少年たちの目の前では力ないパンサーの身体を抱えたまま、器用に足でスライドドアを開けてみせた。
 鼻をつく独特な消毒液のにおいに満ちたそこは彼女の宣言した通り、保健室だ。その内部もまた廊下と同じように仄明るい赤い光に照らし出されている。白いはずのパーティションや寝台を覆うシーツが薄っすらと紅く染まる様はなんとも不気味な印象を少年たちに与えるが、しかしらしき少女はなんとも思わないのだろう。迷うことなく寝台に足を寄せ、抱えたパンサーを優しく横たわらせてやった。
 悠々とした彼女の様子は事前に調査した情報といささか食い違っている。やはり彼女は本物ではなく、なにかしらの生み出した影なのだろうか……?
 考えたことろで答えは出ない。どうしたものやらと互いを見交わし合う少年たちの前を横切って、は薬品棚を漁り始める―――
「あのー……なにを……?」
 遠慮がちに声をかけるスカルに、は振り返りもせずに「気つけになりそうなものを探してる」と答えた。
 なるほど確かにと思うも、しかしパンサーがただ気絶しているわけではないことを知る少年たちは再びどうしたものかと見交わし合う。
 蘇生となればあの猫型生命体がいてくれなければどうにもならないのだ。となればここはらしき少女にパンサーを預けてモナとクイーンを探しに行くべきか。
 判断に迷う彼らの思考を、甘えた猫の声が遮った。
「ぐるにゃあん、うにゃにゃ……ごろごろ……」
 聞き覚えのある声に、見覚えのある丸っこいシルエットがの足元にまとわりついている。
「うわっ、ちょっと、もう……猫? くん、ちょっと後にして……」
「んにゃあー!」
 はくすぐったそうに軽く彼を脚で押しやったが、猫のような生き物はその脚にこそ縋りついて擦り寄った。
「あはは、やめてってば、うひゃっ」
 ぴったりと少女の脚に貼り付いた猫―――モナは喉を鳴らし、正気を失った様子でのスカートの下に頭を突っ込みもする。
「おい、クソ猫」
「……モスグリーン」
「こらモナ! よそ様のお嬢さんになんてことを!」
 情けない身内の姿にジョーカーは慌てて駆け寄り、首根っこを掴んで彼を引き離した。
「お前今どこ見てなんつった?」
「黙秘権を行使する」
「やかましいわ」
 背後で仲間たちが益体もない囁きを交わし合うことにも目を細めつつ―――ジョーカーの立っていた場所からは確認できなかった―――柔らかな毛皮の塊を抱え上げる。その額を軽く叩いてやると、モナはハッと大きく息を吸って正気を取り戻した。
「ンニャっ!? オマエら! どうしてここに……あれ? クイーンは?」
「こっちの台詞だ。モナ、お前というやつは……」
 ぬいぐるみを抱えるように両腕の中に閉じ込めて顎をぐりぐりと押し付ける。モナは嫌がって手足をバタつかせたが、腹を揉みしだくジョーカーの手がこれを許さなかった。
「モナ……くん? っていう、名前なの? その、猫? は」
 スカートの端を押さえていくつもの疑問符を浮かべるに、モナは再びハッとして大きな瞳を瞬かせる。
「猫じゃないんだが……まあ、そうだな。ワガハイはモルガナってんだ、オマエは……」
「私は、
 応えて名乗り、棚から五百ミリリットルの遮光瓶を手に収めたは再び胡乱げな眼を少年たちに向けた。
「あなたたちは……いや、別に名乗ってくれなくてもいいけど」
 その目が露骨に関わり合いになりたくないと語っているのを見て、ジョーカーは慌ててモナを開放して言ってやる。
「俺たちは君を助けに来たんだ」
 途端、は目を見開いて奇妙な表情を作った。目の前の少年が言うことに驚いているというより、彼の存在そのものに困惑しているかのような―――
 やがて彼女は恐る恐ると彼と、そして彼の背後の二人の内、スカルの様子をまじまじと眺めて、あからさまに後退ってみせた。
「もしかして……雨宮くんと、坂本くん……? そっちは、誰だかわからないけど。じゃあ、さっきの女の子、やっぱり高巻さん?」
 今度はジョーカーたちが驚きと困惑を見せる番だった。
 確かに顔を隠しているはずなのに、こうもあっさりと正体を言い当てられては仮面などなんの意味もないではないか。
 思い悩むジョーカーとスカルを置いて、ただ一人名を呼ばれなかったフォックスが不満げに床を踏み鳴らしてに詰め寄った。
「俺のことを忘れただと……!?」
「え? 私のことを知っているの? 知り合いの誰か?」
「そういうわけではないが。しかし、なんだこの、釈然としない……くっ!」
「いや正体はバレないほうがいいに決まってんだろ、なに落ち込んでんだオマエは……」
