途中幾度か腕や脚を管が擦過していった気もするが、そんなものはこの際些事に過ぎない。
炎と黒煙の中から飛び出した彼と
を再び勢いを取り戻した巻きひげが迎えたが、これは同じく待ち構えていたモナの一刀によって切り捨てられた。
「おっ! やったなジョーカー!」
腕の中に収まった
の姿を見てピョンと飛び跳ねたネコ型生命体は、先導するようにその半身とともに道を切り開いてくれる。
すぐにジョーカーは仲間たちと合流を果たして柱のほうに向き直った。
そこでは平坂が俯いて立ち尽くしている。
「……ったのに……わざわざ……したのに……もう……」
口内でなにごとかをこね回し続ける彼女の姿は異様だった。血管のような触手を従えて佇むその足元から泉のように紙片が溢れ続け、内に宿る敵意や害意が消えるどころかより強まったことを教えるように空間全体を揺さぶる脈動は激しさを増していた。
「もういい。殺してやる。全員。ミンチになるまで痛めつければ、肉体は死ななくっても≪心≫は死ぬでしょ」
すうっと少女の華奢な腕が持ち上がったかと思った瞬間、空を切る音とともに視界を覆いつくすほどの大群が襲いかかった。
ジョーカーを狙った一撃は迎え撃ったフォックスの刃に切り落とされるが、間髪入れずに滑り込んだ二撃目が彼の脇腹を強かに打ち据えて肉を抉り取る。
床に叩きつけられた痩躯と入れ替わりにスカルが次の波をまとめて叩き落とすが、彼もまた顔面を強打されて後方へ吹っ飛んだ。
「この……!」
舌打ちとともにクイーンが青白い光と熱をぶつけて触手の群れを焼き払ってやっと平坂の姿が見える。しかしそれも一瞬のことだった。再び湧き立った触腕がすぐに彼女と怪盗たちの間に折り重なるように立ち塞がって覆い隠してしまった。
「こりゃキリがねえな」
ぼやいたモナは痛打を貰った男子二名を治療するのに忙しい。
ジョーカーは背後にあるはずの扉を確認した。≪オタカラ≫であるところの
はすでに手中にあるのだから、あとはここから脱せさえできればいいのだが―――
気が付けば背後にも檻のように巻きひげが行く手を阻んでいる。
パンサーの放った火焔がそれを破壊したが、前方と同じくすぐにまた湧き上がってしまう。
「あンもおっ! なんなのよ、いい加減にしてって!」
ペルソナを使い続けるのにも体力とそれ以外のものを消費する。平坂の触腕のほうだって有限のはずだが、比べれば少年たちのほうが圧倒的に不利だろう。ならばと武器を振るえばどうなるかは、呻いて立ち上がったスカルとフォックスが結果を教えてくれている。
絶体絶命というのに相応しい危機にジョーカーは軽く下唇を噛んでクイーンに視線を送った。それは「まだか」と訴えている。
「分からない。時間を稼ぐしかないわ。他にできることと言ったら、信じるくらいだよ」
しれっと答えた女王陛下は、打ち込まれた巻きひげを軽やかなステップでかわして踏みつぶした。
そっけない返答にジョーカーは唸って腕の中の少女を抱えなおす。小さな振動に傷が痛むのだろう、
はうっと呻いて彼の肩を軽く叩いた。
「あ、ごめん」
思わずと謝罪を口にした少年に、彼女は小さくかぶりを振ってみせた。
「そうじゃなくて……あ、あれ……」
言って
は震える手で天井―――どこに繋がっているのかも分からない赤い柱、その中ほどで明滅する光球を指し示した。
「あの柱の中にいたとき、あれが……あれを通して、現実のほうの学校の様子が見えてた。平坂さんの眼を通して、君のことも……」
だから、と彼女は己の脚で床を踏みつつ彼を見上げる。
「あれは彼女にとっても重要なもののはず。狙うなら、あそこ」
「フム、なるほどな」
答えてどこから取り出したのか、スリングショットのゴム紐を目一杯引いたモナが狙いを定める―――
小さなその手が離された途端風もないのにその射線上に紙片が舞い上がり、射出されたパチンコ玉を包んでぽとんと床に転がった。
