19:Plan9

……
 差し出された写真を見て、の対面に座る女性は顔を歪めた。
 そこには複雑な感情が湛えられている。強い憤りと悲しみ、悔恨と諦観、に対する不快感や忌々しさも覗いていた。
「どうしても、お話しいただく事はできませんか」
 半ば身を乗り出して問いかける少女に、四十代半ばほどと思われる女は写真に注いでいた目線をわずかに上げる。
 の顔を見て、しかしそれはすぐに逸らされた。
「施設職員には秘密保持の義務があるんです」
 たしなめるような言葉の裏には明らかな後ろめたさがあった。
「その義務はあくまでも子供たちの安全のためのもののはず。彼らの安全がそれにより却って脅かされているんですよ。その義務を手放す義務こそが今必要なんです」
 お願いします、と言って、少女は額をテーブルに付きそうなほど頭を下げた。
 女は戸惑い、そして周りの目を気にして、頭を上げるように促した。
「お願いします。このままじゃ、二十年前の津村浩輔くんのように、また行方不明になる子が出るかもしれない」
 津村の名に女はぎくりとして身を強張らせた。ますます強まった緊張を利用することに申し訳なさを覚えつつ、は指先で光沢のある紙を撫でた。釣られるように女の目線は再びテーブルの上―――が撮影した和光圭太少年の、傷だらけの体を被写体とした写真に向けられる。
「迎さん、あなたが二十年前、津村浩輔くんが行方不明になる直前まで師子の園に職員としてお勤めになっていたことは分かっているんです。当時なにがあったんですか?」
 迎と呼ばれた女は、がっくりと肩を落とし項垂れた。
 そこには人一人がとても担ぎきれない重みを長年引きずり続けてきたかのような、想像も及ばない疲労感が漂っている。
「あなたのような……」
 乾いた喉からやっとのことで絞り出された声は、歳よりずっとしゃがれている。きっと本来はもっと澄んだ声をしているのだろう。彼女は強い緊張感によって喉を引きつらせていた。その根源にあるのは罪悪感だ。
 は目を細めてなにかを言わんとする口元をじっと見つめた。
「あなたのような人がいつか現れるとは思っていました。でも、どうやって私に辿り着いたの?」
「……施設でアルバムを見たんです。創設当初からのものが残されていたから、そこで名前と顔を確認して、後は、申し訳ないとは思いましたが、ネットで……その、SNSに本名でご登録されていますよね」
「ああ……だから、そこからメールしてくれたのね」
 実際のところ、が接触を図った相手はこの女性だけではなかった。幾人かの候補にメールを送り、唯一直接の面会を許諾したのが彼女だけだったというだけの話だ。
 けれど勝算はあった。そもそもこうして会って話をしていること自体、彼女がに何らかの期待を寄せていることの証左だ。
 長い沈黙が場を支配する。
 迎がなにかに惑い、苦しんでいるのがには手に取るように分かった。
 己の身上と見知らぬ子供の命を天秤にかけてさあどうすると問われて即座に答えられる者は多くないだろう。まして彼女には家庭がある。そうでなかったとしても、顔も名前も知らないどこかの誰かのために今あるすべてを投げ打てるかと問われれば、もまた言い淀むだろう。
 だから、彼女はいつまででも待つつもりでいた。その答えが望むものでなかったとしても、決して非難はすまいと心に誓っていた。
 まだ次善の策はある。Kを傷つける結果になるやもしれないが、本当に命を奪われるよりはいい。
 やがて、迎は結論を出したのだろう。掠れた声でもって静かに語り始めた。

……
 代わり映えのしない風景を黙々と歩きつつ、ちらりと崖下へ目を向ける。岩肌にはよく見れば無数のハーケンが突き立てられ、そこに固定されたロープが吹き上がる強風に揺られている。
 つまり断崖は底から登ってくることが可能なのだ。もちろんそれには多大な努力を要するだろうが。
 が面会を要求した元養護施設員の女が語ったところによると、なんということはない、師子とは師と子ではなく獅子だ。
 ―――太平記に曰く、獅子は子を産んで三日を経る時、万仞の石壁より母これを投ぐるに、その獅子の機分あれば、教へざるに中より身を翻して、死する事を得ずといへり。
 いとしき子には杖で教えよとも、かわいい子には旅をさせよとも言うだろう。要は獅子の子落とし、と言うことだ。
