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⚠性別反転もの注意⚠地下へ地下へと続くメメントスの道中、怪盗団は奇妙なシャドウと交戦状態にあった。
見た目こそこれまで戦った覚えのある姿をしているのだが、動きが違っている。苦戦するほどではないが、これまでの勝利経験がかえって仇となり戦闘を長引かせていた。
「なんっか、いつもと、違うっ!」
ボヤきつつも鞭を振り、シャドウを叩き割ったパンサーが吠える。
「あと二体! ちゃちゃっと片づけちゃって!」
これを受けて素早く動き出したのはブレイドである。剣先で地を引っ掻きつつ低い体勢のまま疾走する彼女の姿はほとんどメメントスの闇の中に溶け落ちてると言っていい。シャドウはその接近にまったく気が付かぬまま、首を切断されて崩れ落ちた。
「ふーっ! いいぞブレイド!」
歓声を上げるナビの声に笑みを浮かべ、ブレイドは身を起こして呟く。
「あとは頼むよ」
「承った」
応えたのはフォックスだ。場所を譲るように道を開けたブレイドの脇を通り、シャドウに肉迫して刀を抜き放つ。
再び刃が鞘に収められたときには既に、シャドウの体は大きく傾いでいた。
「俺たちの勝利だ」
鬨の声を上げるその視界には、しかし妙なものが映り込んでいる―――
彼に向けて拳銃を構えたジョーカーの姿。その口元は妖しく歪んでいた。
発砲音が薄暗い回廊に鳴り響いた。
……倒れたのは最後の力を振り絞り、フォックスの背後に迫っていたシャドウである。
硝煙に息を吹きかけながらジョーカーはしたり顔を浮かべた。
「詰めが甘い」
「ほんの粗相だ。口喧しくするな」
拗ねたように唇を尖らせるフォックスの姿にまた笑い、ジョーカーは全員の姿をぐるりと見回す。長引きこそすれこれといった損害はないと見て、ジョーカーは踵を返して歩き出した。
「行こう。モナ、頼む」
「あいよ」
ひらりと手を振って合図するジョーカーに応え、モナがその身を車に変じさせようとしたまさにその時、ナビの警報が彼らを突き動かした。
「なんだこれ……!? やばっ、ジョーカー避けろ!!」
真っ先に動いたのはブレイドだった。彼女は前線に居て、警告の理由をその目で見て理解していた。
倒れて溶け落ちたはずのシャドウの身体が大きく膨らみ、ひしゃげ、弾ける―――
その瞬間の彼女の思考を言語化するのは容易ではなかった。ただ、少なくともこの身が砕けようとジョーカーが無事でさえいてくれれば怪盗団の活動に支障はないだろうし、蘇生もしてくれるはず。なにより怪盗団の面々を見回したとき、最も苦痛に慣れているのは自分だろう。
このように思い、彼女はジョーカーの盾になるようにシャドウとの間に立ち塞がった。
しかし―――
ぼん、と間の抜けた音が鳴り響き、シャドウを中心とした半径二メートルほどが薄紫色の煙で包まれる。
煙に巻かれた者に苦痛は訪れなかった。ただ、やたらと甘ったるいにおいにむせ返る。
煙から逃れていた者はそれが引くのを見守るしかない。ほんの数秒、固唾を呑んで待つことこそが最上の苦痛だった。
やがて―――
「おっ、おまっ、おっ、お前……ジョーカー! ジョーカーが!」
「えっ? フォックス、よね?」
「ぱぱぱ、パンサー! なんてことだ!」
「まあ……ブレイドなの?」
「ひえっ、なんだこりゃ……!?」
スカル、クイーン、モナ、ノワール、ナビが三者三様に言う。
言われた方は何事かと己の身体をそれぞれ見下ろしたり触れたりするのだが……
まず、ジョーカーが己の胸を撫でる。
そこには柔らかな感触があった。こんな心地よいものに触れた覚えは彼の生涯に今まで一度だってなかった。
次にフォックスが視界に落ちた髪をかき上げる。いつもならばすぐに指の間を抜け落ちていくそれは、しばらく絡んでほどけ落ちることはなかった。
またパンサーは己の身よりも周囲の者を気遣って視線を右に左にとやる。しかし、普段ならばあるはずの高さに皆の顔が見当たらない。ただ視界の下方につむじが見える。
