09:Make Haste Slowly

 九月に入っても続く暑さに、多くの日本人はうんざりしながら秋の訪れを待ちわびている。
 高温多湿のこの国の夏期における首都の平均湿度はおよそ七十パーセント。京都を代表とする盆地地帯に比べれば気温や不快指数こそ劣るが、それは快適という意味ではない。
 それから逃れたという訳ではないが、は今母国を離れた北太平洋上空を飛ぶ航空機の中にいる。
 六十メートルを超す巨体をたった二基のエンジンが支えていることを不思議に思うのと同時にわずかばかりの恐怖を覚えつつ、は隣でうとうととしている同級生の横顔越しに窓の外へ視線を投げかけた。ほんの一時間ほど前までは興味深げにそこから空や海を眺めて歓声を上げていたはずだが、すっかり飽きられてしまったのだろう。機内はかすかなざわめきこそあれ、落ち着きを取り戻している。
 反面、窓の向こうも機体も落ち着いているとは言い難い。つい先ごろまで青空が広がっていたはずの三層アクリル板の向こうには分厚い積乱雲がそびえ立ち、機体はかすかに揺れている。
 これは大きな上昇気流と下降気流による影響だろう。恐らく雲の下は強い雨に見舞われているはずだ。
「なんだか、すごい天気ですね」
 通路側の座席から物静かな声でそう語りかけてきたのは同級生の一人―――東郷一二三だ。彫像のように整った面立ちに理知的な輝きを宿した瞳はかすかな不安に揺れている。
 彼女がの隣に腰かけているのは単にクラスメイトで、これから修学旅行という名目でアメリカに観光へ向かうから、というだけだ。
 は彼女のことを一方的に―――美人過ぎる女流棋士として―――知っているが、果たして東郷はどうだろうか。彼女はの「声を掛けられるとは思ってもみなかった」とでも言いたげな目に少しだけ悲しげな色を湛えて小さく首を傾けた。長く伸ばされた艶やかな黒髪がそれに合わせてするりと肩から零れ落ちる。
「ごめんなさい、急に」
「あ、いや。……そう。そうだね。すごい、天気」
 慌ててこれだけを返すのが精一杯だった。まったく見知らぬ他人であればいくらでも無難な対応ができただろうが、相手は同級生だ。おまけにこれまで一言も話したことも無いような。
「通常―――」
 は明らかな戸惑いを浮かべている。それでも会話を続けようと思ったのは先ごろから訪れた己の心境と環境の変化によるものかもしれない。
「こういった悪天候は本来、コックピットに搭載された気象レーダーによって回避されるものなんだけど、今こうして間近に迫っているところを見るとかなり急激に発生したものなのかもしれないね。対流雲は地表と上空の温度差によって発生するのは中学で習ったと思うんだけど、私たちが今いる北太平洋はちょうど今、八月の後半から九月の前半にかけて最も台風が発生しやすい場所なんだ。ちなみに台風、ハリケーン、サイクロンと色々名前があるけれどこれは存在する海域によって名称が変わるとの共にその強度も実は違っていて……」
 怒涛の如く続くマシンガントークに東郷は驚きつつも耳を傾け、律儀にうんうんと頷いていたが、やがて小首を傾げて話を遮った。
さん、もしかしてだけど……」
「はい」
「怖いの?」
 は目を逸らして答える。その態度が答えそのものであった。
「そんな……ことは……」
 否定は弱弱しく、体はかすかに震えている。
 東郷はくすっと小さく笑い声を漏らし、手荷物の中に静かに手を差し込んだ。
「あの、将棋のルールはご存知でしょうか」
「へあ」
 これ以上ないほど間抜けな声を上げて視線を戻したの目に、安っぽいプラスチックとマグネット式の将棋盤が映る。
「気を紛らわせるくらいにはなるかと」
「東郷さん……ありがとう……」
 心のこもった声と言葉で返し、はクラスメイトとの交流戦に立ち向かう―――
 機内アナウンスが気流の乱れによる進路の変更を告げる頃には、彼女は完膚なきまでに打ち負かされていた。

……
 坂本と高巻、新島は怪盗団の長たる少年と共に宿泊先のホテルの玄関口に揃って並び、日本とは違う日光の強さや風の香りを楽しんでいる。……と言えば趣深いが、実際にはただ揃ってホテルを出ただけのこと。それでもこの母国を離れた異国の地に対し、各々思うところがある。どちらかと言えば落胆の色が濃いが―――
 そんな一同に声をかける者がいる。彼らは皆この声の主をよく知っていた。
「ここにいたか」
 四対の瞳が一斉にそちらへ向かった。そこに居たのは他でもない怪盗団のメンバーの一人、喜多川祐介である。
 一同は目を丸くして驚きを示す。彼の通う洸星高校は確かに同じ日程で修学旅行の予定であったはずだが、行き先はアメリカのロサンゼルスであったはず。それがどうしてここに―――
 何よりもおかしなことは、彼が一人の少女を小脇に抱えていることだった。
「ちょ、え? あえ? 色々ツッコミたいことが多すぎて間に合わねーんだけど……」
 辛うじて坂本がこう言うと、喜多川はやっと気が付いたと言わんばかりに抱えた少女の肢体を軽く揺さぶった。
 だらりと脱力し、上体をぶら下げたようなかっこうでなされるがままにされる少女もまたよく見知った顔である。
「おいそれ……じゃねーか!」
「うわっ!? ほんとだ!」
 高巻もまた少女の顔を見て驚愕の声を上げる。
 常に溌溂としているような性質でもないが、これは明らかに異常事態だ。糸の切れた人形のように抱えられ、引きずられる様子は尋常ではない。
「な、なあ、生きてんのか?」
「死んではいない」
 きっぱりとした返答に一同は胸を撫で下ろすが、だからといって問題解決という訳でもないだろう。
