複雑な彼女の単純な動機

 やわらかな日差しを浴びた白いシャツの背中が輝いていた。
 私は影の中にいて、その背中を眺めている。彼の手の中には筆があって、その正面にはキャンバスが置かれている。
 同い年だと聞かされていた。それがなんだと思っていた。その意味を理解したのは、拙いながらも真剣に絵筆と戯れる彼を見て、父が言ったからだ。
 さすが先生のお弟子さんだ。この歳でもうこれだけのものを……
 私がどれだけ呼びかけても、手を引っ張っても、父は私のほうを見てはくれなかった。もう帰ろうよ。退屈だよ。わたし、お腹が空いたの。訴えても、訴えても。
 白い背中に眩しそうに目を細める父の横顔は嬉しそうで、楽しそうで、羨ましそうだった。
 ……私だって……
 お父さん、私にだってあれくらい……


……
 地下深くへ続くメメントスの荒い道の中、モルガナカーは若き怪盗たちを乗せ、ヘッドライトも爛々と輝かせて突き進んでいた。
 しかしその車内は不穏な空気に満ちている。
 というのも、数時間前にメメントスに侵入した彼らはここまでほとんどシャドウの姿を目撃していないのだ。
 これは異常事態であった。
 普段ならばシャドウたちはそれこそ無数に、無尽とも思える数が立ちはだかって道を遮っている。
「もしかして、私たち以外の誰かがここを通った……?」
 クイーンの推測に怪盗団の面々は顔をしかめる。
 また彼女は握ったハンドルにそういったことはあり得るのかとも問いかけた。
 ハンドル、もといモルガナカー、あるいはモナが答えて曰く
「あり得ないわけじゃないとは思うぜ。ワガハイたち以外のペルソナ使いがいて、メメントスへの侵入の仕方を知っていれば先を行くことだって可能なはずだ」とのこと。
 そういうことならば、と後部座席のナビが手を上げる。
「ちょっとサーチの範囲を広げてみる。集中したいから、安全運転で頼むぞ」
 言って、彼女は己の半身とともに意識を広域へ拡散させはじめた。
 元よりシャドウの姿も少ない道だ。悪路ではあるが、少しスピードを落とせば車内はすぐに静まり返った。
「む、む、むーん……」
 奇妙な唸り声を上げて身体を揺らすナビに視線が集中する。
「……こっち見んな」
 サッと散るように逸らされた目線に反応するようにナビは顔を上げた。
 あ、と呟いて狭い車内の中で立ち上がりもする。
「ここ! この階! 誰かいるよっ!」
「ウソ、マジで? どんなヤツ?」
 身体ごと振り返ってナビに向き直ったパンサーが問いかける。
「んん……そこまではわかんない。でもこの反応……」
 わたしたちとおんなじだ、と告げてナビは器用に車中を移動し、運転席にしがみついた。
「どうするジョーカー。そいつのいるところまでナビゲートもできるけど……」
 問いかけられた助手席の少年は一度だけふうむと唸って考え込む素振りをみせた。
 自分たち以外のペルソナ使い……それは即ち、一連の精神暴走・廃人化事件の犯人かもしれないのだ。
「クイーン、向かってくれ。接触は慎重にいきたいから……」
 やっぱり安全運転で。
 頭領からの指示に、今日の運転手を務める怪盗団の参謀役は頷いた。

 すぐそこ、そこの角を曲がった先。
 進行方向を指したナビの言葉にジョーカーたちは一度降車して、潜んで相手の姿を覗うことと決めて足音も少なに進む。
 ぴったりと角に身体をつけて覗き込んだ線路の先には、なるほど確かに、シャドウと相対する者が一人。
「なんだありゃ」
 間の抜けた声も出ようというものだった。なにしろ一同の視線の先には、冗談みたいな光景が広がっていたのだ。
 薄暗いメメントスの通路の中にあってなお目立つ蛍光ピンクの、やや下品な印象さえ与える鋭角を描くレオタード。腿までを覆う編み上げのブーツには無数のスタッズが取り付けられて、仄かな灯りを強烈に跳ね返している。
