……
夢と現の境目を再び訪れた彼を出迎えたのは双子の看守の冷たい眼差しだった。
「……なんで。ちゃんとやり遂げただろ」
起き上がって鉄格子に手をかけた彼にこたえたのは双子ではなく、相変わらず感情や抑揚といったものを感じさせぬ老紳士の声だった。
「削除しろと伝えたはずだ」
ああ、と頷いて、囚人は鼻を鳴らした。その眼には何ものにも従わないと言いたげな剣呑な輝きがある。
彼は小さくかぶりを振り、冷たい鉄格子に身体を預けて脚を交差させた。とても人と話すときの態度ではないそれに、我慢ならぬとカロリーヌの拳が震え始める―――
「俺は一言も『やる』とは言ってない」
またこの上ない居丈高な発言に少女は爆発した。
「貴様! 主に対する口の利き方を知らぬと見える! そこになおれ、今すぐ懲罰をくれて―――」
しかし振り上げられた警棒は用箋ばさみに遮られる。
「カロリーヌ、その主の御前ですよ」
「うぐ……」
呻いて引いた少女に、しかし片割れもこの囚人の態度を歓迎しているわけではないのだろう。彼を見下ろす蔑みに満ちた瞳の奥にはふつふつと怒りが煮えたっていた。
それも彼にとってはどうということのないものだ。
ビビって命乞いをするくらいなら処刑でも処罰でも喰らわされたほうがマシだった。その内心で怯えていたとしても、表に現しさえしなければ無いのと同じことだ。
彼は顎を上げて老人にこたえた。
「俺は俺のやり方でやる。それが気に食わないというのなら、別の『誰か』を使えばいい」
傲然とした答えに隠された強がりを見抜いているのかいないのか。それさえも悟らせない変わらぬ笑みを湛えたまま、老人は小さく喉を鳴らした。
「ふっ……いいだろう」
あごを支えていた手が離れ、張り詰めた緊迫を吹き飛ばすようにひらりと振られる。看守の双子は踵を鳴らして気をつけの姿勢をとった。
老人は語る。
「いずれにせよあの少女は理の内側に戻った。すでに肉は失われたが、あるべき周期の中を再びさ迷うことになる。それで良しとしよう」
これに少年は目を細めて口を尖らせた。なんだかまるで、自分のほうが駄々をこねている子供のようだと思えたのだ。よく記憶にも残っていた。母親や父親に泣きながらあのお菓子が欲しいとかゲームが欲しいだとか言って縋ったものだと。
今の自分こそがまるであの頃の姿そのままだと言われたような気になって、彼は格子から離れて寝台の上に戻った。
これ以上楯突いたって少しも愉快にはなれそうになかったからだ。
彼の姿はまるっきり拗ねた子供そのものだった。
そして老人は彼に父親のように優しげな、しかし威厳を湛えた声で述べる。
「もう刻限だ。すぐに次の試練が始まる……それまでよく憩うがいい―――」
言われなくたってそうするさ。
答えもせずに横たわった彼を、双子の看守は眠りに落ちる直前までじっと見つめていた。
……
目覚めて彼は猫の肉球に迎え入れられた。
「おいっ! 起きろ! 遅刻するぞ!!」
鼻先にはモルガナの手袋をはめたように白い前足が突き付けられ、ぺちぺちとしきりに叩いている。
柔らかなその感触に再び寝入りそうになるのをモルガナの焦った声が遮った。
「寝るなバカモノ! もう八時になるんだっつーの!」
雨宮は猫ごと布団を蹴り飛ばして跳ね起きた。
「……なんでもっと早く起こしてくれないんだ!」
「ずっと起こそうとしてたよッ! オマエ言っとくけど一回六時くらいに起きたからな! その後また寝たのはオマエだぞ!!」
わあわあと言い合いながら着替えと身支度―――どちらも中途半端だった―――を済ませて転がるように階下へ降りた彼と猫を、保護責任者であり家主であるところの男が呆れた顔で出迎える。
「一人で猫と朝っぱらから喧嘩か? ったく……おい、メシ食ってく時間あんのかよ」
咥えたばこに手には朝刊を持った男はちらりと店内の時計を見上げて渋い顔をしてみせた。傍らの調理台の上には空の皿とカップが用意されている。おそらくいつもの気まぐれか気遣いからこの少年の朝食を用意してくれてやるつもりでいたのだろう。
「ご、ごめんなさい、惣治郎さん! もう行かなきゃ―――」
