10:Fortune favours the Bold

 窓の外から聞こえたかすかな物音にはっとして顔を上げると、少女はやりかけの課題を机の上に放り出して立ち上がり、そこへ駆け寄った。もともとほとんど集中できていなかったのだ、今さらほんの数分離れたところで成果に違いはないだろう。
 音を立てずに窓を開け放つと、まだ暑い九月の湿気た熱気が吹き込んでくる。それに顔をしかめながら、目線を走らせれば、庭に置いた餌箱に小さな生き物が取り付いているのが見えた。
「モルガナ……?」
 呼びかけるかすかな声に、しかし敏感に小さなシルエットが震えて顔を上げる。現れた八の字に割れた黒と白の柄に、は大きく肩を落とし窓を閉ざした。
 気だるげに寝台に腰を下ろし、充電器に刺していたスマートフォンを取り上げる。少しだけ迷って、佐倉双葉にチャットを送信した。
『モルガナ帰ってきた?』
 これに佐倉は直ちに返信する。
『まだ』
『ルブランのほうも来てないって』
のほうに行ったりしてないか?』
 は一度だけ窓の方へ目線を投げかける。庭木の向こうで瞬く街灯と、そこに群がる羽虫の影のほかに見えるものは何もなかった。
『こっちも駄目』
『そか』
『心配だね』
『うん』
『明日、放課後までに戻ってこなかったら少し探し回ってみるよ』
『塾は?』
『明日はない。大丈夫』
『そか』
『うん』
『頼む』
『うん』
 チャット画面の向こうで、佐倉がしょぼくれているのが目に見えるようだった。もちろん、とてそれなりに落ちこんでもいるのだが……
『双葉もあまり心配しないで、早く寝るんだよ』
『わかってる。健康的生活くらい言われなくてもできる』
『そっか』
『だから寝る。寝てる間にモナ帰ってくるかもだし。だよな?』
 はこれにイエスとは言えなかった。もしこれで帰ってこなかったら、佐倉はより落ち込むことになるだろうことが目に見えているからだ。
 ほんの少しだけ、モルガナのことを憎たらしく思う。こんなに心配させるなんて、と。

 ―――事の発端は、修学旅行中に秀尽学園の校長が自殺を遂げたことによる。
 これを受けて放課後にアジトに集合した怪盗たちは動揺を隠すことができなかった。
 秀尽の校長と言えば、つい先日鴨志田の問題行動を学校ぐるみで隠ぺいしていたことを週刊誌にす暴き立てられたばかりだ。このような状況下における心労を鑑みれば自殺という結末もいちおうは納得もできるのだが、しかし彼が己の死地と定めた場所が警察署の目と鼻の先であるということが気に掛かる。
 他にも気がかりは多い。それは彼の死を当然の報いとして嘲笑う民衆であったり、新島を経由して得た特捜部の動向であったり―――彼女の姉であり、精神暴走事件と廃人化事件の解決に当たる新島冴は怪盗団の関与を疑っている。
 冴にとって怪盗団ほど苦々しい存在も無いだろうことは容易に推察できる。遅々として進まぬ捜査にマスコミは彼女と組織を無能とののしりはやし立て、それを見た者たちが正体も知れぬ……知れたとして、一介の高校生に過ぎない怪盗たちに救いを求めているのだ。これほどの屈辱があるだろうか……
 怪盗団の中にもこの無貌の人々の熱狂ぶりに怯えや難色を示す者もいる。廃人化事件に明らかな関与が疑われる人物の名を盗み出した捜査情報から発見し、そのパレスの存在を確認しても全会一致といかないほどに彼らは怖気づいていた。
 唯一やる気を見せていた坂本ですら、高巻が怯え、多数が煮え切らないでいるのを見て言葉を失ってしまう。
 そしてモルガナが爆発した。
 これまでの仲間たちからの扱いや現状の皆の態度に思うところがあったのだろう。彼はことさらに坂本を挑発し、噛みついて、飛び出して行ってしまったのだ。
 ここに自分の居場所は無い、と言って。
 些細な意見のすれ違いや小さなけんかと言うこともできただろうが、しかしどうにも不安が拭えない。常識で測れる事態など何一つ有りはしないことを、モルガナの存在こそが示していた。

 ……は寝台に横たわり、枕に顔を埋めて足をばたつかせた。
「猫扱い、嫌だったよね……本当にモルガナが人間だったら間違いなくセクハラだもんな……うう……」
 辛うじて佐倉に『わからないけど、無事であることを信じよう』とだけ返信して、も間もなく眠りに就いた。
 よく眠れたとはとても言えない夜を過ごして朝を迎え、そして、放課後になってもモルガナは戻らなかった。


 迷い猫―――また猫扱いだ―――を探すとき、初めにすべきことは各所への電話連絡である。最寄りの警察署、保健所と動物愛護相談センターに、最悪の場合を覚悟して清掃局にも。
 幸か不幸か、いずれの施設にも黄色い首輪をした靴下猫の情報は寄せられていなかった。
 ため息をつきつき、は洸星高校の校門を出て駅に向かう。宛もなくさまようつもりはなかった。手がかりはあるのだ。昨日飛び出して行く前にモルガナが切った啖呵―――
『どっちが役立たずか、思い知らせてやる!』
 これは主に坂本に対して吐かれた台詞だ。であれば、どちらがというのはモルガナと坂本を指しているのだろう。では思い知らせてやるとは、何を指しているのだろう?
