16:No pain No gain

 薄暗がりの中で数人の少年少女がテーブルを囲み、声を潜めて何事かを話し合っている。
「これがそのデータだそうだ」
 まず、長身の少年が手の中にあったものをテーブルの上に置く。
 それを見て、隣に腰かけていた少女が驚きの声を上げた。
「マジ? もう? 早くない?」
「任せて正解だっただろ?」
 度の入っていない眼鏡を押さえてしたり顔をする少年を横目にテーブルの上のものを引き寄せた少女が唇を尖らせる。
「わたしの手柄でもあるんだからな?」
 ぼやきながら、少女は手早く腕に抱えていたラップトップを叩き、持ち込まれたデータを展開する———
 画面上に映し出された文字の羅列に、めまいを覚えたように金髪の少年がふらついて頭を押さえた。
「……あ、俺ダメ。無理。こういうの読めない」
「画像まで添えてくれているんだから、少しは読み取る努力をしなさい」
 呆れながら腰を浮かせ、少女の肩越しに一同は画面を覗き込む。
 するとこれまで沈黙を守っていたうちの一人がおっとりとした調子で驚きを示した。
「あら、この人、見たことある」
「ふうむ、そうだな。こっちも見覚えのある顔がちらほら」
 ゆれゆれと揺れる猫の尾を捕まえながら、伊達眼鏡のつるを押さえた少年が感嘆の息をつく。
「あいつにストーカーとかさせたらヤバいな。祐介、怒らせるなよ」
「わかった。今の発言も含めてよく伝えておこう」
「ほんとごめんなさい。やめて。お願い」
 ……話は一週間と少し前にさかのぼる。
 エスの名を授けられたはこの屋根裏部屋で五台のスマートフォンと一台のタブレット型コンピュータ、それからずらりと文字の羅列された紙片を受け取った。乱雑なその文字は日時と人名を教えているようだ。
 そして恐らく、この読み取るのに若干の努力を必要とする文字を書いたのであろう少年が告げる。
「そのスケジュールに沿って俺たちは行動する。はそれを監視して、俺たちの周りで不審な動きをする奴を一人残らず記録してくれ」
 なるほど、とは頷くが、しかし難色を示しもした。
「了解。と素直に言いたいところだけど、カバーできる範囲には限界があるよ。監視の監視には私一人じゃ不足では?」
 これに佐倉が得意満面、胸を叩いての腕にタブレットやスマートフォンを押し付けた。
「そこでわたしの出番ってわけだ。一度で覚えろよ。こいつを起動して、こいつらと接続して……ほいほい、ほいっと」
 ぱたぱたと佐倉の小さな指先がタブレットのタッチパネルを叩いていく。その度に画面が目まぐるしく変化し、やがてどこかを映し出す複数のライブ映像が一面を占拠する。
「なにこれ」
 率直な質問に、佐倉はやはり得意げに答えた。
「監視カメラ映像!」
「うわ……」
「なんだその反応は! 見ろよ見ろよ、ここをぽちっとするとだなぁ……」
 タブレットと有線で接続されたスマートフォンを手繰ると、ライブ映像のうちの一つがゆっくりと移動する。
「操作もできるんだぜ、うひひっ」
「どうやってるのこれ」
「実働部隊にちっこい機械ぶっ刺してきてもらった」
「実働部隊?」
「りゅーじ」
「おー」
 指し示されて半ばおざなりな返事を返しつつ坂本が手を上げる。彼は面白くもなさそうな顔で映像を覗き込んで「あーあそこのやつか」などと呟いてはしきりに頷いている。
「……一応聞くけど、これ犯罪だよね」
「まあな。んでもブラウザで見れるライブカメラなんていっくらでもあるし、そんな感じのもんだって。むしろなんで好きに覗かせてくれないのか、それがわからない」
 それに、と佐倉は忌々しげに片眉をしかめてみせる。
「どうせあっちも盗聴や盗撮はしてると見ていい。こっちはやり返してるだけだ」
「そういうものかなぁ……ズームはできる?」
「ん。こっち」
「画質はこれが限界?」
「こればっかりはここじゃなくてむこうの問題だからな……」
 あーだこーだとやり合ってはタブレットに手を触れさせる二人を見守っていた出資者が、会話の切れ目を狙ってため息とともに言う。
「役立ててくれ。本当に。マジで。経費じゃなくて俺の財布からだから」
「おや、急に切羽詰まったことを言うようになったね」
 これに、モルガナがふんと鼻を鳴らす。
「最近はコイツにおこづかい帳をつけさせてるからな。怪盗団の活動資金と私的な出費は切り分けさせてるんだ」
「ああー……」
 納得したような呆れたような声を出すに、締め上げられた少年はがっくりと項垂れた。
「ていうか、キミはちょいちょいバイトもしてるんだから、そんなに困ることはないでしょ」
「それとこれとは話が別」
「どう違うんだよ……」
「一任させていたのはこちらだし、それでリーダーの金銭感覚が狂ったらマスターやご両親に申し訳が立たないわ」
「それを言ったら春はどうなる」
 え? と奥村が小首を傾げるのに、新島は何故か得意げになってこたえる。
「春はちゃんとしてるもの」
「えへへ」
 褒められて照れくさそうに身を捩る奥村はさておき、坂本は喜多川に目を向けて彼を指差した。
「つーか祐介もつけたほうがいいんじゃね?」
「俺が? なぜ?」
 きょとんとした顔をしつつ、それでもスナック菓子を口に運ぶ手は止まらない。渋い顔をしたのはなにも疑問符を投げかけた坂本だけではなかった。
「なぜと来たかぁ……」
 重々しいため息がの口からこぼれ落ちる。坂本が彼女に同情の眼差しを向けるのも無理からぬことだろう。彼はぽん、と優しくの肩を叩き、改めて喜多川に非難の目を向けた。