同時にクイーンが腰だめにシングルアクション式のリボルバー拳銃を構え、西部劇さながらのファニングショットを披露してみせる。
一発、二発、三発。短い射撃間隔の間に仰角を修正しつつ放たれた銃撃は、大きく狙いの逸れた一発目以外はすべて紙に包まれて床に転がる結果となった。
「あなたの言う通りみたいね」
硝煙を吹いて飛ばし、クイーンはまた振り上げられた管の一撃をすんでのところで回避する。
「だがこれじゃいちいち狙いをつけてもいられんぞ」
「俺はそもそも射程距離外だからパース」
「私もあんまり自信ない……」
消極的な反応を見せた三名の視線は自然と細い管に追いかけ回されるフォックスに向かう。
「俺か……? 俺もあまり自信は、うわっ、有る無し以前にそれどころではないんだが!」
鞭のように一際強く床を叩いた一撃をかわし、なんとか皆の輪に加わった彼も自動小銃を構えてみせるが、ふり返った瞬間その前に紙片が壁のように折り重なって立ち塞がる。
「……対応されたぞ、どうするんだ」
うんざりとしながら銃口を下ろす彼に、仲間たちはうーむと唸って四散する。
遅れてひと塊になった管が一拍前まで集っていた少年たちを叩き潰すように押し寄せた。
「うっひ、ヤベぇってこれマジっ! スキ見て逃げよーぜ!」
叫ぶように言って床を踏みしめたスカルの背後に、蒼い炎とともに隻眼の髑髏が現れる。彼はパイレーツソードをひと振り、雷鳴を呼び寄せて背後に迫る巻きひげを焼き払った。
しかしそれではどうやって? 視線を受けてスカルは口を引き結んだ。尻を強かに叩かれたからかもしれない。
「時間を稼ぐ、隙を作る、
さんを逃がす……」
いずれか一つでも達成できれば事は済むのだ。しかしいずれもが難題である。
それでもやらなければならない。
「どうしたもんかな」
唸って、ジョーカーは小脇に抱えた
をクイーンに向かって放り投げた。
「うわっ!」
「きゃっ!」
趣の違う可愛らしい悲鳴が上がるが、少年は構うことなく得物を構えて走り出した。
「ちょっと、ジョーカー……!」
クイーンのお叱りの声と巻きひげが背を追うが、彼は振り返りもせずまっすぐに平坂に躍りかかった。
俯いたまま微動だにしない少女は一見無防備だ。実際彼女はジョーカーの存在に注意すら払っていないかのようだった。
けれど少年の腕が伸びてその肩なり腕なりを掴もうとすると反応するように足元から管が立ち上がり、鋭い棘のようにその身を串刺しにする。
背後でパンサーが悲鳴を上げたが、彼はこれにも構わなかった。
「……俺の≪心≫を殺すには、少し足りないんじゃないか」
挑発の言葉に平坂は―――
俯いた顔を上げた少女の顔面には何も無かった。あるべき目鼻や口を失い、いくつもの人の顔や怪物の顔面が現れては消え、それはやがて全身に伝播する。
『そんなに死にたいの……』
声もまた少女と老婆、獣の唸り声にくぐもった男の声が異口同音複数と重なっていた。
秀尽学園の冬服を身にまとっていたはずの身体は今や見上げる大きさに変わり、目深にフードを下ろし、全身を洗いたての真っ白なシーツで覆ったような……子供が描く『オバケ』によく似た姿に変貌していた。
ジョーカーは身を裂くような痛みの中で彼女をまじまじと眺めて思う。
まるでブギーマンだ、と。伝承に謳われる姿の定まらない怪物。その正体は多くの親が子供をしつけるために創り出した不定形の存在だ。日本で言えばなまはげや河童がこれに該当するだろうか。
感心とともに納得してみせた彼の腹を、腕ほどもある触腕が容赦なく貫いた。
「っぐ! あ、ぐうぅ……っ!」
痛苦に身悶える彼にブギーマンはけたたましい笑い声を上げた。少女のような、老婆のような、あるいは獣の唸り声か、くぐもった男の―――
『アンタの死体を校門に飾ってあげる! 私の名前と一緒に……!』
