結果的に言えば、手紙はこのパレスの≪オタカラ≫ではなかった。
 これ自体はなんの問題もなく外へ持ち出すことができたが、は相変わらず外へ脱出することが叶わず、また平坂美穂が姿を見せることもなかったのだ。
「≪オタカラ≫はこの手紙じゃないのか……?」
 消沈して俯く少女の姿に歯を噛んで、ジョーカーは忌々しげに封筒と、そこに貼られた可愛らしいミツバチを睨み付ける。
 だからといってなにが変わるわけでもない。そうしていなければ苛立ちを別の形で顕にしてしまいそうだというだけだ。
「……訊いてもいいかな」
 沈黙の中、ふとが俯いたまま声を上げた。彼女の隣ではパンサーが勇気づけるようにその肩を撫でてやっている。
「どしたの?」
 パンサーが浮かべた疑問符に応えて、は顔を上げた。
「君たちの言う≪オタカラ≫っていうのは、具体的にはどういうものなの?」
 これにスカルが答えてやる。
「どうっつうか……色々? 人によるんだよ。王冠とか、絵とか、あと毛玉とか武器だったり……?」
 あれやこれや指折り数える彼に補足して、モナが具体的な説明、主に改心の要である≪オタカラ≫の確保のための手順を説明してやった。もやのような状態が予告状を突き付けられることによって強く意識させられて、確固たる形を取るのだと。
「そうか……それじゃたしかに、ここの≪オタカラ≫はその手紙じゃないのかもね」
「そういうことになるのかもしれんな」
 重々しく頷く彼はその声色とはまったく正反対に、の膝の上でゴロゴロと喉を鳴らしている。
「ンにゃおん……ぐるぐる……」
「モナ、あまりよそ様のお嬢さんにそういう真似をするんじゃない」
 苦言を呈しつつジョーカーはモナを持ち上げてやる。猫のような猫ではないと主張する生き物は彼の腕の中でじたばたと暴れたが、最終的には大人しくその腕の中に納まった。
「ていうか……モナ、やたらとさんに懐いてんね。なーに? 惚れちゃった?」
 にんまりと笑って愉快そうに手を合わせる彼女に、モナは再び両腕を振り回し始める。彼は必死になって己の真情をアピールした。
「パンサー、そんな、ワガハイの心にいるのはただ一人……!」
「うちのモナをよろしくね、さんっ」
 すげなく聞き流されて猫はぐんにゃりと干された布団のように大人しくなった。
「ふにゃにゃ……ワガハイわぁ……」
「モナ、俺じゃ駄目か」
 ジョーカーは項垂れる彼を優しく抱きしめてその丸い後頭部に頬ずりをしつつ甘く囁いた。しかしモナは全身の毛を逆立ててその腕からスポンと抜け出してしまう。
「いーわけあるかっ! カレーとコーヒーのニオイがすんだよオマエはぁ!」
「いやそれはお前もするかんな、モナ」
「うむ、腹が減る匂いが……あー……っ」
 わにゃわにゃと騒ぐモナの背後からスカルとフォックスの指摘が飛ぶ。クイーンは呆れかえって言葉もないとため息をついている―――
 は小さく笑って上体を折り、ぶんぶんと振られるモナの尾に手を伸ばした。
「たしかに雨宮くんってそんなにおいがするよね。自習スペースで隣になった子がインド人かよって言ってたなぁ」
 ジョーカーとモナ以外の全員がこれに一斉に吹き出した。
「インド人て、インド人て! あっはは! うける!」
「ちょっとヨガフレイムって言ってアギ撃ってみ?」
「ぶっ! くっ、ふふふっ、や、やめろスカル……!」
 辛うじて笑い声を上げずに済ませたクイーンもまた、ジョーカーから目を逸らしてブルブルと体を震わせている。
 ジョーカーはぶすくれた表情を浮かべながらも両手を合わせ、
「ナマステ」と呟いてクイーンを陥落させた。
