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17:Set a Thief to catch a Thief
昼時になっても人気の少ない校舎裏の一角に誂えられた古いベンチをたった二人で占拠しながら昼食を共にしていた二人は、ここのところの慣例となりつつある状況報告を行っていた。
普段ならば別動隊としての任務を終えたが上げる報告はないから、もっぱら喜多川の方が現在取り掛かっているパレスの攻略状況を述べるばかりだが、今日は様子が違っている。
「そういうわけで、私はこちらの調査に入ろうと思う」
昨日一昨日と見聞きしたものを語り終えてそう結んだに、喜多川は頷いて、しかし顔をしかめる。
「なるほど。だが今は……」
「わかってるよ。だから、私がやる」
「一人でか?」
「そういうつもりはないけど……でも、状況的に一人でやるしかないでしょう」
「かもしれないな。だが、承知しかねる」
もっともな返答だ。パレスの攻略に一人では荷が勝ち過ぎる。そんなことはもよく理解していた。
その上で譲るつもりは無いとその瞳が訴えているのを見て、喜多川はますます眉を寄せる。
「おい、」
「大丈夫、危険なことはしない」
直ちに言い切るが、しかし喜多川は自らの眉間をつまんで沈黙してしまう。
何かを主張しようと空いているほうの手が中空をさ迷い、やがてにゅっと伸びて少女の頬肉をつまみ上げた。
「いたたたた」
痛くはなかったが反射的に訴える。しかし手は離されることなく彼女の頬を弄び、ついにはもう片方の手も伸びて反対側を引っ張った。
「あにをふるの」
「何を言ってるのかわからん」
「へをはなひへくれれはわかうえひょ」
「はぁ……」
ため息とともに解放される。どちらかと言えば頬をつままれたことよりも、ため息をつかれたことのほうがしゃくに障った。
「なんなの。どうしたの祐介」
「お前が大丈夫だと言って本当にそうだったことが……」
「あ、あるよ!」
「俺はこの点においてだけはお前を信用していないからな」
「ぐぐ……それでも、私はやるからね。進捗もちゃんと報告する」
喜多川はやっぱり物憂げな顔で首を左右に振った。
「こちらの件が片付くまで待てないのか?」
これに、はしばらく沈黙した。なにかを言おうとして幾度も言い淀み、拳を握って膝の上で震わせる。
やがて喜多川に向き直ると、決然として彼女は言った。
「そちらが解決するのを待っている間に、Kが命を落としたらどうする?」
二人はしばらくの間、譲れない一線を前に言葉もなく睨み合う。
お互いに特定の人物の生命そのものを案じてのことだ、お先にどうぞとは軽々に言うことはできなかった。
それでも、やがて喜多川のほうがため息とともに目を逸らす。
それを追うようにお願い、と言われてしまうと、彼はもう異を唱えることはできなかった。
苦虫を噛み潰し、よく味わってから飲み込んだような顔をして、やっと首を縦に振る。
「わかった……だが、一応皆の決も取る。いいな?」
「うん、それはもちろん。全会一致が掟だもんね」
「ああ。今日の放課後にでもまた収集をかけてもらうよう連絡する。だから、いいか。もしも今日キーワードが判明しても、パレスに飛び込むようなことはするんじゃないぞ」
「わかってるよ」
「約束してくれ。絶対に、一人で行くな」
見下ろす瞳には真剣さと心の底からの身を案ずる輝きがある。元より勝手をするつもりなどなかったが、少年がそうであるように、少女もまたこのように見つめられると逆らうことができない。
彼女はただ頷いて、そしてうっすらと笑みを浮かべた。
「心配してくれてありがとう。大丈夫、約束する」
少年はしかし、口をへの字に曲げて目を閉じた。
だから、お前が大丈夫だと言うと逆に不安になるんだが……
言葉にする代わりに、彼は少女の額を強かに指先でつっついた。
放課後、は師子の園を訪れていた。
表向きは児童養護施設のボランティアとして。その真の目的はKの安否確認とパレスへ潜入するための手がかりを得ることだ。
施設は事前に入手していた情報通りかなり広大で、児童の数もほかと比べれば数倍に上るだろう。
当然それに伴って施設職員の数も増えるが、それでも手が足りないとのことで、大して怪しまれることもなくは同じボランティアの少年少女とともに施設へ迎え入れられた。
とはいえそう簡単に児童らとの接触は許されない。子供たちのプライバシーの保護や心のケアといった面から、長く通っている者が優先して遊び相手を務めるのだとか。