楽しげに吼えるそれに、しかしジョーカーは不敵な笑みを浮かべて喉を鳴らしてみせた。
「それが君の望みなのか?」
『はあ……?』
見下ろす怪物の眼―――男とも女とも、老人とも赤ん坊とも、あるいは爬虫類や肉食獣のような、有蹄類のような横長の瞳孔が一瞬だけ垣間見えることもある眼が彼を見下ろしている。そこに宿された感情は霞のように掴み取ることはできないが、しかし彼はこの怪物が眉をひそめて怪訝そうな素振りを見せているのを見抜いていた。
「たしかに……杏も、竜司も、真だってあなたのことを忘れていた。多くの人がそうだろう。忘れられるのは辛い。無かったことにされれば、誰だって苦しい」
でも、と彼は言葉を区切って密かに背後へ視線をやった。
まだ血の滲む肩を押さえた少女は彼のことも、この怪物のことも見てはいない。どこかずっと上のほうへ顔を向けて、無事な腕を上げて指し示している。
……ちょっとは心配して欲しかったかもしれない。
落胆しながら彼は腕を伸ばし、決然と言い放った。
「でもそれは誰かを傷つけていい理由にはならない」
手は真っ白なシーツのたわみを掴んで引き、赤いシミをつける。それを見下ろしながら悔しそうに吐き出される言葉にこそジョーカーはほくそ笑んだ。
『じゃあどうしろって言うの? 黙って自分の存在が消えるのを待てって?』
「できることなんてない。死んだ奴にも、生きてる奴にも。それが死ぬってことだろ」
定まらないはずの怪物の容貌がまなじりを吊り上げた。
肌を刺すような―――実際に彼は刺されている―――その怒りにたじろぎながら、それでも少年は声を張り上げた。
「あるとしたら、そんなのは信じることくらいだ! 俺にもあなたにも、他にできることなんてない!」
衝撃が彼の身体全体を揺さぶった。
それは更なる攻撃が加えられたからではなく、彼の身を穿ち絡めとる管、その繋がった先の本体に強い衝撃が与えられたからだ。
『あ―――』
再び顔を見せた平坂は驚愕に目を見開いて天を仰いだ。
赤い柱の中央、明滅する光球を取り囲んでいた脈管から黒煙と炎が上がっていた。
「方位よし」
ジョーカーの遥か後方、手でひさしを作って目を細めたフォックスが呟くと、隣で腕を組んで顎を上げたクイーンがちらりと傍らのパンサーとスカルに目線を向ける。
「仰角修正して。スカルはもう少し下。パンサーはもっと上よ」
「りょーかい」
「うーん、難しい」
応えた二人の背後にその半身が並び立ち、直ちに雷光と火焔が迸った。
「出力足りてねーぞスカルぅ!」
足元でモナが跳ねて、文字通り追い風を送る―――
再びの振動がジョーカーの身体と、空間そのものを強く揺さぶった。同時にその身を捕らえる管が緩む。
それら一切に構わず、怪物は耳鳴りのような可聴域の限界近い高音でうそぶいた。無貌の頭を抱え、形の定まらない肉体をガクガクと揺さぶりながらひきつけを起こしたように背を逸らして泣き叫んでいる。
よくやった。とジョーカーは誰に言うでもなく呟いた。どうせ死なないのなら我が身こそが囮にうってつけと走り出した甲斐はあったと安堵の息もつく。
「雨み……ジョーカー、だいじょうぶ?」
気が付けば
が彼の背を、ズタズタに引き裂かれたコートを掴んでいた。
あまり大丈夫ではないが、まだ取り繕うだけの余裕はあった。しかしそれも
の意外なくらいの剛力に引き裂かれる。
「ちょっと我慢ね」
「い……ッ!?」
突き刺さったものを 思い切りよく引き抜かれて、少年はこの日初めて卒倒しそうになった。
「ッ、
さん、や、優しくして……!」
「なに言ってるの。優しくしてたら終わらないよ」
「あ、あ、嘘だろ。そんな太いの」
「自分で入れたようなものじゃんか……」
肉体の内側から生じる痛みに彼は目を白黒させながら、それでもやっと解放されたことに人心地ついて両足を地に着ける。それも長くは続かなかった。満身創痍の彼を
