20:The “JUSTICE” Always Wins

 胸を押さえてルブランの屋根裏部屋に帰還した明智を出迎えたのは男子一同のみだった。
「あれ、皆帰っちゃったの? 薄情だなぁ」
「時間見ろよ。帰してやんねーとヤバいだろが」
「あ、もうこんな時間か……」
 頭を掻いた少年に椅子を進めてやりながら、部屋の主が問いかける。
「それで彼女は? ちゃんと家に帰った?」
「一応電車に乗るところまでは監視したよ。彼女がよほどの馬鹿じゃなければ引き返すような真似はしていないと思うけど」
「じゃ、大丈夫だな。ご苦労様」
「どうも」
 やれやれと背もたれに身を預け、足を組む。彼はすっかり疲弊している様子だった。
「くたびれてんなぁオマエ」
 ベッドの上で丸まっていた猫が頭をもたげて言ってやると、彼は天井を睨みつけたまま然りとこたえる。
「そりゃあね。あんなに凶暴だって知っていたら追跡役なんて言い出さなかったよ。まさか本当に殴られるとは……」
 げんなりしながら吐き出された言葉に、沈黙を守ったままの喜多川が一同の前に音もなく手を差し出した。
 怪訝そうな顔をする明智の横で二人の少年が舌打ちをして財布を取り出す。これにますます困惑を強めるが、やがて頼りない室内灯にぼんやりと浮かび上がる手の上に千円札が二枚乗せられるのを見て絶句する。
「あーチクショウ、マジかよあいつ……」
「嘘だろ……本当に殴ったのか……」
 忌々しげに呻く二人に、喜多川は鼻を鳴らして二枚の千円札を高々と掲げてみせる。
「言っただろう。なら最低でも一発はやる、と」
「負の信頼感」
「最低でもってのがまたな」
 臨時収入に喜色を浮かべる喜多川に対し、二人はがっくりと肩を落とした。
 つまり、彼らは、が明智を殴るか否かで賭けをしていたのだ。
「嘘だろってこっちの台詞なんだけど……!?」
 愕然として打ち震える彼に向けられる目は冷たかった。
「うるせー女のパンチくらっといてなに言ってんだ」
「それくらい避けろちゃんとついてんのか」
「不意打ちだったんだ、予測できていたらあれくらい避けられたさ!」
 思わずと立ち上がって訴える明智に、喜多川だけが何故か感心したようにうんうんと頷いていた。
 ふと、モルガナが丸まっていた身体を伸ばして立ち上がり、尾っぽの先で明智を示して言い放つ。
「おいユースケ、こいつからも千円徴収しろよ。殴らない方に賭けてたっぽいぞ」
「はぁっ?」
「ん」
 驚愕する明智に、喜多川はやはり静かに手を差し出した。
「一口千だ。出してもらおうか」
「なんでだよ!」
「んだよ、探偵業で儲かってんじゃねーの?」
「君たちこそ怪盗業で荒稼ぎしているんだろ、僕にタカるな」
「そうでもない。特に祐介は……いや、ほぼほぼ自業自得なんだけど」
「なぜ金というものは貯まらないんだろうな……」
「使ってるからだよバカ。信じられるか、こいつ賭けに負けてたら歩いて帰るとこだったんだぞ」
 坂本の手が喜多川の後頭部を掴んでぐいと明智の前に差し出した。抵抗もせずに突き出された彼はどことなく悲しげな風情を漂わせていたが、明智が彼に同情を寄せる理由なんて一つもなかった。どれだけの距離があるのだか知らないが、彼が歩いて帰ることになったとしても自分にはまったくなんの関係もないことと思える。そしてそれは、疑う余地のない真実だった。
 ただ、黙って動向を見守っている一人の目線が癇に障った。
 楽しそうに細められてこちらを見る眼鏡と前髪の下の瞳は『千円ぽっちも持ってないの? ダッサ』と嘲笑っているように思えてならない。
 もちろんそれは勘違いなのだが―――
 明智は渾身の力を込めて喜多川の額に千円札を一枚叩きつけた。
「痛い」
「次に賭けるときは先に知らせておいてよ」
 ふんと鼻を鳴らして顔を逸らす。照れているというよりは、強い対抗心が垣間見えた。
 それにまったく気が付かず、頭の後ろで手を組んだ坂本がぼやく。
「殴られて金出すってすげーマゾいな」