 唐津壮一という男は子供を崖下に突き落とすが如き試練を与え、這い上がった者だけを我が子としてよく養育する。出来なかった者、あるいは見込みのない者が和光圭太少年や津村浩輔であり、無数の虐待の被害者たちなのだ。
 あるいは、見せしめの意味もあるのかもしれないと元施設職員の女は語った。
 試練をこなせなければお前たちもこうなるぞ、と脅しつけているのかもしれない、と。
 このようなやり口は洗脳に近い。痛みや言葉による恐怖という名の鞭と安定した生活による安寧という飴をまだ物事の判別もつかない年頃から交互に与えられ続ければ、それがはたから見ておかしいことでも当人は気が付くことができなくなる。
 そうやって育った『お気に入りの生徒』たちはやがて唐津の斡旋により様々な業界へ入り込む。経済、政治、スポーツ、マスコミ、教育、芸能関係に福祉法人協議会にまで。
 これによって数々の嫌疑や告発、監査や注意喚起をかわしてきたのだろう。
 わかってしまえば大したことのないからくりだ。彼の栄華も名誉も、無数の子供たちの犠牲の上に成り立っているものだった、それだけだ。
 たったそれだけのために、どれだけの子供たちがドロップアウトさせられていったのだろうか。
 師子の園はまた入園数こそ膨大だが、十八歳ないし二十歳まで園に居た者の数は少ない。それ以前に里親が見つかったり、親元へ返されたりするケースもあるから当然だが、目立つのが特定の別施設への移動だった。ある程度の年齢までに芽が出ず、見込みが無いと完全に見なされた者が問題行動や怠惰の烙印を押されてそこへ押し込まれるのだ。
 の目はまた奈落へ落ちる。
 現実の世界で子供たちに与えられる試練を唐津はこのように認識しているのだろう。
 山登りに精通はしていないが、底の見えない谷底からここまで這い上がるのが容易ではないことは分かる。これを通過出来た者だけがあの煌びやかな城館に招かれるというわけか。
 皮肉な笑みが少女の面に浮かんだ。
 うまい具合に考えるものだ、と。
 試練を乗り越えた先の特別扱いは芽生え始めた子供たちの自我や矜持をよくくすぐることだろう。ましてその子たちの前には落伍者たちの浮かばれない顔があるのだ。そこには戻るまい、同じ目には合うまいと更なる研鑽を積むことだろう。
「よく考えられた仕組みだよね」
 ……唐突に後ろからかけられた声に、少女はすぐさま腰元の剣を引き抜いた。
 振り返り様の切り上げに声の主は咄嗟に上段からの振り下ろしをぶつけて防ぐ。少女にとって意外なことに、こちらの剣は鞘に収まったままだった。
 ならばと柄を相手の腹側に寄せ、左で踏み込んで右足を大きく振り上げる―――
「ちょっと待って! それはよくない!!」
 相手の手が急所に蹴り入れられる直前の足を掴んだ。
「あなたは……」
 掴まれた足もバインドに入った剣もそのままに誰何する。その瞳には変わらず剣呑な光が湛えられていた。
「分かるだろ?」
 確信を持った響きに、少女は仮面の下の顔を思い切りしかめた。
 もちろん、は初めから彼が誰かを理解している。彼が追ってくることも織り込み済みだ。何もかもが計画通りであった。
 その上で彼女は剣を手放し、彼の動揺を誘った。
「え……」
 間の抜けた声が漏れる。
 少女は空いた手で拳を作り、腰を捻って少年の心臓目がけて拳を叩き込んだ。
「いっ……てぇ!!」
 掴んでいた足も剣も手放して胸を押さえ、飛び退る。
 それを追うようには吠えた。
「なぜここにいるの、明智吾郎!!」
「分かってたのになんで今……くっそ、心臓は……駄目だろ……」
 項垂れる少年を睥睨し、鼻を鳴らす。
 心臓への打撃はあらゆる状況において有効とされる。達人ともなれば相手の心拍に合わせた掌底によってその動きすら止め、息の根を断つという―――
 当然にそんな技能はないから、今のはただちょっと痛い程度のパンチに過ぎない。
 まして彼が相当鍛えていることが今の打撃でよく分かった。撃ち込んだはずののほうが拳を痛めてしまったくらいだ。
「なにをしに来た」
 それでも剣を拾い上げながら問いかける。構えこそ取らないが警戒は失われていないと見て、少年はやれやれと息をついた。
「一人じゃ危険だと彼らも言っていただろ? その力に目覚めているってことは、君ももう分かっているはずだ」
「……ああいう連中でしょう」
