翌日の学校で、雨宮は再び川上に捕らえられて尋問を行われていた。早朝、実習棟の廊下の隅で。
 彼女はやはりどこか疲れたような表情を見せている。
「君……ああもう、なんで私がこんなこと訊かなきゃいけないの……」
「いいよ、気にしてない。なんですか」
「……ガラス、君じゃないわよね?」
 もちろん。と雨宮は満面の笑みで答えた。
 ―――現実世界に帰還した怪盗団は校門の先、前庭を抜けた昇降口の扉を見て目を丸くした。
 粉砕というわけではないがその分厚いガラスが割れて、フレームが歪んでいたのだ。
 例えば、パレスの主の精神状態や認知を変えることができればパレスの状態は変化する。その逆もしかり、パレスを形成する核である主の歪んだ欲望の具現化したものである≪オタカラ≫を盗み出せばその人は心を文字通り入れ替える。それこそが怪盗団の行う≪改心≫だ。
 即ちパレスとは人の心の内的な世界であって、この現実世界とは物理的に分かたれている。パレスの中の構築物をいくら破壊したところで、現実の校舎のガラスが割れるなんて有り得ない―――そのはずだ。
 だというのに現実の玄関扉はしっかりと、規模こそ抑えられているが破砕されていた。
 ……若者たちは互いに口を閉ざすことを選んだ。実際のところ、破壊した張本人である新島真が「私がやりました」と名乗り出たところで誰も信じてはくれないだろう。素行に問題ありと捉えられている雨宮や坂本が言えばすんなり通るだろうが、それはそれで大いに問題がある。高巻には物理的に不可能そうだし、他校生の喜多川などが名乗り出た日には余計な混乱を呼び起こすだろう。モルガナがニャーと言ったところで彼が何を言ったのか聞き取れる者は多くない。
 だから雨宮は川上に笑みを向けて、
「たしかに放課後、学校近くにはいました。でも、生徒会長に捕まって一緒にいたから、俺には不可能だ。ついでに言えば、そこには竜司―――坂本クンもいたから、彼も無関係」
 予め示し合わせた通りに語って、なんなら二人にも確認してもらって構わないと促すと川上は小さく首を左右に振って「そこまでする必要はない」と諦観を示した。
「話はそれだけ?」
「ならよかったんだけどね」
 雨宮はおやと軽く目を見開いた。さすがの彼にも他に心当たりがなかったのだ。
「あちこちで備品や私物が消えているの」
 ため息とともに吐き出された言葉に、なるほどと雨宮は頷いてみせた。これもまた素行不良の生徒が盗み出したのではないかと疑われているのだろう。
 しかし困ったことに、こちらには完全に心当たりがない。そもそも校内で盗める物なんてたかが知れている。科学準備室あたりから薬品でも持ち出せるのなら話は別だが……
「具体的にどんなもの?」
 少しの好奇心とともに問いかけると、川上は物憂げなため息とともにこう答えた。
「購買で食料品がいくつかと、保健室から市販の錠剤。それから、職員室の中にある給湯室が荒らされてて……あと、これは関係あるのか分からないけど、鍵ね」
「鍵?」
「そう。音楽室とか、放送室とか、普段施錠されてる部屋の鍵」
「大問題じゃ?」
「なくなりっぱなしならね。でもたいてい、気が付くと元の場所に戻ってるのよ」
「ただの物忘れ」
「と、思うでしょ? でも、それが何度も何度もあるの。一昨日からもう……十回以上は探させられたかな」
 食料品、市販薬、消えては戻る鍵に、一昨日から。必要なキーワードを入手して、雨宮はそらとぼけてみせた。
「痴呆かなんかじゃ?」
「それはそれで問題なのよねー……あー、面倒くさい。私だって暇じゃないってのに……」
「大変そうだな」
「そう思うのなら、いい子にしててよ」
 雨宮は小さく肩を竦めた。
 そんなことを言われる筋合いはないのだ。授業には問題なく付いていけているし、授業の出席率もここまでほぼ百パーセント。病気の一つも居眠りさえもせずに日々励んでいて、文句を付けられる謂れはない。
 川上とてそれは十分すぎるくらいに理解しているのだろう。彼女の瞳は語っている。この子は本当に、他の教師たちが言うような『悪い子』なのだろうか―――?