「俺らんなかで一番金銭感覚狂ってんのどう考えてもお前だろ」
「えっ?」
「素で驚いてんなよコノヤロー。ちょっとマジ……まじでお前ちょっと一カ月くらいつけてみ? そんで俺ら……っつーかに見せてみ? たぶんすっげー面白いことになるから」
「やめて竜司。なんか想像だけで……ああ、お腹痛くなってきた……」
「大丈夫か。悪いものでも食べたか?」
 そんなわけがあるか、と坂本が言おうとするのを手で制したのは他でもないだった。彼女はただ黙って首を左右に振っている。
「いいのか……?」
「ふっ……彼はそういうものなんだよ。ふふふ……」
 虚ろな笑いに、坂本は心からの同情を寄せた。
 閑話休題———
 このようにして別働任務を受けたは翌日から精力的に働き、十日ほどで成果を上げてみせた。
 怪盗団のメンバーとの接触を禁じ、彼らを監視する者たちの顔と特徴を表にまとめ、唯一校内で接触のできる人物である喜多川を介してここに届けさせたのだ。
「ストーカー云々は置いといても、観察者としては適任だっただろ」
 得意げに言ってみせた頭領に、一同はまあねと気安く同意してみせる。
「これで仕掛けの設置に関しての問題は一つクリアね。あとは……」
「……やっぱりアイツだよなぁ」
 新島の言葉を受けて、坂本が天井を仰ぐ。屋根を支える梁に星座を模した蓄光のシールが貼られているのに気が付いて、もっとよく見ようと背すじを逸らす。するとそれに釣られたのか、同じように天井を見上げた佐倉がぼやく。
「どっかで目を逸らさせないとだよな。数時間でいいんだけど、んー……」
「最悪遊びにでも誘うか」
「あっ! ワガハイ、スシがいい! アイツも連れてスシ食いに行こーぜ!」
「いや、目的変わってるし」
「あうー……」
 軽快なやり取りを見守っていた奥村がクスッと笑う。
「そこが最悪のラインなのね」
「春だって、仲良くお食事なんてしたくないだろ」
 つん、とそっぽを向いた佐倉の言葉に、奥村は消極的な肯定を示した。
「そうだね。でも、まだ憶測の段階だから。私は……正確なところを知りたいな」
 言葉とともに腕を伸ばし、指先がラップトップの画面の一部を指し示す。
「見覚えがあるって言ったでしょう」
「ん?」
 全員の視線がそこに集中した。
「……この人がお父様とお話しているところを見たことがあるの。接触することができれば、お父様が認知世界を利用して悪いことをしていたときの『なごり』を見つけることができると思う。結局、お父様の件はうやむやになってしまったのだし」
 今思えば、と奥村は俯いて繋げた。
「そのうやむやになった部分に関わっていた人が自分の身を守るために、お父様を……」
 テーブルの上で拳を握っていた白い手指はかすかに震えている。それが怒りによるものか悲しみによるものかは、誰にも解らない。
 ただ少年たちはその震えを黙って見守ることはしなかった。
「あ……」
はじめに奥村の手に触れたのは隣の席に腰を下ろしていた怪盗団の首領だった。彼はまるで、それこそが己の役目であると言わんばかりに笑い、手のひらに力を込める。
 すると次に新島が手を伸ばす。
「このままで済ますわけにはいかないわ、そうでしょ?」
「そりゃそうだ。やり返さなきゃ、俺らだって気が済まねぇし」
 言いながら、坂本がどこか照れくさそうに手を伸ばす。
「だよね。絶対にここで終わらせたりなんかしない」
「ああ。竹篦返しといこうじゃないか」
 高巻と喜多川が同時に。
 そして、ラップトップを睨んだまま佐倉が手を伸ばす。
「気持ちが解るなんて言わないぞ。状況も時期も違う。でも……」
 重ねた手に力を込めて、少女はことさらはっきりとした発音でもって毅然として告げる。
「仇を討とうぜ。ただじっとして悲しみに浸るだけなんて、お互い性に合わない。そうだろ」
 最後に、モルガナが重ね合わされた手の山の上に肉球を乗せた。
「カッコつけてっけど、オマエら、覚悟はできてるんだろうな?」
 迷うことなく全員がこたえて言った。
「当たり前だろ」と。
 そして少年たちは一斉に手を掲げ、テーブルの中央で打ち鳴らした。
「みんな、ありがとう。こちらの件は私に任せてくれる?」
「無理はするなよ」
「平気よ。お父様のコネクションをちょっと利用するくらいなら、私にだってできるもの」
 決然と応えた少女の瞳はもういつも通りだ。穏やかで優しげだが、強い意志の力がある。何ものにも勝るとも劣らない断固たるもの。それは強く、やり遂げてみせると語っていた。

……

 を除いた怪盗団の面々が絆を深めている最中、は一人帰路を歩いていた。その背中は丸まり、時折ため息などがもれたりする。
 無理もないことだった。彼女はここ十日ほど、喜多川以外の怪盗団の面々と一切の接触を断っている。
 現状取り掛かっているパレスの攻略に明智吾郎が関与している以上、有事に備えては待機したほうがいいだろうとの判断によるものだった。
 逆らう気も異を唱える気もなかったし、そうする他ないと分かっていても、しかし寂しさは募るものだ。幾度目かも分からぬため息を漏らして、はとぼとぼと家路を急いだ。
 しかし少女は、ふと何かに気がついて顔を上げ、きょろきょろとあたりを見回し始める。
 ここしばらくの諜報活動で分かったことだが、彼女自身は本当にマークされていないらしい。佐倉いわく、盗聴や盗撮の類も及んでいないのだというから、これは確実だろう。
 それならば、今感じた人の気配のようなものはなんだろうか―――?