が抱え上げたのだ。
かっこつかないと少年は嘆いたが、少女は気遣うこともなくもがき苦しむ怪物から足を引いた。
「今のうちに。とにかく脱出できればいいんだよね?」
「あ、ああ……」
だって傷を負っているはずなのにと眇めた目に、すでに先を行ってドアに手をかけたパンサーの妙にニヤついた顔が映る。
少年は慌てて華奢なはずの
の腕から降りようともがいた。
「わっ、ジョーカー、暴れないで」
「下ろしてくれ、歩けるから、頼むから……!」
結果的に言えばこれは正解だった。
前方でパンサーが悲鳴を上げるのにギョッとして顔を向けると、そこにあったはずの扉が管に覆われ、また侵蝕されるように根を張ってパンサーの手を呑み込まんとしているではないか。
「やーっ! キモチわるい! ぬるぬるするうぅっ!」
振り上げられた脚が扉に走る管を蹴ると、その脚もまたのたうつ触手に絡まって引き込まれた。
「やだやだやだっ! ちょっと、イヤーっ! 服の中入ってこないでよぉ!」
身動きを封じられてなおもがく彼女を押さえ込もうと触手がさらにその身体に巻き付いた。
せめてもう少し余裕のある状況なら鑑賞の楽しみが―――
男たちがそう思ったかどうかはさておき、そばにいたクイーンが慌ててパンサーの腕を掴み、引き抜こうと力を込める。
「このっ!」
空いた手で仮面に触れ、引き剥がす。現れた半身の力を借りてもなお少女の肢体に絡みつく触手は剥がれるどころか、クイーンの手足にも巻き付き始めた。
「うっ、本当にぬるぬるしてる……!」
その感触のおぞましさに引きつった声を上げる彼女を助けようとスカルもまた腕を伸ばしたが、これは他ならぬクイーンによって制止される。
「下がりなさい! 触ったらあなたも巻き込まれる!」
スカルが硬直したのはなにも叱られたからというばかりではないだろう。
「うわあぁ! 俺もかよっ!?」
悲鳴を上げた彼の足元にもまたびっちりと管が這い、じわじわと侵蝕し始めていた。その背後ではフォックスも足を取られて珍しく顔を引きつらせ、モナに至っては簀巻きにされて転がりながら、唯一自由な尾で床を叩いている。
『逃がさない―――』
掠れた声が背後から追いすがり、バランスを崩してもろともに床に倒れたジョーカーと
の頭上を子供の胴ほどもありそうな太さの脈管が通り過ぎた。
轟音とともに壁に激突した管は、しかし破壊することなく根を張り、線虫のように蠢いて広がっていく。じわじわと染み込むように空間全体へ。
おぞましい光景だった。人の生理的嫌悪を呼び覚ますような視覚認知に子どもたちは揃って声を失い、周囲の様相が変化していくのを見守るしかできないでいる。
『もういいよ……全員ここで、私と一緒に……』
消えてくれ、という言葉は辺りを取り囲んだ管が絡み合い、一つの塊として押し寄せる音にかき消された。
さながらイソギンチャクの口盤のように触手に覆われた『口』のようなものが大きく開かれ、そこから正体の知れない液体が床に滴り落ちて煙を上げる。
まだ手が動く者は咄嗟に己の仮面を引き剥がして半身を起こそうとしたが、それも巻き付いた触手に阻まれてしまった。
圧し潰されるのと触手に貫かれるのと、得体の知れない液体に溶かされるのだったらどれが一番マシだろう。
皆が似たようなことを考えたが、行き着くところは一つだ。
ここに至ってジョーカーの胸にやっと後悔の念がにじみ始める。
―――信じたのは間違いだったのか?
やっぱり人と人の間の絆なんてものは、死という必定の定めによって引き裂かれてしまうものなのか。どれだけ自分が信じようとしたって、相手が受け入れてくれなければ、応えてくれなければ、それは結局ただの一人よがりでしかないのか。
―――誠実さってものを誰かに求めるのは愚かなことなのか?