 学業の優劣が子供のすべてを語るわけではないということを経験としてよく知る女は、内から湧き上がる苦悶によって目を細めて口を閉ざす。
 これに雨宮は小さく首を傾げた。彼女がなにを思っているのかまでを見抜くには、まだ少し特性値が足りていないようだ。
 やがて川上は無言のまま彼の脇をすり抜けて歩き出した。その背は「もう話はない」と語っている。
 少年は振り返って女に問いかけた。
「妹さんの具合はどう?」
 もっと指名してやろうかと暗に含んだ言葉に、川上は渋い顔をして踵を鳴らした。
「こっちのことはいいから勉強しなさい。君だって高校くらいは卒業はしたいでしょ」
 ごもっとも。雨宮は両手を上げて細い背に降参を示した。


 この前日、少年たちはガラスの件を脇に置いて、の姿を探して幾度かパレスへの出入りを繰り返した。しかし昇降口にも保健室にも、他の教室を軽く見回っても彼女の姿は見当たらなかった。
 あるいは別の場所に出てしまったのかとの自宅に確認をしても、相変わらず娘は帰宅していないとのことだった。
さんは間違いなくまだパレスの中にいる」
 放課後、再び秀尽学園前の路地に身を潜めて集った怪盗団の仲間たちに、雨宮は開口一番そう断言した。
「分かるのか?」
 鞄から飛び出してそばの室外機の上に陣取ったモルガナの疑問に、雨宮は決然と首を縦に振った。
「感覚として捉えているわけじゃないけど、校内でものが無くなったり、位置が変わっていたりするらしい。たぶん、あのガラスみたいに、さんのパレスでの行動がこちらにも影響を及ぼしているんじゃないかな」
「ふむ……確かに、あのガラスを見ればあり得そうではあるな」
 ちらと猫の目が路地を抜けた先―――この位置からは見えないが、昇降口のほうへ向かう。新島は頭を抱えて蹲った。
 彼女の隣でそれを見下ろしていた高巻がまた根本的な問いを投げかける。
「でもなんでだろう? あのとき間違いなく一緒に出たよね?」
 雨宮は小さく唸って頭をかいた。確かにの手を引いていたのはこの少年だ。しかし……
「なんらかの理由で彼女は出られなかったか、あるいは……」
 彼の手の中にはの手がするりと抜き出された感覚が残っている。
 手のひらを見つめながら、雨宮はまだ不鮮明な想像を口にした。
「あそこから出たくなかった」
 一斉に視線が集中する。仲間たちは怪盗団の頭領の言うことを疑うまでいかなくとも、揃って怪訝そうな表情を浮かべていた。
「いや……なんでよ、さんも困ってたろ?」
 汚れるのも構わず地べたに尻を下ろしていた坂本が訴えるのに、一同は首を振って同意する。
 けれど、と新島は相変わらず暗い顔をしながらも記憶を探るように足元を睨みつけながらこうも述べる。
「彼女……明らかになにかを隠している様子ではあったよね」
「そういえば、たしかに。何度かはぐらかされたな」
 受けて壁に背を預けて腕を組んでいた喜多川が言う。
 然りと雨宮は頷いてみせた。
「最後に遭ったあの妙な音の追跡にも心当たりがありそうだった」
 出られなかったかのか出なかったのか、どちらかはまだ類推することしかできないが、彼女がなんらかの秘密を隠し持っていることは明らかだろう。
 定めて雨宮は手の中にスマートフォンを置いてロック解除のためのジェスチャーを親指で入力する。
 その耳に喜多川が呟いた。
「これはあまり関係ないかもしれんが……俺たちはあの空間で、いくつかのシャドウと交戦しただろう」
 全員が頷いて続きを促す。
「あれらはいずれも、目や耳に憶えのある怪異の姿をしていたように思えるんだが……はじめに遭ったものは間違いなく『花子さん』だった」
 モナだけが言わんとするところを汲み取れずにきょとんとした顔をみせている。応じたのは坂本だった。
「階段のとこで襲いかかってきたのは『四時ババア』だったな」
「んじゃ、クイーンが二階で殴り倒してたのは?」
 小首を傾げた高巻が。これには雨宮が相変わらずスマートフォンに目を落としながら答えてやる。
「下半身が無かったから『テケテケ』じゃない?」
「そいつは踏切に出るのでは?」
「病院や学校に出没するパターンもある」
 補足してやっと雨宮は顔を上げた。
 同じタイミングで立ち上がった新島が喜多川の発言の意図を取りまとめようと口を開く。
「つまり、いずれも学校にまつわる怪異の姿をしていたわけね」
