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お父さんだけじゃない、みんなあの子を褒めるのね。あんなどこの馬の骨ともしれない子を。
それなら、もっと人の眼を惹きつけるものを作るわ。苛烈で、おぞましく、誰もが恐れるようなものを。
恐怖とそれに伴う興奮を呼び覚ます感覚に、人は誰も逆らえない。
そうでなければ、たった数分の刺激を得るために何時間もジェットコースターの行列に並んだりはしないでしょう?
そして行列はまた人を呼ぶ。あれだけ並んでいるんだから、きっとなにかあるはずだ、と。その結果がどんなものかは関係ない。人は自分が損しただなんて積極的には思いたくはないものよ。
だから必要なのはただ恐怖と、話題性だけ。
ほらね、お父さん。みんなも。
あの子より私のほうが、すごいでしょう?
……
薄暗く狭い通路で、積まれた資材越しにと対峙した喜多川はいかにも気まずそうに歯を噛んだ。
せめてあと数分、数十秒早く来てくれれば、あるいは仲間たちがもう少しここに留まってくれていれば、一対一にならずに済んだものを、と。
それを見抜いたのか否か、は形のよい眉をぎゅっと寄せて低い声で語りかける。
「どうしてここにいるの」
無視するわけにはいかなかった。彼女の全身には警戒が漲り、手の中にはスマートフォンが握られていて、その気になればいつでも通報なりができそうだったからだ。
「他の連中が君のことを心配して、見舞いに行きたいと言い出したんだ」
だからここへ案内した。
表向きの用件を並び立てると、の顔に今度は不審がるような色が宿る。
「他の連中? もしかして、昨日の……あなたのお仲間さん?」
「そうだ。君が不在とは知らず、アトリエに入っていった」
顎をしゃくって扉を示してやると、の目もまたそちらへ向かう。
しかし彼女はその場に留まった。
「お父さんがここへ入れたのね、まったく……それで、本当の用件はなに? 絵の一枚でも盗みにいらっしゃったの、怪盗さん」
肌がひりつくような敵愾心に、喜多川はうんざりしながら立ち上がって首を左右に振った。
彼女にこういった目を向けられることにももはや慣れていたつもりだが、改めて態度として、言葉として示されると心に刺さるものがある。なんだってこんなに嫌われているんだろう、と。
「そんなつもりはない。そもそも、現実の世界で盗みはしない。多分。とにかく今日は、君と話をしに来たんだ」
「話を?」
喜多川は再び扉を示した。向こうで彼女を待っているだろう連中のほうが口は達者だし、警戒心を解く術を心得ている。こうなっては己も彼女とともに合流を果たしたほうが説得は易いだろう。
思い、ゆっくりとそちらへ向かおうとする彼の前に、少女は立ちはだかった。
「入らないで」
「皆はその奥に居る」
「あなたは、だめ」
ムッとして、思わずと顔をしかめた喜多川に、は眉を釣り上げて冷ややかな声を浴びせかけた。
「あなたの口から聞かせて頂戴。ご用はなに?」
挑戦的な口調と視線を受けて立って少年は応えた。
「勧誘か、あるいは口止めだ」
「ああ……」
なるほどと頷いて、少女は目を細める。そこには薄ら寒い優越感やサディスティックな悦びが垣間見えた。
目の前の少年の弱みを握ったことに気が付いて、いたぶるための算段を立てているかのような……
ぞっとして後退る彼に少女の冷たい声が覆いかぶさった。
「お断りします。どうして私が、あなたの言うことを聞かなくちゃいけないの?」
「……なぜそこまで?」
「ご自分の胸に手を当ててみてはいかが?」
言われた通り胸に手を置くと、は一拍の後にくすくすと笑い出した。喜多川にとっては初めて見る彼女の笑顔だった。
こんな状況でさえなければ見惚れることもできたかもしれない。歳よりずっと子供っぽい純真な笑みだ。彼女はどうやら心の底から、喜多川のちょっと間抜けな行動を面白がっている様子だった。
しかしそれも長くは続かなかった。
「んん……コホン、お分かりになったかしら」
再び冷たい声がかけられて、少年は我に返って首を左右に振る。
「さっぱり分からん。さん、俺は君になにかしただろうか?」
「さあてね。それに、お断りするのはあなたの存在だけが理由じゃないわ。私は怪盗団そのものに懐疑的なのよ」
「それは……」
