弾き出されるように秀尽学園高校の門前に戻った少年たちは、すでに人気のないそこでなお人目から逃れて暗がりに座り込んだ。
 時間的にも気温と湿度の不快指数的にも別の場所へ移動したかったが、各々の心情と、先に平坂の攻撃によって幻覚を見せられた二人はなかなか動くことができずその場に縫い付けられることになっていた。
「……すまない、不覚をとった……」
 長い沈黙の末、それでもまだ片手で目元を覆った喜多川が漏らすと、釣られるように坂本も青ざめた顔を上げて口を開いた。
「俺もだ。悪ぃ……ああ、クソ……!」
 首筋にうっすらとかいた汗を手のひらで拭いつつ、坂本は悪態をついて確かめるようにその場で足踏みを繰り返す。なんの問題もなくそこが動くことを認識して、彼はやっと安堵の息をついてみせた。
 そんな二人の様子を薄目で確認していた新島もまた辺りをじっとりと包む湿気と熱気にうんざりとした顔で述べる。
「トラウマを刺激されたって感じかしら」
 ふむと唸って腕を組んだその表情はこの上なく厄介なことになったと言葉も無く物語っていた。
 そして少年たちはまた押し黙る。
 目を合わせただけでこちらから戦意を削ぐ相手とどう戦えというのか―――
 あるいは戦いを回避していつもの通り『盗み出す』のだとしても、果たしてなにを盗めばいいのか。
 肌をピリピリと焦がすような湿気をはらんだ暑さが苛立ちをさらに煽った。
 耐え切れず動いたのは、
「クソがっ!」
 罵声とともに脚を振り上げ、手近なポリバケツを蹴飛ばした雨宮だった。
 まったくあり得ないことだった。
 慌てたり、焦ったりすることはあっても、激情と呼べるものを彼が顕にする姿を目撃するのは、転校初日からの付き合いである坂本やモルガナにしたって初めてのことだった。
 仲間たちは壁に背を預けたりしゃがみ込んだりした姿勢のまま彼を見つめ―――
 冷ややかな声を浴びせかけた。
「なにやってんだバカ」
「落ち着けよみっともねえ」
「物に当たってどーすんの」
「美しくない……」
「恥ずかしいことしないでくれる」
 雨宮はその場に膝をついて項垂れ、小さな声でごめんなさいと誰に言うでもなく呟いた。
 拗ねた子供のようなこれに苦笑して、高巻はため息とともに言う。
「でも、キミがそんなふうになるのって珍しいね。いつもクール……別にクールじゃないか。いっつもどっか楽しんでるくせに」
「まあ頼もしいっちゃ頼もしいけどな」
 同意した坂本の顔からも、先ほどまでの緊張した様子は抜け落ちている。モルガナも喜多川も、新島もそれは同じ様子だった。
「もしかして―――」
 また高巻はなにかを思いついたように人差し指を立てて明るい声を発した。その瞳は好奇心と、この上ない楽しみを前に輝いている。
「もしかして、もしかする? えっ? ちょっとちょっと、そういうことなの!?」
 唐突にテンションを上げて盛り上がり始めた彼女に、一同は怪訝な目を向ける。
「あ? なにが?」
 代表として坂本が問いかける横で、モルガナは不思議そうに尾を振って彼女を見上げた。白い頬は暑さ以外の原因から上気してほんのり赤く染まっていた。
 そして彼女は衝撃的なことを口にする。
「だから、蓮ったら、さんのこと好きになっちゃったんじゃないの!?」
「は―――?」
 雨宮は信じられないものを目撃してしまったかのように彼女を見つめた。
 らんらんと碧い瞳を輝かせたその様子は、まるで日頃めったに口にできないような高級スイーツを前にしたときのようだ。
 雨宮にとって最悪なことに、彼女のこの与太ごと以外の何ものでもない発言に若干二名が食い付いた。
「マジかよ! あっ、だからあんな必死になって助けようとしてたんか!?」
「先の激昂も説明がつく。なるほどな。蓮、お前も隅に置けないじゃないか」
「ちょっとあなたたち……」
 辛うじて平静さを保つ側の新島が静止を呼びかけようと手を上げるが、それはすばやく雨宮の前にしゃがみ込んでわっしと手を掴んだ高巻によって遮られてしまう。