 一同の目線が今度はモルガナに向かった。意見を求められて、猫は己の尾の先端、白い部分を軽く食む。
「ふむう……たしかにシャドウの姿や形が使役するパレスの主に影響されることはあるな」
「それなら、もしかして」
 思索する新島の瞳が理知の輝きを湛えて煌いた。
「パレスの主人がさんでも、別の誰かでも、学校という場所に執着しているんじゃない? しかもどこでもいいわけじゃない。この秀尽学園によ」
 なるほどと頷いて、喜多川が問いを重ねる。
「執着する理由はなんだ?」
「それは、そうね……色々と考えられるけど……」
 一般的に人が何かに執着するとき、最もポピュラーな理由は愛だろう。しかし今回においては愛が理由とはとても思えない。あるいは他者を苦しめることによってそれを実感することもあるかもしれないが、そういった性愛の働きは見られない。
 望郷や懐古、羨望、そして悔恨。いくつかの候補が新島の口頭に上がったが、いずれも全員を納得させるには至らなかった。
 ただ雨宮は最後に挙げられた『悔恨』という言葉に反応して、朝方の川上の発言を胸に返した。
『君だって高校くらいは卒業はしたいでしょ』……
 その通りだ。いい大学に行って修めて、いい会社に勤めて安定した生活をなんて青写真を望んだことはないが、それでも雨宮にだって学びたい目標くらいはあった。そのために最低限、高校卒業という実績は欲しい。もっと言えば、志望通りに入学した前の学校を……
「卒業、か……」
 かすかな呟きに、坂本が呆れた顔をして手を振った。
「や、尾崎の話してねーから」
「だから誰なんだよそのオザキとやらは」
 人間社会への知識が薄いモルガナだけが不満げにぶんぶんと尾を振るが、雨宮も坂本も、誰もこれには答えてやらなかった。
 ただ雨宮は己の脳内を駆け巡った想像を口にする。
「卒業できなかった……?」
 学生生活で後悔することなんて腐るほどあるだろう。けれど最も大きな理由としてはやはり、中途退学や転校といった理由で望んだ修業を果たせなかったことになるのではないか。あるいは、仲の良い友達らと不本意な別れを選択させられたという可能性もある。
 これは雨宮の経験に基づく発想だった。
 彼は喉の奥からこみ上げる吐き気のようなものをぐっと飲みこんで、馴れ馴れしくモルガナの背を撫でる。そうしていると柔らかな毛の感触と温かさに心が落ち着く気がする―――
「気安く触るんじゃねえっ」
 手は直ちに叩き落された。
 この猫のつれない態度ももう慣れたものだ。雨宮は苦笑しながら引っかかれた手をさすりさすり、仲間たちに目を向ける。
「とにかくもう一度行って確かめよう」
 彼女をこのままにしておくわけにはいかない。
 決してスマートフォン、そこに表示されたイセカイナビを示してみせた雨宮に、一同は応じて立ち上がった。

 再び紅い光の降り注ぐ秀尽学園に舞い戻った怪盗団は一路保健室に向かう。
 しかしそこにの姿はなく、がらんとした空間が横たわるばかりだ。
さん、今度はどこに行っちゃったんだろう……」
 気遣わしげに視線を落とすパンサーの隣で、あっと声を上げてスカルが窓の外を指し示した。
「あそこ―――おい、アレ……」
 窓の外には中庭を挟んだ実習棟が見えている。彼の指先はその二階を指していた。
 その廊下、窓際に一人の少女が佇んでいる―――
「誰?」
 ジョーカーには見覚えのない顔だった。胸元まで伸ばされた黒髪に秀尽学園の制服、俯いた表情は影になって窺えないが、鼻のかたちや口元は整っていると言ってよかった。
さん……じゃないわね。でも、あれは……」
 窓際に立って身を乗り出したクイーンが首を傾げている。あの人物に心当たりがあるのか、眉を寄せて思い出そうと努めていたが、やがて彼女は振り返ってジョーカーを仰いだ。その瞳は判断を求めている。
 ジョーカーはふむと唸ってつま先で床を叩いた。
 隣接した校舎の窓に見える女生徒、というのも学校怪談の定番的存在ではある。オチはいくつかあるが、誰かいるのかと行ってみても誰もいなかった、あるいは待ち構えていた女生徒ないし怪物、もしくは正体不明の声に取り殺されるというものが多い。
 対抗策としては見なかったことにするの一択だが、今この状況で放置しておくべきかと言われれば……