が任された仕事は施設の保全―――規模は違うが、調理を除いた家事全般である。これはやり慣れていると言っていい。突然知らない子供らと遊んでやれと言われるよりはよっぽど気が楽だった。
それに、まったく子供らと接触できないというわけでもない。
リネンの取替や施設内の掃除をしていれば当然子供たちとすれ違うこともある。
そしてその中に目当ての顔を見つけて、は一先ず、生きてはいたかと息をつく。
また向こうもの存在に気がついたのだろう。大きな驚きとかすかな期待に瞳を輝かせた。
そして、他のボランティアや施設職員の目が届かないところを狙い、辺りを確認しながら声を潜めて話しかけてもくる。
「ブレイド―――」
は唇の前に人差し指を立てて笑ってみせた。
「ここではと」
「う、うん……あの」
「なに?」
「おれは圭太。和光圭太」
「そっか。じゃ、人前では圭太くんと呼ぶね」
人の気配がないことを確認しながら並んで歩き、やがて廊下の奥にたどり着く。の手はクリーニングから戻ってきたばかりのシーツやタオル類、衣服などが山と積まれた手押しの台車がある。彼女の仕事はこれらをリネン室の棚に納めることだ。
和光少年はより先にドアノブを引いて彼女を手伝った。
「ありがとう」
言うと、彼はどこか照れくさそうに首を振る。
すっかり荷物をリネン室に運び込み、まずはこれを片付けなければと仕事に取り掛かり始めた少女の背中に、やはり声を小さくして彼は問いかけた。
「やっぱり、ブレイドが怪盗なの?」
「いや、私は違うよ」
あっさりと嘘をつきつつ、タグを確認しては棚へ収めることを繰り返す。ちらりと横目で窺うと、少年はがっかりとして肩を落としていた。
苦笑して、予め決めていた通りのことを語ってやる。
「私は怪盗団の別動部隊なんだ」
「下っぱってこと?」
「したっ……怪盗団に上も下もないよ。一応頭目はいるけどね」
「ふうん……でも、じゃあ、怪盗団はおれのこと知ってるの?」
「うん。報告は済ませてあるから、今ごろ彼らも作戦会議をしているところだと思うよ」
「マジかよすっげぇ」
瞳をキラキラとさせて興奮するさまは、なんだか誰かを思い出させる。そしてまた、語った通り今ごろは思い出された誰かさんが皆にこちらの状況を説明してくれているところだろう。
「なあ、怪盗って男? 女?」
「どっちでも」
「えー……」
「秘密なんだよ。知ってしまったら面白くないでしょう」
唇を尖らせて不満そうにする少年を微笑ましく見守って、しかしとは疑念を抱く。
昨今の怪盗団を取り巻く情勢を知ればもう少し不気味がりそうなものだが、しかし少年は羨望の眼差しを向けてくるではないか。ニュースの類に疎いのか、それとも……
「きみは怖くないの? 今彼らは殺人の容疑で追われてるんだよ」
問いかけに彼はむっと眉を寄せて、強く首を左右に振った。
「そんなの嘘だ」
「どうして?」
「だって……」
少年は俯き、確認するように閉ざされたドアや窓を見てから声を潜めて語り出す。
「院長先生のこと、誰に聞いてもいい人だって言うんだ。立派な人だって。あんな素晴らしい人は他にいないって。でも、先生はおれをぶつんだ」
言葉に、は作業の手を止めて少年に向き直った。
額と頬に貼られたガーゼ、膝には大きな絆創膏。見える範囲だけでもこれだけの傷があるのだ。上着を脱いだとき、そこにはどれほどの……
想像して、はごくっとつばを飲み込んだ。こみ上げるであろう吐き気を先に潰すためだ。
「おれだけじゃない、ほかにも殴られてるやつはたくさんいる。服の下とかの、バレないところを叩くんだ。そういうのを卑怯者って言うんだろ。なのに院長先生のことみんな褒めるじゃないか」
は目を細めて彼の言わんとするところを理解しようと努める。
同時に、改心のターゲットは院長先生……唐津壮一一人に絞っていいだろうと確信する。おそらく場所もここでいいはずだ。これは帰りにでもイセカイナビに入力して確かめることとしよう。
あとはキーワードだ。唐津壮一がこの場所をどう思っているのか……
さておき、は意識を少年に向ける。彼は言った。
「あべこべじゃん。みんなが言ってることと、おれが見てることはまったく食い違ってる。だから、怪盗団もそうなんだ」
「世間の言うこととは逆だろうって?」
うん、と頷いた少年に、は感嘆の息を漏らした。
彼は自分よりもずっと幼いというのに、余人の言うことに流されず確固たる己の意思を確立し、貫きもしているのだ。
「きみは頭がいいみたいだね」
感心しつつ言ってやると、どういうわけか彼は俯いて肩を落とした。
「勉強はできないよ」
なるほどと首肯して、しかしはこれを否定するために首を左右に振った。
