプルトップに指をかけながら小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「どうして? かわいいじゃない」
「かわいくなりたぁいとか思ったこともないんですけどォ?」
踵を鳴らして距離を詰め、並ぶようにして自販機の前に立つ。新島はなにが面白いというのか、小さく喉を鳴らして笑っている。
「ちくしょう、どいつもこいつも……」
「なーに? 他の誰かさんにももうやられちゃったの?」
首を傾げた新島の手がどこからともなく小銭を取り出して自動販売機の硬化投入口にいくらかを放り込む。
彼女の手の中にはすでに缶コーヒーがあるはずだが、さらにもう一本買うつもりなのだろうか。
不思議そうな顔をする坂本に苦笑して、新島は自販機の前を譲るように一歩退いてみせた。
どうやら一杯奢ると言われているようだとやっと気が付いて、坂本は素直に先輩に頭を下げた。
「あざっす」
「どういたしまして。それで?」
炭酸飲料のボタンを押した坂本に、新島は再び問いを投げかける。坂本の手が取り出し口から缶を引っ張り出すのを見つめる瞳には、どことなくいたずらな輝きがあった。
「なにがよ」
「誰にからかわれたの? 杏? 双葉? まさか祐介じゃないわよね」
ふうと息を吹きかけてコーヒーを冷ましながら指折り数える。新島はやっぱり、楽しそうだった。
「春だよ。ンっとにもぉ、なんなんだよオネエサンたちは、そんなことでヒトをからかって楽しいですかァ?」
うんざりとしながらプルトップに爪をかけた坂本に、新島は軽く瞠目して「あら」と声を上げてみせた。
「意外ね」
「なに、聞いてなかったの。同クラだろ?」
「そうだけど……あまりそういう話はしないわ」
へえ、と坂本は感嘆の声をもらした。
しかし確かに二人はもともと交流があったわけではないし、今となってもベタベタとくっついて行動し合うようなタイプでもないだろう。
「そっか。ふぅん……春がね……ふふっ」
「なんだよ」
「別に? 竜司が春におもちゃにされてたなんて、面白いなと思っただけ」
「言い方。まあ、たしかに扱き使われてきたんだけどよ」
そうなの? とまた笑みを深くする彼女に、坂本はつい今しがたまで園芸部の手伝い―――越冬用のビニールハウス敷設のため、資材を屋上にえっちらおっちら運んでやった事の顛末を語ってやった。
「ふうん、感心じゃない。私からも先生方にそのあたりよく話しておいてあげようか。少しは内申の足しになるでしょ」
「そりゃどーも」
「ふふっ……そっか。春があなたをあごで使って……ふふふっ」
「だから言い方ぁ。まあ、確かに思ってた以上に人使い荒かったけどよ」
「春はそういうところあるかもね。甘え上手って言うのかな。男子は特にあの子を放っておけないんじゃない?」
含みのある言葉選びに、坂本は肩をすくめた。そういう意味で奥村に手を貸したわけではないが、しかしまったく下心が無いのかと言われれば―――小指の先くらいはあるだろう。なにしろ奥村は『美少女仮面』を名乗って許されるくらいだ。
「園芸部か……私も屋上行ってみようかなぁ」
「おー行け行け。そんで扱き使われてこいよ」
「嫌な言い方」
じとっと目を細めた新島に「仕返しだ」と言い返して、坂本はまた思う。先輩方は仲がおよろしいと思っていたけど、案外放課後一緒にあれこれするとかはしないんだな。
でもそんなものなのかもしれない。自分だって、高巻や喜多川が放課後どこに居て、なにをしているかなんて知りもしない。たまに見かけることくらいはあるが……双葉はそもそも坂本の行動圏内に入るほど家から遠出することはないし、新島や奥村もつい今しがた感心したとおりだ。
ましてあの謎の人脈を構築する輩に至っては、どこに居るのか検討も付かない。今ごろは女医のところか、女棋士か、はたまた女記者のところか。なんだか女が多いなと坂本は少しだけ忌々しく思った。
そしてまた結論を得る。別にどこに居たって構わないが、こう考えると奥村も言っていた通り、自分は案外仲間たちのことを大して知らないんだな。
坂本はふと子供のころからの付き合いであるはずの彼女のことを胸に返した。
そういえば、あのひとのことも、自分はろくすっぽ知りはしないな。と。