「あなた、喜多川くん? あなたはなんにも思わなかったの?」
「なにをだ?」
「あの老人が憐れにも涙を流す姿を見てどう思ったのかと聞いているのよ」
痛いところを突かれたなと少年は素直に舌を巻いた。『脅迫者としての彼女』は一流なのではないかとすら考えた。
斑目がこの少年と多くの者を踏みにじってきたことは間違いない。そのことに怒り、失望した。だから改心に至ったのだ。しかしそれと、あのどこか一種の滑稽さすら感じさせられる号泣ぶりを見て心の片隅が痛まなかったのかと言われれば……それはまた別の話だろう。
そのことを責め立てる少女の口は淀みがなかった。
「人の心に土足で入り込んで、法も秩序も無視して断罪するなど、許されることとは思えないわ。あなたたちのようなものを見過ごしていたら、誰も社会を守らなくなる」
真っ当なことを言っているようにも感じられた。
法の遵守は人間社会の根底を支える人民の義務だ。大多数の人々がルールを守って暮らしているからこそ、平穏な生活といものは成り立っている。
けれど、すべての人がその義務を果たしているわけではないことを少年は身をもって知っている。だから彼女の考えに賛同はできなかったし、そもそもそういった悪辣な存在こそが彼を怪盗にさせたのだ。
なにも知らないくせに。
苛立ちと怒りを籠めて睨み返し、少年は決然として言い放った。
「君の思想はきっと正しい。多くの人にとって。だが、郡畜的に従うことばかりでは、本当に正しいものをいずれ見失ってしまう」
「まるであなたが羊の群れから選び抜かれたマイノリティみたいな言い方ね」
「そうじゃない。選ばれた一握りの人間の話をしているんじゃないんだ。俺はただ、俺自身の美学に従って動いているだけだ」
鋭い切り返しにさらに言い返す。しかしはまたまなじりを釣り上げて小馬鹿にするように鼻を鳴らすばかりだった。
「美学、ね。よく言えたものだわ。あなたたちのおかげで、私は……」
言葉は奥歯を噛むギリリという音に遮られた。なにを言わんとしていたのかとさらに眉を寄せる彼に、は床を鳴らして背を向けた。
「それなら、私も私の美学に従うまでよ」
言い終わるなり扉を開け放ち、踵を鳴らして大股に作業場へ踏み入る彼女を、喜多川は慌てて追った。
室内にいた者たちはぎょっとして振り返り、またそこにと喜多川が揃っていることに状況を察して渋い顔をしてみせる。
「さん、あの、これは……」
真っ先に反応した新島が手にしていたのみを慌てた様子でテーブルの上に戻すのを特別咎めることもなく、は淡々と一同―――背後の少年も含めて告げる。
「お話はおしまいよ。全員ここを出て頂戴」
睨めつける瞳は氷のように冷たく、声は地獄の釜のように煮立っている。静かな怒りが彼女の内側から滲み出ているようだった。
「聞こえなかったの。ここを出て」
切り捨てるような言いざまに緊張が走る。
「ンだと、おい、俺らは話をしに……」
「だからそれはもう、終わったのよ。全部ね」
どういうことなのかと仲間たちから視線を向けられて、しかし喜多川もまた事態のすべてが把握できているとは言えずに小さく首を左右に振った。
「なにをするつもりだ」
「変なことを聞くのね。悪党の正体を知った善良な市民がすることは決まっているわ」
少女の手にはまだスマートフォンがあって、彼女はそれを見せつけるように振ってみせた。その顔には意地の悪い笑みが浮かんでいる―――
「助けてもらった恩もあります。一週間待つわ。それまでの間に身辺の整理をするといい」
勝ち誇ったように言い切って、は踵を鳴らして振り返る。
喜多川の目には彼女の陰りを帯びた笑みと、そしてその背後の製作物が映っている。楠から削り出された、おぞましい姿形の曲がりくねった異形の怪物だ。
喜多川が知る限り、彼女の作るものはずっとこうだった。恐怖を呼び覚まし、嫌悪感を与える。
とみに喜多川は、そこから怒りを通り越した、べとつくような負の感情を感じ取る。彫り出された怪物が動き出して、こちらに襲いかかってくるような……しかしその牙は捕食のためではなく、ただ殺すためだけにふるわれる。
けれど、何故だ?
喜多川は焦燥感によってひりつく胃の底を皮膚の上から押さえて胸のうちで問いかける。
何故、これほどまでの感情を向けられているんだ? 俺は彼女にここまで嫌悪されるほどのことをしただろうか?