 しかしなによりも異様なのは、その肢体ではなく、頭部を覆う、これもまたド派手な桃色の―――
「女タイガーマスク……?」
 囁くようにジョーカーが述べる。他に形容の言葉が見つからなかった。
 そして少年たちの前、女タイガーマスクは無手でもって走り出し、相対したシャドウの脇をくぐり抜けるようにして素早くその異形の首を絡め取った。
「あれは……!」
 思わず、と身を乗り出して拳をつくったスカルに、ナビが反射的に応じる。
「知っているのか雷電!」
 その間に、女の下肢にぐっと力が込められるのが見て取れた。膝を緩く曲げ、首を取る腕にもますます力が入る―――
 それは一瞬のことだった。走り抜け様、女がシャドウの首に組み付いたまま地を蹴って跳ね上がり、後方へ一回転。勢いと体重を乗せてシャドウの後頭部を足元に叩きつけた。
「……デスティーノッ!」
 これは何故か指をパチンと鳴らしたジョーカーが。彼は明確な興奮に打ち震えていた。
「内藤……ッ」
 そしてまた謎の歓声を上げたクイーンは、女の鮮やかな技に刺激されたのか風のない湖のように静かな瞳の奥底に闘志を揺らめかせている。
 ちょっとそのノリ、わかんない。
 もの言いたげに目を眇めたパンサーが盛り上がる彼女たちを見下ろす横で、フォックスが首を傾げていた。
「彼女は……どこかで見たような……」
「え? マジ?」
「いや、しかし、うーん?」
 右に左にと首が傾く。彼は珍しくもはっきりと困惑と動揺を示している。
「顔も分かんないし、気のせいとかじゃないのか?」
「うむ、そうだな、そんなわけがないか」
 一同の視線の先では、女がどこからか取り出したチェーンでもって次の獲物を滅多打ちにしている。その苛烈さと派手な立ち回りに、ジョーカーたちはやっぱり奇妙な盛り上がりを見せていた。
 最後の一体、小型のシャドウは巻き付いた鎖によって身動きを封じられ、そのまま振り上げられた足の裏を叩き込まれて霧散する。
「よっしゃあ!」
「ヒューッ!」
 喧々囂々。もはや誰も、慎重な接触なんて言葉は覚えていないようだった。
 シャドウはすべて片付いたと見て、ジョーカーが手を打ち鳴らしながら暗がりから進み出る。振り返った女はあからさまな警戒を見せたが、彼は少しも構わなかった。
「見事なお手並みだ」
 その言葉は褒めているようでも、揶揄しているようでもあった。もちろん彼は、そのどちらも意図している。
「こんな場所でお仲間さんと会えるなんて思っていなかったな。君、ここでなにを……」
 女はなんの予備動作も宣言もなく走り出した。そうと認識した次の瞬間、ジョーカーは己の顔が暖かくて柔らかなものに包まれるのを感じる。
 跳躍した女が己の首に腿をかけ、絡ませるようにしたからだと理解したときには、彼はもう顔面から地に叩きつけられていた。
「ジョーカーっ!?」
 彼の身を案じた声の後ろで「カッコつけて近寄るから」と呆れるような声があったことに文句を言う気も起きなかった。痛みと精神的な打撃によってそれどころではなかったのだ。
 女は直ちに体勢を整えて一同に対峙する。
「まだいたのね! いいわよ、かかってきなさい!」
 ちょっと待て、と言う暇もなかった。かかってこいなどと言う割に、彼女は先手必勝とスカルの足元に滑り込んだ。
「えっウソ俺ぇ!?」
 彼女がスカルに狙いを定めたのは単純に立ち位置と体格の問題であろう。叩くのなら大きい者から狙ったほうがいい。合理的だ、とクイーンは後頭部から沈められた仲間の姿を見ながら思った。
 その隣で、得物の柄に手をかけながらフォックスが声を上げる。
「その声……やはり……」
 そして女はその声に反応するかのように手の中の鎖を彼に向かって伸ばした。