 思いつつ視線を巡らせる。
 やがてその目は古ぼけたアパートメントを囲む生垣の下で隠れるように膝を抱える子供の姿を発見する。
 ぎょっとして硬直したのは、なにもその子供がすすり泣いているからというだけではなかった。
 時刻は八時を過ぎている。見た目からして、子供の年齢は小学校低学年くらいだろうか? こんな時間にこんな人気のないところで泣いているなんて……
 幽霊かなにかか?
 そう思って、は凍りついた。
 オバケが怖いとは思ったことはない。現実には幽霊や怪異よりよっぽど恐ろしいもので溢れているし、生きている人間以上に死んだ人間が生あるものに影響を及ぼせるとはとても思えないのだ。
 だから彼女は、一瞬だけ湧き上がった恐怖を振り切ってすすり泣くその子供に歩み寄った。そして確信する。生きている者に良い意味でも悪い意味でも影響を及ぼせるのはやはり生きている者だけだ、と。
 彼女の五感にまず初めに訴えかけたのはかすかなニオイだった。食べ物が腐ったような不快なそれは間違いなく蹲る子供から発せられている。
 続けて膝を抱えた細い腕が目に映る。そこには経験として覚えのある傷がいくつも刻まれていた。あるいは、彼女の経験と記憶以上のものが。
 これによって息を呑んで身体を硬直させたのは少女のほうだった。心臓を直接握りこまれたような心地になって胸を押さえ、やにわに身体が震え、呼吸が乱れだす。
 悲しいことに彼女は己の身に起きた症状の原因をよく理解していた。
 その身辺を取り囲むかつての環境がこれを引き起こしているのだ、と。
 たとえ今、その問題が―――やや強引な手法によって―――解決していたとしても、記憶と経験はそう簡単に消えることは無い。その事実を、彼女はたった今我が身をもって思い知らされている。そうとも、幽霊や怪異のなにが怖いというのか。これ以上の恐怖があるものか。
 しかし崩れ落ちそうになる体を支えるものもまた、彼女はその内に抱いていた。
 それは言葉であったり、実のある物質であったり、姿形を持たない概念や、形而上のものだ。
 あえて文言として表すのであればたった一言。『私は一人じゃない』と。ただそれだけのことである。
 そして少女はたったそれだけで恐怖を振り払うことができた。己が置かれた状況を正しく認識し、安全であるという確信を得られるのだ。
 あるいはそれは悲しいことなのかもしれない。こんな単純なことが以前の彼女には分からなかったのだから。
 だが少なくともは平静を取り戻した。大きく息を吸い、吐き出して、再び目の前の傷つき、震え、すすり泣く子供に目を向ける。
 もう恐怖は湧き上がってはこなかった。
「きみ、どうしたの」
 声に反応して顔が上げられる。子供はたった今の存在に気がついたらしく、これ以上ないほど驚いた表情で彼女を見つめていた。
「迷子?」
 そんな訳はないだろうと思いつつ問いかける。ただ目の前の少年を落ち着かせようと、努めて穏やかに声をかけ続ける。
「このアパートの子? 鍵でもなくしちゃった?」
 これもきっと違うだろう。そうであればいいとは思うが。
 なにしろ少年はその顔を涙以外のもので濡らしている。正確に言えばそれはほとんど乾いていて、出どころはおそらく鼻だろう。凝固した血液の破片はそこを中心にして広がっている。
 また、頬には強く打たれたような痕がある。唇の端に血が滲んでいるのはその時に切ってしまったからだろう。
 よく見ればきっと他にも、いくらだって傷はあるに違いない。
 それでもはあえて核心的な部分には触れず語りかける。
「お父さんかお母さんとけんかでもしちゃった?」
 ようやく、少年は首を左右に振る。
どうやら意識ははっきりしていると見て安堵の息を漏らし、はまた問いかけた。
「それじゃあ、ここの子じゃないのかな。お家はどこ?」
 首はまた左右に振られる。おそらくは答えたくないという意思表示だろう。
「そっか」
 頷いて、しゃがみこんで鞄を探る。少年のやせ細った身体が警戒に満ちるのを察知しつつ、手早くハンカチを取り出して差し出してやる。
「鼻水出てるよ。ほら、使って」
 実際に出ているのは鼻水ではなく鼻血なのだが、正しい指摘は彼を傷つけるだろうと嘘をつく。
 数秒ほどの間の後、少年は受け取らなければが腕を下ろさないと悟ったのだろう、おずおずとそれを受け取った。
 しかしそれは結局使われることはなく、ただ少年の手の中に収まるばかりだ。は苦笑して、子供の顔を覗き込んだ。
「きみ、名前は?」
 子供は答えない。
 残念だとも思わず、は冗談めかして続けた。
「別に本名じゃなくていいよ。呼ぶのに不便だから、呼び名を教えて欲しいだけ。なんなら、コードネームでもいいよ」
 これに少年は、目をぱちくりと瞬かせて声を発した。
「なにそれ」
 まだ声変わりも迎えていないボーイ・ソプラノ。ほとんど女の子と変わりはないが、服装や髪型を見るに男児と確信してよいだろう。
 は笑って問いに答えた。
「私は仲間たちに『ブレイド』って呼ばれてるよ」