 がこの空間に迷い込んだ原因が掴めていない以上あの女生徒もまた誤って進入してしまった可能性も捨て切れない。
「行ってみよう」
 歩き出した頭領の背に、少年たちもまた続いて保健室を辞した。

 中庭を横切り、実習棟へ足を踏み込んだ少年たちは一度だけ進路を塞ぐように湧き出たシャドウと交戦する。
 見た目のインパクトという意味であればこれまで目撃してきたどのシャドウより弱かった。
「動く骨格標本……?」
 それはただの人骨だった。
「骨盤の大きさから見て男だな。これ以外にも前頭骨や胸郭の形状からも判別が可能だ」
 言って踏み出たフォックスの刃がたやすく人体模型の頭蓋を弾き上げた。
 どういう仕組みかは解らぬが、視界を失ったらしく奇妙な動きをする骨の背後に回り、彼ははしゃいだ様子でむき出しの脊柱を愛おしげに撫でもする。
「人間の脊柱は合計二十四個の椎骨によって形成されているが、これらが椎間円板によって結合され四つのカーブを描き、人間の肉体の美しさを……」
 美術的観点から行われる解剖学の授業はクイーンの鋭い一突きによって粉砕された。
「あーっ」
 バラバラに砕けた人体模型は床に崩れ落ちて霧散する。フォックスは絶望の声を上げて肩を落とした。
「早く行きましょう。こっちの階段のほうが近いわね」
 さっさと先を行くクイーンらに恨みがましげな視線を送りつつ、フォックスもまた後に続いた。
 実習棟の二階に辿り着いた怪盗たちは一旦壁に身を寄せて息を潜め、頭だけを突き出して廊下の様子を覗う。天井から降り注ぐ紅い光に照らし出された廊下は静まり返り、人どころかシャドウの姿すら見当たらない。
「移動しちゃったのかな?」
 潜められたパンサーの声にモナがこたえる。
「どうだろうな。どこかしら部屋の中に入ったか、ワガハイたちと行き違いになって向こうの校舎に行っちまったか……」
 身を伏せて角から進み出ようとする彼を、ジョーカーが押し留めた。
「待て」
 赤いグローブをはめた彼の手は真っ直ぐに廊下の奥、科学室から出てきた一人の少女の姿を指し示している―――
さん? こんなとこにいたのかよ」
 スカルもまた前に出ようとするが、やはりジョーカーの腕がその進路を遮った。
 なんだと問う視線に、彼は顎をしゃくっての動きに注目させる。
 扉の前に立った彼女はポケットを探るような動きを見せた後、手のひらになにかを収めてスライドドアの取っ手付近―――おそらく鍵穴に鍵を差し込んでそこを施錠する。
 その証拠に、静かな廊下に重く高い金属音が鳴り響いた。
「鍵ね。ふうん」
 一人納得した様子を見せる彼に視線が集中するが、説明は後だとジョーカーはコートの裾を翻してに呼びかけた。
さん」
 彼らの存在にはまったく気が付いていなかったのだろう。は大げさすぎるくらいに身体を震わせて振り返った。
「あ……あ、雨宮くん……」
 ジョーカーと呼べとはちょっと言えない雰囲気だった。
 彼女は明らかに警戒して、すでに一歩後退っている。
 見覚えのある表情だった。怯え戸惑い、逃げようとする「ギャッ」と鳴き出しそうな顔。とたん少年の胸はずきりと痛み、脚は止まる。
 何故今またそんな顔をされなければならないのか、その理由が解らないことが彼を苦しめていた。昨日はもう少し友好的な態度だったはずではないか。己の行動が不信と不興を呼んだのかと思うと、なかなか二の句は継げなかった。
 二人の間に走った緊張を読み取ったのか、それともまったくあるがままか、言葉を失った彼に代わりクイーンが一歩進み出る。
「見つかってよかった。さ、ご家族が待っているわ。早く帰りましょう」
 優しげな声に差し伸べられた手。降り注ぐ光に紅く染められてはいても、そこにはを気遣う彼女の生来の優しさや実直な性格がよく現れているようだった。
 けれどはまた一歩じりりと後退る。
さん?」
 きょとんとしたパンサーの目と声に、彼女は申し訳なさそうに顔を伏せ、
「ご、ごめんなさい……」と震えた声で応じた。
「なにを謝る?」
 フォックスの鋭い問いかけにはきつく目をつむって小さく首を振る。彼はまた、ジョーカーとは別種の感情を抱いて口をへの字に歪めた。
 は震えながら、しかし決然と答えた。
「ごめん、私は帰りません」
「へ……? なんで? 家でヤなことでもあんの? あ、それともココでとか?」
