―――そして、高巻杏はひと月ほど前に宣言したことを実行した。
即ち、『ウチら途中で消えっから、後はキミ一人で頑張んなさいよ!』―――。
渋谷駅の東口で心霊写真を撮影して一頻り悲鳴を上げ尽くし、次にと向かった坂本の自宅付近は空振りで、流石に八幡や新島姉の職場、いわんや雨宮の実家にまで足を運ぶわけにもいかず、それではと代打に千駄ヶ谷か井の頭か、もしくは蒼山か八王子、千代田―――
いっそのこと鬼門を開いてみるのもどうだなどと話が至った辺りで小休止を提案したのが運のツキだった。
あるいは全員分の飲み物の調達を命ぜられたときに勘づくべきだったのだ。高巻がやたらと
に行かせようとして、他の者が誰も進んで彼女を助けようとしなかった時点で。
コンビニに放り込まれた二人が缶やらペットボトルやらを全員分、計七本も抱えて戻った店の外に、仲間たちは誰一人として残っていなかった。
やられた。これは本当に不意打ちだった。よもやあれだけ張り切っていた喜多川までもが高巻の計略に乗って姿を消すとは。待ち合わせ場所からずっとはしゃいでいたのも演技なのだろうか? ……いや、あれは間違いなく素だったな。
思い、雨宮は重々しく息をついてモルガナ用に購入した百二十五ミリリットルの紙パックにストローを挿し込んだ。
どうせ飲むやつはいないし、金を出したのも自分じゃない。飲んでしまったところで心も懐も痛まなかった。
有言実行とは素晴らしい心がけだが、やられた方はたまったものではない。牛乳を飲む他に、鳴らしても鳴らしても応じない通話と既読すらつかないSNS画面に向かって舌打ちをする以外、雨宮にできることは何一つとして有りはしない。
ただもう一つ、行儀悪くストローを噛むことくらいはできた。
「あいつら……」
脳裏にニヤつく高巻の顔と高笑いが過った。シャドウに向かって鞭を振り上げ、豚のように鳴いてみせろと打ち据える姿もまた。
傍らの
はそんな彼女の姿も雨宮の苛立ちも知らず、困った顔でペットボトルのストレートティーに口をつけながらスマートフォンと睨み合うばかりだ。
「うーん、通話にも出ない。どうしちゃったんだろね」
雨宮からすれば、彼女はきっと今日、皆と遊べるのを楽しみにしていたに違いないから、可哀想で仕方がないというところだ。
だってそうだろう。勘違いで一日をふいにさせられるなんてあまりにむごい仕打ちではないか。
雨宮はくせっ毛を掻き回して苛立ちとともに吐き出した。
「もういいよ。あいつら、俺が君を助けたのは君をす……」
そこまで言いかけて、しまったと彼は硬直する。
そんなやり取りがあったことは事実だが、だからといって張本人たる彼女に言って聞かせるようなことでもないはずだ。
けれどすでに
はこれを聞き取り、続く言葉を待っている。
雨宮は項垂れて、手近なガードレールの上に腰を下ろして小さな声で教えてやった。
「お……俺が君のことを好きなんじゃないのかって、邪推を……」
膝を折りたたんで日陰にしゃがんでいた
は、キョトンとした様子で彼を見上げるばかりだ。そのあまりの無防備さに、かえって雨宮のほうが恥ずかしくなる。
これじゃまるっきり、こっちのほうが自意識過剰みたいだ、と。
けれどやがて言葉の意味が染み渡ったのか、
はぽんと手を叩いてみせる。
「ははぁなるほど。気を使ってくれたんだ。いい友情だね」
実にあっけらかんとしたものである。雨宮はこの反応にホッとすると同時に、少しだけガッカリもした。自意識過剰だと分かっていて、そんな事実が無くたって、まったく意識してませんよと言われたような気になって、彼は明確に落ち込んでいた。
そんな己こそを嘲笑う余裕くらいはまだ残されていることを幸いに思いながら、少年はため息をつく。
「全力で空回ってるけど」
あいつらも、俺も。
乾いた笑いを漏らす彼に、
は立ち上がってスカートのシワを払いながらいたずらっぽく笑ってみせた。
「ということは別に好きじゃないんだ?」
思ってもみなかった切り返しに、雨宮は危うく手の中の紙パックを握り潰すところだった。
大惨事を逃れた彼は、平静を装いつつこれに答える。
「ここで、はいそうですって答えるのも失礼じゃない?」
「そうかも」
対する
はやっぱり朗らかだ。
すると雨宮は自分ばかりが照れたり恥ずかしがったり、胸の裏側をくすぐるような真似ばかりされているような気になって、段々と悔しくなってくる。
自分ばかりが素顔を晒して、かっこ悪いところばかりを見られているのはフェアじゃないんじゃないか?