「テストの点数とはまた別の頭の良さってものもある」
「でも……」
顔を上げた少年は、不安に瞳を揺らめかせて呟く。
「おれはゴクツブシなんだって」
「え……」
「何の役にも立たない、いる価値のない人間なんだって、院長先生が」
ひやりと胃の下辺りが冷えたような感覚に、は思わずと口元を手で押さえ込んだ。
役立たず―――なんの価値もない―――産まなければよかった―――
耳の奥から蘇る過日の記憶を、は怒りでもって強引に叩き潰した。
「どうしてそんなことを言われなくちゃいけないんだ」
「……勉強も運動もできないから?」
「生まれついての適正と言うものはあるかもしれない。けど、きみはまだ十歳くらいだろう。やり方次第でいくらだって伸ばしようはある」
「そうなの?」
「聞くまでもないことだよ、くだらない!」
吐き捨てた少女の姿に、Kは小さく肩を震わせてしまう。はっとして、慌てて両手を振る。
「大きな声を出してごめん」
「いいよ、平気」
慣れているからとでも言いたげなその態度に、また眉間にしわが寄る。それを隠すように手を当てて、は戸棚に背を預けて口を開いた。
「少なくともきみには勇気があるんだ」
少年は首を傾げる。
「私に助けを求めた」
答えを与えてやると、彼は怪訝そうな顔をしてますます分からないと訴えた。
「世の中には、助けを求めることすら諦めてしまう人がいる。あるいは、そういう発想に気が付けない人が。その点で言えば、きみは大分賢い」
それに、と結ぶように続けるの顔を見つめる少年はどこか照れくさそうにしている。褒められることにきっと慣れていないのだろう。
「他の連中の言うことなんて気にしなくていい。怪盗団を信じてくれたように、余人の言うことに惑わされるべきじゃない。もちろん、話に耳を傾けることも肝要だけど……」
分かったような分からないような、複雑な顔をしつつも少年は首を縦に振った。
それを見てよしとして、はゆっくりと戸棚から背を離す。腕に巻いた時計を確認して、少年にもリネン室からの退出を促した。
会話の間にこの場ですべき仕事はとっくに終わっていた。もう数分くらいならば戻るのに時間がかかっても不自然とは思われないだろうが、懸念は少ない方がいい。
ドアを開ける直前、Kは振り返ってを仰いだ。
「なあブレイド。おれ、なにか手伝えることある?」
「強いて言えばもうしばらく辛抱してくれれば……いや、待てよ……」
提案に、少女は腕を組んでふうむと唸った。
やがて首を傾げる少年に向かって告げる。
「服を脱いで」
「え……」
物騒なことを言いながら、少女はポケットに差していたペンを取り上げる。
その脳裏では心の底から恨みがましげな出資者の声が繰り返されている。
『それが一番高かった。マジで。信じられない』
少女はにっこりと笑って、少年に向けて超小型カメラモジュールを差し向けた。
一夜明けて、洸星高校男子寮の一室で、喜多川が珍しく頭を抱えていた。
手の中にはホーム画面を表示したスマートフォン。表示されたデジタル表示の時計が時刻は朝の七時だと教えている。
そして今日は土曜日だ。
つまり学校がない―――と会うことができないのだ。ということは、昨日怪盗団の仲間たちと行った作戦会議の顛末と結論を彼女に伝えるのには今日と明日を跨いだ月曜になってしまう。
喜多川の脳裏に、切羽詰まった様子の彼女が思い浮かぶ。
小さな身体にこれでもかと詰め込まれた頑固さと潔癖さ、そして見合わぬ体力と行動力……それらの半分は喜多川が与えたようなものだが、肝心の彼には自覚がない。
しかし彼は己と、そしてという少女をよく理解していた。
彼女が二日間も黙ってじっとしているわけがない、と。
思うなり喜多川は勢いよく立ち上がって自室を飛び出した。勢い余って部活の早朝練習に向かうらしい生徒とぶつかってしまう程度の性急さだった。
運動部の同級生は怪訝な顔で問いかけた。
「危ねーな、そんなに急いでどこ行くんだ?」
「人に会いに行くつもりだが」
ぶつかったことを謝りもしない彼に呆れつつ、親切な同級生は彼を指し示して教えてやった。
「その格好で?」
首を傾げて自分を見下ろす。
「あ」
間抜けな声が出るのも仕方のないことだろう。
彼は寝巻のままだった。
そんなに慌てていたのかとか、誰に会うのかとしつこく聞かれた気もするが、喜多川は礼だけ言って直ちに引き返した。
気が急き過ぎた。よく考えたら顔も洗っていないじゃないか……
しかし顔を洗って身支度を済ませると冷静になり過ぎてしまう。
休日に突然連絡もなく押しかけては迷惑なのでは?