 歩み寄った新島が喜多川の腕からの身をやんわりと奪い取り、幾度か優しく頬を叩いた。しかし彼女はうんともすんとも言わず、ただ顔を青くして呻くばかりだ。
「……何があった?」
 困惑を色濃く示した少年が問いかけると、喜多川は直ちにその疑問に答えた。
 曰く、アメリカ本土に接近した強い大型の熱帯低気圧―――ハリケーンによって彼らの搭乗した旅客機は着陸が出来ず、急遽目的地をハワイに変更したとのこと。
 なるほど、だからここにいるのかと納得はできるが、それはが前後不覚となることにどう繋がるのか。
 喜多川は重ねて言った。
「かなり揺れていたからな。酔ったのかどうかは分からんが、拾ったときには既にそんな調子だった」
「拾ったって。犬や猫じゃないんだから……、だいじょーぶ?」
 高巻もまたしゃがみこんでの頬をつつく。
「お前たちに引き合わせれば息を吹き返すかと思ったのだが……」
 ふむと唸って喜多川は初めて困り顔を見せた。それにこそ呆れ顔を浮かべた新島が赤ん坊をあやすように抱きかかえたの口元にミネラルウォーターのボトルを付ける。程なくしての喉が水を飲みこんでかすかに動き、ぱちりと瞼があげられる。
「あ、起きた」
「大丈夫? 立てる?」
 ははじめ、状況が飲み込めずにいるのだろう、瞬きを幾度も幾度も繰り返し、軽く首を巡らせて周囲に目線を走らせた。その内に見知った仲間の顔を見つけてやっと状況を理解したのだろう。震える手で新島と高巻のシャツを掴んだ。
「杏、真……こうして生きて二人にまた会えて本当に嬉しい……」
 声は震えていた。
「でも、これでお別れかもしれない」
 何を言い出すのかと周囲の者が目をむくのに、は自嘲的な笑みを浮かべてこたえた。
「もう飛行機乗りたくない」
 ……よほど怖い思いをしたのだろう。瞼こそ上げられているが、その目は虚ろだ。
「飛行機に乗るくらいならここに住む。スティーブみたいな家で暮らして一生ココパフだけ食べて生きてく」
 高巻が立ち上がって背後の少年を睨みつけ、声を張り上げた。
に洋ドラ見せたな!?」
「お菓子だけじゃ体に悪いわ。ロコモコも食べよう?」
「真、けっこう浮かれてるね……!?」
 乳幼児か酔っ払いのように覚束ない足でのろのろと立ち上がるを補助しつつ、高巻はため息を吐いた。
「平気だって、飛行機の事故に遭う確率って宝くじの一等が当たるのより低いって言うし」
 きらりとの瞳に希望が宿り始める。
 しかし―――
「そういえばこの間サマーマンモス宝くじで一等出した」
 それは一瞬で叩き割られた。は再び蒼白に戻り、高巻にしがみついて呻き始める。
「リーダー! それ今言わなくていいやつだから!」
「え、マジ? 一等? おいくら万円?」
「今聞くなっつーの!!」
「ああもう、、落ち着いて……」
 坂本を𠮟りつける咆哮にこそ怯えを見せるをどうにかなだめようと苦心する二人の背中を眺め、喜多川は嬉しそうに呟いた。
「日本に居るのと代わり映えしない面子だな」
「あんたのせいでしょこの雨男!!」
 高巻の怒声はビーチにまでよく響いた。

……
 が落ち着きを取り戻したのはそれからしばらく経ってのことだった。彼女が己の失錯を高巻と新島に詫び、ようやくまともな観光ができると一同は胸を撫で下ろした。
 さて、誰が言い出した訳でもなく自然とビーチに向かう足を止めたのは高巻の声だった。
「あ、ヤバ。日焼け止め忘れた……ちょっと買いに行ってきていい?」
「それなら私も付き合うわ」
 踵を返した高巻に新島が続き、もまたそれに付き従う。
 少年たちが女というものはなぜこうも群れたがるものなのかと思ったかはさておき、待ちぼうけを余儀なくされた彼らは顔を見合わせて苦笑した。
 一方、高巻たちが向かったのはこのハワイの地のコンビニである。
「……さっきも思ったけど、品ぞろえヤバいよね」
 棚に並べられた無数の食品、飲料、酒類にフルーツ……総菜もかなりの数が揃えられ、什器の中にはホットドッグが並べられている。土産品があるのは観光地ならではだろうが、アロハシャツまで置かれているのはこの土地特有のことだろう。
「確かに、コンビニって言うよりスーパーみたいだね」
 応えたのは新島だ。彼女の視線の先には愛らしいクマを模ったボトルに詰められた蜂蜜がある。
「アロハシャツ、買う?」
 はまた、何故か派手派手しい色合いのハイビスカスが織り込まれたシャツを抱えていた。
、浮かれすぎ」
 とは言うものの、高巻は笑っている。日焼け止めとミネラルウォーターのボトルを手にした彼女が今のこの状況を心の底から楽しんでいるのは間違いないのだろう。新島もも釣られて笑みを浮かべた。
 待ち人のことを思い手早く会計を済ませた少女たちは足早にコンビニを後にする。
「アロハシャツ……」
「まだ言ってる」
、あれマジで買うつもりだったの……!?」
 若干引き気味の言い様に、は唇を尖らせて訴える。
「一つくらいはこれぞハワイ、みたいなお土産が欲しい。こう……タペストリーとか、キーホルダーとか、置物とか……」
「それじゃ温泉旅行に行ったみたいよ」
「しかもちょっと古ぼけてる」
「いいじゃないか。なにか、部屋に飾れるようなものが欲しいの」
 ぶんぶんと腕を振って主張するの姿に高巻は微笑ましげに目を細め、そしてなぜか意地悪そうに口角を持ち上げて彼女ににじり寄る。
 は奇妙な威圧を感じて後退ったが高巻はその分また距離を詰め、やがて彼女のやわらかな頬を指先で突っついた。
「ねぇ〜そんなことより〜」
