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二人の少女が差し向ってテーブルについている。周囲には柔らかな音色のジャズ音楽、間にはそれぞれアイスティーとグレープフルーツジュースが並べられ、二人の間を繋いでいる。がここ―――中心街からは少し外れた位置に店を構える喫茶店に赴いたのは、高巻の呼び出しに応じてのことだった。
これは別段珍しいことでもない。高巻にとってという少女はまったく気の置けない仲と言って差し支えの無い人物であるから、彼女がを呼び出して益体もない雑談や愚痴をこぼすのはよくあることだった。
話題はそれこそ多岐に渡る。昨日やっていたテレビだとか、今日明日の天気だとか、学校での出来事、勉強や進路の話、将来の夢……それから、好きな男の子の話。
最後の話題に関して高巻は専ら聞き役、というより、から進捗状況を聞きたがることが多かった。その度には困ったように応じ、照れたり恥ずかしがったり、ときどき怒ったりしながら彼女に自分の話を聞かせてやった。
そのようにしてが拒絶しないことを高巻は喜んだ。また彼女の恋の成就を心の底から願ってもいる。とはいえ、することと言えばからかったりちょっかいを出して遊ぶばかりなのだが―――
少なくとも、高巻は他の仲間たちと同じくらい、と過ごす時間を大切なものと捉えている。距離を別つこととなった親友とはまた別の特別な存在だ。
高巻には未来のビジョンがありありと見える。きっと十年先、二十年先、それこそおばあちゃんになっても、私たちはずっと一緒の友達なんだ、と。
そのように思うとき、一つの感情が胸を痛めつけることがある。
それは罪悪感だ。隠し事をしている、という事実が高巻を苦しめていた。彼女の恋路を応援したりからかったりするくせに、自分のことを明らかにしないなんて……
「フェアじゃないって思ったから」
高巻は温度差によってたっぷりと汗をかいたグラスのふちを指でなぞりながら言った。
対面のはなんのことかと首を傾げてグレープフルーツジュースを一口。高巻は彼女の瞳を真正面から見つめ、正々堂々と言い放った。
「わ、私、アイツのことが好きなんだよね」
は幾度か瞬きを繰り返してから応えた。
「竜司?」
「違う」
「祐介?」
「違うっ」
「まさか、モルガナ?」
「ちがぁうっ」
分かってて言ってるでしょ! とテーブルを叩く高巻に、はしたり顔をしてみせた。
「いつもの仕返し」
「んもお~~っ、そういうのどこで覚えるの。誰の仕業よ!」
テーブルの下で高巻がその長い脚をじたばたとさせているのを振動で感じながら、はまたグレープフルーツジュースを口に含んだ。
「彼か」
「う……はい……」
二人が思い描いたのは誰あろう、怪盗団の頭目を務める少年の姿だ。なるほど、彼かとは深く納得する。
だって彼のことは恋慕とは別に好いている。彼の言葉に救われて今ここにいるのだし、憎たらしいと思うことこそあれ、すでにその存在は欠かすことのできない日常の一部として組み込まれていた。
しかし彼か、とも思う。好ましいという感情とは別に、考えてみれば自分は彼のことを大して知らない。喜多川のことを他所においても、恋慕にまで至らない理由はこれだろうか。そうなりたいとも思わないが。
自分より前から彼を知り、接してきた高巻が彼に想いを寄せるのは彼のことを深く理解しているからだろうか? 思い、はふっと口元を緩めた。
「彼、かっこいいもんね」
「え、まさか、、アンタ―――」
「それはない」
「あ、はい」
さて、しばしの沈黙の後、は高巻に問いかけた。
「でも、私から見たら杏と彼はずいぶん仲が良いように思える。今こういう話を聞かせてもらって思い返すと、付き合ってるんじゃないかってくらいだけど……」
「んーん」
