……わかってる。
 私に才能なんてない。ただ人の目に入るように、人の口に上るように、私自身の見た目や経歴と剥離していそうなものを作っているだけよ。
 馬鹿みたい。
 彼みたいに情熱をもって挑んでいるわけでもないのに、みんな私を褒めそやす。
 馬鹿みたい。
 なにをしたって勝てるわけないと知っているのに、また私、なにかを作り出そうとしてる。
 どれだけやったって、天からそうするように定められた本物になんてかないっこないのに。
 私は所詮バーターでしかない。本物を知っている人から見たら、失笑ものだわ。
 誰も言わなくても、誰もが思ってる。お前じゃ彼のようにはなれないと。知ってるわ。私はどうせ、彼みたいにはなれはしない。
 彼みたいに本物にはなれない。
 彼みたいに情熱をもって挑めない。
 それでも、私は……


……
 四軒茶屋の路地、ルブランの屋根裏部屋に辿り着いた喜多川を出迎えたのはまったくいつも通りの面々だった。
「おかえり〜……って祐介なにそれ、どうしたの顔」
「あーっ、もったいねぇシジョウカチが下がる!」
 別にここから出掛けたわけでもないのにおかえりなどと言う高巻はともかく、目敏く喜多川の頬に付けられたの裏拳痕を見つけて勝手なことを言う坂本は許しがたい。少年は手近なところに放り出されていた青い帽子のぬいぐるみを手に取り、勢いよく彼の顔面に向けて叩き付けた。
「俺のジャックフロスト!!」
 悲鳴を上げたのは屋根裏部屋の主のほうだった。
 飛来物を顔面にまともにくらった坂本とぬいぐるみは哀れに床に転がり、ぬいぐるみのほうは直ちに心優しい所有者によってすくい上げられる。
「あーあ、唯一のとりえが台無しじゃん。ほら、こっち来なよ。冷やしたげる」
「え……唯一……?」
 空のグラスに残された氷をカラカラと鳴らす高巻の言い様に呆然としながらも跪く。押し当てられた氷は当然冷たかったが、つい今しがたまで受けていたの視線よりずっと暖かいかもしれない。
 ため息をついて首尾を報告する。
「ダメだった」
 本来ならば落胆を呼び起こすそれに、何故か仲間たちのうちの半数が手を打ち鳴らして喜びを露わにした。
 どういうことだと眉を寄せる喜多川の前で紙幣が行き交わされる――
「お前たち……!」
「あんがとゆーすけっ、もーかっちゃった!」
「杏! 俺がしくじるほうに賭けていたのか!?」
「真もだよ。ていうか、リーダー以外はみんな失敗するほうに賭けてたし」
「……!?」
 愕然とした顔で屋根裏を見渡す彼の目に、渋い顔をした頭目の姿が映る。彼はまた恨めしげに
「信じてたのに……」とも言った。
「なにが信じてた、だ。一人勝ち狙ってコケただけだろ」
 即座に入れられた冷たい猫の一刺しに少年はその場に膝をついて頭を抱える。
 それに苦笑しつつもまだしわのない新しい札を指先で弾いたのは新島だった。
「安心して、なんらかの形で団に還元するわ。とりあえず今度みんなでご飯でも食べに行きましょ」
「ううう……おごり……?」
「当然。祐介の分も出すわよ。行くでしょ?」
 一連のやり取りに目を丸くしていた喜多川は突然差し向けられた水に慌てて首を縦に振った。
 しかしそんな呑気なことを言っていられる場合だろうか。マイナスにこそ傾くことはなかったが、依然として危機的状況であることに変わりはないのだ。
 胸中の疑問に答えるように佐倉が顔を上げる。彼女のポケットからも野口英世が顔を覗かせていた。
「おイナリがあっちで『足止め』してくれてる間にお嬢の作業部屋にあったパソコンからデータ全部ぶっこ抜いてきた」
「いつの間に……いや、待て、俺を囮にしたな……!?」
「言ったでしょ、リーダー以外みんなで失敗するほうに賭けたって」
 あっけらかんとした高巻の言葉に、喜多川は今度こそ力を失って床にくずおれた。
「ただまあ、無差別に全部だからな。さーて、どこから覗いてやろうか……ふひひ」
 にやりと笑って手をわきわきとさせる少女に、見張りとして猫が膝に、左には屋根裏の主が、右には作戦参謀官が着いた。
「……プライベートなのは、やめときます」
「よろしい」
 うなだれた佐倉に満足げに新島が頷いて、少年のほうはゴーサインを出してやった。
 さて、怪盗団の目的は一つだ。の圧倒的有利を覆し、同等かそれ以下にまで引きずり落とす。そこまでやって初めて彼女を交渉の席に着かせることが出来るだろう。
 では今日喜多川がしてきたことは無駄なのかと言われれば、それはもちろん違っている。
「説得に成功はしなくても、なんか引き出して来たんでしょ?」
 テーブルの上に広げられていた菓子類の中から個包装の焼き菓子を引っ張り出しつつ、高巻は片目をつぶった。
 その対角線上に座した坂本はまた別の菓子を取り出している。
「祐介の取り柄はその顔とバカ正直なとこだしな。あの氷の女王サマの弱点にちょっとはなんか響いたんじゃねーの」
「氷ってより、虎でしょ」
「バッカ、トラのメスは超コボンノーなんだって。ほぼ猫みたいな性格だってテレビで見たし」
「あー、動物園で見る虎って確かにほぼ猫だね」
「でも助走無しで二メートルくらいジャンプできるらしいぞ」
「へー……豹は?」
「さあ……」
「調べときなさいよ!」
「あンでだよ! テメェで調べろよ!」
「そうする」
「おう」
 真面目なのか不真面目なのか判別つけ難いやり取りをする二人の横で、喜多川はとの会話を反芻させる。
 彼はしばし考え込んで、やがて今日の成果を一言にまとめて宣言した。
「ファザコンだった」
 沈黙が返される。
 誰もが胡乱げな瞳でもって彼を見つめたが、彼自身は自信満々に頷いている。
 最も早く我に返ったのは佐倉だったが、しかし彼女はツッコミを放棄してメーラーに掛けられたパスワードの解析に集中した。それは自分の役目ではない、ということらしい。
 猫もすでに戻っていたが、その瞳は相手をするのが面倒くさいと語っているし、少年のほうは困った顔をして新島を窺っている。
 二人はしばし目だけで語り合った。
 ――アレどうにかして。
 ――また私?