 呆れつつ長い尾を一振り、モナはふうむと唸ってを見上げ、問いかける。
「パンサー……アン殿にも会ったのか? 彼女はどこに?」
「あそこ」
 答えたのはジョーカーだった。彼の指し示す先には、寝台の上で未だぐったりとして動かないパンサーの姿がある。
「ぱぱ、パンサー! なにがあったんだ!? オマエらが付いていながら、どうして彼女が倒れてるんだ!」
 難詰する声にが戸惑ったようにモナとジョーカーを交互に見やっている。
 その瞳は『噂の転校生が摩訶不思議な生命体と親しげな様子を見せて、珍妙な格好に仮面をつけて妙なことをしている』と語っていた。
 どちらから先に答えたものかと逡巡する間に猫のほうはジョーカーの足元をすり抜けて素早くベッドに駆け寄り、飛び上がってパンサーの肩に縋り付いている。
「しっかりしろパンサー。ワガハイがすぐに助けるからな……!」
 彼がこう言う以上、あちらは任せても問題無いだろう―――
 ジョーカーは息をついてに向き直った。
「ええと……うん、助けに、来たつもりなんだけど……ご覧のあり様で」
「お前のやらかしのせいだけどな」
 鋭いスカルの指摘に、ジョーカーはチッと舌を鳴らして彼を肘で突っついて黙らせる。
 ―――なにしろ、分からないことが多すぎるのだ。
 ジョーカーたちからすれば、そもそも目の前にいるこのが本物かシャドウかの判別もつかないし、本物なのだとしたらどうしてここに至ったのか、シャドウなのだとしたら本物のはどこにいるのか、いずれにせよ彼女が行方をくらましたことに自分たち―――ペルソナ使いの存在が関わっているのか。
 にしても目の前のいくらか知るところのある人物たちが奇妙な格好をしていることについて大いに言及したいところだろう。
「とりあえず……あー、どうするよ? なんで分かって……いや、その前にさん、なんでこんな所に……いやいや、そもそもどうしてモナだけアンタと一緒に居んのか……あーっ! もーっ!」
 喚いてガシガシと頭をかきむしるスカルに苦笑しつつもこれを脇にどかして、ジョーカーはに向かって一歩前に踏み出した。
 縮まった距離に彼女は特別怯えることもなく、ごく普通の様子で彼を見上げている。
 少年の目に窓から差し込む紅い光に照らされた彼女はまるで血でも浴びているかのように映る。それなら己はどのように映るのだろうかとも彼は思った。
 少なくともこのときは怯えず、真っ直ぐに彼を見つめ返した。
さん」
 名前を呼ぶと、彼女は小さく首を傾げた。
「君に一体なにがあったんだ?」
 反応は素っ気なかった。は困ったような顔で腕を組み、つま先で紅い光を反射する床を叩いている。
「そう言われても……私にもなにがなんだか、雨宮くんたちのことも含めてまったくわけが解らないんだけど……」
 渋る彼女の様子が物語るように、口述できることは多くなかった。
 前日の昼休みの終わり頃、聴取通り体育館に向かっていたは角を曲がった瞬間静電気が火花を散らすような音を聞いたのだという。
 驚いて転びそうになりながらもどうにか顔を上げたときにはもうすでにこの紅い光の降り注ぐ世界に立っており、どこの部屋も無人で、なんの気配も音も香りもしなくなっていたのだと。
 引き換えのようにあちこちに現れた怪異とでも呼ぶべき存在から逃れるうち、校内で唯一ここ―――保健室が安全だと気が付いて、それからずっとここにいるらしい。
「だから、なにがあったのかと言われても……」
 ううんと頭を捻る少女に、ジョーカーもまたふむと唸って己の顎をさする。
 にわかに膠着し始めた状況に一石を投じたのはフォックスだった。
「普通に話ができるじゃないか」
 それはずっとまとわり続けていたに関しての違和感を示す言葉である。事前に調べていた彼女の人となりと、今目の前にいる彼女の様子はどうしてか食い違っているのだ。噂通りの『ビビり癖』があれば、この状況にもう少しおびえた様子を見せるのではないか―――
 しかし彼女は言葉の意味を掴みかねているのだろう。不思議そうな顔をして狐面を見つめている。
 フォックスは少しの間だけ彼女を押し黙って睨みつけていたがやがていかにも不服そうに、
「本当に俺のことは知らないのか? 少し前……人の顔を見るなり突然、化物でも見たような悲鳴をあげて逃げていっただろう」
 これにはしばしの間を置いて沈黙した。
 やがて息を呑むと、ぶ然とした様子の彼に指を突き付けて素っ頓狂な声をあげる。
「あっ! 渋谷駅のヤバいひと!?」