最後にブレイドが自分の二の腕を掴んだ。そこには骨の感触も脂肪の感触もなく、筋張った手触りだけが返された。
「なにこれ」
間の抜けた声を上げたのはジョーカーだ。
彼は右を見てパンサーを探したが、そこに居たのは金の髪と翠の瞳、真紅のボディスーツに身を包んだ背の高い美少年だった。
誰だと思いつつ左を見やる。そこにはフォックスが居たはずだが、代わりに狐面を被り、黒髪を腰まで伸ばしたスレンダーな体つきの女が立っている。
彼は最後にブレイドが立っていたはずの方向に目をやった。そこには痩躯を中東風の民族衣装に包んだ少年が居る。
納得して、ジョーカーは再び己の胸に手を当てた。柔らかい。
「誰か鏡持ってるか?」
これにノワールが応える。彼女はどこからか手鏡を取り出し、にこやかに手渡してくれた。
己の顔を覗き込んだジョーカーが見たのは、緩やかにウェーブした黒髪を鎖骨の辺りまで伸ばした少女の姿である。
なんの迷いも躊躇もなく、その手が仮面を取り外す。現れたのは一般的に可愛いと表現して差し支えのない顔立ちだ。ジョーカーはガッツポーズを取り、何故かスカルに向かってウィンクをした。
「やはり俺は女になったら美少女だったな」
「そういう場合じゃねーから! マジで! ほんっとマジで!」
「い、い、いやーっ! やだやだやだーっ! 私っ、これ、嘘でしょ!? お、男になってるぅ!!」
ジョーカーの頭の上から鏡を覗き込んだパンサーが弾かれたように悲鳴を上げ、己の体を抱きしめる。くねくねとしたその所作は、普段ならば可愛らしさと妖艶さの中間の印象を周囲に与えたろうが、彼女―――彼が語る通り男の体に変じた今、一種の滑稽さと不気味さを醸し出していた。
それを見て、ぽんとフォックスが手を打った。彼―――彼女はいつも通りの冷静さ、あるいは天然さを発揮してのんびりと言う。
「ああ、そういう事か……」
もしかしたら事の重大さを理解していないのかもしれない。あるいは、この者であれば性別すら大した問題では無いのだろうか。利き手さえ残れば焦る事なんてないんじゃないか。そのように周囲の者に思わせるには充分だった。
さて、ブレイドはそんな二人を見て、困ったように笑い、己の体をまさぐってみる。
少しだけ悲しげに彼女は言った。
「私はあんまり変わらないかな……」
声には哀愁が滲んでいる。とは言えその目線の高さは縮んでしまったフォックスの肩に至っているから、かなり背が伸びている。
「なんでそんなに冷静なの!? わ、わ、私、どうしよう、こんなのヤダ―――」
動揺し、怯え、目に涙を溜めるパンサーの姿は仮面があったって誰もが見惚れるほどの美少年である。
しかし見惚れるばかりではいられないのは、他でもないモナだろう。彼は頭を抱えて、千差万別の反応を見せる少年らに言った。
「おおお、落ち着けオマエら! 大丈夫、なんとかなる!」
彼自身がちっとも落ち着いていない。あわあわと両手を振る姿は愛らしいが、しかしそれだけだ。
スカルがこれ見よがしにため息をついた。
「お前が一番落ち着けよ……つーか、なんとかなるってどーすんだよ? このままじゃ帰れねーだろ」
モナは思い切り顔をしかめてスカルを睨みつけたが、されたほうは一顧だにしない。それにこそ怒りを覚えて尾を立てるが、それもナビの言葉にかき消された。
「多分、認知の歪みの一種だな」
己に一斉に視線が集まったことにナビはひっと喉を引きつらせてジョーカーの背後に隠れるが、普段ならばそれですっぽりと収まるはずの背中は今、細く小さく変化してしまっている。ナビは呻きながらその身体にしがみつき、耳に囁きかけた。
「ぼそぼそ」
「近頃の怪盗団の活躍に、愚民どもは更に我々に注目するようになってきた」
言ったのはジョーカーである。彼女はナビのスピーカー役を任じられて更に続けた。
「そうなると皆、怪盗の正体を知りたがって、あれこれと想像する」
「ぼそぼそ」
「その内大衆の中に共通した幻想が生まれる。例えば、怪盗団のリーダーは乳と尻がデカい美少女―――」
