15:Dance on thin Ice

 ……雨音はショパンの調べと歌った歌手がいたはずだけど、それは誰だっただろうか。
 降りしきる雨にけぶる窓越しの風景を眺めながらそんなことを考える。
 時刻は十六時、場所は図書室。普段静かなそこは珍しく人で満ち、雨によってもたらされた不快指数をより高めている。
 は脚をぶらぶらとさせながら手にしたペンの頭で己の唇をつついた。行儀の悪いしぐさだが、咎める者は誰もいない。なにしろ図書室に押し寄せた生徒たちの多くは間近に迫った中間試験に向けて必死になって参考書に噛り付いている。
 彼女もそのうちの一人であるはずだが、今日はどうにも身が入らない。いや、今日だけじゃない。昨日も一昨日も、きっと明日や明後日も心を覆うこの暗雲が晴れることはないだろう。
 脳裏にほんの少し前の出来事が蘇る。
 楽しいはずの打ち上げの最中に起きた凶事。苦しみに身悶えながら頽れた奥村の父の姿―――
 は無意識のうちに手で口を押えた。こみ上げた吐き気とおぞ気が漏れぬようにと。
 何かをこらえるようにごくりと唾を飲み込んで、手をノートの上に戻す。数式の一つ、文法の一つも頭には入ってこない。集中力はとっくに途絶えてしまっている。
 するとそれを目ざとく捉えた対面の席の人物、東郷一二三が手を止め、声を潜めて語りかける。
さん、先ほどから落ち着かない様子ですが、どうしました?」
 はっとして、は背筋を伸ばしてこたえる。
「ああ、大丈夫。ちょっと集中が途切れちゃって……」
「少し休憩しましょうか?」
 気遣いに溢れた声に、はかえって申し訳なさそうに縮こまる。せっかく、クラスメイトである東郷が一緒に試験勉強をしないかと声をかけてくれたというのに……
「大丈夫だよ。うん。さ、続けないとね」
 笑みを浮かべるが、引きつっている。東郷はそれを見てペンを置いた。
「休憩しましょう」
 有無を言わせぬ語調であった。またその手は己とのノートを閉ざし、教科書や参考書と一緒に抱え上げてしまう。
 鞄を取り上げ、長く艶のある黒髪をなびかせて図書室を出んとする背中には逆らうことができない。戸惑いつつそれに倣って早足に追いかけ、やっと追いつくことができたのは自動販売機が並ぶ一角だった。
 東郷は小銭を一枚二枚投入口に入れたかと思うと、迷いなくボタンを押して取り出し口に手を差し込む。白魚のようなその手が再びの目に晒されたとき、握られていたのはおしるこの缶だった。
「東郷さん?」
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう……どうしておしるこ?」
「貧血気味の時は甘いものを取るのがいいんですよ」
「別に、貧血とかでは」
 東郷はふるふると首を左右に振った。
「気が付かれてないんですね。顔色、悪いです」
「え……」
 思わずと頬に手を添える。触れただけで自分の顔色が分かるはずもないが、しかしそうと言われると触れた指先はいつもよりひんやりとしているように感じる。
 東郷はそばのベンチへと導くようにの手を引いた。
「座ってください。少し休みましょう」
 言って、自分の分の飲み物も買っての隣に腰を下ろす。
 窓の外の雨はますます強まり、屋内に響く放課後の喧騒をかき消すようだ。
 二人はしばらくの間沈黙した。
 は不調の理由を正直に話すわけにはいかなかったし、東郷もまたあえて聞き出そうとはしない。沈黙は必然とも言えた。
 あるいは、東郷はなにもかもをすっかり知っている様子でもある。問いかける必要がないから口を閉ざしているように見えるのだ。
 そういえば彼が東郷の話をしていたし、もしかしたら親しい仲なのだろうか。伊達眼鏡に癖っ毛の少年を思い描いて、はぐっとおしるこの缶を傾けた。
「あっま……」
 当然の感想を漏らすと、東郷は小さく笑う。
「少しは気分が良くなりましたか?」
「うん。ありがとう」
「どういたしまして。さん、ご無理はなさらないでくださいね」