 持ち上げられた切っ先が少年の背後を指し示す。そこではちょうどうごめく影のようなものが地面から湧き上がってくるところだった。
 首だけを巡らせて「そうそう、ああいうの」と気の抜けた様子で肯定する彼の脇をすり抜け、真っ直ぐに切っ先を突き入れる。それは器用に異形の仮面を跳ね上げさせ、その真の姿を露にさせた。
 どろりと崩れ落ちた影の中から現れたのは銅色の鈍い光沢を持った牝牛である。
 銅の牝牛が上げた憤怒の咆哮は雷撃と化して少女の身に襲い掛かった。不意打ちに対処が遅れ、無防備に突き出していた剣先から電撃が入り、腕を通り抜ける。放電の衝撃によって手と腕を覆っていた衣装が弾け飛び、後にはリヒテンベルク図形状の火傷と、それによる痛みが残された。
「く……ッ」
 剣を握る指先から手のひら、腕をつたって肩まで走る強烈な苦痛に剣を落としかけるが、少女は歯を食いしばってそれを堪えた。
 仲間たちとはまったく正反対の理由から、この少年の前で無様を晒したくなかったのだ。
「切り落とせ!」
 号令に少女の半身が立ち上がり、ヴェールの向こうで剣を振り上げる。
 斬撃は、しかし鈍い高音を上げるだけに留まった。さしたるダメージを与えられていないことは見た目にも明らかで、猛り狂った咆哮が再び不安定な足場を揺るがした。
「この……うっとうしい!」
 手は再び仮面に伸びる。物理的な攻撃が効かないのであれば、それ以外ならばどうだと破邪の力を振りかざす。
 しかし銅の牝牛のほうが動きは早かった。
 猛烈な勢いで駆け出した獣は重量戦車のごとく地を蹴立て、サロメが放った光の奔流を背後に置き去りにして突進を仕掛ける。
 重量の差は六百から七百キロといったところだろうか。受ければひとたまりもないと不可視の盾を呼び出さんとするが、それも間に合うとは思えない。
 回避、いや、もう遅い―――
「射殺せ、ロビンフッド!」
 歯を食いしばった少女の背後から一矢が飛ぶ。
 それは突進する牝牛の額に突き刺さると、轟音とともに爆発を引き起こして足元の乾いた地面ごとその巨体を抉り取った。
 後には頭部と身の半分を失った雌牛の姿が残され、それもやがて泥のように溶けて地に落ちて霧散する。
 爆発の余波による砂塵や飛礫が収まると、頭からそれらをまともに被ったの姿がやっと現れる。彼女は膝をつき、呆然とした様子で己の背後を振り仰いでいた。
 その瞳は屈辱によってわき上がる憤怒に燃えている。
「ほらね。一人じゃ危険だった」
 したり顔と気障な仕草。またそれが様になっていることが余計にの神経を逆なでする。彼女の耳には己の血管の末端がブチブチと音を立てて切れる音すら聞こえていた。
 と、いえばさすがに大げさだろうが、しかし現実として明らかな苛立ちを覚えていることは確かだ。
 戦いの場に於いて己が特別抜きん出ているなどと自惚れたことはないが、少なくとも彼らにとって戦力の一つとして数えられる程度にはなっていたはずだ。
 それがこのような無様を晒し、あまつさえ仇敵に助けられるような真似を……
 そこまで考えて、は眉間のしわを左手で摘んだ。
 自分の些細な矜持など今はどうでもいいことじゃないかと気が付くことができたのだ。
「……礼は言います。助けてくれて、どうもありがとう」
「どういたしまして。余計な世話じゃなかったことを祈るよ」
 含みのある言葉選びにまた眉間のしわが深くなる。
 おそらく彼もそのつもりで発言しているのだろう。はあからさまに嫌そうな顔をして立ち上がった。
 膝や髪、衣装のあちこちに付着した砂や小石を払い落とす。利き手は強い痛みを訴えたが、剣を取り落とすほどではなかった。
 抜き身の剣を鞘に収め、目線を再び遥か先の城館へ向ける。
 するとそれを遮るように進み出た少年が言う。
「なんだか全然懲りてないって顔だね」
「仮面で表情なんてわからないでしょう」
「そうでもないよ。ねぇ、引き返すべきだと分からないほど血の巡りは悪くなっちゃいないだろ? そもそも君、どうすればいいのか分かってるのかい?」
 続け様に投げかけられた問いに、少女はうんざりと言いたげな態度で答える。
「推測はできる。怪盗団が行ってきたのが文字通りの改心なのだとしたら、ここは唐津の心の中とでもいうべき場所で、この光景はまさしくあの男の心象風景でしょう。そして怪盗を名乗る以上、何かを盗むんだ。それが何かは、これもまた名前が教えてくれている。心を盗み出す―――この場全体は無理だろうから、盗めるサイズのなにかを」