「な、なに?」
「ハワイだよ? ハ・ワ・イ」
「うん」
「ビーチだよ? ビ・イ・チ」
「水着持ってきてない」
「そうじゃなくってぇ!」
 ガバッとの肩を抱き、高巻はテンション高く、声は潜めて囁いた。
「告っちゃいなよ……!」
 は全力で腕を引き剥がして逃亡せんと走り出した。小柄な体躯に見合った俊敏さに動向を見守っていた新島は感心するが、ぼうっとしている余裕もなく鋭い号令が走る―――
「真、捕まえて! 迷子になる!」
「えっ? う、うん―――」
 新島は咄嗟に進路を塞ぐように腕を伸ばした。それはちょうどの腹にぶつかり、罠のように絡みつく。
 は逃げ道を失って牙をむいた。
「杏までそういうことを……! 関係ないでしょう!」
「超あるから! 真も興味あるよねー?」
 訳もわからぬまま話を振られた新島はわずかに困惑を見せるが、しかしやがて首を縦に振った。
「全く無いと言われれば、それは違うけど……でも、無理強いすることじゃないとも思うわ」
 至極真っ当な意見であった。
 光明を見出したが振り返ると、そこにはかすかに朱に染まった顔がある。照れているのか恥じらっているのかは分からぬが、少なくとも新島は味方と見て良いだろう。
 状況は不利と見て高巻が言う。
「私だって無理矢理させるつもりはないもん」
 逃げられたからつい追っただけと語った彼女ではあるが、しかし楽しんではいるのだろう。落ち着きなく足踏みをしてに迫る。
「ていうか……ちゃんと聞いたことなかったけど、実際どうなの?」
「どう、って?」
「祐介のこと、好きなの?」
 率直な物言いに、は言葉に詰まって押し黙った。
「祐介から聞いたの話でなんとなく、あ、この子祐介のこと好きなのかな〜って思ってたんだけど……もし違うのなら謝るし、もう変なお節介も止める。止めさせる」
 見上げた高巻の翠の瞳には真摯な輝きがある。
 ただ純粋に友達の恋を応援したいとそこに書かれているのを見て、は極めて慎重に首を縦に振った。
「ち、違わ、ない……」
 消え入りそうなほど小さな声だった。
 高巻は目を見開いて目の前の小さな体を力一杯抱きしめた。
「ぎゃっ!」
 全く愛らしくない悲鳴を上げたに愛玩動物を愛でるように頬ずりをしつつ、高巻は声高らかに訳のわからないことを宣言し始める。
「やっぱりうちの子にする!」
「や、やめっ、真、助けて! 杏が壊れた!」
「手の施しようがないわね」
「諦めないで!」
「はあ……」
 新島の手が拳をつくる。それはぱこんと軽快な音を立てて高巻の頭頂部に振り落とされた。
「あいたっ」
「正気に戻った?」
「すいません……」
 かくして開放されたは新島の背後に慌てて回り込み、彼女を盾にして高巻に胡乱げな目線を送る。
「やっぱりからかう気だったんじゃないか」
「ち、違うって、があんまりにも可愛かったから、つい、ね?」
 なにがつい、なのか。じとっとした目だけで語る少女に、高巻は大仰に肩を竦めてみせた。
「んまあ……その、からかうって言うかさ、やっぱ、気になるじゃん。身近にこういう話があるとさ」
 真も気になるでしょ?
 語尾に添えるように問いかけられて、新島はふうむと腕を組んで思考する。
 気にならないと言えば嘘になるが、やはりこういった極めてプライベートな問題は個人間で解決すべきなのではないだろうか? というのが正直な新島の意見だ。
 ちらりと腰元にしがみつく一つ年下の仲間の顔を見る。彼女は不安げに新島を見上げていた。
 次いで、マイペースさが『ウリ』の怪盗団の美術面担当者の顔を思い描く。
 お似合いだとかベストカップルだとか、そういうことは新島には分からない。そもそも彼女はこの手の話題を己には縁遠い話だと思い込んでいるし、必要だと欲してもいなかった。恋とはどんなものかしらとは思えど、想像も及ばない……
 ただ分かるのは、喜多川という少年とこのという少女の距離は早々簡単には埋まらないだろうということだけだ。高巻が焦れてちょっかいをかけたくなる気持ちも理解できる。
 はそもそも引っ込み思案な所がある。これは幼年期から続いていた経験故であろうが、そのくせ頑固で強情な面も持ち合わせている。短い付き合いの中でも知れることだ、こちらは根っからのものなのだろう。
 対する喜多川はと言えば、良く言えばユニークで個性的、悪く言えば落ち着きのない変人である。
 に御せるとは思えなかったし、かと言って喜多川がキャンバス以外のものに夢中になる姿も想像できない。
 誰かが背を押してやらなければ永久に変わらないのではないか……
 そう結論付けると、新島の胸中に湧き上がるものであった。
 それは彼女が生まれてからこれまでの経験で培ってきたものである。
 元来彼女は人一倍寂しがりだ。早くに父母を亡くし、姉と二人だけで暮らしてきた彼女の中には強い承認欲求がある。これは成長途中にある一人の少女の精神状態としては全く健全なことだ。生理、安全、社会と言った低次の欲求が満たされていることの証明でもある。
 そしてこう言えば誰にでも当てはまることだろう。『誰かに必要とされたい』―――
 新島は改めてを見た。低い背に痩せた身体は貧相と言ってよいが、頭は決して悪くはない。戦いの場に出れば一種無謀とも言える勇敢さを発揮できることはこの旅行前に訪れたメメントスで確認済みだ。
 しかし、そんな彼女もあの少年の前では己の気持ち一つすら言えずにいる。肉体が傷つくことを厭わずとも、精神が傷つくことを恐れているのか……
 新島は結論に至った。
 これは助けが必要なのではないか?