 ぽかんとした顔はすぐに侮蔑の色に染まった。を馬鹿にしていると言うよりは、発言の内容を冗談の類と受け取ったのだろう。
 少年は鼻を鳴らして顔をそらした。
「だっさ……」
「ふっ、そうかもね。名付けた人が聞いたら泣いちゃうかも……」
 少年は応えない。
 気にすることもなく、は言を重ねる。
「でも、『ブレイド』はその名が示す通り剣を使うんだ。相手の死角に忍び寄り……その首を切り落とす」
 指を揃えて己の首筋を軽く叩いてみせた少女の姿を横目で確認していた少年が思わずと顔をしかめるのを見て、彼女は小さく笑い声を上げた。
「それで、きみは? 必殺技とか、ないの?」
「……ないよ、そんなの」
「そっか、残念」
 小さく首を振って、それでも笑みをたたえる姿に、少年の警戒がわずかに緩んだ。
 その証拠に、彼は自ら口を開いてみせる。
「ケイ」
「けい?」
「アルファベットのK」
 幾度かまばたきをして、それから合点がいったと手を打ち鳴らす。
「ああ、なるほど。それがきみのコードネームか」
「そう」
「そっか、Kか」
 いいコードネームだと頷いてみせると、Kは恥ずかしがるように顔を伏せてしまった。
 しかし少なくともそこに拒絶の色はないと見ていいだろう。
 判断して、は彼の隣に腰を下ろした。
「K、きみのお家は?」
「そんなの、ない」
「じゃあ、アジトはある?」
「ない」
「それなら、寝泊まりはどこでしてるの?」
 続けざまの質問に、Kは苛立たしげに唇を歪める。
「あんたにはカンケーないだろ」
 憎たらしい言葉まで飛び出した。
 だが声は弱々しく、震えている。はその胸中で頷いた。なるほど、どうやら寝泊まりしている場所に問題がありそうだ、と。
 ならばと脅しかけるようにして切り込むこととする。
「関係ないなんてことはないよ。きみの状況を見て放置することは人道に反する……と、私は思うし、このままでは警察に連絡することになるよ」
 果たしてKは思惑通り顔を上げ、に向き直った。
「なんで! ケーサツは……やめて……通報されたら、また……」
 正面から覗き込む形になった瞳の奥に明確な恐怖の色を見ては確信する。
 この子はかつての自分と同じ経験をしている。
 再び乱れそうになる心と呼吸を落ち着かせようと、声には出さずに繰り返す。私は一人じゃない―――
 そして、目の前のこの少年も。決して一人にしてはならない。
 決然として、は彼の手を握りしめた。
 大した力を込めたつもりもないのにびくっと大きく、小さな体が震えて跳ねる。
「ずっとこのままではいられないよ。私がしなくても、誰かがする。今すぐか、数時間後か、それだけの違いだ」
 触れた手の感触にか、それとも言葉の内容にか、Kは震え、再び涙をこぼし始めた。
「ケーサツは嫌だ……連絡されちゃう。帰りたくないのに……帰ったらまた……院長先生に……」
 ぼろぼろと大粒の涙とともにこぼれ落ちた言葉に、は器用に片眉だけをしかめてみせる。
「院長? どういう意味?」
 少年は首を左右に振って手を握り返した。
「助けて『ブレイド』……おれ、このままじゃ、殺される……」
 衝撃的な発言であった。
 また殴られるとか、ひどいことをされるだとか、あるいは加害者を庇うような発言ではなく……彼ははっきりと『殺される』と言ってのけたのだ。
「なんだって?」
「院長先生が、おれを、おれが……」
 しゃくりあげる中で辛うじて聞き取れたのは、どうやら院長先生なる人物が彼を手ひどく扱っているらしいことだけだ。
「K、きみはいったい……」
 言いかけたその時、ぱっと灯りが瞬いて二人を照らし出した。
 反射的に目元に手をやって影を作ると、その向こうに一台の白いセダンが停車しているのが見える。
 誰かの通報によるものかとも思ったが、パトランプもなければ、運転席から降り立った男も警察官とは思えない。あるいは私服警官の類かとも思えたが、それにしては握った子供の手に籠められた力が尋常ではない。
 少年はまた、か細く震える声も上げる。
「院長先生……」
 この男が? 思い、は眩しさに目を細めながら男を睨みつけた。
 すると男は初めての存在に気が付いたと言わんばかりに口元を歪め、次いで顔中で笑ってみせる。
「ご迷惑をお掛けしていたようで、あいすみません。その子は私どものところの子でして……」
 男が大股で歩み寄るたびに、握られた手に力がこもる。Kはまた、しゃくり上げる合間に囁いた。
「助けて……」
 まるで己の姿を見るようだった。一つ違うのは、この少年は見知らぬ誰かに助けを求めるだけの勇気を持ち合わせているということだ。
 は彼に向かって頷いたが、その途端、間近まで迫っていた男の腕が伸びて容易く彼を抱き上げてしまう。
「それじゃあ、ご迷惑をおかけしました。お嬢さんもあまり夜遅くまでうろついてはいけませんよ」
 紳士然とした物言いだった。その内容はまったくその通りだと肯定することができる。
 しかし……