恐怖よりも絶望に支配されそうになったとき、この場の誰のものでもない声がまるで水辺を渡る爽やかな風のように吹き込んだ。
『美穂……』
それは女の声だった。つい先日も聞いた声だ。
『美穂、聞こえてる? なんて。バカみたい、なにしてんだろ、あたし……』
自嘲気味に喉を鳴らす声に、時間が止まったかのように全てのものが静止していた。
怪盗たちも、
も、彼らを取り囲む触手も、平坂美穂も―――
「……睦美……?」
顔を上げた怪物の声は間違いなく平坂美穂その人のものだった。彼女はもう何十年も会っていなかった友人とやっと再会できたかのように呆然として、ただ天を仰いでいる。
『ほんと、バカみたい……なんであんな話信じようとしてんだろ……ねえ、新島さんっておぼえてる? 一年下の……あのすっごい真面目そうな子がさ、死んだ場所で声をかけると死人に届くんだってさ。マジな顔で言ってくるの』
ふう、と密かに息をついたのはクイーンだ。
この日新島真は朝から大賀睦美にコンタクトを取り、生徒会室に隠された本物のタイムカプセル―――ただの手紙を直接彼女に受け渡していた。
『こんな噂はご存知ですか?』と口上に添えて。
『その人が死んだ場所に声をかけると、冥界に繋がって声が届くんだそうですよ』
普段の彼女なら絶対に口にしないような類の作り話だった。
―――冥界だなんて、笑っちゃう。でも、勝つためならそれくらいはやらなきゃね。
新島真はまたこうも語った。
『失礼を承知で言います。あなたが今もここへ足を運ぶのは、ただ友だちだったからというだけじゃないんでしょう。後ろめたいんじゃありませんか? その理由は解らないけど―――』
けれどと繋げられた言葉に大賀は肯定を示した。
『死んだ人を悼むのは悪いことじゃない。間違ってもいない。でも、それに囚われるのは違うんじゃないかって思っています。だから……もし言いたいことがあるのなら、伝えたいことがあるのなら……』
まるで心の中をすっかり見通したかのような発言だった。実際に彼女は、大賀はともかく平坂の心の中に踏み入っているのだから当然とも言えた。
しかしそれを知らない大賀は戸惑っていた。戸惑いつつ、あなたの言う通りだと手紙を受け取った。
……だから彼女は遅刻したし、時間稼ぎが必要だった。そして大賀という、かつて平坂の親友だった女性こそが彼女の≪心≫を元に戻すことができると、二人の間にはそれだけの≪絆≫があるのだと信じる必要があった。
果たして大賀睦美の声は苦笑しつつも朗々と、きっとその手の中にあるのだろう文章を読み上げ始めた。
『……十年後の平坂美穂さんへ……この手紙を読んでる美穂は、なにをしてるんだろう。何年も先のことなんてまだ想像もできないけど―――』
少年たちを捕らえ、掴んで取り囲む触手たちはいつの間にか緩められ、あるいは気が抜けたように床に伏せてしまっていた。
『でもきっと、あたしたちはまだ友達だよね』
ピクリと怪物の身体が震えた。
『彼氏はできた? ちゃんと大学卒業した? それとももう、結婚とかしちゃってる? もうママになってたりして?』
明るく読み上げる声は、しかし不規則に詰まり、震えては掠れて揺れる。
それでも声は訴えた。
『たとえなにがあっても、あたしたちはずっとずっと友達だよ』
カッと怪物の顔、そこに浮かび上がった平坂美穂の目が見開かれる。それは驚きにではなく、怒りや拒絶による反応だった。
「そんなの……」
『困ったことがあったらあたしに相談するんだよ。必ず力になるからね』
「そんなのウソだ!」
叫び、フードをはぎ取って今度こそ完全に平坂美穂がその顔を現した。もはや老婆の影も怪物も、俯いた男や獣の姿はどこにも見当たらない。不定形のはずの怪物は確かに平坂美穂の本来の姿を取り戻していた。
そしてその憤怒に彩られた表情は天の一点、そこから雨のように降り落ちる声に向けられている。けれど隠しきれない戸惑いや躊躇もまた覚えているのだということを、震える手が見守る者たちに教えてしまっている。
表情も震えも、どちらもが声には届かなかった。ここで平坂美穂がどれほど怒りを示そうとも、嘆き苦しもうとも、声にこそ戸惑って怯えたとしても、それらは決して声の主に知られることはない。
だからこそ声は続けた。
『もしも今あたしがそばにいないとしても、このことだけは忘れないで』
「忘れられたのは、私のほうじゃない!」
床を踏み、あらん限りの声量で訴える平坂の姿は一種滑稽でもあった。大仰な身振りや昂った感情に上ずる声は喜劇役者のようだった。
