14:I'm with you to the End of the Line.

 人の心というものはなんて醜いんだろう。
 真に芸術を求めていたはずの己の心すら、近頃はすっかり欲にまみれてしまった。美しいものだけを追い求めていたはずなのに、それだけでは駄目だったのか。
 あるいは、師である男の、その欲望にまみれた本性を知り、己の信奉してきた芸術というものが汚されていた事実を目の当たりにしてしまったからだろうか。
 他方で、今や精神的な支柱の一つにすらなった友が言う。
 それのなにが悪いんだ、と。
 天啓であった。雷に打たれたような衝撃。
 清濁併せ呑むとは言うが、彼の言わんとする所はまさしくこれだろう。
 目を背けたくなるような汚濁も、心あらわれるような清澄も、どちらも揃ってはじめて意味を成す。美しいものを知っていたところで、それだけでは美しさの真の価値は認識できないのだ。
 それは人そのものに似ているとも思う。多くの者が他者との対比によって自己を確立していくように、あらゆるものはそれ一つだけでは完成しない。
 幸福という概念が、不幸という概念があって初めて成立するように……
 少年は、改めて己の心と向き直った。
 金、名声、栄誉……いずれも今の彼には喉から手が出るほど欲しいものだ。金を得て豊かな生活をしたい、名声を得て他者に認められることを実感したい、栄誉によってちやほやされれば、さぞ気分のいいことだろう。
 けれど一方で、その心の中にある芸術への情熱は欠片たりとも失われていない。
 それは彼の核だ。何があろうと揺るがない、確固たる信念である。
 さて、それではそれを世に知らしめてやろう。少年は燃えたぎる心を注ぐように筆を手に、麻紙に立ち向かった。己の内にあるもの。欲望とそれに対立する情熱とを全て吐き出してやろう、と。
 そしてまた、思うことがある。
 こんなの卑怯だ、なんだか汚くて不潔な感じがすると忌避していたもの……即ち、他者に対する恋慕の情。ただの情と違うのは、ここに性的な役割が関わってくるところだろう。
 これを気持ち悪がっていたのだと気がついて、彼は自嘲する。
 こんなの、大したことじゃない。生き物としての本能、生物として種の保存を望むよう組み込まれたプロセスの一種だ。怯えるようなことじゃない。
 さもしく、みじめで、情けないのだとしても……
 それはきっと誰もが同じなのだろう。
 どうしてこんな簡単なことに気がつけなかったんだろう?
 そう思うと何故か胸がちくりと痛んだが、それもすぐに消え、彼は思考を取り払った。

 つまり、そして、だから……
 彼は己が嫌悪するものたちに対して開き直る術を学んだ。

……
 ごく普通の学生としての一日を差し障りなく終えたは腕時計を見ながら足早に校舎の一階を歩いていた。しかし足は何かに気が付いて途中でスピードを落とす。
「ああ……」
 気の抜けた声が漏れる。
 そうだ、とは片手で顔を覆った。もう時間を気にして帰宅を急ぐ必要はなくなったんだった。
 途端足取りは重くなる。今日は塾もなければ怪盗団の召集もかかっていない。ならば、誰かに声をかけてみようか。そう思った矢先に見知った顔が校門近くの塀にもたれている姿を見つけてはおやとまた足を速めた。
「祐介、なにしてるの。具合でも悪いの?」
「そんなに不健康そうに見えるか?」
「唐茄子のうらなり」
「うるさいぞ日野菜め」
「おっ、うまい返しだね」
 朗らかに笑う少女に対し、少年の方は不機嫌そうに口をへの字に曲げている。
 彼はまた、どこか恐れすら滲ませて言う。
「まさか俺のことをずっとそう思っていたのか?」
「きみこそ」
「あれはただやり返しただけだ」
「私も思いついたから言っただけだよ。もしかして、気にしてた?」
「なにを?」
「細くて長くて白い」
「人を白アスパラのように言うな」
「野菜で繋げてくるね」
