何日かぶりの生徒会室送りとなった雨宮を迎え入れて、新島は静かにその戸を施錠した。
「ちょっといい?」
 人目を忍んで引きずり込んで、鍵までかけてからちょっといいとは何事かと思わないでもないが、雨宮はこれに頷いて返してやる。
 新島は持ち込んだ鞄を折り畳みの長机の上に置き、しばらく中を漁るとやがて見覚えのあるものを取り出して彼の目前に晒してみせた。
 これに雨宮はわずかな驚きを示しつつ、室内の雑然とした様子―――机の上どころか床にまで積み上げられた書籍や書類の束を見て得心する。
「どうするつもりだ?」
 その上で問いかけた彼に、新島はまたスマートフォンを空いた手に掲げて示してみせる。
「無策で突っ込めばまた同じ轍を踏むだけ。効果があるかは解らないけど……なにもしないよりはと思ってね」
「あちらの返事は?」
「了承は貰った」
「勝算は?」
「あるともないとも」
 曖昧なこたえに雨宮は笑ってみせた。
「わかった。任せる」
 頷いて返した彼に新島もまたふっと口元を緩ませる。
「私こういうの向いてるのかもしれないんだよね。さんには悪いけど、今すごく楽しいもの」
 雨宮は苦笑とともに言ってやった。
「ひどい先輩だな」
「平坂先輩ほどじゃないでしょ」
 ことも無げに返して鍵を開けた彼女は、話はそれだけだと雨宮を開放した。
 人も疎らな廊下にするりと抜け出した彼はまた瞳に悲しみを湛えて歩き出す。
 この作戦に効果が無かったら、信じるものがすべて崩れてしまうような気がしたのだ。
 いかなる苦難の前にあっても、なにがあろうと、死した後も断つことができないもの。それこそが彼の求めてやまない≪宝≫だ。
 けれどもしも、それすらもが意味を為さないのだとしたら……
 目に見えず、触れることも叶わないものに賭けることに抵抗がないわけではないが、それでも彼は己のために賭けないわけにはいかなかった。

……
 パレスの内部は相変わらず紅い光に照らされている。外にあったセミの声は無く、一種静謐とも呼べる静けさがこの世界全体を包んでいるようでもあった。
 しかし―――
「う……」
 最も顕著な反応を示したのはパンサーだった。
 呻いて後退った彼女の全身を包むレザースーツの下、その素肌に鳥肌が立っていると確認できる者はいなかったが、しかし仲間たちも彼女が感じたのと同じものを肌や臓腑の奥に覚えて顔をしかめた。
 相変わらず音は無い。けれど少年たちは確かに空気全体が一定のリズムで脈動する振動を感じ取っている。
 もっと言えばそれは空気ではなく、空間そのものだ。
 平坂美穂のパレス全体が鼓動して空気を動かしている。
 バチッと静寂を引き裂いて火花が散るような音が鳴った。少年たちが一斉に目を向けた先では、モナが全身の毛を逆立てて目を皿のように見開いている―――
「え、なにそれ」
 ぽかんとしたスカルの指摘に、モナは慌てて己の尾を抱えようとするが、彼がちょっと動くたびにバチバチという小さな音が全員の耳に届いた。
「わわ、わからん! なんだこりゃ!」
「大丈夫か、モナ―――」
 傍らのジョーカーが手を伸ばすと、触れるか触れないかの直前で大きな火花が散った。
「いてっ」
「ふンぎゃあ!」
 冬の日のドアノブのような帯電であった。
 解っているくせにジョーカーはわざとらしく手を胸に抱え、嘆く素振りをしてみせる。
「モナ、そこまで俺のことを拒絶しなくてもいいだろうに……」
「ちっげーよ! あああ、バチバチする! ピリピリするぅ~!」
 バタバタと暴れる度にモナの毛皮からは微細な電気が迸った。気が付けば少年たちの毛髪も逆立ったり頬や首、あるいは仮面に貼り付いてしまっている。
 モナは我が身をその短い腕で抱き締めながら大きく一度身を震わせた。