高巻は首を左右に振った。憂鬱そうにため息をこぼし、またグラスのふちを撫でる。
「なんか……なんだろね。そういう……そういう雰囲気? っぽいのになったことはあるよ。あ、今これいける! って思っちゃうような……」
「ほお」
「でもあっちはそうじゃなかったみたいなんだよねー……」
「まさか駄目だったの?」
「ズバっと聞くね」
「ごめん」
「いいよ。ただ、わかんないんだよね。フラれたわけじゃないとおもう。なんか……なんか、オレたち友達だろ? みたいな、そんな感じの……」
最悪なことに、店内を満たすBGMはちょうどエラ・フィッツジェラルドの「Can't we be friends?」に切り替わったところだった。
の心配をよそに、高巻は音楽など耳に入っていないのだろう。テーブルに肘をついてやっとアイスティーを口に含む。氷がほとんど溶けたそれはすっかり味が薄くなってしまっているのか、彼女はすぐにストローを口の外に追いやってため息をついた。
「そもそもアイツ、手が早いっつーか……割と誰にでも、こう、距離が近いよね」
「パーソナルスペースが狭いタイプ」
「それそれ」
「そのくせ自分がモテないと思ってる」
「わかる~~!」
再び、高巻は脚をじたばたとさせる。軽くテーブルを叩いて、彼女はわっとこれまで言えないでいた愚痴を吐き並べた。
「そんな訳ないじゃんね? あんな風に心配してくれたり身を張ってくれたりしてさ、こっちが言って欲しいことみたいなの? そういうの的確に言ってくれちゃうし! たまに真もグラグラしてたりするし! 双葉はわかんないけど、春はキてるよアレ! 仲間内以外でもさ、ウチの学校内で、評判最悪なのにちょいちょい話す女子とかいんの! どんだけよ!?」
うんうんと逐一頷いてみせながら聞き入るに、高巻ははっとして、ううと呻いた。
「ごめん、なんかわーって喋っちゃった」
「いいよ。いつものことだ」
「うううっ」
項垂れる高巻を見て、は声を上げて笑う。
「はは! いいんだよ、本当に」
「もうっ、、アイツらから悪い影響ばっかり受けてる!」
「杏の影響もあるよね?」
「あうー……」
気抜けした声を上げて、降参と両手を上げる。
はまた、手遊びにと手元の紙ナプキンを折りたたんだり広げたりしながら言った。
「以前……杏は言っていたよね。友達の恋を応援するのは普通のことだって」
「ん、うん」
「あのとき、本当は私、よくわからないって思った。そうだったんだ、って。そういう経験がなかったから」
高巻は沈黙して友人の言葉を待った。
迂闊な行動の多い彼女ではあるが、こういう時の思慮深さは随一であると言える。それを知っているのか知らないのか、はじっと彼女の目を見つめ返す。紙ナプキンは鶴に変身していた。
「でも、今はよくわかる。応援したいって気持ち。杏、教えてくれてありがとう。彼のこともそうだけど、それ以上に……」
朗らかに笑う少女を見て、高巻はわずかに首を傾けた。礼を言われるようなことではないと思ったのだ。いつか言った通り、こんなのは当たり前のことだ。
それでも、彼女はこれを受け入れた。友のためにもそうするべきだとして。
「どういたしまして」
「へへ、だから、杏のことも応援する。何ができるかは分からないけど」
「お、頼りにしちゃっていいワケ?」
「過剰な期待はしないでよ」
少女たちは笑い合ってまた雑談に興じる。話題の比重はお互いの想い人に多く割かれた。
穏やかな時間はずいぶんと長く続いた。お互いの手元の飲み物がすっかり空になっても、二人はしばらくずっと話し続けた。話題は尽きることがなく、澄んだ清流のように淀みなく、いつまでも流れ続ける。
それでも切れ間と言うものは訪れるものだ。それを見計らったようにふっと息をついて高巻が言う。
「なんか……、太った?」
「ふとっ……!?」
