18:Ring-a-Ding-Ding!

 そんな後悔の念も、当事者であるの顔を見るとどこかへ行ってしまうのだから、人間と言うものは本当に単純だ。
 ―――明智の乱入によってすっかり気が削がれた喜多川は当初の予定よりも早くルブランを辞し、さりとて手ぶらで寮に帰る気にもなれずにまた駅前で人間観察と洒落こんでいた。
 通りかかる人の顔や体つき、表情や歩き方を見て想像を巡らせていると、時間は吹き飛ぶように過ぎ去った。
 気が付けばとっくに昼を過ぎ、時計の短針が夕方を示す頃、彼は求めてやまなかったものを見つけて反射的に手を伸ばした。
「うわぁっ!?」
 素っ頓狂な声を上げて小さな身体を震わせたのは他でもないだ。偶然にしては出来過ぎているから、彼ははじめそれをよく似た他人かと思ったくらいだった。
 しかし幸いなことに、振り返って驚いた顔を晒した少女は間違いなくである。
「ゆ、ゆ、ゆ、祐介! お、驚かさないで!」
 咎められても彼は手を離さなかった。
「……驚いたのはこっちだ」
 やっとのことで言ってやると、少女は怪訝そうな顔になって首を傾ける。
「なに? なにかあったの?」
「あったと言うべきか、それともこれからあると言うべきか……」
「あー?」
「とにかく、会いたかったんだ」
 ひっと少女の細い喉から声門が急速に閉じたような音が鳴る。彼女は直ちに周囲を見回して、何かを確認するように視線を巡らせた。
 監視を気にしているのか、それとも他の……特定の誰かではなく、大衆の目を気にしているのかもしれない。
 思ってやっと手を離すと、今度こそは緊張から解放されたようだった。
「どうしたの。やっぱり何かあった? 私に聞きたいことでも?」
 首を振って否定する。
「じゃあ、言いたいことが?」
「そうであるとも、ないとも」
 これだけで概ねの―――怪盗団絡みの用件があるのだと悟れるのだから、坂本の言う通り、は大分彼を甘やかしていると言ってよかった。そういうふうに何でもかんでも察してしまうからいけないのだと、この場にいれば𠮟りつけたことだろう。
 しかしもちろんと言うべきか、喜多川の用件はそれだけではなく、はこれには気が付けなかった。
 そして喜多川はふと彼女の持ち物に目を向ける。普段外出の際によく持ち歩いている小型のショルダーバッグではなく、大き目のレザートートになにか紙束やファイルを収めて肩にかけていた。
「どこかへ出かけていたのか?」
 自然と口をついて出た疑問に、は少しだけ困ったような笑みを見せる。久しく見なかった拒絶の形に、彼は少しだけ体を引いた。
「あー、その……例の、ほら、施設の……元職員だった人に話を聞きに行ってたんだ。なにかヒントや手がかりがないかと思って」
 そらみたことかと言いそうになるのをこらえるのに彼は多大な努力を要した。
 その努力を見抜いたわけではないだろうが、微妙な沈黙に少女は「ヤバい」と思ったのだろう、慌てた様子で両手を振って話題を逸らそうとする。
「私のことはいいんだ。それよりきみの用件だよ。月曜まで待てないようなことなんでしょう? ならどこか、静かなところに」
 行こうかと提案する言葉に喜多川は凍りついた。
 既成事実という単語が頭を過ぎったのだ。よりにもよって今このときに―――喜多川は強く歯噛みして、偶然の邂逅に素直な喜びを示す少女の顔から目を逸らした。
 するとはそれをどう受け取ったのか、眉尻を下げて悲しげな顔をつくる。
 当然だろう。誰だって想い人につれない態度を取られれば悲しくなるものだ。
「あの、怒ってる?」
「え、なんで」
「私が黙って遠出したから」
 それはそうなのだが、しかしなんだか言い方が……いや、誰の耳に入るかわからない場所での会話だ、具体的な内容を話すわけにはいかないのだから仕方がない。
 とは思えど、喜多川は初めて人の視線というものが気になった。
 項垂れる少女と、不可抗力とはいえ不機嫌そうな態度をとる自分と……
 また既成事実という単語と、それを口にした男の意地悪な笑みが思い浮かんだ。
(ちょっと、お前は、黙っていろ!)
 胸の内で怒鳴りつけると、想像の中の彼は腹を抱えて笑いながら退散した。
 やっと人心地ついて、改めてに目を向ける。
 不安げに揺らめく瞳が彼を見上げていた。
「怒ってない」
 とにかくそれだけは早急に伝えなければと端的に告げてやるが、やはり効果は薄かったとみえる。
 少女は「そう?」と首を傾げてまだ疑っている様子だ。
「確かに、何も言われなかったのは面白くないが……その、別になにもかも俺に報告する義務があるわけではないんだ。お前が俺にそうしければならない理由なんて……」
 どこにもないじゃないか。と言おうとして、しかし彼は口を引き結んだ。
 そんなことを言いたくなかったのだ。
 まるで自分たちはまったく無関係なただの同学年程度の知り合いだと言われているような気持ちになって、喜多川は眉を寄せた。
「……なにか悩みごと?」
 そこにこめられた複雑な感情を読み取って問いかける。
 気遣いこそが少年をまた苦しめた。
 ―――悩みごとならある。お前に関することならそれこそ山ほどだ。
 打ち明けてしまってもいい。それこそ、憎たらしい笑顔が言ったようにそれで有利に運ぶ事もあるだろう。
 しかし今、仲間たちの危地に際して、そんな浮かれたことをしている場合か? あまりに不謹慎なのでは?