「よく考えてるね」
「ついでに言えば、引き返せって意見には賛成。でも……」
「なに?」
「あなたの言うことを聞きたくない」
 少年はいかにも楽しげな声を上げた。
「それは、僕のほうが正しかったから?」
 彼が言わんとしているのはかつて短い時間にした二人のやり取りだろう。は口をへの字に曲げて押し黙った。
「君が憧れた『怪盗団』は今やただの人殺しとして名を馳せている。一歩間違えれば、君のお母さんもどうなっていたのかな」
 得意げに恐ろしい仮定を口にする姿はやっぱり楽しそうだった。
「……けど、それなら、どうしてあなたまでここにいる? さっきは怪盗団の連中と仲良くしていたようだけど」
「誤解しないでほしいな。彼らとはあくまでも一時的な協力関係でしかないよ。僕がずっと追っていた一連の事件……その真犯人を突き止めるための共同戦線さ」
「事件?」
 問いかけに明智は答えない。知る必要はないということだろう。
 は不服そうに唇を尖らせた。これも演技だ。続けて明智の鼻先で指を一本立て、問いかけを重ねる。
「それなら一つだけ教えて。あなたは怪盗団の仲間なの?」
 途端、明智吾郎は目を細めた。
 その仮面の下の瞳の奥に小さな迷いのようなものを見つけて、は不可解そうな顔をする。
 なにを迷うことがある。事実を事実として言葉にすればいいだけのことではないか。それとも怪盗団の面々に愛着を覚えでもしたと言うのだろうか。
 万が一そうだとしても、この場で取り繕う必要はない。仲間だと思っているのならばなおのこと、怪盗団としての目的を果たすために仲間なんかじゃないと言えばいいだけだ。
 果たして明智は小さく頷いてみせた。
「そうだよ。僕は彼らの仲間じゃない」
 声はまったく無色透明だった。正直にすべてを明かしているようにも、明らかな嘘をついているようにも受け取れた。
 とはいえその本心がどちらに傾いているにせよ、には言質を取れれば良いことだった。
 ただ感心はする。恐ろしいほど本心を隠すのが上手い男だな、と。
「ならいい。殴ったことはあやまります、ごめんなさい」
「いいパンチだったよ」
「どうも……」
 おざなりにこたえた少女が脇をすり抜けようとすると、明智はすかさず腕を伸ばした。だが肩を掴もうとした手はスカリフィケーションのように残された痕に遠慮したのか不気味さを覚えたのか、そこを避けて彼女の襟首を掴む。
「ぐえっ」
「確かに僕は仲間ではないけど、今のところ彼らの期待を裏切るつもりもないんだ。引き返してもらわないと困るな」
「首を引っ張る必要はあった!?」
「ないかも。でもそんなに怒らないでよ」
「怒らない理由があったら教えてほしい」
 跳ねるような大股で再び伸ばされた腕から逃れる少女を早足で追う。幸いなのはどちらにも駆けっこをする気がなかったことだろう。不安定な足場に蔓延るシャドウの存在がそうさせていた。
「ついてこないで。そうでなければ、怒らないでいる理由と私があなたの事情を慮る理由を教えて」
「怒らないでいる理由は簡単かな。君のさっきのパンチのほうが痛かった。絶対に。君が僕に遠慮してくれる理由は……」
 足の長さによる歩幅の差で素早く隣に滑り込みながら、少年は少しだけ困ったように曇天を仰いだ。
「無いな……」
「お帰りはあちら」
「そういうわけにはいかないんだって。どうしてそんなに必死になってるの? 誰か知り合いがいたりするのかい?」
 足元の小石を勢いよく蹴り飛ばし、は彼を横目で睨みつけた。
「知り合いというほどではないけど、いることはいる」
「その程度の理由で?」
「子供が殴られて泣いてる。十分じゃないかな」
 ふうん、と相槌を打って顎をさする。目は早足気味に進む少女に向けられていて、好奇心によって輝いていた。前向きなものとは言えない輝きだ。
 底意地の悪さという意味ではあの少年とこの少年はよく似ているのかもしれない。
「じゃあ、僕が殴られて泣いてたら同情して助けてくれる?」
 当惑するのには十分過ぎる質問だった。なんのつもりでそんなことを言いだしたのか、動揺を誘うためか、それとも憐れみを誘って交渉を有利に運ぶためか。もしかするとこれも本心からだろうか?