 絡みついたそれに腕を取られて刀が鞘から抜かれることなく地に落ちる無慈悲な音が響き、旋風のように踏み込んだ女の腕が傾いだ彼の体を引っ掴んで持ち上げる。
 一息のことだった。クイーンは再び、胸の内で感心する。合理的な上に判断も素早く的確だ、と。
「ひろおきっ!」
 謎の奇声を発しながらフォックスがくずおれる。
 持ち上げられた彼の体は、背中から女の膝の上に落とされていた。
「牛殺し……もとい、狐殺しか。バラエティ豊かだなぁ」
 まるきり他人事にナビが漏らす。
「言ってる場合かっ!? ああもうっ、ちょっと待て! ワガハイたちは敵じゃないんだ!」
 男三人はすでに倒れ伏し、痛みに悶絶してしまっている。残されたのはナビとクイーン、そしてモナとパンサーだ。猫型生命体はいまだ闘気を漲らせる女に向かって大きく両手を振っている。
「だ、騙されないわよ! そうやってまた私の油断を誘う気なのね!?」
 また、と言う以上、彼女はすでにメメントス内で遭遇したシャドウなりに声をかけたか、かけられているのだろう。その結果は目に見えている。交渉は決裂し、声をかけたシャドウはこの少年たちのように地に沈められたに違いない。
「どうやら、少し大人しくしてもらう必要がありそうね……」
 すり足で距離を取って、構えたクイーンが言う。言葉以上に、彼女は相対する無手の女とやり合いたがっているように見えた。
 しかし―――
「ま、待ってくれ……」
 制止を呼びかける声がかかる。
 それは彼女たちの足元、腰を押さえて小さく震えるフォックスのものだった。
「き……っ、君……嬢だろう……っ」
 はっと息を呑む音がメメントスの薄暗い回廊に響いた。それは女が発していた。
「わ、私を知ってる……? あなた、誰?」
「俺だ……っ、斑目一流斎の元で弟子をしていた……」
 女の身体からだらりと力が抜ける。クイーンは少しだけその様子を観察して、そして彼女もまた構えを解いた。
「喜多川、祐介……」
 呆然としてつぶやいて、女―――は膝を折ってその場にぺたんと座り込んだ。


 ……三日ほど前、所用で渋谷まで出てきていた彼女は、駅の階段を降りようとしたところでめまいを覚え、転んで落ちてはたまらないとその場にしゃがみ込んできつく目をつむった。しばらくするとそれも治まり、体調にこれといった変化も感じられなかったため、そのまま階段を降りたところ無人の改札口に辿り着いたのだという。
 人を探してさまよううちにホームから路線へ、更にその奥へ。
 進んだ先で彼女はシャドウに襲撃され、そして戦う力を得たのだということだった。
 差し迫った問題は彼女が三日もの間この空間をさまよっていたということだ。ホームを模した階層にはシャドウが現れないため、夜はそこで休息を取っていたと言うが、食事や水分補給はここでは不可能だ。
 カバンに入れていた水筒の残りとチョコレートで凌いでいたようだが、それも限界に近かったのだろう。
 蓄積した疲労と栄養失調が合わさって倒れたを、怪盗団は直ちに地上へ連れ帰った。

 現実の世界に帰り着いた彼女を病院に送り届けてその日は終わった。
 彼女の家族や駅員、警察や通行人なりに任せるわけにいかなかったのは、彼女が怪盗団の正体を知ったからと言うだけではなかった。
 三日前、渋谷の駅の階段……
 彼らはこれに心当たりがあった。ちょうど三日前にも、彼らはメメントスに進入するためそこでイセカイナビを起動していたのだ。
 つまり、は、彼らの行動に巻き込まれてこうなった―――
 罪悪感を感じずにいられる者は多くない。青い顔をして小さく震えるセーラー服の少女をほっぽり出して帰れるほど薄情なら、そもそも初めから怪盗なんてやっていなかった。
 ただ一人、複雑な面持ちで彼女を見つめる喜多川だけが腰が痛いから早く帰りたいと訴えたが、それは同じく首の痛みを訴える頭領に黙殺された。
「なんか……なんなの?」