 きらりと彼女の瞳が輝くのを見て、は一歩後退った。
「ま、真?」
「……私も、少しは助けになれると思うの」
 は再び逃走を試みたが、やはり新島によって食い止められてしまう。
「さあ、観念しなさいっ!」
 喜色に満ちた高巻の声に、はぶんぶんと首を左右に振った。
「なにを!?」
「……なんだろう」
「……さあ」
「分かってないのに追い詰めるのはやめて!」
 だって逃げるから、と少女たちは頷きあった。そんな理由で追われてはたまったものではない。は捕らえる腕を振り払い、制服の襟を正して踵を鳴らす。
「お願いだから、放っておいて欲しい。確かに私は、その、あの、アレだけど」
「どれ?」と、新島。
「だから……その……彼のことが好きなのは認める」
「彼って?」と、高巻が。
「お願い許して」
 からかい過ぎたと流石に二人も反省をしたくなるほどの顔は赤かった。
 ごめんと素直に頭を下げるとそれでよしとしたのだろう、は続けて言った。
「そもそも、彼はこちらをなんとも思っていないんじゃないかな。ただの仲のいい友達の一人。私にとってはそれだけでもすごいことなんだけど……」
 高巻は大声を出してこれを否定したいのを必死でこらえた。新島でさえも。
 そんな訳がないでしょう。と言うのは簡単だ。なんなら策を弄して強制的に二人を結ばせることもできる。ただ、それはしてはいけないことだろうという分別もある。
 であれば、彼女も納得できる形を取れば良いのだ。
 高巻はことさらに明るい声を出した。
「ならさ、確認だけでもしてみない?」
「というと?」
 問いかけたのは新島だった。高巻はご機嫌な様子で答えた。
「好きな人いる? って聞いてみなよ! まずいないだろうけど……いたとしても問題ないし! 奪い取れば良いだけだしっ!」
 ぐっ、と拳を握る高巻に、しかしはたった一言で応えた。
「無理」
「結論出すのはえーよ。いい? 相手はあの祐介だよ? 私らの中でも上から一番か二番目くらいの問題児だかんね?」
「それは言い過ぎ」
「じゃ、真的には何番目?」
「……三番目くらいかな」
「変わんないじゃん」
 ならば一番目は誰なのか。出かけた言葉をぐっと飲み込んで、は続く台詞を待った。
「こっちから何かしらアピってかないと負ける」
「何に……?」
 首を捻る友人に、しかし高巻は冷淡にも「さあ……」と大して関心もなさそうに答える。は頭を抱えた。
「んまあ、それは置いとくとしても……マジでほっといて欲しいってんならそうする。が嫌がることしたい訳じゃないし。でも、ほんとに今のままでいいの?」
 はこれにうんともすんとも言わず、ただ素朴な疑問を投げかけた。
「どうしてそんなに首を突っ込みたがるの」
 これに、高巻は新島と顔を見合わせた。
 どうしてなんて、そんなものは……
 根底を探れば下世話な好奇心以外の何ものでもない。何しろ、と喜多川の関係やここに至るまでの道程はちょっと普通とはかけ離れている。困難と逆境にあるヒロインをさっそうと―――していたっけ?―――助け出すなんて、テレビや本の中にしかないようなシチュエーションではないか。
 好奇心はまた喜多川にも向けられている。あの常に超然としたでくのぼう―――杏、言い過ぎよ―――もとい、朴念仁が恋をしたとき、一体どのような変化が訪れるのだろうか。
 でも、そもそもこんなことは疑問に思うことでもない。
 高巻はこれを正直に明かした。
「普通のことじゃないの? 友達の恋を応援するのって」
 新島もまた首肯しつつ応えた。
「そうね。私はあまりこういう経験はないけれど……悪いことではないと思う。誰かを応援したいって思うのは、いけないことじゃないでしょう?」
 質問をしたつもりが逆に問いかけられて、は困惑を浮かべた。
 普通のこと。いけないことではない……
 にはその感覚が理解しがたい。母親の許しを得られた友人たちはそんなことは言わなかったし、母親自身もが異性に好意を持つことに嫌悪感を示していた。
 しかしこの新しくできた友人たちはそれで良いのだと言う。
 は内なるもう一人の己が退屈そうに囁く声を聞いた。
『あなたを縛り付けているのはもうあなただけだわ』
 ほんのわずかに少女の肩が震える。高巻も新島も、これには気づかなかった。
 ともかく―――
 高巻は手を打ってに向き直った。
「ねえ、。嫌じゃなければ応援させて? 大丈夫、もし万が一にでもフられることがあったら一緒に泣いたげる」
「杏、それじゃ失敗することが前提になってる。……私も協力する、というか、杏が暴走しないように見張っておくから安心して」
 はぎこちなく顔を上げ、少しだけ困った顔をして、しかし清々とした声で二人にこたえる。
「分かった。やってみる。その……いや、私は別にこのままでもいいんだけど……でも、その……とにかく! わかった」
 歓声を上げて飛び跳ねる高巻に呆れていいやら喜んでいいやら、は曖昧な笑みを浮かべるに留まった。
 新島もまた高巻をたしなめつつ笑みを浮かべる。
「もう、落ち着きなさい、杏。まったく……」
「はーい。えへへ、、ちゃんと報告してよね?」
「必須なの?」
「必須なの!」
「ほら戻るわよ。三人ともきっと待ちくたびれてる」

……
 は頭を抱えていた。
 聞いてみると約束したはいいが、日中は皆と行動を共にし、夜は当然のことながらホテルで別室。いったいいつ、問いかければ良いのだろう。
 ため息を漏らすの横では同室となった女生徒が早々に寝息を立てている。つい先ごろまでしきりに足をさすっていたから、よほど疲れが溜まっていたのだろう。
 幾度目かも分からぬため息をもらし、窓の外へ視線を投げる。
 カーテンの隙間から見える外の風景は殆どが闇に溶けている。しかしわずかにでも眼下にずらせばあちこちにまだ明かりが灯り、どこか遠くではなにかのショーが行われているのだろうか、異国情緒漂う音楽がかすかに聞こえる。この土地が完全な眠りに就くのはまだ先のことなのかもしれない……
 昼間はあれほどの交通量を吹き散らしていた道路も穏やかな様子こそ見せているが、その街灯はまだ営業中の屋台や土産屋、バー、クラブ、オープンレストランを照らし出している。海上に目を向ければほのかな明かりが動いているのも確認できた。ナイトレジャーの一種だろうか?