 今や点灯されたままの車のヘッドライトによって照らし出されたKの身体が彼女に強い嫌悪感を覚えさせている。隠すつもりもないと言わんばかりに身体のあちこちに付けられた傷……
 立ち去ろうとする男に向かっては制止を呼び掛けた。
「お待ちください」
 男は首だけを巡らせて振り返る。その顔は相変わらず笑みを作っていた。
「彼は怪我をしています。ここへ来るまでに何かあったのかもしれません、まずは警察か病院に連れて行くべきでは?」
「私どものところには簡単な治療設備もありますので……お気になさらず、お嬢さん」
 お嬢さんという物言いがひどく癇に障った。ぴくっとこめかみが動いて、無意識的に顔をしかめてしまう。
 それでも、努めて平静を装って問いかける。
「治療用の設備もあるということは病院ですか? その子はなにかご病気を?」
「いいえ。そんな大層なことではありませんよ。ただの児童養護施設です」
「ご立派なお仕事をされているんですね。どちらにお勤めですか?」
「師子の園だよ」
 答えて、男はやっと体をのほうへ向け、彼女を観察するように頭の天辺からつま先までをまじまじ眺めた。
 少女はそれに不快なものを感じ取る。値踏みされているような感覚を覚えたのだ。年齢や着用している制服に持ち物、髪の色と形……
 やがて男は小さく鼻を鳴らして目を細めた。おそらくは、を取るに足らない相手と受け取ったのだろう。
「お嬢さんは高校生かな? ボランティアに興味があれば、是非来てやってくれないかな。昨今は人手不足でね、私自らが子供を探しに出なければならないくらいだ」
 は無言でこたえ、ただじっと男の顔や身なりを観察し返した。
 上等なスーツ、磨かれた靴、年の頃は四十代ほどに見えるが、この男がKの言う『院長先生』であるのならば、その身分から考えても実年齢はもう少し上だろう。
 考える間に男はセダンに乗り込んでいた。助手席に座らされた少年が縋るような目を向けてくるのに、は小さく頷いてみせた。
 唇の動きだけで伝える。『必ず助けに行く』と。
 伝わったのか否かも分からぬうちに車は静かに民家の間を通り抜けて行ってしまった。
 遠ざかるテールランプを忌々しげに睨みつけ、少女は誰に憚ることもなく舌打ちをして直ちに鞄の中のスマートフォンを取り出した。
「しまった」
 呻いて動きを止める。
 現状、仲間たちへは盗聴を警戒してあらゆる回線を通じた連絡は禁じられているのだ。は己の失態と現状を呪って自らの額を手の甲で叩いた。
「あーどうしよう。こんな時に……」
 ぶつぶつと呟きながらその場を行ったり来たりする様は不審者そのものであったが、幸いなことに目撃者はいなかった。
 やがて己の不審な行動に気が付いたのだろう、一先ずは家に帰ろうと判断して歩き出す。
 人通り、車通りが無いのをいいことに歩きスマホと洒落こんだは直ちに世界最大の検索エンジンについ今しがた聞いた名―――『師子の園』を打ち込んだ。
 驚くべきことに、検索結果は数千万を超えている。検索結果のトップには公式のホームページらしきものが上がっていた。
 トップページから施設概要、取り組み、年間のスケジュール……
 施設長の挨拶、というページを見つけては立ち止まった。手近な街灯の明かりのもとで目を通す。
 子供たちの安全、健全な育成と自立、清廉な精神といったものが具体的な方針や手法と共に語られている。添えられた施設長の写真は確かにあのセダンから降りてきた男であった。
 名前は『唐津壮一』。
 少女は立ち止まったままブラウザを閉じ、ホーム画面から別のアプリを起動する。
 前方を塞ぐように広がる暗闇、その向こうに消えたセダンの姿を思い描きながら、彼女はそれに向かって語りかけた。
「唐津壮一」
 Kに院長先生と呼ばれていた男の名だ。そこには確信が含まれていた。
 果たして彼女の思い通り、アプリが電子音声でもって返答する。
『ヒットしました―――』
 特別な驚きもなければ落胆もない。
 ただ目の前の事実を受け取って、改めてどうするべきかと思案する。
 現状を顧みても見過ごすつもりなど毛頭なかった。もしも仲間たちがこれを耳にすれば、窮地にある今であっても助けに行くべきだと賛同してくれるだろう。
 とはいえ、自身はそれを止めるだろうが……
 本当に今でさえなければ、万事滞りなく済んだであろうに。そう思うと忌々しくなって、はまた暗がりを睨みつけた。
「本当にピザか寿司でも送りつけてやろうか……」
 ともあれ、今自分がやれることをやれる範囲でやらなければ。心に決めて、手にしたままだったスマートフォンを鞄に戻そうとモバイルポケットに手ごと突っ込んで、少女は悲鳴を上げた。
「いった!」
 鋭い痛みを感じて慌てて手を引く。見たところ出血のようなものはないが、指先が何か固いものの角に当たったらしくほんのわずかに凹んでいる。
 なんだと鞄を覗き込むと、そこには一枚の厚手の紙が隅に隠れるように納まっているではないか。
 そういえばここに押し込んだまますっかり忘れていた……
 は慌ててそれを引っ張り出して、明かりのもとに晒す。
