その日もこれといって問題もなく、目立ち過ぎずほどほどに学生生活をこなして一日を終えた少年は、渋谷の駅を降りてセントラル街へ足を向けていた。本来ならばここで乗り換えて四軒茶屋の塒に向かうのだが、今日は帰宅前に立ち寄りたい所があったのだ。
「なあ、どこに行くんだ?」
 背中に背負ったカバンから相棒―――モルガナが声を潜めて語りかけてくる。
 答えるわけにはいかなかった。なにしろ学生の帰宅ラッシュの時間帯だ。休日よりはましだろうが、それでも人であふれる中で猫と会話しているとは思われたくない。いや、猫と会話している程度の認識ならばまだいい方だろう。最悪、独りでブツブツと喚き散らす変人として周囲に認識されて目立つことだけは避けたかった。
 無言のまま街路を進んで目的の店を目指す。どれだけ田舎者と謗られようが、この人の多さには慣れる日が来るとは到底思えない。
 さて、セントラル街入り口に位置する書店に首尾よくたどり着いた彼らは思わぬ人物との邂逅に目を丸くする。
「お……」

「あれ、珍しい所で会ったね」
 小さく手を振ったのはだった。学校帰りなのだろう、制服姿のままの彼女は書店の軒先に置かれた新刊告知用看板の前に立ち、手には書店のロゴが印刷された紙袋を下げている。
 モルガナはまた撫で回されてはたまらんと素早くカバンの奥に頭を隠した。しかし彼は気がついていないのだろう、尾っぽの先が隙間から飛び出してしまっている―――
 の視線はじっとそれを捉えていた。
「きみも本屋に用事?」
「うん」
「そっか。なに買うの?」
 問いに少年は少しだけ沈黙した。長くは無かったが、しかし確かな恥じらいを感じ取っては小さく喉を鳴らした。
「ふっ、もしかして、聞いてはいけない類の本だったかな」
「違います。漫画です。今日発売の」
 即座に否定する様子がおかしかったのだろう、少女はやはりけらけらと笑い、彼の背中に手を伸ばした。
「モルガナ〜隠れても無駄だからね〜」
「あっふ、そこは……にゃあううんゴロゴロ……」
 背中から聞こえる相棒のあられもない声に苦笑しつつ、少年はの腕に下げられた紙袋に視線を投げかけた。
「そっちは何を?」
「ん」
 答える代わりにと紙袋が差し出される。中身を覗いて、少年はうへえと呻いた。
 紙袋の中には横文字や難しい漢字の綴られたタイトルが三つ並んでいる。どれも少年には馴染みのない学術書の類のようだった。
 これによって解放されたモルガナが勢い良く鞄から身を乗り出し、同じく紙袋を覗き込む。彼はふうむと唸って髭を揺らした。
「んっにゃ! はあはあ……また小難しそうな本を読んでるなは……」
「なんの本?」
「神話とか、民話とか、生活史」
「そういうのに興味が?」
「あるとも、ないとも。ほら、きみの……仮面やシャドウって、空想上の怪物や神を模したものが多いでしょう。予備知識があれば少しは対策も練りやすいかと思って」
 これに少年と猫は感嘆の声を上げた。
「えらいぞ!」
「勉強熱心だな」
 称賛の声に、しかしは首を左右に振った。
「少しでも恩を返したいからね」
 これに猫はおやと少年の肩に身を預け、少年はその肩を竦める。
「気にしなくていいのに」
「そういう訳にはいかない。同じように戦うようになって改めて実感してる。きみたちは本当に命をかけてくれたんだって。それなら、私も同じようにするべきだ」
 そのように語る少女の瞳には確固たる想いが宿っている。必ず何かを成し遂げねばならぬという義務感、責任感……そういった類のもの。
 いいのに、と再び少年は言ってやった。
「無理をされる方が困ることもある」
 突き放したような物言いだったが、意図するところを少女は敏感に読み取って笑みを浮かべる。
「ごもっとも。私が無理をして張り切り過ぎれば、その分皆をフォローに走らせて疲弊させてしまうものね。わかってる。もちろん、無理をするつもりは無いよ。足を引っ張るつもりもね。ただ、全力ではやらせてもらう」
「心強いな」
「きみも。頼りにしてるよ、リーダー。それに、モルガナも」
 ぽん、と軽く肩と額を叩かれる。触れた指の感触は細いが暖かい。確かなやる気と充足感も感じられる。
 彼女はきっと、己が誰かの味方になれることに気がついたのだろう。
 少年と猫は胸を張って「任せろ」と応えた。
 それから、少しの心配も見せる。
「身体の調子はどう?」
「ん。今は検査結果待ち。少なくとも長期の入院なんかは必要ないみたい。武見先生って、すごくいい人だね」
「意外だろ」
「こら、失礼だぞ」
 ぴたっと猫の手が頬を叩いたのを羨ましそうに見上げながら、は続ける。
「病院も施設も間に入ってくれて、支援計画も色々考えてくれて……専門じゃないはずなのに……それに、カウンセリングって感じじゃないんだけど、色々話も聞いてくれてる」
 これは流石に意外なことだった。興味を持ったらしいモルガナが髭を広げてニャーと鳴く。