いいや、できるはずがない。ろくに言葉を交わしたこともないのに、どうしてここまで……
「さあ、出て行って。二度と、顔を、見せないで……!」
ひときわ強く睨みつけられて、喜多川は後退った。まさしく射るような目つきだった。心臓を貫いて、心を穿ち、傷付ける。
どうしてそんなに? 問いかけようとするが、しかし彼は退室を促す頭領の手に沈黙を優先した。
……
退散を余儀なくされた怪盗団は四軒茶屋に戻り、ルブランの屋根裏部屋に集っている。
に掴みかかりそうになった坂本をなだめるのには苦労もしたが、事態を悪化させることにだけはならずに済んだ。
とはいえその怒りは鎮まったとは言い難い。
「ンっとになんなんだよあの女! ネット記事とか見てっと超お嬢さまって感じだったじゃねぇかよ!」
喚いて苛立たしげに足を揺する坂本に、壁際に寄せられたソファに身を預けた高巻が冷たい目を向ける。
「竜司うっさい。まあ、確かに、昨日見た記事や動画とは別人だったけどさ」
「言うて初見であの暴れっぷり見てるから、衝撃はそこまででもないけどな」
寝台の上であぐらをかいた佐倉がラップトップをいじりながら言うと、坂本がまだ怒りのこもった声で応える。
「女タイガーマスクな、ちくしょう。二重人格かっての。マジでなんなんだ……」
坂本はまだ落ち着かず、ガシガシと脱色した頭をかきながら落ち着きなく歩き回った。
窓際に立って茜色に染まる路地を見下ろしていた喜多川は、そのドタドタという足音にも負けず耳にこびりつくの言い分を告げてやった。
「彼女はそもそも怪盗団に否定的なスタンスだったようだ」
「ああ、なるほど。事前調査不足だったわね」
高巻の隣で、新島が憂鬱そうなため息とともに呻いた。
うぬぼれがあったのかもしれない。近今の怪盗団人気……熱狂や狂信に近い民衆の口ぶりに、気を付けていたつもりでノセられていたのだ。
冷静な分析の下の悔しさを隠すようにきつくまぶたを閉ざす。
すると気遣ったのか素なのか、部屋全体を見渡せる棚の上からモルガナが居丈高に告げる。
「とにかくまだ終わったわけじゃない。あちらさんはわざわざ猶予までつけて通報するなんて宣言してくれてることだし」
新島はその通りだと首を縦に振って姿勢を正した。
「でも、どうしたものかしらね」
がペルソナ能力に覚醒している以上、彼女にパレスは存在しない。彼女の父親にもパレスが存在しないことは、ここへ至る道中すでに確認済みだ。
それはつまりいつものように改心を行って危機を乗り越えることができないということだった。
「やっぱり弱みを探って取引を持ち掛けないといけないかな」
ここまで口を閉ざしてずっとなにかを考え込んでいた屋根裏部屋の主がやっと顔を上げて言うのに、仲間たちはなんとも言えない表情でもって応えた。
「弱みねぇ……あの二重人格ぶりとか?」
「広められて困るようならウチらに対しても猫被るでしょ」
あーそっか、と納得してようやく椅子に腰を落ち着けた坂本に、高巻はやれやれと肩をすくめた。
「あの態度じゃ、ちょっとつつく程度の脅しじゃムリじゃないかなぁ。なんかもう、目が怖かったじゃん?」
「あーね。ヤバかったわ。最初に会ったときの祐介みたいだったよなー」
ほんの数ヶ月前を思い返して意地の悪い笑みを浮かべる坂本に、喜多川は床板に尻を乗せつつ口を尖らせた。
「失敬な。愛想よく接してやっていただろうが」
「杏にだけな」
「そもそもお前たちを呼んだ覚えもなかった。あのときの俺にとってお前たちは……野球チップスに付いてくるカードみたいなものだな」
「それ逆じゃね? 菓子がオマケじゃね?」
分かるような分からないような比喩表現に、佐倉がまったく異なる価値観で反応する。二人は同じタイミングでお互いの顔を見合って首を傾げた。
すぐ脱線するんだから。
そう思いつつ、新島は肩から力が抜け落ちていくのを感じる。オマケは菓子かカードかで議論に花を咲かせる二人の声をBGMに、新島は苦笑しながらなにかヒントを得ようとスマートフォンを手繰った。
「さんか〜……生で見ると余計に不気味だったよね」
その手元を覗き込みながら高巻が言う。新島のスマートフォン、その画面に表示されたインターネットブラウザにはの作品が映し出されていた。
「私は思っていたより平気だったかな」
「えー? そう? 怖いんだけどそれ以上になんか、すっごい怒ってるっていうか……私がじゃなくて、誰かを睨んでるみたいな感じじゃなかった?」
「確かになんとなく目が合わないなとは思ったけど、いえ、そもそもあれ、どれが目だったのかしら」
解かんないねぇと頷きあう女子高生たちに、すっかり佐倉に言い負かされた喜多川が驚くような顔を向けている。
「なにその顔」
指摘したのは坂本だった。
「いや……そういう感想なのか、と思って……」
「なにがよ。あ、の作ってたやつ?」
「ああ……」
ちらりと目を向けられて、坂本は腕を組んだ。喜多川の目がお前はどうだったのかと問いかけていたのだ。
「うっ、う〜ん、ブキミっつーか……えー? 俺は割とアリかも。アレはアレで、エイリアン的な……?」