「な―――ッ、なんだ、それは!?」
 フォックスもまた裏返った声で返す。するとこの二人の声量の大きさにだろう、の背後で身じろぐ気配がして、蘇生に成功したらしいパンサーが起き上がった。
「ああ、もおサイアク……頭イッタぁ……」
「パンサー、無理はするな」
「ん、ありがとモナ……」
 ぶるぶると頭を振って、すっかり乱れてしまった金の髪を手櫛で整えつつ身を起こす。
 もまた心配そうな様子で彼女に歩み寄った。
「高巻さん? 大丈夫……?」
「あ! さん!」
 パンサーは目を見開いて慌てた様子で寝台から脚を下ろした。彼女からしてみれば昏倒して目が覚めたら探していた人物がちょうど目の前にいるのだから、その驚きもひとしおだった。
 しかしそれ以上に、パンサーは彼女の無事を喜んで飛び上がってみせる。
「よかったぁ、無事だったんだ! どっか怪我とか、してない?」
「え、あ、う―――うん。ええ? そ、そういう、ピチピチの服が流行ってるの? あのヤバいひとみたいな」
「待て、訂正を要求する。というか、俺はピチピチじゃない」
「静かにしてろ。お前がいると話が進まねえよ」
 スカルによって抑えられたフォックスはともかくとして、加速度的に与えられる情報に脳の処理が追い付かないのか、いよいよもってばかげたことを言いだしたにジョーカーは咄嗟に己の口を両手でもって封じ込めた。そうしていないと、こみ上げた笑いによってさらなる混乱をこの場に呼び寄せそうだと思ったのだ。
「うっ、くく……っ、さん―――そういうわけじゃなくて―――俺たちは―――」
 それでも堪え切れなかった笑いが言葉の間に漏れ出てしまう。
 とにかく今は情報のすり合わせが必要だと、彼は必死になって己たちの身上をかいつまんで明かしてやった。
 怪盗団だとか、心の中の世界だとか……こんな状況に陥っていなければ気が狂ったとしか思えない話だが、はこれらを否定しなかった。パンサーに手を貸してやりながら納得する様子さえみせている。
「つまりここは、普通ならあり得ないことが起きる世界で、私はなんでか分からないけどそこに入ってしまって、皆は助けるためにわざわざ来てくれたんだね」
 どうもお世話さまです。ありがとうございます。
 深々と頭を下げるに、怪盗団はまたなんとも言えない顔をしてみせる。
「本当になんか、普通だね。いや、こんな状況で普通にしてられるってのも逆に変かもだけど」
 独り言じみたパンサーの言葉に、頭を上げたはなんのことかと首を傾げている。
「んだな、もっと怖がられるかと思ってたけど……ペルソナ使いに反応していたわけじゃねえってことか?」
「そうでないのならますます納得がいかんぞ。なぜ俺たちは悲鳴をあげられたり怯えられたりしていたんだ」
 まだ不服そうに顔をしかめるフォックスに、は申し訳なさそうに俯いてみせた。
「それは―――」
 なにかを言おうと口を開くが、しかし言い淀んで唇を引き結ぶ。 それはここにきて初めて彼女が見せた消極的な反応だった。
 指先を合わせて忙しなく動かし、足元も落ち着きなく床を叩いている。彼女は明らかになにかを隠したがっている様子だった。
 彼女を見つめる視線のうちの一つ、ジョーカーはそのわけを問うべきではないと考えた。誰にだって人に知られたくない秘密の一つや二つはあるだろう。怪盗活動しかり、過去の罪しかり……
 一方であの怯えた表情のわけを知れるのなら知りたいとも思う。それに彼女の目に映るものの中にこの事態に関わるなにかがあるかもしれない。
 決心して口を開くのと、の口から昏い呟きが漏れ聞こえるのは同時だった。
「言ってもどうせ、信じてくれない……」
「え……」
 幽かな囁き声を聞き取ったのは鋭い五感を有するジョーカーのみだったのだろう、他の者たちは皆不思議そうな、あるいは解せないと言いたげな顔をして彼女を見つめている。
 ならば問いかけるべきは己だろうと、ジョーカーは問いを口にする。
「どういう意味?」
「ん? なにが?」
 顔を上げたの表情に先の声のような陰りは見当たらなかった。まったく平らかな様子を見せている。
 では先ほど聞こえた呟き声は幻聴かとも思うが、しかしジョーカーは確信していた。今己が聞き取った声は間違いなく彼女の『本音』に違いない、と。
 それを暴いて盗み出すことが今回のシゴトだろうか? 腕を組んで思案する彼に、は戸惑ったように語りかけた。
「ねえ雨宮くん、君は本当に……」
 しかしこれはすべてを述べる前に轟音と衝撃によって遮られる。