突飛な行動が目立つ男ではあるが、一般的な社会常識が無いわけではないのだ。それこそ、徹夜でもした後のハイテンションでもなければ動けない程度には。
こんなことなら早寝をせずに製作を続けるべきだった。そしたら徹夜明けの頭で細かいことを考えずに……いや、おそらくその場合は土日であることすら忘れて筆を握り続けていただろう。
そうならないために早寝をしたのだったと思い至って、喜多川はまた頭を抱える。
結局彼は立ち上がって部屋を出た。
向かう先はの元ではなくかった。
「なんで俺のところに来るんだお前ら」
ルブランのカウンター越しにうんざりとした様子で手伝いに励む少年が言うのに、喜多川と、そして坂本は声を揃えてこたえた。
「他に行くところがない」と。
「寂しいやつらだな。休日だってのに」
カウンターチェアの上で毛づくろいに勤しんでいたモルガナが言う。男二人はため息をついてソファに身を沈めた。
とはいえ仕方のないことでもある。現状怪盗団は監視されている状態だ。監視者の情報こそ確保してるが、パレスの攻略が完了するまでは現状維持ということで意見はまとまっている。
参謀殿からも厳しく目立つことはするなとのお達しが出ているから、遊びに出かけるにしても場所は限られてしまう。そうなると、自然と選択肢は自室にこもるかルブランに顔を出すかの二択となる。
店主はしばらく前に手伝いの少年に店を任せて出掛けて行ったと言うから、この場には怪盗団の男メンバーのみが揃ったことになる。まったく侘しいものであった。
「つーか祐介はなんなんだよ。とデートでもしてこいよ」
鼻を鳴らして揶揄する坂本に、喜多川は据わった目でこたえる。
「いいのか」
「えっ」
「していいのならばしてくるが」
「ちょっと待って」
「いいんだな」
「リーダー助けて! こいつ怖い!」
坂本の悲鳴に、洗い物を終えた少年が手を拭き拭き、ため息とともにモルガナの隣に腰を下ろす。
「祐介どうどう。ほーら怖くない怖くない、竜司は味方だぞ」
「うー」
唸って、喜多川はテーブルに突っ伏した。
「駄目だぞ竜司。こいつ朝飯食ってないし最近の状況のせいで分が不足してカリカリしてるんだ」
「ええ……どんだけあいつに甘えてんだよ……」
「ていうか学校で会ってんだろが」
もっともなモルガナの指摘に、喜多川は首を傾けて顔だけをそちらに向けて言ってやる。
「モルガナ、お前は杏と学校以外で会うなと言われたらどうする」
「やだっ!」
即座に応えた猫に同調するように少年が手を上げた。
「俺もやだ!」
坂本はしかし、だらしのない姿勢でうんざりとした顔をする。
「俺は別に。あいつうるせーし」
もちろんこれは彼なりの照れ隠しだ。ただ素直に寂しいと口にするのを恥ずかしがっただけのことだが、しかし彼以外の面々はこれを許さず手近なものを投げつける。モルガナなどは器用にも後ろ足でもってカウンターの上に置かれていた台拭きを蹴りつけていた。
合計三つの湿った布を顔に貼り付けて坂本は押し黙った。午前中から血圧たけえなこいつら、と。
「とりあえず、は無理だけど朝飯なら用意できる。食う?」
時計の針はもう十時を示していたが、それでも喜多川は頷いて喫茶店の留守を預かる少年に向けて両手を合わせた。
「ありがたい」
「ん。トーストでいい?」
「白米とみそ汁がいい」
「ゼータク言うな!」
猫の脚がもう一枚、台拭きを蹴り飛ばした。甘んじてそれを受ける喜多川を横目に少年が調理場に目を向ける。うーんと唸って、彼は指先で前髪をいじった。
「白米ならカレー用のがあるけど、みそ汁……あ、インスタントのやつがあるな」
ぽんと手を打った彼に、坂本が異論を挟む。
「それこないだ俺が持ち込んだやつだよな? えー、こいつにくれてやんの?」
「なにか文句が?」
「ねえけどここで小腹空いたときに食おうと思ってたのに……またストック買ってこなきゃじゃん」