曖昧極まりない返答にがっかりと肩を落とした喜多川に坂本のまなじりが釣り上がる。
しかし怒鳴りつけるより前に、佐倉が挙手して意見を述べた。
「わたしはりゅーじの言いたいことチョット解るな。ギーガーみたいってことだろ? 未知の生物的な。宇宙的サムシング。好奇心を掻き立てられる」
「あーそうそれそれ」
適当な相槌に、しかし佐倉は満足そうに頷いてみせた。
「ああいうのが怖いのか? ワガハイには大したことない物のように見えたが……」
「怖いかどうかは人それぞれだろう。俺は、杏と同意見かな。こちらじゃなくて、別の誰かを喰い潰してやろうって感じ……?」
猫と少年が述べて、喜多川は呆然とした様子を見せる。
思えば彼女の作品について誰かに意見を求めたことは無かった。それはそういう意識がなかったからだが、しかしそれ以上に、他者の認識を知ることで予感が確信に変わることを避けていたからかもしれない。
喜多川は苦虫を噛み潰し、入念に舌の上で転がしたような顔つきと心地でもって言った。
「俺は……彼女の作品からいつも、強い負の感情を感じていた。怒りや憎しみ、嫉妬といったものを直接ぶつけられるような……」
仲間たちは誰も彼に賛同しなかった。
「え? なんだ? じゃあつまり……アン殿やコイツが言う誰かに対して怒ってるとか、喰い潰してやるってのは……」
モルガナの言葉を継いで、高巻が窓から差し込む夕日を受けてきらめく金糸の髪を揺らしつつ応えた。
「祐介に向けられてるってこと?」
「えー? ジイシキカジョーじゃねえの」
もっともな坂本の指摘に、喜多川は黙り込んだ。そうであったほうがよっぽど良かった。とみにこのような状況に陥ったとなれば。
しかし……
「猫の声みたいなものかな」
突拍子もない屋根裏部屋の主の言葉に、モルガナが器用にも猫の顔に怪訝な色を浮かべる。
「モルガナじゃない。他の猫とか犬とか……動物の言葉は普通、俺たちにはなにを言っているのか解らないだろ。でも、むこうがこっちになにかを伝えようとしているときはなんとなく解ったりしない?」
「ごはーんとか、ドア開けてーとか、散歩行こーよーとか?」
「うん。内容は解らなくても、こちらを意識している声は、不思議と耳に入ってくるだろ。それが良いものでも悪いものでも……」
言って、少年はモルガナを抱き上げた。嫌がる彼を膝の上に置いてその腹を揉みしだきもする。
「ぎゃあっ! やめろぉ! ンはっ、にゃははっ! フニャーっ!」
喚いて暴れる小さな身体の関節を的確に押さえつける動きはすっかり手慣れていた。
やれやれと奇矯な振る舞いをする少年とその被害を被る猫を眺めて、仲間たちは救援を求める声を捨てて軌道修正を図る。
「つまり……祐介が感じてるものは事実として存在するかもしれない、ということね」
指先でテーブルを叩きながら新島が言う。隣の高巻などはそれを確かな事実と受け止めて不審げな目を喜多川に向けていた。
「アンタなにしたのよ」
「えー……分からん……」
「心当たり、ないのか?」
「無い。少なくとも俺はろくに話をした覚えもないし、彼女はいつも父親と一緒に来て……先生と彼女の父親が話をしている間、退屈そうにしていて……」
おぼろげな記憶を探ってこめかみをさする喜多川に視線が集中する。急き立てられるようにもっと奥深くへと記憶の糸を手繰るが、出てきたのはほんの小さな接触ばかりだった。
「彼女はいつも、俺が絵を描くのを見ていた気がする……」
奇妙な沈黙が部屋に横たわった。いつの間にかモルガナは魔の手から逃れて乱れた毛並みを必死になって整えているし、逃げられたほうは顔に引っかき傷をつくって床に転がっていた。
夏の終わりを教えるように遠くでセミが最後の一声を上げている。日暮れにはまだかかるが、しかし確実に夜は近づいているのだろう。開け放たれた窓から吹き込んだ風はほんの少しだけ冷たかった。
「もしかして、逆なんじゃない?」
それによって閃きを得たというわけではないだろうが、高巻がポツリとこぼした。
どういうことだと視線が集中するのにも臆さず彼女は重ねて述べる。
「双葉が言ってたでしょ。祐介はさんに嫉妬してるのか、って」
「あー言ったなそんなことも。んでも、別に、マジな話のつもりじゃ……」
なかった、と申し訳なさそうに小さくなる佐倉に、高巻も喜多川も首を振る。この小さな少女が生意気な口を利くことにはもう慣れていたし、それこそが彼女が心を許していることの証でもあると理解している。ひねくれていたとしても、甘えられて悪い気は決してしなかった。
だから高巻は彼女を安心させるように笑って手を振り、自身の閃きを伝えようと言葉を続ける。
「うん、だからね、祐介がって話じゃないの。さんが、ってこと。彼女、祐介が絵を描くとこ見てたんでしょ? 私もそんな芸術とか、解るわけじゃないけど……んまあ、コイツの描く絵は、嫌いじゃないっつーか……いいものだとおもうんだ」
「杏、それは、ヌードを描かせてくれるという意味―――」
「違うから。座ってろ」
「はい」
立ち上がりかけた少年は、高巻が指先で空中を引っ掻いただけで椅子に戻される。まるで躾の行き届いた犬のようだった。