 これもまた考えるまでもない。モルガナは怪盗団内における己の序列にフラストレーションを感じていた。それらを払拭するためにすべきことは一つ。怪盗としての力を見せつけて、思い知らせてやると彼は言ったのだ。
 怪盗としての力はすなわち改心である。改心とは、お宝の強奪。そして今のところターゲットとして名が上がっているのは奥村邦和のみ。
 だから、はオクムラ・フーズの本社に向かうつもりで乗り換え案内サービスを確認しつつ電車に乗り込んだ。
 たどり着いたオクムラ・フーズ本社ビルの前に佇んで、はおやと驚いた。
 どこの局かまでは分からぬが、カメラやマイクを抱えた人物が見上げても天辺が覗えないビルの映像を撮影しているのだ。
 元々、オクムラ・フーズにはブラック企業という噂がある。飲食関連業には珍しくない話ではあるのだが、そういった悪い噂、あるいは真実に関するドキュメンタリーや報道用の映像撮影だろうか。
 いずれにせよ彼らの目的は建築物その物で人ではないらしいと見て、は小走りでビル正面の入り口に向かう。入れても入れなくても良かった。都合よく警備員らしき人物が佇んでるのを発見し、は自らその男に声をかけた。
「すみません」
「はい。……学生さん? ここに何の用?」
「あの、ちょっとお伺いしたいことがありまして……」
 男はわずかに訝しげな顔を作るが、やがてを取るに足らない相手と見たのだろう、警戒を説いて了承を示した。
「こんな子をこの辺りでお見かけしませんでしたか?」
 スマートフォンの画面にモルガナが毛づくろいをしていたときの写真を表示して差し出すと、男は猫好きだったらしい、ほんの少しだけ目尻が下がる。はそれならばと次々にモルガナの愛らしい姿を捉えた画像を表示させてゆく―――
 男は喜んだが、しかし返事は芳しくなかった。
「悪いね。私は見てないよ」
「そうですか……」
「君の飼い猫?」
「……はい。この辺りで逃げ出したので、もしかしたらと思って……」
 はしれっと嘘をついた。とは言えいなくなったのは本当だし、彼の行方を探しているのも本当のことだ。
 落胆する小さな少女の姿に男は思うところがあったのだろう、手だけでちょっと待ってと示すと、肩口に装備したトランシーバーで何事かを話し始めた。
 幾つかの断続的なやり取りを経て、それでもやはり男は首を左右に振った。
「猫なら確かに色々目撃するんだけどね。こういう柄や首輪のはやっぱり誰も見てないみたい」
「わざわざ、ありがとうございます」
 深々と腰を折って頭を下げる少女に、警備員の男はおどけた様子で敬礼のポーズを取ってみせた。
「もう少し探してみます」
「あ、それは……いや、うーん……」
「なにか不都合があるんですか?」
「猫を探すこと自体は問題ないよ。ただ……あー、この周辺で色々あってね。警察もうろついてるから、あまりうろうろしないほうがいいよ」
「色々?」
 首を傾げた少女に、しかし男は曖昧な笑みを浮かべるに留まった。社内の事情に関わることであれば守秘義務も発生するから、おそらくはそういった話なのだろう。これ以上は無理かとは頷いて引き下がった。
「本当にありがとうございました」
 丁寧にお礼を言って立ち去る少女に手を振って、警備員は仕事に戻る。
 手詰まりではないだろう。このビルで何かがあった……それも警察が関わるような事態が。はふうむと唸ってスマートフォンを取り出した。仲間たちに連絡を取ろうと思ったのだ。
 しかしこれは唐突な闖入者によって妨害される。
「ねえキミ、中学生?」
 そう話しかけてきたのは黒髪をあごのラインで切りそろえた快活そうな女だった。全体的にカジュアルな格好をしていて、濃い赤の口紅と胸元に下げられたカメラが目を引いた。
 は少しだけ目を細めて、質問に
「はい」と答えた。勘違いをしてくれるのならそれでいい、として。元々身長や体格から年下に見られがちなことは自覚している。そして同性相手ならばそのほうが事が有利に運ぶことも―――
 しかし目論見は早々に破られた。
「冗談。そのスカート、洸星でしょ?」
 やられた。は苦笑して肩をすくめた。
「学校には内緒にして下さい。親に知られると不味いんです」