 ――頼むよ。今度コーヒーでも奢るから。
 ――安くないわよ。
 薄ら寒い取引の後、新島は口を開いた。
「まあ、いいわ。祐介、どういうことなのか説明して。はじめから」
 問題児を相手取る女教師か不出来な弟を嗜める姉といった風情で手をひらひらとさせる彼女に、喜多川は分かったと応えて先ほどまでのとの相互表明を語ってみせた。
 それは喜多川以外の誰かが、彼女のあの怪盗団に対する敵愾心を生み出させているという結論に収束する。
 そしてそれはおそらく、あのこれみよがしな高級車で彼女を連れ去った男だろう。
 推測に過ぎないが確信があった。
「ファザコンっつーか、オヤジ趣味って可能性は?」
 話を聞き終わった高巻の問いかけに、喜多川は眉をしかめる。
 あまりそうと思いたくないというのもあったが、何より……
「それに、マジのパトロンってこともあるかもじゃない? さんの作品を気に入って、支援する人なのかも」
「まあな」
 けど、まあ、でも。
 言い淀む彼を、佐倉の手元を監視する少年が促した。
「言いたいことがあるのなら言っていいぞ」
 と言うより、芸術的観点や直感による意見であるのならなおのこと、喜多川が述べなければ誰にも分からない。
 言外が意味するとことを聡く察してごもっともと頷く。
 そして彼はきっぱりと言い切った。
「俺には嬢の作品がそこまで価値のあるものとは思えない」
「おお……どストレート、ど真ん中」
 何故か坂本が感心したような声を上げるが、それは構わずに彼は続ける。
「確かに一定以上の実力はあるだろう。だが、彼女と同等かあれ以上に優れた者はごまんといるし、そう考えると実力に対して評価が大きすぎるように感じられる。どちらかと言えば彼女が優れているのは造形ではなく、プロデュース力なのではないかと思う」
 若者たちは首を傾げた。
「そう? 同い年の人が造ったって言われれば普通にすごいと思うけど……」
 高巻の発言に然りと頷いて、そして彼はそれを指さすように空中を指し示した。
「それだ。語るに落ちたな」
 なにが? と首を傾げる高巻と坂本から離れて、佐倉と新島が膝を打った。
「あー……なるほどね」
「レッテル貼りとハロー効果か〜……」
「え? なに?」
 疑問の声に少年が答えた。
「竜司、さんのことどう思う? ぶん投げられたこととか、今回の件を別にして考えて」
「あー? うーん……顔はかわいい……かわいいよな? スタイルも良かったし……そんでお金持ちのお嬢様だろ。まあ……そこだけ考えたら高嶺の花って感じ?」
 少年は肩をすくめる。概ね同意と言うことらしいが、坂本はそれだけでは理解に至らなかったとみて新島が言を引き継ぐ。
「つまりね、竜司、あなたの脳にはそれだけ彼女に対する好意的な印象があるのよ」
「見た目のことしか言ってねぇけど」
「視覚情報が人に与える効果は大きいわ。じゃあ、彼女が私たちよりずっと年上のひとだったとしたらどう?」
 傍らの少年などは最高じゃんとつぶやいたりもしたが、誰もそれは拾わなかった。彼の年上趣味に付き合うつもりもなかったし、場を引っ掻き回されてはたまらない。
「どんくらい上かによるけど……」
「じゃあ五十代」
「さすがに守備範囲外っす」
「正直でよろしい。結局そういうことなのよ」
「えー? あー? つまり……が若くてカワイイからってこと?」
「ご名答」
 パチパチと手を打ち鳴らしてやると、坂本は思い切り顔をしかめた。
「はー? そんなもんかぁ?」
「ウチらにとっては今のところ当たり前にあるものだもんね」
「まあね。それに竜司、あなた言ってたでしょ」
「ん?」
「ナンパの手段で市場価値で唯一のとりえ」
「あー!」
 やっと合点がいったと指を鳴らす。つまり、の容姿と現役の女子高生であることが彼女の評価を水増しさせているということだろう。
「だからモルガナははじめから、大した反応を見せなかったんだ」
「モナにはお嬢がじょしこーせーだとかそんなの関係ないもんな〜」
「まあな。それにワガハイにはアン殿が……うにゃうにゃ……」
「ん? なに? 呼んだ?」
「ニャンでもないっ」
 照れて佐倉の膝に顔を伏せるモルガナはさておき、まだ疑問は残る。
「その理屈でが選ばれるってのは分かったけどよ、が選ぶ必要なくね?」
 まったくその通り。彼女は経済的にも家庭環境的にも安定しているように見える。金という観点からも父性という観点からも、わざわざ他人を頼る必要はない。彼女にはコンプレックスの根源たる父親がいて、そしておそらく二人は、相思相愛だ。
「おイナリとお嬢のジニ係数は~……0.90くらい?」
「0.96とみた」
「失敬な」
「おーよしよし、祐介、マジで抜けたくなったらお前からだけは徴収しないでいてやるからな」
 言う割に、そんな日は来ないだろうと自信深げな瞳は語っている。
 そして喜多川はこれにぽんと手を打った。
「それだ」
「ん? どれ?」
「双葉、家……というか、あの画廊の経済状況を調べてくれ」
「はぁん? そんなの調べなくても分かるだろ? あのご自宅にごきげんようだぞ」
「ここ数ヶ月のもので構わん。そうだな……六月の五日以降だ」
 首を傾げる佐倉に対し、坂本や高巻、モルガナはおや、と目を軽く見開いて首を傾けた。
「斑目か」
 どこからともなく手帳を取り出してそれに目を落とした少年が言う。喜多川は然りと頷いてみせた。
「せ……斑目、が『サユリ』の贋作をの父親の元にも卸していた可能性は大いにある。その真贋を知っていたかどうかは、腹立たしいがこの際どうでもいい。もしもそれを誰かに販売していたとなれば、斑目のあの会見で信用は地に落ちただろう」
「ははあ、なるほど。立派なカンジだったけど、裏はどーなってるか、ってことか。ちょい待ってろ……」