「好みじゃないか?」
「好き嫌いはないよ。野菜じゃなくても肉も魚も内臓系もなんでも美味しくいただけるほう」
「そうではなくて」
「うん」
「こっちだ」
 と、彼は己を指差して示した。
 は首を傾げる。
「うん?」
「俺の見た目はどうかと聞いている」
 首を傾げたかっこうのまま、は怪訝そうな顔をしてしばらく沈黙した。
 またぞろ、なにを言い出すのか。
 呆れとともに観察するうち、少年の顔にわずかな怯えの色を見つけては直ちに口を開いた。
「嫌いな人はあまりいないと思うけど」
 湾曲にお前の顔は整っていると言ってやると、彼はまた顔をしかめた。首が小さく左右に振られるところを見るに、どうやらこの解答はお気に召さなかった様子だ。
「他の連中のことなど知らん。お前の話だ。お前は、どう思う?」
 これに彼女は面食らったような顔になる。鳩に豆鉄砲とはまさしくこのことかと言わんばかりの。
「か、かっこいい、と、思います」
「そうか!」
 破顔一笑―――
 は握った拳で己の額を軽く一突き、妙な勘違いをしそうになる思考を妨げた。
「それで……ああ、はあ……きみはまたなんでここに? なにか用でも?」
「いや、用はない」
「そっか。じゃあ、今日はここで人間観察?」
 喜多川は無言で首を左右に振った。そして彼女を指し示す。
「お前を待っていた」
「珍しいね」
 実のところ、少年がこのように彼女を待つのは言葉通り珍しい。下校時間が重なれば帰路をともにすることはあるが、わざわざ待ちまでするのは初めてのことだった。
 は驚いて彼の顔をまじまじと眺めた。
「私になにか用事でも?」
「特別これというものはないな。強いて言えば、お前そのものが俺の用件か」
「なんだかよくわからないけど、必要なら、付き合うよ」
「ああ」
 一つ頷いて、喜多川はに手を差し出した。
「ん?」
「行こう」
「どこへ?」
「いいから」
 言って、少年は焦れたように少女の手を取って引っ張った。いささか強引なその行いに目を白黒させつつも、彼女は決して抵抗はしない。
 ただ、突き刺さる他人の目線を感じて思う。彼は人目が気にならないんだろうか。そうなのだとしたら、なんて羨ましい。
 思いながら先を行って手を引く相手の顔を見上げると、その瞳はなにか明確な喜びによってきらきらと輝いているようだった。
 これに逆らえる者がどれほどいるだろう?
 は口から飛び出しそうになる心臓をどうにか飲み込んで、苦笑する。まったく仕方がない。惚れた弱み、あばたもえくぼだ、と。

 引きずられながら向かった先は美術館である。意外なことではなかったが、外壁に下げられた垂れ幕にはおやと声を上げる。
 『高校生美術展』と書かれた目立つ色のそれに思わずと喜多川を見る。しかし彼は応えず、やっと手を離してまた先導するように歩き出した。
 とはいえ目的は知れたようなものだ。はやっぱり苦笑してその後に続いた。
 館内は音量を抑えたクラシック音楽が流れている。それに来館者たちの密やかな囁き声が重なり、展示会『らしい』空気をより強調しているようだった。
 ちらほらと学生の姿も見受けられるのは展示物の性質によるものだろう。
 そうした学生たちの一部となった二人は、ほどなくして一枚の絵の前に立ち止まった。
「これ?」
「ああ」
 問いかけるまでもない。額縁の下には喜多川の名前が記されたプレートも掲げられている。
「ふぅん……」
 唸って、絵に視線を向ける。
 隣に立つ少年から期待のこもった目を向けられていることにはとっくに気がついていたし、その上で賞賛の言葉を求められているわけではないことも分かっている。なにしろは美術的センスが欠落している。解釈などできないし、この絵から何かを感じ取って昇華することなどもっての外だ。
 それでも少女は珍しく正答を言い当てた。
「後ろのほうに描いてあるのはメメントス?」