 やっぱり彼女はなにかを知っているんじゃないか。疑念を強くすると、まるでそれを見抜いたかのように東郷は口を開いた。
「彼から、あなたの名前を聞いたもので」
「彼って……」
「お分かりでしょう?」
「……たぶんね」
 やはりか。と唇の端を釣り上げる。他校の女にまで手を出しているのかあの男は……とまでは思わなかったが、恋敵の多さにいくらか友人の心配はする。
 は緊張を解いてまたおしるこをすすった。隣では東郷もまたペットボトルを傾けている。
「まさか知り合いだとは」
「私もです。喜多川くんの名前も出ていたから、もしかしてとは思っていましたけど……」
「彼とどんな話をしているの……」
 呆れながらに問いかけると、東郷は曖昧な笑みを浮かべる。
 これは近く、あの少年を問い詰めてやらねばなるまいと心に決めてまた一口。やっと舌に絡みつくような甘さにも慣れてくる。は脚を投げ出して天井に視線を投げた。
 不思議なものだ、と思う。
 そもそもこの学校を進学先に選んだのは母が提示したリストのうち、同じ中学から受験する者が一番少ないところを選んだというだけだ。どうせ友達なんてできっこない―――できたとしてもそれは母が選別した枠組みの中でだろうし、きっと長続きもしない。そんな思いで。
 あの頃のは、何もかもを薄いヴェール越しに眺めるばかりだった。見るだけじゃない、聞くのも触れるのも、薄布一枚隔てた先の世界のことと諦観の念を抱いて手足を放り出し、緩慢な死を待つだけの人形だった。
 それが今やどうだろう。
 確固たる己を持ち、意志の力でもって様々なものに立ち向かい、想いを寄せる人を諦めることもなく、多くの友人に囲まれている。
 今も、隣に自分を心配してくれているクラスメイトが座っている。手を伸ばせば、ヴェール越しじゃない、直に触れることもできるのだ。
 薄暗がりの中から抜け出した少女は、沈黙に任せてさらに深く思考する。
 隣の少女はきっと、このまま女流棋士としての道を歩んでいくのだろう。高巻は本気でモデルを目指すのだと言っていた。喜多川などは言うまでもないだろう。他の知っている人たちも皆、言わないでいるだけで将来なりたいものが決まっているのかもしれない。
 じゃあ、私はなにになりたいのか。物理的、性別的、国籍的になれない職業と言うものはあるだろうが……
 それでも、きっと今ならなんにでもなれる。
 隣に座る東郷の横顔を見ていると、不思議とそんな気持ちになれた。
「どうしました?」
 視線に気が付いた東郷がかすかに首を傾げて言った。はなにも言わず、ただ小さく首を左右に振る。
 二人の間にはまた沈黙が横たわった。しかし、やがて東郷が鞄に手を差し込み、ずるりと折りたたみ式のポータブル将棋盤を引っ張り出す。は凍り付いた。
「休憩がてらに……一局、いかがですか?」
 どことなく照れたような調子で告げる。はこれを固辞することもできたのだが―――
 負け通しではいられない。
 謎の負けず嫌い精神を発揮して、少女はこれを受けて立った。
 そして再び、完膚無きまでに打ち負かされた。


 今は埋伏の時だ。
 と、思えど、こう連日ネガティブな言葉を囁かれては気も滅入ろうと言うもの。
 奥村邦和の不可解な死から五日。世間は見事な手の平返しをしてみせた。
 あれだけ好意的な———盲目的な信奉とも言える声を上げていた衆生は今や一転、怪盗団を非難している。
 仕方のないことだとは思う。誰だって、殺人の容疑者に好意的な目は向けまい。それも正体不明、手段不明の集団を。
 とはいえフラストレーションは蓄積するものだ。
 屋根裏部屋の寝台の上でまんじりともせずあれこれと物思いにふけっていた少年であったが、やおら立ち上がると着替えを引っ掴んで寝巻を放り出し、物音に気が付いた同居猫がぱちりとまぶたを上げるのを尻目に階段を駆け下りた。
 時刻は六時。ルブランを飛び出して、まだ日も明けきらぬ人気の少ない路地を走り出す。やがて広大な公園に辿り着くと、目的を同じくする早朝ランナーや犬の散歩に励む人々の姿が見え始める。少年はそれらを横目に、徹底的に己の肉体をいじめ抜くつもりでさらに速度を上げた。