「私っ、相談に乗るよっ! ていうか乗らせて!」
 相談もなにも勘違いなんだけど、と言う暇を彼女は与えてくれなかった。キラキラと瞳を輝かせた少女は踊るように立ち上がると、スカートの裾を翻させてぴょんぴょんとその場で飛び跳ねもする。
「やだー楽しい! 蓮のコイバナが聞ける日なんて絶対こないと思ってた! ヤッバいよこれ! 鬼の反乱ってヤツ!?」
 それは霍乱―――つまり吐き気や発熱を伴う暑気あたりのことだ、と言う隙も、やっぱり雨宮には与えられなかった。
「マジかぁ……ヤバいなにこのキモチ。オヤゴコロ的な、なんか、アレが……そっか、れんれんってば恋しちゃったのね……」
「ふむ、こういう場合は赤飯を炊けばいいか? よし、砂糖と甘納豆を用意しなければ……!」
 右に坂本、左に喜多川が並んで、なにを理解したのかウンウンとしきりに首を振っている。
 だから違うんだって。
 三度目も彼は封殺された。
「とりあえずコレ片付いたらさん誘ってどっか行こっか!? ウチら途中で消えっから、後はキミ一人で頑張んなさいよ!」
「蓮、頑張れよ……! ちょっとなんか悔しい気もすっけど、俺も応援するからな!」
「あっ、寿司でもいいんじゃないか? 祝いごととくればやはり寿司は外せないよな?」
 気が遠くなりそうになって、実際彼は少しの間意識を遠くに追いやった。直視したくない現実に対処するための、人間としてごく自然な反応の一つだった。
 その頃になってやっと助けが入る。
「いい加減に、しなっ、さいっ!」
 詰め寄る少年たちを正気に戻したのは新島に抱え上げらて一人一人に猫パンチを与えたモルガナだった。それぞれ額や頬を優しく、あるいは激しく引っ叩かれた彼らはすいませんと陳謝して落ち着きを取り戻した。
 室外機の上に戻されたモルガナがお説教して曰く―――
「ワガハイたちを逃がすために我が身を張ったあの子に対する態度かオマエら。ちょっと反省しろ」とのこと。
 しかし彼らとは離れたところでやっと我に返った雨宮が自失から戻って、今さらながらに声を張り上げる。
「ち―――違う、から!」
 思いもよらぬ反応に、少年たちは驚きもあらわに雨宮に目を向けた。彼は両手をわななかせて、焦った様子で言い募る。
「そういうんじゃないから、俺は別に……別に! そんなつもりで彼女を助けようとしてるんじゃない! 単純に彼女が困っていると思ったから手を差し伸べただけで……」
 封じ込まれていた分を一気にまくし立てる姿は、まったく普段の彼の様子と違っていた。
 他人をからかって遊ぶ彼が、今は逆の立場に追いやられているのだ。そこにはジョーカーの傲岸不遜な仮面も、前科者の転校生という肩書も存在していないようだった。
 事実、彼の頬はからかわれて恥ずかしがっているのか、赤く染まってしまっている。
 再び高巻が勢いを取り戻そうとするのを、新島の優しいチョップが遮った。
「あいたぁ」
「やめなさい。まったくもう」
 雨宮はまだ落ち着かない様子で頭をかいている―――
 本当に珍しい光景だった。彼がこんなふうになる姿を見るのは初めてのことだ。
 照れて恥ずかしがって、取り繕う余裕を失ったまったく無防備な、ただの一人の十六、七の少年の姿。≪切り札≫として皆を牽引するときでもなく、≪札付きの転校生≫でもなく、ましてや普段目にしている≪雨宮蓮≫ともまた違っている。
 ほとんどの人が抱える多面性というものの一側面がまた新しく見つけられたと子供たちは素直に、けれど静かに喜んだ。
 何故なら彼もまた自分たちと同じ、ただの子供なのだと知ることができて、その存在を身近に感じられることは喜び以外のなにものでもない。結局こいつもただの『クソガキ』でしかないのだと。
 様々な想いの籠められた視線が己に集中していることにやっと気が付いて、雨宮はぶるぶると顔を振って取り繕う努力をしはじめる。
「と……とにかく、違う。杏、妙なことを企まないでくれ。それで、そう、えっと……さんを助けないと……別にそういうんじゃないけど」
 あまり成功しているとは言えなかった。