「ほんとに、才能とか、美術とか、よく分かんないよ? でも、同じとこを目指す人が、必ずしも仲間とは限らないじゃん」
よく磨かれた爪がかすかに光を反射して輝いている。細く白い指先で髪をいじる彼女の表情は少しだけ寂しそうな色を宿していた。
「だから、あの子が祐介の作るものを見て嫉妬してるってのは、あるんじゃないかなって」
はっきりとした発音でもって告げられた結論に、一同はふーむと唸って視線を交わす。
やっと床から起き上がった少年がその場にあぐらをかきながら
「モテモテだな。やったじゃないか」とまったく益体もないことを言い出して冷たい視線を浴びたりもしたが、ある意味では正鵠を得た発言ではあった。
好意の裏返しは無関心と言うように、一定以上の関心や執着を見せるとなれば、それはつまり無関心の裏返しと言えるだろう。
ただ、これは裏返しただけではなく、上下も入れ替わってしまっているようだ。
「俺が優れた画才を持つがゆえに恨まれているということか? まったく嬉しくないんだが。いや、前半部分は嬉しいが……なあ杏、さっきのもう一度言ってく」
「座ってろ」
「はい」
また立ち上がりかけて触れもせず椅子に戻されるのを繰り返す二人を興味も無さそうに眺めていた坂本が問いかける。
「でも絵と彫刻ってジャンルがちげーだろ? 嫉妬とかするもんなん?」
「竜司の立場から言えば、走り高跳びの選手に嫉妬するかしないか、というようなこと……?」
「えー? あー、まあソイツがやたらとチヤホヤされてたりしたら、まぁ……?」
新島の例えに首をひねりつつ答えて、坂本はまた喜多川に目を向ける。
だいたい常に超然とした態度を崩さない変人は、高巻に命ぜられたまま膝の上に手を置いて大人しく床と見つめ合っていた。
ただ、その表情はなんとも言えない。唇を噛み締めて怒りとも悲しみともつかない感情を湛え、瞳は揺らめいている。
震える唇はやがて奇妙なことを言い出した。
「嬢が俺を気に食わないと言うのであれば、俺がここを離れれば少しは彼女の怪盗団に対する心証も変わるかもしれん」
「は? ユースケ、オマエなに言って……」
尻尾で床を叩いた猫に、彼は頷いてみせた。
「もしくは俺が自首なりなんなりをすれば。お前たちのことは伏せて」
「ストップ」
遮ったのは立ち上がって背後から喜多川の両肩を叩いた怪盗団の頭領だった。彼は振り返ろうとする頭の顎と額を捕らえて無理矢理に前を向かせて続ける。
「よく見ろ祐介、それでお前がなに言ったかよ〜く考えろ」
促されて、彼はずっと床に落としたままだった目線を上げた。
呆れ返って言葉もないと言わんばかりに首を振る坂本と、ジトっとした目を向ける高巻と佐倉がいて、いつの間にかテーブルの上に飛び乗っていたモルガナがバシバシと尾で天板を叩いている。
そして彼らの中心で、新島だけが笑顔を浮かべて指を鳴らしていた。
「誰もやらないのなら私がやろうか?」
「顔はやめといてくれ。これ見せとくだけでナンパの成功率変わるんだわ」
「なにをしているのよあなたたちは……まあいいわ、それじゃあお腹ね。リーダー、立たせて」
「アイマム」
果たしてどちらが頭領なのか。少年は新島の言葉に従って喜多川を抱え込むと、有無を言わせずに立ち上がらせた。
「えっ? なに? 脱退の儀式? リンチを乗り越えたら解放なのか? そんなアメリカのギャングみたいな……」
拘束から逃れようと身を捩る喜多川に少年は囁きかける。
「ちょっと痛いが慣れればなんとも思わなくなるぞ。心を捨てて苦痛を受け入れるんだ」
「なんのアドバイスだ! よせ、やめろ真! シャレにならん!」
目の前で三戦の型が取られるともはや疑いようもなかった。彼女は本気でこちらを攻撃するつもりでいる―――
「シャレじゃないもの。それにリンチでもないわ」
ぎしっと屋根裏の床板が新島が踏み出すのに合わせて鳴いた。その細い腕が腰に構えられ、突きが放たれることを教えている。
「鉄拳制裁よ!」
吠え声とともに打ち込まれた捻りの利いた中段突きは、衝撃とともに喜多川の肺腑までを揺さぶった。
しかし想像していたよりもずっと痛みは小さく、物理的な打撃によるものより、構えを解いて一歩下がった新島の悲しげな表情のほうがよっぽど強く心を抉った。
ふらついた拍子に背後の少年に体重を預ける形になって、初めて彼は己が何を言ったのかを理解する。
「すまん、どうにかしていたようだ……ゴホッ」
咳き込んだ喜多川に、高巻や佐倉はやっぱり呆れ返った目を向けた。
「バ〜カ」
「あ〜ほ」
罵りの言葉に項垂れる彼に、まだへばりついたままの少年が妖しく囁く。
「そもそも抜けるって言うのなら、違約金を払ってもらうからな」
「なんだそれは」
「お前らの武器揃えたりメンテしたり、必要な道具用意するのにいくら掛けてると思ってるんだ」
これには全員が顔を見合わせて怪訝な顔をする。新島などは恐る恐ると小さく手を上げて問いかけもした。
「参考までに、一人どれくらいなの?」
少年は一度唸って、脳内で素早く簡単な支出を計算し始める。答えはすぐに出た。
「だいたい……一人十万円くらい?」