 手元のスマートフォンを手繰り、時刻を確認する。もう間もなく夜の八時になろうと言う頃だ。点呼はとっくに終わっているから、後は寝るだけでいい。
 けれど、しかし……の脳裏を約束が過ぎった。
 それは彼女にとって全く未知の経験だった。友達とする約束と言うものはこれほど強い力を持つものなのかと感嘆する。
 そもそもが口約束だ。それに、下世話な好奇心が起因していることにも気が付いている。躍起になって守ろうとする必要はどこにもないし、疲れから約束を果たす前に寝てしまったのだと嘘をついても二人は決して怒りはしないだろう。
 けれど彼女たちに失望されたくないと思うと、約束を守らねばと強く自覚するのだ。
 それは怯えとは縁遠い感情から生まれる情感であった。彼女たちと相対するとき、嘘や偽りを傍に置きたくない。ただそれだけのこと。
 は意を決し、スマートフォンの画面を見つめ、渾身の力を込めてチャットアプリを起動させる―――
 すると神の悪戯とでも言うべきことに、全く同じタイミングでメッセージが飛び込んだ。
『起きてるか』
 送信主は喜多川であった。心臓が不必要に大きく跳ね、危うくスマートフォンを取り落とすところであった。
 喜多川は返信を待たず、既読の文字を見て続けて発言する。
『起きてるな』
『今すぐエントランスまで降りて来てくれ』
『走って』
『はやく』
 やたらと急かし立てる文面に理解が追いつくより先にはカードキーを掴み取って部屋を飛び出していた。
 静まり返った廊下を足音を抑えて駆け、エレベーターホールへ。到着を待つ間にも喜多川からせっつかれ、ますます混乱は強まった。
 ロビーに降り立ち、フロントを抜け、エントランスホールへたどり着く頃には、の息はすっかり上がっていた。
 視線を辺りに彷徨わせ、呼び出し主の姿を探す。
 果たしてホールの隅に佇んでいた喜多川は、どうしてか同様息をせき切らせて薄っすらと汗までかいていた。
「あ、エレベーターがあったか、そうだな……それがあった……」
 乱れた息の中吐かれた台詞を鑑みるに、彼は階段を駆け下りてきたと言うことだろうか?
 疑問はしかし、口から出る前に遮られてしまう。
「ふう……先生たちに見つかる前に行くぞ。まだ走れるな?」
「はっ、はい!」
 の声が上ずったのは、なにも走ってきたからという訳ではなかった。喜多川の手が、彼女の細い手首を掴んでいるのだ。
「よし、行こう! すぐに始まる!」
 はじまる? なにが?
 問いかけはやはり、口から出ることはなかった。

 喜多川がの手をぐいぐいと引きながら向かったのはホテルの真正面にあるビーチだった。
 すぐ間近を通る街路に立てられた街灯が足元を照らし出し、この時間になってもまだかなりの数の観光客がまるで影のようにたむろしていることを教えている。
 彼らは一様に何かを待っている様子である。そしてそれは、恐らく喜多川も。
 よくよく闇に目を凝らして見てみれば、影の群れの中には同じ洸星高校の生徒たちの見知った顔がちらほらと見受けられた。
「祐介、一体なに―――」
 三度、問いかけは封じ込められた。
 少女の背後でぱっと閃光が散る。一拍遅れて轟音が鳴り響き、周囲からは歓声も上がる。
 驚きをもって振り返った少女の目に映ったのは色鮮やかな光の奔流―――花火であった。
 暗く沈んだ海を挟んだ向こうの浜、どこかのホテルから上げられているのだろう。連続して幾つも上げられる光の演技に、は声を忘れて見とれていた。
「よし」
 満足げな喜多川の声を花火の音の合間に聞き取って、は彼をちらりと横目で確認する。彼の視線は花火が打ち上げられる先を見つめている。
「来いって、これのことだったのか」
「そうだ。あいつらも誘えれば良かったんだが……なにしろ聞いたのがつい、ほんの少し前のことでな」
 同室の連中らとの会話の最中、こっそり抜け出して見に行こうと持ち掛けられたたのだという。喜多川はこれを断り、その場でに連絡を取ったと、そういうことらしい。
 なるほど、だからあれだけ急かされたのかと得心して、はもう何を言うことも無く花火観覧を堪能しにかかる。
 ほんの数分ではあるが、それは十分過ぎるほど彼女と隣に立つ少年、それから周囲の目的を同じくする観光客たちを楽しませた。
「杏たちも見てるかな」
「どうだろう。連絡してみるか?」
「これいつまで続くのの?」
「もう終わる」
 それでは間に合わないではないかと言うと、喜多川は初めてそのことに気がついたと言わんばかりに目を見開いた。
「しまった……」
「私より先に連絡すべきだったね」
 苦笑しつつそう言ってやる。ちょうど最後の花火が残響とともに消えるところだった。
 喜多川は不思議そうな顔をして、
「お前が間に合わなかったらどうする。それではなんの意味もないじゃないか」とこたえた。
 は首を傾げる。
「花火大会のリベンジをするつもりだったんじゃ? 例の、ひどい雨に降られて中止になったっていう」
「それは来年も行けるが、こちらはそうもいかん」
「そっか」
 周囲の人波がぞろぞろと海岸からはけ始めるのを見送りながら、は手近な段差を椅子代わりに腰を下ろした。
 ほんの少しの時間抜け出すくらいなら、おそらく教師連中もそこまで口やかましく責め立てはしないだろう。見知った顔をいくつも見かけたことこそがお目こぼしの証拠だ。そう思うと早々に引き返すべきであるのだが……
 見上げた喜多川の目が訴えている。戻らないのか? と。
 はわざとらしくそれから目を逸らし、遠くで瞬く明かりとまだちらほらと残る人影に向ける。注がれる視線に明らかな戸惑いを感じても、彼女は決して立ち上がろうとはしなかった。
 その胸中には約束が宿っている。
 というより、今を逃せば時間的にも、精神的にも聞けずじまいに終わることは目に見えている。だから仕方がないことなのだと、は幾度も己に言い聞かせた。
 まったく利己的な思考である。自身がこれに驚きを抱くほどの。
「す、少し……涼んで行こうかなと、思って」
 声は多分に言い訳めいていた。打算的でもあった。あくまでも個人だけが残ることを示唆する言葉だが、しかし観光地とは言え、ホテルの目の前とは言え、母国に比べれば治安は幾らか劣る。喜多川もそれを知っているだろう。例え不安のない状況だったとしても彼が女を一人残して帰れる性質でないこともまた、は良く知っていた。
 果たして思惑通りに隣へ腰を下ろした喜多川に罪悪感こそ覚えど、それでも彼女は立ち上がらなかった。
 ―――これは本当に自分が仕出かしていることなのだろうか?