 高巻が満面の笑みを浮かべて見守るような視線を送ってくることに顔をしかめるその横で、喜多川がぽんと手を叩いて己の通学鞄を漁りだした。
 果たして彼の手には、駅前に新しくできたフェイシャルサロンの広告が差し込まれた無料配布のポケットティッシュが握られる。彼はそれを一枚抜き出してモルガナの鼻先にくっつけた。
「んあ? なんだよユースケ、ふがふが……」
 キョトンとする猫に向かって彼は言った。
「チーンしろ」
「は?」
「鼻をかめと言っている」
 モルガナは眉間にシワを寄せたが、早くしろと急かされて押し付けられる目の粗いティッシュに押し負けて勢いよく鼻をかんだ。
「ぢーんっ! ずびっ、うわいっぱいでたぁ」
「うむ、どこに詰まってたんだ……?」
「触んじゃねえよっ! でもスッキリしたぁ」
 ぐんと伸びをする猫に満足げに頷いて、続けて喜多川は雨宮に手を差し出した。
「ん」
「え? ああゴミか……飼い主としての責任を取れと……?」
「違う」
「誰が飼い主だ誰が! ワガハイはオマエのペットになったつもりはねぇ! ていうかそもそもペットじゃねぇし!!」
「それも違う」
 ではなんだ。わにゃわにゃ喚くモルガナを無視して、雨宮は首を傾げた。
「手紙だ。白紙のほうはまだ持っているだろう」
 こたえた喜多川に、雨宮ではなく坂本が声を上げた。
「あー、あんときこいつ鼻詰まってたもんな。≪オタカラ≫かどうか……ってことか?」
「うむ」
 応じて喜多川は雨宮が慌てて差し出したはちみつ色の便箋をモルガナの鼻先に突き出した。
「む……くんくん……」
 奇妙な緊張感をもって見守られることしばし、猫は顔を上げて首を左右に振った。
「これは≪オタカラ≫じゃない。ただの紙だ」
 やっぱり、と消沈した空気が漂うのに、喜多川はそんなことにはまったく気が付かないかのようにまた別のものを差し出した。
「ではこれはどうだ」
 それは一枚のハンカチだった。黄緑色を基調としたボタニカル柄の布。モルガナは鼻をスンスンと鳴らして、きゅっと目を細め、尻尾をピンと立てた。
「そのものではないが、≪オタカラ≫のニオイがする……! ユースケ、これは?」
さんのハンカチだ」
「いつそんなものを?」
 軽い驚きを示しつつ新島が問いかけると、彼はこともなげに語ってみせる。
「生徒会室を漁るときに指先を少し紙で切っただろう。そのとき彼女が渡してくれたんだ」
 ほら、と掲げられた彼の左手の中指にすでに血の止まった傷痕が残されている。よく見ればハンカチにはわずかに彼の血液らしき小さな赤いシミがあった。
 それをまじまじ眺めて、雨宮はハッと息を呑む。
「モルガナはやたらとさんに懐いていたな」
 具体的な文言を避けた雨宮の発言に、高巻も倣いつつ疑問を呈する。
「え、え、でも、さんは生身の人間だよね?」
「そうだ。けど、同時に≪オタカラ≫は……パレスの主の歪んだ欲望の核でもある。ソイツが歪んじまった原因だったり、強い執着を示すものだったり……」
「平坂さんはさんに拘泥する様子を見せていたな」
「それに彼女は以前から平坂先輩を目撃していた。平坂先輩もそれに気が付いている節があった……」
「だから、歪んじまったってことか? さんが自分を見てビビってるから、怖がらせることで他のやつにも……?」
「自分の存在を認識させるため、彼女を起点にして騒ぎを起こさせた」
 怪盗団の正体をすでに目にしていた平坂はイセカイナビに目を付けて、どうやったのか彼女を己の≪心≫の中に誘い込んだ―――
 雨宮は二つの要因によって視界が歪むのを感じていた。一つは利用されたということへの怒りであり、もう一つは己の迂闊さに対する怒りだった。幽霊にまで対処しなければならないなどと言うつもりも言われるつもりもないが、しかし当初予想していた通り、の失踪に関しては怪盗団の存在こそが一因だったのだ。
 己を守るために必死になって仮面をつけていた少女が、本人には手出しのできない範疇で生じたものによって苦しめられている―――