 明智はうんざりした顔で腕を組み、指先だけを器用に突き出して喜多川を指し示した。
「それはそこの彼だろ」
「なんで」
「あの子いつもああなんじゃないの」
「あー……」
 記憶を探るような間を置いた後、喜多川はやや困った様子でこたえた。
「そうだったか?」
「知らないよ!」
「俺らに聞いてんじゃねーよ!」
「ほんとにオマエは……どうにかなんないのか」
 三方向から同時に入ったツッコミに喜多川がこの上なく不思議そうな顔をするものだから、仕方がないと残りの一人が腕を伸ばす。彼の手は背後から喜多川の両肩に乗せられて、ぽんぽんと慈しむように優しくそこを叩いた。
「ごめんな明智、この子こういう子なんだ」
「それは知ってる」
「だよな」
「やめろ気色悪い」
 乗せられた手を振り払い、喜多川は改めて明智に向き直った。
は普段なら大人しいほうだ。なにか彼女を怒らせるようなことをしたんじゃないのか」
「してない……いや、したのかな。そもそも声をかけたら振り向きざまに一撃貰った感じだったし」
「では、お前の顔が気に食わなかったんだろう」
「嘘でしょ。僕は顔は良いよ」
「言い切りやがった」
 呆れたような坂本の声に、しかし明智は自信深げに髪を掻き上げる。第二の探偵王子なんて称えられるのも分からないではなかったが、坂本はうへえと呻くだけだった。
「まあでも……趣きは正反対だな」
「なにがだ?」
 首を傾げた猫に、屋根裏の主は明智と喜多川をそれぞれ交互に指し示してみせた。
「明智のはさんの好みじゃなかったんだろ」
 特別に思うところなど何一つありはしないだろうに、明智は敗北感を覚えて首を垂れた。
 対する喜多川はこれもまた理由は判然としないが、何故か勝ち誇った顔でふんぞり返る。
 二人の間に挟まれた坂本が半眼で言ってやった。
「それだとあいつが顔で殴る相手選んでるみたいになるだろ。ていうか祐介も前殴られてたじゃん」
「愛のムチというやつだな」
「いやちげぇし、絶対」
「やっぱりそういう趣味なの? うわ……」
 椅子ごと後退る明智に苦笑して、少年はモルガナの隣に腰を落ち着ける。すかさず伸ばされた手を猫の尾が叩き落とした。
 少年たちはそのまましばらく、なんてことのない雑談に興じた。
 そうしていると彼らはまるで、どこにでもいるありふれた高校生で、気の置けない友人同士のようだった。


 日をまたいだ翌日、指定席でいつも通り二人は差し向かって昼食を取っていた。
 最中、はカバンから一つのUSBメモリを取り出して、喜多川に差し出してやる。
「はいこれ」
「食べられそうにないが」
「食べないで、双葉に渡して。唐津のパレスで昨日歩けた範囲を図面に起こしたから一応渡しておこうと思って。お宝の位置まではまだだから、また入れたときに追記するよ」
「なるほど」
 受け取って、喜多川はしげしげとそれを眺める。
 やがて彼は好奇心とともに問いかけた。
「殴ったのか」
「え?」
「明智だ」
「……バレたか」
「本人が言っていた」
「おしゃべりだなー……」
「そうだな。だが……」
 喜多川はなんとも不思議な感情を湛えた表情をつくる。
 喜んでいるようにも、悔しがっているようにも、怒っているようにも見えたし、悲しんでいるふうでもあった。
 なにゆえそんな捉えきれない感情を湛えているのかを掴みきれずにが首を傾げると、彼は声を押し殺してその疑問にこたえた。
「楽しかった。まったく不覚だった」
「明智吾郎と話すのが?」
「ああ。竜司もそのように言っていた。何も言わなかったが、おそらくはリーダーもそうだろうな。こんなことでは、双葉と春に申し訳が立たない……」
 己の不覚を呪うように下唇を噛む少年に、しかし少女は笑ってみせる。
「第二の探偵王子なんて言うけど、言い得て妙だね。確かに彼の探偵の部分はイカサマかもしれないけど、王子の部分はきっと彼自身の魅力によるものだ。弁舌という点においては、間違いなく彼は人より優れている」
「だから仕方がない、と?」