 そのようにして数百メートルを全力疾走し、なお速度を落として走り続ける。まったく健康的なことだとランニングハイになった頭で思う。クールダウンにはまだ早いとも。
 人気の少ない場所を選んでゆっくりと停止して呼吸を整えることしばし、今度はステップワークを刻む。
 緑に囲まれた公園の中だ。鏡が無いのは当然であるが、それでもあればいいのにと思いつつ中空に拳を打ち出す。
 左右のワン・ツー、スマッシュ、ブロー、ジャブ……拳は打ち出されるたびに空を切る激しい音を鳴らした。
 それを、どこか遠くに聞きながら胸に過日の出来事を返す。
 屈辱と恐怖、絶望と虚無感———
 通い慣れたコンビニからの帰り道。女の悲鳴。罵声と恫喝。怒りと憎しみのこもった目。
 あの男の顔をうまく思い出せないのは、無意識のうちに思い出すことを拒絶しているからだろうか。ごく自然な防御反応として。
 それでも、おぼろげな男のその顔に拳を突き立てる。乗せられた感情はただ一つ……
 憎悪だった。
 しかしそれも長続きはしかなった。ガツンと大きな衝撃が拳から腕、肩に響いて、少年は我に返って悲鳴を上げる。
「い……ッッてぇ!」
 たたらを踏んで、後退る。痛みを訴えるのは拳だが、まったく予想していなかったこれに全身が驚いてびくびくと痙攣している。あるいは、全力疾走のツケが早くも回ってきたのかもしれない。
 平静を取り戻そうと深呼吸を繰り返す。見れば、彼の目の前には太い幹のしいの木が堂々と立ちふさがっているではないか。思索にふけるうちに距離を見失って巨木を叩いたということだろう。
 やってしまったと辺りを見回すが、人の姿は見当たらない。
 ほっとして、肩を落として拳に目をやると、血が滴っているではないか。それは痛いはずだ。
 手を振って血を払い、傷を押さえて歩き出す。
 もう惣治郎が喫茶店の開店準備を始めているはずだから、その前に風呂屋に寄って、血と汗を落としてから帰らなければ……
「はぁ……」
 ため息が漏れる。
 胃の真下あたりに正体不明のむかつきがへばりついて離れない。
 行きと違ってとぼとぼと歩いて帰る姿はなんとも情けない。少年はポケットにしまいこんでいた伊達眼鏡で顔を隠して来た道を引き返した。

 思いもよらぬ人物を発見して立ち止まったのはルブランの入り口が見えた所だった。
 じょうろを手に植え込みに水をやっている後ろ姿は間違いなく佐倉双葉のものだ。少し離れた所では、靴下猫がその様子を見守っている。
 別段不思議な事でもない。彼女もまた佐倉惣治郎に世話になっている身だ。小さな手伝いくらいはするだろう。
 それにしたってこんな朝早くから感心なことだ。
 ぼんやりとじょうろを振り回す姿を眺めていると、靴下猫が少年の帰宅に気が付いて声を上げる。
「お、帰ってきたな」
「むっ」
 オレンジ頭が振り返る。こちらを見る彼女の顔は不機嫌そうにしかめられていた。
「なにしてんだコラぁ」
 咎める声まで投げかけられた。
 少年は大仰に肩を竦め、汗を拭うふりをして肩にかけたタオルをとって傷を隠しつつ二人に歩み寄った。
「ただいま」
「おう、おかえり」
「おかえりー……じゃないっ、朝っぱらからどこ行ってたんだ。お前がいなかったせいでわたしが開店準備手伝うことになったんだぞ」
「それくらいしてやれよ……」
 呆れたような猫の声。ふっと口元を緩めた少年とは正反対に、佐倉はますます顔をしかめた。
「別にしてやらんこともないぞ。けど、わたしだけってのが納得いかない」
「俺は普段からやってる」
「うるさいっ」
 つんと唇を尖らせる佐倉がかわいくて仕方がないと左手で頭を撫でてやる。色気のない悲鳴を上げても、彼女はそれを拒まなかった。
「んもー、本当にどこ行ってたんだよー……」
「ただのランニング。試験勉強ばっかりじゃ体がなまるから」
「ほう、感心感心」
 モルガナからのお褒めの言葉を賜って、少年は胸を張る。そして彼は屈んで佐倉に視線を合わせると、意地悪を言うような心地で言ってやった。