「あ、悪い意味じゃなくて。健康的な肉付きっていうか……ほら、背も伸びてない?」
「……まあ。この一カ月で急に、すごく。お医者さんが言うには、今まで止まっていた成長ホルモンが一気に分泌されて、それで爆発的に伸びてるんだろうって。体重も」
「へぇー……」
感嘆の声を漏らし、ますますじっとの身体に目を向ける。注視される方はそれを嫌がって身体を逸らした。
「年越すころには私も抜いてたりして」
「どうだろう。それくらいあったほうがいいかな?」
「あいつデカいもんね」
「……正直、時々、二人で歩いてるのがガラスとかに映るとさ」
「うん」
「赤い靴はいてた女の子って感じ」
高巻は思わずとふき出してテーブルに突っ伏し、肩を震わせた。
さて、そんな一幕を経てから件の少年と相対すると、はついついこんなことを問いかけてしまう。
「きみって彼女いるの?」
彼はこたえて言った。
「その喧嘩いくら?」
「売ってないよ」
呆れた調子で返しつつ、はため息をついた。こりゃダメだ、と。
二人は今、家のリビングでくつろいでいる最中である。
ここに至るまでの顛末はこうだ。再び本屋の前で鉢合わせた二人はなんてことのない雑談の中で日常を取り囲む小さな変化を報告し合った。
その中でが言う。
「そういえば、お手伝いさんを雇うことになったんだ」
これに彼は頭の上に疑問符を浮かべる。お手伝いさん……聞き馴染みのない言葉を反芻する彼に、は
「家政婦さんとも言う」と補足してやった。
すると彼は途端に目を輝かせて食いついてくる。まるで釣り堀の飢えた魚のようだった。
「それは……つまり……メイドってこと?」
「そうとも言うかな」
「え、うそ。見たい。会いたい」
「今ごろならたぶんまだ家にいてくれてると思うけど」
「あそびにいく!!」
少年は迷うそぶりすら見せずに宣言して先を歩き始めた。鞄の中からモルガナが「だからオマエはダメなんだよ」と言った声が聞こえた気もしたが、彼はなにも聞かなかったふりをして改札を通った。
そのようにして辿り着いた家で彼を出迎えたのは、齢五十の気の良さそうな女性だった。もちろんエプロンドレスなんて着用していないし、ホワイトブリムを被ってもいなかった。名前は斎藤と言うらしい。
少年は心底がっかりしてを呆れさせた。
「なんだと思ってたの」
「メイドって言った……メイドって……」
「ヴィクトリアン? フレンチ?」
「……フレンチ」
「ほほー」
かくして、液状化現象を起こしたようにどろりとソファに身を預けた彼に、はじめの質問が投げかけられた―――
顔をしかめて起き上がった少年は、ふんと鼻を鳴らして家主の娘を睨みつける。
「売ってないなら盗むだけだ」
「しつこい。どれだけ気にしてるの」
「は分かってない。これがどれほど重要なことか」
「じゃあ好きな子はいるの?」
「いないっ!」
自信満々に言い切って、少年はまたソファに、今度は横向きになって倒れ込んだ。
斎藤が出してくれたよく冷えた麦茶を一口、は彼を麦茶よりずっと冷たい目で見やる。
「だからじゃないの。まずは好きな人をつくりなよ」
「そうは言っても」
「まさか特定の恋人が欲しいのではなくてただ異性にチヤホヤされたいだけとは言わないよね」
もちろん、少年とて男なのだからそういった願望はある。ただ男としての矜持を満たすためだけに無責任に遊び回りたい……
が、そんな放蕩者を演じるには経験点が足りないとも、彼自身自覚している。
それにそのように思う一方で一途に一人の女の子に夢中になってみたいという欲求もあった。恋とはどんなものかしら、と。
そんな内心を見透かしたのか、半眼になったが一人の名を上げる。
「杏は?」
「は?」
「だから、杏。仲良いじゃないか」
「そりゃ……美人だけどさ、俺なんかとは明らかに釣り合わないよ」
「わお」
釣り合わないときたか、とは驚きの声を上げた。これは重症だ。