言葉にジョーカーに視線が集中する。なるほど確かに、豊満と言ってよい体つきだ。
「ぼそぼそ」
「一人くらいは白眉の美少年もいるだろう」
次いでパンサーに。彼女―――彼は間違いなく、百人がすれ違えば百人が振り返るような美形だった。
「ぼそぼそ」
「スレンダー系の美女も頼む」
フォックスに。ふむと唸って腕を組んだその体は確かに細作りな、しかし女の魅力を湛えたつくりになっている。
「ぼそぼそ」
「ショタキャラも外せない」
ブレイドは思い切り顔をしかめた。しかしそこに注がれる視線は納得の色を含んでいる。
「ぼそぼそ」
「思い込みも、極まれば現実に成り得る場合がある。大衆のこうあって欲しい、こうであるはずだと言うバイアスを通した姿が今のお前たちだ」
「でも、それなら……」
疑問を呈したのはクイーンだ。彼女は律儀にも挙手までしていた。
「私たちが変わらなかったのは?」
「それは」
ひょこ、とジョーカーの影から顔を出してナビ自身が答える。
「単に回避出来たか出来なかったかの、差」
……己の失態を初めて認識して、性別の反転した者たちは顔をしかめる。
要するに、ポカをやらかしたせいだと言うことだ。
何とも言えない苦み走った空気に、パンサーが涙目で訴える。
「でもっ、じゃあ、私たち、一生このままなの……?」
これにナビは首を左右に振った。
「いくら思い込んだからって、現実でマジのガチに性別が入れ替わるなんてありえない。こうなったのは、ここが認知の歪みが大きく現れる場所だから」
「つまり―――?」
「メメントスから出れば戻る」
ぱあっとパンサーが表情を明るくさせた。
「そっ、それなら、早く戻ろう!? 私こんなの絶対にやだっ!」
「う、うむ。よしジョーカー、一度引き返すぞ」
振り返ったモナに、しかしジョーカーは不満げな顔を見せる。
「戻れるのならもう少し遊びたい」
「バッッッッカかお前は! パンサーが嫌がってんだろ! ていうか、メメントスは遊びじゃねえっ!」
怒鳴りながらも跳び上がり、空中で三回転。モナは車に変じて彼をさらに叱りつけた。
「さっさと乗れ! 今すぐっ!」
「ちぇっ」
しぶしぶと運転席に乗り上げる彼に倣い、仲間たちもモルガナカーに乗車する。
しかしいざや行かんとモナが気合を入れたときになってジョーカーが言い出した。
「ペダルに足が届かない……」
ニャンてことだ、とモナは言いはしなかったが、しかし脱力して車高を僅かに下げる。
「右っ側にシートの位置を調節するレバーが有るはずだ。……ちがぁう! それはリクライニング! んにゃっ、うひゃはは! 変なとこ触るんじゃねえよぉ!」
「ああもう、ジョーカー変わって。私が運転する」
クイーンによって運転席から蹴り出されたジョーカーは後部座席へ。運転席には彼女が収まり、助手席ではパンサーが膝を抱えてうずくまっている。
ほどなくしてモルガナカーは走り始めた。
ノワールの隣にどっかと腰を下ろしたジョーカーではあるが、その表情は不服そのものだ。見咎めたスカルが窘めるようなことを言い出すのも無理からぬことであった。
「ジョーカー、その顔やめろ。マジで状況分かってんのか?」
「そっちこそ。こんな経験、逆立ちして全裸で走り回ったって一生できない。スカルも浴びれば良かったのに」
「縁起でもねぇこと言うなッ!」
スカルの顔は怒りとおぞましさに染まっているが、しかし三列目の座席から混ぜっ返すような声が飛ぶ。
「そうだぞジョーカー。スカルの女体化なんて……おえっ、クリーチャーを産み出すようなもんだ」
「あっ、ナビてっめ……俺だってなぁ、そうなったらこいつなんて目じゃないレベルの美女だっつーの!」
また三列目から声が飛ぶ。今度はフォックスが。
「それだけはありえん。絶対に。この世の滅びが訪れたとしてもありえん」
「規模でっけえなオイ!」
ひじ掛けを強かに叩いて体ごと後ろにふり返る。ナビもフォックスも、明らかにからかって楽しんでいるような色を湛えて笑っていた。