 佐倉の小さな手が滑らかに動き始める。淀みなく走る手は頼もしいが、彼女が具体的になにをしているかはあまり知りたくない、と一同は密かに思う。
 しかしさすがに金銭の流動を探るとなると他より手間がかかるのだろう、佐倉が再び顔を見せるのには三十分ほどの時間を要した。
「よし通った……っておまえら! わたしを働かせてゲームしてんじゃねーぞ!」
 まなじりを吊り上げた少女の視界には、テレビの前を陣取る面々の姿が映っている。そのうちの二名は経年劣化によって黄ばんでしまったコントローラーを手に、いまだ画面にかぶりついて熱中している。
「あ、沈んだ。助けておにいちゃん!」
「やめろキモい。ったくしょーがねーな……」
「懐かしい曲が流れてるじゃないか……モナ! 猫リセット!」
「猫じゃねーし! まったく……」
「ギャーっ!?」
「ああーっ!?」
 ぎゃあぎゃあと喚きながら絶望して床に転がった二人に満足げにして、佐倉は注目を促すために指を鳴らした。
「はいちゅーもく。まずおイナリ、ビンゴだ。事情は分かんないけど、六月にウン百万の支払いがある」
「はああっ!? ナニそれ!?」
 飾らない高巻のリアクションが気に入ったのだろう、佐倉は猫のように目を細めてしたり顔をしてみせる。
 しかし答えたのは喜多川だった。
「おそらく、違約金の類だろう。すでに売り払っていたのか納品予定だったのか……どちらにせよ、『サユリ』が例の会見によって贋作であると判明して刑戮を求められたんだ」
「ひえー……別世界の話だわ……」
 坂本もまた目を皿のようにして瞬きを繰り返している。
「その後もちょいちょい大金が出てるな。対して入るほうは六月以降ほとんど無い。でも、ここ数週間で損失を補填するだけの額が振り込まれてる」
「なるほど。パトロン、ね」
 深く頷いてつぶやいた新島の顔には嫌悪感が滲んでいる。
 しかし結論に至るにはまだ早いと判じたのだろう。新島は直ちに表情を消して佐倉に問いかけた。
「そのお金は誰が?」
「んん……個人じゃない。地方のゼネコン系? ちょい待ち、ググる」
「所在地と電話番号はわかる?」
「これ」
 佐倉の指先が液晶画面をつつくと、新島はどこからともなくプリペイド式の携帯電話を取り出して番号をプッシュし始める。やがて受話口を耳に押し当てると口元に人差し指を立てて沈黙まで要求する。
 少年たちは驚きとともにそれを口を閉ざして見守った。
 しかし時間の経過と比例してその表情は陰りを帯び、やがて彼女は携帯電話を手元に返して通話終了のボタンを押してしまう。
「……駄目ね、繋がらない」
「通話中?」
 沈黙していたうちの一人が伊達眼鏡のブリッジを指先で押さえながら問いかける。新島は首を左右に振って
「番号が存在しないみたいよ」と答えた。
「ダミー会社かな」
 長い前髪を指先でいじりながら推測を述べる。
 新島は直ちに是とは言わなかった。
「いちお、代表者の名前は安田塀太ってやつになってる」
 心当たりあるやついるか?
 佐倉の問いかけに全員が首を振った。
「とりあえず検索してみる?」
 冗談めかして言う高巻の隣で、坂本がすでに世界最大の検索エンジンに名前を入力し終えていた。
「んー、出ねぇな。安田橋塀次ってやつばっか出てくるわ」
「その人なら知ってるわよ」
 なんてことないと言ってのける新島に視線が集中する。彼女は一同の顔に浮かんだ驚きに、ちょっと呆れたような顔をしてみせた。
「大手の総合商社に安田橋物流ってあるでしょ、その社長の息子よ。この人のおじいさんの代には小さな商店だったんだけど、戦後に日用品の輸入を始めて今じゃ日本の物流の多くを担うまでに成長した……って近代史で少し触れなかった?」
 上級生からのありがたい説明に、二年生組は揃って明後日の方向に目を向けた。
「もう……まあ、何にせよ漢字が似てるから引っかかっただけでしょうし、忘れていいわ」
 お説教に発展しなかったことに安堵の息をつく二年生たちに猫と少女の冷たい眼差しが突き刺さる。
 しかしその手が再び軽快な音を立てようとすると、喜多川が顔を上げて待ったをかける。
「その安田橋某の歳はいくつだ?」
「へあ? えっと……一九六二年生まれだから、今五十四歳だな」
「……顔は分かるか」
 これは坂本が手元のスマートフォンを掲げてやった。ゴリラガラスに保護された液晶には、五十代のやや肥満体型の男が映し出されている。
 喜多川は顔をしかめて息をついた。
「昨日嬢を迎えに来ていた男だ」
「うわマジか」
 率直な驚きを表して掲げていたものを手元に返すと、坂本はまじまじとその男の顔を見つめる。見ていて楽しい類のものではなかったから、彼はすぐに顔を上げて喜多川に問いを投げた。
「ホントにこいつなのか?」
「ああ、長い時間見ていたわけではないが、この男に間違いない」
 うへーと呻いて、坂本はまたちらりとスマートフォンに目を落とす。彼の背後では同じものか類似した画像が映し出されているのだろうラップトップを覗き込んだ女性陣と猫が似たような表情を見せていた。
 ただ一人、怪盗団の頭領だけが忙しなく指を動かして誰かにメッセージを送信している。やがて彼は渋い顔で一同にしばしの休憩を言い渡し、階下へ降りてそのまま一時ルブランの外にまで姿を消した。
 おそらく情報に精通した協力者に連絡を取っているのだろうとは皆が察せられるところではあったから、仲間たちは忠実に――しかしまたゲーム機に手を呼ばしたりしつつ彼の帰還を待った。
 十分も掛からぬうちに戻った彼は、坂本や佐倉の手に握られたコントローラーを見るや
「なるほどこれは腹立つな」と言って無慈悲にリセットボタンに指を押し当てる。
「うあーっ!」
「またかよ!」