「きみは思っていたよりも自己評価が低いね」
「そう? が自分を客観視しすぎなだけだと思うけど」
「私の話はしていないよ」
ピシャリと言い放ち、は背筋を伸ばしてふうむと考え込むようなしぐさをみせる。その目は何かを観察するように少年の身体のあちこちに向かっては細められた。
まるで心の中までを覗き込まれているような気になって、少年は起き上がる。気まずさすら感じて、からかいの言葉を口にしたりもした。
「そんなに見るなよ、エッチ」
「きみを見たところでなぁ」
「じゃあ祐介なら興奮すんの」
「その喧嘩、買った!」
売ってない、と呟いてから脚を組む。ローテーブルの下、カーペットの上で丸まったモルガナはすっかりくつろいでウトウトとしていた。
さて、気を取り直したがさらに追撃する。
「杏が駄目なのは彼女が目立つから?」
少年はこれに曖昧に笑ってこたえた。
「別に駄目なんて言ってないだろ?」
「そうかな。意図的に選択肢から外しているように見える」
追撃は迅速で、そして的確だった。図星を突かれた少年は口元を歪めて小さく首を左右に振る。
沈黙の中、指先が記憶を探るようにこめかみをさすり、やがて彼は顔を上げて言った。
「本屋の前で塗装の直しなんてやってなかった」
は目を見開いて、幾度かまばたきを繰り返した。やがて困ったように眉尻を下げて腕を組む。分かりやすい防御姿勢に、少年はやっと息をついて背もたれに身体を預けた。
「大した特技だ」
「褒められたものじゃないけど」
言って、は視線を膝の上の手に落とす。
少年が言った本屋の、とは過日佐倉を交えて歓談した折の一幕である。
通りかかった一人の男を指してあれこれと勝手な見当をつけた遊び……そのオチとしては事前に仕入れておいた情報であると明かした。少年はこのオチの部分を指してそのような事実は無かったと指摘したのだ。
そして彼にはまた、が褒められたものではないと俯く理由も分かっている。
そもそも彼女のこの観察眼は人の……母親の顔色を窺うことに特化した故の副産物だ。例の遊び自体、通りすがりの他人を見てあれこれと推察を立てておもちゃにする行為と言うこともできる。当たっていても当たっていなくても、なるほど彼女の言う通り、褒められたものではないだろう。
だから、彼女は決してこれを親しい者に向けたことはなかった。きっと嫌がられるだろうとして。
だというのに今これを少年に向けたのにはきっと理由がある。
「どうして明かす気になった?」
「必要だと思ってはいた。それに、いい機会だとも思ったんだ。誰にも聞かれない場所にきみが踏み入ってくれたから」
頷いて、少年はリビングを見回した。夕飯の作り置きを済ませた斎藤はとっくに帰ってしまっているし、家主の帰宅はずっと先だ。街中のように見知らぬ他人に会話の端を拾い上げられることもない。
余人にこの特技を秘匿しつつ問いかけたいことがあるのだろうと察して、少年はまた彼女に続きを促した。
「杏と話していて気が付いたの。私はきみのことをなにも知らない、と」
「知る必要ある?」
「きみのパーソナルデータなら無いね」
「それはそれで傷つくんだけど……」
「知っていて欲しいのなら覚える」
「いらない」
つんと顔を背けた少年に苦笑して、はまだ話を続けた。
「きみはいつも自分が正しいとして行動しているね。そこに迷いはない。まるでなにかに急き立てられているかのように敵うはずもないものに挑んでる。その結果が私や、祐介や、みんななんだろうというのも解ってる」
でも、と区切ってはまたじっと少年に視線を向けた。それはまったく平らかで、無色透明な目だ。喜びも悲しみも怒りも楽しみも伺えない、完璧な観察者の瞳。思わずと少年が身を硬くするくらいの―――
やがて少女は平坦な声で告げた。