「でも、ちょっと楽しそうね」
言ったのは二列目シートでジョーカーとスカルに挟まれたノワールだ。右を見て、左を見て、バックミラーに映ったパンサーとクイーンを、それから後ろを振り返って手を合わせる。
「ふふっ、私が男の子になったらどんな感じかな?」
「ノワールがかぁ……ストレートに美少年系か、奇をてらって男の娘系か……?」
ふうむと唸ったナビの言葉に、ブレイドとフォックスが首を傾げる。
「男の子は別に奇をてらってないんじゃ?」
「うむ」
「いや漢字が違う」
「完二?」
「誰だよっ! もー日本語ってめんどくさい……」
シートの上であぐらをかいたナビの膝をみっともないと叩きつつ、ブレイドは憂鬱そうなため息をもらした。
「ブレイド、どこか悪いのか?」
ジョーカーとノワールが座席の横から顔を覗かせて問いかける。ブレイドはその座席からはみ出してちらりと見える彼女たちの体の一部分を一瞥してからふっと虚ろな笑いを漏らした。
「どこというか、全体的に悪い」
「大丈夫? 痛みがあるの?」
「そういうのではないよ。大丈夫」
「せっかくだ、楽しめよ」
「きみには解んないよ……」
ため息を一つ。すると助手席からパンサーが振り返ってこれに加わった。
「ていうか、なんでジョーカーはそんなに楽しそうなワケ?」
これにジョーカーはふむと一つ唸り、再び仮面を取り外した。
「見てくれパンサー」
「は?」
「この顔とプロポーションで楽しくない訳がない」
「意味わかんない」
「パンサーは人生楽しいだろう?」
「は? え、あ、まあ……そりゃ……」
「そういうことだ」
「ん? え?」
首を傾げたパンサーであるが、やがて本来の姿を褒められたのだと気が付いたのだろう、そろそろと座席の影に隠れると再び膝を抱えてうずくまる姿勢に戻ってしまう。
「やべえ、パンサーが陥落したぞ。至急応援求ム」
右隣りのナビに肩を掴まれ、がくがくと揺さぶられてもブレイドはこれに応えなかった。ただじっとナビを眺め
「ショタキャラならナビの方が相応しかったのでは?」と漏らす。
「わたしはそもそも当たらなかったし」
「失態だ……こんなことになると分かっていたらさっさと逃げていたのに」
「んふふ、似合ってるぞブレイド。ほらほら、両手に花なんだからもっと喜べ」
「嬉しくない」
ばっと絡みつくナビを振り払い、窓際に押しやって後退る。すると当然のことながら、左隣に座っていたフォックスに背を預ける形になる。
肩を掴んでこれを受け止めたフォックスを仰ぎ見るその顔はこれ以上ないほど情けない。フォックスは思わずとふき出して、申し訳なさそうに顔を逸らした。
「ふっ、すまないブレイド……ふふふっ、お前は男になっても……本当に変わらんな……」
「フォックス―――それは―――どういう意味―――」
歯を食いしばったまま吐き出された声は怨嗟に満ちている。フォックスは彼をナビに押し返すと、腹を抱えて笑い出した。
背後から溢れる楽しげなやりとりにクイーンは大きくため息をつく。薄暗いメメントスの通路をモルガナのヘッドランプが照らし出し、それ見つめる瞳はただ一人警戒心を忘れていない。まったく不本意ながらも面目躍如であった。
さて、後部座席ではまたジョーカーが取るに足らない馬鹿話を繰り広げる。
「戻ることに異論はないが、せめてもう少し女子の気持ちを体験したい」
「もうお前黙ってろ」
「黙らないぞ! スカル、俺―――いや、わたしに壁ドンしてみてくれ」
「嫌だよ気持ち悪い」
すげない返答にジョーカーはショックを受けたように項垂れる。
「流石に傷つくんだけど……」
「いや、だってお前じゃん。確かに見た目がカワイイことは認めるけどよ、でも中身はお前じゃん」
「ええ……そんな馬鹿な。人は見た目が八割だろう?」
「馬鹿野郎お前ハートだって大事だよてめコラぁ」
「なんで怒ってるんだ? ……わかった、妥協する。頭をぽんぽんしてくれ。そしたら黙ってやる」