 それらを呼び込んだのは他でもない、≪雨宮蓮≫だ。
 パレスもペルソナも元々あったものだとしても、怪盗団としての具体的な手立てを生み出すきっかけになったのはこの少年だ。モルガナだけでも、坂本だけでも、高巻だけでも、この秀尽学園に≪怪盗≫は生まれなかった。
 平坂にとっての起点がであるように、にとって今回の騒動の起点は≪雨宮蓮≫だった。
 ならばすることは一つだ。
 雨宮は改めてこれを口にした。
さんを助けないと」
 当然仲間たちはこれに頷いて返してやる。
「予告状の名は平坂美穂でいいんだな」
「ああ、出来上がったらデータで送ってくれ。印刷はこっちでやる」
「了解した。では」
 受けて作成を担当する喜多川は一同に背を向けて一人歩き出した。
 去り際に言い残す。
さんが自ら囮を請け負ったのは彼女が俺たちを信頼に値すると思ってくれたからだろう。期待に応えねばならんな」
 次はもう失態は犯さない。
 彼もまた言動にこそ表さずに済ませたが、充分心頭に発していた。自らの無様とそれによって一人の少女を危地に追いやった己自身に。
「……俺も次はねぇよ」
 坂本も瞳に剣呑な光を宿して呟く。
 男としてのプライドなんて言い出すつもりは毛頭なかったが、それでも彼は一人の男として、舐められっぱなしではいられないと拳を握っている。荒々しく地を踏んで彼もまた一人薄暗い道を先に行った。
 明日一番で予告状を平坂に突き付け、放課後にまた潜入すると定めて残された者たちもそれぞれに散っていった。
「……さん、無事でいてよ……」
 最後にその場を辞した新島が無人の校舎を見上げて呟いたが、応えたのは明るすぎる人工灯を太陽と勘違いして未だ鳴き止まぬセミの声だけだった。


……
 川上に呼び出されることなく朝の時間を過ごし、午前の授業を終えた雨宮は教室で一人の昼食を済ませてスマートフォンに目を落としていた。
 表示されているのはイセカイナビだ。相変わらずの名が刻まれたそれを忌々しげに見下ろしながら、しきりにつま先で床を叩いている。
 己の意思で彼女を窮地に追いやったわけではないが、結果的に自身の存在そのものが彼女を苦しめていると分かって落ち着くことはできない。気もそぞろと過ごした午前中の授業内容なんて、ほとんど頭に入ってはきていなかった。
 期末も近いというのに、この件が終わったら少し集中的に取り掛からねばならないかもしれない……
 差し迫った現実も苛立ちを煽る要因の一つとなっている。
 そういった忌まわしい諸々を吹き飛ばしたのは前の席からかけられた冷たい声と眼差しだった。
「ねえ、ウザいんだけど」
 じりじりと肌を焦がすような日差しに金の髪を輝かせて少年を睨みつけるのは高巻だ。あまり校内で大っぴらに自分たちの関係性を喧伝するわけにはいかないからか、その態度はそっけない。
 彼女の指先は雨宮の足元、揺さぶられる膝とつま先を指し示していた。
 はっとしてよく見れば、昼休みの終わりが近づいて教室には生徒たちが戻りつつある。同い年の少年少女たちは札付きと噂される転校生の苛立った様子に揃って怯えや煩わしさを見せていた。
「あ―――」
 ごめん、と小さな声で囁いて、雨宮は席を立った。次の授業をふけるつもりなんて無かったが、その前に少し落ち着きを取り戻したいという意図があった。
 高巻は無言で前に視線を戻して決してふり返らない。彼女だっていつも通りに授業を受ける気になんてとてもなれないのだろう。
 教室を出た雨宮の手の中、スマートフォンがメッセージの着信を教えて震える。
『サボっちゃダメだからね』
 雨宮は苦笑してちらりと彼女を見やった。どことなく消沈した様子の小さな背中は、『言い方キツかったよね、ごめん』とも告げているようだった。
 それだけで心は少し軽くなった気さえしてくる。机の中から惰眠を貪るモルガナの尻尾が垂れ下がっているのが少し気にかかったが、見なかったことにして彼は教室棟の端へ足を運んだ。
 ―――とりあえず出すものを出せば少しは気持ちも浮上するだろう。