 ほお、と喜多川は感嘆の声を上げた。
「珍しいな。初めてじゃないか? 俺が描いたものの正体を当てるのは」
「普段見ている光景だし、知っているものならさすがにね」
「なるほど。では手前は?」
「……シャドウ?」
「うん、違うな」
「くっ……」
 呻いたが項垂れると、それを見て喜多川が小さく喉を鳴らす。
「これはお前たちだ。知っているものじゃないのか?」
 声には揶揄するような響きがあった。
「そりゃ、だって、きみの目を通した抽象的なものでしょう。きみのことをよくよく知ってなきゃ、無理だよ」
「なるほど。知っているものなら、か……」
 言いながら、喜多川は小さく首を傾げた。今の言葉のどこかに引っかかりを覚えたのだ。なにか、とても重要なもののような……
 胸の内側から爪を立てられたような鈍い痛みと不快感を覚えて顔をしかめる。思わずと胸に手を当てるが、心臓の動きに妙なところは感じられなかった。
 そんなことよりも、見上げるの視線のほうが彼には気がかりだった。
「お、怒ってる?」
「え? なぜ?」
「きみが描いたものなのに、私はいつもなにを描いたのか解らないから。張り合いがないんじゃないかと」
 当然、張り合いは無いに等しい。それはそうだ。知識はともかく感受性や直感はそう簡単に身につくものじゃない。
 もそれは理解している。だからこそもどかしさを感じているのだ。
 そして彼はそれが解らぬ男ではなかった。
「以前なら、気にしていないと答えただろうな」
「今は?」
「待っていると答える。お前がちゃんと解るようになる日まで。あるいは、俺がお前でも汲み取れるようなもの描けるようになるまで……」
 それに、と彼は重ねて言った。
「知っているものならば解るのだろう。なら、俺を知ってくれ。描かれたものを理解するためにその画家の生涯を知るのは特別なことじゃない。お前が俺の描くものをあますことなく理解したいというのであれば……」
 声を抑えて密やかに、しかしはっきりとした発音でもって告げる。
「俺を知ればいい。今よりもたくさん。時間をかけてでも」
 は怪訝そうな顔をして、首を竦めてこの言葉の意味をよく吟味した。
 今だって十分彼のことを知っているほうだと思う。それは客観的に見ても間違いのないことだろう。それを今よりたくさん……
 は俯いて、つま先と喜多川の名が記されたプレートとを見比べながら応えた。
「そうします」
 かすかな声に、しかし喜多川は満足げに頷いた。
 まったく、愚かなことだった。二人は絵を見に来たはずなのにちっとも絵なんて見ていない。これは良くないと先に気が付いたのは喜多川のほうで、彼はまた、俯いた少女の額を軽く叩いて顔を上げさせる。
「あいた」
「他にも面白いものはたくさんある。一つずつ見て行こう」
 導くように差し出された手を、少女はもはや何の抵抗もなく受け入れた。
 そのようにして、ぐるりと展示会場を一巡した二人はまた同じ場所に戻る。これはが希望したことだった。他の作品を見た後ならば、また何か気が付けることがあるのではないか―――
 かすかな望みは果たされることはなかった。
 とはいえ、これは時間稼ぎの意味もあった。少しでも長くこうしていられれば……少女はもはや定例となりつつある言葉を心の内で呟いた。卑怯者め、と。
 さて、少女は改めて想い人の描いたものを見て、ぼんやりとしたまま言う。
「きみの描くものって大きいよね」
「そうか? まあ……大きいほうが目立つし、カッコイイだろう」
「そういうもの……?」
 なにか深遠な意味があって作品の大きさが決まるわけではないのか。呆れながらに思いつつ、彼のことだ、言語化の難しい感覚的な某かがあるのかもしれないとも思う。
 また彼はどこか哀愁をにじませつつこうも言う。
「その分制作費もかかるんだけどな……」
 見計らったかのように腹が小さな音を立てるのを耳にして、少女は小さく頭を振った。