疑問系であった。おそらくかなり大雑把な計算がされたのであろうことを察しつつも、仲間たちは瞠目して素っ頓狂な声を上げた。
「げえっ!?」
「マジか!?」
「え、え、でもメメントスとか、パレスで盗ったオタカラ売り払ったりしてるよね?」
「足りてないよ。なんなら俺のバイト代つぎ込むこともあるし……」
サーッと顔を青くする一同に、少年は鼻を鳴らしてやっと喜多川を解放した。
「そういうわけだから、簡単に逃げられると思うなよ」
ぽんと肩を押されて椅子に戻される。
脱力して腹をさすりながら、喜多川は相好を崩した。逃げられると思うななんて言いながら、肩を叩いた手が暖かくて優しかったからだ。
投げつけられる罵倒も叱責も、叩き込まれた一撃も、籠められた想いは共通している。
一人で背負い込むなよ、全員でかかればなんてことないさ。仲間たちは言葉の裏、拳の裏、手のひらの裏でそう語っていた。
そのことが嬉しいのと同時にどうしようもなく照れくさくなって頭をかく。
そうとも、こんな最高の連中のためにも、なんとかしてみせなければ。
喜多川は立ち上がって荷物を取り上げた。
「ん、帰んの?」
ちょうどテーブルの上に出しっぱなしで開封もされずに放置されていたスナック菓子に手を伸ばした高巻が問いかける。じっとその手元を見つつ頷いて返すと、高巻は立ち上がって菓子を彼の腕に押し付けた。
「じゃあこれお土産にしていーよ」
「いやいや、それ俺が買ってきたやつなんだけど」
坂本の指摘はいいじゃんと軽く受け流される。
喜多川は手の中に収まった筒状のパッケージを見つめながら、己がなすべきだろう予定を仲間たちに告げた。
「明日、もう一度だけ嬢と話をしてみようと思う」
「大丈夫なのか?」
「同じ轍は踏まん」
自信深げに答えた彼に、モルガナは処置なしと息をつく。
怪盗団の長はちらりと参戦参謀に目を向けたが、彼女もまたお手上げと言わんばかりに軽く両手を上げている。
そういうことならばもはや口出しはすまいと決めて、少年は手を打った。
「分かった。祐介、任せるぞ」
喜多川は笑顔を見せて頷いた。
翌日の放課後、喜多川はの自宅を訪れていた。
見上げていると首が痛くなりそうな高層マンション。おまけに一等地。これが経済格差というものか。
いくらか恨めしげに思いつつロビー前に設置されたインターフォンに家の部屋番号を入力する。
不在ならまた店舗に向かうだけだが、幸いなことにこの日は在宅のようで、さして待たされることなく応答があった。
『どなたですか』
「さん? 俺……喜多川です。待て、切るな、しつこく鳴らすぞ」
『嫌な脅しね……通報するわよ』
「それでもいい。話がしたいんだ」
『私は話すことなんてありません』
「少しだけでいい、頼む。話に付き合ってくれるというのなら、俺は……君のために筆を折っても構わない」
沈黙が返された。
そこに含まれる戸惑いの大きさに少年は小さな違和感を覚える。己が感じていたものや杏の閃きは外れていたのだろうか?
焦燥感に胃を痛めつけられながら、それでも彼はじっとの反応を待った。
やがて、どことなく消沈した声が返される。
『いらないわ。あなたが筆を折ったところでもう……』
「え?」
掠れて消えた語尾に思わずと問い返すが、答えはなかった。
ただまた冷ややかな声が返される。それは彼の待ち望んだ答えだった。
『五分だけよ。下に降りてあげるから、そこで持っていて頂戴』
「あ……ありがとう……」
素直な感謝の言葉が漏れる。
はまた少しは沈黙した後、
『礼の言葉なんて欲しくない』と冷たい声で言った。
かくして数分の後に現れたの姿に、喜多川は言葉を失うこととなる。
それは彼女がこれまでとまったく違った装いをしていたからだった。
シュガーピンクのIラインワンピースに、足元は強い色合いのショートブーツが包んでいる。豊かな黒髪は高い位置でまとめられていて、同い年のはずの彼女をずっと大人っぽくみせていた。
「お……」
まるで食事会にでも赴くような格好である。思わずと後退った少年に、はむっと眉を寄せた。
「なにか?」
「い、いや、ずいぶんと趣を違えているから」
「これから人と会うのよ。あなたのためにめかしこんだわけじゃないから」
そんなことは百も承知だったが、だとしても見惚れるには十分過ぎるほどの変身ぶりだった。不覚にも胸が高鳴るのを抑えきれない程度には、は美しかった。
「それで? ご用件は?」
しかしその態度は相変わらずの冷淡ぶりである。
ある意味では幸いだった。もしも今、彼女に微笑まれて甘やかな言葉を投げかけられていたら、決意が揺らいでしまっていたかもしれない。
波は引くときが一番恐ろしいのと似ている。押し寄せるときは堪えられても、戻るときは耐えられない。もしくは雨の日の不良が子犬に傘を差し出すような一場面か。
つまり、落差が大きいほど揺さぶりもまた大きいということだった。
喜多川は気持ちを切り替えようと頭を振り、冷ややかな目で見上げてくるに本題を告げた。
「通報をしないで欲しいと、頼みに来たんだ」
予測はできていた……というよりかは、他に用件などないと知っているからだろう、反応は早かった。