 腕を組んで、ジトっとした目で高巻が曖昧に問いかける。まったく主語のないそれに、しかし喜多川以外の全員が頷いて彼に目を向けた。
 を病院に送り届けた帰り、怪盗たちは事態の把握に努めようと閉店間際のルブランに集合した。
 重苦しい若者たちの雰囲気からなにかを察したのか、店主の佐倉惣治郎は屋根裏部屋の居候に閉店処理を任せて自宅へ帰っていった。
 あとには住宅街の夜に相応しい静寂と、居候だけが慌ただしく動く音が残される。その中で喜多川は渋々と口を開いた。
嬢と俺は知り合い、というか……斑目の下にいたころに、何度か顔を合わせたことがあるんだ」
「へぇ……んじゃ、あの子もなんか、やってんの?」
 カウンターチェアに浅く腰掛けた高巻の問いに、喜多川は少し考えてから首を縦に振った。
「彫刻をやっている」
「そうなんだ? ちょっと意外かも。見た目的にそんな感じじゃなかったよね」
 高巻が言うと、佐倉が首肯してこたえる。
「あのひとの着てた制服、超お嬢様学校のだったよな。あそこたしか、校則であいさつが『ごきげんよう』に決まってるんじゃないっけか」
「うへ、完全に別世界だな」
 ソファ席からだらしなく足を伸ばしながら坂本が言った。後頭部をさすっているところを見るに、彼もまだ痛みを覚えているらしい。
「どういうお家の方なの?」
「詳しくは……確か、彼女の父親は銀座で画廊を経営しているはずだ」
「ああ、だからユースケというか、マダラメ経由の知り合いなのか」
 なるほどと頷いてみせるモルガナに頷いて返して、喜多川はまた渋い顔をつくる。
「だからぁ、それはなんなのよ」
 目敏く指摘する高巻に、彼は口を引き結んだ。それは言い難い、あるいは言いたくないと無言のうちに語っていた。
「仲悪いの?」
 洗い物と片付けを終えた居候が語りかける。喜多川は唸って、返答の代わりにつま先で床を叩いた。
 するとそれにタイミングを合わせるように軽快な音が鳴り響く。
「ははぁん、おイナリ、おまえあのひとが羨ましいんだろ〜」
 音は意地の悪い声を上げた佐倉の手元からだった。カウンターチェアの上で器用にあぐらをかいた彼女の人差し指は、ご自慢のラップトップ型パソコンのキーボード、そのエンターキーの上に乗せられていた。
 そしてその液晶画面にはいくつかのインターネットブラウザが開かれて、つい先ほど病院に送り届けてやった少女の姿が映し出されている―――
 どこかの新聞や雑誌社のインターネット版記事のようだ。たおやかに微笑むセーラー服の少女。見出しには『女子高生彫刻家、さんのエキセントリックな世界観』と仰々しく書かれている。
「インタビュー記事?」
 身を乗り出して記事を斜め読みした新島が言う。
「ふぅん……いろんな場面で活躍する高校生を主としたシリーズものの特集みたいね。他にもスポーツ系とか、情報処理系とか、単純に学力って方面でも……」
「あ、この人知ってる。吹奏楽部でサックス吹いてて、雑誌の表紙にもなってる人だ。美少年って有名なんだよね」
「こっちはU17の日本代表に……げ、明智吾郎までいるじゃねえか。なんでもありかよ」
 同じく顔を寄せた高巻と坂本が、インタビューを受けた少年少女の一覧を眺めてそれぞれの感想を述べる。
 佐倉の手が二つの金髪頭を押し返した。
に関しては似たようなの、他にもいくつか出てくるぞ。へっへー、自分より有名で、売れてるから嫉妬してんだな」
 喜多川はなんとも答えなかった。ただ相変わらず口をへの字に曲げて、じっと足元を睨みつけている。
「沈黙はYESと取るぞ」
 怪盗団の頭領が身に着けていたエプロンを几帳面に畳みながら大した興味もなさそうに言ってやる。そこまでされてやっと彼は口を開いた。
「ある意味ではそうだ。だが、それは彼女の名が売れているからじゃない」
「ふうん?」