 早鐘を打つ胸を抑えて自問する。答えはもちろんイエス以外にあり得ないのだが、しかし信じることができない。こんなに独りよがりで、他者のことを気にかけることもせず、己の極めて個人的な感情を優先させるなんて……
 は胸中で己を罵った。卑怯者め、と。
 それでも、風の中を通るうるさいくらいの潮騒とかすかな喧騒に耳を傾けていると、次第に鼓動は落ち着いてくる。潮の香りを多分に含んだそれが母国のものより爽やかに感じられるのは湿度の違いか、それとも潮の流れの関係だろうか。
 思いつつ隣を仰ぎ見る。
 夜の闇に沈んだ水平線を見つめる喜多川の表情はどこか楽しげだ。退屈していないことに安堵して息を吐く。きっとまた、その胸の内でなにかを描いているのだろう。
 実際のところ、に喜多川の創り出すものの優劣は理解できない。何しろ彼女には恋慕のバイアスがかかっている。それを通して見れば余人がなんと評価を下そうとにとっては傑作だ。ただただ、すごいと感嘆の声を漏らすしかない。
 そんな己をのれんに腕押しかぬかに釘と思うこともある。喜多川にとって張り合いのない相手ではなかろうか、と。
 ならば少しでも勉強しようと有名な画家の絵を眺めても、にはやはり理解できるところは多くない。精巧な写実画であれば写真と何が違うのかと思ってしまうし、印象派はそもそも何を描いているのかがわからない。人物画や美人画ならばと思うが、きれいだとは思えてもそこに込められた画家の感情や想いは汲み取れなかった。
 そもそも芸術的なセンスが無いのだ。子供の頃から絵を描くのは苦手で、図工や美術の時間はいつも憂鬱だった。
 ―――それでも、と思う。
 目の前のこの少年の目を通り、手指から産み出される色彩は美しい、と。
 だからこそは問いかける。
「なにか新しい作品が描けそう?」
 問いかけというよりは期待や催促の類に近かった。
 しかし肝心の喜多川はこれに少しの間沈黙し、やがて目を見開いて驚きを示した。
「何……?」
「じっと海を見ているから、なにかいい着想を掴んだのかなと」
「ああ、そうだな。うん……」
 動揺を見せる少年に、は首を傾げる。
 彼は己の驚きと動揺の訳を語った。
「俺は今、不思議なことに何も考えていなかった。いや、実際には明日の日程だとか、部屋番号はいくつだったかと考えてはいたんだが……だが、思考よりも感覚が先行していたと言うべきか、お前が隣に居ることに満足して……見ているはずなのに、何も目に入っていなかった」
 少年の手がなにかを確かめるように握りこまれる。そこにはきっと絵筆があるのだろう。彼は描き出すように中空に指を滑らせた。
「見えているのに、見えていない……不思議な感覚だ。ただ、お前の存在を感じて、それを心地良いと……」
 まるで思考と五感が完全に切り離された離されたかのようだった。
 そう語る声はどこか夢見心地だ。もしかしたら彼は少し眠いのかもしれない。
「眠い?」
 率直に問いかけると、彼はうーんと唸って返す。
「少し。だが……」
 少年は少しだけ躊躇して、それから、意を決したように一度唸り、言った。
「部屋に帰りたくないとも」
 を見下ろす瞳は暗がりの中だというのにほんのわずかに瞳孔が開いている。その奥ではまた、小さな光が星のように瞬いている。それが瞳に映る少女の白いシャツが周囲の灯りを反射してものいるのだと気が付くのには少し時間が要った。
「花火はとっくに終わっているのに、見るべきものがまだここにあると感じている……それは一体なんだろうか。やはり、誰に咎められようとキャンバスを持ち込むべきだった」
 落ち着きを失った長い脚のつま先が砂を蹴る。手指もまた何かを求めてさまようが、目的の物を見つけ出すことはできなかったらしい、ぱたりと力を失って垂れ下がる―――
「ああ、部屋に全部置いてきた……」
 これは恐らく、筆記用具やクロッキー帳のことだろう。
 あまりの落胆ぶりに激しく自責の念を揺さぶられて立ち上がる。心の内で二つのものが天秤にかけられた結果だろう。は上ずった声で少年に持ちかける。
「戻ろうか?」
 少年はやはり迷うような素振りを見せた。
 上体を折って膝の上に肘を置き、組んだ手に顎を置く姿は素直に就寝したくないと語っているように見える。むつかしい顔で水平線を睨んだまま、彼は不動を貫いた。
「せめてもう少し目に焼き付けたい。だが、何を……」
 つまるところ、彼が得ようとしているのは雲のようなものである。言葉や触覚で捉えきれない曖昧なもの―――それこそ精神世界に置かれたお宝を、この物理的な法則に支配された現実でもって掴もうとしているのだ。
 にはやっぱり、少しも理解できないことだった。
 崇高な行いのようにも、まったく馬鹿々々しい狂人の如き振る舞いとも取れる。
 芸術家とは総じてこういうものかと思うことは今までにもあったが、今日は格別だ。彼が何を見ているのか、それすらわからないのだ。
 それでも、は少しも寂しいとは思わなかった。目の前の少年は自分が傍に居るというのにまったく他所事を考えているというのに……
 は立ったまましばらくぼうっとその様を眺めて潮騒に耳を傾ける。
 高巻らに対して「別に今のままで構わない」と言った言葉に嘘はない。はほんとうに、彼がこのように思索する姿が好きなのだ。
 微笑んで、は彼に背を向けてその視線の先を追った。水平線は暗く沈み、空と海の境界を明らかにしていない。ただ薄暗いだけのこの光景が喜多川の目と手を通してどう描き出されるのか……想像する楽しみこそが彼女の特権であった。
 しかしそれを遮る者がいる。他でもない喜多川本人だ。
、それでは駄目だ」
「え?」
 首だけで振り返ると、彼は相変わらず難しい顔をしてこちらを見上げている。何が駄目なのか見当もつけられずにいると、彼は重ねて言った。
「背を向けないでくれ」
「へ―――」
「こっちを向いて欲しい、と言っている」
 端から逆らう気も無かったが、声には上意下達―――つまり、これはほとんど命令だった。