 喚くが転がらなかったのは、少年が口を開いて語ったことがなかなか衝撃的で、そんな余裕を与えなかったからだ。
「その男、去年の暮れに買春で捕まってる。ただし不起訴処分。ほかにも海外で派手に児童買春で遊んでるみたいだし、五年前には強姦罪で逮捕されてるけど、これは示談が成立してる――」
「ちょちょ、待ってウェイウェイ、なんだって?」
「だから、児童買春と強姦」
 腕を組んで何度も言わせるなと告げると、待ったをかけた佐倉などは明らかに顔色を悪くして体を引いた。
「ニュースなんかになってないのは、報道される前にもみ消されるから。かなりあちこちに金をバラ撒いてるみたいだな」
 鼻を鳴らした少年の言葉に、極めて慎重に言葉を選びながら坂本が問いかける。
「そういうやつが、あの女をわざわざ迎えに?」
「らしいね。そうだろ、祐介」
「あ、ああ……」
「そんで、じゃあんちに金渡してんのも……?」
「推測の域は出ないけど、おそらくは」
 新島が肯定する。
 なんとも言い難い空気が屋根裏部屋に満ちた。うかつな発言は許されない、そういう雰囲気だった。
「ちょい待てよ、なに? じゃあ……そーゆーこと?」
 刺激を極力減らそうとした結果だろう、坂本の発言は曖昧な表現に留まった。しかしそれで十分、彼の戸惑いと言いたいことは伝わってしまう。
「まあ……つまり、そーゆーこと、だな……」
 くせっ毛を掻いた少年もまた倣う。女性陣は複雑な顔で腕を組み、なんとも言い出せずに沈黙を守っている。
 各々の頭の中には共通した、心情的に言語化し難い想像がある。いずれも口に出すのはためらわれた。
 しかし空気を読まないことに定評がある少年だけがなるほどと頷いて、隠すこともなく堂々と
「愛人契約とでも言ったところか」と言ってのけた。
「ユースケ……オマエな、少しは包み隠そうとしろよ……」
「なぜ?」
 首を傾げた彼に呆れたらいいのか笑ったらいいのか。
 さておき、具体的な言葉が出てきたことでやりやすくはなっただろう。坂本が乱暴に己の頭をかき回しながら喚き始める。
「はあぁ!? あのくっそプライド高そーな女がぁ? この小太りのオッサンとぉ!?」
「金と引き換えに若さを失うまでなにしてもいいって言われれば、まあ、出すやつは出すし、事情があれば食い付くやつもいるって話だろ」
「……嬢がか……」
 少年たちはお互いの顔を見合わせて沈黙する。
 しかし幸いなことに、なんらかの結論を出す前に高巻の鋭い制止によって立ち止まった。
「そこ、男子。それ以上の妄想禁止」
「はい」
「すいません」
「ごめんなさい」
 頭を下げて平伏した少年たちに冷たい一瞥をくれて、新島は手元のスマートフォンに囁きかける。
「安田橋塀次」
 すでに起動され、呼び掛けられるのを待っていたイセカイナビは直ちに応じた。
『ヒットしました』
「おっ、パレス持ちか」
 モルガナがひげを広げて顔を上げる。
「やっといつものワガハイたちのシゴトらしくなってきたな。アダバシのパレスでなにか交渉の材料が見つかるかもしれないぜ」
「改心もするよね?」
 不安げに問いかけたのは高巻だった。モルガナは彼女を見て、ちょっと困ったように尾を寝かせる。
「してもいいとは思うが……でも、タイミング次第じゃ交渉が上手くいかなくなってしまうかもしれないぞ」
「うん、だよね。でも……」
 言いよどむ高巻の声に被せるように、佐倉が控えめに手を挙げた。
「あのさ、あの、お嬢のアトリエにあった作りかけの像あっただろ」
「あったわね。それがどうかしたの?」
「あれ、制作前にいちおう3Dでモデリングもされてて……ここにあるんだけど、実物と見比べると、たぶん、もうそろそろ完成するんだとおもう。そんで、さっきからお嬢のメールボックス見てて……」
 促されるも、佐倉は続きを口にしたくないと膝に乗せたラップトップを反転させる。画面には彼女が言った通り、受信ボックスが表示されていた。
「なんだこれは」
 覗き込んだ喜多川が顔をしかめるのも無理からぬことだった。そこに綴られた文章はなんとも扇情的、かつ官能的な表現が多く用いられていたのだ。
「うお……キッツい……」
 隣に並んで同じく文章に目を通す少年が漏らすのに、喜多川は然りと首を縦に振る。
「目が滑るというか、背中が痒くなるというか……あー、これは、ううう……」
 苦悶の声を上げながら、それでもメール本文に目を通す。
 どうやらは次に完成させる作品を、送信者の自宅に直接受け渡しに行くらしい。
 そしてそのとき、なにやら他にも大切なものの譲渡が行われる――
「無理、これ無理、父さんと歳そんな変わらないヒトがこれ書いてんのかと思うと……ああ……!」
「落ち着けリーダー、ソドムの市と三回唱えろ」
「カレーが食えなくなるだろうが!」
 忘れてたのにと床を叩いて立ち上がり、少年はぎりぎりと奥歯を鳴らして、苦渋とともに仲間たちに告げてやる。
「オトメの危機だ。多分。で、俺はタイミング見てる場合じゃないと思う。迷ってるやつはコレに目を通してから決めろ」
 顎でしゃくって示してやるが、律儀に最後まで目を通そうとする喜多川に付き合う猛者は現れなかった。彼らの口ぶりと佐倉の反応によって、概ねの推察は立てられていた。
「双葉、完成はどれくらいか分かるか」
「昨日と今日で見比べた感じと、明後日には登校再開するから……少なく見積もって、あと一週間くらいだとおもう」
「通報の期限とほとんど同時か……一応聞くぞ。反対の者は?」
 誰も声も手もあげなかった。
 少年はやっと顔を上げた喜多川を始点に、ぐるりと一同の顔を見渡した。
 息をつき、そして大きく吸って宣言する。
さんには仇があるが、貸しもある。ただし時間はない。気合入れてやるぞお前ら――」
 頭目の号令に、怪盗たちは威勢よく応とこたえた。