 思惟するには材料が足りなかった。
 答えを得ることを諦めて、少女はただじっと彼を見澄ました。
 ぴんと伸ばされた背すじ、きらきらしい衣装。仮面の下の顔が少女のように整っていて、人目をよく引くことを彼女もまたよく知っている。おそらく彼自身もそれを自覚しているだろう。それを優れた自己プロデュースと言うべきか、ナルシシズムと言うべきかは分からなかった。
 言うべきことが決まっていることは分かっていた。
「必要ないんじゃないかな」
「うーん、あいかわらずの塩対応」
 わざとらしくがっかりして肩を落とす姿から目を逸らし、道の先へ視線を戻す。は思ったことをそのまま告げた。
「そうじゃない。あなたは同情されて喜ぶタイプじゃないとおもう。プライドが高くて、救いの手なんて差し伸べられた日にはそれだけで憤死しそう。だから、最初からそんなものは必要ないんだ」
 けれどと繋げて、少女はまた少年を見上げた。そこには敵意もなければ警戒心もなく、かといって好意や親近感と言った感情も存在しない、まったくの中立的な無関心さがある。
 だからこそ続く言葉に嘘がないことが少年には直感的に理解できた。
「もしもきみに助けが必要だと言うのなら、きみがなんであろうが、なにをしていようが助けになる」
 言いながら、しかし少女はふっと口元を緩めて皮肉な笑みを浮かべる。
「でもやっぱり、必要無いとは思うけど」
「どうして?」
「絶対、あなたは助けてくれなんて言わない。私みたいなのには特に」
「君みたいな、の定義がよく解らないけど……」
 少年もまた口元に笑みを湛えてみせた。しかし目は眇められているし、眉間にはしわが寄っている。妙な想像をしてそれに嫌悪しているような表情だった。
「確かにしないね、絶対に……そんなことをするくらいなら、死んだ方がマシだ」
 どことなく冗談めかした言葉ではあるが、これは本心だろう。確信して、はまた一歩大きく前に足を動かした。
 そのまま二人はしばらく不本意な同道を続けた。明智ももはやこの道行を中断させようとは思っていないらしい。黙然と足を運びながら、時折辺りの様子に目を走らせている。
 はいつもの癖で腕時計を確認して、虚しく左の手首を撫でた。
「時間が気になるの?」
「ある意味で。ちょうど三十分だから……気が付いてる?」
「まあね」
「なら言いなよ……」
 うんざりしながら顔を上げれば、辺りは相変わらず寒々しく、強い風が吹き荒んで道を阻んでいる。その向こう、砂塵の合間に見える城も変わらぬ姿を晒したまま。
 そうとも、三十分も気まずい沈黙の中歩いたというのに、城館どころか城壁にすら近づけていないのだ。
「どこで気が付いたんだい?」
「……あそこ、あの対岸の枯れ木が見える?」
「うん」
「あれを見るのは三回目。二度目に目撃したときに不審に思って、今ので確信した」
 仕組みは解らぬがどうやらループしているらしいと結んで腕を組み、踵を鳴らす。
 忌々しさとともに少女はつばを足元に吐き出した。実際には口内にまで侵入した砂を吐き出すためだ。風に乗って舞う微細な砂粒は気が付かぬうちに髪も衣装にも付着して、どことなく白っぽい。
 は乾いた唇を乱暴に拭い、うんざりした顔をぶるぶると振った。
「行儀がなってないなぁ」
「あなたと違って私のは口までカバーしてくれないの」
 こんこんと指先で仮面を叩いてみせると、少年もそれを真似して返した。
「交換してあげようか?」
「いらない……」
「僕も嫌だ。それで、ループの間隔はどれくらい?」
 なら何故提案した―――口をついて出そうになる悪態を手で押さえ、努めて平静に質問に答える。
「そう大きくない。一キロ程度歩くとまたあの枯れ木に辿り着く」
 ふうむと唸って、明智は口元に拳を添える。彼はなんだか楽しそうだった。
「原因はなんだと思う?」
「ここが唐津壮一の精神世界……心の具現化した世界だというのなら、警戒心の表れか、あるいは煙に巻いてるってところじゃないか」
「タヌキってことかな」
「あるいはキツネ」