「ううう……この振動だ。これがこのビリビリを生み出してる。気持ち悪いぃっ」
 見悶えるネコ型生命体に手を差し伸べてやることもできず、少年たちは眉を寄せる。モナほどではないが、彼らだって己の身がわずかに帯電していることを感じ取っているのだ。
 どうすることもできず、またモナのほうもどうにかしてもらえることなど初めから期待していないのだろう。にゃあにゃあ喚きながら、それでも彼はジョーカーたちの後に続いた。

 校内の様子に大きな変化は見当たらない。心臓と同じリズムの揺らぎが無ければ、昨日とまったく同じであると言い切ることができただろう。
さんはどこだ?」
 誰にともなく問うたジョーカーに、怪盗たちは唸って辺りに目線を配る。
 見慣れた昇降口から見える購買、事務室にトロフィーや写真棚。どこかにの痕跡がないかと探す目は、やがて奇妙なものを見出した。
 普段なら部活や学校活動の掲示物が貼られている正面の掲示板に、真っ黒な紙が貼り付けられている。
 それが平坂美穂の認識上の手紙であることはすぐに察せられるが、しかし注意を引いたのはそれそのものではなかった。
 確認のために踏み出した怪盗たちは、外から差し込む紅い光が作り出す濃い影―――その黒が決して影などではないことを理解した。床や壁、天井に至るまで、そこここがどす黒く汚された紙片でびっちりと覆われている。
「ンっだよ、これ……」
「……ゾッとするな」
 驚嘆の声を上げたスカルに応えて、フォックスが一枚を指し示す。そこには怨言が字間も狭く書き綴られていた。
「平坂先輩、なにをそんなに恨んでるんだろう……ウチらがあの人のこと、忘れちゃったから? 死んだらみんな、こんなふうになっちゃうの……?」
 悲しげに揺れるパンサーの声を聞きながら、ジョーカーは一枚に手を伸ばし壁から引き剥がした。思いのほかあっさりと剥がれたそれにもやはり何故己だけが苦しまねばならないのか、何故忘れ去られなければならないのか、死への苦痛、恐怖、そして多くの生者への憎しみが綴られている。
 何一つとして分かることなんてなかった。何故ならこの少年たちはまだ生きている。
 パンサーのこの問いに答えられるのはきっとのような特殊な≪眼≫を持つ者だけだろう。少年たちは沈黙しか返せなかった。
「ん……?」
 ふと、ジョーカーは紙片を剥がし取った壁に目を向けた。
 白いはずの壁紙に、奇妙な赤い線が引かれている。
「これは……」
 空いた隙間を広げるように紙片をまた一枚剥がすと、線は五本、横に引かれていることが判明する。規則正しい四本の細い線と、一つだけ離れた太い線。
 ジョーカーの様子に気が付いたスカルが「なにこれ」と大した興味もなさそうな様子で線を辿るように紙片を壁から剥がしていく。
「うわっ」
 そして彼は引きつった悲鳴を上げた。そのまま彼はあからさまに腰を引いて壁から数歩離れ、絶句する。その視線の先にあるものを見て仲間たちもまた声を失った。
 五本の線の終着点に、手形がベッタリと残されていたのだ。
 ジョーカーは無言を保ったままその手形に歩み寄り、己の手をそばに置いた。比べると一回りほど手形のほうが小さいようだ。
さんの、か?」
「わからない」
 正直に答えてジョーカーはさらに紙片をむしり取った。
 少し距離を置いて再び現れた五本の線はまるで導くように校舎の奥へ伸びている。
 少年たちは無言で誘う線に従った。
 足音を潜めて進むことしばし、耐え切れなくなったらしいパンサーが震える声で訴える。
「ねえ、この廊下、いつまで続くの……? こんなに、長くなかったよね」
 彼女の言う通り、線を追って廊下を歩き始めてからすでに十数分は経過している。普段ならとっくに廊下端の非常扉に行き当たっているはずだが、非常灯の明かりすら見ることが叶わないでいる。