 促すように首を傾げるが、喜多川はまた口を閉ざした。
「煮え切らないわね」
 こちらもさして関心なさそうな新島が。彼女は佐倉が示したに関する記事に目を通すことを優先しているようだ。
 喜多川はむすっとしたまま彼女の肩越し、液晶画面に映し出されたとその作品を指差してみせる。
「どう思う?」
 率直で端的な問いかけに、仲間たちは額をつき合わせてうーんと唸った。
「まあ……カワイイよな。正直女タイガーマスクからこの顔が出てきたときはギャグかと思ったわ」
 坂本は顎に指を添えながら少女の見た目に関した率直な意見を述べる。
 続けて高巻が
「そういう意味でもギャップの塊だよね。ウチらと同い年でしょ? そんで、お嬢様学校に通ってて……で、これ」と言いながら、彼女の『作品』の全体を撮影した画像を指し示す。
 そこにはなんとも形容しがたい物体が写されている。曲がりくねった蛇のような、みみずのような、あるいはシダムシのような。
 解るのは言語化し難い感情を人に抱かせる向きがある、ということだけだ。それも一般的には快くない方向の。
 どうしても形容しなければならないとしたら、刺々しいとか、荒々しい、もしくはおぞましいと表現するのが相応しいように思える。そういう類の作品だった。
「想像してみてくれ。彼女が笑って、淑やかに現れる。その横に―――」
 喜多川の細く筋張った手が画面の中、その異様な彫刻を指し示す。
「これが立っている。そしてそれを創り出したのが彼女だと言われて……」
「キャッチーではあるかもね」
 かすかに声を震わせた新島が答えて、モルガナの毛皮に手を伸ばす。柔らかく暖かな感触は彼女を大いに落ち着かせた。
 モルガナはそれを迷惑がるでもなく、かと言って喜ぶわけでもなく受け入れてこぼす。
「ユースケはあの子の作品をあまり良く思っていないみたいだな」
 視線は再び喜多川に集中した。
「俺は……」
 彼はやっぱりはっきりとした感情は示さなかった。
 ただ画面の中で穏やかに笑うの顔を睨みつけて、なにかを深く考えている様子だった。
「……俺は……」
 きっと言葉にできないが、意味はあるのだろう。漠然とした嫌悪に似たなにかがそこにはあった。
 芸術家同士、余人には解らないものの存在を感じて仲間たちは口を閉ざした。

 兎にも角にも、に怪盗団の正体と手段が知られてしまった以上、口止めか、あるいは彼女もまた仲間に引き入れる必要がある。
「弱味でも探るか?」
 まだラップトップをいじる佐倉が冗談めかして言うが、怪盗団の頭領は首を左右に振ってみせた。
「まずは対話から」
 パン、と手を打ち鳴らした彼に、仲間たちは頷いて了承を示した。
 であれば、まずは再びの接触が求められる。は三日間に渡る断食と疲労によって今夜は入院し、翌日からは三日間ほどの自宅にて静養するとのこと。
「鮮やかなお手並み」
「ふふんっ」
 もちろんと言うべきか他者のプライベートを暴き出したのは佐倉であり、指示を出したのは怪盗団の頭目である。
「自宅……ってどこよ」
「銀座に店があんだっけ?」
 疑問符を浮かべる坂本と高巻のスマートフォンに、追加で位置情報が送信される。場所は銀座近辺の駅近くを示していた。
「自宅はここ。で、もういっちょ」
 言って、また更にもう一箇所。こちらは画廊の場所を示しているようだった。
「あん? 店に用事あるか?」
「店舗の奥に彼女のアトリエがあるそうよ。ほら、ここに書いてある」
 新島が指し示したのは先ほどのインタビュー記事だった。
「家にいなけりゃそっちにいるってことか? 静養するんじゃないのか?」
 カウンターに両前足をついて画面を覗き込んだモルガナが言う。新島はまあねと軽く肯定して、
「まあ、念のためよ」と付け足した。