「そんなに心配した?」
 つれない態度を期待しての言葉だった。してない、とか、するわけないだろ、と返されることを望み、そして彼は裏切られた。
「当たり前だろ」
 へ、と気の抜けた声が上がる。佐倉はやっぱり、少し怒ったような顔をしていた。
「そんなの当然だ。そうじろうだって心配してた。むしろ、なんで心配されないって思うんだ?」
 問い返されて、少年は言葉を失ってしまう。なんでなんて、だって自分たちは血の繋がりもなければ、成人こそしていないが立派な一人の男児なのだ。心配される謂れがない。
 そんな少年の戸惑いなどお構いなしに、佐倉はさらに言葉を紡ぐ。
「朝っぱらからフラフラフラフラ、わたしが言うのもなんだが、もっと周りのやつの気持ちを考えろよ」
「いいぞフタバ、言ってやれ。オマエはそーゆーところがダメなんだってな」
「まかせろっ! いいかぁ? 同じ釜の飯を食う仲間って言うだろ? わたしとそうじろうとお前は同じ鍋で作られたカレーを食ったんだから、これに当てはまるんだ。そういう関係のやつを心配して、むしろなにが悪いってんだ」
「……それじゃあ、ルブランにカレーを食べにくる人はみんな同じ鍋の仲間だ」
「しまった」
「フタバぁ……」
 オマエもダメじゃねーか。言って、モルガナは猫にはないはずの肩を落とした。
 それでも、少年には佐倉の言わんとするところが理解できている。つまり彼女は、家族のようなものなんだからと告げているのだ。少年は再び口元をほころばせた。
「心配してくれてありがとう、双葉。気分が良いからお兄ちゃんがなんでも買ってやるぞ」
 冗談めかした言葉に、佐倉はぱっと顔を明るくさせる。それを見て思うことは一つだ。きっと妹がいたらこんな感じなんだろうな。
 そして彼は後悔した。
「じゃあスマホっ! あ、中身はいらん。ガワだけでいいぞ。五台くらい用立ててくれ!」
「……何に使うんだ」
 がっくりと肩を落として項垂れた少年に、佐倉はえへんと平坦な胸を張ってこたえる。
「お前がランニングするのと似たようなもんだ。ストレス解消とトレーニング……やれることはやっとかないとな」
「はぁ……分かった。汗流してくるから、惣治郎さんに言っておいて。洗い物とかしたら出掛けるから、支度しておくんだぞ」
「へへ、やった」
 その場でくるりと一回転。佐倉はモルガナを抱きかかえて軽やかにルブランの扉をくぐって姿を消した。扉越しに「そうじろー、あいつ帰ってきたぞー」と報告する声が響く。
 それを背に受けながら風呂屋に向かう足は、佐倉と同じかそれ以上に軽やかだ。
 そうとも、腐っている場合じゃない。今はやれることをやらなければ。
 ……佐倉の用事を済ませたら、試験勉強を再開しよう。心に決めて、少年は銭湯の扉を開いた。


……
 時は過ぎる。二点間を無限に移動するそれは決して戻ることなく、人の想いなど汲み取りもせず淡々と、粛々とただ進んでいく。
 楽しい時間は終わり、少年たちの前には祭りの終わり特有の寂寞だけが残されていた。
って案外自由だよね」
 後夜祭も終わった校門近く、帰宅の途に就く生徒たちが通り過ぎて行く姿を眺めながらの高巻の声には多分に非難の色が含まれていた。
 しかし肝心の蓮美の姿はなく、それこそが彼女の言うところの『案外自由』ということであろう。そして彼女は祭りが終わった今になってもがこの学園祭に来れなかったことを不満に思っているらしい。
「仕方ないよ。リハビリなんでしょう?」
 フォローに入ったのは奥村だ。
 彼女はまた「病院側の都合もあるし、なかなか予定はずらせないよ」と重ねて語る。
「それは分かってるんだけど……やっぱ一緒に回りたかったじゃん?」
「そうね。また来年ね」
「ん」
 こっくりと幼い子供のように素直に首を縦に振った高巻に、奥村はにっこりと微笑んだ。
 彼女たちが語るように、は昨日今日と続いた秀尽高校の学園祭を欠席している。もちろん、彼女はここの学生ではないから参加の義務はないのだが……怪盗団の一員としてはまた別の話だ。