「あーあ……」
 感心しているような、あ然としたような声も漏れようというもの。
 けれどそれで終わらないのが、彼女がここにいる要因の一つだろう。
「うちでよければ、来る? お手伝いさんの作り置きになっちゃうけど、それでもよければ……ああ、そもそも電車賃の方が高くつくかな」
「一向に構わん」
 即座に応えた少年に場違いな笑い声を上げ、すぐに慌てて口を押さえる。はそのままもごもごと付け加える。
「もしかしたらお母さんと鉢合わせちゃうかもだけど、平気?」
「俺は気にしないが……」
「わかった。行こ」
「だが、いいのか?」
「ん?」
「突然行ったら驚かれるだろう? あ、手土産を……」
「いらないいらない。そもそもきみがお金ないって言ってるから招待してるんでしょう。お母さんのことなら心配しなくて大丈夫です。きみのことはちょくちょく話題に出してるし」
「なんて?」
「欠食児童」
「俺たちは少し話し合う必要がありそうだな」
「冗談だよ」
「ほお」
「いやその、ごめん」
 許さないと言って、少年の手が少女の顔に伸び、指先が頬肉をつまんでつねる。
 子供みたいなことをするのに呆れたらいいのか大げさに痛がったらいいのか、迷ううちに握られていた方の手も離されて頬に伸びた。
 両の頬を引っ張られて、は眉を寄せて訴える。
「いひゃい」
「それほど力を込めたつもりはないぞ」
「いいひゃらはらひて」
「なにを言っているのかわからん」
「やめろって言ってるの!」
 ぱっと手を振り払って後退る。たたらを踏んだ足を鳴らして、少女は背筋を伸ばして踏みとどまった。
 形が崩れたわけでもないのにしきりにつねられていた頬をさすって恨みがましげな目を向ける、その姿がおかしかったのだろう、口元に手をやって懸命に笑い声を抑える少年に、またのまなじりは釣り上がった。
 怒鳴り声を上げそうになっている少女の鼻先に指先が突きつけられる。続けて静かに、と唇の動きだけで告げられると、それだけで動きも感情も制御された気分になって、は口をへの字に曲げる。
 少年は楽しそうに問いかけた。
「まだ見るか?」
「……もう十分」


……
 やっぱり手土産は必要だったのではないか。と、少年は目の前に立つ女の姿を見て強く思った。
 スーツ姿にスーパーの袋を下げて玄関先に佇んだ女―――円は、パレスで見たときよりよっぽど老け込んでいるように見えた。それが仕事帰りでくたびれているからなのか、改心の影響かは分からないが、しかし少なくとも、今の姿のほうが好感を抱きやすいなとは思える。
「お母さん、早かったね。おかえり」
「今日は早く済んだの。でも、遅かったほうが良かったかしら」
「なんで」
 荷物を受け取りながら問いかける娘の声に、母親は所在無さげに佇む少年に目をやった。
「彼氏?」
 そりゃそうだ。と、喜多川などは苦笑する。一人娘が己の不在中に異性の友人を連れ込んだとなれば、普通はそういう想像をするだろう。意外だったのは、その瞳や声に歓迎の色があったことだ。
 とはいえそのような事実は今のところはないので、硬直した娘の手から重そうな荷物をやんわりと奪い取って丁寧に頭を下げる。
「はじめまして、喜多川祐介です。残念ながらそういった関係ではありませんが……さんにはいつもお世話になっています。今日は突然の訪問をお許し下さい」
 これに最も強い驚きを示したのは娘のほうだ。「きみ、そういう態度も取れるんだ」と目が語っているのを見て、喜多川は「失礼な」と返した。
「ああ……あなたが……」
 母親の声には含みがあった。喜多川はそれをよく知っている。小さく丸まった師の背中から発された声……彼は小さく頭を振ってそれを振り払った。
 さておき、母親の声から滲むのは後悔や自責の念だ。その原因には察しがついている。かつてこの家に潜入したモルガナがその目で見たものを語って聞かせてくれたこと、即ち母親の娘に対する仕打ちの一つである交友関係の選別によって、己は一度振り落とされている。きっと母親はその頃の記憶を思い返しているのだろう。
