Now or never!

 人通りの増える金曜の夕方、渋谷の駅前、若者たちは心地よい疲労感とともに現実の世界を確かめるように舗装された路上でそれぞれ足踏みをしていた。
 周囲を過ぎ行く人々はそれを横目で窺ったり、全く関心なく通り過ぎる。誰もその子どもたちが世を騒がす心の怪盗団であるなどとは思いもしないだろう。そのほうが彼らにとっても都合が良かった。
 若き怪盗たちはつい今しがたまで人の心の無意識の集合体が顕れる場所、メメントスに足を踏み入れていた。今日の『シゴト』はいつも以上に好調で、なんの苦労もなく、改心どころか新たな階層の探索まで済ませてしまったくらいだ。
 少しばかり高揚した気分を隠すこともなくはしゃいだ声をあげたのは坂本だった。
「ちょっと俺らヤバくね? 調子良すぎじゃね!?」
 すかさずすぐ右に並んでいた高巻が水を差す。
「声デカいっての。ほんっと竜司ってバカ、子どもっぽ〜い」
 このように言うものの、彼女もまた己と仲間の好調ぶりを感じているのだろう。揶揄するような言葉の裏には同意が含まれていた。坂本もそれを読み取れぬわけではないだろうに、直ちに眉を釣り上げて彼女に食って掛かる。
「あ? オメーが言うかそれ?」
 もちろん双方とも本気ではないから、いつものじゃれ合いとみて仲間たちも特別注意しようとはしなかった。
 しかし通り過ぎるばかりの人波からするりと一人の女性が歩み出て、彼らの輪に加わるようにして坂本に忠言を与えた。
 それは子どもたちの誰もを驚愕させるにあまりある言葉だった。
「こら、りゅうちゃん! 女の子になんてこと言うの!」
 ―――若者にとって嫌なものはこの世に無数に溢れている。それは例えば無理解な大人だったり、理屈の判然としない決まりごとだったり、経済や世界情勢の不安定さだって完璧に理解できなくとも子どもたちの生活に影を差している。
 そういった漠然とした不安感とはまた別に、もっと個人個人に焦点を当てたとき、例えば友達といるときに口を差し挟む親やきょうだいほど嫌なものはないだろう。
 その人は坂本にとってそういう類の存在だった。
「げえっ! 姉ちゃん!!」
 素っ頓狂な声を上げた少年のそばに立っていたのは、彼らよりいくらか歳かさの女性だった。
 坂本以外には見覚えのない人物である。彼女がおそらく坂本を指して『りゅうちゃん』などと言ったことも、まったく耳に馴染みのないことであった。
 姉ちゃんなどと坂本は言ったが、彼に姉がいたなどという話もまた、誰にとっても初耳だ。
「誰?」
 癖のある長い前髪を指先でいじりながら一人が誰何すると、女ははっとした様子で姿勢を正して全員に向き直った。
「はじめまして、です。りゅうちゃんのお友達かな? いつもこの子がお世話になっております」
 深々と下げられた頭に、少年たちもまた慌てた様子で倣った。
 彼女の言動は確かに姉のような振る舞いだが、それにしては苗字が違う。もしかして複雑な家庭事情が絡む関係なのかしら―――
 少年が伊達眼鏡の下で難しい顔をし始めたのを見たわけではないだろうが、坂本は焦った様子で両手を振り、子どもたちから女を引き離した。
「っだぁー! もぉーっ! なんでこんなとこにいンだよ!?」
「ちょっと用事があったから。それにしても、かわいい子が多いね。どなたかがりゅうちゃんの彼女なの?」
「ちッッげーから! ただのトモダチ! ていうか、用事は!?」
「もう済んだよ」
「なら帰れよ!」
「じゃあ一緒に……」
「帰らねぇよッ!!」
 一際大きな声で坂本が恫喝するのにも女はまったく物怖じする様子を見せなかった。それどころかまた咎めるような厳しい目を彼に向けている。
「りゅうちゃん、お母さんにあまり心配をかけるような真似は」
「してねぇからっ! つーか、そのりゅうちゃんってのヤメテ! もうガキじゃねえんだよ!」
 いや、ガキだろ。と二人を除いた全員が思った。
 それでも口を差し挟まずに動向を見守っていると、坂本のほうが先に説得は無意味と気が付いて折れ、引きずられるようにして仲間たちから遠ざかった。
「やめッ、手ぇ離せって……ああもうッ、じゃあなお前ら! また連絡―――すんなよ! 詮索禁止だかンな!」
「こら! お友達になんて口きくの!」
 騒がしく退場する友人と見知らぬ女性を呆然と見送った仲間たちは、しばらく無言でお互いの顔を見交わし合った。

 当然というべきか、詮索禁止なんていう坂本の要請が通るわけがなかった。