 これも嘘だ。知られたところで、今の母親に何かを言われることはないだろう。そもそも最近は会話自体が無いのだから……
「ふぅん、ま、アタシは構わないけど……今、あそこの警備員と話をしてたよね? 何を話してたのか、教えてくれる?」
「素性の知れない人とお話しするのはちょっと……」
 わざとらしく困惑するふりをすれば、女は小さく笑って名刺を取り出した。
「毎朝新聞……記者、大宅一子……?」
「そっ」
 大宅という名の女はにっと広角を持ち上げ、歯を見せて笑った。裏はありそうだが、しかし不快なものではない。
 は緊張をわずかばかり解いて大宅に相対する。
「私はただ、この辺りで見失った飼い猫を探しに来ただけですよ」
「猫?」
「はい。こういう……」
 先に警備員にしたように大宅にもモルガナの写真を見せると、彼女はしげしげとそれを眺め、不思議そうな顔で首をひねった。
「どっかで見たことがあるような……?」
「えっ、ど、どこです? この近くですか?」
「あ、いや、この辺じゃない。それに、随分前の記憶だし」
「そう、ですか……」
 落胆して項垂れる姿に嘘はないと見たのだろう、大宅は決まり悪そうに頭をかいている。
 はまた、その胸中で焦りも感じ始めていた。
 モルガナは一体どこへ行ってしまったのだろう。オクムラ・フーズに目を付けたのは間違いだっただろうか。しかし他に候補らしい候補もいない。小さな依頼は修学旅行前にまとめて片付けてしまったばかりだし……
 焦りは彼に対する心配ばかりではなかった。
 警備員は警察も動いているらしきことをこぼしていたではないか。まさか警察が猫一匹を捕らえたりはしないだろうが、怪盗団を取り巻く情勢を考えると些細なことでも見逃したくはない。
「警察、か……」
 無意識のうちに漏れ出た忌々しげな言葉に反応したのは大宅だった。
「警察? なになに? なんか面白そうなこと、知ってんの?」
「え、あ、いや……」
「教えてよぉ、ネタに困ってんだよこっちはさぁ」
 知ったことではないと言って逃げても良かった。しかしはこれに光明を見出し、未だ手の中に残されたままの名刺に目を向ける。
 そうとも、彼女は記者なのだ。娯楽部とはいえ、大手新聞社の。
「お教えしても構いません」
「……タダじゃなさそうだね?」
「はい。大宅さんは、ここ……オクムラ・フーズの本社に、何の用でいらしたんです?」
「そうくるか」
 苦々しい表情を作った大宅に、は縋るような目を向けた。それで動くタイプとも思えないから、これは単に彼女の心情が素直に現れただけだ。
 果たして大宅は大きなため息を一つ、腰に手を当てて手近なベンチを指し示した。
「座って話そっか?」
 頷いて、は隣に腰を下ろす。
 妙なことになった、とは、きっとお互いに思っていることだろう。
「アタシがなんでここに居るかだよね。そう大した話じゃないよ。ここってブラックの噂が絶えないでしょ、その調査……って程じゃないけど、とりあえず外観を一枚、と思ってね」
「それだけ?」
「突っ込むねー……まあいいけど。怪チャンって知ってるでしょ?」
 思いもよらぬ言葉に、はまったく無防備に目を見開いた。
「おや、ずいぶん驚いたね。なんか知ってるカンジ?」
「……それで?」
 強引に話の続きを促せば、大宅はにっこりと上機嫌そうに笑ってそれに乗った。
「あそこのランキングでここの社長、急に一位になったでしょ。しかも他を大きく突き放して。これまでは目まぐるしく入れ替わってたのがさぁ」
「それは……最近の噂が原因じゃ?」
「まあね。でも、話自体はかなり前からあったし、実態の調査もあちこちがやってるよ。でも、悲しいことにイマドキ珍しくもないんだよね。よほどのことがなきゃ電車の吊り広告にちょっと入って、終わり」
「今回はそれでは済まされなかった……そういう何かがあった?」
「そゆこと。それが何かは、まあ……そっちの情報次第かね。警察がここに何の用だって?」
「さあ?」
「は?」
「私は警備員さんからこの辺りに警察が来ているというお話を窺っただけです」
「は、はぁーっ!? なんじゃそりゃ!」
 立ち上がった大宅は呆れと憤怒を宿している。