……


 まだ目にあの彩度の高い空間の影が焼き付いている気がする――
 少年は目頭を押さえてきつく目をつむり、しかし足は止めることなく前に進み続けている。あたりはすっかり宵闇に包まれ、閑静な住宅街には足音ばかりがよく響いた。
 まぶたを上げても人ひとり見当たらない通りは高い塀に囲まれている。まるで余人の訪問そのものを家々が拒絶しているかのようだった。
 思い出したように車が通りかからなければ、世界にただ一人残されたような心地になっていたかもしれない。
 それはそれで、興味深い。
 少年はふうむと唸って内なる想像の世界に思いを馳せる。この世にただ一人置き去りにされるというのはどんな気分だろうか、と。
 きっと心細さと同時に、説明のし難い解放感を覚えることだろう。
 ……ちょうど視線の先で所在なさげにしている少女のように。
 少年は無言のまま歩を進め、彼女のそばで足を止めた。
「ごきげんよう」
 彼にとって最上級の嫌味と冗談だった。横目で確認した少女の顔が思い切りしかめられているのを見るに、少なくとも前者は成功しているらしかった。
「やってくれたわね」
「なんのことだ」
「すべてを台無しにしてくれた。意趣返しのつもり?」
「その言い方では君自身が望んで身を捧げようとしていたように聞こえるが」
「当然よ。私がお願いしたんだもの」
 少年は片眉だけをしかめて、前方を塞ぐ薄闇を睨みつけた。
「それならどうしてそんなに震えている。まだ寒さに怯えるような季節じゃないだろう」
 少女は唇を噛んで、隣に立つ少年を睨みつけた。
 瞳は心火に燃えている。これ以上ないほどの怒りと屈辱、そして見透かされたことに対する苛立ちと恥じらいがそこに宿されていた。
「まさか私を助けたつもりだなどと言うつもりじゃないでしょうね」
「俺は別に。けど、あいつらはどうかな。君が父親のため安田橋に身売りまがいの真似をさせられることにひどく憤っていたが」
「私の意志よ。誰かに強いられたわけじゃないわ」
 父親をかばい立てるような言い様に、少年は心の中だけで「ファザコンめ」と毒づいた。
 しかしそんなことはもう十分すぎるくらい知っている。
 つい今しがたまで挑んでいた安田橋のパレス――蛍光色の壁と床で構成されたルネサンス様式の洋館で目撃したあの男の記憶に、少女は度々姿を現した。彼女はずっと曾祖父の代から続く店を守ろうとする父親のために出来ることを探している様子だった。それこそ幼いころから。
「あの男がずっと以前から君に目を付けていたことは知っていたのか?」
「……中学のころから、支援を申し出てくれていたもの。ずっとお断りしていたけど」
「そのころは、か」
「当然でしょう。私には過ぎた評価だわ」
「なんだ。案外冷静だな」
 現実で隣に並ぶ彼女に対し、安田橋の記憶の中の少女はいつも必死な様子だった。見たこともないような殊勝さで、屈辱的な仕打ちに耐えていた……
「おえ」
「なによ」
「君は幸いだ。あの男の心の内を見ずに済んだ……」
「はあ?」
「うっぷ……君、さん、まだなにもされていないだろうな」
「はあっ!?」
「大きな声を出さないでくれ。近隣住民に迷惑がかかる。俺の胃と腸にも。おえ……」
「あなた、なにを言っているの?」
「口にするのははばかられる」
 なんなの、とつぶやいて、少女はまた青ざめた少年を睨んだ。
「あの人が私になにをしようとしていたかはもうどうだっていいわ。なんであっても、もう終わってしまったことなんだから」
「どうでもよくはない。俺がわざわざここへ来たのは、また同じようなことをしないよう釘を刺すためだ」
「逆効果だとは思わないの?」
「なぜ」
「どうして私があなたの言うことに従わなければならないの。私はあなたたちに助けられたとは思わないし、必要ならまた別の人に取り入るわ」
「父親のために?」
「そうよ」
 少年は今度こそ声に出して
「そうか、君はファザコンだったな」と言ってやった。
 すると少女は顔を赤くして、これ以上ないほどまなじりを釣り上げる。
「家族を大事に思ってなにが悪いのよ!」
 怒りの籠もった声であった。どうやらファザコンという単語は彼女にとっての禁句であるらしい。
 もちろん、彼女のいうことに反論するつもりは少年にはなかった。まったくその通りだと思うし、そんな風に思える彼女を羨ましくも思う。
 それでも彼は小馬鹿にするように鼻を鳴らした。わかるからこそ愚かなことだと。
「その大事なものが君の選択を歓迎するとは限らない」
「あなたにはわかりっこないわ」
「わかる。俺もそうだった。あれは、すごく痛かった」
 腹をさすって痛みを思い返す彼に少女は怪訝そうな顔をしてみせるが、説明する気など毛頭ないと言わんばかりに、少年は顎をしゃくって車道を示す。
 ちょうど一台のワゴンが停車したところだった。
「あ……」
 少女は声を上げて、呆然とした様子で身を竦ませた。
 それはいたずらやしくじりを見つけられてしまった子供の姿だ。怒られることを知って怯えている。
 少年は極めて優しくその背を押してやった。
「ほらな、俺の言った通りだ」
 唇を噛み締めた少女の耳と背に、つい今しがた触れた手の力強い感触と、たしなめるような調子の優しい声が強く印象付けられた。
 しかし少女はそれらを振り払うようにかぶりを振り、拳を握って顔中をしかめる。
「あなたなんて……大嫌いよ……なにもかも解っているみたいなその態度……」
「そうか。俺は君のその剣呑な態度にも慣れたよ。案外こういうのも悪くないな」
「キモチワルイ……」
「よく言われる」
 相反するように少年は笑っていたが、背を向けた少女に確認する術はない。ただ背後に立つ彼は朗らかな笑い声を上げていたから、目視するまでもなく彼が笑っていることは明らかだった。