 この室内どころか校舎全体を揺るがすような微細な振動と爆発音に、窓やガラス棚、スライドドアがビリビリと震えて不快な音を立てている。
 何事かと瞠目する少年たちに、パンサーが戸惑った様子で問いかけた。
「ねえ……さっきから気になってたんだけど、クイーンどこ?」
「あ―――」
 顔を見合わせて、ジョーカーとスカル、そしてフォックスは音がしたらしき方向へ目を向ける―――そこには紅く照らし出された天井があるばかりだが、しかし原因が見えた気になって各々渋い顔をしてみせた。
「クイーンって? 女王様? あ、だからそういうピチピチの服……えっ? 助けにって、そ、そういう? うわあ……」
「待て待て待て、違うから。クイーンってのはただのコードネームで……おいモナ! お前クイーンにくっついてったんじゃないのかよ!」
「途中でペルソナ出して走っていっちまったんだよ! そんで振り落とされて、彼女に……」
 モナの小さな手がを指し示した。猛スピードで走り去ったクイーンに置き去りにされたモナを彼女が拾ってここで保護していたということなのだろう。
 なるほどと唸る怪盗たちに対し、でぽんと手を打って同じく納得する様子を見せている。
「ああー、あのバイクで爆走していたのがクイーン。校舎内をバイクでってなると、女王と言うよりチェッカーズ、いや、尾崎……この支配からの、卒業……?」
「校舎のガラスは割っていないだろう、まだ」
「いやこっからも割らないから……たぶん……」
 フォックスへ自信のなさそうな寸言を投げたのはパンサーだ。彼女はまた困り顔で一同を見回して言う。
「さっきの爆発、クイーンかもでしょ? なにがあったのか分かんないけど……助けに行かなきゃ」
 反論はない。当然彼らとしても恐慌状態に陥って逃げ出してしまったクイーンの汲み上げは最優先すべき問題だ。しかしをここに一人置いていくわけにもいかない―――
 どうしたものかと互いを見やった末、ジョーカーはガシガシと乱暴に己の後頭部をかきながら彼女へまた一歩近づいた。
「悪いが一緒に来てもらえるか」
「え、でも―――」
 ここには得体の知れない怪物のようなものがうろついているのだと戸惑いがちに訴える彼女に、ジョーカーは力強く宣言する。
「なにも心配しなくていい。約束する。君は俺が守る」
 はこのいかにも気障ったらしい台詞に顔をしかめてみせた。瞳はまた、驚きや期待のようなものに揺れている。
 仕方のないことかもしれないと握ったの柔らかな手の感触を確かめながらジョーカーは思う。彼の言葉は確かに『得体の知れない怪物のようなもの』の存在を肯定しているのだから、奇妙なことと受け止められるのもやむなしというものだろう。
 それでも彼はの瞳をじっと見つめて望み通りの答えが返されるのを待った。
 こんなに恐ろしいものはないと彼は思う。信じてくれと訴えて、その返答を待つ間ほど。
 ―――雨宮蓮はその仮面の下で深く頷いて、己自身に納得してみせた。そうか、そういうことか、と。
 あんなふうに「ギャッ」と鳴かれて落ち込んだのは、結局これが原因なんだ。自分は間違ってなんかいないはずなのに、どうしてか周りの人たちは皆、口を揃えてお前が悪いと言ってくる。信用してくれと訴えても、訴えても……
 真実を口にしているのに信用を得られぬこと以上の苦痛があるだろうか。
 果たしては彼の望みを叶えてみせた。
「分かった。いや全然分かってないんだけど……とにかく、雨宮くんを信じるよ」
 ジョーカーは誰にも悟られまいと小さく息をついた。
 そして彼は目の前のという少女が本物であろうと、何者かが作り出した影であろうと庇護すべきであると心に定めた。

 保健室を出た一行はを伴ってまっすぐ階段に向かう。その間にも小規模な爆発音が断続的に続き、校舎全体をビリビリと揺るがした。
「ヤバくない? え? これヤバくなかったらなにがヤバいの?」
 狼狽しながら進むパンサーの言にが戸惑ったように応じる。
「クイーンって人はどういう人なの? ユナボマーなの? それとも一撃で岩も砕くような巨漢なの……?」
「いや、彼女は―――」
 ジョーカーの脚が二階の床を踏んだ瞬間、そばの壁につい先も見たおかっぱの少女と同じ形をしたシャドウが叩きつけられた。
 それは小さな悲鳴を上げて形を失い、ぐずぐずに溶けて霧散する。
 階段正面からまっすぐに伸びた廊下の奥。実習棟に続く渡り廊下の前に彼女は居た。その足元には腰から下の無いシャドウが倒れ伏し、ピクピクと痙攣している。
「……あれがクイーン」