「あーっ、ワガハイのごはん! ワガハイのぉ!」
「ニャーニャーうるせえよかわいいな。ほれ、早く行け」
カウンターの前を横切る少年の頭についた盛大な寝ぐせを見なかったことにして、惣治郎は煙草に火を点した。
「ああ、それから―――」
ドアを飛び出す直前に声をかけられて、少年は足踏みをしながら男をふり返った。
惣治郎は紫煙を吐き出しながら唇の端を歪めて言ってやる。
「マスターって呼べってんだろ。……いってらっしゃい」
「は―――はい、マスター。いってきます」
どことなく照れくさそうに返しながら、少年は今度こそドアを飛び出していった。律義に店外に掛けられたドアプレートを『OPEN』にひっくり返して。
蒼山に向かう電車に乗り換えるため渋谷に降り立った雨宮は、振り回されるモルガナの悲鳴を無視して足早に改札を駆け抜ける。
飛び込んだホームにまだ電車は来ておらず、発車標を見るに乗るべき電車が来るまでまだ数分の猶予がある様子だ。少なくとも息を整える余裕くらいはあるだろう。
雨宮はやっとほっとして額に浮かんだ汗を拭った。
電車待ちの列に並んでまだ続くモルガナのお小言を聞き流しつつふと周りを見回すと、ちょうどホームに降りる階段から見知った姿が駆けてくる―――
「
さん」
ざわめく中、それでもその少女は選択的注意によって顔を上げた。
まだ少し顔色は良いとは言い切れず、肩を固定するためだろう、ブラウスの裾や襟の下から覗く包帯は痛々しいが、雨宮を見つけて表情をほころばせる姿はまさしく花のようだった。
「雨宮くん、おはよう!」
後ろに並んでかけられた声も溌溂としている。
「ワガハイもいるぞ」
「お、モルガナくんも。おはよー」
「んむ。おはよう」
鞄から鼻先だけを覗かせる猫にも笑顔で挨拶する彼女に雨宮もまた笑みをこぼす。その視線は片方にだけ担がれた少し不便そうなリュックサックに向けられている。
「もういいのか?」
体調や諸々の事情をひっくるめて問いかけた彼に、
はなんということはないと答える。
「うん。しばらく体育は見学になりそうだけど、大丈夫。ちょっと痕は残るかもしれないけど……誰に見せるものでもないからね」
「そっか」
二人の周りは多くの人が行き来する雑踏で溢れている。互いの声を聞き取るのと、誰かの進路を妨害しないために彼らは少し距離を詰める必要があった。
腕が触れそうになって雨宮は慌てて身を反らし、誤魔化すためにまた問いかけたりもする。
「……怒られたりしなかった?」
「それも平気。ウチの親、あんまりこういうの深くつっこんできたりしないから」
どことなく寂しげな答えだった。
質問を間違えたと思う余裕くらいはあったが、無かったことにはできないだろう。雨宮は気まずく思いつつ頭をかいて、彼女の肩から鞄を奪い取った。
「あ―――」
「持つよ。どうせ学校までは同じ道なんだし……」
それにその怪我は、言ってしまえば己のせいだ。
言わずに済ませて視線を落とした彼に、しかし
ははにかんで頷くだけだった。
やがて電車がホームに滑り込むと二人は人の波に流されるようにして押し込まれる。
器用なもので、
は傷が触れないようにと身をよじって首尾よくドア付近の手すりに身体を預けて落ち着いてみせた。
自前の鞄とモルガナ、そして
の荷物を抱える雨宮もまた同じ手すりを掴んで踏みとどまる。
何度乗り降りを繰り返したって、この首都の電車の混みようには慣れそうにはなかった。地元の電車だって朝と夕のラッシュ時は混み合うが、ここまでじゃない。
年々人口を減らす地方都市と首都の違いをまざまざと見せつけられて、少年はやれやれと息をついた。
そんな彼の様子にだろう、
は小さな笑い声を漏らす。
「……なに?」
「田舎者だと思って」
「ほっといてくれ」
「事実だもんな」
鞄の中から忍び笑いを漏らす猫を潰して車窓の外に視線を投げる。
流れていく風景は彼の在所と似ても似つかなかったが、それでももう四カ月近く同じ電車に乗っているのだから、少しくらいは里心とでも言えるものが根付きつつある。
いつか本当に郷里を離れて暮らすことになったら、この風景にもすっかり馴染む日が来るのだろうか。