「ああ、ほら、さっさと帰れ。おやすみ、さん」
 少女にはその楽しげな笑い声がたまらなく不愉快だった。せめて、せめてなにか一つ、言い返してやりたい。たとえ口喧嘩だとしても、負けるわけにはいかなかった。
 覚悟を決めて振り返る――
「喜多川くん、あなたね……」
 しかしそこにはただ宵闇があるだけで、少年の姿はもうどこにも見当たらなかった。

 もちろん、彼はちゃんと実際にその場にいたし、霞のように消えてしまったというわけでもなかった。
 単純なトリックだ。
 彼女が背を向けていたときから少しずつ離れて、最後に声をかけたすぐ後に、近くの角を曲がっただけだ。
 それでもが大仰に驚いて、喜多川の姿を見つけようとあたりを見回しているから、おかしくてたまらない。
 けれど、カーブミラー越しに映る少女のそばに父親が駆け寄ってくると、喜多川はもう笑う気にはなれなかった。
 二人がなにを話しているのかは聞き取れない。
 ただの父親は娘を抱き締めて、何度も何度も優しく頭を撫でてやっている――
 喜多川は目を細めて親子の姿を眺めて、やがてもう見るべきものはないと踵を返した。
 手の中には樋口一葉がある。これを彼に渡した少年はこみ上げる吐き気と戦いながら「これ電車賃。後詰め任せた。お釣りでお菓子買っていいよ」と言ってくれたが、さて……
 思わずと笑ってしまったのはこれを彼が言った直後、仲間たちから一斉に「親御さんか」とか、「はじめてのおつかいか」とツッコミを入れられていたからだ。
 本当に全部使い切る気なんてなかったが、彼の言う通り菓子でも買って仲間たちに還元してやろう。
 そうと決めて、少年は最後に一度だけ振り返ってカーブミラーに目を向けた。
 抱き合う親子の姿はもうそこにない。
 結局怪盗団を襲った問題は何一つとして片付いていないが、勝算がないわけじゃない。
 そうとも、初めから彼は勝っていた。あの父親が彼を見て、いかにも気まずそうに目を伏せたときから。そしてあの子がファザコンだというのなら、ああしてきちんと話し合う兆候を見せ始めた今父親の意向は必ず汲み取られるだろう。


 思惑通りになったと彼が知ったのは翌日の放課後になってからだった。
 校門の前にいかにもな高級車が停められているのを見つけて、それでも己には関係ないなと素通りしようとした彼に、鋭い『お召し』が投げかけられたのだ。
「ちょっとあなた……喜多川祐介! なに通り過ぎようとしているの! 待ちなさい!」
 居丈高な調子には覚えがあった。振り返ると腰に手を当てたセーラー服姿のが彼を睨みつけていた。
「昨日の今日でどうした?」
「用件は車の中で話します。乗りなさい」
 クイッと親指で肩越しの背後を示す。堂に入った脅しぶりだった。このときに至ってまだ彼女は『脅迫者としては一流』であるらしい。
 昨晩まで延々見せつけられたあの悪趣味の極みみたいな光景を忘れるためにも今日は早く帰って寝たかったのに……
 ボヤきつつそれでも渋々乗り込むと、逃げ道を塞ぐようにも隣に腰掛ける。やってしまったなと彼は少しだけ気まずく思う。彼は上座に位置していた。
 しかしはそんなことは気にしていないらしい。革張りのシートにゆったりと背を預け、運転席と後部座席を仕切るパーティションを軽く叩いた。
 すると車は滑らかに動き始める。
「あれ……どこに連れて行く気だ? まさか君、俺をドラム缶に詰めて沈める気じゃ」
「あなた私をなんだと思ってるの!?」
「冗談だ。それで?」
「別にどこにも行かないわよ。いつまでもよその学校の前に留まっているわけにも行かないでしょう。適当に流してもらうわ」
 ふん、と鼻を鳴らして腕を組む。その仕草は高飛車と表現するのに相応しかった。
「確認するわ。あなたたち、安田橋さんを改心させたのね」
 喜多川は素知らぬ顔で車窓の外に視線を投げ、投げやりな調子で答えてやった。
「さあな」
「誤魔化す意味はないでしょうに。おかげで援助は打ち切り。あちらはすべての罪を清算するって大張り切りよ」
「良いことだな。あの男には表面化していない罪が山のようにある」
「良いものですか。おかげで店は畳むことになったし、あの家も売ることになったわ。あなたをこんな車でお出迎えして差し上げられるのもこれで最後よ」
 それだけは名残惜しいかもしれない、と彼は強く思った。基本的に悪路を進むばかりのモルガナカーの乗り心地はとても良いとは言えないものだ。この高級車の走行音の静かなことと言ったら、比べるのも失礼だろう。
 あまり思い返していると尻が痛くなりそうだ。少年は息をついて小さく首を振り、のほうへ視線を向けた。
「学校はどうなる?」
「心配は無用よ。あなたと違って私は収入の宛があるの」
「それはまさか」
 思わず口を差し挟むと、は怒りに顔を赤く染めて声を大にする。
「妙な想像をしないで! 私の作品はもともと一定の評価が得られているんだから!」
 得心して胸をなで下ろしたのは彼女の身を案じたというより、昨晩までの苦労の甲斐が失われるのを危惧してのことだった。
 喜多川はすっかりリラックスして足を組むと、思ったことをそのまま飾らず口にした。
「いつ飽きられるかも分からんようなものだろうが」
 明らかな侮辱と挑発に、しかしは乗らなかった。胸を張って、自信深げに言い返しまでする。
「それこそ、いつまでも同じ評価とは限らないわ」
 なんとも胸のすくような答えだった。勝ち気さと真っ直ぐな気性がそのまま言葉として現れている。
 喜多川はまた深く納得して、じっと彼女を見つめもした。目が合うと、そこには声と同じか、それ以上の清々しい輝きがある。思わず相好を崩してしまうような色だった。
「ふっ、そうか。そうだな」