 ジョーカーは小さな声で教えてやった。彼の脇から薄闇の中に佇む少女の姿を目撃したは、この上ない驚きに目を見開いた。
「せ、生徒会長……?」
「やっぱ分かるん?」
 こちらも何故か声を潜めたスカルが。これに小さく首を縦に振ったの表情は青ざめていた。
 当然のことかもしれない。品行方正な生徒会長殿が屍山血河を築いて仁王立ちしているのだ。誰だってその差異には茫然とするものだろう。
 しかし危惧していた危機的状況でないことは喜ばしい。ひっそりと安堵の息をついたジョーカーは、足音も少なに一歩を踏み出した。
 よかった。大丈夫か。怪我はないか。平気か。
 いずれかを口にしようとした彼にクイーンは―――
「や……やった! 殴れる! 殴れるんだっ! あははっ、じゃあ大丈夫よね!? うん、そう、いけるわ!」
 ちょっと平気そうではなかった。
 彼女の背後、天井からずるりと水が滴るように黒髪が垂れ落ちる。誰かがクイーンに警句を投げかけようとしたが、それよりも早く彼女は振り返って地を蹴り、壁に足をかけて飛び上がるときれいに空中で後方に一回転した。捻りの加えられた踵が現れ始めたシャドウの顔面に叩き込まれ、それは全体を現すこともなく霧散した。
「ガイルかよ」
「初代タイガーマスクかもしれない」
 益体もないことを言い合うジョーカーとスカルの声に、姿勢を整えたクイーンが振り返る。
「あら、あなたたち」
 いたの? と気楽そうに言って拳や脚の調子を確かめるように振る彼女はまったく普段通りだ。
 それはそれで、あれだけの恐慌状態を見せつけておきながらという思いが込み上がってくるが、少年たちは辛うじて沈黙を守り通した。
「手間をかけたみたいね、ごめんなさい」
 鉄仮面の下で爽やかな笑顔を浮かべる彼女に歩み寄って、やっと怪盗団は合流を果たした。
「そもそもの原因はジョーカーがバカなこと言い出したからなんだから、クイーンが謝る必要なんてないんだけどね」
「それもそうか。でもいいわ。一つ弱点を克服できたのだし……ふふっ」
 パンサーからはじっとりと湿った恨みがましげな視線を、クイーンからはどこか生温い怨みの籠もった目を向けられて、ジョーカーは後退っての背に隠れた。
「うわっ」
 前に押し出された彼女にクイーンは目を丸くする。
さん? 無事だったのね、良かった。どこも怪我や、具合が悪いようなことはない?」
「はっ、はいっ」
 わずかに顔を寄せて囁かれた言葉にはどうしてか背筋を伸ばして気をつけをして、裏返った声で応えた。
「あ、あの、生徒会長、ですよね……?」
 クイーンはかすかに眉を寄せてジョーカーを一瞥する。そこに込められた意図を汲んで小さく肩を竦めて肯定してやると、クイーンはふむと唸っての様子を観察し始めた。
 屋外から降り注ぐ紅い光に照らし出された少女はつい先日廊下で聞き取りを行った姿からこれといった変化はみられない。少しだけやつれているような気もするが、それは丸一日をこの空間で過ごしたためだろう。
 そしてクイーンは想察する。彼女が一目でこちらの正体を言い当てたのも、彼女が「ギャッ」と鳴くことに関連がありそうだ、と。そしてその関連こそがこの空間や彼女がここへ迷い込んだ要因なのではないか。
 けれどこうしてが見つかった以上、そこまで思案に暮れる必要もない。
 クイーンは今度こそ力を抜いて、に向かって笑いかけた。
「私の正体云々は後で話しましょう。今はここを出るのが先よ」
 応とこたえて一歩を踏み出す。この空間の謎こそ解けてはいないが、目的はの救出だ。長居をする理由はなかった。
 しかし再び階段に足をかけた少年たちの背後、殿を務めていたフォックスが待ったをかける。
「すまんがその前に―――」
 怪盗たちとは振り返って彼を仰ぎ見た。
「取ってもらえるか。これを」
 階段の手すり壁、その天端に手を置いた彼は青い顔をして皆を見下ろしている。奇妙なのは、彼の両手は確かに皆の視界の内に収まっているはずなのに、もう一つの白い手が彼の肩をはっしと掴んでその動きを止めていることだ。
 ぎょっとして見開かれた一同の目にもう一本の腕が現れて映る。それは少年のむき出しの首を無遠慮に、形を確かめるようにベタベタと触り始めた。
 目に見えて粟立つ彼の様子に反射的にパンサーが鞭を振り上げる。
 鋭く伸ばされたトングは見事に白い腕と手を―――フォックスの顔ごと―――払いのけた。
「あーやっぱり、そういう……?」
 緊張感のないの、どこか納得したような声が響いた。