感慨深く物思いにふける彼を
はじっと見上げていた。
鞄と猫、それらを抱える腕を隔てて立つ少年を見つめる瞳にはなんとも現しがたい色がある。感謝や羨望、純然たる好意や言語化されない抽象的ななにか―――
やがて
はふっと口元を緩めてくつくつと喉を鳴らし始めた。
「え、なに……」
「……寝癖……ふっ、んふふ……」
言葉に雨宮は慌てて車窓に映る己の姿を確認した。確かに頭の天辺、絡まったくせっ毛が一塊、重力に逆らって跳ね上がっている。
押さえつけようにも両腕の荷物と猫、それにすし詰め状態の車内はそれを許してくれなかった。歯を噛んで恥辱を堪える彼に、
はまた俯いて肩を震わせる。
少年としてはあまり笑ったりして欲しくなかった。
笑ってくれること自体はいいのだ。健康であることをアピールしてくれるのであれば、此度の苦労も充分すぎるくらいに報われる。
けれど、己の失態やちょっと恥ずかしい失敗を指して笑われるのは、そこに親しみが籠められているのだと解っていても、なんだかとても嫌なことのように思えた。
だってなんだかちっともかっこつかない。
「昨日遅くまで起きてて……それで朝、寝坊して……」
もごもごと言い訳めいたことを口にする彼に、
はやっと顔を上げて「そうなんだ」と大した興味もなさそうに頷いてみせる。
腕の中の猫が小さな声で「何度も起こしてやったのに」と未だ恨みがましげに言ってくるのを再び押し潰して、彼はまだ口ごもりつつ言い抜けようとしたが、これもあまり上手くいっているとは言えなかった。
「試験も近いのに、最近あまり勉強できてなかったし。ただでさえ微妙に地元と授業の進行違ってるから、埋めてかなきゃ……」
何故ならこれに
が申し訳なさそうに眉尻を下げたからだ。
「ごめん、私のせいだよね」
「あ、いや、そういうつもりじゃ。ただ……ああもう、寝癖が……寝癖がついたのが悪い……」
「気にすることねえぜ、全部コイツの自業自得なんだからよ」
鞄の中から鼻先だけを覗かせたモルガナがフォローに入って、雨宮は口を引き結んできつくまぶたを閉じた。
恥じらいに打ち震える彼に、
は曖昧に笑ってみせた。
彼女だって一週間近く学校からエスケープをキメているのだ。二人の状況はよく似ていると言えた。
だからといって、じゃあ一緒に試験勉強でもしようかなんて気安く言えるほど、この少年に≪度胸≫は無かった。そしてイメクラまがいのデリバリーサービスに電話するほうがよっぽど簡単だと思っても、それを口にしないだけの≪知識≫があることはこの上ない幸いだった。
目的を同じくする生徒が増える前に雨宮は
に鞄を返して別の道を行くこととした。
彼にとっては己が未だ妙な噂の付きまとう札付きであることを前提とした当然の行いだったが、
は少しだけ渋って納得がいかない様子を見せた。
それでも彼にじゃあなと軽く手を振られてしまうと、彼女にできることは見送るほかない。
不自由な肩を押さえて少女はしばらくその場で考え事に没頭していたが、やがて遠く聞こえた予鈴に慌てて走り出した。
さて、遅刻することなく席についた雨宮を一瞥して、前の席に陣取る高巻はにやーっと底意地悪く口角を吊り上げてみせた。
その瞳に湛えられた好奇心や興奮に背筋を粟立てつつ、雨宮は恐る恐るとスマートフォンを取りあげてSNSアプリを立ち上げる―――
怪盗団のグループチャットに高巻の発言がポップしていた。
『リーダー、
ちゃんと一緒に登校してたよね。やるじゃん』
雨宮は凍り付いた。
その間隙を縫って坂本が素早く食い付く。
『はー? マジかよ。やることはえーよ』
『機は逃さないということか。さすがだな』
ついでに喜多川も付いてきた。もう授業も始まる時間だというのに、こいつらときたら。
雨宮は両手で顔を覆って机に突っ伏した。
するとまた通知にスマートフォンが震える。
『遅刻ギリギリじゃない。ちゃんとしなさいよ』
『私的には百点。帰りも誘っちゃいなよ!』
『あー、れんれんが遠いところに行っちまう』
『俺たちにはたどり着けないはるか高みだな……』
新島はともかく、後三人のなんと無責任なもの言いよ。雨宮は言い返そうとしたが、ホームルームの開始を教える鐘と川上の気だるげな声がそれを許さなかった。