それは悲しいことではなかったが、なんとも寂しい話ではあるなと思う。仲良しこよしというわけじゃないけど、でも、なにも知らない仲ではないはずなのに。
「なるほど、機会ってやつか」
脈絡もなくつぶやいた彼に、新島は空になった缶をそばのダストボックスに投げ入れつつ首を傾げた。
「なに?」
「別に。なんか、ピカッと閃いたってだけ」
「祐介みたいなことをやらかさないでよ?」
「アイツの真似とか普通に無理だって!」
大げさに両手を振ると、新島は声を上げて顔中で笑ってみせた。そこにはクールな生徒会長も、おっかない作戦参謀官殿の姿もなかった。彼女はただの、ちょっと合気道なんかをやっているだけの女子高生だ。
坂本も釣られるように笑ってみせる。
なるほど、機会を逃したくないというのはこういう心地か、と。
機会はその日のうちに訪れた。
ようよう見慣れた歩き慣れた自宅近くまでやってきた彼の目が
の姿を捉えたのだ。
彼女はちょうど車の助手席から降りてくるところで、運転手となにやら小声で言い交わしている様子だった。
声をかけるべきか否か。いいや、機会を逃したくないと決めたばかりじゃないか。これ以上まだ思い悩むなんて、自分がすることじゃない。
定めて、少年は足を前に踏み出した。
別に血の繋がった姉というわけでもないのに「姉ちゃん」と声をかけようとして、そして彼は「姉ちゃん」の「ね」の口の形をしたまま硬直した。
直後に破裂音が響く。パチンと小気味の良い音が日の落ちた住宅街にこだました。
目を見開いた坂本の前で、
が尻もちをつくような形で倒れ伏して、車が走り去る。そのころになってやっと硬直が解けて、停止していた思考が巡り始めた。
が―――女子が、運転席の男に―――顔を! 引っ叩かれた―――
坂本は弾かれたように項垂れる
に走り寄った。
「
姉ちゃん!! 大丈夫かよ!!」
大声を出されてやっと
は坂本の存在を認識したのか、乱れた前髪の下から彼を見上げる瞳にはこの上ない驚きと悲嘆が見え隠れしていた。
けれど坂本にはそんなものはどうだってよかった。
赤く腫れた彼女の頬のほうが気がかりだったし、とっくに走り去った車の男への怒りによってどうにかなってしまいそうだった。
「あいつ、なんだよ。なんで……くそっ!」
言うべき言葉も訊くべきこともまとまらなかった。
ただとにかく、
を冷たいアスファルトの上に座らせたままでいるわけにはいかない。
腕をとって、肩を支えて立ち上がらせてやるのに大した力は必要なかった。
彼はそのことにも驚いていた。
このひとは、こんなに軽くて小さかったのか。
「
姉ちゃん、か、顔……大丈夫か? ああ、なんか、冷やすもん……いや、家に……」
動揺はますます彼の思考を支離滅裂にさせた。どうしたらいいのかなんて、さっぱりわからなかった。彼女の家はすぐ目の前にあるのだから、玄関まで支えてやればよいのだろうが、しかし―――
「うわっ」
坂本がうめき声をあげたのは、
が縋るように彼に抱きついてきたからだった。
胸元に埋められた顔と、背に回された腕と、密着した
の身体のやわらかな感触に、少年は目を白黒とさせて腕を中空にさまよわせた。
やっぱり彼は、どうしたらいいのかわからなかった。
ただ、震えてしがみついてくる知らない仲ではない女性を突き放したり、放り出して帰ることができるほど、彼は薄情でも器用でもなかった。
「ね、姉ちゃん……」
だからといって抱きしめ返してやれるほど豪胆にもなれなかった少年は、なんとか彼女の後頭部に手の置きどころをみつけて、落ち着かせるようにそこを撫でてやる。
震えはしばらくは収まらなかった。
それは坂本にとって、ほんの少しだけ幸いだった。役得という意味ではなく―――間近に迫った
の露わになったうなじからは甘やかな香りがした―――心を落ち着かせて、平静な思考を取り戻すという意味での幸いだ。
―――
は走り去ったあの車の助手席から下車してきた。ということは、少なくとも知り合いかそれ以上の間柄の相手なのだろう。ちらりと垣間見えた男の横顔に見覚えはなかったから、おそらく大学か、
のバイト先の人間か。
もしかしたら、疎遠になっていた間にできた恋人かなにか?