 スカルの言う『ココ』とはつまり秀尽学園のことだ。彼は家庭内不和や学内における人間関係の問題を示唆して問うていた。
「それなら相談に乗れることもあるかもだよ? ねえ、なにかあったの?」
 再びパンサーが、今度は心配そうに歩み寄る姿勢を見せる。これにはますます申し訳なさそうに身を縮こませた。
「お気遣い痛み入ります……でも、そういうんじゃなくて」
「なんだってんだ?」
 はてと首と尾を傾けたモナに、は胸元に置いた手をきつく握って絞り出すような声を発した。
「きっと言っても、信じない……!」
 言うなり少女は弾かれたように身を翻して駆け出してしまう。
 膝上丈のスカートが翻って白い腿が紅い光に照らし出される。あまり日に焼けない部位は不気味なほどに紅く染まっていた。
「待て!」
 咄嗟のことだったが、ほとんど反射的に床を蹴って腕を伸ばしたジョーカーがの小さな手を掴み取っていた。
「は、離して……」
「君は一体、なにを隠している?」
 懇願を聞き流して問い詰める。しかしは身をよじってどうにか逃れようと暴れるばかりだ。
 となればもうこのまま無理矢理にでも引きずって外に放り出すべきか。少なからずそれで彼女が行方知れずになっているという事件は解決するのだ。後はこのパレスの持ち主をじっくり探せばいい―――
 思考を遮ったのはけたたましいベルの音だった。
 つんざくような、耳障りで不安を掻き起こす大音響。これは誰もが少なからず聞き覚えのあるものだった。
「火事……!?」
 素早く辺りを見回すクイーンが呟いた通り、鳴り響く音は非常ベルの音に他ならない。しかし見える範囲に火は熾きておらず、また煙や異臭の類も誰にも感じ取ることはできなかった。 
 ならば誤報かとも思うが、しかし、ちょうどのすぐそば、手をジョーカーに掴まれてピンと伸ばされた腕の真上から防火壁が降り始める。
「えっ……」
 通常こういった耐火構造物は事故防止のためゆっくりと降ろされるはずだが、このときこれは制御を失ったかのように自重に任せたスピードで落ちてきていた。
 引き寄せる時間は無かった。かと言って手を掴んだままでいれば彼女の腕は圧し潰されて粉砕されるか千切れることになるだろう。
 ジョーカーは舌打ちとともに腕を振り払い、を壁の向こう側に突き飛ばした。
 巨大な鉄の塊が床に叩きつけられる轟音と衝撃によろめきつつ見れば、少なくともグロテスクな結果にはならずに済んだようで、血や肉はどこにも見当たらない。
 安堵の息をつくことができたのは一瞬だった。
 俊敏な動きで防火壁の扉に飛び付いたクイーンが、ガチャガチャとノブをひねって押したり引いたりを試みるが、扉は一向に開く様子は見せないでいる。
「なっ……なによもう! 開かなかったら緊急時に閉じ込められる人が出ちゃうでしょ! あとで報告出してシャッターに改修させるわよ!?」
「いやどういう脅し文句だよ……どいてろッ!」
 掛け声とともにスカルの重い一撃がドアに叩き込まれる。
 しかし壁は全体がわずかに揺れるばかりで、道を差し出すつもりはない様子だ。
「くっそ、かってぇ……! 手ェ痺れたっ」
「役立たず!」
「ンっだとコラぁ!!」
「うっさい! さん、大丈夫!? 返事して!」
 防火壁をガンガンと叩きながらパンサーが声を張り上げる。返る声はなかった。
 向こう側で気絶でもしているのだろうか? あるいは―――
 最悪の想像が頭を過り、焦りを募らせる。
「こんのっ、邪魔だって……!」
 パンサーの感情の発露に呼応するように彼女の半身が焔を伴って現れる。
 しかしそれは放たれる前に霧散した。
「待て、無駄な体力の消耗は必要ない。あれを見ろ」
 未だ鳴り響き続ける非常ベルの中にあってなお通る低音に促されて振り向けば、フォックスが窓の外―――教室棟と繋がる渡り廊下を指し示している。
「彼女だ」
 それは二人の人物を示した言葉だった。
 並んで遠ざかる二人の少女。一人は当然と言うべきか、であり、もう一人は……
「……あれはここの生徒か?」
 つい先ほどにも窓越しに見た秀尽学園の制服を着用した黒髪の少女だった。
 しかしジョーカーはもちろん、パンサーとスカルも首を横に振る。
「え、わかんね……マジで誰?」
「私も……見た気がするような気がしないような気も……」
「どっちなんだよ……」
 スカルの肩を足蹴にして窓に貼り付いたモナの尾が落胆に垂れ下がる。