 ―――呼吸が落ち着くのに一番時間がかかったのもクイーンだった。
「はあ、はあ……あなたたちねぇ、少しは状況を見てふざけなさい。いい? まださんをここから連れ出す手段すら見つかっていないんだから―――」
「アッチャー・バーバー」
「んぶっ! くっ、そのヒンドゥー語をやめなさい!」
 何故か正座させられたジョーカーはそっぽを向いて口を尖らせる。彼は完全にインド人呼ばわりにへそを曲げていた。もっと言えばスカルの「よく行くコンビニでも似たようなあだ名付けられてんだろうな」という発言に憤っていた。
 そんなことはさておき、クイーンの言う通り未だには見えない壁に阻まれているし、手紙に釣られて平坂美穂が姿を見せる気配もない。
 時刻は七時になるところだ。状況は膠着していた。
 表向きは健全な学生として生活している彼らとしてもそろそろ帰宅せねば日常生活に差し障りが出てしまう。は帰っていいと主張したが、だからといってはいわかりましたと解散できるほど気楽な問題ではないだろう。
 万策付きたかと校門の外で仄かな光を放つ街路、それに集う羽虫の影を目で追いながらジョーカーは口の中だけで呟いた。
 それは諦めから吐かれたものではなかった。今ここでのことを指していて、視点を変えてもっと別の切り口からアプローチを試みようと、その具体的方針を探ろうと、瞳は手の中の封筒に落とされている。
 するとそれを見つめていたパンサーが、その心を読んだわけではないだろうが提案を投げかけた。
「ねえ、その手紙の中、見てみない?」
 意外な内容に一同は軽く驚きつつ彼女に目を向ける。
 言ってしまえばこれは極めて個人的な、友人間のみを想定されたやり取りの証だ。第三者が勝手に盗み見て良いものかは怪盗団内でも意見が分かれるところだろう。そして彼女はどちらかといえば止める側の人間だと認識されていた。
 視線を受けてパンサーは述べる。
「だってさ、ここはパレスなんでしょ? 外と同じ場所にあったとしても、それは本物の……平坂先輩と大賀先輩のタイムカプセルとは違うってことじゃないの? こっちにあったそれはあくまでも認知の産物、でしょ?」
 それなら、他人の手紙を覗き見ることに躊躇する必要は無いんじゃないか。
 これに怪盗団は顔を見合わせ、やがて静かに首を縦に振って肯定を示した。
 全会一致となれば執行に戸惑いはない。ジョーカーの指がミツバチにかかり、封が解かれる。
 取り出されたのはミツバチのキャラクターと同系のデザインの便箋だった。都合十枚ほどあるのは、二人がそれぞれお互いと自分自身に宛てたためだろう。
「これは……」
 一枚目と二枚目に軽く目を通したジョーカーの声は困惑に満ちている。
 彼は口でもって説明する代わりに皆にも見えるように中を開いて晒してやった。
 紅い光に照らし出されたはちみつ色の便箋には、しかし罫線が引かれるばかりで文字らしきものは見当たらない。
「なにこれ、白紙?」
「あ、わかった」
 すぐさまクイーンが手を打ち鳴らす。
「パンサーが言う通り、認知の産物だからよ。おそらくそれは大賀先輩が書いたものなんだわ。平坂先輩はその内容を知らないから……だからそこは白紙なの。他の便箋には文字がない?」
 促されてジョーカーは紙束を捲る。
 一枚、二枚、三、四、五……半分を通り過ぎたところで、やっと文字が現れた。けれど―――
「うっ……!」
 呻いて、彼はそれを取り落とした。
「おいおい、なにやってんだ、よ……」
 そばでそれを見守っていたスカルが苦笑しつつ拾い上げようと腰をかがめて腕を伸ばす。