 はしたり顔をして足を組んだ。まったく彼女らしくない動作と表情は誰かさんを真似しているものと思われる。仲間たちがこの場にいたら、悪い影響を受けていると囁かれたことだろう。少女はかけてもいない眼鏡のつるに触れるふりをして、大宅を見上げた。彼女もまた何故かそんなの様子に心当たりがある様子である。
 ともあれ、は早鐘を打つ心臓を悟られまいと平静を装いつつ言った。
「大宅さんは、怪盗団を追ってるんですか? それなら、これにご興味があるのでは?」
 大宅の鼻先に突き出されたのは一枚のカードだ。赤と黒を基調としたやや厚みのある手の平ほどの大きさの―――
 大宅はぎょっとして、それに釘付けになった。最近流行りの怪盗グッズ、そのポストカードかと思いきや、明らかに個人に当てられたものらしき『予告文』が印刷されている。
「それ、本物……?」
「です」
「アンタ、改心されちゃったの?」
「どうでしょう。知りたければそこは、ギブ・アンド・テイクというやつかな」
「うっわマジかよ。かわいくねぇな〜……」
「怪盗団には興味がお有りでしょう? これを受け取って、私に何が起きたのか、知りたくありません?」
 もちろん、真実を話すつもりなど毛頭なかった。ある程度の経緯は語っても、都合の悪い部分はすべて誤魔化すか偽りを並べるつもりでいた。怪盗たちの正体については特に。
 これが大きな賭けであることは自覚している。下手を打てば空振りどころか我が身を危険に晒しかねないものだと解っている。
 それでもやろうと思ったのは第一にモルガナの存在があるが、精神世界の存在を知らぬ者に怪盗団の正体を暴くことがほとんど不可能だからだ。仮に正体が明かされたとて、改心の手段を立証できなけれは立件は不可能。これは現在の法律で呪殺を殺人罪として裁けないのと同じことだ。怪盗団とはすなわち、不能犯なのだ。
 もちろん、不法侵入罪や器物破損、脅迫辺りを押さえられれば相応の罰も下るだろうが……肝心の改心については、きっと誰もこれが何の罪に当たるのかは分からないだろう。
 理由は他にもある。
 急激過ぎる怪盗団人気の過熱ぶりがには奇妙に感じられて仕方がないのだ。元々ある程度の高まりはあったが、それは改心を行うごとに段階的に訪れていた。
 そもそも、が怪盗団の噂を耳にしたのはかなり早い段階、それこそ鴨志田の改心からだ。母親の支配下にあった当時のはそれを聞いてわずかな希望を見出したものだ。そんな風に誰かを助けるヒーローみたいな人が本当にいるんだ、と。続く斑目の件がダメ押しとなって、はすっかり怪盗団のファンになった。怪盗お願いチャンネルを寝る前にこっそり覗くこともあった。
 ―――その頃から現在を比べて、あまりにも状況が違いすぎる。
 為したことの大きさを考えれば当然と言えるのかもしれないが、言いようのない違和感がまとわりつく。真綿で首を絞められているような……
 その正体がどうしても知りたい。最も手っ取り早いのは精神暴走事件及び廃人化事件の犯人を突き止めることだろう。
 そして現在手元にある情報を総合すると、それはこのオクムラ・フーズ社長奥村邦和である可能性が高い。あるいは、奥村は犯人に命令を下せる立場なのかもしれない。
 本社の映像を映すカメラに警察の存在、そしてこの大宅という記者。少なからず何かがあったのは間違いないはずだ。
 それがどうしても知りたい。
「それは是非知りたいな」
 ……はじめ、は己の心の声が口から勝手に出てしまったのだと思った。
 幾度がまばたきを繰り返して、やがてそうではないことを理解して、振り返る。
 すぐ真後ろ。ベンチの背もたれに手をついて立っていたのはテレビや雑誌といったメディア媒体でよく見る顔だった。
 は己の頭の中で警鐘が鳴る音を聞いた。
「げっ、明智吾郎!」
 大宅の声もまたの心とピッタリ重なっている。
 爽やかで好青年然とした笑みを浮かべて二人の間に立っていたのは確かに明智吾郎その人だった。
「げっ、て酷いなぁ、そんなに嫌がらないで下さいよ」
「いやぁ無理でしょアタシの書いた記事にケチつけといてさぁ」
「そうでしたっけ?」
「は! 覚えてないときたか」
 丁々発止のやり取りに口を挟むこともできず、また好機と見て予告状を鞄にしまい込む。が、それは二人に素早く発見されてしまった。