 ―――結果的に言えば、その念は必要だった。翌日の放課後、揃って向かったの自宅には誰もおらず、彼らは銀座にまで赴くことになった。
 マップアプリを利用しながら辿り着いたのは駅から少し歩いた先、大通りに面した大きなビルの中の一つだった。
「ここ? 何階?」
「二階ね」
 見上げると、縦に連なった看板が奇妙な果実のようにビル壁からぶら下がっている。の名が記された看板は確かに二階を示していた。
「なんか……普通に制服で来ちゃったけど、いいんだよね?」
 どことなく不安げに身をよじった高巻が誰にともなく問いかける。うーん、と唸って伊達眼鏡の少年もまた己と背中に担いだ相棒、それから一人だけ私服姿で彼の制服の裾を掴んで離さない少女を見やる。
 別に学生が来ちゃダメってことはないだろう。制服はどこに行ってもオーケーな学生のフォーマルウェアなのだし……
 思案している間に喜多川はさっさとビルに踏み込んでいた。
「あ、祐介このやろう!」
嬢に会うのだろう。さっさと済ませるぞ」
 少年たちは慌てて彼の後に続いた。
 エレベーターではなく階段を利用して登ることおよそ三十段。通路の先にあるガラス戸を押し開けた先にある開けた空間には、ところ狭しと絵画や版画、彫刻が並べられていた。
 一見すると無秩序な印象を受けるが、少し見渡せば作家や年代、作品別のテーマや技法によって分類されていることが分かる。
 耳にはやわらかなピアノの音色。防音がされているのかそれ以外の音は足音や他の客の囁きくらいで、目に見えるものと併せてこの空間が外界から隔離された別の世界だと錯覚させるほどだ。
 なんともなしに気後れする仲間たちをまた置いて、喜多川は真っ直ぐ一人の男のもとへ向かった。
さん」
 声をかけられて、客と和やかな雰囲気で談笑していた男が振り返る。四十代ほどと思わしき姿勢の良いその人は、少年の顔を見るなり少しだけ笑顔を引きつらせた。
「君はたしか、斑目先生のところの……」
「ご無沙汰しております」
 恭しく頭を下げる少年にやっと追いついた仲間たちが加わると、男ははっきりと困惑を示した。
「今日は、友人の道案内です」
 言いつつ喜多川は同じく戸惑う様子を見せる彼らに道を譲るように一歩後ろに退いた。
「君たちは……ああ、もしかして、昨日を保護してくれた」
「―――はい、突然大勢で押しかけてしまって、申し訳ありません」
 こたえたのは背筋を伸ばして一歩前に出た新島だった。彼女は最上級生らしさ、というべきか、はたまた生徒会長然とした、『優等生っぽい』雰囲気を纏っている。仲間たちはひっそりと顔を見合わせて、そういえば真ってそーいうキャラだったっけ、と苦笑しあう。
 それを横目で咎めながら、新島は軽く頭を下げて訪問の理由をでっち上げた。
「昨夜は時間も時間でしたから、送り届けたところで退散することになってしまって……その後さんのお加減はいかがでしょう。気になって、こうしてお邪魔させていただいたんです」
 言葉に、男はふっと警戒を緩めて肩から力を抜き、応対していた客に一言断りを入れてから改めて一同に向き直る。
 冴えない中年男性、というのがの父親に対する子供たちの正直な感想だった。穏やかそうな物腰に下がり眉。仕立ての良さそうなスーツがなければ、どこにでもいるサラリーマンと見間違えそうだ。
 しかしそれは不快感を与えるものではなかった。彼は子供たちの目的が娘の見舞いと知るや否や、顔中を綻ばせて頭を垂れ、心のこもった声を上げる。
「ああ……ありがとう。本当に、娘が無事で……君たちにはなんとお礼を言ったらいいのか……」
 畏まった態度をみせる壮年の男に、かえって子供たちのほうが委縮してしまう。まして原因が自分たちにあると知っているから、居心地の悪さはより強まった。
 どうにかそれを払拭しようと高巻が前に出る。
「あ、あのっ、私たち、さんに会いたいんですけど……」