「そう? 煙に巻くっていうと僕はタヌキを連想するなぁ」
「どっちでもいいよ……」
 げんなりとしつつ、脳裏に唐津某の姿を思い描く。タヌキにもキツネにも似つかないごく普通の中肉中背だったはずだ。強いて言えば実年齢に比べてかなり若々しく見えるというくらいか。大宅などはこれを指してしわ取りの外科手術やボトックス注射の存在を指摘したが、にはいまいちピンとこなかった。壮年も終わりに差し掛かった中年男性が美容整形に手を出すというイメージが上手くつかめないのだ。大勢の人の前に立って講演を行ったり、己の顔を前面に打ち出した本を出版している事実と並べれば一応の納得もできるのだが……
 見栄や虚栄心、虚飾。飾り立てられた外見の内に広がるのがこの荒れ果てた光景かと思うと、なんともやるせない気持ちになる。唐津某を思ってではなく、彼のための踏み台として消費され続ける子供たちを思い、は静かに俯いた。
 そうやって視界に入った足元の石を拾い上げ、枯れ木の方向に向かって放り投げる。石はなにかにぶつかるようなこともなく、また対岸の枯れ木に届くこともなく奈落に落ちていった。
 また一つを拾い上げて投げる。今度は進行方向に。しかし小石はやはり、ただ重力に従って地に落ちるばかりだ。
 黙ってそれを見守っていた明智が興味深げに呟いた。
「接触によって起こる現象じゃないか、あるいはループ地点は別の所みたいだね」
「もしくは見えているあの城は幻覚や蜃気楼ってところか」
 なるほどと頷いて、明智はますます楽しげにを見下ろした。
「他には?」
「他? ええと……」
 きょろきょろと辺りを見回して、こめかみをさする。
「もっと原始的な……ルームランナーのような仕組み? 移動しているのは私たちではなくて背景だけ、というような……」
 答えに、明智は満足げにうんうんと頷いてみせる。
 そして彼は心の底から愉快そうに言ってのけた。
「残念、惜しいね」
「はあ……?」
 不可解な面持ちで声を上げた少女の傍らで明智は仮面に手を触れ、自らの半身を呼び迎える。
 曇天から降り注ぐ陽光は鈍く、辺りは薄暗い。それでもなお燦然と輝く外套をたなびかせた偉丈夫が立ち上がり、黄金の弓をつがえた。
「正解はこうだよ」
 放たれた矢は寸分の狂いもなく分厚い雲の向こうの光球を貫いた。
 途端ガラスが砕けるような音がして、天頂からひびが天球中に広がり始める。
「これ、破片が降ってきたりしない?」
「あー……そうかも……」
 『仲良く』並んで上を眺めていた二人はひと際大きな破砕音を耳にする。次の瞬間、天を覆っていた何かの破片が崩落し始める。
 天井から彼らが立ちすくむ崖の上までの距離は想像以上に短かった。あるいは、降り注ぐ天の欠片の落下速度が想像以上だったのか―――
 物質の落下速度はその質量に影響されない。というのは、実は一つの前提条件がある。空気抵抗が無い場合、だ。物体が空気中を運動するとき、その物の進行方向には当然空気が立ちふさがる。これこそが空気抵抗であり、これには気体分子の圧力差と摩擦による粘性抵抗があり、どちらもが物体の落下速度と比例する。しかしそもそもここは現実の物理法則から解放された心の中の世界だ。質量×加速度と速度×抵抗は当てはまるのか。
 そこまでを一息に考えて、は直ちに己の仮面に手を添えた。
 そして隣の少年に語りかける。
「助けは必要?」
 彼はこたえて言った。
「いいや、ないよ」
「そう」
 短く答えて、少女は仮面を己の顔面からはぎ取った。
 立ち上がった半身はただちに目に見えない盾を構え、降り注ぐ大小の破片から彼女の身を守り通した。
 しかし周囲はそうもいかない。露出した岩肌や枯れ木は抉られ、粉砕されて微細な塵と化して彼女の視界を塞ぎ、ひどくその目やのどを痛めつけた。
「あああ……もう、信じられない……」
 呻いて、顔を覆っていた手を離す。しゃがみこんでいた姿勢から立ち上がって見回すと、この世の終わりのような光景がそこには広がっている。