「いつもすまんな」
小さく頭を下げた喜多川に胡乱げな目を向ける。その背後では会話をまったく無視して屋根裏に上がっていく背中があった。
「おい俺がちょいちょい持ち込んでる食いもん減ってんのまさかお前か」
「助かる」
「おい」
「すまんな」
「いいけど。いいけどさ、一言なんか言って……?」
「善処しよう」
こっくりと頷いた姿に深いため息が漏れる。怒りを通り抜けた深い憐みの心……なるほど、はこういう気持ちでいるのかと坂本は身をもって知り、彼女に深い同情を寄せた。
さて、足音も軽やかに戻った少年が問いかける。
「ナスとわかめとなめこがあったわ。人の部屋を食料品倉庫代わりにするなよ……で、どれがいい?」
「わかめ」
「ん。えーと、お湯を入れて三分……」
指名されなかったほうを調理台の上に放り出し、湯を沸かす。それを見つめる坂本の目には哀愁があった。
「あー、俺のみそ汁……」
「大丈夫だ。ちゃんと俺の血肉となって生きていくからな」
「うるせえ!」
喚いて、坂本は糸が切れたようにソファに体を横たえた。
「つーか俺だってと遊びてーわ。あいつガンシューうめーんだよなー」
「ゲーセン? 行くのか? と?」
「聞き捨てならんな」
「いやたまにだよ。学校帰りにばったり会ったら行く? みたいな」
「意外」
カレー皿に白米とインスタントのみそ汁を手にテーブルに歩み寄った少年が言う。
それらを受け取りながら喜多川もまた同意を示した。
「そうか? あいつ無駄にけんかっ早いっていうか……負けず嫌いじゃん。一回負かしたらそれ以降なんか、絡んでくるっつーか、最近じゃ勝率トントンになってきたって言うか……」
「予言してやろうか。竜司、近くお前は負け越すだろう」
低い笑い声を漏らした喜多川に縁起でもねえと言いつつ、その未来が見えているのだろう。坂本は渋い顔をしてみせる。
さておき、坂本は身を起こして対面で黙々と白飯を口に運ぶ少年に向きなおって真面目な声を出した。
「で、お前はなにをそんなに心配してんだ?」
ぴたりとスプーンを握る手が止まる。
喜多川は彼に手のひらを見せて猶予を求めると、しばらく咀嚼に時間を取ってから問いかけに答えた。
「土日の間連絡ができないのが痛い」
「昨日の作戦会議?」
これはカウンターチェアの方向から。
頷いて、お冷で口の中を洗い流してから喜多川は続ける。
「一応、唐津某の件は全会一致で執行とはなったが、やはりこちらの件が優先と結論が出ただろう。だが、のほうもかなり時間的猶予が無さそうな様子だった。そうなるとあいつの性格上、独断専行をしかねない」
「言い切るなーお前……」
「もう長い付き合いと言っていいくらいにはなるからな。負の方面の信頼だが」
重苦しいため息を塞ぐようにみそ汁を口に運ぶ。
坂本は頬杖をつきつつ彼の口元を注視し、備蓄が今まさに栄養にされようとすることに思いを馳せた。
「そうは言っても、ただ遊びの誘いをかけるだけならともかく、活動内容を伝えるのはいかにもマズイぜ」
猫の言葉に、隣の少年が然りと頷く。
「校内ならまだしも……あ、家まで行けば?」
「それも考えたが、の母親にまで累が及ぶことを考えると、無茶はできん」
「あー、ギョーセーショシだっけ?」
「エリートだエリート」
「うむ……」
重々しく頷いた喜多川に目をやりつつ、少年はカウンターに背を預けて頭の後ろで手を組んだ。客が入らないのをいいことに締まりのない姿を晒している自覚はあったが、どうせ土曜のこの時間では常連客もやってこない。だからこそ二人を迎え入れたのだし、惣治郎も出かけて行ったのだ。
しかし……
が別件を持ち込むことは完全に想定外だった。多少のトラブルはあるだろうとは思っていたが、まさかパレスが出るほどの事態を誰に想像できようか。