「きみの経験してきた出来事も知ってる。でも、それに付随するきみの意志が見えてこない。きみはどうして戦うの? 誰のために? なんの得になるって言うの?」
「そんなことを知ってどうするんだ」
「きみを信用したい」
「今は信じていないのか?」
「いいや。けど、根拠のない信用はただの思考の放棄だ。私は考えていたい。誰かが言うからじゃなく、私自身がきみを心の底から信用できる人物なのだと言い切りたい」
そして、きみならそれができると知っている。
言って、少女は大きく息をついてグラスを傾けた。嚥下に動く喉から目をそらして、少年は度の入っていない眼鏡をテーブルの上に放り投げてこたえた。
「得したいと思ってやってるわけじゃない。もちろん、まったくじゃないけど。強いて言うなら、改心を果たすことそのものが報酬かな」
少年はを見ず、テーブルの下で揺れるモルガナの尻尾の先を見つめながら言を重ねる。
「どうして、どうしてかなんて、そんなことは……自惚れじゃなければ、はもう俺を信じてくれているってことだろう」
少女は少しだけ照れくさそうに首を縦に振った。
それに少年は安堵して、小さく息をついてまた続ける。
「竜司は怒ってくれた。杏も疑いもしなかった。モルガナも、皆……もね」
「冤罪の話?」
「そう」
「そりゃ、そのことで嘘をつく理由がない。それだけだよ」
「それだけのことが俺にとってどれほど……親ですら信じてくれなかったのに。誰も、なにも……」
握られた拳が小さく震えているのを見て、は息を呑んだ。屈辱と恥辱、絶望と虚無感を読み取って腰を浮かしかけるのと、テーブルの下から猫が飛び出して少年の膝の上に収まるのは同時だった。
てしっと肉球で額を叩かれて、少年は顔を上げる。
「いて」
「痛くねーだろ」
「心が痛い」
「ほー」
ぞんざいに応えてあくびを一つ。猫はそのまま彼の膝の上で丸まった。それが己の役目だと言わんばかりに。
そんな相棒の態度に安堵の息をついて、少年は口を開いた。
「そんな風に信じてくれた連中の前で……あいつらの前で無様を晒すわけにはいかない。血を流しても、手足が吹き飛んだとしても、何があろうと。それでも、それがどうした。俺を信じてくれた奴らの前で、決して折れるわけにはいかない。ただそれだけ。たぶん、ある意味、と俺の動機は似てるんだろう」
「そうかな」
「そうだよ。恩返しだ」
「きみの場合は、復讐もあるでしょう」
「そうかも。でも、きっと一人だったら立ち上がることはなかった。皆がいたからだ」
「ふうん」
「ここは似てないな」
「そう?」
「は祐介がいたからだろ」
「うるさい」
𠮟りつけるように言った少女に笑いかけ、少年は猫の頭を撫でようとして……その手を猫に叩き落とされた。膝には乗っても、気安く触るなということらしい。それに今度は苦笑する。つれないそぶりはいつものことだ。
羨望の視線を受け流しつつ彼は言う。
「だから、彼女の名誉のために言っておくけど、杏が駄目なんじゃない。俺が駄目なんだ」
「杏は目立つもんね。特別なにかをしていなくたって。ここはきみをサイテーって言っておいた方がいい?」
「たぶんね」
「多分じゃねーだろ」
舌打ちした猫の鼻先をつまむ。悲鳴が上がったが、彼はそのまま猫を対面の少女に手渡してふんぞり返る。猫はぶ然とした顔で少女の腕に納まり、尻尾を強く振った。
「少しは手加減してくれ」
「私が? 君に?」
「うん」
「する必要ある?」
「ないのか?」
「友達でしょう?」
「親しき中にも礼儀ありって言うだろ?」
「メイド目当てに人の家に上がりこんだ人の台詞かな?」
「すいませんでした」
深々と頭を下げた少年に声を上げて笑い、はモルガナはソファの上に座らせて立ち上がった。聴覚とかすかに動いた空気でそれを察して目で追うと、彼女はテレビ台の上にぞんざいに置かれていたレンタルDVD店の袋を取り上げている。なんだと問いかける前に彼女は戻り、少年の前に袋から取り出したDVDを置いてみせた。