 理性的な思いとはまた別に訴えかけるものもある。
 何故俺がそこまで配慮してやらねばならないんだ? あいつらだって適宜息抜きくらいはしているだろうに。
 相反する思考がぐるぐると頭の中を巡り、回って、混乱を呼び起こす。
 ナイーブになっているつもりなど毛頭なかったが、しかし事ここに至ってはそうなのかもしれないとすら思える。
目の前に彼女が居るというのに、言いたいことも告げられない……
 フラストレーションの蓄積が彼の表情を歪めさせた。
「……祐介、顔が怖い」
「それもこれも全部、明智というやつのせいなんだ」
「なんだそりゃ」
 呆れたような声と仕草にやっと肩の力がわずかに抜ける。
 丸まりかけた背中を咎めるようにその腹に手のひらが当てられたのはちょうどその時だった。
「ええと、『うまく言えない』んだけど……元気を出して」
 それは符丁であった。触れたことではなく、うまく言えないとしたことがだ。それは盗聴や監視の疑いがあるため口頭では説明できないことがある、という意味合いだった。
「ここで会えて良かったのかもね。ほら、シャンとして。みっともないとこ見せないで」
 ぽんと優しく胸元が叩かれる。それだけで少年は背筋を伸ばし、いつも通りの己を取り戻した。本当に現金なものだと思う。目の前の少女がただ優しげに笑いかけてくれているというだけで、不安がかき消えるのだ。
「ん、よし。じゃあ行こう。飲み物くらいなら恵んであげる」
「今日はなんだかそればかりだ」
「もう誰かに助けてもらった?」
「まあな」
 頷いて、少年は先を行こうとする少女の袖の端を掴んだ。
 彼はまだ人目が気になっていて、それでも行き交う人波にこの小さな背中を見失ってはたまらないとしての行いだった。まるで小さな子供にでも戻ったかのようだ。
 いつからこうなってしまったのか。以前はこんなことなかったはずなのに。
 そう思うのはなにも心細い気持ちになっていることだけが原因ではなかった。
 少し前まで先を行くのは己だったのに、今は先導されてしまっている。それを面白くないと感じるほど狭量ではなかったはずだし、歩幅の関係で追いかけられるのはいつも自分だったのに……
「あべこべだな」
「なにが?」
 問いかける声に、喜多川はただ首を左右に振った。

 大して歩くこともなく、二人は半個室付きのカフェに腰を落ち着けていた。
 注文を済ませたは想像以上に疲労していたらしく、少しだけ待ってと言ってテーブルに突っ伏してしまう。
「大丈夫か?」
「ちょっと眠いだけだから」
「無理はするな」
「うん、ありがとう。はは、流石に朝一で新幹線に飛び乗ってとんぼ返りは堪えたみたい」
「お前というやつは」
 思わずと漏れた嘆息に、はいたずらの成功した子供のように無邪気に笑ってみせる。
「でも収穫はあった」
 言って、少女の細い手指がぽんと傍らの鞄を叩く。喜多川の視線は自然とそちらに寄った。
「確認はまだだけど、これで唐津壮一のパレスには侵入できるとおもう」
 誇らしげな瞳に、しかし喜多川は複雑な心境だった。
 彼女が目的をもって精力的に活動している姿は喜多川としても喜んで然るべきだが、その目的や危険性をおもうとやはりどうしても素直には喜べない。
 結局、こうした心の向きは現状自分たちの周辺にまとわりつくものがすべての元凶と言える。
 だからこそがその解決のための糸を手繰り寄せてきてくれたことを賞賛すべきなのだが―――
「なんとも言い難いな」
「ん?」
 が不思議そうにするのとウェイターが注文の品と伝票を持ち込むのは同時だった。
 会話が一旦途切れ、不自然な沈黙が満ちる。
 ちらりと開放された店内のほうへ目をむけ、監視のないことを確認してからは続きを促した。
「昨日、お前の話を皆にも伝えた」
「そっか。ありがとう、伝書鳩お疲れさま」
「誰が鳩だ」
「へへ」
 お茶を濁すような笑い声を漏らしながら、運ばれてきたばかりのジンジャーティーに手を伸ばす。少女の指先は表の冷たい空気と店内の暖かな空調との気温差によって赤く染まっていた。
「結論から言えば唐津某のパレスを攻略する方向で全会一致となった」
「やった」
「最後まで聞け。やはり現状、本腰を入れるべきはこちらの件であるとしてもまとまっているんだ」
「やっぱりそうなるよね」
 仕方がないかと小さな落胆を見せるに、喜多川はやはり制止を入れる。
「ちゃんと聞けと言ったろう。、プランBだ」
 単語に、ぴくりと少女の眉が反応した。眉間にしわが寄って、忌まわしげに唇がへの字をつくる。その瞳は不安というよりは、険悪な光を湛えていた。
「本気でやるの?」
「やつはもうすっかりそのつもりのようだ」
「思い切りがいいというか、なんというか……」
「バカなんだ」