妥協点が分からない。スカルは思いきり顔をしかめたが、それでも手を伸ばしてジョーカーの頭を軽く、ぽんぽんと優しく叩いてやった。間に挟まれる形になったノワールだけが楽しそうに「仲良しね」と顔を綻ばせたのにこそ、彼は顔をしかめた。
確かに、こういうシチュエーションはテレビや漫画、映画の中で見たことがある、とスカルは思う。女子はこうされるとキュンとするだとか、しないだとか。
憧れが無いわけではなかった。
しかし致命的なまでに相手が悪い。スカルは素早く腕を引き、幾度目かも分からぬため息を吐いた。
「これは……」
「んだよ。黙るって言ったろ」
「聞けスカル。俺は、じゃなかった、わたしは女子の心のなんたるかを理解しましたわよ」
「えっ」
朗報である。スカルは食い入るようにジョーカーを見つめた。
果たして彼女は語る。
「これ好きなやつにやってもらうとかじゃないと嫌なだけだ」
「もうほんっっっとお前黙ってろ!」
振り上げた拳を、しかし相手が女の姿と見て下ろせぬままスカルは声を荒らげた。
これを見て、ナビが意味ありげな笑みを浮かべる。
「ほお……なあなあ〜ブレイドぉ〜?」
「嫌だ」
「まだ何も言ってないっ」
「どうせ私に今のを、フォックスに対してやれって言うんでしょう。やらないよ」
「えっ」
何故か傷ついた声を上げるフォックスはさておき、ナビはしたり顔で続けた。
「んじゃ、わたしにやってくれ。その次にフォックスな」
「だから……」
「何故だブレイド。俺のこの姿のなにが気に入らない? ジョーカーほど自惚れるつもりは無いが、悪くはないはずだ」
左からの奇襲にブレイドが言葉に詰まると、ナビは天使を装った悪魔のような笑みで彼を追い詰めた。
「ほおら、リクエストが来てるぞ? さ、まずはこのわたしで練習するがいい、ホレホレ〜」
ずいずいと左右から詰め寄られてしまうと、少年は白旗を上げる他ない。
ため息を一つ。言われた通りにまずはナビの頭頂部へと手を伸ばす―――
オレンジ色に染め上げられた彼女の髪は薄闇の中にあってなお艷やかで、天使の輪が浮いている。
ブレイドはそれを乱さぬよう、慎重に、これ以上なく優しくその頭を叩いてやった。
「まったく……はい、よしよし……」
すると思いもよらぬことが起こる。
ビクンと大げさに肩を震わせたナビの顔が、瞬く間に赤く染まっていったのだ。
「ふあ……ふああ……そんな、まさか……」
「ん、痛かった?」
「ちち、違うっ! でも、あの……も、もっと……」
おねだりにブレイドは無言で応えた。
指先が、指の腹が、手の平が頭に触れるたびにナビの胸は締め付けられる。切ないようなこそばゆいような心地のなか、彼女はかろうじて呟いた。
「ヤバ……これヤバい……」
「ええ?」
「おっ、お、お前のことが好きだったんだよ!?」
突然叫び出したかと思うと、ナビは勢いよくブレイドにしがみつく。
「うわっ」
「はぁんブレイドぉ、ごろごろごろ……」
喉まで鳴らす様は猫のようだ。フォックスが怪訝な顔をして首を傾げた。
「お前は手からマタタビでも出しているのか?」
「いや、そんなはずは」
なされるがまま揺さぶられつつ、己の指先に鼻を寄せてにおいを嗅ぐ。汗と鉄、そして硝煙の香りくらいしか感じられなかったし、またたびになど触れた記憶も無い。
となれば、ナビがこのように変貌した理由は一つだろうと当たりを付け、ブレイドはやはり優しく彼女を押し返した。
「あーん」
「演技はやめなさい。また変なことをして」
「そのつもりだったんだ、でも、いざやられたらキュンって……」
「なんだそりゃ」
困った様子で返すブレイドだが、次の瞬間、左手を取られて硬直する。
「興味深い。そのキュンとやら、筆の足しになるやもしれん。試させてくれ」
ブレイドは目を見開いた。
同時に、二列目座席から茶々が飛ぶ。
「んでもジョーカーが言うのがマジなら、好きでもなんでもないやつにやられても嫌なだけらしいぞ」
「ふむ……異性に対する女性特有の嫌悪感というものか……? それもまた興味深い、さあブレイド、やってくれ!」
ブレイドは泣きそうな心地で前方を睨みつけた。