 うんざりしながらあちこちに付着したその残骸を払いのける。足元に転がった破片に足を乗せると、背後からは晴れ晴れしい声がかけられた。
「これはちょっと予想外だったね」
 振り返ると、少女と大差ない格好になった少年が両手を広げて笑っている。は足元の瓦礫を蹴り飛ばして彼に掴みかかった。
「もう一発」
「顔はやめて!」
 振りかぶった拳と膝を抑えられて歯を見せる少女になにが楽しいのか、少年はますます笑みを深くする。
「そう怒らないでよ」
「今度こそ怒らないでいられる理由は見つかりっこない!」
「あるよ。ほら、結果オーライってやつ」
 言って、少年は顎をしゃくって少女の背後を示した。
 なんだと後ろを振り返ると、そこには先ほどまで無かったはずの道と暗雲、そして目指し続けていた城よりもずっと豪奢な建築物がそびえ立っていた。
「ジャーン」
「うるさい」
 ぴしゃりと言い放って、抑えられた拳と膝で突き放す。少年は屁でもないと言わんばかりに泰然として腕を組んだ。
「ループは間違ってなかったんだけどね。ここを通り過ぎて少し進んだ……あの辺りにループポイントがあって、たぶんさっきまで見えていた光景は、僕たちに合わせて回転していたんじゃないかな。ちょうど月と地球の自転と公転周期が一致しているみたいな感じ?」
「あー……」
 砂まみれになった前髪を指先で払いながら、感嘆とも相槌とも取れる声を上げる。
 なるほどそうか、そういうことかと納得して新たな道を眺めることしばし、ははっと息を呑んで改めて彼を睨みつけた。
「気が付いていたのになんで言わなかった!」
「ごめんごめん、君を試しただけなんだ。実際大したものだよ。ループに気が付いたのは僕より先だったんだから」
「そんなに殴られたいの」
「そういう趣味は無いかな。なに? 君の彼氏ってそうなの? うわ……見る目が変わるな……」
「はあ?」
「あ、別れたんだっけ? 君もひどいことをするよね」
「はあ」
「罪悪感はないのかい、人の心を傷つけて……あ、今僕もやったな。これだけ大規模な変化となるとこの心の持ち主にも多少の影響がありそうだけど、どう思う?」
「はあ……」
 ため息をついて背を向け、隠されていた道を歩き出す。
 またありもしない時計を確認して、虚しく己の手首を掴む。相手をするのも億劫だが、もうしばらく彼をこの場に留まらせなければならなかった。彼のほうだって会話を楽しんでいるわけではないだろうが。
 都合よく前方には道を塞ぐ影がある。
 は剣を引き抜いてまたざらつく唇からつばを吐きだし、背後に向かって声をやった。
「戦う気がないのならもう帰って」
 挑発するような声色と調子に、当然彼は乗らなかった。
「君に蹴り出されたと報告するよ」
「お好きにどうぞ」
 構えと共に走り出す。地擦りの一撃は甲高い音を立ててシャドウの仮面を弾き上げ、その正体を露にさせる。
 今度は不意を打たれまいと素早く後方へ退くと、入れ替わるように少年が飛び込んでシャドウの喉元に剣を突き立てた。
 ゆったりとした赤いドレスを身にまとった女の姿を取ったそれは悲鳴を上げることも出来ずに後退る。
 するとこれを守るように白い子犬がその足元から湧き立って彼に牙を剥いた。
「おっと」
「頭を下げて―――」
 宣言と共に肩に担いだ剣を振り回す。飛びかからんと中空に身を躍らせていた子犬たちは強烈な横薙ぎの斬烈に黒い泥のようなものをまき散らしながらばらばらに飛び散った。
 その後を追うように、幾筋かの切り離された髪が落ちる。
「呼吸くらい合わせてくれたっていいんじゃないかな」
「本気で言ってる?」
「まさか」
 ほんの少しだけ短くなった髪を一つまみ、少年は皮肉な笑みをに向ける。
 彼らの先にはまたタールのようなものが湧きつつあった。
「それなら戦う気は?」
「それならあるかな」
「お好きにどうぞ」
 言い残して再び走り出した少女の背を、彼はやはり楽しそうに見つめていた。


 ―――薄暗い室内の窓辺に、一人の少年が佇んでいる。