 男女別に並んだ手洗い場に足を向けながら、彼はまたのことを思い返した。そうそう、この辺りで彼女に「ギャッ」と鳴かれたんだっけ、と。
 するとその記憶とタイミングを合わせたかのように悲鳴が響いて、女子トイレから二人の女生徒がもつれ合いながら飛び出して床に転がった。
 今度こそ彼のせいではなかった。
 雨宮は思わずと二人に駆け寄って、青ざめた彼女たちになにがあったのかと問いかける。
「どうした、なにが―――」
 自然と彼の目線は女子トイレの入り口に向かう。二人は揃って震える指先をそこに向けていたのだ。見れば入り口すぐにもう一人女生徒が床にへたり込んで震えている。
 彼女の目の前には洗面台があって、壁には鏡が取り付けられている。雨宮は集まりつつある見物人たちに構わず彼女に歩み寄った。
 人影がそばに近づいたことに気が付いたその女生徒は震えながら彼を見上げ、やがて洗面台を指し示した。
 排水溝から気泡が昇っているのか、ゴボゴボと音を立てている。洗面用のボウルに水が溜まってしまっているのだろう。蛇口が開きっぱなしになってしまっていることからしてそれは想像できる。
 立ち上がって、そこから滴る液体を目にして彼は女生徒たちの怯えた様子に納得してみせた。
 そして彼もまた息を呑む。
 吐水口からは水以外の赤くぬめる液体が垂れ落ち、つんと鼻先につい昨日も嗅ぎ取った血臭さを感じ取る。
 蛇口から血が滴っているなんてよくあるB級ホラー映画みたいだと、彼はまったく他人事のように思いながらそこへ近寄った。
 ビビって逃げ出しそうになる脚を叱咤して進むからか、鏡に映った彼の顔もまた震えてへたり込む女生徒たち同様青ざめて見えた。
 ポタポタと断続的に流れ落ちる赤い液体がボウルの内部に飛び散って赤い斑点を描いている。鼻につく錆に似た臭いは血のように思えてならない。
 けれど、だとしたら、これは誰の血液だと言うのだろう。
「ふふっ……」
 幽かな少女の笑い声に彼は顔を上げた。鏡に映った己の青ざめた顔、その背後に、一人の少女が佇んでいる。
 それは平坂美穂だった。つい昨日も目撃した姿そのままで、口元を妖しく歪めている。
 雨宮は素早く後ろをふり返った。
 けれどそこにはタイル壁があるばかりで、唐突な彼の行動に怯えを強めた少女がついに泣き出して嗚咽を漏らし始める始末だ。
 見間違いか幻覚の類かとも思うが、再び背後から届いた幽かな笑い声がこれを否定した。
「あの子はもう私のもの。誰にも盗ませたりなんかしない。あなたも大人しくしていなさい。でないと……」
 背後でキュッと蛇口が回される音が鳴る。
 恐る恐るとふり返った彼の目に、誰も手を触れていないはずの蛇口が勝手に回されていく光景が映った。滴るだけの血液が勢いを増し、糸のように繋がってたらたらと排水口に流れ落ちはじめる。
「あの子の体重、知ってる?」
 サッと鏡に映る雨宮の顔がますます青ざめた。
 ―――人間の肉体のうち、血液の量はおおよそ体重一キロに対して八十ミリリットル。全量のうち二十パーセントを失うと人は失血性のショック症状を起こして死に至る可能性がある。
 ではこの血液と思しき赤い液体はいつから滴っていたのだろう? そして今勢いを増して流れ出ているものが血液だとして、それは一体誰のものなのか―――
 雨宮は渾身の力を込めて蛇口を閉めた。
「ふふふっ、くふふふっ、怪盗さん、余計なことをしちゃダメよ……」
 まるで糸が断たれたかのようにふっと血の臭いがかき消える。まとわりついていた人の気配も。覗いた鏡にも背後にも当然、平坂美穂の姿は無かった。
 ただ、いつの間に駆け付けたのか、トイレの入り口には腰に手を当てて怒り顔をした川上が仁王立ちで雨宮を睨んでいる。
「あ……」
「……なにをしていたのか、説明できる?」
 女子トイレ、泣きじゃくって怯える女生徒、その前に立つ一人の男子。
 雨宮はますます顔色を悪くして後退った。

「シャレになんねーな」
 放課後、近ごろ定番となりつつある集合場所で合流を果たした坂本は昼中の出来事を聞かされそう漏らした。