もしもこれでフォックスが嫌悪を示したらどうしてくれる。少なからず友好的な関係を築けていたつもりでいたのに、さすがに平静ではいられないぞ、と。
「どうした。遠慮しないでくれ―――」
遠慮している訳じゃない、ただ意気地がないだけのこと。バックミラー越しにこちらを見つめるジョーカーが、唇の動きだけでブレイドを挑発した。
ブレイドはその安い挑発に乗った。
クイーンが声を張り上げたのは、震える手がフォックスの黒髪に触れんとしたまさにその時だった。
「皆、戦闘準備! シャドウに気付かれたわよ!」
あなたたちが騒ぐからと言外に責められているのを感じつつも、一同は俊敏に動き出した。
各々の得物を手に車を飛び降り、構えを取る。
しかし―――
真っ先に異変を感じたのはフォックスだ。腰に下げた刀の柄に手を添えた彼女はむっと眉を寄せ、己の不調を訴える。
「なんだこれは……刀が重い……?」
するとこれにジョーカーが同調する。
「武器だけじゃない。身体も重い。一体何が……」
どことなく喜ばしげにこれを否定したのはブレイドだ。
「こちらは逆。身体も、武器も軽い」
パンサーが同調する。
「確かに。いつもよりなんか、力に溢れてるっていうか……」
これ以外の者は口を揃えて言う。いつも通りだ、と。
となれば答えは明白だ。クイーンがぽんと手を打って答えた。
「女性の身体は男性に比べて六十パーセント程筋肉が落ちるとは言うけれど、それかしら」
「あー」と同意とも否定とも取れない声が誰にともなく上がる。
拳銃を構えたジョーカーが試しにとシャドウに向けて先制の発砲を行えば、普段は押さえ込めるはずの反動によって腕が跳ね上がってしまう。肝心の弾は弾道がぶれてしまったのだろう、かすりもしないどころか天井に撃ち込まれていた。
「ぐ……これは……」
「下がってろ!」
庇うように前に出たスカルの一撃によって一匹が屠られる。彼は振り返って声を張り上げた。
「残り四!」
応えてクイーンが躍り出る。彼女の拳は鋭くシャドウの顔面に突き刺さり、これを撃破する。次、と視線を巡らせた彼女の背後でシャドウに向けて剣を振り上げたのはブレイドだ。
―――剣が軽い。抱えた小銃も、それによる反動も比べ物にならない。そう考える間にはもうシャドウは霧散してしまっている。
これは、楽しい。ブレイドは目を輝かせた。
また彼は勢いづいて残りを殲滅しにかかった。仮面に手をやり、声を上げる。
「さあ……斬り落とせ、サロメ!」
しかしこれに返されたのは無音だけだった。
常ならば背後に浮かび上がるはずの半身の姿は無く、ただ虚しい呼び声だけが反響する―――
「……あれ? あっ、うわ、ちょっと待った……!」
呆然とする少年の姿を好機と捉え、シャドウが襲いかかった。たたらを踏んだ痩躯に凶爪が振り下ろされ、噴き出した血の量がその傷の深さを教えている。
「ぐ……な、なんで……」
「貴様……っ!」
傷口を押さえて呻くブレイドから飛び退って離れたシャドウを追い、前線に飛び出したのはフォックスだ。彼女の手には抜き放たれた刃こそあれ、その刀身は身の丈に勝ち過ぎているように見える。
それでも、俊敏さが失われていないのは幸いなことだろう。素早く切り込まれた物打がシャドウの手を跳ね上げさせて後退を促した。
「ええい、鬱陶しい! 思うように動けんぞ、これは」
忌々しげにシャドウを睨みつける華奢な背中を観察者の目で見下ろしながら、ナビはふうむと一つ唸り、腕を組む。彼女の目には仲間たちの身体能力が数値として現れていた。
「うーんこりゃ厄介だな。力がぐーんと下がってやがる」
「そのようね。ペルソナまで使えないのは予想外だったけれど……あなたたちは下がってなさい。スカル、モナ、ノワール、続いて!」
応えて飛び出した三名と入れ替わりに引き下がることを余儀なくされた者たちはがっくりとして観戦の姿勢を取る。パンサーだけが悪あがきとブレイドの傷に手を添えるが、やはり彼女の半身は現れなかった。
「思っていたより影響がデカいな」