「ちょっと待った!」
「それ、本物?」
「ちょっと、近い、大宅さん離れて……」 
「誤魔化そうったってそうはいかねぇぞお」
 グイグイと迫る大宅に、はベンチの端、もうひと押しで落ちるだろうというところまで追い詰められる。
「彼女、落ちちゃいますよ」
「落とされくなかったら出すんだよぉホラホラ」
「わっ、わっ、ほんとストップ……」
 バランスを失いつつある少女の姿を流石に哀れに思ったのか、明智の手が大宅の肩を押し返した。自由を取り戻したは鞄を抱えて立ち上がり、俊敏な動きで距離を取って二人を睨みつける―――
「あ、明智吾郎まで、なんでこんな所に」
「こんな所って、失礼だなぁ。オクムラ・フーズは確かに悪い噂もあるけど、僕はビッグバン・バーガーは嫌いじゃないよ」
「アタシはモス派かな」
「えー? 最近迷走してません?」
 脱線しつつある二人に向けてため息を吐き、鞄を隠すように背に回す。すると目ざとくそれを見咎めた明智が笑みを貼り付けたまま制止を呼びかけた。
「その予告状、僕にも見せてくれないかな。本物だとしたら、表面化していなかった犯行の証拠の一つだ。調査に協力してもらえないかい?」
「抜け駆けすんな」
 大宅のボヤきもどこ吹く風と、明智は少女に視線を注いでいる。その瞳はまるで逃さないと語っているかのようだ。一種の執念めいたものを感じて、はすり足でもって後退った。
「……どうしてここに?」
 それでも逃げ出さずに問いかける。大宅にしても明智にしても、予告状を欲している限りアドバンテージは己にあるとの判断だった。
 果たして明智は素直に答えた。
「大宅さんと同じような理由だよ。怪チャンでここの社長が一位になったでしょう。次の怪盗団のターゲットはもしかしたら、と思ってね」
 なるほど、納得できる理由だ。
 彼が怪盗団の逮捕に心血を注いでいることは、ある程度怪盗団に興味を持つ者ならば誰でも知っていることだろう。不自然さはない。
 は、わざとらしく警戒を解いて身体から力を抜いてみせた。
 ……怪盗そのものでなければ、これ以上彼に対して警戒を見せるのは不自然だろうと思ったのだ。
「次のターゲットかも、とは私も思ってはいたけど……でも、明智さん、あなたにこれを見せるつもりはありません」
「どうして?」
「アタシはいいってことね」
 大宅はならば良しとしてベンチにふんぞり返ったが、明智はそうも行かないのだろう。一歩距離を詰め、困ったように笑ってみせた。
「嫌われてるなぁ。君ってやっぱり怪盗団のファン?」
「そう。だから、あなたはダメ」
「うーん、困ったな。彼らを正義だと思ってるタイプか」
 は口を閉ざした。善悪の判断を彼と語り合うつもりはなかった。
「でも、彼らのしていることは犯罪だ。何をしているのかは分からないけど、人の心を勝手に捻じ曲げるなんて、してはならないことだとは思わないかい?」
 チクリと少女の胸の奥が傷んだ。
 己の行いを悔いて苦しむ母の姿が過ぎったのだ。静まり返った食卓と逸らされた目線、覇気のない声……
 俯いた少女の姿に何を思ったのだろう。明智は穏やかな声で続ける。
「気になっていたんだけど、君のそのカーディガン、こんなに暑いのに、どうして長袖なの?」
 言うとおり、天からはまだ暑い日差しが降り注ぎ、熱気が辺り支配している。
 当然傷跡や痣を隠すためだが、それをわざわざ語って聞かせる理由もない。は唇を固く結んで、踵を返した。
「日焼けをしたくないんです」
 それっぽい理由を上げる。これは怪盗団のための嘘ではなかった。いつか、知り合ったばかりの喜多川にも暑くないかと問いかけられてこう答えたことがある。これは己自身を守るための嘘だ。
「そう? 焼きたくないだけなら、襟元もそんなに窮屈に締めることないよね?」
 追い打ちには歯を噛んだ。これはまったくプライベートな事象に関することであると明智は明らかに分かっていて問いかけている。大宅ですら不快感を覚えたのだろう。咎めるような声を上げる。
「おい、女子の服の下を知ろうとすんのは止めろ、ヘンタイ」
「そういう意味で聞いてるんじゃないよ。大宅さんだって分かっているでしょ?」