 喜多川は不愉快そうに鼻を鳴らし、手の中にあったカップを乱暴にテーブルへ戻す。明確な怒りを示す彼に同調するように幾度も首を縦に振る少女に向かって、彼は語気を強めた。
「あいつは、こちらの心配などどこ吹く風と無謀なことばかりしようとするのはどうにかならんのか。何らかの美学に基づいて行動しているのは分かるが、俺たちの身にもなってもらいたい」
「そうだね。付き合わされる方の身にもなって欲しいと思うことはあるよ」
「おい、他人事のようにしているがお前にも言っているんだからな」
「あ、はい。すいません」
 少女は再び「ヤバい」と思って、話題の転換を試みる。
「とにかく、それで、プランBとこちらの案件に何の関係が?」
「ああ……」
 視界を遮るように落ちた前髪を指先で払いのけて、少年は息をつく。
「下準備のための時間稼ぎが必要だろう。公安は春のほうで足止めする準備ができているが、身の内に入り込んだ虫は如何ともしがたい。そこで、……」
「私にお呼びがかかるってわけか」
「ご名答。実際には一、二時間程度稼げれば十分だそうだ。仕掛け自体はすでに完成しているから、あとは新島検事のパレスに設置するだけだ」
「一、二時間か……こちらの件を探偵さんに調査依頼でもする? お茶にでも誘って」
「そういう意見も出たな。業腹だが。しかし殴りかかりそうということで却下となった」
「え……どっちが?」
 喜多川は答えず、じっとに視線を注いだ。
「いや、さすがにそこまでは。非暴力主義、万歳」
「その件についても話題が至った。結論としてはお前は我が怪盗団の武闘派一派に組み込まれた」
「なんで」
「分からんか」
「くっ……」
「他は竜司を筆頭に真と春だ。良かったな」
「ちょっと待って、そこにきみが入らないのは納得がいかないんだけど」
「俺はお前たちのようにとりあえず殴って様子を見るというようなことはしない」
「私だって!」
「初見のシャドウをとりあえず殴っておこうと言って飛びかかったことがあったな? その後反射されて手傷を負っていたな?」
「ぐ、ぐぐぐ……」
「猪武者め」
 悪態に、はがっくりと項垂れた。
「だから、俺は反対なんだが……より確実に足止めをするために、お前には唐津某のパレスへやつを引き込んでもらいたい。正確に言えばパレスへ招待するのは俺たちの役目だがな」
 項垂れたまま、目線だけが少年のほうへ向く。上目遣いとなったそれを見返しながら、彼は淡々と続けた。
「仕込みはしてある。お前はただ、俺たちに不信感を抱いているようなふりをして先を行ってくれればいい。あとは向こうが勝手に追ってくれるだろう」
「そう上手くいくかな」
「リーダーの言うところには『あいつは嫌いな人間に嫌がらせするためなら喜んで苦労を背負いこむタイプ』―――だそうだ」
「素晴らしい評価ぶりだね」
「お前の見解は?」
 問いかけながら、少年の手が伝票用の細長いクリップボードに一枚のメモ用紙を差し込んだ。なにか書きつけられているところを見るに、計画の概要が記されているのだろう。
 はそれらを手繰り寄せながら答える。
「概ね同意」
「なら上手くいくだろう」
 ふっと口元を緩めた少年に、少女は背筋を伸ばして己の太ももをさすった。
「エスの次は内股膏薬か」
 言葉と仕草に思わずと視線がそちらへ向かう。ネイビーのミニスカートから伸びる脚は細く、いかにも頼りなさげだ。色気のいの字もなさそうなものだが、それでもその形や色が女の脚であることを如実に語っている。
 妄想の中で、一人の少年がどっかりと喜多川の隣に腰を下ろし、馴れ馴れしく腕を肩に回して囁きかける。
『変なこと考えただろ』
 喜多川は妄想の中で彼を蹴り飛ばした。
 少女のほうはそんな脳内の茶番にも視線にも気が付きもしないでのんきな顔をしている。
「決行は?」
「本来なら月曜になってから伝わる話だったからな。十五日ということになっていたが、いけるか?」
「問題ないよ。それじゃあ、授業が終わり次第向かう」
「ああ」
 頷いて、しかし少年は不快そうに足を踏み鳴らす。
 要は裏切者を演じろということだ。あまり楽しいこととは思えなかった。目の前のこの少女なら難なくこなしてくれるだろうが、それと彼の心情はまったく別の問題だ。
「でもそうなると、学校でもあまり話をしたりしないほうがいいのかな」
 がまたこんなことを言いだすので、彼は顔をしかめて平然とした様子の少女を睨みつけた。
「お前はそれでいいのか」
「必要なら。別に、ずっとってわけじゃないんだし」
「一週間程度なら平気だと?」
「うん。あ、お昼はなんとかして渡すよ?」
 そういうことじゃない。睥睨する喜多川に、はやっと己の失態に気がついたようだった。
「ええと、なにか、怒ってる?」
「怒ってない」
「いや、怒ってるよね。どうしたの」
「別に」