に?」
 華やかな見た目の彼女に気圧されたのか、男の声は少しだけ上ずっていた。分からないでもない、と男たちなどは小さく頷き合う。
 その内の一人がいまだ制服の裾を掴んで離さない手をやっと振り払って前に出る。
「もしかして、まだ病院に?」
 もちろん彼はがここに居るのであろうことを察知している。その上で、疑いの目と思考を逸らすために問いかけている。
 果たして男はそれに乗った。
「ああ、なら、横になっているほうがかえって悪くなりそうだと言ってね、奥のアトリエに篭っているよ」
 ちらりと彼の目が背後にある扉に向けられる。関係者以外立ち入り禁止の札が掛けられたその向こうに彼女は居るらしい。
 さて、この父親をどう煙に巻いたものか。素早く目を交わし合う少年たちの中で、不精不精と言った様子で喜多川が再び口を開いた。
「見学させていただいてもいいでしょうか」
 男は再び笑顔を引きつらせる。彼がこの少年の言葉……あるいは、存在そのものに忌避感を覚えているのは明らかだった。
 そして少年のほうもまたそれを自覚しているのだろう。彼を透かしてその後ろの扉をじっと見つめる瞳には脅しつけるような色があった。
「あ―――ああ、構わないよ。もきっと、喜ぶだろう」
「ありがとうございます」
 慇懃に頭を下げて、喜多川は目で友人たちを促した。
 ぞろぞろと連れ立って立ち入り禁止の扉に向かう一同に、男の声がかかる。
「き、喜多川くん」
 呼びかけられたのは一人だけだった。彼は立ち止まって、首だけを巡らせて男に目を向けた。
 しかし男は俯いて先を言おうとしない。足を止めた喜多川に気が付いた少年たちもまた立ち止まって振り返る―――
 男は何かを言おうとして、しかし言葉が見つからないのか、何度も言い淀んではせわしなく手を揉み合わせていた。
 それでも呼び止められた張本人は男の言わんとするところが察せたのだろう、首を左右に振って前を向き、また友人たちを促した。
「お気遣いなら結構です。俺はさんに話を聞きに来ただけですから」
 冷たく言い捨てて、関係者以外立入禁止の扉を開け放つ。背後からかかるものはもう何もなかった。

「お、おい〜……怒ってんのか……?」
 おずおずと佐倉が声をかけるが、帰ってきたのは踵がリノリウムの床を叩く音だけだった。
 扉の向こうは長い廊下がずっと続く通路になっている。あちこちに資材の詰め込まれたダンボールが積み上げられていて、元々広くないそこをますます狭く見せていた。
 通路に扉は合計で四つある。一つはたった今入ってきた店舗部分に続く扉と、非常灯の緑が照らし出す扉、従業員用か搬入出用のエレベーター。それから、かすかな物音が響く最後の一つ……おそらくそこがの作業場なのだろう。
 喜多川はやっと振り返って、むつかしい顔を友人たちに見せた。
「怒ってない。だが、帰っていいか?」
「怒ってんじゃん……なんで?」
 大人しくしていようと心に決めていたのだろう、ずっと口を閉ざしていた坂本がやっと声を発した。
「昨日もう言っただろう」
「ええ? いつよ」
「はじめに」
 渋い顔でそっけなく答えて壁にもたれる彼に、背中のカバンからモルガナを下ろしてやりながら少年が言う。
「斑目か」
 納得したとあちこちから声が上がるのにまた喜多川は顔をしかめた。
 そうとも、彼は昨晩について尋ねれられたとき、彼女を知っているのは彼女の父が彼のかつての師、斑目一流斎の関係者であるからだと告げている。
 その付き合いは喜多川の物心が付いたころからのものだから、の父親は斑目の詐欺や盗作行為を知っていたか、加担していた可能性がある。
「確実なの?」
 新島が問いかけると、喜多川は小さく首を左右に振る。
「分からない。けど、俺はあまりここと、嬢に関わり合いになりたくない……」