 ならばとフォックスは先も見覚えがあるような素振りを見せていたクイーンに目を向けた。
「ううん……どこかで見た覚えがあるけど……」
「では三年か? いや、同じ学年ならもっとはっきりと記憶しているはずだな」
 となれば一年の女子だろうかと少女たちの姿を目で追うが、階段を駆け下りた彼女たちの姿はもう見えなくなってしまっていた。
「むむ……どうするジョーカー、追うか?」
 ぴょんと床の上に降り立ったモナが問う声に、ジョーカーはすぐに首を振った。
「先にこのベルを止めよう。多分これ……現実のほうでも鳴ってるんじゃないか」
「あ」
 真っ先にクイーンが走り出した。
 望んで得た地位ではないが、それでもやはり彼女はこの秀尽学園の生徒会長で、いたずらに騒動を引き起こすことは避けたいのだろう。
 仲間たちは慌てて彼女を追ったがこの騒ぎに湧き出たシャドウたちが道を遮り、ベルを止めることができたのはその十分後のことだった。

……
 舞い戻った現実の世界でもやはり非常ベルが鳴り響いていたらしく、校内は部活や委員会活動、居残り勉、級友とのおしゃべりや時間つぶしのために残っていた生徒たちや教師らが騒然となって右往左往していた。
 ひとまず生徒は部活や委員会を中止の上帰宅させ、教師陣が原因の追求のために機材の調査と消防署への説明、保護者への通達と今後の防止対策への議論―――
 新島はちゃっかりそこに紛れ、モルガナの猫の手も拝借してものの見事に機材の故障を仕立て上げた。
 他の仲間たちは騒ぎに巻き込まれて余計な疑惑を呼んでは不味いと退散済みだ。モルガナも任務を済ませると速やかにその場を脱して合流していたから、校舎には新島だけが残された形となる。
 騒動の鎮静と工作、欺瞞以外にも彼女には目的があった。
 物音を立てないよう慎重に、ゆっくりと開いた扉は生徒会室のものだ。他の執行委員もすべて帰された後の室内は静まり返ってシンとしている。これで遠くかすかに響くセミの音がなければ、新島は逃げ帰っていたかもしれない。
 湧き上がった恐怖を誤魔化すために部屋の明かりをすべて点け、目的の棚に手を伸ばす。
 取り出したのは生徒名簿だ。在校生の他に近年の卒業生のものまであるのは、単に怠慢によるものだった。卒業アルバムが同じ所に保存されているのだから、必要があればそちらを見ればいい。そちらにしたって図書室や職員室に同じものがある、近いうちに処分なり移動なりを検討しなければ―――
 思いつつ、新島は一人黙々と生徒の名と顔を参照し始める。
 彼女には確かにあの黒髪の少女に見覚えがあった。全校生徒の顔など当然記憶していないが、あれは間違いなくこの校内で見た顔だ。
 しかし一年、二年、三年と順繰りにじっくり眺めても、うっすらとした記憶と繋がる人物は現れなかった。
 これはハズレを引いたかとため息をつきつき、名簿を戻しつつ思案する。
 はあのとき『帰らない』と言ったのだ。物理的、精神的、内外問わず、彼女自身の意思でパレスの外へ出ることを拒絶した。
 あるいは彼女は何者かに操られているか、もしくはあれはシャドウで、本物のはパレスのどこかに幽閉なりされているのかもしれない。
 いずれにせよ手がかりは彼女が口を閉ざす部分とあの黒髪の少女のみだ。
 との接触が難しそうな今、黒髪の少女が何者かを突き止めることが最適解かと思ったが……
「どうしたものかしらね」
 ため息とともに漏らした途端、彼女の背後で物音が鳴り響いた。いくらか重量のあるものが床に落ちたような音だ。
「ひゃあっ!?」
 悲鳴を上げて立ち上がると、パイプ椅子が脚にぶつかって派手な音を立てて床に転がり、恐る恐ると振り返った先には一冊の卒業アルバムが床に開いた形で落ちていた。
 なんだ本が落ちただけかと安心したのも束の間だった。
 見上げた棚には隙間もなくぴっちりと同じ規格の書籍が押し込まれていたはずだ。大きな振動を与えたという訳でもないのに、どうしてこの一冊だけが床に転がり落ちたのか―――
 新島は青ざめてごくりとつばを飲んだ。
 あのパレスは新島が経験した金城のパレスとは様々な法則を違えている。最も大きな要因はこの現実世界にも影響を及ぼすというところだろう。
 もしも―――
 内部から外部へあるのと同じように、本来のパレスと同じく外部から内部への影響もあるのだとしたら―――?