 しかしその笑みも腕も、散らばった紙に触れる直前に凍りついた。
「なん……なんだ、コレ……」
 彼の指し示す先、落ちていたのははちみつ色のキャラクター便箋などではなかった。
 赤黒い染みで汚された用紙には羽根をもがれたミツバチがぺちゃんこに潰されてテープで貼り付けられ、罫線らしき横線は血のような赤でぐちゃぐちゃに引かれている。
 極めつけは記された文字だった。
 乱れた強い筆跡で何事かがみっちりと隙間なく書き込まれている―――
 どうして私だけこんな目にあわなきゃならないの。痛い。ひどい。睦美のせいだ。あの子が待ち合わせしようなんて言うからなのにあの子はまだ来ない。痛い。約束を守らないなんて最低。私だけ。みんなどうして。私はここにいるのに。痛い。睦美はどこ。私はどうなったの。お母さんはどこ。痛い。お父さんはどうして助けてくれないの。痛い。睦美はどこにいるの。痛い。痛い。ひどい。私だけ。みんな。睦美。お母さん。お父さん。痛い。痛い。苦しい。さみしい。ひどい。
 少年たちは絶句して散らばる紙束を拾い上げることもできずに硬直した。
 なにより恐ろしいのは、ジョーカーの手の中に残されたまともな白紙の便箋の下から、また新たな汚れた紙が生まれて手から勝手に抜け落ちていくことだろう。そこにも終わらない嘆きと怨嗟の言葉が延々書き連ねられている。
 痛い。苦しい。ひどい。
 みんな私を忘れてく。私が消えていく。無かったことにされる。まだここにいるのに。みんな私を消そうとする―――
「なっ、なんでコレ、どんどん増えるの……っ!?」
 青ざめたパンサーの震える声に答えられる者はいなかった。
 かすかな音を立てて床に積み重なる赤黒い用紙は、次々にジョーカーの手からこぼれ落ちていく。
 ―――その上に、唐突にパンサーが倒れ込んだ。
「いったぁ! ちょっとさん、なにすん……」
 の、とは誰も言えなかった。
 積み上がり続ける紙束と倒れたパンサーの向こう、門近くの植え込みそばに腰掛けていたの背後に、一人の少女が立っている。
 様子がおかしいことは一目で解った。
 なにしろその少女は全員を見下ろしている。
 立ち位置と高低差の関係からあり得ない話ではないが、それにしたって上から過ぎる。かといって少女の背が男子らを差し置いて抜きん出ているというわけでもなかった。
 彼女は宙に浮いて、怨みと敵意のこもった眼で一同を見下ろしていた。
「にっ……逃げたほうがいいと思う……」
 パンサーを突き飛ばすために伸ばした腕もそのままに、引きつった声で訴えるの肩に少女の手指がかかり、見せつけるように首筋を撫で上げた。細い首に、指が絡んで締め上げる―――
 全員が弾かれたように動き始めた。逃げるためではなく、戦うために。
「ペルソナ―――!」
 真っ先にモナの背後、蒼い炎とともに丸っこいシルエットの紳士が細剣を振るって現れる。
 彼は強い風を巻き起こして床に散らばった紙束を巻き上げた。
 乗じて、フォックスが刀を手に一直線に少女―――のほうへ駆け寄り、彼女の襟首を引っ掴んで仲間たちのいる方向へ放り投げた。
 彼女と入れ替わるようにして火球が叩き込まれ、未だ視界を覆う紙束を燃え上がらせる。フォックスは慌ててその場を退避した。
「パンサー! 俺に当たったらどうしてくれる!」
「アンタが避けられないワケないでしょ!」
「それはそうだが!」
 腕の中にを保護したパンサーの隣に着地して訴える彼の横を、クイーンとスカルが駆け抜ける。
「キャプテン・キッドォ!」
「来なさい、ヨハンナ!」
 吠えて振りかざされた拳と長物に電撃と核熱が伴われる。