 ふり返れば歩いた分だけ廊下が長く続いているから、その場で足踏みをさせられていたりループしているという訳ではなさそうだ。通り過ぎた三年の教室も、クラス名の表示プレートはすでにXを通り過ぎて漢数字に置き換わり、五十を突破している。
「これも平坂さんの認識が歪んでいることの証か?」
 足を止めず問うたフォックスに、油断なく先を塞ぐ薄闇を睨むモナが答える。
「その可能性が高いな。彼女にとってオマエらが普段通ってる教室だけじゃ足りないってことか、あるいはここを埋めるだけの人数をこれから揃えるつもりでいるのか……」
 を引きずり込んだように、恐怖に縛られた生徒を誘って学校生活を再開させる―――
 薄気味悪い想像を頭を振って払い、ジョーカーはまた一枚紙片を剥がして床に放り捨てた。
 ふり返れば彼らが進んできた道を教えるように露わになった壁が真っ直ぐ続いている。
 まるでヘンゼルとグレーテルだ。
 思えど口にはせず、少年はまた一歩を踏み出した。
 その脳裏に昼日中に見た光景が過る。
 蛇口から滴る赤い液体。平坂の冷たい笑み。そして彼女の言葉―――
 は安全だと考えたのは間違いだったか。胃の底を痛めつける焦燥感に走り出しそうになるのを懸命に堪えながら、彼は廊下を進み続けた。
 進む道を間違えているとは思えない。赤い線の導きもあったが、なにより歩を進めれば進めるほど、脈動を思わせる音のない振動が強まるのだ。
 まるで巨大な生き物の内部を行くような気さえしてくる。今度はクジラに飲み込まれたピノキオのような心地だった。
 やがて彼らは狭い廊下の行き止まりにあった一枚の扉に辿り着く。赤い塗装とダイヤ型の覗き窓。それは何度も前を通り過ぎた教室の引き戸と同じデザインだった。
 ジョーカーは仲間たちに指先で待機を支持して、そっとその中を覗き込んだ。
 途端どっと身体全体を叩き続けていた振動がより強く彼の目と耳を叩き、静電気が迸る。
 一見すればそれは教室らしき空間だった。
 室内には無数の机と椅子が整然と並べられている。しかし果てが見えないほどの広さで、天井は高く、見上げても電灯の一つも見つけることは叶わない。
 だというのに煌々と照らし出された室内の前面には黒板と教卓があって、その上には出席簿らしき黒いファイルが置かれている。
 なにより奇妙なのは、広々としたその空間のあちらこちらに見慣れない管のようなものが植物の根のように張り巡らされていることだろう。
 それらはどこか生物的ななめらかさを持ち、振動に合わせて膨張と収縮を繰り返している。
 そしてその脈は中央に立てられた巨大な柱に繋がっている。あるいはそこから伸びていると表すべきかもしれない。
 赤い柱は内部に発光する球体を抱えているのか、脈動とともに明滅し―――
 一人の少女の姿を浮かび上がらせている。
 それはだった。
 下半身を柱の中に埋め、上体をだらりと垂らした格好でピクリとも動かない。白いはずの制服が赤く染まっているのはパックリと裂けた肩口の傷が原因だろう。傷口からはまだ血が滲み、白いブラウスに染み込んでは細い腕を伝って床に垂れ落ちている。
 ジョーカーは拳を握って怒りを凌ぎ、さらに室内を探った。
 平坂の姿が見えないのだ。
 少なからず彼女は予告状によって警戒を強めているはず。それは昼の脅迫がよく示している。その割にここまでの道中にシャドウの姿が見えなかったのは罠を張って待ち構えているということだろうか。
 静かに扉を離れた彼に仲間たちは判断を求めて目線をやった。
さんは見つけた。けど、平坂美穂の姿が見えない」
「ワガハイたちが来るのを待ち構えているのかもしれんな」
 ジョーカーの推測と同じことをモナが口にする。やはりその可能性が第一に考えられるということだろう。