『毎朝新聞娯楽部 記者大宅一子』
 照らし出された紙片にはそのように綴られている。端には連絡用の番号もあった。
 しばしの思案の後、はそれを元には戻さず、スマートフォンの手帳型カバーのサイドポケットに押し込んだ。
 一先ずは家に帰って作戦を練ろう。きっと一筋縄ではいかないだろうから。

 夕飯を済ませ、風呂から上がって自室に戻ったはある程度考えをまとめた後、意を決してスマートフォン取り上げた。
 日々その多機能性を増していく小さな機器ではあるが、本来の用途は携帯電話である。昨今はその役割も忘れられがちではあるが……
 それでも、数度のコール音の後、スマートフォンはが望む人物を彼女の元へ手繰り寄せた。
「もしもしー? だれー?」
 間延びした声には不審げな色がある。は電話越しであるのに背筋を伸ばして語りかけた。
「あ、あの、私、と申します」
「知らないな。マジで誰?」
「以前、オクムラ・フーズの本社前で名刺をいただきました」
 沈黙。やがて電話の相手は「あー!」と素っ頓狂な声を上げて機嫌よく挨拶を返す。
「ひっさしぶりー! なになに? なんか情報くれる気になった?」
「はい。ただ、こちらも少し知りたいことがあって……」
「あーはいはい。ギブアンドテイクってやつね。最近の若者はしっかりしてるな、ほんとに……」
 まるで自分の他にも相互扶助を持ち掛ける高校生の知り合いでもいるかのような口ぶりだ。
 思ったが、あえて問いかけることはせずに用件を切り出す。
「私の身に起きたことをお話します。家族のことなので詳細は伏せさせていただきますが……」
「んー、まあ、いいよ。こっちも個人情報が漏れるようなことはしないって約束してあげる」
「あ、ありがとうございます。えっと、このまま電話でお話しても大丈夫ですか?」
「アタシは構わないけど……あいや、ちょい待ち……」
 電話口の向こうから、何かを漁るようなノイズ交じりの物音が響く。紙束を乱雑に移動させる音、空き缶を蹴っ飛ばしたような軽い高音、なにか重い物を床に落としたような轟音―――
「……大丈夫ですか?」
「あー、ごめん、悪いんだけどさ、明日ヒマ?」
「いいですよ。どこに行けばいいですか?」
 ため息と苦笑交じりに言ってやると、大宅は乾いた笑いと共に時間と場所を言い渡した。
「んで、そっちの用件は?」
「いいんですか?」
「いいよ。ギブアンドテイクなんだろ」
 は少しだけ面食らって、数秒ほど言葉を忘れて沈黙する。
 記者という職業からもっと狡猾な振る舞いを取られるのではと警戒していたが、どうやらその心配はなさそうだと見ていいのかもしれない……それとも、名刺を受け取ったことすら忘れていた間に、彼女を揺るがすような何かがあったのだろうか?
 分からないが、しかしこれは好機だ。意を決して、は『唐津壮一』の名を告げた。


……
 結論から言えば、唐津壮一は間違いなく黒であろう。前提として彼にはパレスが存在しているのだから、これは当然と言えた。
 放課後、銀座の個室スペースを訪れたに、大宅は前日から用意してくれていたのだろう、企画倒れとなったものらしき記事の草案や原稿、それに使用された資料や写真のコピーを手渡した。
「いいんですか、これ」
「構いやしないでしょ。どーせボツになったヤツだし。ほんとにヤバいようなのはアタシんとこには回ってこないよ」
「はあ……」
 曖昧に頷きながら目を通す。
 ―――『師子の園』は社会福祉法人『勇栄会』が運営する児童養護施設である。
 その規模や施設は大きく、果てはスポーツ選手や研究者として名を馳せる者を多数輩出している。例として挙げられている著名人たちは、なるほども一度ならず名や顔を見たことがある者たちばかりだ。
 施設長の唐津壮一はその偉業を称えられ、講演会や本の出版なども行っているとの記述があった。これにもまたは見覚えがある。言われてみれば確かにという程度だが、著作の一つが本屋の平台に並んでいるのを見かけた覚えがある。
 しかしその高名さ故か、我が子をあえて師子の園に置き去りにする事件が後を絶たない。
 ほんの一年前には元施設児童であった俳優の前に自分が親だと名乗り出た人物がいて、様々な検査の結果血縁関係が認められたが、世間からのバッシング―――有名になったから名乗り出たのだとか、稼ぐようになったから無心しに来たのだとかいう声に自殺に追い込まれ、また俳優自身もこれによって廃業に至っている。
 実際に親側は多数の借金を抱えていたから、世間からの風当たりはあながち間違いでもなかったのだが……自殺するほどとなるとちょっと異常だ。
 それに俳優側が廃業というのも引っかかる。やり方次第では美談にでもなりそうなものだと思うが……
 また施設の子供に対する虐待や児童手当の横領等の『噂』もあると資料には記されていた。ただしこれはあくまでも噂レベルであり、確証と言えるほどの証拠はどうやら掴めていないらしい。
 そもそもこの噂自体を先述の著名な元施設児童たちが公に否定している。このため注意喚起や勧告も入らず、監査も問題ないと判断しているようだ。