 しかしそれらは浮遊する黒髪の少女―――平坂美穂が腕をひとふりするだけでかき消されて空ぶった。
「ンなっ!?」
「そんなっ!?」
 二人は声を揃えて、もろともに吹き飛ばされる。地に転がったその身にベッタリと黒ずんだ紙片が貼り付いていた。
「ぐ……ッ、あンだよこりゃ……剥がれねぇっ!」
 仮面の半分を隠す紙片を引き剥がそうともがくスカルの手にピリピリとした感覚が走る。彼はそれを振り払って紙片を破り捨てた。
「だあもぉ! なんだってんだよ!!」
 がなる彼の前に、落ち着かせるようにジョーカーが歩み出た。一瞬だけ送られた目配せは熱くなり過ぎるなと促している。
「平坂美穂だな」
 彼は静かな声で浮遊する少女に向けて語りかけた。平坂は応じず、ただじっと昏い瞳で見下ろすばかりだ。そこに感情は窺えない。
 そもそも彼女は彼を―――彼らを見すらしていなかった。
さん……」
 幽かな声と瞳は、はじめからしか捉えていなかった。
「あなたも私をおいていくの……?」
 パンサーの腕の中にいた少女は、総毛立って全身を硬直させた。生者にあるべき温かみを欠いた瞳と声が彼女に恐怖を与えていた。
「わっ、私……」
「一緒に探してくれるって言ったのに……ひどいよ……」
「そ、それは、でも私―――」
 二人の間に張り詰める異様な糸のようなものをパンサーの放った炎が焼き切った。
「探し物するにしたって、何日も帰らなかったら親が心配するに決まってんでしょ!」
 もっとも過ぎるパンサーの指摘に、は緊張から解き放たれて身体を弛緩させる。
 平坂の眼は炎にもそれを放った少女にも関心無く、相変わらずその場にへたり込んだ彼女だけを見つめていた。その狙いがただ一人と判断するには充分だろう。
 再びフォックスが彼女の首根っこを掴み、校門の方向に向かって放り投げる。すると平坂の視線もそちらへ向かう―――
「わああぁっ!?」
 悲鳴を上げて空中を舞う彼女の身体は真っ直ぐに門、パレスの外と内を繋ぐ地点へ突っ込んでいく。
 その鼻先で人を一人殺害するのに十分過ぎる重量と質量を持った鋼鉄製の門扉が閉ざされた。遅れてガシャアンと重い金属音が響く―――
 たたらを踏んで着地を果たしたはふり返って恨みがましげな目線をフォックスに送ったが、彼にそれを受け取る余裕は無い。脚の速さが評価されたのか、平坂の眼が初めて以外のもの、狐面の少年に向けられていたのだ。
「ゾッとするな、その眼は……だが、美しくもある……!」
 どことなく恍惚とした声とともに構え、フォックスは床を蹴って走り出した。併せて横についたジョーカーに一瞥をくれて、二人は左右に別れて跳ねる。すると開けた中央に青白い閃光が飛び、平坂の視界を塞ぐ―――
 足元をフォックスの一閃が、頭上からジョーカーの斬撃が降り落ちる。
 そのはずだった。
 平坂が真っ直ぐ前に掲げた手の先に現れた黒ずんだ紙片の壁が、撃ち込まれたクイーンの核熱を乱反射させてフォックスの足元を崩し、ジョーカーの脇腹を焼いていた。
 苦悶の声を呑み込むことには成功しても、かっこつけて着地することには失敗したジョーカーが植え込みの中に落ち、フォックスはまた体勢を整えて斬り込もうと試みたが、彼は奇妙なものに囚われて動けずにいた。
 早送りをしたように俊敏で奇妙な動きでもって間近に迫った平坂美穂の、その瞳が彼を見つめている。ただそれだけだった。
 ―――それだけで、気が付けば彼の手は刀ではなく筆を握り、キャンバスの前に腰を下ろしていた。
 移動させられたのかと驚くのもつかの間、彼は仮面も怪盗服も消えていつも通りの質素な服装でいることに気が付くことさえなく余白の多いキャンバスに齧り付いた。