 体ごと振り返る。
 すると彼が海に向けていたはずの視線がじっと少女の痩せた身体に注がれる。

「はい」
「何故顔が赤いんだ」
「気のせいじゃないでしょうか」
「そうか?」
「そうだよ」
「そうか」
「うん」
 短いやり取りの間も目の向きは決して外れなかった。
 見つめられていると思うと人は自分のかっこうが気になるものだ。は身動き一つ取れずにいる中で己自身を見返した。
 学校指定のシンプルな運動着、髪は走ってきたままだから乱れている、汗もかいていて、鼻先に脂が浮いてはいないだろうか―――
 年頃の少女らしい恥じらいは、しかし少年にはまったく通用しない。その視線は無遠慮の一言に尽きる。
 優れた画才の持ち主は、衣服の上からでも対象者の筋や骨が見えるという。喜多川はその境地に至っているのかは分からぬが、そう思うとやめてくれと叫び出したくなる。懸命にその衝動を堪えつつ耐えるその姿が愉快に映ったのだろうか、少年はふっと口元を緩めた。
「なんで笑ってるの……」
「楽しいときには笑うものだろう」
 はむっとして片眉をしかめる。
 それもまた少年には喜悦となった。彼は愉快そうに喉を鳴らしてのけぞり、完全にその集中を途切れさせてしまったようだ。
「ああ、楽しい。お前といると本当に退屈しないな」
「褒めてるの、それ」
「もちろん」
 どうやら嘘はないらしいと見てため息を吐く。この程度のことで喜んでしまう己こそを恨めしく思い、は俯いて足元をじっと見つめた。つま先で砂に穴を穿ちながらあれこれと思考を巡らせる。
 思考はやがて言葉として転び出た 
「きみは楽しいって言うけど、それは……杏たちと一緒にいるときよりも?」
 言ってから、しまったと思う。これではまるで子供の嫉妬のようではないか、と。
 案の定、喜多川はそんなことを言われるなどと想像もしていなかったのだろう、ぽかんとした顔をして答えあぐねている。
 は慌てて言を重ねた。
「その、ほら。私は絵のことも詳しくないし、いつもきみの話を聞くばかりで、なにか新しいものを与えられている訳でもないでしょう」

「だから退屈させているんじゃないかと。もっとなにか、きみの見識を広げられるような知識があればよかったんだけど。学校の勉強ばかりでは駄目だって、こういうときにこそ実感するものだね」
、落ち着け」
 低く穏やかな声で呼びかけられて、ははっと息を呑む。下手打ちの上に失態を塗り重ねたことを理解して、彼女は肩を落として俯いた。
 その悄然とした様になにを見出したのか少年は口元を緩める。少なくとも、悪意があってのことではないと感じ取ったのだろう。彼は応えて言った。
「難しい質問だな」
 これはまったく正直な言葉であった。
 そもそも友人らを並べてその比重を決めようとするなんて、考えたこともない。
 もちろん、個々人を優先すべき場面はある。怪盗団として物事の決定権を委ねるべきはリーダーだろうし、知啓をもって当たるべき難題であれば新島を頼るだろう。正面突破が必要とあれば坂本の力は欠かせない。経験則を必要とする場面ではあの靴下猫の手を借りることになるだろうし、情緒の面でこの一団を精神的に支えているのはきっと高巻だろう。近頃は電子情報を取り扱う凄腕のハッカーもここに加わった。
 彼らと比べて個人をと考えると、劣ることはないだろうが決して突出はしないというのが答えだろうか。
 しかし、それならば……
 どうして今ここに二人だけでいるんだろう。
 答えを探って砂の上をさ迷う視線に籠められた感情を良くないものとして受け取り、はその思考を遮らんと声を上げる。
「いや、いいんだ。真面目に考えてくれなくて。ただの好奇心……そう、きみに友達がいたなんて、初めに聞いたときはびっくりしたものだから」
「失礼な」
 咎めるような言葉だが、声は笑っている。それに安堵して、は繕うように言を重ねた。
「だって、そうでしょう。きみは頑なだった。それは今もそうだけど、少なくとも初めて会った頃はもっと……」
「もっと?」
「怖い人かと」
「失礼な」
「ごめん。でも、きみは見た目よりずっと親切だったよ」
 フォローのつもりか? と疑問に思ったが、敢えて口にはせずに済ませる。喜多川は組んだ足の先を行儀悪く揺さぶって言葉の続きを待った。
「近頃はずいぶん取っつきやすくなったって評判だし」
「誰が?」
「きみの話をしていたよね?」
「ああ、そうか。……いや、ちょっと待ってくれ。俺はそんなに避けられていたのか……?」
 ショックを受けたような少年から目を逸らし、は無言でこたえた。
「ええ……」
「あー……そういえば、何度かきみに渡してくれと手紙を仲介したこともあったね。あれはどうなったの?」
「誤魔化したな。ふん……」
「忘れたわけじゃないでしょう」
「覚えているとも。別に、大したことは書いてなかった。ただ、俺の絵を好きだとか、応援しているとか……」
「嬉しくなかったの?」
「馬鹿な。嬉しいに決まっているだろう。ただ、拍子抜けしたというか……」
 拍子抜け? とおうむ返しに問い返されて、喜多川は両手で顔を覆った。己の不始末を罵るような言葉が手の指の間から漏れるのを聞くに、どうやら失言であったらしい。聞かなかったふりをしてやるべきかとも思うが、しかしは黙ってその手を見つめている。これこそ正真正銘の好奇心であった。
 やがて彼は己を呪いながら吐き出した。
「付け文かと思うじゃないか、普通は」
 彼からそのような発想が飛び出してくることにこそ驚いて目を見開く。そんな年頃の男児らしい感情も持ち合わせていたのかと失礼千万なことを思うが、顧みれば彼もまた平凡―――でない部分が圧倒的多数を占めるが―――な男子高校生だ。そういえば海では惨敗した結果に落ちこんでいた。
 とはいえ、それもまた勘違いだとなどは考える。
 応援しているなんて言葉は、嘘でこそないだろうが、ただの湾曲した表現に過ぎないのだろう、と。
 手紙を渡してくれとに乞うた少女たちはいずれも恥じらい、そして懸命だった。彼女を羨ましそうに、恨めしそうに見つめもしていた。それが恋慕でなくて何だというのか。