「やるべきことがあるとしても、そこに楽しみを見つけるのは悪いことじゃないとおもう。あの二人だってそれを咎めたりしないよ。それに、私も彼と話すのは楽しかった」
「え」
「彼、時代小説にも造詣が深くてね。まさか同い年の子と週間佐伯について語り合えるなんて……」
 うきうきとした様子で足をバタつかせる少女に、喜多川は目を眇めて唸った。
「馴染みすぎだろう」
「そうかな。油断を誘うという意味では上手くやれたと自画自賛していたんだけど」
「そうだが、そうではなくて」
 なにかを訴えかけようとして、しかし言葉が見つからないと手を躍らせる少年に、は意地悪く目を細めた。得意げに鼻を鳴らし、背筋を伸ばして、まったく珍しいことに彼を見下ろしながら言う。
「やきもちかな? ん?」
 からかうような調子である。そんなわけがあるかと否定されることを前提としている台詞だった。ほんの僅かに肯定されることを期待している気持ちがないわけではなかったが、彼女の中ではこれは全くありえないことだった。
 少年はなにかに納得したように手を打ってこたえた。
「それだ」
「ん?」
「俺は嫉妬している」
「は?」
「明智吾郎に」
「なんで」
「それは……」
 言い淀みながら、彼は指折なにかを数え始める。それは片手では足りず、両手に至って折り返し、やがて彼は数えること自体を諦めた。
「もう大分長いこと、お前とここでしか話ができていないじゃないか」
「この間一緒にカフェに行った」
「あれは怪盗団の活動の一環としてだろう。個人としては……もうずいぶんお前と過ごしていない」
「ここで一緒にご飯食べてるよ」
「そんなのは前からそうじゃないか。それ以外の時間を得られていないと言っているんだ」
「まあ、そうだね。うん。確かに」
「だろう?」
 意外な展開にまばたきを繰り返す少女に、少年は勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
 かと思えば、塩をふられた菜っぱのようにしんなりとして俯いて、じっと彼女を見上げてくる。
「退屈というわけじゃない。仲間の内に優劣などあるはずもない。ただ……俺は、フォックスとしてではなく、俺個人として……喜多川祐介として、お前と過ごせないのが寂しい」
 応えられずにいるうちに、彼は静かに言を重ねる。
「だというのに、明智はお前と趣味の話をする時間を得られている。これに嫉妬せずにいられるか?」
「そんな、子供みたいな」
 やっとのことで言い返すが、彼はどこか拗ねたような顔を見せるばかりだ。
「わがままを言っている自覚はある。だが、これが通るのなら子供で構わん」
 というより、事実俺たちはまだ子供じゃないかと結んで、喜多川は手の中で空になった惣菜の袋をくしゃくしゃに丸めて潰した。
 のほうも、気がつけば弁当箱はとっくに空になっている。
「ええと、つまり、きみは私と遊びに行きたいと?」
「そうだ」
「今は無理だよ」
「解っている」
「我慢しなさい」
「限度というものがある」
 膝の上に広げていた箱や箸やらを包みにくるむ手は落ち着きがない。彼女は明らかに動揺していた。しないわけがなかった。
「どうすればいいの」
 心底参った様子で吐き出された言葉に、喜多川はごみをポケットに押し込みながら思案する。
 最善は放課後にでもどこか二人で遊びに行ければいいのだが、監視の付きまとう現状これは不可能と言っていい。喜多川とて怪盗団の活動に支障をきたすのは本意では無かったし、なによりのほうが監視に気がいって落ち着けないだろう。
 かといって深夜になってから連れ回すというのもいただけない。そもそも夜は眠いものだし、彼女を危険な目に合わせるような真似はなんであれしたくなかった。
 結局、現状怪盗団が抱える問題を解決しない限り校内から出ることは出来ないのだ。
 ならばここで不足分を充填させてもらえばいい。
 結論にたどり着いて、少年はに向き直った。

「はい」
「少し動くな」