 大宅は沈黙で返して立ち上がり、のそばまで歩み寄り、そのまま通り過ぎて行った。
 ただ彼女は去り際に、
「情報提供はいつでも大歓迎だから、気が向いたら連絡して。今日はもう帰んな」と言い添えた。
 言葉に込められた意味を察せられぬほど鈍くはなかった。大宅は早くこの場から立ち去れと警告してくれたのだ。
 しかしそれはわずかばかり遅きに失した。
「怪盗団は、君に何をしたんだい」
 ……の服に隠された部分に傷や痣があることは、ある程度以上の観察眼に優れるか、あるいは類似した経験や対象を知る者であれば容易に察することができる。
 はこのことこそをよく理解している。隠し事なんてそうそうできるものじゃない。できたとて長続きはしないのだ。相手がその偽りから目でも逸してくれない限り。
 そして明智は決して目を逸らそうとはしなかった。隠された真実を暴きたがっている。
 その行いに善悪の基準を付けるのは無意味だ。そもそも、人の隠したがっているものを暴き立てるという意味では、怪盗団に所属する以上が彼を咎めることはできないだろう。それに、知る範囲の中で彼の明らかにしてきた真実はたいてい悪徳だった。
 そうとも、彼は怪盗団の行いを悪しきと捉えている。
 つまり彼は、の隠された部分を作ったのは怪盗団ではないのか、と言っているのだ。
 安い挑発だとは分かっていた。まったく、子供が相手をわざと怒らせるために憎まれ口を叩いているに過ぎない。
 しかし、けれど、だからこそ……はこれを見過ごすことができなかった。それだけは、決してあってはならないことだ。命をかけて、血を流して、己を救ってくれた者たちをこんな風に言われて、黙っていることだけはできなかった。
 は勢い良く羽織っていたカーディガンを脱ぎ、シャツの襟元を緩めた。振り返り、明智を睨みつける。
「彼らが私に何をしたかって?」
 露わにされた皮膚の上には黄疸のような黄色みや緑がかった痣がいくつもある。それが内出血が治癒する直前の兆候であると明智は理解している。思わずと彼は息を呑みもした。
 見える範囲にある痣はすべて治りかけのものばかりだ。一定の時期から新しいものが一つもないことが窺える。
「彼らが私に、何をしてくれたかって……?」
 は己に問いかけるように呟いた。瞳は怒りに燃えている。
「私を見て、分からないとは言わせない。そうでしょう、名探偵さん」
 手の中で丸めたカーディガンを怒りに任せて明智に投げつけてやるが、彼は難なくそれを受け取ってしまう。舌打ちをすると、彼は間の抜けた顔でまばたきを繰り返した。
「それ、もう要らないからあげる」
「悪いけど古着は好きじゃないんだ。それにこれ、女物だろ?」
「だから差し上げるんだ。きっとよく、お似合いのことかと思う」
 今度は明智の瞳が怒りに染まる番だった。
 彼女は遠回しに、彼を『お嬢さん』扱いしたのだ。これに勝る屈辱はないだろう。
 しかし、やはりというべきか、感情のコントロールにおいては明智は一枚上手だった。
「どうやら君は、怪盗団に心を盗まれてるタイプみたいだね」
 やれやれ、と演技がかった仕草で首を左右に振る姿は腹立たしいほど様になっている。
 手の中で丸められたカーディガンからしわを落とすように一振りして、彼はそれを身にまとった。女物とはいえ、彼が着用しても問題無いデザインと色柄である。
「似合うかな?」
 これもまた挑発―――というよりは、意趣返しであることは明らかだ。舌打ちをしたくなるのをこらえて似合っていると言ってやれば、彼は薄く笑って手を差し出した。几帳面に折りたたまれた紙片が人差し指と中指の間に挟まれている。
「僕にも、話す気になったら連絡してくれる?」
 はことさら発音を明瞭にしてこたえた。
「嫌だ」
「うっそぉ……塩対応過ぎない?」
「それだけのことを言った」
「謝らないよ」
 笑みを崩さず言い切って、明智は強引に手の中に紙片を押し付けた。
「僕は彼らが間違っていると思っている。たとえ誰に言われても、この考えだけは曲げることはない」
 言葉には裏があり、そしてそれはやはり、挑発的だった。
 ―――君は僕と同じように言い切ることができるのか? 彼らの行いが正しいと。