「私が聞き入れるとでも?」
「いいや」
もちろんと言うべきか、喜多川もまた彼女がただで首を縦に振るとは思っていない。
かといって腹芸も得意なほうではなかったから、少年はさっさと場に切り札を差し出した。
「先も言ったが、聞き入れてくれると言うのなら、俺は筆を折ったっていい」
これには口を引き結んでぎゅっと形のよい眉を寄せた。その表情は怒りとも悲しみとも取れる。悔恨の念すら感じられた。
このカードでは効果は無かったのだろうか? 再び不安になって服の上から胃を押さえる。手には嫌な汗がにじみ始めていた。
やがて少女は俯いて、
「そんなに怪盗団が大事なの?」とどこか寂しげに問いかけた。
少年はこれに一も二もなく即座に答える。
「ああ」
彼にとっては当然の答えだった。しかしにとってはどうだろうか。彼女は次の問いを彼に投げかける。
「絵を描くことよりも?」
こちらにはさすがに即答とはならなかった。
少年は少しの間だけまぶたを閉ざし、深く己に問いかけた。どうなんだ? お前にとってあの集まりは、どれくらいの価値を有するものなんだ? と。
答えを導き出すのに、やはり時間はかからなかった。
「いいや」
喜多川は静かに首を左右に振った。
怪盗団の為すことにどれほどの意義があろうと、あの集まりがどれだけ心地よかろうと、絵筆を握り、絵を描くことにだけはかなわない。それが彼の結論だった。
その上で彼は、怪盗団を守るためなら筆を折っても良いと言う。
は顔を上げて、不可解そうな顔を隠しもせず、また問いかけた。
「どうして? なぜそこまで? 自己犠牲もあなたの美学だと言うの?」
喜多川は正直に答えた。下手に隠し立てをするよりも、洗いざらい打ち明けてしまったほうが効果がありそうだと思えたのだ。
「確かに、絵を描くことは俺にとってのすべてだ。それを捨てれば、俺にはなにも残らない……そう思っていた。あいつらに救い出されるまでは」
語りながら、過日を胸に返す。己の理想そのものを形にしたような高巻の姿を見かけて思わず追いかけたこと、彼女を守るように立ちはだかった二人
の少年、師の個展、モデルの承諾、盗作の指摘、拒絶……それでも心に踏み込んできた連中のこと。
「救われたあとも、俺はなにも分かっていなかったに違いない」
独り言のようにつぶやいて、少年は息をつく。
喜びの中にはほんの少しの悔しさがあった。気に喰わないことも多々あるが、それでも、もっと強い感情がそれを覆い隠して押し流している。
あの連中ときたら、まったく美しくなくて、冗長で、口やかましく、粗暴で、粗忽で、芸術性を感じない。それでも、そんなものは一側面に過ぎない。
少年は胸を張って己の結論を述べた。
「友達なんだ。俺にとって怪盗団は、あの連中は、大切な居場所だ。大切な存在のために自分が出来うることすべてをしようとするのは、そんなにおかしなことじゃないだろう」
自信深げな彼の様子に、は目を細めている。眩しいものを見るように。
そして彼女は頷いた。
「そうね。確かに、そうかもね」
「頼む、さん」
頭を下げて懇願する彼を見つめるの目は、昨日のような昏い歓びを湛えてはいなかった。
凪いだ夜の海のように黒々として、水面下の様子は窺えない。そこにおそらく、彼女が創り出すような怪物の姿があるのだろう。
少女はまったく表情を変えずに
「嫌よ」とだけ残酷に告げた。
頭を上げた喜多川の目にの姿が映る。彼女の様子は変わりない。
「さん」
「いや。私はあなたを許せない」
「待ってくれ、許せないとは、どういう意味だ?」
「言いたくないわ。あなたがあの怪盗団の一員だったなんて、こんな偶然ってあるの?」
見れば、は固く拳を握ってそれを震わせている。
「運命なんて信じたこともないけど……あなたはきっと、私を苦しめるために神かなにかが遣わした存在に違いないわ」
「それはどういう」
「教える義理はない。それに、知られたくもない……!」
「さん!」
「気安く呼ばないで! 喜多川くん、あなたなんて……」
今日一番どころか、今までで一番強い憎悪と怒りの籠められた瞳が喜多川を貫いた。
「あなたなんて、大っ嫌いよ……!」
声は抑えられていたが、それだけに隠そうとする感情の強さが窺える。憎悪と憤怒。そして悔しさ……それがなにに起因するものなのか、喜多川にはまったく理解できなかった。
「話は終わりよ。六日後を楽しみにしていなさい」
「待ってくれ、どういうことなんだ。せめて君がなぜそれほどまでに俺を嫌うのか、そのわけを教えてくれ!」
逃すまいと前に出した手が少女の二の腕を掴んだが、それは直ちに振り払われた。
「離して!」
おそらく、意図してのことではないのだろう。腕を掴んだ手から逃れようと身を捩り、腕を振った拍子に、の手の甲が少年の顔にぶつかった。
「うっ、く……」
まったくの不意打ちに呻いてよろめいた彼に、は大きく目を見開いて硬直する。
その口が「ごめんなさい」と言おうとして開かれて、しかし何某かがそれをせき止めているのだろう。少女は呼吸困難でも起こしたかのようにのどを押さえて口を開閉させる。