「子供みたいな拗ね方しないで。なんなの」
「なんにもない」
 ツンとそっぽを向いてしまった少年にはすっかり困り果てる。
 なにをそんなにいじけているのやら。素直過ぎるのも問題だが、複雑になられても持て余す。
 近頃よく耳にするフレーズを彼女もまた口にした。
「これも全部明智ってやつの仕業か……」
「まったくだ」
 二人は同時にため息をついて、早急な事態の収拾を願った。


……
 そのようにして、舞台は唐津壮一の心の中、パレスへと移る。
 荒涼とした断崖の世界を強い風が渡り、うるさいくらいに風切り音を響かせている。これが一人の男の精神の表れだとしたら、なんと荒んだものだろうか。
 苛立ちと共に砂嵐の向こうにそびえ立つパレスを睨みつけ、少女は岩肌を踏みしめた。
 今はここの様子にばかり意識を奪われては駄目だ。やがて彼らがやってきて、すべきことを示す。できることをしなければ。
 思いつつ振り返る。耳に複数人の足音が聞こえていたのだ。
「誰?」
 誰何の声に人影が走り寄る。
 は久しぶりに目にした友人の姿に笑みを浮かべそうになるのを堪えるのに必死だった。
! 待って!」
 そしてそれはまた、パンサー―――高巻杏も同じことなのだろう。仮面を外したその顔は、彼女の背後に続く者たちに見えないのをいいことにはっきりと笑みを湛えていた。
 観察するような目線が無ければ、は彼女に思い切り抱き着いて久方ぶりの逢瀬を喜んだことだろう。けれど、そういうわけにはいかないことは、よく分かっていた。
「杏? それに、きみたち……」
 眇めた目で追いついた『九人』の姿を確認する。その中に見慣れない仮面があった。ペストマスクに似たデザインの……
 少女は努めて冷静に問いかけた。
「何しに来たの」
「一人じゃ危険だ。俺たちと一緒に行こう」
 答えたジョーカーに冷笑を返す。作戦立案者が一緒に行こうと訴えるのはいかにも皮肉が効いている。
「一緒に? きみたちと? 面白いことを言うね」
 これはほぼ先に渡された悪筆による台本通りであった。不信と拒絶、そして無防備に近寄ったパンサーを人質に取り、一同を引き返させる。
 はそれを見て思ったものだ。これだけじゃつまんないな、と。
 そしてまた、案外彼も生ぬるい―――というよりかは、気遣いに溢れた本性を垣間見た気になって、微笑ましくも思えたものだ。彼が記した台本は、仲間の誰も、自身をも傷つけまいと細心の注意が払われていた。
 けどそれでは見抜かれてしまうではないか。侮られるのも気に食わないが、侮るのも良くないだろう。
 だからは声を荒げて言ってやった。
「ふざけるな! 人殺しなんかと一緒に行けるわけがあるかッ!」
 彼女の前に立つうちの一人を除いて、全員が目を皿のように見開いた。そしてまた訴えている。予定と違うことしないでくれる? と。
 それでも流石と言うべきか、ジョーカーは真っ先に我を取り戻して言い返す。
「それは……俺たちがやったんじゃない!」
 声は震えていたが、それはどちらかと言えば笑いをこらえるような震え方だった。最後尾に位置するナビなどは、明後日の方向を見てわずかに肩を震わせていた。
 あまり長引かせると決壊するのが目に見えて、は直ちに己の半身を呼び出して構えた。
 サロメの放った一撃は乾いた地面をえぐり、土煙を巻き上げて一同の視界を塞ぎ―――
「ちょっと! 予定と違うん……ってか傷つくんですけど!?」
 声を抑えて高巻が掴みかかる。は口元に人差し指を立てて彼女に静寂を求めた。
「大丈夫、杏にひどいことはしないよ」
「ゼッタイ誰かさんから悪い影響受けてるでしょ……!」
 位置について、そして高巻は悲鳴を上げた。
「全員動くな! 指一本でも動かしてみろ。彼女の―――」
 の指が高巻の大きく開いた胸元に取り付けられたファスナーの引き手にかかる。少女は対峙する全員の顔を見回して言った。
「これを一番下まで下ろす!」
「えっ!!」
「総攻撃だ! 行くぞ皆!!」
「ざッッッけんな!! 動いたらショーチしないかんね!? 生きて帰さないんだからッ!」
 真っ先に飛び出そうとしたジョーカーに、高巻は本気で怒り狂って怒鳴りつけた。叱られた子供のように身を竦めさせた彼はしかし、にだけ見えるように親指を立ててみせた。
「ちょっと!? ねえっ、、じょ、冗談だよね!? お、お芝居でしょっ!?」
「私は本気だ」
 釘を刺すようにわずかに指が折り曲げられる。噛み合った金具同士がこすれる本当にかすかな音が不気味なほどに辺りに響き、相対する男子のうち三人が思わずと身を乗り出した。
「あああああ! 待って! お願い! マジでストップ! ほんとに駄目ーッ!!」
 絶叫には目を細めて指を止める。
 それに安堵したのか落胆したのか……複数のため息が漏れ聞こえたことにこそ高巻は脚をばたつかせた。