それもまた自意識過剰のなすことだったが、しかし少年はそれから目を逸らして口角を上げ、彼女に言ってやった。
「少しは好きだと思うけどね」
けれどこの攻撃は成果を上げられなかった。
はやっぱり楽しそうに笑うばかりだ。
「うーん、思う、は減点対象じゃない? 怒られるよたぶん」
「えー……結構、好きなほう?」
「結構とかほうとか、女子によってはそこで終了じゃないかなー」
「じゃあ……」
少年は大分長く考え込んで、照れや恥じらいを飲み込みながら顔を上げ、しっかりと彼女の―――その、己には見えない世界を映す≪眼≫を見つめながらこたえた。
「君が好きだ」
やかましいくらいのセミの声にも誤魔化されない真っ直ぐな表現に、少女は嬉しそうに両手を合わせて満面の笑みを浮かべる。
「うんうん。やっぱりストレートなのがいいって子のが多いよね」
腕を組み、満足げに首を何度も縦に振る姿はなんだかまるで出来の悪い生徒にものの道理を教える教師のようだった。
またその文言もちょっと奇妙だ。
この少年が彼女に向ける感情の話をしていたはずなのに、気が付けば少年とどこかの誰かさんの話に置き換わってしまっている。
糠に釘とはこのことか。手ごたえの無さに肩と目線が落ちるのも仕方のないことだろう。
「誰の話?」
率直に尋ねた彼に、
は大した思いも無さそうに、
「さあ……」と首を傾げた。
雨宮はすっかり空になった紙パックを畳みながらやれやれと息をついて脚を伸ばした。この手応えのなさはまるであのとき、二度も彼女を取り逃したときのことを思い返させるなと思いもする。
彼の手に中にはまだ三度目に掴んだときの感触があった。
冷たくて小さな、しかし力強く握り返してきた柔らかな感触……
雨宮は素直に、下心なく、またこれに触れたいなと思った。
でも、何度もしつこく主張した通り、別にそういうつもりではないから、気安く手を繋がせてくれなんて言い出すことはできなかった。
だから彼は、己の素直な気持ちを吐露することとする。
「気に入ってはいる。そういうとぼけたところ」
「ありがと」
はこの若干嫌味混じりの言葉に素直に喜んでみせた。
そしてまた彼を暗がりから不意打ちする。
「じゃあ、手とか繋いじゃう?」
奇襲の割に小手先の技や搦手門攻めなどではなく、真っ直ぐど真ん中を狙った投球だった。
顔を上げた彼の目前に差し出された白い手にストライクゾーンの中央を撃ち抜かれて、彼は暑さ以外の要因から目眩すら覚えつつも誘われるがままにその手を取った。
柔らかさも冷たさもあのときと変わらない―――
これは奇妙なことだった。この気温と湿度のなか、ヒンヤリとした手はなんだかまるで……
けれど見上げた彼女の顔は決して青ざめていたりしていなかったし、恨みがましげな色や卑屈さは窺えない。
ただ、じっと彼を見る目は少しだけ潤んでいて、瞳孔が開いてあちこちの強い反射光をさらに跳ね返してキラキラと輝いている。
冷たい手が示すのは緊張だとやっと理解して、雨宮は慌てて立ち上がった。
自意識過剰なんかでは無かったのだ。
雨宮は再び素直になって口を開いた。
「こういう直球なのは、好き」
駆け引きはもう充分楽しんだとぎゅっと手を握る彼に、
は先と同じ調子で、しかしことここに至ってわざとらしく聞こえるようになった声で笑った。
「噂の怪盗さんの≪心≫は盗めそう?」
「どうかな―――」
焦らしているわけでも、はぐらかすつもりでもなく首を傾げる。
本当に解らなかった。
好きになっちゃったのと問われたとき、彼はそんな訳がないと考えたが、それはこの女の子のことをよく知らなかったからだ。
けれど今、彼女は心を開いて預けようとすらしているではないか。
それならなにか、あのときとは違うものも見えてくるのかもしれない。
「ちょっと、少し、歩いてみないと解らない」
小さな子供が菓子やゲームソフトをねだるような声の調子と瞳に、
は照れたように笑って肩を縮こまらせた。
どちらともなく腕を引いて歩き出す。
盗めそうかどうかは解らないが、二人はそのまま、家に帰らなければならない時間までずっとそうして手を繋いだまま過ごした。