実際のところ、帰りも一緒にというのは考えない訳でもない。
なにしろ
は怪我人だ。肩の傷と失った血液量、それを負うことになった経緯を考えると雨宮には彼女に最大限手を貸してしかるべきと思えたのだ。
しかしふたを開けてみれば、
は五日に渡るエスケープを両親はともかく教師陣から厳しく咎められ、中間試験前から補講を受けなければならなくなった。
おまけにその帰りに両親の迎え付となれば、雨宮に手出しできることは何一つとして無い。
それを少しだけ残念に思いつつ、彼もまた試験対策に頭を悩ませて日々を過ごした。
……
「打ち上げっ!」
高巻がそう言ったのは試験も終わって夏休みに入った直後のことだった。
ルブランの屋根裏部屋に集って今後の動向を話し合っていた少年たちは、なにを言っているんだという思いを籠めて彼女を見やる―――
「打ち上げって。ザギンでシースーをキメたばっかりだろ」
奇妙な言い回しでつい昨日のことを述べる雨宮に、モルガナは「ワガハイはぁ!?」と激しく床で爪とぎをし、高巻は長く細い脚をばたつかせて唇を尖らせた。
「それは金城のほうじゃん!
のはしてないじゃん!」
「あー……」
そういえば、と窓辺に佇んで吹き込む風に髪を揺らす喜多川が項垂れながら曖昧に首を振る。また彼はどこか遠い目をしながら高巻の発言を拾って違和感を指摘してみせた。
「というか、いつの間にそんなに親しくなったんだ? 一昨日くらいまで『ちゃん』呼びだった気がするんだが」
「残念、一週間くらい前から。ちょいちょい一緒にご飯食べたりしてるんだから」
ねー、と同意を求める視線が新島に向かう。
受けて新島は苦笑しつつ応じた。
「まあね。そんなに頻繁じゃないけど……あの空間の≪オタカラ≫は彼女だったわけだし、どこか暇を縫って出かけるのもいいんじゃない?」
作戦参謀のこの発言に、高巻はやったあと両腕を上げて喜びを露にしてみせた。
雨宮は縋るように坂本のほうへ視線をやったが、手近な冊子をうちわ代わりに首元に風を送る少年は処置なしと肩を竦めるだけだった。
喜多川はもとより、モルガナも反論はないと無言を保っている。
となればここは同調圧力に屈してもいいだろう。雨宮はため息をつきつつ―――
それでも、ここしばらくまともに顔を合わせることもできなかった相手のことを思い描いてちょっと心を浮つかせた。
けれどじゃあ、即日「行こう!」となれないのが高校生と怪盗の二足の草鞋の辛いところかもしれない。
をメインディッシュに据えた集いが開催されたのは八月も中順近くになってからのことだった。
強烈な日差しとそれによる熱気をたっぷりと孕んだアスファルトに上下からグリルされつつ駅前に集った若者たちは、
を待つ間一つ前に挑んでいたあの空間のことを思い返して益体もないことを話し合っていた。
「つーか……未だに信じられねぇわ。俺らマジで死んだヒトの心ン中に行ってたの?」
きっとこれまでも折につけて考えていたのだろうことをしみじみと感じ入る様子で述べたのは坂本だ。
日陰の下にいてなお吹き付ける熱風にウンザリする彼とは対象的に、その隣の喜多川は涼しい顔で応じる。
「信じ難いが、あれは確かに存在していた」
生者の心と言うものでさえ理解し難いというのに、その上死者のとなればもっと不可思議で掴み切ることができない。
それでも、抽象的な形而上の存在を掴み取るように彼は拳を握ってみせた。
「まだ目に焼き付いている……あの鮮烈な紅に死者の魂と呼ぶべき存在……」
その声はなだらかな丘を登るようにゆっくりと、しかし確実に熱を増していく―――
「そして口頭伝承が形を持って現れた姿……! 最高だったな!! 可能ならばぜひとももう一度! ああ、
さんはまだか!? 彼女にも訊きたいことが山のように……!」
項垂れた坂本の腕を掴んで瞳をキラキラとさせる彼と掴まれたほうとでは、本当にまるきり正反対であった。
「うるっせえよ、暑苦しいわ、触んなぁー……」
「まだ迷っているんだ、あの空間を染め上げていたあの紅をどう表現したらいいのか……たった今傷口から滴った血の如きあの色! ただの顔料で表すにはどうしたらいい!?」