「あ、続き。見てたの?」
言った通り、それは以前彼が見たらどうかと推薦したホームコメディの続巻である。
は笑みを湛えて頷いてみせた。
「そう。一番小さい子がかわいくてかわいくて」
「わかる。めっちゃかわいい」
「お母さんもそう言ってた」
これに少年と猫は軽く瞠目する。少女は少しだけ戸惑うように間を置いてから語り出した。
「この間、前に借りたほうをね、ここで見て、DVDを出しっぱなしにしたままにしておいちゃったんだ。寝る直前になってそれに気が付いて慌てて降りてきたら、お母さんが、見てた」
「これ?」
「うん。私が後ろにいるのも気が付かないで、くすくす笑って。それで、思わず『面白い?』って聞いたら、お母さんびっくりして……」
語る少女の脳裏にそのときの光景がありありと思い出されているのだろう、こらえきれない笑い声をもらして、少女は体を折り曲げた。膝に肘をつくかっこうになって、横目で猫を見る。彼は何も言わずに目でもって続きを促した。
「それで、少しだけだけど、一緒に……ここで、座って見てた。お母さんが子供の頃、テレビでやってたんだって。懐かしいって言ってた」
「ああ、そうか。ちょうど世代か」
なるほどと頷いた少年に、少女はこっくりと首を縦に振った。
それから、どこか意地悪な笑みを浮かべる。
「やっぱり分かっていてオススメした訳じゃなかったのか」
「うん」
「いいかげんだな」
「そんなに褒めるな」
軽口の応酬に、モルガナはやれやれと身を横たえた。腕を枕にひげを広げて、尻尾を揺らす。
「それからかな、お母さんと、少しづつテレビの話をするの。昔やってたドラマとか、映画とか……私には禁止してたくせにね、お母さん、すごく詳しいんだ」
「へえ……いいな、俺も聞いてみたい」
「お母さんも言ってたよ。若いのに、渋い趣味してるのねって。きみのこと」
「俺のこと、話したのか?」
「うん。友達だよってね」
ぴくぴくとモルガナの耳が動く。彼はまさにこの場所でが友達付き合いを母に咎められている姿を目撃していたから、どうしても神経質になってしまうのだろう。少女は大丈夫だと言う代わりに、落ち着かせるように彼の頭をなでた。
「喜んでくれた。友達がいることを……信じられる? 奇跡みたいだ。なんでもないことをお喋りして、友達の話をして……」
「うん」
「こんなに簡単なことだったんだとは知らなかった。きみのおかげだ。きみがきっかけをくれた」
心のこもった声と笑み。
それを眺めながら、少年は少女の喜びに同調して顔を綻ばせた。
そしてまた、はその笑顔こそを見て言う。
「それが根拠だ」
「え?」
「今のきみの顔。私がお母さんと話せて嬉しいと言うのを、心から喜んでくれている」
少年の手が己の頬を撫でる。どうやら無意識のうちに浮かんでいたものとみて、はさらに饒舌に語る。
「最初から疑っていた訳じゃないけど、でも、今なら誰に対しても言い返すことができそうだ。きみはいい奴だよって。恥じることも怖気づくことも、躊躇することもなく。何があろうと……私も無様な姿を見せたくない」
「はかっこいいよ」
「ふふ、きみにそう言われると気分が良いな……だからね、なにかあったら、私を呼んで。必ずきみの力になる。これは恩返しとかじゃない、ただ、私自身がそう望んでいるんだ」
「それは、こっちも」
両手を広げだ少年に同意するようにモルガナが尾を振って、少女は頷いた。
二人の間に横たわるものは決して恋慕や情愛ではなかったが、何よりも強固なものであると言えた。
あらゆる苦難をはねのける強い絆。これこそがいずれ役に立つ日がくるだろう。少年にはその確信があった。
そしてまた、その日はそう遠くないだろうとも。