「へぇ……どんな話をしてんだ?」
「大したことは。先生が学生だった頃の授業要綱と今の私たちとの違いとか、サボテンの育て方とか、夕飯の献立とか……」
 本当に大したことのない内容だった。拍子抜けして液体のようにぬるりと身を伏せたモルガナをよそに、少年はどこか誇らしげに笑う。
「そうだろ。すごい人なんだ」
 語り口はまた自慢げでもある。耳のすぐ横で猫が呆れたように「なんでオマエが自慢げなんだよ」とぼやいたが、彼はこれを聞かなかったことにする。
「家のほうは?」
 これは少し踏み込んだ質問である。言うのには少しばかりの勇気を必要とするだろうが、彼にとっては容易いことだった。
 そしては少しだけ寂しそうな顔をする。
「叩かれたりはもう、本当に無くなったよ。大きな声を出されたり、色んなことを禁止されたりもしなくなった」
「まだ何かあるのか?」
 これはモルガナが。彼はすっかり少年の肩を枕に腕を組み、くつろいだ姿勢になっている。通りかかる他校の女子高校生らがそれを見てくすくす笑ったり物珍しげに見つめてくるのに、少年は少しだけ顔を俯けた。
「無い……と、おもう。いや、わからないと言うのが正しいかな。以前はお母さんと話をするなんて、怒られるか、あれこれ質問されるか、命令されるかだったんだけど、今はそれも無くなって……」
 会話が無いのだ、と少女は語る。
「お母さんが反省してくれているのは解る。すごく……その、遠慮みたいなものを感じるから。ただ、そのせいなのかな、なんだかよそよそしくて」
「寂しい?」
「なのかな。わからない。強いて言えば……普通の家庭というものが普段どんな会話をしているのか分からないのが寂しい、かな」
 ふうむ、と少年と猫は唸る。
 そもそも猫には荷が勝ちすぎる問いである。彼には家族の記憶が無いのだ。本当にいるのかすら、分からない。己の境遇と力不足を苦々しく思いながら―――たった今頼りにしていると言われたばかりなのに!―――少年をちらりと見上げる。
 見上げられた方はと言えば、やはり困り顔を浮かべていた。
 はて、自分の家族は普通だっただろうか、と。
 ……仮に普通だったとしても、それはもう過去の話だろう。なにしろ少年には前科がある。謂れのないものであったとしても、どれだけ無実を訴えたとしても、判決は下されてしまっていて、覆すのは容易ではない。
 彼の家は、傷害罪を犯した息子を作り出した家なのだ。
 じわりと胸にペスミシティックな感情が広がりそうになるのを猫の尻を撫でることで抑え込む。モルガナは悲鳴を上げてその手をはたき落とした。
「色々見て勉強してみたらどう?」
 引っかかれた手に息を吹きかけつつ言えば、少女は―――どちらかと言えば答えにではなく少年の奇行に対して―――怪訝な顔をして首を傾げる。
「どうやって?」
「うーん、ホームドラマとか」
「なるほど。おすすめが?」
「オッケーベイビー」
「ん?」
「え?」
 少年は咳払いをして、書店の正面に位置するレンタルビデオ店を指し示した。
「多分あるとおもうけど」
 かくして少女の手にはDVDが二本、一週間の期間で貸し出されたのであった。
「かなりの長編なんだね」
「うん。でも基本一話完結のコメディだし、飽きるまででいいんじゃない」
「そうする」
「なにか分かるといいな」
「うん。ありがとう……」
 情のこめられた声が返されたことにほっと息をつき、少年は微笑んだ。
「あ、いけない。時間だ」
「おっと」
「今日はありがとう。見終わったら、感想を聞いてくれる?」
「いいよ。待ってる」
 言って、拳を作って差し向けてやる。少女ははにかんでフィストバンプを返した。モルガナには人差し指を差し出して肉球をつんと突く。
 それじゃあと手を上げ、小走りに交差点へ向かう背を人混みに紛れて消えるまでは見送ろうと一人と一匹は佇んでいたが、しかし唐突に立ち止まった少女の様子に眉を寄せる。
 はポケットに入れていたスマートフォンを取り出し、その画面に目線を落としている。
 それだけならば少年も猫も踵を返して書店へ入ったことだろう。彼女の表情はなんとも言い難い……困惑とその下からにじみ出る嫌悪感に満ちているのが見て取れる。
「なにかあった、のか?」
 モルガナの囁きにはこたえず、少年は無言のままじっと少女の手元に視線を送る。見られているとは思っていないのだろう、少女は悲しげな顔で液晶を見つめている―――
 声をかけるべきか否か……迷う内に、少女は再びポケットにスマートフォンを戻して走り出してしまう。
「迷惑メールでも受け取っちまったのかな」
「俺のところにもちょいちょい来るけど。坂本と喜多川ってやつから」
「オマエなあ」
「冗談だよ」
 すっかり見えなくなったの後ろ姿をなお見つめながら、モルガナが訝しげに呟いた。
「なんか、様子が変じゃなかったか?」
 少年もまた眉根を寄せてかすかに首を傾けたが、その正体は杳として知れなかった。