 とはいえその欠席の理由は、二月ほど前に受けた整復手術の術後観察とリハビリである。病院通い自体は定期的に行われていたことだったが、今回ばかりはタイミングが悪かった。
 なにしろ怪盗団は、この文化祭の舞台で手痛い失態を侵したのだ。
 もちろん衆目にその正体を晒した訳では無いが、実質的には同じことだろう。
 明智吾郎———長らく怪盗団の正体を追い続けてきたかの少年がついに怪盗たちに追いつき、彼の語るところの正義を突きつけたのだ。
 その証拠として彼が提示したのは複数枚の写真であった。そこには先日まで取り掛かっていた奥村邦和のパレスに挑む少年たちの姿がつぶさに写し出されていた。
 明智はこれを警察に奥村邦和殺害の重要証拠として提出すると宣言した。
 当然殺人に関しては冤罪である。抗弁する怪盗たちに探偵は按じ、一つの提案をする———
 回想から戻って舌打ちをしたのは仮面もないのに『ジョーカー』のような表情をしてみせた少年だった。その脳裏には占い師の茫々とした言葉が蘇っている。
 死の影。深い闇。あてもない漂泊。暗闇の中の怪物。路傍の石。
 明智某がいずれに当てはまるかは分からぬが、しかし忌々しいことに違いはない。大した障害ではないと見なしていたが、侮り過ぎていたか。
 己の失態に対する苛立ちを飲み込んでポケットに手を突っ込む。
「祐介、これ」
 声をかけられて、喜多川は振り返った。
 突き出された手には乱雑な文字が書きつけられた手帳の切れ端が摘ままれている。
「なんだそれは」
 率直な問いかけに紙片を振りつつ、少年は苦笑する。
が行ってる病院の場所」
「ああ……」
「迎えに行ってきて」
「なぜ俺に言う」
「手間をかけさせるな。いいからさっさと行ってこい」
 うんざりとでも言いたげな声と仕草に喜多川は思わずと顔をしかめた。
 とはいえ、その意図が汲み取れないわけじゃなし、彼は小さく息をついてその紙片を受け取った。
「お前も人の世話を焼くのが好きだな」
「少しはこっちの苦労を察してくれていいぞ」
「察されたいのか?」
「うんにゃ」
「なら言うな。……これに関しては礼を言う。じゃあ、また後で」
 全員に向かって手を上げた彼を見送り、少年は仲間たちを振り返って言う。
「それじゃあ、まずは作戦会議といこう。頼んだぞ、参謀殿」
 ぽん、と肩を叩かれて、ここまでどこか消沈した様子を見せていた新島が顔を上げる。
 彼女は一度きつく目をつむり―――
 やがて胸のうちにたまった毒気を捨てるように大きく息を吐き出した。
「ふうっ……了解よ、リーダー。今度はしくじらない。鍵はすでにこちらの手の中にあるんだから」
 ぎゅっと握られた拳には闘志が宿っている。
 それを見つめていた一同は心の内で「真って頭いいのに脳筋なところあるよね」と思いこそすれ、決して言葉にはしなかった。
 さておき……
 少年は喜多川が歩いて行った方向を眺めてもらす。
「はー……オペレーション、オーバーバイトタートルしたかった……」
「出っ歯の亀太郎」
「女風呂を覗きに行くわけじゃないよね?」
「ていうかやんなよ。そっとしといてやれよ」
「これも全部明智吾郎ってやつの仕業なんだ」
「押し付けんな押し付けんな」
 鞄の中から飛ぶ相棒のツッコミを受け流し、少年は眼鏡のつるを押さえて歩き出す。
 怪盗団の長が窮地にあってもいつも通りであることに安堵すべきか、緊張感を欠くと叱責すべきか。迷った挙句、一同はやっぱり口を閉ざした。


……
「思っていたよりもやっかいなことになってるね」
 ことのあらましを傾聴し終えたの言葉はあっさりとしたものだった。
は落ち着いてるわね。助かるわ」
「あれ、遠回しに俺らディスられてる?」
「そういうつもりじゃないけど、そうかも」
 すっかり緊張を解いた新島と坂本が軽口を叩き合うのを横目に、はソファの上で膝を抱える。
「なんだかんだいつもどうにかなっちゃうし。作戦はあるんでしょう?」