 己が間接的に侮辱してきたその張本人を目の前にしてなにを思うのだろうか……
 喜多川はそんな母親の惑いを楽しめるタイプの人間ではなかったから、直ちにそれをすすごうと口を開いた。
「夕飯をごちそうしていただけるとのことでお邪魔させていただきました。ご面倒をおかけしますが、よろしくお願いします」
 そこは譲らないんだな。の方の目がまた訴えるのを見て、喜多川は深く頷いた。
 二人のやり取りを見て、母親は感嘆の声を上げながらほっと息をつく。
「そう、そっか……」
 感慨深げでもあった。細められていた目がゆっくりと笑みのかたちを作るのに釣られるように喜多川もまた笑う。
 なにも釣られたばかりではなかった。目の前で笑う女の姿は母親然としている。優しげな光を湛えた瞳は娘とその友人を見て、この上なく嬉しそうだ。
 ふ、と喜多川の脳裏に甦るものがある。少女の幽かなつぶやき……
『お母さん……』
 蘇ったのは―――と初めて出会った日の言葉だ。曲がり角でお互いの不注意により正面からぶつかり合い、喜多川の手から滑り落ちた美術書が開かれる。そのページに掲載されていた班目一流斎の代表作『サユリ』を見て、彼女が呟いた言葉……
 今ならば、彼女が『サユリ』を見て『お母さん』と言った訳がよく解る。なにしろ、張本人が目の前にいるのだ。
 円は年格好も顔立ちもなにもかも『サユリ』とは似ても似つかない。なにしろ彼女の顔立ちからは改心を為してなお勝気さが消えていない。きっと生まれつきのものなのだろう。しかしそこには共通するものがある。
 母親が子へ向ける想い……なんの見返りも求めない無償の愛、子供を慈しむ精神、幸福という言葉の具現化とでも言うべきもの。この世で最も尊いものの内の一つ。
 これほど美しいものは無いだろう。『サユリ』を初めて目にしたときもそのように感じ取り、魅了されたことを思い出す。
 そうとも、はこれを身をもって知っていたから『サユリ』を見て『お母さん』と無意識のうちに声にしたのだろう。
 得心して頷いて、少年は胸を押さえた。心臓の動きに妙なところはないのに、奇妙な焦燥感のようなものが肺腑の裏側にべったりと貼り付いているような感覚がある。わずかな痛みも。
「祐介?」
 はっとして顔を上げる。母娘が心配そうな顔をして彼の顔を覗き込んでいた。
「なんでもない」
 嘘ではなかった。声をかけられたときにはもう痛みも違和感も消えていた。
 荷物を持ってリビングに戻ろうとする彼を母娘が追う。喜多川は二人に気付かれぬようそっと胸を撫でた。
 美しい光景や姿と心を目撃したはずなのに、どうして自分は苦しみを感じたのだろう。
 答えを見つけようと考えを巡らせると、そのうち理解しようとすることにこそ忌避感を覚えて、彼はすぐにそこから目をそらした。心の内のなにかが警鐘を鳴らしている。知るべきではないとして。
 それに腹も減っている。余計な考え事をしてこれ以上エネルギーを浪費したくない。
 息を吸って吐く。それだけで彼はいつも通りの自分自身を取り戻した。

……
 帰る頃にはすっかり日は落ちていた。日の入りの早さはもうすぐ冬になるのだと人々に教えているかのようだ。
 喜多川は振り返って玄関先に立つ少女に目をやった。母親は持ち帰りの仕事があるとかで早々に部屋に引っ込んでしまったから、今ここには二人だけだ。もしかしたら、気を使ってくれたのかもしれない。
「今日はありがとう」
 のほうが言うのに、喜多川は首を傾げた。
「食事を恵んでもらったのは俺のほうだ。礼を言うのは俺だろう?」
「それはさっき聞いたよ。私のは、美術館に連れていってくれたこと」
「それも、俺が行きたかったからだ。お前に見て欲しかった」
「じゃあ言い損かな」