舌打ちしたくなるのを舌先を噛んでこらえる。目まぐるしく回転する頭脳にはいくつかの解決策が浮かんでは打ち壊されていった。
やがて彼の脳は『先のことが分かっていれば非常に簡単な対処方法もあったのに』と栓もない発想に至る。
「お前らが付き合ってれば楽だったのに」
口にもした。
坂本とモルガナが同意するように喜多川に目を向けるのに彼は追随する。
「そしたら逆に会わない方が不自然だろ」
「……済んだことを口にしても仕方があるまい」
苦し紛れの切り返しに、少年は鼻を鳴らした。
「今からでもいいぞ。俺が許す、既成事実を作ってこい」
これに喜多川は勢いよく口の中にあったものを噴き出した。当然それは対面に座る坂本の顔面にふりかかる。
「うわーっ!? きったねぇ!!」
「ゲホッ! げほっ! おえっ、かはっ、はっ、うええ……っ」
「ゆーすけてめー! いやちげぇな……こっちか! お前なぁ!」
大きくむせ込んでテーブルに突っ伏す友人を捨て置いて、坂本は米粒を顔に貼り付けたままカウンターチェアに詰め寄った。モルガナだけが胸を押さえてえずく少年を心配して歩み寄り、背中を肉球で叩いてやる。
「うわ竜司汚い」
「誰のせいだ誰のォ!」
「噴き出したのは祐介だし白米を要求したのもやつだ。俺じゃない」
「あっそっかぁ……祐介てめぇ!」
「いや、こうなる原因作ったのはソイツだろ」
「……誰が悪いんだよ結局!」
「とりあえずオマエは顔を洗ってこい」
顎をしゃくって洗面所を示すモルガナに促されて、坂本は覚えてろよと捨て台詞を残してそこに駆け込んだ。
ルブランの狭い店内を水音と未だ止まない咳音が占拠する。
状況を作り上げた張本人―――喜多川でも坂本でも、もちろんモルガナでもないその少年だけが楽しげに口元を歪ませて狭いスツールの座面の上であぐらをかき、どうやら気管に食物の欠片が入り込んだらしい喜多川を両手でもって指差した。
「変なこと考えただろ、このスケベ」
「だれっ、が……うえっ、げっほ! ぜーっ、ぜーっ、この……」
「落ち着けユースケ、挑発に乗るな。ほら、水飲め、水」
猫の手が器用にテーブルの上のコップを彼の手のほうへ押しやった。それを引っ掴み、音が鳴りそうなほどの勢いで飲み下してようやく平静を取り戻す。
同じタイミングで坂本もまた舞い戻る。彼は顔どころか髪も濡らしていた。
「ひでー目にあった……」
ぼやくのとコップの底がテーブルに叩きつけられるのもまた同時である。
「不埒なことを言うんじゃない!!」
「うおっ」
怒気を孕んだ音が響くが、被害者であるところの坂本だけが大きく肩を震わせ、肝心の真犯人はひょうひょうとした様子でいる。それこそが憎たらしいと喜多川はまなじりを釣り上げた。
「アハハ、やっぱ変なこと考えてたんじゃないか」
「お前というやつは!」
「あーあー、米があっちこっちに……」
激昂する喜多川を他所に坂本が先ほど投げつけられてテーブルの上に落ちたままだった手拭きや台拭きを手にあちこちを拭き清める。
猫だけがそれを手伝おうと手を伸ばしたが、さすがにそこまでの器用さは持ち合わせていないと気が付いたのだろう、悲しげに己の肉球にじっと視線を注いでいる。
さて、かつぎ屋の舌はよく回るもの。彼はまたご機嫌に手をひらひらとさせて言う。
「俺は不自然に思われない工作をしろと言っただけだ。なにを考えた? ん?」
「それ以上を口にしたらただでは済まさんぞ……!」
いよいよ立ち上がった喜多川に、少年はますます愉快そうに目を細めた。
こういう風にこの男をからかえる機会はそうあることじゃないし、きっと近くできなくなるだろう。それはなにも己がやがてこの土地を去ることになると知っているからというわけではなく、彼が事実を言い当てられて動揺するような男ではないと知っているからだ。