「おおむね固まってはいる」
 こたえたのは、今やすっかりたまり場となりつつあるルブランの屋根裏部屋、その主だ。彼は窓際の床板に腰を下ろして脚をぶらぶらとさせながら、ベッドの上であぐらをかいてラップトップをいじる佐倉に目を向けた。
 それを受けた佐倉は持ち込んだ鞄をごそごそと漁ったかと思うと、固く口の結ばれた布袋を取り出して掲げてみせる。
「とりあえずこれな」
「なに?」
「精密機器。落とすなよ、ほらっ」
 ぽんと勢いよく布袋を放り投げられて、は慌てて腕を伸ばして空中で掴み取る。膝を抱えた格好から上体を乗り出した彼女は勢いによってバランスを崩し、あわや顔面から床に叩きつけられようとして———襟首を隣に座っていた喜多川が引っ掴んでそれを阻止する。
「ぐえ」
「あ、すまん」
「ナイスキャッチだおイナリ!」
「双葉ぁ?」
 恨みがましげな目と声には多く非難の色が湛えられていたが、しかし口や手が出るよりも先に、奥村が佐倉をたしなめる。
「もう、危ないでしょう?」
 彼女に優しく言われてしまうと誰も逆らうことはできない。それは佐倉も例外ではなく、彼女は小さな反抗として舌を出して目を細めた。
 さておき、袋の中身はなんだとが封を解く。喜多川が興味深げにその手元を覗き込んでくるのを肘で押し返しつつ中身をテーブルにぶちまけると、一台のタブレット型コンピュータと五台のスマートフォンが転がり出る。
「タブレットに、スマホ? こんなにたくさん、どこから出てきたの」
「こいつの財布から」
 指差された屋根裏部屋の主は渋い顔をして頭をかいた。
 なにやら後ろ暗いやりとりがあったと見て冷めた目線を向けるのに気が付いた佐倉が声を大に訴える。
「言っとくけど、買ってやるって言い出したのはあっちだからな!」
「思っていた以上にむしられたけど。駄菓子程度のつもりだったのに……」
「必要経費っ! 男がぐだぐだ言ってんじゃねー!」
「お、男女差別」
 坂本が混ぜっ返す声を上げるのに、佐倉が猫のように歯を剥いてみせる。
「はいやめやめ。この部屋で男女論と特定のスポーツと宗教とヴィーガンの話は禁止」
 パンと手を打ち鳴らした長に一同はぴたりと動きを止めた。
 さて、それを見て良しとして、少年は新島に目を向ける。スピーカー役を賜った彼女は然りと頷いて語り始めた。
「確かに私たちはの言う通り、やっかいなことになっているね。それは間違いない。でも、勝機が無いわけじゃないわ。ありがたいことに、あちらはこちらを侮ってくれている」
「別にありがたくはないけどな」
 率直なモルガナの言い様に苦笑しつつ、新島は続ける。
「まあね。まあ、なんだっていいけど。とにかく、私たちには秘密兵器がある」
「へえ、そんなものあったっけ?」
 楽しげに問いかけたに視線が一斉に集中する。
「……あれ、なにこの雰囲気」
「うんまあ、がそうだからこそなのかもね」
 半笑いで高巻が言うと、を除いた一同は同意するように首を縦に振った。
「私? なにかしたっけ……?」
「なにかしたっつーか、何もしてないっつうか……」
「なんなの竜司。もったいつけないで教えてよ」
「お前さ、結構怪盗団の活動休んだりしてっだろ」
「まあ……申し訳ないとは思っているけど……それが?」
「これ」
 窓際から降り立ってテーブルに歩み寄った少年の手から、バサッと音を立てて複数枚の紙片がばらまかれる。
 それは怪盗団の面々を撮影した写真のようだった。よくあるスナップ写真や自撮りと違う点は一枚たりとも目線がレンズに向けられていないことだろう。つまりこれは、被写体に許可なく撮影されたもの―――即ち盗撮だと推察できる。
 にはその写真の背景に見覚えがあった。
「これ、オクムラ・フーズの本社前か。もしかして例の、明智吾郎が出してきたっていう?」
「うん。データは別にあるって言うから貰ってきた」
「ふぅん……」
 頷いて、一枚一枚を確かめるように取り上げる。顔や背格好が確認できるものばかりだ。探偵としてだけでなく、カメラマンとしての腕もなかなかのものらしいと見て、は鼻を鳴らした。