「マジでふざっけんな! あんたたち、覚えてろよ! 帰ったらヒドいかんね!」
「わかったわかった……挙手はいいか」
 ジョーカーが馬鹿正直に手を上げて問いかける。はその仮面の下で少しだけ顔をしかめて首を縦に振った。
「まあ、いいよ」
「人質の交換を進言したい」
「交換?」
「そうだ。彼女を解放してくれ。こちらからは代わりに―――」
 言いながら、ジョーカーの手がむんずとモナの首根っこを捕まえて持ち上げる。
「モルガナを出す」
 衝撃が走る。
 ピンと張りつめられた糸のような緊張感が場を支配し、誰もが固唾をのんで少女の反応を窺った。
「も、モルガナ? でもそれは、しかし……いや、そもそもそれはモルガナなの?」
 白々しく言ってのけるに、ナビは両手で口を押さえた。顔が真っ赤に染まっている。彼女は明らかにこみ上げる笑いをこらえようと必死になっていた。
 首根っこを掴まれて硬直していたネコ型生物はしばらく呆然と瞬きを繰り返していたが、やがてあわあわと両手足を振り回し始める。
「なにを言ってんだオマエは! っていうかなんだこれ! ニャんだこれ!?」
「馬鹿野郎モナ! お前は彼女が大事じゃないのか!」
「えっ? あっ、そりゃ、大事だぜ。大事だけども」
「それなら男としてやるべきことがあるだろう!」
「お、男として!?」
「そうだ! 男を見せろ、モナ!」
 謎の勢いに圧倒されて、モナは叫んだ。
「か、彼女を解放してくれたら、ワガハイの尻を撫でてもいいぞ!!」
 ナビはこらえきれずに噴き出して、腹を抱えてその場にうずくまった。クイーンは頭痛を抑え込むようにこめかみを押さえ、スカルは額に手を当てて天を仰いでいる。
 そしてはぐらついていた。
「そ、そんなことで、私は惑わされたり……」
「尻尾もいい」
「……ッ!?」
 彼らにまで届きそうなほどの強さで息をのんだ少女の手は震えている。高巻に突き付けられた剣はもう一押しで下ろせそうだと見て、猫はさらに吠えた。
「ワガハイの好きなところを撫でていいっ!」
「モナ、やりすぎだ!」
 お前が最初に彼を差し出そうとしたんじゃないか。と言うのは憚られて、仲間たちは沈黙を選んだ。そして猫はそのことを忘れているのだろう、震える声でジョーカーの言葉を振り払った。
「いいんだジョーカー、あの子のためなら、ワガハイのちっぽけなプライドなんて……!」
 自己犠牲の精神にあふれた言葉に、高巻の瞳が潤む。私を助けるためにそこまで言ってくれるなんて―――
 そして空気を読まないことに定評のある少年が言った。
「別にそれはいつでもできるだろう」
「それもそうだ」
 交渉は決裂した。
 ジョーカーは舌打ちをして、モナを背後に立つスカルに放り投げた。
 ふりだしに戻って、は再び一同をねめつける。
「さあ、引き返して。さもなければ―――」
「わーっ! わぁーっ! ちょお、ダメだって! ほんと無理ぃ!」
 絶叫に、次に動いたのはノワールであった。彼女はおっとりとした見た目そのままに、ゆっくりと今しがたの交渉を跡形もなく破壊した少年に歩み寄った。
「ちょ……動かないでって……あの……」
「ごめんね? でもちょっとだけだから、ね?」
「う、うん」
 困惑しながらもどうしてか素直に頷いてしまう。
 ノワールはまるで小さな子供を相手にするように「いい子ね」と言ってやりながらフォックスの顔に向けて手を伸ばす。
「いてっ、な、なんだ」
 呻いたのは彼女の手が強引に彼の仮面を奪い取ったからだ。晒された素顔は見慣れたものだが、彼はこの状況をどう見たものかと少しばかり困っている様子だった。
 そしてノワールの手は次に彼の胸元に伸びた。襟を正し、しわを払う。
「彼のことはよく知ってるよね」
 確認するような言葉だが、そこには確信がある。は答えることも出来ずに彼女の動きを見守った。
 順手には彼女の得物である斧、そして左手は―――
「あなたが彼女のファスナーを下ろしたら、こっちは彼のを、一番下まで下ろしますっ!」
 ジョーカーが決壊して崩れ落ちた。
 そしては硬直する。ノワールは勝利を確信したのだろう、唇の端を釣り上げた。
「待ってくれノワール。さすがにそれはちょっと恥ずかしい」
「我慢して、男の子でしょっ」
「そういう話か……? っつーかなんの交換条件にもなってない―――」
 言いながら、スカルはちらりとの様子を窺った。
 そこには顔を青くしたり赤くしたりして硬直する少女の姿があった。
「一番下……一番下……?」
 気が触れたように「一番下」とだけ繰り返す姿に、スカルは精神的に百メートルほど後退した。
「ええ……効果あるんだ……」
「そうみたい」
 然りと頷いて、いつの間にやらノワールの対面に位置取っていたクイーンが、彼女の手に己の手をそっと重ねる。