 だから煮えきらない態度を取り続けていたのか。合点がいって、仲間たちは大きく息をついた。
「はじめからそう言えってのよ」
 やれやれと肩を竦めた高巻に、喜多川は拗ねたように口を尖らせた。
「俺の個人的な感情でシゴトに支障をきたしたくなかったんだ」
「うむうむ、ユースケは真面目だな」
 ぴょんと手近な資材の上に跳び乗ったモルガナがヒゲを広げて彼を称賛する。
「それに俺はなぜか彼女に嫌われているから、会わないほうが話はスムーズに進むと思う」
「先に言えそういうことは。褒めて損した!」
 ニャーと鳴いた猫から顔をそらして、喜多川は鼻を鳴らす。
「嫌われてるって、おまえ、あの人にナニしたんだよ?」
 素朴極まりない佐倉の疑問の声に、しかし彼はまた首を左右に振った。
「知らん。顔を合わせると間違いなく睨まれるんだ」
「知らないうちになんかしてたとか」
「挨拶くらいしかしたことがないのに?」
「その挨拶が『ごきげんよう』じゃなかったとか?」
 さすがにそれは無いだろうとしつつも、少年たちは首を傾げた。
 この喜多川という少年と知り合ってからまだ数ヶ月しか経っていないが、しかしただ挨拶をするだけで不快感を与えるような人物ではないことは確かだ。まして芸術的な閃きさえ関わらなければ行儀の良いほうだから、ますます理由がわからない。
「とにかく、そういうことなら祐介抜きで会ってみましょう。いいわね?」
 作戦参謀官からのお達しに、仲間たちは頷いてみせ、簡単なブリーフィングを済ませた後にのアトリエに繋がる扉をくぐって行った。
 廊下には喜多川だけが残される。
 どこかでかすかに駆動する空調の機械音がわずかに響く中取り残された彼は、積み上げられたダンボール箱の間に挟まるように床に座り込んだ。
 そして自問する。
 ―――なぜ彼女に嫌われているのかだって? そんなものは俺が知りたい。彼女と出会ったのはほんとうに子どものころだったはずだ。もう筆を手になにかを描く楽しさに夢中になっていたころ……
 彼は眠るようにしばし過去へ思いを馳せる。
 初めのころは普通に接してくれていたはずだ。ごきげんようと挨拶をされて、変なのと思いながら促されるままこんにちはと返して。
 それからすぐに斑目との父はなにか、おそらく商談を始めて、子どもたちは遊んでいなさいと放り出されて……喜多川少年は他にすることもないから、いつものように絵を描き始めた。他にしたいことなんてなかった。嬢も退屈そうにどこかへ行ってしまっていたから、構う必要はまったくなかった。
 やがて話が終わったらしい彼女の父が現れて、少年の手元を見ながら冗談めかして言った。
 さすが斑目先生のお弟子さんだ。この歳でもうこれだけのものを……いずれ是非、私どものところにも絵を卸していただきたいものです……
 本気にしたことなんてなかったが、結果的にそれは果たされた。喜多川少年の描いた物のいくつかは、他の弟子たちの作品ともども、斑目一流斎の名でこの男のもとへ卸された。
 つい先ほどの態度を見るに、おそらくの父親はその事実を知っていたのだろう。現在に戻って、喜多川は鼻を鳴らして目を眇めた。
 あまり楽しいとは言えない思い出の名残のように、最後にふっと一つの事実が胸に返る。
 そういえば……
 彼女はあのころに彫刻を始めたんだったか……
 思考を遮るようにチンと硬質的な電子音が響いた。音のしたほうに目を向けると、ちょうどエレベーターが到着を告げて階層ランプを点滅させている。
 喜多川の目にはその鉄製の扉が開く様がスローモーションのように映った。
 ゆっくりと左右に分かれる薄きみどり色の扉の向こうから、少女が一人、まだ青い顔になんの感情も称えない表情を乗せて現れる。
 がそこに居た。
 最悪なことは、彼女がすぐに息を潜めた喜多川の存在に気が付いたことだった。