 は何も答えられなかった。手の中の紙片を睨みつけ、唇を噛む。図星を突かれた思いだった。自分たち―――怪盗団のすることが真っ当な正義かと問われれば、は迷いなくノーと答える。人の心を有無を言わさず、その人の意思を問わず操作することは間違いなく悪辣なやり口と言えるだろう。母親のことを思い返せばなおさらその想いは強まった。
 しかし他方で、が救われたことは紛れもない事実だ。
 露になった己の腕を見下ろして考える。少し前までは、人前で肌を晒すなんて考えられないことだった。やろうとしたことはあっても、どのような目線が向けられるかを想像すると恐ろしくてできなかった。
 けれど、今、自分はこの通り、何を恐れることもなく立っているではないか。
 少女は拳を握りしめて顔を上げた。しかし、明智の姿はもうどこにも見当たらなかった。


 怪盗団の面々が集うチャットグループに発言がポップする。
『モルガナいなかった』
 ブレイドである。直ちにナビが反応した。
『あうー』
 続けてパンサーが顔を出す。
『どこ探したの?』
『オクムラフーズ本社』
 端的な返答に驚きを示したのはクイーンだった。
『行ってきたの?』
『うん』
『心配なのはわかるけど今はあまり目立つことは避けて』
『ごめん』
『心配し過ぎじゃないか。二重の意味で』
 フォローに入るのがジョーカーで、
『そういえばオクムラフーズは二重蓋のご飯用鍋を販売していたな』
 明後日の方向に会話を牽引するのがフォックスである。
『なんでフタが二重なんだ?』
『わからん。しかしふっくら炊き上がるらしいぞ』
『マジかよおイナリ大歓喜だな』
『今はちらし寿司の気分』
 わざと混ぜっ返すナビと素の対応をするフォックスに、クイーンは頭を抱えた。ここには問題児しかいないのではないかとすら思いもした。
 救い主は本当に意外なことにスカルが勤めた。
『夕飯前にやめろ』
『ていうかなんでわざわざ本社にまで』
『他に心当たりもなかったから』
『そうじゃなくて。別に探しに行くほどのことじゃねえだろ』
 ブレイドは言葉ではなく、歯を剥いているような顔文字だけで返した。
『どういう感情だよ!』
 言い合いになりそうな気配を察して、ジョーカーが間に入る。
『ちょい待ち』
『ん?』
『なに』
『どしたの』
『今ニュース見てた?』
『ノ』
 挙手を示したのはナビのみだ。とは言え、彼女は現実の世界でジョーカーの隣に腰を下ろしているのだから当然のことである。
『オクムラフーズのビル、ガラスが割られてたって』
『マジで?』
 あ、とブレイドは声を上げて発言した。
『そういえばテレビのカメラ来てた。新聞社の人もいたし、警察も来てたっぽい』
『これ! それ! あれ!』
『どれ?』
 羅列されたナビの指示語にフォックスが疑問符を投げかけたが、答えずにナビは続けた。
『モナやっぱりそこに行ったんじゃないか?』
『つまりの目は節穴!』
『喧嘩なら買う』
『かかかかかかかってここいや!』
『Get ready! I’m comin’ to get ya!!』
『なんて?』
『今からそっちに行くって』
『マジ? 徹ゲーしよう!』
『サメ映画観賞会がいい』
『サメ?』
『サメがゾンビになったり幽霊になったり飛んできたりする』
『興味深い。俺も参加させてもらおう』
『ずるーい! サメはどうでもいいけど私も行きたい!』
『え、じゃあ俺も俺も』
『よし! じゃあそれで朝になったらモナ探しに―――』
 まとまりかけた会話を、しかし女王が叩き割った。
『あなたたち?』
『今日は何曜日?』
 全員を代表して、ジョーカーが答える。
『水曜日です』
『平日だね?』
『はい』
『学校あるよね?』
『はい』
『目立つようなことは避けろって言ったよね?』
『はい』
『じゃあ今からどうする?』
『寝ます』
『寝るだけ?』
『明日の授業の支度をしてから寝ます』
『よろしい』
 ジョーカーは、全員がクイーンの前に整列して直立不動の姿勢を取る幻覚を見た。
 さておき、軌道修正の行われた議場は明日の予定を取りまとめ始める。
 しかし難色を示すものが一名―――
『ごめん、明日はどうしても無理』
『え、、なんかあるの?』