 描かなければならないという想いが湧き上がったのだ。
 創作意欲に衝き動かされたという訳ではなかった。彼の背後には仲間たちではなく、一人の老人が佇んでいる。
 老人の手が少年の肩を気安く撫でた。彼が震えるのも構わず、促すように、囃し立てるように。
 それはまた若さや才能というものに対する嫉妬を滲ませ、苛立ちや恨み、優越感と嘲りをにおわせて、この少年からじわじわとなにかを奪い取っている。
 それでも彼は手を止めることが出来なかった。
 すでに戦う力を得て、骨ばった老人の手を振り払うことも、やめてくれと訴えることも、突き飛ばすことさえもできるはずなのに、彼は思い付きすらせず必死になってキャンバスの余白を埋めることに没頭した。
 少なくともそうしている間は言い表し難い感情から逃れることができた。
 それだけが彼の救いだった。
 けれど、やがて出来上がったものを見て背後の老人から与えられたのは失望の込められたため息だけだった。
 言葉はなかったはずなのに、お前の描くものに価値なんてないと、意味も、意義も無いと言われた気になって、少年は両手で顔を覆った。
 彼にはいくらだってこの状況を打開する手数があるはずだった。
 しかし彼は嗚咽を上げて背を丸め、縮こまって絶望することしか出来なかった―――
 ……両の膝が地に付いた感触に、フォックスは我に返る。
 全身に吹き出た汗が彼に先までの光景が幻覚の類だったと教えているが、それが解ったからといって彼にはどうすることも出来なかった。
「フォックス!? おい、しっかりしろよ!」
 肩を掴んで揺さぶるスカルを緩慢な動きで見上げた彼の瞳には、隠しようのない恐怖が浮かんでいる。
「……っ、スカル……に、逃げろ……!」
 それだけ言うのが精一杯だった。
「ハァ!? バカなこと言ってんじゃ―――」
 そして忠告は遅かった。音も無く忍び寄った平坂の次の獲物はスカルのようで、彼女は息がかかりそうなほど近くからスカルの瞳を覗き込んだ。
「あなたにも怖いもの、あるでしょう……?」
 幽かな声が囁いた。
 フォックスには彼がどのような幻を見せられているのか理解することも、助けとなってやることも出来なかった。
「あっ……ぅあ―――!」
 うめき声を上げて、スカルもまたその場にくずおれる。その脚は奇妙なことにまったく力が入らない様子で投げ出され、ぴくりとも動かない。
「やめろ、やめろっ! ちくしょうっ、なんで……!」
 目を合わせただけで戦意を失った少年たちに、平坂は楽しげに笑った。初めて見る彼女の笑顔だった。
「なんだってんだ、ありゃ……」
 一部始終をつぶさに観察していたモナは全身に警戒を漲らせて曲刀を構える。
 平坂がまだスカルとフォックスの間近に迫っている以上、迂闊に手出しはできない状況だ。せめて回復を試みることができれば……
 思案するモナがクイーンに一瞥を投げると、彼女も同じようなことを考えていたのだろう、彼女はその意思を表すためにかすかに顎を引いてみせた。
 となれば後は平坂の気を引いてもらいたい。二人は打開策を求めて植え込みの中に落ちたジョーカーに目を向ける。
 思わず声を上げそうになったのは、脇腹を焼かれて悶え苦しむ彼をいつの間にか忍び寄ったが助け起こしている姿が目に映ったからだ。
(なにやってんだバカ! 大人しくしてろ!)
(危ないでしょう! 引っ込んでなさい!)
 二人の怒りのこもった視線を受けて、は力強くサムズアップしてみせた。
 そういうことじゃない!!