「入口はここだけ?」
 見回したところで今まで来た道があるだけだ。窓もなく、他の教室のようにロッカーが備え付けられているわけでもない。
 ただ行き止まりに扉があって、その向こうに無限の空間が繋がっている―――
「……やるしかない、か」
 呟いて、ジョーカーは仲間たちに目を向ける。
 力強い瞳には冷徹な輝きが宿されていた。けれどそれだけでないことは、皆よく知っている。
 退くことをよしとしない≪覚悟≫を読み取って、仲間たちは頷いた。

 ブーツのつま先が床を叩く音が脈動の中に響き渡った。
 怪盗たちは身を隠すことすらせずに堂々と扉をくぐり、赤い柱に歩を寄せる。
 の様子は相変わらずだ。ぐったりとして動かず、垂れ下がった腕は血の気を失っている。その上に幾筋もの血が流れ落ちて、彼女の命がすり減っていくことを教えているかのようだった。
 近寄って見ると柱はそれ一つの物体ではなく、床や壁に走る管が無数に絡み合って形成されているのだと分かる。一つ一つが中央の光球の明滅に合わせて脈打つ様は血管を彷彿とさせた。
 はその管に絡め取られているのだ。ジョーカーは早々とナイフを構えて小走りに彼女へ駆け寄った。
さん―――!」
 声をかけ、手近な管の一つを断ち切ろうとして、しかし彼は唸って動きを止めた。
 それは床や壁ではなくに突き刺さり、植物が根を張るように微細な管を彼女の皮膚の下に広げていた。そして管は膨張と収縮を繰り返している。その脈動と同じリズムで肩の傷からまた新しい鮮血が滲む―――
 の肉体は柱と一体化している様子だった。
 迂闊に刃を入れればどうなるか、想像もしたくない。まして表に見える部分でこれならば、完全に呑み込まれた下半身はどうなっているのか。
 ギリッと音が鳴るほど強く歯を噛んだ彼の耳に、昼に聞いたのと同じ妖しい笑い声が響いた。
「あーあ、余計なことをするなって言ったのに……」
 ふり返った彼らの目に、教卓の上に腰掛けて白い脚を揺らす平坂美穂の姿が映る。
 彼女はこの上なく愉快そうな笑みを浮かべ、手の中に収めた黒いファイルを見るともなしにパラパラとめくっている。
「それともあなたたちも私と一緒に居てくれるの?」
 顔を俯けたまま見上げるような形で一同を見やる彼女の目にあるのは卑屈な色だった。生者である彼らを妬み、同じ場所へ引き落とそうと望む昏い輝きが瞬いている。
 しかし彼女はそのうちに少年たちを眺めてキョトンとした顔をしてみせた。瞳が一人づつをよく見定め、数を確認するように幾度も行き来する。
 やがて彼女は愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
「一人足りないみたいだけど、どうしたの?」
 この問いかけに答える者はいなかった。
 そもそも意味のある問いではないのだ。彼女は単に、少年たちを挑発しようとしている。
 事実続けられた言葉は嘲りと怒りに満ちていた。
「怖くなって逃げ帰っちゃったとか? そんなもんだよね。仲間とかチームとか、親友だとかさ。バッカみたい。結局自分が一番大事……」
 音もなく少女のつま先が床に着いて、艷やかな黒髪がふわりと舞う。教卓から飛び降りた彼女はまたあのムービーを早送り再生でもしたかのような、帯のように残像を残した俊敏な動きでもってジョーカーのそば……の隣に現れる。
 彼女は血が滴るの腕を愛おしげに撫で、挑戦的な瞳でジョーカーを見上げた。
「ほら見て、流れる血が命そのものってかんじだよね。きれいだと思わない?」
 仮面の下の瞳を覗き込まれてやっと彼はしまったと息を呑んだ。この暗い瞳と見つめ合った結果どうなるかは、昨日仲間たちが嫌というほど教えてくれたではないか。