「なによ。ニヤニヤして」
「ニコニコと言ってくれ。君、さん、造ることはやめないんだろ」
 憮然として少女はこたえた。
「当然でしょう」
 想像通り、望み通りのこたえに満足げに頷いて、喜多川は
「良かった」と告げてやる。
 するとは不可解そうに
「なにが良いのよ」と問いかける。
 少年は満面の笑みとともにそれにこたえた。
「張り合いは合ったほうがいい」と。
 彼はまったく意図していなかったが、その言葉は深く少女の心に突き刺さった。
 猫のように目を見開く彼女の心の変化に気が付かないまま、彼は小さく首を傾げた。
「そうだろう?」
 もちろん彼はその言葉の意味するところを理解している。を対等な相手と捉えて、手強い敵だと宣言した。
 そしてそれこそが彼女の求めてやまなかったものであると知らないまま、ただただ楽しげに笑っている。
 はそれに勘付いている。どういうつもりで発言したのか、しかしその意味を知らないでいることを。
「あ……」
 は俯いて、顔を隠して震える声で宣戦布告に応えた。
「あなたなんかが、私のライバルだとでも言うつもり?」
「不足だなどとは言わせないぞ」
「調子に、乗らないでよ……」
「こちらの台詞だ」
 少年は小さく息を吸って、これまでずっと胸に秘していたものをすべて一度に吐き出した。
「一定の評価だと? そんなものは所詮、君の若さや見た目、性別といった付加価値によるものだろう。そもそも君の作品には粗が目立つ。伝承や非実在の怪物を造るのであればなおのこと、抽象的な表現に頼らずもっと精密に表すべきだ」
 のこめかみに青筋が浮かんだ。
「はあっ!? それを言ったら、あなたこそ小難しい思想に走らず、見る人のことを少しは意識したらどうなの? あなたの描くものは見ていてちっとも楽しくないじゃない! 見る人を選ぶなんて、性根が陰気なんじゃない!?」
「い……っ!? 俺は君のようにエンターテイメント性を重視していないだけだ! 見る者が多くとも中身が伴っていなければ話にならん! それに君の造るもののほうがグロテスクでおぞましい! 見る者を選んでいる!」
「エンタメの重要性を分かっていないのね! ああだこうだ言ったって人は汚いものや不気味なものが好きなのよ! 批判は即ち、それだけ惹かれているということの裏返しなんだから! 人間が本質的に求める刺激を理解せずに、本当に美しいものなんて作り出すことは出来ないわ!」
 ロープブレイク――
 怒鳴りあった二人はしばしの間、息を整えるために沈黙した。
 奇妙な沈黙だった。あれだけ真っ向から対立する主張をぶつけ合ったにも関わらず、どこか居心地の良ささえ感じられる。
 息を吸い、吐いて、また吸って、喜多川は堪え切れない笑い声を漏らした。
「はあ、はは、ふっ、ふふふ……」
 低く喉を鳴らして背を丸め、小さく震える。
 はしばらくその姿を黙って見守っていたが、やがて水面の波紋が浮かぶ木の葉を揺らすように笑いが伝播し始める。
「なにを笑っているのよ、ふっ、あはっ、いやだ、あははっ」
 堪えようと手を口に当て、それでもくぐもった笑声を上げ続ける彼女に、喜多川は息を整えつつ言ってやる。
「君こそ、笑っているじゃないか。どうした」
「知らないわ。ああ、もう、馬鹿みたい……」
 大きく息をついて、体中を弛緩させて足を伸ばす。はこれまでの緊張をすべて忘れたかのように寛いでいた。
「本当にそうだな。馬鹿馬鹿しい」
「あなたに言われると『ムカつく』わ」
 口汚く罵りつつもまだ笑みは消えない。
 それは喜多川もまた同じことだった。彼は背筋を伸ばして彼女に向き直ると、穏やかな声でもって語りかけた。
さん、もう一度だけ訊くよ。おそらく、これが最後だ」
 少女は不思議そうな顔をして、しかし喜多川が本気でなにかを告げようとしているとみるや、倣って姿勢を整えて膝に手を置いた。
 彼はまったく率直に問いかけた。
「怪盗団に加わる気は?」
 また彼女の目が皿のように丸くなるのを見て、喜多川はしてやったりとにんまりする。不意打ちは成功した。
 また彼は己の勝利を確信してもいる。
 しかしは実に女らしく、考え込むような素振りを見せて彼を焦らした。
「きっと、断ったら……あなたとこうして、不愉快な時間を過ごす羽目にならずに済むのでしょうね」
「そうだな。俺はわざわざ君の元を訪れたりしないし、君もそうだろう」
 その通りだと首肯して、はまだ駆け引きを楽しんだ。
「そうね……どうしようかな」
 どちらにも余裕があった。喜多川はもうとっくに彼女がなんと答えるかを知っていたし、はその上で彼を待たせている。これはただの八百長試合であった。
「そうね、一つだけ教えて頂戴」
「なんだ?」
「お父さんまで改心したの?」
「いいや。そんな余裕はなかったし、そもそも君の父親の心は歪んでいない」
「ふーん、そうなんだ」
「それだけか?」
「ええ、それだけよ」
「では答えを聞かせてくれ」
 あらかじめ試合展開と筋道は決められている。定められた通りには両手を上げた。
「やってくれたわね、怪盗さん」
 少女は優雅に足を組んで、その艶めかしい脚線美を見せつけるように揺らす。
「大したものだわ。私の心まで盗んだのね」


……
 地下深くへ続くメメントスの荒い道の中に耳をつんざくような爆音がけたたましく鳴り響く。それは彼らの存在をここに巣くう影たちに教える宣戦の鐘であった。
 轟音に惹かれるように新たなシャドウが現れると、フォックスは即時身を低くして粉塵の中を得物を手につき進んだ。
 隠す気もなさそうな濃厚な敵意が煙の向こうに立ち込めている。相手の姿を目で捉える必要はなかった。懐に入り、一刀のもとに切り捨てる――
「んっ!?」
 しかし彼の刃は煌くことなく、奇声を上げて硬直するに留まった。