「血でも塗っとけ」
「えっ……竜司、それは俺のためにいくらか献血をしてくれるという意味か……?」
「誰がするかっ!?」
バシッと掴まれた腕をやっと振り払って、坂本はこの定冠詞に『変なやつだけど』が付く友人を日なたに向かって突き飛ばした。
「あっつ! 焦げる!」
直射日光に触れた途端悲鳴を上げた喜多川と他人のふりをしながら、若者たちは
の到着を待った。
ほどなくして現れた彼女は襟ぐりの広いボーダーのトップスにフレアスカートという出で立ちだった。普遍的な女子高生のファッションだと言えるだろう。似合っているとか可愛らしいとか、人目を引くとかはさておき、気合が入っていると言い切るには微妙なラインの恰好だった。
元々彼女の私服なんて知らない雨宮なんかは、へー普段はそんな感じなんだと一人納得している。
高巻の長い脚がそんな彼を小突いたが、しかしせっつかれて雨宮が踏み出すより先に喜多川が彼女を日陰に誘って語りかけた。
「怪我はもういいのか?」
「あー、大げさな包帯は取れたんだけど、傷はまだくっきり。見る?」
言って襟ぐりを持ち上げて一同を見回した
に、流石に女子の服の下を覗くわけにはと腰の引けた雨宮と坂本を置いて喜多川が果敢にもそこを覗き込んだ。
「うわっ……痛そうだな……」
正直な感想を漏らした彼に、
はなんということか明るい笑い声を上げてみせる。
「自分でもお風呂とかで見るたび引くんだよ。ヤバいってこれ、みたいな」
「そうだな、大げさなことを言うつもりはないが、あまりに痛々しい。動きに支障は無いのか?」
「ちょっと皮膚が突っ張る感覚はあるかな。でもよっぽど腕を振り回したりしない限りはヘーキヘーキ」
「そうか、良かった。俺はあれ以来顔を合わせることもできなかったから、気になっていたんだ」
「律儀だなー……ていうか、今さらだけど君だけ名前も知らないんだよね」
「む、そういえばこちらでは名乗っていなかったな。ふっ、互いに充分過ぎるほど秘密を明け渡し合っているというのに……無礼を許してくれ、俺は―――」
なんの気負いもなく語り合って打ち解ける喜多川に、男子二名は羨望と敗北感を覚えた。
もちろんこの喜多川の態度には訳がある。
今回の集まりの音頭を取ったのは意外なことにこの少年なのだ。そしてその理由は、つい今しがた坂本に語った通りだ。
「それで、
、さっそくだが構わないか?」
すでに呼び捨てになっている。
これを人懐こいと言うか馴れ馴れしいと受け取るかは人それぞれだろう。
少なくとも
は前者のようだった。そもそも彼女が他人行儀を嫌ってそう呼べと指示したのだから、当然のことだった。
「いいよー」
気楽に応えて、
は他の怪盗団の面々に目を向ける。
それな「君たちはいいの?」と問いかけていた。
「んもー、祐介はしゃぎすぎでしょ……」
呆れたように頭をふりふり、しかし高巻は次の瞬間テンションを上げて
の腕に絡みついて落ち着きなく足踏みをしてみせる。
「さあ行こっ! まずは近いとこから! 東口のコインロッカーの前で写真撮ろ!」
つまりはそういうことだった。
を誘って遊びに行くと決めた直後、新たな危機に直面した怪盗団はしばしこの事項を頭の隅に追いやった。
そしてあらかたの事が済んで落ち着いた頃、喜多川がぶち上げたのだ。
『死を描くことができない!!』と。
なんだそりゃ。と怪盗たちが呆れるそばで、彼はここ数ヶ月でやたらと意識させられることの多かった人の≪死≫というものを描こうとしたのだと語った。そのイメージの中心はあの平坂美穂の歪んだ心の世界であるとも。
けれどまだ年若いこの少年にこの曖昧模糊たる世界を描き切ることはできなかった。
色が悪いのか、構図が悪いのか、そもそも題材を尖鋭しきれていないのか。
悩み抜いた彼が縋ったのが人にはない特殊な≪眼≫を持つ
の存在だった。
彼女ならなにか新たな閃きをもたらしてくれるのではないか。
率直に訴えた彼に、仲間たちはそういえばとあの紅い空間の中で
に詰め寄った一幕を思い返した。