 じわっと足元から生ぬるい空気が吹き上がってくるのを感じて少年はきつく目をつむった。鼻先には嗅ぎ慣れた郷里の……少しだけ潮の香りが混じった風の匂い。その中に含まれる湿った土と金木犀の香りが彼の心臓を鷲掴みにした。
「その意見には賛同しかねる」
 怖気の走る感覚にたたらを踏んだ彼と平坂の間を一閃が断ち切り、ジョーカーは頭から生温い液体を浴びせかけられて我に返った。
 気が付けば平坂は数メートル先の教室机の上で彼らを睨みつけている。また彼の間近にはちょうど刀を鞘に納めるフォックスと、その前に立って床を砕いた長物を肩に担ぎ直すスカルの姿があった。
「彼女の血は彼女の中にあるから美しい」
「まあ顔色悪いよか良いほうがカワイイわな」
 見れば赤い柱を構成する管のいくつかが切り裂かれ、妙に錆臭い赤い液体を一定のリズムで噴き出している。
 ジョーカーが浴びたのはこの液体だろう。唯一安堵できる点としては、肌に触れても髪に触れてもなんの変化も無いことだろうか。
 はと目をやると、彼女の様子にも変わりはない。どうやらすぐにどうこうなるようなものではないらしいと見て、ジョーカーは濡れて重くなった前髪をかき上げた。
 広がった視界の中で平坂が拗ねたような表情で彼らを見下ろしている。
「……ひ、平坂先輩……っ」
 かけられた声に平坂はわずかに目をむいてそちらに顔を向けた。
 するとそこでは武器を手にすることさえも躊躇するパンサーが困った様子で彼女を見上げている。
「ねえ、どうしてこんなことするの? たしかにあなたは死んじゃったけど……それに学校のみんなは関係ないですよね? あなたを轢いたトラックの運転手も捕まっちゃってるし……さんなんかもっと、ホントに無関係な相手でしょっ?」
 パンサーの声には同情が籠められていた。不慮の事故で突然命を落とした彼女を憐れみ、悲しんで心を寄せている。
 感情的とも感傷的とも言うことができた。けれど彼女がそうやって瑞々しい心を露にするからこそ明らかになることもあると、少年たちはよく知っている。
 そしてこの時は、平坂の本音を引きずり出した。
「高巻さんだよね。一年の。知ってる」
 唐突な話題の転換とその冷たい声と眼差しに、パンサーはわずかに首を傾げた。
「一年にすっごいキレイなコが入ったってずっと三年の間でもウワサになってた」
「それが……どうしたっていうんですか」
 平坂は答えず、ただゆっくりと彼女の後方、油断なく平坂の動きを警戒するスカルに目を向ける。
「そっちは坂本くん。陸上部に新しいエースが来たって男子がはしゃいでた……」
「……そりゃどうも」
「他のコたちは知らないけど……でも、ねえ、高巻さん、坂本くん」
 仮面の下の素顔を呼びつけられて、二人は緊張した面持ちで彼女の言葉を待った。
 浮遊する少女はしわの無いスカートの裾を掴み、歯を噛んで、恨みがましげな眼を二人に向ける―――
「こんなことが無ければ私のことなんて思い出しもしなかったでしょ」
 冷然と訴えた平坂は、ただゆっくりと歩く動きでパンサーに肉薄する。
 誰もそれを止めることができなかったのは彼女がまたビデオ映像を早送りしたかのような異様な動きを見せたからだ。あるいはそれは肉という必滅の媒体を脱ぎ捨てた、死者である彼女に空間や距離は意味を為さないということの証明かもしれない。
 パンサーの目の前、額同士が触れ合うほどの距離に迫った平坂は、彼女の碧の瞳を見つめてうっとりと目を細めた。
「あなたの怖いものはなに?」
 抵抗することはできなかった。
 気が付けば床や壁に走っていた管が彼女の手足を絡めとって縛り上げている。
 唯一自由だった首や頭ごと目線から逃れようと逸らすが、管はそちらにも巻きついて顔の向きを固定させた。
「パンサーっ!」
 モナの悲痛な叫び声を最後に、パンサーの意識はふっと記憶の奥底へ誘われた。