想像して、坂本は彼自身が驚くほどに落ち込んだ心地になるのを感じる。
そのことにも驚きを覚えるのと同時に、彼は小さく笑ってみせた。それは自嘲であった。己こそを嘲って、彼は虚空に向かって皮肉っぽく唇の端を歪めたのだ。
なんということはない。自分は本当に、拗ねて捻くれたクソガキ以外の何者でもないのだと思い知らされたというだけのことだ。
どんなに仲のいい相手だって、自分が知らない領分を持っているのは当然のことだ。なんなら自分だってこの女性のことを友人や仲間たちに知らせないでいたではないか。
それが悪いことだとは思わない。なにもかもを明らかにする必要は無いし、そうするべきだと求めること以上の傲慢こそないだろう。
しかし今この少年は、
に己が知らない人間関係があることを改めて認識して、本当に自分勝手なことに傷ついたのだ。
なんて身勝手で小さな男だろうか。
坂本は、
が落ち着いて顔を上げるまで、ずっと己を罵り続けた。
「ご―――ごめんね、りゅうちゃん。変なところを見せちゃったね。ごめんね」
やっと顔を見せた
は開口一番そう言ってのけた。打たれた頬を押さえて笑ってこそいるが、その顔色は蒼白だ。
坂本は彼女の肩を優しく、極めて慎重に、繊細なガラス細工に触れるかのように押し戻しつつこれに応えた。
「んあ……あー……別に、謝るようなことじゃないっス……」
彼は何故か敬語だった。
意図してのことではなかったが、指先に触れる
の肩から力が抜け落ちるのを感じて、坂本もまた小さく息をつく。
だからというわけではないが、彼はまた問いかけた。
「姉ちゃん、なにがあったんだよ? アイツ、なんなん? なんで……か……顔を……」
掠れて震える語尾には明らかな怒りが籠もっていた。目の前にまだ青い顔をした
がいなければ、彼はあてもないのに先の男を探しに駆けていっていたかもしれない。
やり返してやるために。
はそれを承知しているのだろう。顔を俯けて小さく左右に振った。
「姉ちゃん」
促すために呼びかけても、彼女は決して首を縦には振らなかった。そんなことは初めてだった。
という女性は、いつも少年が求めれば、どんなワガママやイタズラにだって困った顔をしつつも付き合ってくれていたはずなのに―――
坂本はまた胸に痛みを覚える。
それもまた自分勝手なことである。秘密があるのは当然だと理解しているのに、それが気に食わないと腹を立てている。
でも、だからって……
目の前で女が殴られてなんにも知らない顔なんてしていられるか!
大声を出さないでいただけ、彼はずいぶんと成長と進歩をしていると言って良かった。日頃ことある毎に「声がデカい」「子供っぽい」「デカいのは図体だけで充分だろ」などと罵ってくる友人らや猫のおかげだろうか。そうだとしても彼はあまり感謝したいとは思えなかった。
さておき、坂本は
の肩をまた優しく押して、彼女を帰るべき家のほうへ向かわせる。
「りゅうちゃん、今日見たこと、忘れてくれる?」
玄関ドアの段差に足をかけ、項垂れた背中が言った。
坂本はこれに了承を示すべきだろうと思えた。彼女がそう望むのであれば、そうしたほうがいいに決まっている。彼女が深く踏み込んでこなかったように、己自身も倣って、見なかったことにして遠ざかればいい。それは薄情なことではないはずだ。誰だって知られたくないことの一つくらい、二つ三つ、あって当然なのだから、目と耳と口を塞ぐのは優しさでもあるだろう。
しかし少年は首を左右に振った。
背を向けた
にそれは窺えないだろうに、彼女は拒絶の意思を感じ取ったのかか細い声で
「お願い」と重ねて懇願する。
彼は決然としてこたえた。
「絶対、嫌だ」
振り返った
は信じられないものを見たような目で彼を見上げている。
「ごめん、姉ちゃん。でもやっぱ、無理だって。あんなん見て、姉ちゃんがこうなってるの見て、ハイわかりました、忘れますなんて……」
そんなことができるのなら、そもそも一年と少し前、彼女を怒鳴りつけて遠ざけるような羽目にはなっていなかった。
これはもう性分の問題だった。生まれつきのものか経験によるものかは分からぬが、とにかく彼はそういうものであるというだけのことであった。
坂本は踵を返して
に背を向ける。
「ちゃんと冷やせよ。痕になって……嫁の貰い手もなくなっちまったら、さすがのアンタも困んだろ」
冗談めかして言ってみたものの、
はくすりとも笑ってはくれなかった。あるいは笑っているのかもしれないが、背を向けていてはわかるはずもない。
それでも彼は振り返らずに足を踏み出した。追いすがる気配を感じたが、彼は断固として、もはや意地になって、決して、振り返ろうとはしなかった。
それは決定的な隔絶を表しているようでも、強い執着を示しているようでもあった。