ジョーカーのぼやきにパンサーの眦がつり上がった。
「今更か!」
「すいません!」
「大きな声出さないで。うー、傷に響く……」
二人は揃って口に手をやった。
「痛むのか」
「そりゃあね。でも、見た目ほど深くはないよ」
ため息を吐いて身を起こす。手にはまだ小銃が抱えられているが、構えようとすると傷が邪魔をする。
前線ではちょうどノワールが斧でもってシャドウを叩き割ったところだった。可憐な見た目に相反した苛烈さに少しだけ目を逸らすと、それを苦痛によるものと捉えたのだろう、フォックスが手を伸ばして傷口を押さえた。
「あちらが片付いたら塞いでもらおう」
「ん。でもそんなに心配してくれなくていいよ。そこまで痛くはないから……」
「馬鹿を言うな。ちょっと見せてみろ」
「うわっ、あーっ!? 痛い痛い!」
引き裂かれた部分に貼りつく怪盗服の切れ端と一緒に皮膚の一部を持ち上げられて、ブレイドは思わずとのけぞって悲鳴を上げる。目じりには涙すら浮かんでいた。
「痛いんじゃないか」
「今のはきみのせい! あー……っ、大きい声を出すと余計に、ううう……」
呻いて、腹を晒すように力を抜いたブレイドの肉体を観察していたフォックスの唇から、ふっと感嘆の息が漏れる。その目はまた希少な宝物を発見したかのように輝いている。
嫌な予感を覚えて、ブレイドはじりっと身を捩って後退った。
追うように腕が伸びる。
「これは……面白い!」
「ひいっ!」
痛み以外の要因から悲鳴を上げる。フォックスの手が両の脇腹を掴んで何かを確かめるようにさすったのだ。
「解るかブレイド、お前の肉体は骨格からして変化している」
「は―――?」
「普通女性の肋骨は下部が閉じるように狭まっているんだが、今お前の肋骨を観察し、触れてみたところこれが完全に男性のそれへと変化していることが分かったんだ。それに見ろ、へその位置が」
言って、細い指先がブレイドの腹、晒されたへそに触れる。こそばゆさ以上の精神的衝撃を覚えて、少年はばね細工のように跳ねあがって膝を抱え、両腕を伸ばしてフォックスの身体を強く押し返した。
「むっ」
唸って、フォックスは己の胸元に視線を落とす。そこには彼女を引き剥がそうとするブレイドの手が置かれていた。
常ならなんの問題も―――ある意味あるのだが―――ない光景だが、今日は事情が違った。なにしろフォックスはいま、女の身体になっている。
つまり、少年の手が、少女の胸を鷲掴みにしている光景がそこにあった。
これを目撃していたジョーカーとパンサーは、どう受け取ったものかと困惑する。
状況的にはどう考えたって非はフォックスにあるのだが、女子の胸を鷲掴みにしたブレイドもやり過ぎと言えばやり過ぎか。
ううむと二人は揃って唸った。
するとそれに呼応するようにフォックスが言う。
「は―――離してくれ、いや、俺が悪かったんだが……その、手を……」
恥じらいに満ちた声に、ブレイドは我を取り戻して勢いよく両手を上げて立ち上がる。
「ごっ、ごめ、ごめん! そんなつもりじゃ……いつもみたいに、そしたら胸を、だからその、ごめん!」
ジョーカーとパンサーはまた声を合わせて唸る。性別が入れ替わるだけでこうも反応が違うものか、と。
試しにとパンサーはジョーカーの胸に手を伸ばした。鷲掴みにする。ジョーカーはただ勝ち誇ったように鼻を鳴らしただけだった。苛立ちを感じて、パンサーは舌打ちをする。
他方でフォックスはまた、胸を押さえて身をよじり、俯いて顔を赤らめてすらいる。
見た目は整っているから鑑賞には耐えうる姿だが、中身はいつものあれと大差ない。そう思うと―――
「キモい」
正直すぎるパンサーの言葉に、ジョーカーは深く頷いた。
さて、珍奇な一行はさておき、戦闘が終了したらしいスカルが鬨の声を上げる。
奇妙な雰囲気に包まれたこちらの様子に目をやったノワールが首を傾げるその足元からモナが飛び出し、中心でもじもじとしながら謝り合うフォックスとブレイドに歩み寄った。
「何してんだオマエら」