 だが一つ、気になる古記事を見ては手を止める。
 これだけは草案の類ではなく、実際に新聞や雑誌かなにかに掲載されたもののコピーであるらしい。古ぼけて変色した用紙を直接コピーしたものなのだろう。文字は掠れてしまっているが、読み取れないほどではなかった。
 小さな見出しには『小六児童行方不明』の文字がある。日付を見るに、二十年ほど前の事件のようだ。
「なにか気になるものがあった?」
 個室スペースの外でコーヒーを買って戻った大宅が声をかける。は顔を上げ、対面に腰を下ろした彼女の前に件の記事を差し出した。
「これは?」
「ああソレ。かなり古いもんだから、アタシも詳しいところはちょっとよくわかんないんだけど……その行方不明の子、どうやらキミが知りたがってる施設の子らしくってね」
「見つかったんですか?」
 大宅は首を左右に振った。
「見つからないまま失踪宣告が出されてる」
「法律上、この子は既に亡くなっているってことですね」
「あるいは、事実としてね」
 は沈黙して見出しに目を落とした。
 二十年前に失踪したとなれば、生きていれば三十代だ。自分よりもはるかに、おそらく大宅よりも年上のはずの子供のモノクロ写真を見つめる目は悲壮感に満ちている。
 胸の内に渦巻く複雑な感情を断ち切るようにコトッと音がして、の前に紙コップになみなみと注がれたコーヒーが置かれた。
「コーヒー平気だよね?」
「あ、ありがとうございます……」
 どうやら大宅はの分も調達してくれたらしい。室内を暖める空調によってすっかり乾いていた唇を湿らすように紙コップを傾けると、大宅は満足げに首を縦に振ってニッと笑った。
「んで? キミ……ちゃんだっけ? なんでここのこと調べてんの?」
「……少し気になることがあって」
「少しじゃねーだろ。ちょっと気になったくらいでアタシみたいなのに連絡するか、フツー」
「普通、ではないですね」
 苦笑して、紙コップをテーブルに戻す。視線はまたモノクロ写真に落ちた。
 失踪宣告の出されたこの子供と、昨晩遭遇したKは似ても似つかない。おそらくKの方がもっと年若く、少しだけ気の強そうな顔立ちをしていた。
「昨日、この児童養護施設で生活していると思われる子供と偶然会ったんです」
「それで?」
「怪我をしていました。転んだとか、子供の同士の喧嘩で済むようなものじゃない、ひどい怪我です」
 想像したのだろう。大宅は顔をしかめつつ話の続きを促した。
「その子が言っていたんです、このままじゃ殺される、と」
「穏やかじゃないね……なにか証拠になるようなものはある? 写真とかさ」
「あ……」
 大宅の指が彼女の持ち物であるカメラを軽くたたくのを見て、は肩を落とす。しまった、と。
「すみません、ちょっと状況が悪くて」
「ま、素人じゃ仕方がないか」
 素人、という言い方にがムッと口元を歪めたのが面白かったのだろう。大宅は場違いに声を上げて笑い、背を反らして安物のパイプ椅子に悲鳴を上げさせた。
「あっはは! そんなに拗ねるなよぅ~? むしろ学習できて良かったって思いなよ」
「ちぇっ、なんですか、その言い方……」
「子ども扱いしてんだよ」
 非難の色を含んだ目つきに、しかし大宅は怯まずに笑みを消し、真面目な顔をして身を乗り出す。
「それでアンタはどうすんの? 言っとくけど、あんまり関わんない方がいいよ、コレ」
「どういう意味ですか?」
「そのふる~い記事はともかく、他は全部ボツになってんの。この意味わかるでしょ? あちらさんに都合の悪そうなネタは握りつぶされちゃってんのさ」
「それは……」
 言い淀む程度には大宅の瞳は真剣さを湛えていた。
 ガキが妙な真似をするんじゃないとでも言いたげなそれに、しかしは食って掛かる。
「だとしても、見たものを無かったことにはできません」
「お決まりのセリフだなぁ。もっと別のこと言えねーのか?」
 挑発的な言葉だった。まるでわざとを怒らせて、この場を辞させようとしているかのような……
 大宅の言葉、その深淵に潜む意図を汲み取るのに大した時間は要しなかった。
「心配して下さっているんですか?」
 率直に問いかけると、妙齢の女は机に突っ伏して脱力した。伏せられたその口から「可愛くない」とか「最近の高校生は」といった恨めしげな声が聞こえた気もするが、素知らぬふりで受け流す。
「ありがとうございます、でも、大丈夫ですよ」
「自分には怪盗団がついてる、ってか?」
 曖昧に笑って誤魔化すと舌打ちが返される。
 はすっかりこの女記者を気に入っていた。
 自分が優位に立てる相手だなどとはまかり間違っても思えないし、頭の回転の速い人だと感じている。しかし脅威ではないのだ。
 この人は、大人として若年であるこちらを庇護しようと振る舞い、その一方で意志のある一人の人間として扱ってくれている。
 おそらく本来ならそんなことは感じ入るまでもないことなのだろう。そんなことは当たり前なのだ、と。
 しかしはそうでない人々を幾人も見てきたし、そのように扱われてきた過去がある。