それに、怪盗団だなんて言って悪辣な振る舞いをしていたって、結局メンバーのほとんどは育ちの良さが窺えるお坊ちゃんお嬢ちゃんだ。このような下世話なからかいを口にして動揺を誘えるのはある意味彼だけの特権とも言えた。
そしてまた彼は引き際もよく弁えていた。今のところは冗談の範疇で済むだろうが、これ以上つつけば本気で怒られかねない。
彼は直ちに手を翻した。
「ま、昨日も言ったけど現状維持だ。のところにはモルガナを寄越すから、お前も変な気を起こすな」
「ぐ……」
思った通り呻いて静止する喜多川を、少年は満面の笑みで封殺した。
一連のやり取りを見守っていたモルガナが言う。
「ユースケ、コイツ相手に真面目にやってるとお前がくたびれるだけだぞ」
「分かってはいるんだが……ああもう、無駄にカロリーを消費してしまった」
「白飯にカレーかける?」
問いかけに、喜多川は無言で皿を差し出した。
「食うのかよ」
「カレーに罪はない」
言い様に苦笑しつつ、やっとテーブルやソファの拭き掃除を済ませた坂本がまた腰を下ろす。
ほどなくしてカレーと炭酸飲料を手に戻った少年が強引に彼を奥へ押しやり、その隣を陣取った。
「んだよあっち座ってろよ」
「客来ないし」
「俺らも一応客だかんな?」
「祐介、竜司が奢ってくれるってよ」
「そうか。ありがとう、竜司」
「あってめ、こういうときだけやたら素直に……!」
「おーいドア開けてくれよ。んとこ行くからよー」
モルガナの呼びかけに、一番ドアに近かった喜多川が立ち上がる。
数歩でドアノブまで辿り着き、ドアを引いて―――
「うわ」
彼は嫌そうな声を上げた。
何事かと猫と少年二人が顔を向けると、そこにはあまり見たい類ではない顔が笑みを湛えて立っていた。
「あれ、男連中だけで朝から集合? 土曜日なのに、侘しいね君たち」
爽やかに言ってちょうど開け放たれたドアからするりと店内へ。
「明智吾郎……」
低く呻くように名を呼んだ喜多川を一瞥だけして、明智はカウンター席に優雅に腰を下ろした。それからきょろきょろと店内を見回したかと思うと、いくらかがっかりした様子を見せる。
「マスターは?」
「出掛けた。昼前には戻るって言ってたけど」
ソファから立ち上がって答えた少年に大した興味もなさそうにふうんと頷いて肩を竦める。その姿が妙に様になっていて、坂本などは小さく舌打ちまでする始末だ。
「じゃ、君でいいや。コーヒー淹れて?」
言うに事を欠いて「で」「いいや」ときたか。言われたほうの少年は口元を引きつらせる。
その視界の中でドアが閉ざされ、ドアベルがカランと鳴く。しかしモルガナは退出せず、店内に残っているではないか。どうしたと目で問いかけると、彼は鼻先で明智を示してみせる。どうやら少し様子を見たいということらしい。
上手くやれよと心の中で語りかけつつ明智に向きなおり、少年は真剣な声で告げる。
「一杯二千円な」
「食べログとぐるなびとホットペッパーとついでにグーグルにぼったくりってレビュー投稿するけどいい?」
嫌がらせに関しては探偵のほうが上手であった。
項垂れながらコーヒーサイフォンに手を伸ばす彼のその背後から坂本が睨みつけていることに気がついているだろうに、明智は平然として笑ってみせた。
番犬が一匹。その目はそう語っている。
さておき、長らくルブラン店主佐倉惣治郎から手ほどきを受けてきた少年が、手早く渾身の一杯を用意して彼に差し出してやる。
「ほら」
「ありがとう。……お、ちゃんと美味しいね。良かった」
「不味いものを出すわけないだろ」
「文化祭のアレみたくスッゴイの出されるかなって」
「あれはお前が自分で地雷踏みに行ったんだよ」
憮然とした応えに、カップを傾けたまま明智は朗らかに笑ってみせた。それはどちらかと言えば、心の底から彼との会話を楽しんでいるふうにも見える。
あるいはそれも見せかけだけなのだろうか?