 彼が家に帰り着く頃には、スマートフォンは新規メッセージの通知でいっぱいになっていて、SNSのグループチャットは大盛り上がりになっていた。
『じゃ、血の繋がりのないお姉さんってことでいい?』
『マジかよりゅーじすげぇなそんなポテンシャル秘めてたんか』
『結局違うのは父親ということでいいんだな』
『そうね。母親が違うとなるとちょっとややこしくなりそうだし』
『あまり表に出さないけど、辛いことがあったんだね……』
 気遣いに溢れた奥村の発言を皮切りに、流れは勝手気ままな想像によって構築された坂本家の複雑怪奇な家庭環境に対する同情の言葉に溢れ始める。
 それは概ねこのようなものだった。
 年若い坂本母は一人の青年と恋に落ちる。若い二人は惹かれ合い、結ばれて先ほどの見知らぬ女性、を授かった。しかし青年は実は名家の生まれであり、その父親は二人の仲を許さなかった。手切れ金とともに坂本母には青年に許嫁がいることが告げられて、坂本母は金を固辞しつつ青年の前から姿を消した。己と子の存在によって彼の未来を奪いたいと思えなかったのだ。やがてが生まれ、貧しいながらも坂本母は幸せに暮らしていたが、数年後あの青年の父親が現れ、無情にも青年の死を告げた。愛した女性と子を一時に失った青年は心身を病み、早世してしまったのだという。そして父親は跡継ぎが失われたことを理由にを坂本母から奪い取った。己の選択が愛する男の命を奪ったと知り、今また子を奪われた坂本母は絶望の縁に立たされる。しかしそんな彼女の前に、死したはずの青年に似た男が現れた。それこそが坂本竜司の血の繋がった父親であり―――
『昭和か! 昼ドラか!! 全然ちっげーから!!』
 たまらずツッコんだ坂本に、仲間たちはそれぞれ好き勝手な反応を返した。
『なかなかいいセンいってると思ったんだけどなぁ。結ばれない定め。禁断の恋。だからこそ燃え上がる……みたいな?』
『俺としては同じ顔をした男が現れるシーンを推したい。衝撃と悲哀、そして死してなお断ち切れぬ愛がそこにあるわけだな』
『ちょいクドくね? わたしはやっぱそこはさらっと流して、影が薄い許嫁のほうをもっとクローズアップしてどろどろの愛憎劇をだなぁ』
『違うわよ。さんは優しそうなひとだったし、許嫁もまた亡くなられたその人を愛していた。忘れ形見として大切に育てられたのよ』
『そしてなにも知らない子どもたちが邂逅を果たして、道ならぬ恋に……わああ、ダメよ、そんなのいけないわ』
 坂本は一文字づつ怒りを籠めて送信した。
『ち』『が』『う』『か』『ら』『!!』
 そしてここまで沈黙を保ち続けてきていた怪盗団の頭領が発言する。
『で、本当のところは?』
 坂本はスマートフォンを握ったまま地団駄を踏みそうになって、時間と隣人の存在を慮ってぴたりと動きを止めた。
 変わりに歯を噛む。
 やられた。こいつこのために今まで連中に好き勝手言わせまくってたのか。
 このまま真実をひた隠しにすれば、ばかばかしい妄想が本当のこととして扱われてしまう―――
 坂本は母親の名誉を守るために口を割った。
さんはただのご近所さん』
『えー? それだけ?』
 不満げな高巻の反応に、少年は渋々とさらなる情報を提供する。
『子どものころからの付き合いなんだよ』
『なるほど。幼馴染というやつか』
『りゅーじのくせにナマイキだぞ』
『なにがだよ。やかましいわ』
 ため息をつきつき、坂本はまたさらにについての話をいくつかしてやった。
 五つ年上の、三軒隣の、三人兄妹の末の長女。
『五つ上となると、今は院生ね』
『どちらに通ってらっしゃるの?』
『知らね。どっかそのへんじゃね』
 そうやって指を忙しなく動かしていると、思い出したくなくてもにまつわる思い出が胸に返ってくる。
 小さなころはよく面倒を見てくれたものだ。帰りの遅い母親を待つ間、手を繋いで、ずっとそばにいてくれた……
 それも少年が大きくなるにつれて必要がなくなった。帰宅の時間が早まったのではなく、少年のほうが外で遊ぶ相手を得て、寂しさや孤独に立ち向かえるようになったのだ。
 そしてはそれを喜んだ。我がことのようにして、良かったね、もう寂しくないね、男の子だもんねと笑ってくれた。
 それでも、顔を合わせれば挨拶くらいはしていたはずだ。
 それすらもしなくなったのは、高校に入って、そして―――
 坂本はまた奥歯を噛んだ。乗り越えたはずの過去の屈辱的な記憶が、彼のプライドと足元を大きく揺さぶったのだ。
 片親であることを罵られた帰り道、力無く息子に『ごめんね』と謝った母親の小さくくたびれた背中―――