 物音を耳にして振り返ると、ちょうど待ちわびていた相手がのろのろと階段を上ってくるところだった。
「首尾は?」
 問いかけると、現れた少女はどことなく疲弊した様子で肩を回してから彼に向けて親指を立ててみせた。
「よし……」
 かすかな呟きには反応せず、少女はどっかと部屋の隅に置かれたソファに腰を下ろす。するとどこからともなく靴下猫が現れて隣に陣取り、労うように長い尾っぽを少女の膝の上に置いた。
 部屋はしばらくの間沈黙に満たされる。少年はまた窓の外の狭い路地に視線を落とし、少女はぼんやりと虚空を睨みつけている。猫はそんな二人を見て、毛づくろいに取り掛かった。
 やがて少女が戸惑いがちに口を開く。
「ほんとにいいのか。めちゃくちゃ危険だぞ」
 気遣うような言葉に少年は苦笑する。
「皆に危険なことを散々させておいて、今さら俺だけ怖気づくことはできない」
「誰も文句は言わないとおもう」
 反論に少年は振り返る。少女を安心させるよう穏やかな笑みを浮かべさえした。
「なら、プラン9を発動するか?」
 少女は額に手を当てて天井を仰いだ。
「史上最低の作戦……」
「冗談言える余裕はあるみたいだな。それともついにおかしくなったか?」
 痛烈な猫の言葉に少年は声を上げて笑う。いよいよ本当に狂ったかと思いきや、彼の瞳は少しも正気を失った様子はなかった。
 ただ、彼は笑みを湛えたまま静かな声で言う。
「ずっと唱え続けてきた。心の中で……だから、俺にパレスがあれば、同じ言葉が延々響いているだろうな」
「なにが?」
 首を傾げた少女に、彼は変わらず穏やかな調子で答えた。
「こんなの全然大したことじゃない、って。怒鳴られても、叱られても、馬鹿にされたりこそこそ影でなにか言われたり……殴られたり、泣かれたり、失望されたりしても……そんなのはただ少し躓いただけで、全然大したことじゃない……」
 彼が言わんとするところを察せないほど浅い付き合いをしているつもりは少女にも猫にもなかった。踏みつけられた己の過去のことを指しているのだ。
 口を差し挟むのはためらわれて、二人は神妙な様子で言葉の続きを待った。
「自分一人で言い聞かせるのはきつかった。たぶんきっと、似たようなことを経験してるやつがこの国にはごまんといる。そして俺は幸運なことに、一人ではなくなった」
「そんな言い方」
「ああ、違う、お前たちのせいだとか、お前たちのためとかじゃないんだ。ただ……」
 眼鏡のつるを押し上げて、少年は決然と言い放った。
「今度は自信を持って言い切れるんだってこと。こんなの全然、大したことじゃない。大したことじゃないのなら、躊躇する必要はないだろ」
 朗らかな様子に、少女と猫はため息をつく。どう考えたってそんなのは強がりでしかなかったからだ。
 それでも、彼にとっては『そう』なのだと理解すると、もはや抗弁する気にもなれはしない。
「こんなの全然大したことじゃない……」
 部屋には少年と少女、それから猫の他にも複数の人影があった。声はその内の誰かが発したものだった。
 そして彼らは同意する。
「まあ、今までだってよっぽどヤバかったもんな」
「私、川の向こうで知らない人が手ぇ振ってんの見たことあるんだよね」
「そういえば俺もあるな。母らしき人物が向こう岸で何かを言っていたような……」
「え、皆も? 実は私も……あれ、お父さんだったのかしら」
「私はまだないかな。お父様に一目お会いすることができるかしら」
 これには流石の少年も笑顔を引きつらせた。言外に作戦のミスを指摘されたような気になったのだ。
 そしてソファの少女が意地悪そうな笑みを浮かべてとどめを刺した。
「そういやも頭血垂らしながら見知らぬ老婆に手招きされたって言ってたな。てっきり錯乱してんのかと思ったけど、なるほど、逝きかけてたんか」
「ご……」
 少年は床に膝をついて頭を下げた。
「ごめんなさい。あれは俺のミスです」
 仲間たちは寛大な心とたっぷりの皮肉を込めて応えた。
「あんなの全然大したことじゃない」と。