「なん……」
 有無を言わせずに腕を伸ばし、膝の上の弁当包を取り上げて彼女の向こうに置いてやる。続けて、包みを抱えていた格好のまま、言いつけ通りに硬直している手を払いのける。
 呆然とした少女の膝の上がすっかり片付いたのを確認して、そこを枕に喜多川は身体を横たえた。
「五分前になったら起こしてくれ」
 言い放って目を閉じる。
 はもはや言葉もなく頷く他なかった。
 以前もこんなことがあったが、しかしあのときとは状況が違っている。いつどこから誰が現れるかもわからない場所でこんなことをしているところを目撃されては、あらぬ誤解を招くやも知れぬではないか。
 それとも、誤解をされても構わないということだろうか? それは誤解されたところで彼が気にしないというだけなのか、はたまた相手では誤解すらされないだろうということか、あるいは……誤解ではないと言いたいのだろうか?
 は大きく首を左右に振った。
 そんな都合のいいことがあってたまるかと己を叱りつける。
 この才気に溢れた少年が自分のような凡庸な者を好きになるなんてあるわけがないじゃないか、と。
 そうとも、彼は元来感情表現が少し人と違っているところがある。そういう部分に惹かれているのだが、こういうときばかりは戸惑うものだ。ついつい勘違いをしそうになる。
(けど、でも……)
 そうであればいいのに。
 思いつつ手を伸ばす。すでに穏やかな寝息を立てる彼の、艶やかな黒髪に触れて撫でてやる。
 それだけでここのところ積もりつつあった心労が解けて消えていくのが分かる。
 彼がねだったことであるのに、褒美を与えられているのは己のほうではないかと思い、は静かに喉を鳴らした。
 左腕に巻いた腕時計に目を向ける。彼を起こさねばならない時間までにはまだ十分ほどの猶予があった。
 また癖のない黒髪をゆっくりと撫で下ろす。
 指先に伝わる感覚と膝の重みに、彼女は確かな幸福を感じていた。

 新島冴のパレス攻略が完了したのはその三日後のことだった。
 二日後に強制捜査が入るから、本当に期限ぎりぎりの決着だった。とはいえまだ予告状とお宝の奪取が残っているし、その後の大きな仕掛けの発動もある。やるべきことも懸念もまだ山積みと言えた。
 それでも、一息つくことが出来たのは僥倖だ。少年たちは安堵して胸を撫で下ろし、そして思う。
 これでのほう―――Kもなんとかしてやれるだけの時間がとれるだろう、と。
 できれば新島冴のパレスを出てそのまま完了を伝えてやりたかったが、ここまで来て些細な原因で失敗することは許されない。また翌日の学校で首尾を伝えるようにと決めて、少年たちは解散した。

 同じ頃、はまた師子の園へボランティア活動と称して潜入任務―――園内の掃除を請け負ってあちこちを掃き清めていた。
 しかしその手は止まりがちで、気もそぞろと言わんばかりにおぼつかない。
 原因は彼女のポケットに入ったスマートフォンだ。
 正確に言えば、その機器に内蔵されたブラウザによって昨晩確認した一つのサイト内コンテンツ―――怪盗お願いチャンネルの掲示版、今や罵詈雑言に溢れたその中に紛れるように残された一つの書き込みだ。
 誰も気に留めないような、したとしても誤爆と疑うような一言。
『たすけて、ブレイド』
 名無しとして書き込まれたそれは多くの者にスルーされ、やがてチャットのように高速で流れるログの中に埋没していった。
 ただ一人、『ブレイド』である彼女だけがこれに注目して心に留めた。もしかしたらKかもしれない、と。
 そしてこの日、師子の園のどこを見回しても彼の姿は見当たらなかった。
 施設職員に聞いても梨の礫で、やんわりとはぐらかされるばかりだ。同じボランティアの学生に問いかけても、そういえばと言われて初めて気がつく程度。
 気もそぞろになろうというものだった。
 もしかして私はしくじったのか? 怪盗団の保身のために足踏みをしている間に、人一人の命が失われるのを見過ごしたんじゃないのか?