考えていると飯が不味くなる。喜多川は聴覚から明智の存在を追い出して味覚に集中した。
番犬がもう一匹。明智は目を細めた。ちらりとドアのほうへ目をやると、靴下猫がじっと彼を見つめている。
猫もいる。と、彼は呟いてコーヒーに口を付けた。
「それで……君たち、なにを騒いでいたんだい?」
問いかけに怪盗たちは揃って顔をしかめた。
「そんなに騒がしかったか?」
「店の外からでも聞こえるくらいには」
揶揄するような声色に、少年は眼鏡のつるに指先を当てて思案する。
適当なことを言って誤魔化してもよかったし、煙に巻く自信もあった。
しかし、彼の脳裏に昨日の作戦会議の顛末が過る。その中で彼は非難を承知で言ってのけたのだ。
『ちょうどいい……と言ってはその子に申し訳もないけど、ちょうどいいかもしれないな』
思い返しながらモルガナに目を向ける。彼はカウンターに顎を乗せて「好きにしろ」と目で訴えていた。
それなら好きにさせてもらうさ。不敵な笑みを隠すように口元に手をやって、少年は明智の質問に答えた。
「大した話じゃない、ちょっとした馬鹿話だ。知ってるかもしれないけど、俺たちには複数の協力者がいてな」
「へえ……流石、って言っておくべきかな?」
「さあね。どの道、協力者はいずれも善意の第三者だから手出し無用と言いたいところだけど」
「それを決めるのは君たちじゃない。そうだろ?」
カチャッとソーサーに戻されたカップが神経質な音を立てた。
少年は然りと頷いて続ける。
「協力者の中には、かつて俺たちが行った改心によって解放された者もいる。例えば、祐介の友達とか……しかも女子」
「おい、なにを―――」
制止を呼びかけようとする喜多川に、しかし少年は意味有りげに笑ってみせる。カウンターに乗せられた指先が小さく『待て』のサインを作るのを見て彼は沈黙した。
「ふぅん? で、その子とそこの君はどういう関係?」
振り返って背後の喜多川を見る目には好奇心が覗いている。
こういった目線にも慣れていたつもりであったが、これはまったく別格で、別の種類に近いだろう。喜多川はうんざりとして、虫を追い払うように手を振った。
「下衆な勘繰りはやめろ」
「答えを言っているようなものだね」
「だよな」
何故か少年が力強く同意する。うんうんとしきりに首を縦に振る彼を、喜多川は思い切り睨みつけた。どういうつもりだ、と。
答えず、彼は言う。
「でも最近はこんな状況だろ。だから……ほら」
目の前でひっくり返された手の平に言わんとするところを察して、明智は感嘆の息を漏らす。
「ああ……フラれちゃった?」
「黙れ。違う。そんなんじゃない」
ここまで沈黙を保っていた坂本がちらりと話題の提供主に目を向ける。彼は器用に片目だけをつぶってみせた。
それで何もかもを把握したのだろう、坂本はため息をついて口を開く。
「おい、やめてやれ。ナイーブになってんだからよ」
「なってない」
駄目だこいつ分かってねぇ。ムキになってやがる。坂本はそうとだけ思って、両手を上げた。お手上げということらしい。
「そういう状況でも、どうやらその子がパレスの持ち主らしき人物を見つけたってことが分かって、それで、どうしようかって揉めてたんだよ」
「そちらにまで手を出す余裕があるのかい?」
「はっきり言えば無い。でも、放置するの訳にもいかない、ってところかな。それに、問題はもう一つある」
「なに?」
「その子も認知世界に片足を突っ込んでいる」
これにやっと明智は顔をしかめた。
「僕たちと同じ、ペルソナ使いということか」
「それはまだわからない。ただ、少なくともイセカイナビが彼女の元にもあることは分かってる」
「それは……」
危険じゃないのかと問う明智に、その通りだと頷いて返す。
「お前みたいに迂闊に踏み込んで、対処できない事態になったら……あまり想像したくないな」
「確かにね。じゃあどうするつもり?」
「一先ずは祐介が見てる。不審な動きがあれば駆けつけるつもりでいるけど……」
お前も来るか、と言外に問いかける。
明智は少しの間沈黙し、思案顔でコーヒーカップの取っ手をなぞった。八つの瞳が様々な思惑でもって向けられるのに苦笑する。
もちろん彼もこれが罠である可能性くらいは考えているだろう。しかし……
「いいよ、わかった。そちらの件にも手を貸そう。どうやらそこの彼と縁浅からぬ仲の相手ようだし」
揶揄するような声と言葉に、『ジョーカー』は心の内だけでぺろりと舌を出した。
そうとも、彼は自分たちを侮ってくれている。このうぬぼれの強さは自分に引けを取らないだろう。
ただ肩を竦めただけの沈黙を了承と受け取り、明智は笑う。当然と言うべきか、彼にも思惑がある様子だ。
「それに、君たちの協力者というのにも興味があるよ」
腹に一物を抱えているのはお互い様ということか。
決まりだ、と手を打った少年に、やはり喜多川は顔をしかめ―――
これは作戦だと言われれば口は論なく閉ざすもの。元より作戦自体には異論もないのだ。
それでも、すっかり冷めたカレーの最後の一口を放り込みながら、喜多川はやっぱり寮の自室に篭っているべきだったと己の選択を悔やんだ。