「えっ」
 四方八方から飛ぶ驚嘆の声を無視して、少しだけ手を下げる。少しだけ。
「待って! ちょっと待って! それ以上はいけない!」
「それならあなたこそ手を離しなさい。そしたらこちらも離すわよ」
 クイーンの瞳には真剣な輝きがあった。そしてそれを覆い隠しそうなほどの憤怒も。
 真面目にやりなさいと言いたいらしいが、しかしクイーンはやり過ぎたのかもしれない。彼女はから正常な判断を下せる余裕をすっかり奪ってしまっていた。
「お、お、下ろせるものなら下ろしてみたらいい! 私はそんなことで―――」
「あらそう」
「おい」
 喜多川が戸惑いの声を上げるのにも構わずに手を下げる。これに何故か高巻が声の限りに叫んだ。
「やめてよクイーン!! 私真正面だから! 見たくねぇから!! それ以上一ミリでも下げたら絶交だかんね!?」
「それはそれで傷つくんだが……」
「うっさい知るかばーか! ねっ、アンタも嬉しくないでしょ? だから手を離して?」
 はこれに応えなかった。ただ、なんとも言えない顔をしてあーとか、うーと呻いている。
「……おい、まさか。、オマエ……」
 スカルに抱っこされたままの姿勢で隙を伺っていたモナが胡乱げな眼差しをに向ける。少女は慌てて首を左右に激しく振った。
「べべべ別に嬉しいとかじゃなくて! 興味が……いやっ、興味もないんだけど!」
「傷つくと言っているだろうが!」
 語気を強める喜多川に、はやはり慌てた様子で言い募る。
「まったくゼロって訳じゃないよ!? あああ、違う! 無い! 無いんだってば!! でもまったく無いのかと言われればそうじゃなくて、別に積極的に見たいとかではないんだけど、ただ、その、極めて一般的な好奇心から……」
「おーい、自爆してるぞー」
 呆れ返ったスカルの声にははっとして、震える指を一同に突き付けた。
「やっ、やれるものならやればいい! 私の要求は変わらない!」
「はーっ、はーっ、ひっ、ひ、引き返せ……って……?」
 やっと笑いの波が引いたらしいジョーカーが問いかける。然り、は首肯して涙目で彼を睨みつけた。
「最初からそう言ってるでしょう! 祐介を形に取るなんて、卑怯者! 犯罪者! 卑劣漢!」
「でも興味はあるんだよね?」
 朗らかな笑顔を崩さずにノワールが言うのに、少女は声を失って項垂れる。
「あーもうめちゃくちゃだよ」
 よろよろと立ち上がったナビがまだ笑い顔で言った。
 それで本来の目的を思い出したわけではないだろうが、クイーンとノワールは視線を交わして頷き合い、言葉もなくまったく同時に飛び出した。
 こうなれば我々が攻撃者役を務めて彼女―――高巻ではなく―――を逃れさせようとの判断だった。
「ミラディ!」
「ヨハンナ!」
 声を揃えて半身を従える。
 そして―――
「行け、サロメ」
 勇んで飛び出した上級生二人の足元を膨大な量の光熱が覆い、少女たちは息を呑んでたたらを踏む。すんでのところで踏みとどまるのと、彼女たちの鼻先で光の奔流がはじけたのはまったく同時だった。
 足元の岩盤が砕けてはじけ飛び、轟音と熱風がめちゃくちゃになって襲い掛かる。悲鳴を上げたのはなにも二人だけではなかった。
 辺りはすっかり砂煙に巻かれてしまい、一歩先も窺えない。ただ、は多数の悲鳴に負けないほどの声量で訴える。
「興味があって何が悪い!!」
 ただ一人、高巻だけが彼女の顔が真っ赤に染まって涙目になっているのを目撃していた。
 別に興味があってもなくてもいいけど、今言わんでも……
 ツッコミは、しかし再び彼女の指先が曲げられるのに封殺される。
「きみたちだってあるんだろ! 杏の―――」
「わああ! ほんとダメだから! お願いやめて!!」
 そしての手は思い切り振り下げられた。
「きゃああぁっ!!」
 渾身の悲鳴を上げるが、しかしよく見れば指先はとっくに引き手から外されていた。
 胸元を押さえてポカンとする高巻を突き飛ばし、砂煙の中をは駆け出した。向かう先は城館だろう。
 高巻は強い風が視界を塞ぐ煙を払ってしまう前に慌てて怪盗服の胸元を整え、地に落ちたままだった仮面に手を伸ばす。
「覚えてなさいよぃ……!」
 パンサーは背後を睨みつけて恨み言を吐き出したが、クリアになった視界にはもはやの姿は見当たらなかった。
「パンサーっ! 無事か!?」
 真っ先に駆け寄ったモナに頷いてやると、彼はしゅんと耳と尾っぽを垂れさせて「助けになってやれなくてすまない」と項垂れてしまう。
 結局、ジョーカーに唆されたとは言え本当にパンサーの身を案じていたのは彼だけとも言える。もちろん、あれはお芝居なのだから心配する必要などどこにもないのだが……
 パンサーはぎゅっとモナの小さな身体を抱きしめた。