「私のはないんだね。なるほど、そういうこと?」
「理解が早くて助かるよ」
 つまり、が度々怪盗団の活動を休んで単独行動を取っていたタイミングと、明智吾郎が怪盗団の正体、その決定的な証拠を掴む瞬間とが重なっていたと少年らは言いたいようだ。
 それが示すところは一つだ。少なくとも蓮美はマークされていない―――
「偶然とはいえ、これを利用しない手はないでしょ?」
 なるほど確かにと思いつつ、でも、とは言葉を濁した。
「なにか懸念が?」
 喜多川の問いかけに、はうーんと唸って鞄に手を差し込み、一冊の手帳を取り出した。そこからまた一枚の紙が取り出されてテーブルの上に音もなく晒される。
「なんだこれ」
「明智吾郎の連絡先」
「は?」
 ぎょっとして、一同はの顔を凝視する。
「あー、その、前に少し。話をして」
「詳しく」
「はい」
 四方八方から向けられる重圧に項垂れながら語ったのは、出奔したモルガナの行方を捜してオクムラ・フーズ本社に赴いたときの出来事だ。
 話し終わるのと同時に、が腰かける三人掛けソファの空いていた左隣に高巻が腰かけ、右隣に腰かけていた喜多川が新島と交代する。
「すいません、勘弁してください」
 両脇を取られた少女は明後日の方向に目線を投げながら震える声を出した。
「んん~? 聞こえないなぁ~」
「私たち、もっとよくお話する必要がありそうだね」
「いや、そんなわざわざ報告するほどのことじゃないかなって……」
「あるよね?」
「そうね」
 ぐっと呻いて、は言葉を失った。
「アンタはほんっとに……いい? 次こういうことがあったらひっぱたくかんね! ムチで! キモチよくさせてやるんだから!」
「ほんと勘弁してください」
「正体を知られるわけにはいかないって分かっていたでしょうに、まったくもう……そうなっても私は止めないからね」
「戻ってこなくなれなさそうだから止めて下さい」
「二人とも、それくらいにしてあげて?」
 いよいよ体を小刻みに震えさせ始めた少女の姿を憐れに思ったのだろう、奥村がまたたしなめる声を上げる。やはりと言うべきか、二人はそれでの肩をつついていた手を引っ込めた。
「これが圧迫面接というやつか」
「ちげーよ」
 うんうんと頷いて何かに納得する喜多川に坂本が呆れかえった声を上げるが、それ以上はなにも言わなかった。
 全く話が進まない。と、モルガナが尻尾で床を叩くのを皮切りに本筋に戻る。
「話を聞く限りじゃ、接触はしたけどむこうさんはが怪盗団の一員だとは思っていなさそうだな」
「どうだろう。一応、そういう体で私も話をしたけど……こうなると分かっていたらもっと情報を引き出していたのに」
ほんと懲りてねーな」
 佐倉の言葉通り、相変わらずの左右を陣取った二人の少女がその顔を覗き込んでいる。
「いやその、必要でしょ?」
「それはそうだけど、絶対にがやらなきゃならないってワケじゃないでしょ」
 唇を尖らせて拗ねたような素振りを見せる高巻に苦笑するしかない。は困り顔で首魁である少年を見上げた。
 彼はなにごとかを思案している様子だった。口元に手をやって、写真と、それから明智吾郎の連絡先それぞれに目をやって、やがて口を開いた。
「とりあえず、あいつんちにLサイズのピザ十枚くらい送っとく?」
「ちっさ!? やることちっさ!!」
「ピザなら俺にやってくれ」
「いや着払いだから……」
「そもそも住所わかんねーし。これメアドだろ」
 猫の口から重々しいため息が漏れる。こいつらホント緊張感ねーな。と。
 とはいえ、いつものことではあるのだ。彼もそれに倣うべく己が吐き出したため息を蹴り飛ばし、床に寝そべって毛づくろいに取り掛かる。
 さて、心の底から残念そうな少年の手が紙片を摘まみ上げる。
 にゅっとその脇から顔を出した佐倉が底意地の悪そうな笑みを浮かべて裾を引っ張るのを振り払って、彼は佐倉に負けじ劣らぬ底意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「いずれにせよ、にやってもらうことは変わらない。お前には”エス“をやってもらう」