 少年はなにもかもが嫌になった。己の脚を破壊した鴨志田も、それに媚びへつらって右倣えな他の教師たちも、大人たちの言うことを疑いもしないで馬鹿にしてくる子どもたちも、怒りの籠もった眼差しを向けてくる友人だったはずの連中も……
『りゅうちゃん、どうしたの? 怪我したの? なにかあったの?』
 心配顔であれこれと訊きたがるのことも。
 関係ないだろ。うっとおしい。放っておいてくれ。うるさいんだよ。
 もっと酷い罵り言葉もぶつけたはずだったが、思い出すことができなかった。あるいは彼自身が無意識のうちに思い出すことを拒絶しているのかもしれない。
 いずれにせよ、すっかり拗ねて捻くれた坂本少年に激しく拒絶されたは悲しげに顔を歪ませて彼の前を去ったのだ。
 坂本はまた妙な想像を膨らませ始めるチャットに目を向ける。
『年上の幼馴染か……りゅうちゃん、なんで黙ってたワケ?』
『そうだぞりゅうちゃん。実に興味深い。お前にこんな面白いストーリーがあったとは』
『別に教える義務はないけどね。りゅうちゃんかぁ』
『今日からりゅーじのコードネームはりゅうちゃんな』
『まあかわいい。いいんじゃないかしら?』
 坂本は再び一文字づつを力強く送信した。
『ふ』『ざ』『け』『ん』『な』『!!』
 更に続けて、今度は一文を。
『気色わりぃ! マジのガキのころの呼び名だっつーの!』
『仲いいな』
 画面越しにニヤつく頭領の顔が見えるかのようだった。
『別に仲良くねーよ。最近はずっと話してなかったし。なんで今日急に話しかけてきたのかもわかんねーし』
『あれ、そうなんだ』
 高巻の言に『そうなの』と返して、坂本はまた深く思考する。
 本当に思いもよらぬことだった。彼女があの場にいたことはともかく、彼女のほうから話しかけてくるなんて……
 あれだけ手酷く拒絶して、今日までお互いに避けるようにしていたはずだったのに。
 時折家の前ですれ違うことは何度もあったが、そのたびに坂本は目を逸らしてが存在しないかのように振る舞っていた。だから彼女のほうもとっくに愛想を尽かして関わり合いになってはこないだろうと思っていたのに。
 まるで昔に戻ったみたいに、姉のような顔で叱りつけて、手を引いて、一緒に帰った。
 電車に乗っている間も、歩き道も、特別な話など何一つしなかった。一緒にいた子たちはみんな同じ学校の子なのかとか――坂本は二人は違うと答えた――勉強にはついていけているのかとか――坂本は曖昧に誤魔化してそっぽを向いた――お母さんは元気にしているのかとか――相変わらずだと答えた――
 そして家の前で、は昔と変わらぬ様子で手を振って『またね、りゅうちゃん』と言った。
 その言動や仕草があまりに自然で、坂本は一瞬だけ昔に戻ったような気すらした。まだ幼かったあのころに。
 嫌われていなかったと実感するには十分だった。
「あー……どうすっかな……」
 仲間たちにこれ以上の詮索と妙な妄想を止めるよう訴えて、坂本はスマートフォンを放り出した。
 その胸には忘れていたはずのの悲しげな顔が蘇っている。弟のように可愛がっていた少年から向けられた強い憤りと拒絶によって今にも泣き出しそうな顔を。
 薄情なことに坂本は今日に声をかけられるまで、これをすっかり忘れていた。それもまた彼の無意識のすることだ。あのころ身を置いていた環境によって余裕を失っていた心を守るため、意識せずに心の奥のほうへ押し込んだのだ。
 しかし―――怪盗団として活動するようになって、坂本は捻くれた振る舞いを少しだけ改めるようになっている。それは仲間というものと居場所を得ることができたからだ。浮草のように漂うばかりで不安な気持ちを、彼らが捕まえて深く根差す場所を与えてくれた。
 そうやって落ち着いて、様々な困難を乗り越えて、今またあのようにと接触して、様々なことを思い返して己の行動を吟味しなおすと、一つの念が少年の胸にこみ上げて居心地を悪くさせる。
 それは罪悪感だ。申し訳ないことをした。酷いことを言った。悪いことをした。そういう意識が芽生えて、彼を存分に苦しめた。
 しかし幸いなるかな、坂本竜司という少年は単純で、明快だった。
「よし―――謝ろう。すいませんでしたっつって……甘いもんでもつけときゃ、姉ちゃんのことだし、それできっと……」
 全部元通りになって、また昔みたいにあのひとと、挨拶をしたり、笑いかけてもらったりできるんだ。
 そうと決めてしまうと胸のうちのじくじくとした痛みは簡単に消え去った。