 私が身勝手な幸福に浸ってふわふわとしているとき、あの子はどんな想いで助けを待っていたんだろう?
 とても正気ではいられなかった。
 活動の終わりとともに和光圭太少年が通う学校に連絡を入れ、登校状態を確認する。電話口の事務員は渋ったが、施設にも帰っていないことを告げると二日前から体調不良を理由に休むと施設のほうから連絡があったと答えた。
 この矛盾に事務員が不審を訴えるが、は答えることなく通話を断ち切った。
 二日前から登校していないだって?
 施設内にも姿がなかったというのに、それならば彼はどこに消えたと言うのだろうか―――
 思い悩むの前に一台のセダンが停まったのはその時だった。
「やあ、お嬢さん。聞いているよ、本当にボランティアとして来てくれているんだね」
 運転席のドアウインドウを下げて声をかけてきたのは、他でもない唐津壮一その人である。まるで狙いすましたかのようなタイミングに、少女はしばらくの間ぽかんとしてしまう。
「子供たちの相手は大変でしょう、みんな元気が有り余っているから。良くやってくれていると職員のみなさんも褒めていたよ。本当に感心なことだ」
 言わんとするところを探るのに必死になるが言葉を返せずにいるうちに、唐津はますます饒舌にまくし立てた。
「それとも、下見を兼ねてもいるのかな。ある伝手から君の身上を聞いてね、それでもしやと思ったんだ。君が望むのなら、私たちはいつでも歓迎するよ」
「なにを……」
「君のお友達もね」
「は……?」
 は息を呑んで凍り付いた。
 目を見開いた少女に、唐津は目を糸のようにしてこたえた。
「彼だよ。斑目一流斎の愛弟子だったってね。実際には、ひどい扱いをされていたんだろう。寄る辺を失って、生活も困窮しているんじゃないか」
 ゾッと背筋を登るものを覚えて、は身体を震わせた。
 考えてみれば当然のことだ。どんな形であれ、施設に入る以上ある程度の個人情報の提出は求められる。だから、に対する発言は想定内のことだ。不快感は強いが、耐えられる範疇内である。
 しかし明らかに喜多川を指して言及されるとそうもいかなかった。
 彼はどこで、どうやってこちらの交友関係を探ったのか―――
 正体不明のおぞましさに血の気が引き、そして目の前が赤く染まるほどの憤怒が湧き上がる。
 確かに、唐津の言う通り彼の生活は困窮していると言っていいだろう。それは彼の無計画さだとか奔放すぎる金遣いが原因と言える。慎ましく生活してくれれば十分事足りるはずなのだ。
 けれどは彼にそれを改めて欲しいとは思わない。もちろん苦しむことがなければそのほうが良いとは思うが、は何が一番彼の生活を圧迫しているのか知っている。
 日本画はとかく金がかかる。画材一つをとっても素人が軽い驚きを覚えさせる程度には。
 それでも、『これ』は彼のほとんど全てだ。人格の中枢であり、心の芯であり、彼という人物を彩るものの内の中心と言っていい。
 そしてはよく知っている。
 彼が頑固で、傲慢で、自信過剰で、まったく不遜な人物であることを。己の才能を疑うことなく、疑ったとしてもひたむきに夢に向かって突き進む者であることを。
 そのとき、決して他者の手を欲したりしないのだということを。
 潔癖と言うこともできる。成り上がるためには多少のコネを利用せねばならないことも身をもって知っているだろうに、己の才能だけで押し通すつもりでいるのだから。
 唐津が言っているのは即ち、これらに対する侮辱に抵触している。
 おそらくこの男は、己の後ろ暗い部分の一端を目撃したを調べるうちに彼女の素性を知り、己が養育するに相応しい人物として捉えたのだろう。そこからどうやったのか喜多川にも目をつけた。正しくは彼の才能という一点に。