『人と会う予定があって。前々から決まってたことだからずらせない』
 どうしても、と告げる彼女を無理に引き留めることは誰にもできなかった。タイミングの悪いこともあるものだ。
『じゃあは一回休み』
『逐次報告するわ』
『お願いします』
 そのようにして、翌日はを除いたメンバーでモルガナ探しをするということになった。

……
 曇天の翌日、昼休みの定例として屋上へ向かうの背後から喜多川が声をかける。

「あ、祐介。私も今屋上に行くところ」
 だった、という言葉は喜多川によって遮られる。
「半袖だ」
「ん?」
「制服。いつもなら……」
 彼は蛍光灯の灯りに照らし出される病的な白さの腕を指し示した。
 言わんとするところを理解して、は腕をさする。まだ痛々しい痣がわずかに残るそこは、昨日までは季節を問わず手首まで袖に覆われていたはずだ。
 は笑ってこたえた。
「もういいかなって」
 屋外の天候とは正反対に陰りは見当たらない。それにほっと息を吐いて、喜多川は彼女の隣に並んだ。
「そうか。そうだな。そのほうがいい」
 小さな変化を心から喜んでくれている様子にこそ微笑んで、は階段を跳ねるように駆け上がった。翻ったスカートの裾から覗く素足から咄嗟に目を逸らしつつ少年も倣う。
 先に立って屋上へ続くドアに取りついた少女の後ろ姿に、喜多川は再び声をかけた。
「予定というのは?」
「え?」
「今日。人と会うと言っていただろ」
「ああ……」
 ドアを開け放つとわずかに湿った風が吹き込んでくる。ちらほらと見える先客たちに背を向けて、後ろ歩きではこたえた。
「どうして?」
 疑問を疑問で返されて喜多川は答えに窮した。少女の顔にしばらく見ていなかった拒絶の笑みが浮かべられていたからだ。
 何故今またそんな顔をする。そんなに聞かれたくないような用事か相手なのか―――
 重ねて問いかけそうになるのをすんでのところで押し込めて、少年はたたらを踏みそうになる足を落ち着かせるために強く床を踏みしめた。
 足元には地雷が埋められている。比喩表現だと分かっていても、彼は生きた心地がしなかった。
「……気になったんだ」
「そっか」
 拒絶反応は直ちに掻き消えた。ほっと息をつき、横薙ぎに吹く湿った風に前髪を押さえる。
「気にかけてくれてありがとう。でも、大したことじゃないよ」
 大したことじゃないのなら予定をずらすことはできなかったのか。とは、やはり言えなかった。そもそも友人だから、仲間だからといって私生活に介入する権利は一つもない。
 しかし―――
「なにもないよ。大丈夫」
 駄目押しだった。喜多川はに見えないように顔を背けて思い切りしかめた。
 そう言って大丈夫だったことがあったか? と、問いかけたいのをこらえるのに、彼はたいへんな努力を要した。
「ああ、そうだ。モルガナを見つけたら、私の代わりにごめんと言って」
「……どうして?」
「たくさん撫でまわしてしまったから」
「いけないのか?」
「だって……」
 は手近なベンチに腰を下ろし、両手にぶら下げていた包みの一つを喜多川に向けて放り投げた。受け取って隣に腰を下ろすと、彼女は声を潜めて俯き、囁いた。
「モルガナが人間なんだとしたら、私のしていたことは明らかに問題がある」
「あー?」
 首を傾げながら弁当箱の蓋を開けた少年に、少女ははなはだしく恥じらってこたえた。
「きみは、私にお尻やわきの下を揉まれたらどうおもう?」
 これに少年は、箱一杯に詰められたちらし寿司と見つめ合いながら沈黙した。一秒や二秒では済まされない、長い沈黙だった。想像にかかる時間は多くなかったが、ただそれをどう受け止めるべきか、どう言い表すべきかにたっぷり一分近くかけて―――
「いかがわしい」と、辛うじてそれだけこたえた。
 全くその通りである。頷いて、は頭を抱える。
「というか、それは立場が逆なら俺が殴られるのでは?」
「そりゃ……そうだね。まあ、うん」
「猫だからか?」
「そうかもね」
「一度くらいは猫になってみたいものだ。ネズミはあるんだが」
「そうだね……ん?」
 はた、と動きを止めた少女を見つめる少年の顔は平然としている。はううんと唸ったが、しかし意味を正しく理解することこそを危険と判断して思考を放棄した。