「いや、その……」
「な、なにもないよ」
「またそれか? まあいい。ほれ、傷を見せろ。今治してやる」
うん、と頷いてブレイドはモナのそばに跪いた。猫はその小さな手を掲げて吠える。
「こい、ゾロっ!」
威勢のいい吠え声に、しかし応えるものはなにもなかった。
ただ静寂だけが辺りを包み、何も起こらないことを教えてくれている。
「あ、あれ……?」
ポカンとして尻尾を一振り。モナは咳払いをして再び己の半身に呼びかけた。
「ゾロ? ゾロさーん? あれ? っかしいな……」
「デバフくらったりはしてないはずだぞ。どした、モナ」
ナビの言葉にジョーカーが指を鳴らして相棒を指し示す。
「モナ、お前もか」
ばっと音がなりそうなほどの勢いで全員がモナに向き直った。
見た目からはまったくわからないが、モナは一応、本人―――本猫―――の申告を信じるのであればオスだったはずだ。それが反転したということは、彼は今―――
全員の手がモナに向かって伸びる。一瞬のことだった。モナは素早く地を蹴って飛び上がり、空中で三回転して車に変じ己の身を守ってみせた。
「可及的速やかに脱出するぞオマエら! 乗れッ!!」
号令に、怪盗たちは舌打ちとともに応じた。
……
「あっ、ホントだ、戻ってるぅ!」
喜ばしげな高巻の声を背中に受けながら、少年はモルガナに運搬用の鞄を差出してやった。するりとそれに収まった彼を見る目は未だ残念そうな色を湛えてはいるが、少年は無言を保っている。
ちらりと皆に目を配る。喜んで飛び跳ねる高巻は当然、喜多川ともいつもの姿に戻って胸を撫で下ろしていた。それ以外のメンバーはやれやれと言わんばかりに苦笑して肩をすくめたり、今日の成果を話し合ったりしている様子だ。
少年もまた己の胸を撫で下ろす。そこにはなんの凹凸もなく、ただ固い筋と骨の感触があるばかり。……やっぱりもう少しくらいは遊んでいったって良かったんじゃないか?
その考えを見抜いたわけでは無いだろうが、じとっとした恨みのこもった視線を感じて少年は振り返る。いつもの彼女の姿を取り戻した高巻が恨みがましげな目でもって彼を見つめていた。
「なんだ?」
「別に……」
「なにか言いたそうだった」
「別にってんじゃん」
「なんで怒ってるの」
「怒ってない」
つんとそっぽを向いた高巻に困り果ててモルガナに助けを求めるが、猫もまた彼を鼻先であしらった。
「ええ……」
どうしてだ、と疑問符を浮かべながらメメントスで得た戦利品を詰め込んだディバッグを持ち上げる。ずしりとしたその感触に彼はすぐ夜の予定を組み立てるほうに集中した。汚れた装備品の類は洗濯するとして、これは川上先生にお願いしよう。自分は岩井のところに換金に向かって、その足でベルベットルームに―――
よし、と頷いて、少年は高巻のご機嫌を取るようにぽんと優しくその頭を叩いてから全員に向き直った。たったそれだけで高巻が硬直して石像のようになってしまっているのに、彼は目も向けずに言う。
「今日はここまでにしよう。なにか伝達事項はある?」
「特には。春、変わったことはないのよね?」
応じて、新島は奥村に問いを投げる。奥村はこたえて言った。
「ええ。今のところは何も変わりないわ」
「結果が反映されるまではまだ時間がかかるかな」
これはが。これに「わからない」と答えつつ、新島は続けた。
「いずれにせよ、今の私たちにできることはメメントスの探索くらいのはず。今日はトラブルがあって深くまで潜れなかったし、なるべくまた時間を見つけてすぐに来ましょう。どう? リーダー」
「俺は構わない。みんなは?」
全員が首を縦に振るのを見て、彼は然りと頷き返した。
「じゃあ解散」
「あ、中間試験が近いことを忘れないでよ」
うっと若干名が呻いたのに、新島はまなじりを釣り上げた。呻いた者たちはただちにそれから目を逸らし、三々五々に散っていった。
新島は重々しいため息をつきつき、それでも残った者たちに視線を向ける。帰ってきたのは処置なしと言わんばかりの仕草や目の色ばかりだった。