『地元の山中にある井戸』『八幡の禁足地』『渋谷駅東口のコインロッカー』『小島てる物件』『姉の肩が重くなると金縛りに遭う』……
そういう訳で、
はこの若者たちの好奇心を満たすためだけに召喚されたのであった。
「本当にいいの?」
先を行って歩き始めた喜多川と高巻の背を見守りつつ、新島が語りかける。
はなんのことかと首を傾げた。
「だから……あなたはそういうものにずっと怯えていたんじゃないのかって」
「ああ、なるほど」
ぽんと手を打った彼女に雨宮と坂本、モルガナもまた目線を向ける。嫌がるような素振りを見せるようなら即刻中止にさせなければと二人と一匹は朝から心に決めていた。
しかし
は爽やかな笑顔を浮かべてそんな二人と一匹を、また気遣う様子を見せる新島を、はしゃいだ様子で前を歩く高巻と喜多川を順に見回して言う。
「本当に怖いのは、信じてもらえないこと」
寂しげな声に雨宮はその心地に強く同調して拳を握った。
「でもみんなは信じてくれた。今また私のこの……これを頼ってくれたり、楽しみにしてくれたり……こんなふうに人を楽しませることができるなんて思ったことなかった。みんなたいてい、この話をすると怒ったから」
だから、と
は夏の日差しに眩しそうに目を細めて言う。
「今日は誘ってくれてありがとう。よろしくね、怪盗さんたち」
この答えに、新島は頷いて彼女の肩を優しく叩き、遅れないように促して先鋒に合流する。坂本もまたモルガナの入った鞄を雨宮の腕からひったくってそれに続いた。
先頭に立った高巻がふり返って最後尾に回された二人を手招く。
「ほらほら二人とも、早く! オカルトミステリーツアーなんだから、
がいなきゃ始まんないでしょっ!」
Roll Up! 高らかに掲げられた高巻の腕と号令に、雨宮は苦笑しつつも脚を動かし始めた。
は、どこか落ち着かなさげにして、けれど確かにそれについて行く。足取りは軽く、顔には笑みが浮かべられている。
「あのね、雨宮くん」
そして彼女は彼にだけ聞こえるような声量で言った。
「その……今さらって思われそうだけど、なんかタイミング悪くてなかなか言えなくて……」
「なにが?」
「……だからね、ありがとう」
「ん?」
首を傾げた彼に、
はじれったそうに訴える。
「今日のことじゃなくて、あのとき……助けに来てくれて……」
やっと合点がいって雨宮は頷いてやる。
けれど別に礼を言われるようなことではなかった。
ある意味で彼は己のためにこそ
を助けに向かったのだ。それは決して好きだからとかそんな不埒な動機じゃない。服の横縞を歪めるなだらかな丘陵に興味がないわけではないが、それはそれで、これはこれだ。
それにみんなだってよっぽど奮戦していたじゃないかと思うと、
がこうして声をひそめる理由が解らない。
不思議そうにまばたきを繰り返す彼の様子に、
はさらに言い募った。
「約束したから。助けに来てくれるかって訊いたら、君は行くって言ってくれた。それで本当に、来てくれた……」
だから、皆にも当然感謝を捧げているけれど、その中でも特別にありがとうと伝えたかったのだと結んで、
は照れたように縮こまった。
別に本当に、礼を言われるようなことではなかった。
約束がなくたって、誰に強制されなくたって、雨宮はそうしていただろう。
それは彼が己にそうあるべしと定めているからだ。
絆とか、信頼とか、あるいは人の誠実さだとか、語にして表すとなんともチープで安っぽいこれらの実存を証明するためにそうしたいというだけだ。
彼にとってそれらこそが欲してやまない≪宝≫だから。
意固地になっている自覚はあった。叩かれたことで硬質化されて、ちょっと捻くれてしまったという自覚もある。
それでも、こうして己が投げたものが他者の手を介して返されるとは、なんて幸せなことだろうか。
雨宮は己の手の中に収まったいくつかの宝石を握りしめて、今またそこへ新たに加わった一つの輝きの強さに目を細めた。
「君が俺を信じてくれたからだ」
背筋を伸ばして隣に並んだ彼に、
は誇らしげに胸を張ってみせた。
それは今日この時から、彼女もまた間違いなく怪盗団の一員として加わったことを示している。