 かといってこの少年に、遠回しな告白に気が付いてやれというのも困難だろう。
 そしてはまた己を卑怯者めと罵った。教えてやることもできるのに、どうして黙っているつもりでいるのか、と。
 しかし一方で、はこの自己中心的な考え方を受容しつつあった。たとえ己の行いによって誰かが嫉妬のあまり自らの命を絶ったとして、それがなんだというのか。もちろんこれは比喩であって、本当に人の命が絶たれようとするのであれば彼女はその身を差し出してでも阻止するだろう。
 は落ち着いていた。波音に耳を澄ませているうちに平静を取り戻し、迷いをどこかに放り投げていた。
「祐介は好きな人とかいないの?」
 問いかける声もまた平坦である。かえって喜多川の方が驚いて、言葉を忘れるくらいだった。
「杏とか、真とか。年下だけど双葉とか。あ、うちのクラスの東郷さんは知ってるよね? 彼女、すごい美人だ。きみに手紙を渡してくれと言ってきた子もみんな可愛かった」
 その口元には笑みまで湛えられている。彼女はまったくいつも通りを装えていた。
 喜多川はぽかんとしたまま、問いを返した。
「その選択肢の中にお前は入らないのか」
 思わぬ反撃である。
「すごいこと言うね……」
「すまん。ただ単純に気になった」
「……私がそこに入るかどうかは、きみの判断に委ねる。私がどうこう言える問題でもないでしょう」
「それを言ったら―――」
 そもそも杏も真も東郷一二三も、他の多くの女性もそうではないか。
 反論しようとして、しかし喜多川は開きかけた口を閉ざした。思案顔をして腕を組み、あれこれと考えを巡らせているらしい。この沈黙をどう受け止めたものかともまた思いを巡らせる。
 彼と居て沈黙を居心地悪く感じることは珍しい。もっとも、この感覚はだけが感じ取っているものだろう。
 そもそも、いないの? という問いかけなのだからイエスかノーで答えればいいのだ。なにをそんなに迷うことがあるのだろう。ノーであるならば即答できるはずだ。つまり、答えはイエスかそれ以外だ。いるのだが、伝えるか伝えまいかで懊悩しているとでもいうのか。
 果たして少年の答えはそれ以外であった。
「わからん」
 これには怪訝な顔を見せる。
「というと?」
「そのままの意味だ。俺は近頃、人の心というものがよく分からなくなってきている……いや、最初から分かっていなかったんだろう。それが筆にも表れてしまっている」
「スランプというやつ?」
「どうだろうか。手は動くんだが……そこに乗せるべき……心というものが分からない。あるいは、無いのかもしれない」
 声と表情は自嘲的だ。内容は哲学的でもある。
 思わぬ方向に話が向かうことに若干面くらいながらも、はさらに問いかけた。
「心が無い人なんているの」
「それも、分からんな。俺は全ての人を見てきたわけではないし。七十六億人もいるのだから、一人くらいは心を持たない存在もいるかもしれない。もしかしたら、この俺こそがそうかもな」
「それは無いと思うけど……」
「だが、少なくとも俺の絵には小手先の技こそあれ、心が無いのだと言われた」
「大胆な意見だね」
「うむ。だから……ああ、お前の質問の答えに戻るんだが……だから、解らないと答えるのが今の俺に最もふさわしいのだと思う」
「なるほどね」
 頷いて、はやっと緊張を解いた。やれやれと頭を振ってこめかみをさする。
「心か」
 囁くような呟きに、喜多川は大きく首を縦に振った。再び頬杖をついた彼の眉間にはしわが寄っている。
 彼は見上げて言った。
「お前には解るのか?」
 声は、縋るような響きを多分に含んでいた。
 はこれにすぐには応えることができなかった。彼女にだってわからなかったからだ。
 知識的なことであればいくらだって並べることができる。
 ―――思春期後期に差し掛かった私たちは第二次性徴による大きな肉体の変化に伴い、精神にも大きな変革を迎える。それはこれまでの発達過程をやり直すということだ。産声を上げて誕生した瞬間から大人になることを意識した瞬間までのリフレインと言える。このとき、私たちに問題行動や身体的、精神的異常が発生するのであれば、それは身体や精神がやり直すを求めているということになる。私が母親に対して反撃をしてみせたのは、自主性を得ようとした結果の一つだろう―――
 こんなことを言い連ねて何になる。は口を閉ざした。
 ただ、これを踏まえて少年を見たときわかることがある。彼は幼年期に得られなかったものを今、己の手で取り戻そうと足掻いているのだ。
 でも、彼が得られなかったものというのは何だろうか。
 はじっと喜多川の瞳を覗き込んだ。そこに答えがあるかもしれないと願って。
 けれど、いくら見つめたところで『には』決して理解することはできなかった。
 それでもは彼に手を差し伸べる。
「私にもわからない。でも、何か力になれることはあると思う」
 少年はなんの迷いもなくその手を取った。
「きみには『』が必要なんでしょう?」
 悪戯っぽく笑って腕を引くと、彼は素直に力に従って立ち上がった。空いた手で頭をかき、少しだけ照れたように微笑んで、やがてかすかに首を縦に振った。
「ああ、そうだな。、俺を助けてくれ」
「もちろん。そんなのは、当たり前のことだ」
 応えて、ははっと息を呑んだ。昼間の高巻と新島の言葉を思い出したのだ。こんなのは普通のことだ、いけないことではないのだ―――
 こういうことだったのか。
 得心して、は握ったままの喜多川の手をわざとらしく乱暴に振り払った。
 そうとも。たとえ彼が己の想いに報じようと報じまいと、彼の味方でいることはきっと生涯変わらない。なにがあろうとも。
「もう戻ろうか。さすがに先生方の温情にも限界がある」
「む。もうこんな時間か。そうだな、ああ、そう言われると途端に眠くなってきた」
 二人は並んでホテルまでの短い道行を共にした。二人の距離は腕が触れそうなほど小さかった。