 叫び出しそうになるのを、パンサーの生んだ赤炎の壁が遮った。
「いっつ……くそ、強いな平坂先輩……」
 呻きつつもまだどことなく余裕を滲ませるジョーカーの声は、幸いにも同じく炎の壁によって遮られている。
 は怯えを覗かせながら、それでもまばゆい炎の輝きから目を逸らさずにその肩を支え、静かな声で訴えた。
「今は退いたほうがいいと思う。出口はすぐそこ」
「駄目だ。君はどうなる」
 即座に否定して、ジョーカーは己で己の傷を塞ぎにかかる。ひと呼吸の間に、焼け焦げた穴はきれいに塞がっていた。
 それを興味深げに眺めていたはまた、冷たい声で、
「勝てそうもないじゃん」と言われたくない事実を彼に突き付けた。
「ぐ……レベル上げを怠ったか……」
 冗談めかした発言に目を眇めて、は彼を突き飛ばした。
 大した力ではなかった。同い年の女子にちょっと突かれた程度で天下の怪盗団、その頭領たる≪切り札≫、ジョーカーが倒れるなんてことはあるわけがなかった。
 ただ彼はたたらを踏んでふり返る。そこで彼女は真っ直ぐに彼を見つめていた。怯えることも「ギャッ」と鳴くこともなく、信頼の籠もった瞳を彼に向けている。
「今日のこれで三回目だけど……まだ助けに来てくれる?」
「え?」
 意図を掴みきれずに聞き返した少年に、は焦れったそうにかぶりを振ってみせた。
「もう一度、私を助けに来てくれる?」
 疑問符こそ付いていたが、それは問いかけではなく確信のこもった言葉だった。かえってジョーカーのほうがどういう意味だと訊こうとしたくらいだ。
 けれどその前に彼には言うべき言葉があった。
「もちろんだ。必ず君を、助けに行く」
「そう。じゃあ、よろしく雨宮くん……いや、ジョーカーって呼んだほうがいいのかな。約束だよ」
 の目はすでに彼を捉えていなかった。浮遊してパンサーに腕を伸ばさんとする平坂美穂を睨みつけている。
 彼女は大きく息を吸った。
「平坂さんッ!!」
 ビリビリと校舎の窓ガラスが震えるほどの大音響であった。彼女がこんな大声を出せるのだなどと知っている者は誰もいなかっただろう。
 果たして平坂美穂は見返ってを捉える。
「必要なのは私だけでしょ! こっちだよ!」
 叫ぶようにして言って、は身を翻して走り出した。意外なくらいの俊足は校舎の昇降口前を横切り、中庭の方へ向かう―――
 平坂はくすっと小さな笑い声を漏らして、
「いいよ、乗ってあげる―――」
 怪盗たちを冷たく嘲りの籠もった瞳で見下ろした。
「私に必要なのはあの子だけ……さっさと逃げ帰って、二度と姿を見せないで」
 言うなり平坂の姿は霞のように薄れてゆく。
 待て、と声をかけることもできたはずだが、誰もそうすることはできなかった。
 が自らを囮としてこの少年たちに退路を提供したのだとは誰もが理解していたからだ。
 動かない脚をどうにか震え立たせようとするスカルの肩を支えてやりながら、ジョーカーは一同に目を配った。
「どうすんだよ……ジョーカー……」
「一旦撤退だ。行くぞ……!」
 ごく近い位置から囁かれた弱々しい声に、彼は奥歯を噛みながらこたえた。
 ギリリと歯を鳴らして踏み出した彼に従うほか怪盗たちにできることは無い。
 少なからず今日これまで笛旗が無事でいたことを鑑みれば平坂が彼女に危害を加える可能性は低い。対してこの若者たちには明らかな敵意を見せていた。笛旗がそこまでを織り込んでああしたのかは解らないが―――
 外と内の境界をくぐり抜ける中、静電気が走るような感覚を全身に浴びながら彼は振り返って背後の紅く染まる校舎を見上げる。
 動くものの一つとして目にすることはできなかったが、平坂の悦に入った笑い声が聞こえたような気がした。