 ぐったりとした様子の雨宮は嫌がるモルガナを腕の中に閉じ込めて、そのふかふかの腹に顔を埋めた状態で、
「どっちが?」とくぐもった声で問いかける。
「どっちも」
 応えた坂本に毛だらけの顔を上げて向けると、彼は同情のこもった瞳でこの憐れな少年を見つめていた。
「……誤解のほうは、その場の女子がちゃん説明してくれたからなんとかなった」
「そりゃよかった」
 坂本は我がことのように安堵の息をつく。腕から逃れて懸命に毛並みを整えるモルガナもまた、迷惑そうにしながらも雨宮をよく労った。
「まあ、大変だったな。誤解で済んで良かったぜほんとに」
「うん……」
 暴行に加え痴漢の冤罪までもが押し付けられるところだったと震える少年は、ぶんぶんと頭を振って気持ちを切り換えようと立ち上がった。
 問題はそこではないのだ。
 平坂があの場でやってみせたこと―――おそらくのものと思われる血液を用いて女生徒たちを怯え震え上がらせた。
 その上彼女はあの場に駆け付けた雨宮を見て怪盗団に脅しまでかけてみせたのだ。
「だがこれはチャンスでもある」
 乱された腹の毛をすっかり元の通りに整えたモルガナが二人を見上げて喉を低く鳴らす。
「ヒラサカミホは間違いなく予告状を受け取り、≪オタカラ≫の存在を……彼女を意識したはずだ」
「今なら彼女をあそこから連れ出せる……」
 確認するように呟かれた言葉に、猫ははっきりと首を縦に振った。
 同じタイミングで前方から少女が、後方からは少年が現れる。
「おつかれー……ほんと暑くてやんなるわ」
「言うな杏、余計に暑く感じる」
 げんなりとした顔の高巻と、言う割に涼しい顔をした喜多川だ。
 おざなりな挨拶をそれぞれ交わし、他校生である喜多川にも昼休み中にあった出来事を聞かせてやる。
 彼は思い切り顔をしかめ、憤懣遣る方無いと言わんばかりに夏の強い日差しを反射してギラギラと輝く校舎を睨みつけた。
 すでに同じ話を聞かされている高巻はまだ平静さを保っているが、しかし物憂げに目線を落とす。
「もう噂になっちゃってるよ」
「……蓮が女子トイレに侵入した件がか?」
「そっちじゃなくて!」
 とぼけた喜多川の反応に地を踏み鳴らし、高巻はその細い指で学び舎を指し示した。
「女子トイレに平坂先輩が出て血をバラ撒いたって話のほう! おかげで早退とかしちゃう子までいるし!」
 高巻と同じクラスである雨宮はそういえばと手を打った。六限目は何故か空席がちらほら見受けられたな、と。
 これに思いつくところがあったのか、坂本もまた口を開く。
「そういやウチのクラス、女子が何人か休んでたわ。夏風邪かなんかだと思ってたけど……まさかか?」
「どうだろ……でも、女子はマジで怖がってる子多いよ。学校来たくないってみんな言ってる」
 高巻の言う『みんな』の範囲にもよるが、生徒個人にしても学校の運営にしても、期末考査を目前に無視できない数の生徒が『幽霊』を理由に登校拒否となればなんらかの手を講じなければならなくなるだろう。
「お前たちの話を聞いていると、現実に侵蝕する速度が増しているように思えるな」
「なりふり構わなくなったってことだろうさ。構う必要が無くなったって言ったほうがいいか?」
 それこそが平坂美穂の狙いであると知る彼らとしても無視はできない。なによりの身を案ずれば、今日こそ決着を付けねばならないだろう。
「あの血がさんのものかは分からない。だけどそうだとしたら猶予は無いと思っていいだろう」
 少年はスマートフォンを取り上げ、イセカイナビを起動した。
「彼女を助けないと……いや別に変な意味じゃなくて」
 キラリと瞳を輝かせた高巻を牽制しつつ、雨宮は仲間たちに目を向けた。
「少なからず彼女には借りがある。これは俺たち全員がだ。借りっぱなしではいられない、そうだな?」
 無言が返されるが、その沈黙は肯定を示している。
 ≪雨宮蓮≫は、厳重に≪怪盗団の切り札≫の仮面を被って宣言した。
「元々彼女は≪こちら≫のものだ。取り返させてもらう―――」