 ……
 気が付けば彼女は廊下に一人佇んでいた。振り返ると見慣れた二年の教室がある。
 ―――あれ? 私なんでこんなところにいるんだろう? さっきまで……どこに居たんだっけ。それにこの制服、今は夏のはずなのに、どうしてブレザーを着てるんだろう。クリーニングに出したハズなのに。
 夏? 違う。今はまだ春だ。二年に進級したばかり。
 だって、窓のむこう。屋上にあの子が立っている―――
「志帆……っ!?」
 引きつった声を上げて、高巻は食い入るように高い柵の外側、建物の縁に立つ青ざめた顔の親友の姿を見つめた。その表情は彼女と同等かそれ以上に色を失っている。
「やっ、いや、やめて……やめてよ! 志帆ッ!!」
 張り上げられた声が届いたのか、青ざめた少女はわずかに首を傾けて高巻に目を向けた。
 ゾッとするような冷ややかな眼差しだった。冷淡というより、この世のなにもかもに絶望して生きる気力と呼ぶべきものを失った、冷たいガラス玉のような眼だ。
 ―――志帆、どうしてそんな眼で私を見るの。だってもう、アイツはいなくなったんだよ。意識を取り戻して、リハビリ頑張るって言ってくれたじゃん。あんなことがあったけど、まだ友達だよって、親友だよって……
 震える高巻の耳に、瞳と同じ、虚ろな声が届いた。
「ねえ、杏……どうして……?」
「え―――?」
 何故あそこからここにまで声が届くのかなどどうでもいいことだった。続けられた言葉の衝撃の前には、すべてが小さなことだった。
「どうして気が付いてくれなかったの……?」
 碧の瞳が見開かれ、唇がわななく。
「どう……してっ、て……」
 気が付けるはずがなかった。互いに互いを思いやって口を閉ざし合っていたのだ。それぞれが相手のためと沈黙を選び、仮面を被って懸命に取り繕っていた。
 友情の証明こそが二人を最も苦しめるくさびであった。
 けれど窓の向こうの青ざめた少女はそれを忘れたかのように述べる。
「あのとき、杏がアイツの言うことを聞き入れてくれてれば、私はあんな目に遭わなかったのに」
 衝撃的な言葉に高巻は凍り付いて震え始めた。
 その胸の内にある心、あるいは魂と呼ぶべきものに言葉が突き刺さっている。
「だって……だって、私……」
 掠れた声は震え、どうにかして彼女の真情を訴えようといくつもの言葉が喉元までせり上がっては引き戻される。
 どんな言葉を用いたって青ざめた少女を、まして彼女自身を納得させることなどできようがなかったのだ。
 けれど声は彼女を追い詰める。
「ねえ、どうして? 教えてよ。親友でしょ……?」
 友情を盾に取られて高巻は逆らうことができなかった。この少女のような姿かたちをするものを前に嘘や偽りを口にすることは、彼女自身が決して許さないのだ。
「い……嫌だったから。だって、あんなの、そういう意味だったし、私、そんなの嫌だった……別に決めた相手がってわけじゃないけど、そんなの……アイツだけは、嫌だったの……!」
 声は応えた。
「私も嫌だった」
 息を呑んで、高巻はきつく拳を握った。
「そんなこと言わなかった……! 志帆、アンタ、そんなの一度だって」
 そうとも、彼女のような姿かたちをしたものは、一度たりとも高巻に恨み言めいた言葉をぶつけなかった。ただ力なく謝罪を口にするばかりで、己が身よりも高巻を気遣った。それはいつでもそうだった。このような事態になる前から、それこそ出会ったときからずっと。
 けれどそれは、考えていないということの証明にはならない。
 本当は口にしないだけで恨まれているんじゃないのか? 顔も見たくないと思われているんじゃないのか? 友達だと思っているのはこちらだけで、彼女はもう憎しみしか抱いていないんじゃ―――?