 それは慈悲の心からではなく、彼のその才能を利用してやろうという魂胆だろう。画壇の世界にも手を伸ばし、安寧を図ろうと……
 少女は一歩前に進み出て男に対峙した。
「必要ありません。私にも、彼にも。北を背に、南を見るのが彼のやるべきこと。誰にもその邪魔はさせない」
 その瞳が怒りに燃えているのを見て、唐津は小さく鼻を鳴らした。
「それは君が決めることじゃない」
 かっと頭に血が上るのがよく分かった。彼の言うことがまったくその通りだということも。そしてまた、彼が己を挑発し、怒りを煽っていることもよく分かっていた。
 それでも、続く言葉に掴みかかろうと伸ばした腕を止めることはできなかった。
「そうやって圭太君にも妙なことを吹き込んでいるのかね。彼の将来を閉ざすような真似はやめなさい」
「それは―――あなたが―――」
 言っていいことじゃない。
 震える拳は、しかし唐津の思惑通りに動く前に何者かによって遮られた。
「やめておきなよ」
 声とともに腕を掴まれて、は彼を見、そして驚愕を示す。
「どうしてここに……」
「君のことが心配になってね」
「冗談でしょう」
「うん」
 少女は勢いよく掴まれていた手を振り払って一歩後退った。
「おや……明智くんじゃないか」
 唐津が意外そうな声を上げる。その通り、そこに立っていたのは明智吾郎に他ならない。は俯いて歯を噛み、彼らの代わりに己のつま先を睨みつけた。
 恨み言めいた言葉が口をついて出そうになるのをこらえ、震える腕を痛みを感じるほどに握りしめる。
 やがて一言二言を交わしたかと思うと、セダンは静かに園の敷地内に消えて行った。盾壁のように施設を囲む外壁そばには、俯いたままの少女とにこやかに唐津を見送る少年だけが取り残された。
「君って本当に手が早いんだね。暴力的なのってどうかと思うな」
「うるさい」
「女だから男だからなんて言わないけど、やっぱりお淑やかにしていたほうが喜ばれるものなんじゃないの」
「うるさいっ」
 言葉そのものを払うように振り回された鞄に、明智はたたらを踏んで後退る。彼はいつも通り、楽しげに笑っていた。
「おっ、と……本当に乱暴だなぁ。君っていつもそんなに怒ってるの?」
「あなたには関係ない!」
 棘のある言葉と声量を涼しげに受け流して、少年は然りと頷いてみせる。
「そうだね。でも、それは君もそうだろ」
「なにを……」
「だってそうだろう。君が必死になる必要がどこにある? 君が助けようって頑張ってる子は家族でも親戚でもないんでしょう? ただすれ違っただけの相手に、なにをそんなに躍起になっているんだい?」
 大仰な身振りとおどけた語り口は道化師のようだった。
「諦めろよ。君は精一杯やった。見知らぬ他人のためにこれ以上傷つかなくったっていいじゃないか」
 それは諫言であり、甘言でもあった。状況に焦燥感を募らせるただの女の子を跪かせるには充分な効力がある。
 例えるならゴールにたどり着いた長距離走者に差し出された一杯の水であり、断薬を続けてきた麻薬中毒者に差し出されるコカインだ。
 この誘惑に抗える者は多くない。薬物の乱用による中毒とはそういうものだ。だからこそ中毒者の更生には多くの支援が必要となり、その戦いは命が終わる日まで続く。たとえ知識としてそれが毒だと、社会通念上禁止されているものだと理解していても手を伸ばしかねない快楽との戦いだ。
「君は十分頑張った。誰だって君を褒めるだろうさ。たとえしくじったとしても、やろうとしたことそのものを誇りに思っていいんだ」
 彼はまさしくそのようなものだった。
 よく回る舌は優れた弁舌の証である。それは人を喜ばせ、魅了し、突き落とす。まさしく彼こそがかつぎ屋であった。