 これにフォックスは文句の一つも言いたげな様子を見せたが、しかし更なる腕が己の背後に迫るのを視界の外に感じ取って口を引き結び、床を蹴る。
 飛び跳ねた彼に合わせるようにして、少年たちもまた一段二段を飛ばして階段を駆け下りた。
 体勢を整えて振り返ると階段の踊り場には無数の腕と、それに繋がる蒼白な顔をした老婆が蹲っているではないか。
「なんだありゃ」
 抜き放った曲刀を肩に担いだモナが顔をしかめて誰にともなく漏らした。
 ジョーカーは手の中でナイフを転がしながらうーんと唸る。
「四時ババアっていたよなー……」
「それトイレから出てくるやつじゃね?」
「俺のところだと踊り場の鏡だったんだよ」
「鏡なんてなくない? そもそも四時じゃないし」
 四時婆というのは放課後、四時四十四分に階段の踊り場等に設置された鏡を覗き込むことによって現れるとされる怪異の一つだ。類型として三時婆、四次元婆などが確認されており、また出現場所も階段に限らずトイレや人気のない廊下、黒板や竹藪と多岐に渡る。その外見においても婆と名付けられている割に腕のみ、眼のみという場合もあれば、ボロボロの着物を身にまとった鎌を持った老女、あるいは人骨を乗せた乳母車を押していると一貫性は低い。
 共通している点としては、出会えば死ぬという理不尽な点だけだろう。実際に老婆の腕に触れられたフォックスなどは着地した格好のまま大きく体を震わせている。
「……スカル、さんとフォックスを頼む」
 あいよと気安く応える暇こそあれ、老婆は怪鳥音に似た奇声を上げて無数の腕を繰って階段を駆け下り始めた。
「スパイダー・ウォークみたい」
 どことなくはしゃいだような声とともに、ジョーカーは己の仮面に手を添える―――
 現れたのは赤い肌に耳まで裂けた口から鋭い牙が覗く巨漢である。その丸太のように太い腕には刃の付いた金砕棒を抱えていた。
「いけ!」
 号令に応えて太い腕が振り回される。
 重く鋭い一閃が疾走り、迫る老婆の腕の幾つかを切り払った。
 老婆はしかし黒板を爪で引っかいたような不快な高音でうそぶき、なお止まらず真っ直ぐにジョーカーへ残りの腕を伸ばし、突進する。
 真正面から見た老婆のシワだらけの顔には、画像加工ソフトで『盛った』かのように大きすぎる目がついていた。
 それは少年の身を射竦め、凍りつかせる。
 彼はうっと呻いて後退ったが、それより早く老婆が飛びかかった。
 俊敏なその動きには誰も反応することが出来なかった。辛うじてクイーンが腕を伸ばしたが、老婆の黄色く変色した鋭い歯が少年の肩口に食い込むほうが先んじた。
 ブツリと厚みのある生地と皮膚がもろともに食い破られる音がジョーカーの耳に響く。
「ぐ……くっ!」
 焼けるような痛みに身悶えつつ手にしたダガーを老婆の肩に突き刺すが、獣のように食らいついた異形はうめき声を上げこそすれ、決して離れない。
 そうしている間にもますます歯は深く食い込み、骨にまで達して止まる。
 こうなると無理に吹き飛ばせば肉ごと持っていかれてしまうだろう。それは御免こうむりたい。冷や汗を流しながら、少年は打開策を求めて視線をさまよわせた。
 拳を振り上げたクイーンと、背後に己の心の写し身を従えたパンサー。サーベルを構えたモナの小さな身体に、フォックスの首根っこを掴んで後ろに放り投げているスカル―――
 はどこだ?
 ジョーカーは守るべき対象から一時とはいえ目を離したことを後悔するが、幸いなことに長続きしなかった。
 鈍い金属音が鳴り響いて、食らいついた老婆が大きく口を開いて数センチ浮き上がった。
 クイーンの鉄拳が下方から振り上げられたのかと思いきや、彼女は腕一本の距離でポカンとしているではないか。
「雨宮くん、だいじょうぶ!?」
 心配そうな、焦りの滲んだ声に我に返ったクイーンが素早く蹴りを老婆に叩き込み、彼女を階段に押し返した。
 異形が離れたことでひらけた視界に映ったのは、消化器を抱えただった。
 どうやら彼女は廊下に備え付けられていた消化器を取り上げ、十キロ近いそれを下から老婆の腹めがけて振り上げたようだ。
「やるじゃねーか!」
 歓声を上げながら、モナが悶絶する老婆の懐に入り込む―――
 四足を器用に繰って斬りつけ、直ちにアウトレンジへ退くと、入れ替わりにパンサーの炎が叩き込まれた。
「ぁぎイイィィィっ!!」
 炎は髪や衣服に燃え移り、枯れ枝のようなその身をまたたく間に覆い尽くす。
 ジョーカーは震える腕を叩いて拳銃を構え、寸分の狂いもなくその頭部を撃ち抜いた。