「かもな」
 笑い合って、二人はしばらく沈黙した。乾燥した秋の風が通り過ぎて、庭木の枯れ葉が足元を転がって流れていく。
 帰るとも、帰らないのかとも言い出せず、言いたくないと感じている。胸には小さな幸福感があった。そのために、今この瞬間が続けばいいとさえ思う。
 それでもは間を繋ごうと口を開いた。
「もうすぐ中間だけど、勉強してる?」
 少年は速やかに目を逸らした。
「ちょっと」
「まあ……ぼちぼち。待て、その目はなんだ。やめろ」
「一芸に秀でていたら勉強しなくていいなんてことはないからね? もちろんきみが夢を果たせないとは思っていないけど、万が一のことを考えていい成績を収めておいて損することはないんだから」
「お前は俺をなんだと思っているんだ」
「欠食児童」
 再び、の頬に手が伸びる。彼女は甘んじてそれを受けた。
「やはり話し合う必要がありそうだな?」
「痛い痛い」
 ちっとも痛くもないくせに訴える。顔は笑っていた。
「見ていろよ」
 頬をつねっていた手が一度離れ、同じところを今度は優しく撫でる。俯きそうになるのをその手が阻んだ。目をそらすなと働きかけているようだ。
「すぐにそんな心配は無用だと教えてやる」
「……と、いうと?」
「画家として大成してやると言っているんだ。賞を取って、賞金を頂いて……教科書に俺の名前が載るくらい有名になってやる」
 尊大と傲慢さの影にはしっかりと裏打ちされた実力といくつかの実績が垣間見える。彼は確かに、夢への階に足をかけ始めているのだ。
 たとえ途方もない道筋であろうと果たしてみせると瞳が語っているのを見て、少女は小さく笑って返す。
「遠大だね」
「他人事のように言うな」
 彼はまた、自信深げに頷いてみせる。
「お前はその証人になるのだからな」
「どうして私が」
「見ていろと言ったじゃないか。俺が今言った通りの人物になるまで、お前はそばで見ているんだ」
「それ、いつまでかかるの?」
「教科書に載るくらいだから、一生かかるかもな」
 それは、と言いかけて、少女は声を失った。意味深長な言葉になんと返したら良いのか分からなかったのだ。
 彼女の前にはいくつかの選択肢がある。すげなくノーとこたえるか、快くイエスとこたえるか、どういうつもりでそんなことを言うのかと問いかけるか。もちろんこれら以外にも答えはあるだろう。それこそ無限に。
 それでも実質的には一つだ。
 の中にははじめから答えが用意されているようなものだった。
「いいよ、わかった。仕方がないな」
 大仰に肩をすくめて言ってやると、少年の唇からは安堵の息が漏れる。嬉しそうに相好を崩しもした。
「それまで世話をかけるだろうが……出世払いだ。必ず損はさせないと約束しよう」
「期待してる」
「うん……」
「でも勉強はしなよ」
「あ、はい」
 項垂れて、少年はやっと手を引いた。触れていたところが急に外気に晒されたからかひやりと冷える。暗くなった街路の様子と併せて、蓮美は季節が早足で通り抜けようとしているのを文字通り肌で感じていた。
「もうすっかり秋だね」
「ああ。じき冬になるだろう。過ごしやすくなる」
「そう? 冬は寒いよ」
「おかげで画材を腐らせずに済むからな」
 納得と感心の織り交ざった声が上がる。なるほどそういうことか、と。
 来月に入れば気温はさらにぐっと下がるだろう。本格的な冬の到来に備えて支度を始めなければならない。冬用の掛布を出して、通学用のコートも……
 思考を巡らせ始めた少女の横顔を眺めながら、少年は一歩後退った。
「早く家に入ってくれ」
「ん?」
「これではいつまで経っても帰れない」
「きみ、それは心配し過ぎじゃない?」
「お前は見張っていないとすぐに騒動を呼び込んだりどこかに行ってしまいそうになるからな」
「失礼な。そんなことした覚えは―――」
「少なくとも、俺は一度面と向かって言われているが?」