 怪訝そうな顔をするに、彼は重ねて告げる。
「要するにモルガナ断ち。しばらくお触り禁止」
「えっ!?」
 立ち上がった少女と、楽しげに笑う少年に胡乱げな目を向けたのはなにも猫だけではなかった。

……

 荒涼とした断崖の上を少女が歩いている。
 吹きすさぶ風は荒々しく、時折小さなつぶてまでもが舞い上げられて少女の身体を強かに叩いた。
 ちらりと足元を見れば、乾燥した土と岩で形成された地形がずっと続いているのが見える。道とも言えぬ道の左右、ほんの一メートルそばに底も見えない奈落が覗いていると思うとぞっと背筋を走るものがあった。
 見上げれば天は薄雲に覆われている。雲の向こうにあるらしき太陽がぼんやりと輝くその輪郭だけが辛うじて確認できる。
 薄明りに照らされた断崖絶壁の道の向こう、遥か彼方に石造りの砦が見える。
 幅の狭い道がはね橋に続き、堀代わりの深い谷の上を通って城門と側塔が。堅牢そうな城壁には外殻塔が取り付けられ、壁の向こうに門衛用の建物だろうか、某かの建物の屋根が覗いている。
 それらのさらに向こうに城壁塔や門塔、本塔が聳立する。そしてそれらの中間に———
 居館、すなわちパレスが物言わず佇んでいる。
 荒れ果てた道のあちら、砂嵐の向こう側を睨みつけて少女は頬に貼りついた砂埃を払い落とす。口の中はすっかり砂だらけで、吐き出す気にもなれなかった。
 ふと、少女は何かに気が付いて立ち止まる。
「誰?」
 誰何の声を上げながら振り返ると、ちょうど砂嵐が弱まったその向こうから複数人の人影が駆け寄ってくるのが見えた。
! 待って!」
 声を上げたのは先頭に立って真っ先に少女に走り寄った赤い仮面の人物だった。
 少女———は胡乱げな目をして、その顔を隠す仮面をゆっくりと取り外す。目の前で乱れた呼吸を落ちつけようとする少女に向ける目は冷たかった。
「杏……?」
 問いかけながら顔を上げて、高巻と共に向かってきた九人の少年少女を確認して目を細める。
「きみたち……何しに来たの」
 声は冷淡だった。一同が思わずあ然とする程度には。
 それでも、集団から一歩前に進み出て『ジョーカー』が声を上げる。
「一人じゃ危険だ。俺たちと一緒に行こう」
 声には心底からを案ずる色があった。彼が本当に、の身を心から心配していることが窺える。
 しかし返されたのは冷笑だけだ。
「一緒に? きみたちと? 面白いことを言うね」
……?」
 目の前に立つ高巻が茫然とその名を呼ぶのに、は嫌悪感を滲ませて声を荒らげる。
「ふざけるな! 人殺しなんかと一緒に行けるわけがあるかッ!」
 全員が目を見開いて硬直する。最もの近くにいた高巻などは、信じられないと言わんばかりに喉を震わせている。
「それは……俺たちがやったんじゃない!」
「じゃあ誰がやったって言うんだ! こんな———こんな『力』! 他の誰が持っているって言うんだ!」
 吠え声に応じて、少女の背後に黒いヴェールとその向こうの妖艶なシルエットが立ち上がる。蒼い炎を伴って少女の腕が振り上げられると、強大な力の奔流が少年たちに襲い掛からんとする。
! ダメっ!」
 直前、高巻がの身体にぶつかるようにして縋りつく。それによって狙いを違えた一撃は乾いた地面をえぐり、土煙を巻き上げて一同の視界を塞いだ。
 そして悲鳴が上がる。
 強風によってクリアになった彼らの目に映ったのは、腰元に据えていたはずの剣を高巻の首筋にあて、羽交い絞めにしたの姿だった。
「全員動くな!」
 言われるまでもなく、少年たちはその場に縫い付けられたかのように動きを封じられる。
「く……、アンタなに考えて……」
「指一本でも動かしてみろ。彼女の―――」
 ジョーカーたちを睨みつける目には明確な敵意が宿っている。
 それを見て、少年は本当にひっそりと息をついた。
 ちょっとやり過ぎだろ。パンサーがマジ泣きしそうになってるじゃないか、と。