「そうだよ」
 口にすることのできない恐ろしい想像をささやき声が肯定する。
「杏、私はこれから先ずっと、ずぅっと苦しいのが続くんだよ。あの痛みが、恐怖が、悲しみが……」
「や……やめて……お願い、志帆、お願いだからやめてよ……っ! 私は、そんな……」
 懇願は聞き入れられなかった。
「好きな人に触れられるたびに蘇るんだ」
 高巻はあらん限りの声で絶叫して、その豊かな金糸の髪を振り乱した。
「やめて! やめて! そんなことない! いつかきっと忘れられる! 平気になるよ! そんなふうに言わないでよっ!!」
「杏―――優しくてきれいで、寂しがり屋で、でもとっても強い、私の大好きな杏……」
 後ろ手に柵を掴んでいた少女の手がゆっくりと離される。
「でも、ねえ、杏……」
 幽霊のように青ざめた少女は悲しげに笑って前に踏み出した。
「『いつか』っていつになるのかな?」
 重く湿った音が鳴り響いた。
 高巻の立っている位置から『それ』を確認することはできない。飛び出して駆け付けたい衝動を、彼女の内から涌き上がるものが絡め取って抑え込んでいた。
 彼女はもう、その場から一歩たりとも動くことはできなかった。
「あ……あ……っ、嫌、いやだよ、こんなの―――――!!」
 再びの絶叫が響いて、高巻は黒い影に呑み込まれた。


―――
 無限の空間に少女の絶叫が響き渡った。
 これ以上は存在しないであろう絶望の籠められた悲痛な叫び声に、少年たちは各々の武器を手に駆け出した。尋常ならざる様子の仲間を救うためか、あるいは平坂を攻撃するためだろう。
「ばっかみたい……」
 冷めた目でこれを見つめる平坂が手を振るうと、どこからともなく汚れた紙片が現れて壁のように彼らの道を遮った。
「うおっ!?」
 勢いを殺しきれずスカルが壁に激突する。
 しかし彼を出迎えたのは衝撃などではなく軟らかく己の身を包む感触だった。
 舞い上がる紙片が意思を持つように動いて腕や脚を絡めとり、仮面を覆って視界を奪い、口元を塞いで呼吸までをも彼の意思と関係なく抑制し始める。
 それを見て「バカスカル」と罵りながらモナがまだ紙に覆われない彼の左足に取りついた。渾身の力を籠めて引っぱるが、しかし人より小さなその身では覆われつつあるその身を引き出すことは叶わない。それどころか徐々に覆う範囲を広げる紙片に彼もまた捕らわれ、一塊に床に倒れ込んでしまう。
「ムギャーっ!」
 救出対象が増えたことにジョーカーとフォックスはほんの一瞬たじろいだ。
 そして平坂にはそれで十分だった。
 ジョーカーの視界から隣を疾駆る痩躯が消え、一拍遅れて彼の苦悶に満ちた声が届いた。わずかに首を巡らせて後方へ視線をやると、地に伏せたフォックスの姿が目に映る。彼はその腕や脚を管に捕らえられ、あらぬ方向に捻じ曲げられていた。
「私はちゃんと忠告したよ」
 平坂の冷たい声となにか硬いものが折れるような不快な音が重なった。
「―――ッ!!」
 食いしばられた歯の間から漏れ出た声がその痛みの強さを教えているようだった。
 こういう時くらい素直に悲鳴を上げてもいいのに、どうせもう俺しか聞いてない。などと冗談を言えるような雰囲気ではないことは≪ジョーカー≫も≪雨宮蓮≫もよく解っている。
 それでも口をついて戯れや悪態が出そうになるが、これは死角から叩きこまれた赤い管の一撃が彼のあごを激しく振り抜いて阻止してみせる。
 この頭部への強烈な衝撃は一瞬彼の意識を刈り取った。時間にすればほんの数秒程度だろうが、それだけで彼もまた床に縫い付けられ、仰向けに倒されていた。
 視界には蓋の見えない天井が一面に広がっている。そこは雲や靄のようなものに覆われているのか、白くほのかに発光して少年の瞳孔を縮こまらせた。
 やがて白を背景に巻きひげかタコの触腕を思わせるひと際太い管が現れる。
「あの子のことなんて忘れて怪盗ごっこを続けていればよかったのに。どうせ―――」
 少年の腕より一回りも二回りも太いそれが獲物を定めるかのようにのたくり、脈打って振り上げられた。
「どうせしばらくしたらみんな忘れちゃうんだからさ。私のことみたいに」
 彼は己の頭部が叩き潰される「ぐしゃっ」という音を聞いた。