「うっぐ……」
「ふっ、じゃあな」
 また一歩後ろに下がった少年を見て、少女もまた踵を返して玄関扉に手をかける。
「また明日」
 扉を閉ざす直前にそう言って、今度こそは扉の向こうに姿を消した。それでも彼はしばらくそこに佇んで、名残を惜しむように閉ざされた扉を見つめていた。
 扉を隔て、距離を置いているのにその存在を感じている……
 近頃はこういうことが増えたなと思う。家の中にいる少女だけではない、仲間たちの存在が常に胸の中にあるのだ。なにをしていても、どこにいても、思考の隅に居座って離れない。
 それは決して不快なことではなかった。自分は孤独ではないと思えることがこれほど力になるなんて知らなかった。
 唇に笑みを乗せて、彼は歩き始めた。辺りは暗く、街灯が瞬いて足元を照らし出している。

 夜の闇は刻一刻と深まっているようだった。


……
 少年の前で、一人の女が腕を組んでむつかしい顔をしている。
 二人の間には折り畳み式の小さなテーブルがあり、敷布がそれを覆って、その上に七枚のカードが並べられている。いわゆるヘキサグラム・スプレッド―――タロットカードを用いた占いにおけるポピュラーな形式の一つだ。
 おっとりとした見た目からはなかなか想像できないだろうが、これで女―――御船千早は一流の占い師である。しかも『本物』の……
 身をもってそれを知る少年は、落ち着かなさそうに身体を揺らす。安価な折り畳み椅子の脚がかすかな悲鳴を上げた。
 沈黙の中、やっと御船の指がカードに伸びる。一枚、二枚、三枚……みるみるうちに御船の表情が曇っていく。
「うっわぁ……」
 少年の方が申し訳なくなるような引き気味の声すら上がった。
「これ……うわ、うわぁ……ひゃあ~……」
「千早、怖い」
「あ、ごめんなさい。えっとぉ、ちょっとひどくって」
「そんなに?」
「そんなにです。ほら……」
 言いながら、御船の指がヘキサグラム……六芒星を指し示す。
「あなたの周りを三つの輝くものが取り囲んでいます。こちらは苦難と試練、こっちは絶望と落胆。近く、あなたを死の影が覆うでしょう」
「死……」
「そうです。あなたは今、一条の光も射さない深い闇の中にいる……あるべき道を見失った愚者は荒野をさ迷い、暗闇の中の怪物と対峙しなければならない。路傍の小石すらもがあなたの敵として立ち塞がっている。そして訪れる敗北は、即ち死を意味しています……くれぐれも慎重に動いてくださいね~」
 散々脅かすようなことを言った末に朗らかな笑い声を上げる御船に、少年はあからさまに顔をしかめてみせた。
 しわの寄った眉間には、しかし直ちに女の指先があてがわれる。柔らかな感触が深いしわを揉み解し、細い腕一本分の距離にある御船の笑顔が心に落ちた影を打ち払う。
 見る者に柔らかな印象を与える笑顔。しかし瞳には底の知れない不可思議な光が宿っている。
 それは科学技術の発展した現代においてもはやおとぎ話とされるようなものだろう。千里眼、天眼通、ESP……様々な呼び方があるだろうが、こと彼女においてはこう呼ぶのが相応しいように思える。
 つまり、魔法だ。
 きっと古い時代に魔女と呼ばれていたような存在は彼女のような瞳をしていたに違いない。
 やがてその魔女はゆっくりと手をテーブルの上へ戻し、一枚のカードをトンと叩いて示す。笑顔のまま、小首を傾げて少年に語りかけた。
「けれど、それで終わるようなあなたじゃないでしょう? いつものように、意志の力で運命を捻じ曲げて、未来を奪い取ってみせてくださいね。なにしろあなたには、まだ一つ、文字通り光明が残されています。星も月も道を示さない真っ暗な夜のあとに訪れるもの……」
 御船の指先が示したものは幼子の無垢な笑顔とその背後で燦然と輝く巨大な球体だ。
 それは遍く衆生を照らし出す宇宙の中心に座す恒星。
 魔女は嫣然と笑う。
「黄金の夜明けです」