 絶叫が響いて、シャドウは燃えながら崩れ落ちる。後には一つとして残るものはなかった。
 ―――今日は厄日というやつなのかもしれない。
 ボヤきつつ、ジョーカーは肩を抑えてため息をついた。調子に乗った言動をすると強烈なしっぺ返しがくる日のようだ、と。
「大丈夫? 痛むの?」
 気遣わしげなの声に顔を上げると、まだ消化器を手にしたままの彼女の姿が目に映る。
「いや……大したことない。それより、ありがとう」
「どういたしまして」
 は笑顔を見せてやっと消化器をその場に置いた。
「今ので終わりみたいだな」
 相変わらずフォックスを引きずったままのスカルが辺りを警戒しながら漏らした声に、一同は安堵して武器を下ろす。
 ジョーカーのもとにはモナとパンサーが駆け寄って、傷を塞ごうと半身を呼び起こす―――
「あ……」
 その光景に呆然とした声を上げたのはだ。
 彼女は驚いた様子でモナとパンサーの背後、そこに立つ二人のペルソナを見つめている。
「あ、大丈夫だからね? これがさっき話したペルソナってやつで……別に悪さとかするわけじゃないから」
 慌てた様子で手を振るパンサーに、は戸惑いつつ応える。
「違うの。そうじゃなくて……雨宮くんが出したのもそうだけど……」
「だけど?」
 クイーンが反応すると、は気まずそうに頭をかいた。彼女としても思わずの発言だったのだろう。
「だからつまり……雨宮くんに、坂本くんに、高巻さんに、生徒会長と……それから、駅にいたヤバい人」
「おい」
 未だ床に膝をついたままのフォックスが不満げな意を示すが、彼はその身の内から湧き上がる震えとに続きを促す仲間たちによって黙殺された。
 彼らを見つめるの瞳には確信がある。それは仮面の下に隠された素顔を確かに見抜き、先に彼らの正体を言い当てた言葉は嘘偽りや当て推量、憶測の類ではないのだと教えている。
 しかし彼女は沈黙した。固く口を引き結び、拳を握って小さく打ち震えて話したくないのだと無言のうちに主張していた。
 やがて足元を睨みつけていた視線が上がり、ジョーカー……雨宮蓮に向けられる。その瞳に宿る昏い感情に、彼は少しだけ身を引いた。
「あ……謝らなきゃとずっと思ってて……」
「え?」
「この間、大きな声を出しちゃって。狐の人もごめんなさい……」
 フォックスのそばで彼の震えを治めてやっていたモナがゆらゆらと尻尾を振るのを見て、は苦笑しながら、
「モルガナくんもごめんね」と頭を下げた。
「坂本くんと高巻さんも、生徒会長も、妙な態度を見せてしまってすいませんでした。こうして助けに来てくれたのに……」
 申し訳なさそうに揺れる瞳に、スカルは慌てて手を振った。
「や、別に。俺は割とアレがデフォだし」
「スカルはそうかもね〜?」
 意地悪く笑って投げかけられたパンサーの言葉に、スカルはすぐさま低い声で切り返した。
「オメーだって似たようなもんだろ! 浮いてんだよ校内であからさまに」
「そ―――っんなことないもん! アンタこそリーダー以外に友達いないんじゃない!?」
「ちょっと二人とも……」
 言い合いの気配を察知したクイーンが呆れた様子で間に入るが、の発見にクイーンの確保、今またシャドウを打ち倒したことですっかり気の緩んだ二人はなかなか止まらなかった。
「どいてクイーン! 今日こそスカルのケツを引っ叩いてやるんだから!」
「おーやってみろや! かすりもしねーだろうけどな!」
 二人とは離れたところでやっと復調したらしいフォックスがモナの肉球の感触を執拗に確かめて再び手傷を負い、ジョーカーはジョーカーでどちらかに味方するでも止めるでもなく眺めては目を細めている。
 その光景には堪え切れないと笑い声を漏らした。
「ふっ、ふふふ……っ」
 決して大きな声ではなかったが、しかし少年たちは顔を見合わせて静止する。
「ごっ、ごめん……だって、怪盗団って、プロの集まりだって聞いてたから……んふふ、やっぱり噂なんてアテにならないね」
 これに気勢を削がれて、スカルは口を閉ざし、パンサーは鞭を下ろした。ほっとクイーンが安堵の息をついて、フォックスがモナに引っ掻かれた手をふりふり立ち上がる。
 ジョーカーは一瞬で場を鎮圧せしめた彼女の笑みに釣られて笑いつつ、ちらと彼女の様子を観察する。明らかに誤魔化されたとは勘付きつつも、そこに相変わらず『ビビリ癖』らしきものが見当たらないことに安堵する。彼女は平然としているどころか朗らかな笑顔さえ見せているではないか。
 これこそが彼女の言う『噂などアテにならない』ということだろうか?