 見れば、刀の柄頭に嫋やかな手が添えられて抜刀を防いでいるではないか。
「私の獲物よ」
 粉塵が晴れて声と手の持ち主が姿を現す。それは派手派手しい色をした虎を模したマスクで顔を隠した少女だった。
 ――トゥーフェイスと名付けられた少女が左手で柄を、右手でシャドウの腕を捻り上げている。
「ご執心のようだな」
「ふん」
 忌々しげに言ってやると、少女は鼻を鳴らして腕を振るう。たったそれだけでシャドウは後頭部から床に叩きつけられた。
 その剛力に感心すべきか、それとも戦慄すべきか。答えを出す前にフォックスは少女の手を振り払い、刃を引き抜いて彼女の背を掠めるように突き出した。
 断末魔の悲鳴を上げて別の個体がくずおれる。
 その金切り声にか、それともむき出しの背を擦過した冷たい感触にか、トゥーフェイスは目を眇めて小さく舌を打ち鳴らした。
「これも君の獲物だったか? すまんな」
「雑魚の一体で大喜びして、かわいいわね」
 あざ笑いつつ床に伏して昏倒するシャドウの頭を踏み砕く。
 そのまま二人は目も合わせずに散り、別の獲物に飛びかかっていった。
 さて、それを見守る面々は、ただただ感心と呆れをない交ぜにして諦観するしかない。
「なー、知ってっか。あいつらその日で何体倒したかで競ってるらしいぜ」
 膝を折りたたみ、身体を丸くしてしゃがみ込んで観戦するスカルに、同じく膝を抱えたパンサーが応じた。
「どこの戦闘民族よ。もうゲージュツまったく関係ないじゃん」
「まあ、いいんじゃない。いざって時はちゃんと従ってくれるし……」
 苦笑するクイーンは立ったままでこそいるが、その身は壁にもたれかかっている。トゥーフェイスの動きを追う彼女の瞳は、やっぱりどことなく楽しそうだった。
「なあ、あれはどういう関係なんだ?」
「んー、喧嘩友達……か?」
 退屈そうに尾を揺らすモナに、とりあえず新たな敵の接近がないかだけを警戒するナビが答える。しかしその解答は不安げで、なんと言い表したものかという迷いがありありと感じ取れた。
 そうこうしている内に剣戟の場から弾き飛ばされて昏倒したシャドウが一体、観戦する一同のほうに転がり落ちる。
 トドメくらい刺しておいたほうがいいのだろうか――
 迷いつつジョーカーが拳銃を取り上げる。
 しかし引き金に指をかけるより早くチェーンが振り下ろされ、シャドウは全員の目の前で真っ二つに引き裂かれた。
「ひえっ」
 衝撃映像、と声を震わせたパンサーににっこりと笑いかけ、トゥーフェイスは直ちに踵を返した。その背を追って、一応とナビが敵の残りの数を告げてやる。
「あと一体だよー」
「任せておきなさい、私がブッ潰してさしあげるわ!」
 威勢のいい応答に頼もしさを感じるべきか。手持無沙汰になった右手で虚しく空を掴みながら、ジョーカーは小さく笑って肩を落とした。
「せめてライバルって言ってやれ」
 ため息とともに与えられた答えに、仲間たちはまったく気のない返事を返すばかりだ。
 結局、最後の一体にとどめを刺したのはフォックスであった。
「もう少し腕を磨いたほうがいいんじゃないか。君が役立たずだと判明したら、勧誘した俺の面子が潰れるじゃないか」
 からかいと明らかな挑発に、しかしトゥーフェイスはふんと鼻を鳴らすだけに留まった。
 その上で顎を上げ、尊大に言い放つ。
「勘違いしないで頂戴。私は役に立つつもりなんてないわ。あなたたちの仲間になったんじゃなくて、あくまでもあなたたちの行いを見定めるために一時的に協力しているだけに過ぎないんだから!」
 これは何故かジョーカーに。勘違いしないでなんて言いながら、彼女はきちんと怪盗団の長が彼であるとしっかり認識している様子だった。
 その言動のちぐはぐさにだろう、車に変じて一同の乗車を待つモナに足を向けながらナビがどことなく楽しげにつぶやいた。
「新人、ツンデレかよ。ポテンシャルたけーな」
「ツン……? なに?」
 聞こえなかった、と首を傾げる彼女に、ナビは指を立てて言意を説明してやらんと口を開いた。
 しかし彼女が理解する前に、すでにモルガナカーに乗車していたフォックスが声をかける。
「おい、早く乗れ。行くぞ」
 ナビの目の前で、虎の目が剣呑な輝きを宿す。
「あー、ツンだ」
「え? ああ、ちょっと、フォックス、指図しないで頂戴。ナビちゃん、行きましょう」
「あー、デレだぁ」
「うん? なに?」
 ハンドルを握りながら成り行きを見守っていたジョーカーに、助手席のスカルがどことなく困ったような風情で問いかける。
「なあジョーカー、いいのか? アレ……」
 少年はうーんと唸ってハンドルを指先で軽く叩く。くすぐったかったのか、車体が一度だけぶるりと震えた。
「まあ……いいんじゃないか。アレはアレで」
 頼もしいことに間違いはないんだし。
 あーね。そうね。それは間違いねーわ。
 彼らはそう結論付けて、バックミラー越しに後部座席に目を向けた。
 決して目を合わせようとしない二人は、しかし戦闘中とは打って変わって物静かだ。疲れたわけではないだろう。潜り始めて一時間も経過していないのだから、まだ余裕はあるはずだ。
 そして二人の間に横たわる空気は穏やかで、ついさっきまで掴みかかりそうな勢いで言い合っていたとはとても思えない。
 たぶんきっと、ああいうコミュニケーションしか取れない間柄ということだろう。




……
 彼のようにはなれない。決して。どれだけ努力をしたって。私はしょせんニセモノで、まがいもので、付加価値だけの存在でしかない。
 でも、それでも……
 馬鹿みたいな話だわ。
 どうして造ることをやめないのかって?
 単純なことよ。
 負けたくない。この悔しさだけは『本物』なの。