 紅く染まった校舎の中を徘徊していたのはいずれも学校にまつわる怪談話が形を得たモノたちだった。あれらが内部に居るということは、即ち外部にも少なからず同じか類似した存在が―――
「……新島さん?」
「きゃああぁっ!?」
 唐突にかけられた声に悲鳴を上げると、いつの間にか背後に立っていた存在もまた驚いて硬直する。
「な、なにっ? どうしたの?」
「へ……あ……か、川上先生……」
 振り返った先、生徒会室の扉を開け放って中を窺っていたのは川上貞代だった。
「あ、ああぁ……びっくりしたあぁ……」
「こっちのセリフ。まだ残ってたの?」
 腰に手を当てた川上は、散らかった床の上を眺めて顔をしかめている。新島は慌てて倒れたままのパイプ椅子を直してやった。
「あっ、すみません……少し雑務処理を。すぐに出ますから」
「なるべく早くお願いね。生徒が全員出たことを確認できなきゃ、私も帰れないの」
 どことなく疲れた声で告げて、川上は踵を返した。
 けれど彼女は部屋を出る直前、一度だけ振り返り、床に落ちた卒業アルバムに視線を落として言った。
「それ、去年の卒業生のよね。早くしまいなさい。あまり見ていて気分のいいものじゃないでしょ」
「え……?」
 新島は言葉の意味を確かめようと立ち上がりかけたが、川上はもう早足で室内を出ていってしまっていた。
 ならばとアルバムに目を落とす。開かれたページには前年の卒業生の内一クラスの集合写真が大きく掲載されていた。中央にクラス担任、左右に男女別れて出席番号順で並んでいる。
 新島の目は写真の左上に一人別枠で掲載された一人の女生徒に止まった。
 驚きの声を上げることもできずに見開かれた彼女の瞳に移る少女の姿、それこそがパレスの中の窓辺に立ち、その後とともに走り去った例の少女だった。これでは在校生名簿をいくら見たところで見つからないはずだ。
 新島はスマートフォンを取り出して少女を枠ごと接写して保存すると、乱暴にアルバムを閉ざして棚に無理矢理押し込んだ。
 そのまま慌ただしく生徒会室を飛び出し、施錠して廊下を小走りに抜ける―――
 昇降口を抜けるまで新島はずっとこの別枠の少女にまつわる記憶を思い起こそうと努めたが、結果は芳しくなかった。
 学年が違うとなればそれも当然のことかもしれないが、中途半端に顔を覚えていることが妙に引っかかった。生徒会等の学校活動で一緒になったのならもっとはっきりと記憶しているはずだし、思い出の一つもあろうもの。そもそも別枠で撮影されているということは、集合写真の撮影日に欠席したのだろうか?
 新島は立ち止まって川上を探そうとも思ったが、暮れつつある夏の日は校舎に不気味な影を落としていた。
 女教師は前年の卒業アルバムを示して『あまり見ていて気分のいいものじゃない』と称した。それこそがこの違和感に繋がる答えだとは解っていたが―――
 新島は立ち止まることなく校門を走り抜けた。