「ニャッ!?」
「ありがとね、モナ。助けようとしてくれて。ダメだったけど、すっごく嬉しかったよ」
「ぱ、パンサー……」
「いやあ本当に無事でよかった」
 そして諸悪の根源が現れる。
 パンサーはしゃがんだ姿勢のまま腰元の得物に手を伸ばし、鋭くそれを振り上げた。
「キャン!」
 子犬のような声を上げてジョーカーが後退った。
「な、なにをするんだパンサー!」
「うっさい! アンタ今の状況楽しんでたでしょ!」
「楽しくないわけがあるか」
「開き直ってんな! 脱がされるとこだったんだからね!」
「それはない」
 言って、ジョーカーは背後を振り返る。そこにはさきほどの攻撃の基点に最も近かったはずの二人が無傷で立っている。もちろん、多少砂をかぶってこそいるが……
「当てるつもりはなかったみたい」
 けろっとして砂を払い、手にしていた狐面を持ち主の顔に押し当てながらノワールが笑う。
「うー、口の中に砂が……」
「大丈夫か」
 小さく舌を出しながら訴えるクイーンにスカルが並ぶ。またその隣にナビが。
 そのようにして、一同はが穿った穴を囲むように円状に立ち並ぶ。
 そして、これまで黙って動向を見守り続けていた少年がやっと口を開いた。
「君らっていつもこうなのかい?」
 声には多分に呆れが含まれていた。
「クロウ……」
 名とともに彼は視線が己に集まるのに肩を竦めて応え、ジョーカーに目を向ける。
「おおむねこんな感じ」
「さっさと取り押さえてしまえばよかったのに」
 すうっと場の空気が冷え込んで、集った視線が剣呑な色を帯びる。その度合いは個々人によって違っているし、隠そうとする努力も感じられる。
 クロウは己が迂闊なことを言ったと理解しているのだろう。こういった目を向けられることも承知で。楽しげに釣り上げられた口角がそれを教えているかのようだった。
「おっと、まずいことを言ったかな」
「わかってて言ったくせに」
「まあね」
 ひょうひょうとした様子に処置なしと両手を上げ、ジョーカーは道の先を見てどうしたものかと頭を捻る。
「考えるまでもない、追うべきだ」
 フォックスの言葉に、しかしクイーンが難色を示す。
「でも、また同じことになる可能性が高いと思う」
「砂被んのは勘弁だな」
 同調しながらスカルがため息をつく。その上で彼は重ねて言う。
「ンでもこのままほっとくわけにもいかねえよな。一人で突っ込んで、何かあったらどうすんだよ」
「そうね。せめて話を聞いてくれればいいんだけど……」
「できてたらさっきみたいなことにはなってないと思うぜ」
 モナの言に思わず、と今度はパンサーに視線が集中する。彼女は咄嗟に自分の胸を守るように抱きしめた。
 それを横目で眺めながらフォックスが己の胸に拳を当てて一歩前に出る。ファスナーが下げられたままになっているのを見咎めたジョーカーがその拳を払い落とし、襟元を正してやった。
「すまんな。……俺が行けば話くらいは、聞いてくれるはずだ」
「それも難しいんじゃね」
「なぜだ?」
「あのテンパりぶり見てただろ」
「見ていたが、なにか?」
「お前マジか」
「ごめんなさい。私がしたことのせいよね」
 ノワールがしゅんとして項垂れる。彼女は重ねて
「混乱させれば隙も見つかると思ったんだけど」と、残念そうに語った。
 確かに隙は出来たが、それが結果的に今この事態を招いている。そういう意味で言えば、ノワールは確かに反省すべきかもしれない。しかし怪盗団の真の目的を思えばまったく逆になる。
 ジョーカーはノワールの申し訳なさげな様子を否定するように首を左右に振った。
「ノワールの行動は十分役に立った。結果的にあれでパンサーを解放させることができたんだ。それに、面白かったし」
「おいジョーカー、お前というやつは」
「面白がんなっつったでしょうが」
 主だった被害者であるところの二人が声を上げ、その手が得物に伸びる―――
 ジョーカーは素知らぬ顔で全員に背を向けて道の向こうへ目をやった。
「とにかく追おう」
 これにクロウが異を唱える。
「また同じことを繰り返すつもり?」
「あちらが諦めるまでやればいい。根競べだ」
「僕はそこまで気が長くないよ」
「じゃ、あなたならどうするの? 探偵さん」
 挑発的な声を上げたのは意外なことにクイーンであった。
 クロウは参ったなと頭をかき、一同をぐるりと見回した。
「そうだな、僕はある意味部外者と言うことができる」
 誰もこれを否定しなかった。彼は重ねて告げる。
「僕だけなら彼女もそこまで警戒しないんじゃないかな? 別種の意味ではされるかもしれないけど……少なくとも、殴りかかられることはあっても敵対とまではいかないはず」
「殴り返さないと言うのなら、任せてもいい」
「それはちょっと保証できないかな」