 箸にも棒にも掛からぬ思考を脇において、ジョーカーは手を振って仲間たちに後に続くよう促して歩き出した。の様子―――あの暗い感情を湛えた瞳を思い返して、今すぐ無理に問い詰めるべきではないだろうとの判断だった。
 フォックス以外にとっては色彩を除いて見慣れた場所だ。出口を目指して進む歩みに迷いはなかった。
「にしても、さんはよく無事だったよねー……って思ってたけど、さっきの様子なら納得かな」
「そ、そうかな。結構あちこち走り回ったりもしたんだけど……」
「いやあれは消火器ってところがミソだろ。基本消火器ってこういう状況だと最強に近いアイテムじゃね?」
「そういうもん?」
「ほらアレ、認知ってやつ」
 あー、と気の抜けた声がモナの猫口から漏れる。
「なるほど? スカルのように考える人間が一定数以上いるということか。確かにそれならあの威力もわからないでもないな」
「多数の人間がそうと思うから、か……であれば、ここはやはりパレスで間違いないのだな」
「そういえばそうね。結局主はさんだったのかしら……?」
 とにかくまずはここを出て、あれこれをから聞き出さねばならないな。
 仲間たちの声を背に聞き取りながら、ジョーカーは改めて傍らを歩く少女に目を向けた。
 彼女がなんの不安もなさそうな様子を見せているのは、自分たちがそばにいるからだろうか。少しはそう自惚れたい気持ちが彼にはあった。
 教室棟の一階を進み、角を曲がった先に購買と昇降口が見えるところまで来たとき、ふとは立ち止まった。彼女の右手側には、先ほど一同が駆け下りたのとは別の階段が二階に向かって伸びている。
 ジョーカーもまた立ち止まった。
 それは前触れなく立ち止まったを慮ったというより、奇妙な音を耳にしたからだ。
 ―――びたっ、びたっ
 濡れて重量のあるものが一定のリズムで床や壁を叩いているような音だった。
「実は一つ言ってなかったことがあって」
 が言う。
「ほ、本当は、ここに迷い込んだ理由に、一つだけ、心当たりがあって」
 慎重に、一言一言を明瞭にしようと区切りながらの言葉は、しかし確かに震えていた。
 音はまだ続いている。
 振り返ろうとしたジョーカーの腕を、は痛いくらいに強く握りしめて引いた。
「でも、説明する時間が、ないみたい」
 ―――びたっ、びたっ、びたっ、びたっ……
 音はすでにジョーカー以外の者の耳にも聞こえていた。
 それは彼らの来た道、背後から、間違いなく迫っていきている。急ぐわけでもなく、ゆっくりと、一定のリズムで。
 びたっ、びたっ、びたっ……
 このときの殿はスカルが務めていた。
 彼は振り返りたい衝動と、恐怖に耐えかねて悲鳴を上げそうになる心と戦っていた。
 なにしろ音はもうすぐ間近に迫っていて、彼の首筋には生ぬるい湿った……吐息のようなものが吹きかけられていたのだ。
「走って! 振り返らないで!」
 の号令に、少年たちは弾かれたように走り出した。
 身軽さや脚の長さの関係でモナとフォックスが前に出て、それぞれパンサーの腕を引いたり背中を押したりしてやっている。その背後にスカルが着く。彼の手はパンサーの尻から伸びる尾のようなものを掴んでいた。
 その一団をひらりと避けて、先頭にクイーンが躍り出る。彼女は己のペルソナ―――バイクの形を取るヨハンナに搭乗していた。
「あっ! ずっりぃ!!」
「んなことよりスカル! 尻尾掴まないでよッ!」
 喚く彼らを一瞥もせず、クイーンは真っ直ぐに前方を見据えた。
 ジョーカーもまた一人だけ先んじて逃げるつもりかと声を張り上げそうになるが、しかし―――
「邪魔よッ! どきな……さい!」
 轟音とともに道を阻まんと現れたシャドウの尽くが弾き飛ばされ、元の影に押し込まれる。
 どうやらつゆ払いを務めてくれると知って、またその苛烈さを目の当たりにして、誰一人として文句などつけようがなかった。
 ジョーカーはいくらか遅れ気味のの手を取って、引きずりながら先を急いだ。
さん、あの音は……」
「振り返らないでってば!」
 もつれる脚を懸命に動かしながら返されて、ジョーカーは口を引き結んだ。
 びたっ! びたっ! びたっ! びたっ!
 音は相変わらず変わらぬ間隔で鳴り響いているというのに、ぴったりと背後に着いて離れず、そのくせ強さを増している。
「みんな、急いで!」
 ハングオフで直角のカーブを曲がってみせたクイーンが言い捨てて消える。直後にガラスが割れるような音が響いたから、恐らく彼女はバイクごと昇降口のガラス戸を通過したのだろう。
「また派手に割ったな……」
「クイーンが卒業しちまう」
「尾崎の話はいーから!」
「アン殿、誰だソイツは!?」
 ひと塊になって駆け抜けると、想像どおり玄関扉は粉砕されて彼らに道を差し出している。
 校門前ではクイーンがまた別のシャドウをその拳によって叩き潰しているところだった。
「早く! ここから出さえすればアレがなんであれ、外には存在できないはずよ!」
 半ば叫ぶような声に促されて、少年たちは門を潜る。水鏡の下に落ちたかのように姿を消した彼らにクイーンが続き、ジョーカーもまたを伴ってそこを通り抜けようとする。
「外には……存在できない……?」
 直前、幽かな呟きが彼の耳朶をくすぐった。
 勢いを殺すこともできず、かといって振り返ることもできず、ただ彼は己の手からの手がすり抜ける感覚に目を見開いた。
 転がるように認知世界と現実世界の境目を潜った彼はまた、再び静電気が走る感覚に苛まれる。
 硬いアスファルトの上にたたらを踏みながら戻ったその腕や頬を生ぬるい初夏の風が出迎えた。
 仮面と入れ替わった伊達眼鏡の下の瞳は、猫の姿に戻ったモルガナと、高巻の下敷きになって呻く喜多川と、涼しい顔で高巻に手を差し出してやっている新島に、どうしてか驚愕の表情を浮かべて雨宮を―――彼の隣や背後を見つめる坂本の姿を捉えている。
「おい、蓮……」
「えっ?」
さんどこだよ」
 飾り気も何もない問いかけに、雨宮は背後を振り返った。
 夕焼けに包まれつつある初夏の学園前に、の姿はどこにも見当たらなかった。