「もうじき僕の仕事も完了する。そうしたら、君の信じたものはすべて崩れ落ちるんだ。君が賢明なら、もうこれ以上こんなことに関わるのはやめて、家に帰るんだ。君の母親も、君を案じているんじゃない?」
 そしてこのかつぎ屋はしくじった。
 母親と言われた瞬間に少女の頭を過ったものは、他でもない仲間たちの姿だった。差し伸べられた救いの手が否応なく彼女を引きずり上げ、彼女だけでなくその母親も結果的に救い出した。
 なんの見返りも無いというのに、血を流し、命を賭けて―――
 そして彼らは勝利した。勝利こそが彼らにとっての報酬だった。そしてそれは、今や彼女にとっても。
 は顔を上げて明智に目を向けた。彼はいかにも心配していると言いたげな顔をして少女を見下ろしている。
 そうじゃない、と少女は漠然とした想いを抱く。
 私たちを引っ張り、引きずって、振り回してきたあの少年は、こんなとき同情を寄せたりしないだろう。心配して肩を抱き寄せたり、隣で涙を流したりもしない。
 きっと彼ならそんな姿を嘲笑いこそすれど、決して諦観を訴えたりはしない。ただ静かに言うだけだ。
 心の中にある彼の姿とともに唱える。
「こんなところで諦めるわけにはいかない」
 明智は怪訝そうな顔をして首を傾げた。
「どうして?」
「無様な姿を見せたくない」
「誰に?」
「それこそ、あなたには関係ない。ただ、彼なら、こんなところで諦めたりしない」
 誰のことを言っているのかと明智は問わなかった。ただ目を細めて、静かに少女を見下ろしている。
「あなたの言う通り、今日は帰る。それじゃあね」
 踵を返した少女の背は小さくか細いが、確かな決意が宿っているように見えた。
 少年はそれを見て、気付かれないほど小さく喉を鳴らした。
「そう。じゃあね」
 足を引きずるようにして遠ざかる姿を外壁に身体を預けて見守る目には好奇心が瞬いている。
 彼はおもちゃ屋の棚の高いところにある高級な―――最低でも三千万はする玩具に目を輝かせている。
「また後で」
 それを得るために梯子を用意する必要はなかった。棚そのものを破壊すれば、自ずとそれは落ちてくる。
 彼は少しそれを想像して、つまらなそうに鼻を鳴らした。
 おもちゃを手に入れて喜ぶような歳でもないな、と。
 そしてまた呪文のように呟いた。
「勝つのは僕だ。どんなときだってね」
 サイドベットを仕掛ける少年はご機嫌な様子で、生まれた頃に販売され始めたCUV車のコマーシャルに採用された楽曲を口ずさんだ。
 俺は法と戦い、そして法が勝ったんだ…… その通り。彼の世界では彼こそが法であり、正義の執行者である。


 この国の首都、その副都心の一つとして数えられる新宿の歓楽街、その内に佇むバーの一つに、一人の女と一人の少年が並んで腰かけている。
 開店したばかりの店内に客の姿はなく、カウンター席の二人は誰に憚ることもなく何事かを語り合う。
 少年の言葉に逐一メモを取っていた女―――大宅一子は、話を聞き終わるなり大仰なため息をついた。
「最近は怪盗団ネタもちょっと受けが悪いんだよねー……」
 ほら、こんな状況じゃん? 悪びれもせずに手をひらひらとさせる彼女に、カウンターの向こうでグラスを磨いていた大柄なバーの『ママ』がやれやれと首を振る。
「どいつもこいつも、って感じね。人の言うことに踊らされて、少し前まであれだけ囃し立てていたっていうのに」
「そんなもんだってぇ」
 けらけらと笑って手元のウィスキーを煽る。大宅の頬はすでに酒気によってほんのりと赤く染まっていた。
 対する少年の前には同じ色の液体がある。もちろんそれは烏龍茶だ。アルコールに興味はあるが、厳しい『ママ』が決してそれを許さなかった。
 唇を湿らせるようにちびりと茶を一口、少年はカウンターチェアを小さく鳴かせて大宅に向きなおった。
「それなら、こういうネタはどう?」