 このようなときばかりは辛い経験にほんの少しの感謝を抱くものだ。当たり前として語られる、しかし稀有な存在に気が付くことができるときは。
 は大宅に向かってにっこりと笑ってみせた。なんの心配もいらないとして。
「はぁ……まったく、どうして怪盗団絡みのやつってのはこうなんだかねぇ……」
 身を起こしてため息を吐きつつの台詞に、はおやと軽く目を見開いた。まるで怪盗団に繋がるツテか、あるいはそのものに繋がりがあるかのような言い方ではないか。
「もしかして……私以外にも怪盗団の情報をリークする人とお知り合いなんですか?」
「そりゃあね。こう見えてもあちこちにアンテナ張ってんだ」
 はぐらかすような物言いには目を細めた。とはいえこれは当然だろう。情報提供者の名は易々とは明かされないものだ。
 しかし、何故だろうか。どうにも頭の中に特定の人物の姿が思い浮かぶ。癖っ毛の黒髪、伊達眼鏡にやや猫背気味の背中……
 まさかね、と胸の内でうそぶいている間に、大宅はすっかり嵩を減らした紙コップの中身を飲み干して口を開いた。
「それにしても、今は厳しいんじゃない?」
「え?」
「怪盗団」
「ああ……」
 昨今の怪盗団への風当たりのことを言っているのだろう。は頷いて、しかし笑みを湛えたまま軽く肩を竦めてみせる。
「彼らならまたひっくり返してみせるとおもいますよ」
「自信ありそうだね」
「あなたは違うんですか?」
 むっと大宅は唇を歪ませて押し黙った。
「でなきゃ、今の時期に私の話を聞きたがったりはしませんよね」
「ちぇっ、ほんとに今時のコーコーセーってやつはさぁ……」
「生意気を言ってすみません。でも、大宅さんを頼ってよかった」
 言葉と共に手を翻し、大宅の鼻先にかつて家に届けられた予告状を突き付ける。
 幾度か目を瞬かせた後、女はそれをほとんどひったくるような勢いで受け取った。
「これこれ! なに? 貰っていいの?」
「ダメです」
「ケチ!」
「それは私にとってもお守りのようなものなので……あ、コピー機なら下のコンビニにありましたよ」
「んっとに可愛くねーな、ちゃんはぁ」
「照れますね」
「はーもう、誰かさんを思い出すわ……」
 ほとんど独り言のような声だったが、しかしの耳には不思議なくらいによく届いていた。
 また脳裏に一人の少年の姿が過る。彼は満面の笑みを浮かべてピースサインを向けていた。
 は心の中だけで彼に向かって怒鳴りつける……年上じゃないか! ちょっと節操がないんじゃないか!?
 さておき、は咳払いをして大宅に自らの経験した一連の出来事―――そこから認知世界や怪盗団のメンバーに関わる部分を省いて語ってやる。
 ボイスレコーダーを片手に手帳へしきりになにかを書き付けながら話に聞き入っていた女は、話し終わるのと同時にいくつもの質問を投げかけ、答えを受けてまたペンを走らせる。
 そして彼女は話の結びにこう付け加えた。
「隠し事は感心できないなー」
 ぎょっとして言葉を失ってから、小さく歯を噛む。これでは肯定しているのと同じだ、と。
「ふふん、まあお話としてはよく出来てるし、及第点かな。記事にもなりそうだし、いいよ、今日は勘弁してあげる」
「う……はい……」
「一応まとまったらそっちにもデータ送るし、追加で聞きたいことも出るかもしんないから、また連絡すんね」
「わ、わかりました。ありがとうございます」
「なにが?」
「ご配慮をいただきまして……」
「ふっ、なにそれ?」
 ご機嫌な笑い声を上げる大宅に、も釣られるようにして小さく笑う。
 その笑顔を見て大宅は何を思ったのか、ふっと小さく息を吐いての細い身体を少しだけ観察する。
「ヘビーな経験してんねしかし……この辺りぼかさなくっていいワケ?」
「構いませんよ。私にとってはもう終わったことですから」
「言うねぇ。そんで、ちゃんは怪盗団に助けられて、協力者になったってことか」
「どうでしょうか」
 首を傾げてそらとぼける。誤魔化せるとも思っていなかったが、大宅にはこれで十分であろう。
 すっかり冷めてしまったコーヒーをすすりながら、は机の上に並べたままだった師子の園に関する資料をまとめ始める。
「こちらは頂いてしまっても?」
「ん。いーよ。どーせコピーだし」
「ありがとうございます」
 律儀に頭を下げる少女に手を振って、大宅は頬杖をつきながら問いかける。
「そっちの話もネタになりそう?」
 その目は笑っていたし、なにかを期待するようでもあった。
 然り、は頷いてみせる。
「あなたと私が知る怪盗団が、これを見過ごすと思いますか?」
「ふん、可愛くねーな、ホント」
「ふふふ、すみません。でも、こちらも折を見てまたご連絡します」
「待ってるよ」
 にっと唇の端を釣り上げて笑う女は、間違いなく怪盗団の味方と見て良いだろう。
 そしておそらく―――
(仲間内と校外、そして年上か……守備範囲広いな、彼は)
 確信としてそう思って、は拳を握る。
 状況が好転し次第問い詰めねばなるまいと。