殴られたのは少年のほうだというのに、彼はとても見ていられなかった。すぐに痛みを訴える箇所を押さえて首を左右に振ってやる。
「いい。平気だ。わざとじゃないんだろう」
それにそもそも、こちらが急に腕を掴んだからだ。
言い添えてやると、はぐっと唇を引き結んで目を細め、泣き出すのを堪えるような表情をつくる。
まるで叱られる直前の子供のようだった。少年は許すと言っているのに、まるで効果は認められない。
どうしてそんなに。そんなに、強い感情を俺に向けてくるんだ。怒りだとか、憎しみだとか、嫉妬だとか……今はまた悔恨の念を。
思いがけないこの展開に、彼女はいかにも弱っている。あれだけメメントスで大暴れしていたことが嘘のように、己が暴力をふるってしまったことに怯えている。
喜多川はこれを好機と思った。そのように思うことを卑怯だとも。
しかし彼は問いかけた。
「さん、きみはどうしてそんなに俺を嫌うんだ? 俺は君になにかしただろうか?」
「……お父さんが……あなたを……」
「うん」
頷いて先を促すと、は目を見開いたまま、ほとんど無意識的にだろう、掠れた声でつぶやいた。
「あなたを褒めるの。まるで私なんかいないみたいに……だから……」
彼女はそれ以上を口にしなかった。続く言葉に察しはついていたから、あえて問い詰める必要もなかった。
なるほど、つまり己の知らぬところで父は己を評価してくれていたらしい。そして彼女はそれが気に入らないのだ。
得心して、やっと胸のつかえが下りたような心地になって息をつく。
そうやって血の巡りが良くなると、また次の疑問が首をもたげる。己が彼女に嫌われている原因はよく分かった。しかし、彼女は己などよりもずっと世間に注目されて、名声を得ているではないか、と。
つまり、彼女が喜多川の存在を忌々しく思う理由が他にもまだあるのだ。
彼女の美学、一週間の期限、女タイガーマスク、菓子についてくるオマケのカード、未知の生物に対する恐怖と好奇心、犬猫の呼びかけ、違約金、見惚れるほどの美しさ、大切なもののためにできること、神かなにかが遣わした存在、強烈なファーザーコンプレックス……
昨日今日と見聞きしたものが雪崩のように喜多川の思考を埋め尽くした。
それらはやがてひやりと後頭部が冷えるような感覚を与えて、彼に閃きをもたらした。
「君は俺以外の、いったい誰に苦しめられているというんだ?」
はこれ以上ないほど目を見開いて、言葉を失った。
彼女が喜多川を強く憎み嫌うことの根底には嫉妬心がある。これはもはや疑う余地のない事実だろう。それは彼女が抱える父親へのコンプレックスが起因となっているはずだが、しかし喜多川が知る限り、彼女の欲求は満たされているはずだ。世間は彼女を若き彫刻家として認めつつあるのだから、これをあの父親……三日間も行方知れずとなっていた娘の無事を知って心の底から喜んでいたあの男が歓喜しないはずがない。
つまりが怪盗団を危機に追いやる要因は喜多川ではないのだ。遠因として関わっていることは間違いないが、もっと直接的な理由があるはずだ。
糸口を探ろうとますます深く思考する。あと少し、もう一つ何かがあればこの事態を打開するものに手が届きそうな気がした。
しかしそれは遮られた。
やっと繋がり始めた喜多川の道を断ち、の肩を大きく震わせたのは間近に停まった車のクラクションだった。
振り返ると一台の高級車が横付けられていた。
「あ……」
の喉から声が漏れる。それは感嘆とも諦観とも受け止められた。
「さん?」
「もう行かなきゃ。それじゃあね、喜多川くん」
呼びかけるがしかし、はするりと彼の横をすり抜けて小走りに車に駆け寄った。
後部座席のドアを開け、右足から進入する。その横顔は蒼白である。
喜多川の目はそれとともに、運転席の真後ろに座す人物の姿を捉えていた。
てっきり父親が迎えに来たのかと思いきや、そこにいたのは五十代ほどの、やや肥満気味な体型をした男だった。
どう見たって不釣り合いな二人だった。親子ほど歳が離れているのに、彼女の父はあの男ではないのだ。
スポンサー、後援者、タニマチといった言葉が頭を過った。パトロンという言葉も。
「ちょ……っ! さん!?」
呼びかけるのとドアが閉ざされるのは同時だった。
駆け寄ろうとするが、翼を生やした女神をボンネットに乗せた車はすぐに走り出して彼を置き去りにしてしまう。
……パトロンという言葉は単純に経済的な支援者という意味の他に、愛人関係を仄めかす暗喩としても用いられる。
どう見たって―――あの現役女子高生と、あの五十代男性なんてものは、普通の関係と思えない。
それとも勝手な先入観や色眼鏡で見ているだけだろうか? ああ見えて男は真っ当な彼女の支援者なのかもしれない。経済的な。
「え……えっ!? そうなのか!? それは……ズルくないか!?」
置き去りにされた少年は虚しく叫んだ。
彼の背後には見上げていると首が痛くなりそうな高さのマンションが建ち聳えている。場所は銀座近くの一等地。そしてここで暮らすあの少女が通っているのは日本でも有数のお嬢様学校だ。
経済支援が必要だとは、どうしても思えない。
そういう意味での、ズルくないか、だった。