「ならナシだ。俺たちはあの荷物を無傷で親御さんの元に届けるために来ているんだ」
「怪盗から配達業者に鞍替え?」
 そんなわけがあるか。うんざりしながら手をひらひらとさせる彼に、なにが楽しいのかクロウは目を細める。
「いたちごっこをするつもりもないだろ」
「そりゃな」
 ため息を一つ。ジョーカーは振り返ってクロウの仮面、その下の瞳をじっと見つめた。
 そこには試すような、探るような色がある。ジョーカーという男の器をはかり、その動向を微に入り細に入るまで見逃さないと言わんばかりの。
 彼はそれに応えてやった。
「分かった。クロウ、任せる」
 クロウは少しだけ驚いた様子を見せた。彼の予想ではもう少しごねられると思ったのだ。
 「任せる」と言わたことにも新鮮な驚きがある。
 ただ単純に、いい気分だと感じた。その感覚にこそ驚きを抱いている。
 クロウはほんの少しの間呆然として、ジョーカーに首を傾げさせた。彼は返事が返ってこないことに訝しげな顔を見せている。
「ああ……いや、なんでもないよ、行ってくる。ルブランに戻っててよ」
 マスターによろしくと言い残して彼は走り出した。ちらりと一度後ろを見ると、そこにはまだ彼らが見送るように立っている。監視されているんだろうとは思っても、今度は特別なにかを感じることはなかった。
 やがてその後姿がすっかり砂塵の向こうに消えてしまうと、怪盗たちは各々の拍子で息をつく。
「本当に行かせて良かったのかしら」
 ノワールが不安げに言うのに、すでに出口に向かって歩き始めていたナビがこたえる。
「このタイミングであいつがに手を出す理由がない。どころか、出したら今度はこっちと戦争だぞ。下手を打てないのはあっちも同じ」
「そういうことね。さ、急いで戻ろう」
 促して、クイーンもまたナビに続く。女王陛下の下命にスカルとジョーカーは恭しくその後に続いた。
 残りの面々も三々五々に動き出すが、意気揚々とはいかなかった。
 ……一人を除いて。
「あー面白かった。やっぱがいると遊びの幅が増えていいな」
 ジョーカーである。彼はまったく無邪気な子供のように飛び跳ねながら言ってのけた。その声は隣を歩くスカルが顔をしかめるのも仕方のないことだろうと思わせる程度には軽やかだった。
「おもちゃ扱いかよ」
「最高級品だね。耐久年数はおおよそ百年、金額は最低でも三千万。ちょっと手が届かないかな」
 質の悪い冗談をより悪くしたのはノワールだった。
 歩幅の関係でとっくに彼女を追い越し、ジョーカーの隣に並んでいたフォックスが咎めるように彼の肩を肘で突いた。大した抵抗もなく押しやられた少年はそのままスカルに勢いをつけて肩をぶつけ、悲鳴を上げさせる。幅のない道の左右には奈落が飢えた獣のように口を開いていた。
「あにしやがる!」
 怒声を投げる彼から逃げるように大股で前へ進み、先頭を行くナビすら追い越して振り返る。後ろ歩きで楽しそうに仲間の姿を眺める彼に、最後尾をのろのろと歩くパンサーが胡乱げな目線を向けつつ言う。
「アンタを何だと思ってんのよ」
 彼はこたえて言った。
「そんなの決まってる。大事な仲間の一人だ」
 まったく正直な言葉であるといえた。彼が心の底からそう思って口にしていることは誰の目にも明らかだった。
 しかし、いささか彼は遊び過ぎたと言える。
「とうっ」
 ナビの足がジョーカーのむこうずねにかかる。さしたる勢いも力もこもっていなかったが、剛の者でも泣き出すほどの急所を打たれた少年はよろめいて悲鳴を上げ、逃げ出した。
「逃げたぞおイナリ、追え!」
 指図に、フォックスはほとんど反射的に走り出した。コンパスとペルソナの差で直ちに追いついた彼は肩を掴もうと手を伸ばし、それを避けようと身を捩らせたジョーカーの左右の脇に腕を差し込む格好になった。
「お―――」
「あ―――」
 ヤバい、と思ったのは同時だった。このままではバランスを崩してもろとも奈落に真っ逆さまだろう。そう思うとフォックスはすぐさまジョーカーの首の後ろで両手をクラッチし、そして後ろに倒れ込んだ。
 ゴン、と派手な音がして、一同は沈黙する。
「ふ、ふじなみ……」
 末期の台詞を呟いて脱力したジョーカーに、慌てた様子でモナが走り寄る。
「オイ、ジョーカー? お~い! しっかりしろーっ!?」
 がくがくと揺さぶられるジョーカーは完全に脱力している。ただ、目は開いているし念のためにとパンサーが治癒の力を投げかけてもやっているから、死ぬようなことはないだろう。
「すまん、事故だ」
 素直に両手を合わせるフォックスに、追いついたナビが指を突き付ける。
「おまえ今日からフォックスじゃなくてドラゴンって名乗れ」
 言われたほうは首を傾げたが、クイーンとスカルは何故か腕を組んで感慨深げにうんうんと頷いていた。