 言いながら、普段ならば相棒が収まっている鞄に手を差し込む。音もなく取り出されたのはB5版の分厚い封筒だった。
「あーん? なんだそりゃ……」
 差し出されたそれを受け取り、怪訝そうな顔で収められたものを吟味する。女の顔からは一瞬で酒精が逃げ出していた。
「おいおい……どっからこんなもん……」
「情報提供者の名前は明かさないのがマナーだろ?」
 おどけた様子の切り返しに、大宅は苦み走った笑みを浮かべる。
 封筒の中身はどこかしらの公的組織内における経費詐取……とみに機密性の高い組織の名と、これを行った者の名が実名で記されたコピー用紙だった。
「キミもほんと、危ない橋を渡るのが好きだねぇ」
 少年は肩を竦めて悪戯が成功した子供のような顔をしてみせる。
「そういうところを通らなきゃ手に入らないものもあるから」
 発言はどこか大人びていたが、大宅から見ればそれもただの背伸びでしかない。
 女は鼻を鳴らして失った酒気を取り戻そうと酒に手を伸ばした。
 そして戯れに問いかける。これは彼女の失態であった。
「例えばなによ?」
 少年は少しだけ考えて、それから女の顔を、瞳をじっと見つめて顔を寄せて答えた。
「一子」
 妙齢の女は、子供であるはずの彼の言葉に頬を赤く染めて返すべき言葉を失った。カウンターの向こうで『ママ』までもが頬を染めて感嘆の声を漏らしている。
 それを見て満足げに身体を引き、少年は莞爾と笑う。からかっているのか本気なのか、大宅には解らなかった。
「実際のところ、大きな騒ぎにして欲しいわけじゃない。ただ一日か二日、浮足立たせられればそれでいい」
「んな……~~~っ、い、い……」
「い?」
 女はびっと指を突き出して強かに少年の眼鏡の山を器用に突っついた。
「いったぁ!」
「一子さん、だろうが! このガキぃ!」
「やめて! 跡が付く! 痛い痛い! ごめんなさい!」
「ちょっとぉ、埃が立つでしょう。騒がしくするんなら二人とも出てって頂戴!」
 立派な体格をした『ママ』の胴間声に、二人はぴたりと動きを止める。
 ブレイクタイムと言わんばかりに居住まいをただし、二人はしばし呼吸を整える間を置いた。
 やがて押し込まれた眼鏡の位置を調整するようにつるを押さえる少年に、大宅はぐいっと酒をあおり、グラスをカウンターに叩きつけて高々と宣言する。
「ったく、仕方がねーな……アタシもその危ない橋とやら、渡ってやんよ」
 少年はにっこりと笑って片目をつぶった。
 不格好なウインクに、しかし女は口をへの字に曲げて顔を逸らし、二杯目を要求する。
「ンもう、ほどほどにしなさいよ」
「うっさい! いいからさっさと寄越せっ! 素面でできるかこんな仕事ォ!」
 荒れ狂う悪魔の前に二杯目が供される。少年は興味深げにそれをしげしげと眺めた。
「あなたにはまだ早いわよ」
 すかさず『ママ』のお叱りが飛ぶ。肩を縮こまらせた少年に見せつけながら、大宅はいかにも美味そうに酒を喉に流し込んだ。
「美味しい?」
「そーね。お子様にはまだ分かんない味がするよ」
「ふーん」
 茶を一口。少年は大宅の前に置かれたグラスに手を伸ばし、飲み口を指でなぞった。
 そして言う。
「分かるようになったら付き合ってくれるか」
 それは酒の席のことを示唆しているようでも、男女の付き合いを示唆している様子でもあった。
 大宅は今度こそ打つ手を失い、完全に凍り付いて瞠目する。
 カウンターの向こうでは、『ママ』がハンカチを片手に涙を拭っている。
「やっといっちゃんにも春が来たのね。ああよかった、このままウチで延々管を巻き続けると思ってたわ……」
 怒号が店中に響き渡ったが、盛りを迎えつつある歓楽街の中にあってその騒がしさは囁き程度にしか受け止められなかった。