しかし誰も彼女を笑うことはできない。この場の誰にも、彼女を知る知らぬに関わらず、定められた命を持つ者であれば誰であれ、死とそれによる忘却を恐れる小さな女の子を笑うことなんてできなかった。
もちろんそれは彼も同じことだ。だからこそ彼はこの怯え戸惑う少女の言葉を否定してやった。
「そうじゃない―――」
気が付けば平坂のすぐそばに、ジョーカーが拳銃を構え、ふらつく身体を
に半ば背負わせるような格好になりながら辛うじて立っている。
空間全体を照らし出す光を反射してギラギラと輝く黒鉄は彼女の背後、今や守るものを失って明滅を繰り返すだけの光球を捉えていた。
「誰も忘れてなんていない。この人だけでもない。あなたのことを忘れていない人は今もいる」
少年の脳裏に疲労も色濃い川上貞代の顔が過った。もう慣れたなどと口にしながら、悔恨と未だ癒やされぬ傷を抱えた女の瞳―――
きっと彼女だけじゃない。もちろん大賀睦美だけでも。大多数の人から忘れ去られても、思い出す時間が時と共に減っていったとしても……
『やめて……! なにをするつもり……!?』
恐怖に引きつった声に、少年ははっきりと宣言した。
「あなたの心を頂戴する。その―――恐怖に歪められた≪心≫を!」
指が引き金を絞り、弾丸が射出された。
鳴り響いた発砲音すら掻き消して、優しげな、しかし悲しみに暮れた声が言う。
『あたしのこと、忘れないでいてね、美穂……』
二つの意思のあるもの―――弾丸と声は、彼女から歪んだ想い、恐怖とそれによって増幅された怒りや憎しみ、その本体であるパレスの核を粉々に打ち砕き、吹き飛ばした。
同時に絡まった毛糸玉がほどけるように脈管はバラバラに散り、力を失って床に崩れ落ちる。周辺に散らばっていた教卓や教室机に椅子もいつとはなしに消え、辺りは靄のようなものに包まれた。
そして後には静寂と少女だけが取り残される。
「いや……!」
ただの少女へと戻った平坂美穂は、怯えわななき、縋るものもなく床に膝をついて静かに泣き始めた。
「怖いよ……怖い……死ぬってなに? 私はこれからどうなるの? 私ってなに? 死んだら全部、消えちゃうの?」
なんと答えるのが正解かなど少年には分からなかった。
彼女の恐怖はよく解る。あの双子の看守も言っていたではないか。張本人である平坂も、また彼自身も実感を伴ってよく理解している。死こそ最たるものだろうが、しかし忘却されることへの恐怖もまた劣らず、きっと誰にでも普遍的に存在するものだろう。
そうとも、死者はいつか忘れ去られる。歴史にその名を記したのだとしても、その人が本当になにを想っていたのか、どんなふうに過ごしていたのか、声や表情、その≪心≫は忘れられていく。
他方で思い出すら与えられぬ内に母を失った少年は言った。
その人の為したこと、遺したものは永遠に失われないと。
生きている者はそのいつ切れても不思議ではない、糸のように頼りないよすがに死者を思い返すことしかできないが―――
ジョーカーは傍らの
の肩に寄りかかりながら、拳銃を収めて呆然と佇む少女に微笑んだ。
「絆がある限り、あなたは忘れ去られることはない」
果たして平坂にその瞳に宿る複雑な感情のすべてを読み取ることができたのか。彼女はすんと鼻をすすって顔を歪めている。
「これだけ痛めつけられたんだ。俺たちだってしばらくは忘れたくても忘れられない」
傷を擦る手に
が咎めるような視線を送るが、ジョーカーは軽く肩をすくめていたずらっぽく笑うだけだった。
「忘れられない限りあなたも消えない。ここに……」
己の胸を軽く叩いて、≪雨宮蓮≫は心のこもった声で訴える。
「その人の誠実さとともに生き続ける」
平坂美穂は幾度かまばたきを繰り返し、やがて、静かに首を振るとものも言わずにかき消えた。
辺りに散らばる紙片は一様にはちみつ色の便箋に変じている。
そこには恨み言や悲哀の言葉ではなく、これまでの友情への感謝とこれから先も続く未来への希望が綴られていた。
……
『未来の大賀睦美さんへ、
私はまだ隣にいますか? ずっと仲良しの友達ですか?
もしも違ったら、この手紙を見せてやってください。
きっと私のことだから、勝手なカン違いをして、勝手に怒って、自分から離れていったに違いありません。
睦美はいつもそんな私を迎えに来てくれましたね。子供のころからずっとそうでした。
もしかしたら、私は迎えに来ることもできない場所にいるのかもしれません。病気とか事故とか。なにがあるかわかりません。あんまり考えたくないけど、
その時は、それでも、まだ友達だって言ってくれれば嬉しい。
それだけでいいよ、
いつまでも友達でいてね。』