薄暗く、消毒液の臭いに満ちた空間で少年はまんじりともせずソファに腰を下ろし、天井を見つめていた。
 その背後の壁には『うがいをしよう』とか『ちゅうしゃはこわくない』と書かれた子供向けのポスターが貼られている。
 武見内科医院―――年季の入った古いビルの二階に入ったこの診療所の内部は外観に比べればずいぶんきれいに保たれているとおもう。当然だ。病院なんだから。
 チカッと瞬いた蛍光灯が少年の思考を遮った。
 あくびを一つ。少年はだらしなく足を延ばし、ソファの背もたれに体重を預けてまた天井を睨みつける。
 どうしてここに居るんだっけ。眠気に支配されつつある脳をなんとか叩き起こし、思い返す。
 ほんの数時間前のことだ。
 怪盗団のリーダーを務める彼の元に、つい先ごろ仲間として迎え入れられた少女からメッセージが届けられた。
『以前言っていた病院のことで相談をしたいんだけど、時間あるかな?』
 少年はこれに是と応えた。
 曰く―――
『病院に行くこと自体は決まっているんだけど、家の近くや知り合いに会う可能性がある場所にはやっぱり……』
『その、お母さんのお仕事に支障が出ても困るから』
『だから口の堅いお医者さんを知っているのなら教えて欲しい』
 とのことだ。
 少年はやはり肯定を示し、案内を申し出た。
 四軒茶屋の地下駅から上がった先で待ち合わせ、連れ立って向かった先がこの武見内科医院だ。
 二人を出迎えた武見妙は一瞬うんざりとした顔を見せ、それから辟易とした顔で彼らを招き入れた。
「うちは内科なんだけど」
 の症状―――精神的圧迫による軽度のPTSDと幾つかの外傷を説明したところ、武見はこう返した。
 それでも見るくらい、その結果然るべき医者へ紹介状を書いて寄越すことくらいは出来るだろう。思ったが、説明するのも面倒になって、少年は隣で不安げな顔をする少女の黒髪を一束持ち上げてその下……ずいぶん薄くなったが、それでもまだ人の手の形を残す痣を見せつけた。
 武見は息を呑み、じっとそれに視線を注く。
 少年はその瞳に彼女の本性を見た気になる。患者と向き合わない闇医者だと彼女を謗る者こそを彼は嘲笑った。彼女の瞳には病に苦しむどこかの誰かを救いたいとここまで研鑽を重ね続けてきた高潔な精神が宿っているではないか。
 決して窮地にある者を見捨てない、そんな確信を抱かせるには充分すぎる輝きに、少年は微笑を浮かべた。
 果たして武見はため息をついて少女を診察室へ放り込む。
「君はそこで待ってなさい」と言い添えて。
 そうして、彼は躾の行き届いた子犬のようにじっとご主人さまの帰りを待っている。主人は誰かと問われたら、彼はワンと鳴いて武見を指差してやるつもりでいた。
 そのように決意を固めると、ちょうど診察室のドアが開かれる。少年はぱっと体を起こしてそちらへ目をやるが、出てきたのは武見のみだ。はてと首を傾げた彼を一睨み、武見はヒールの音を高らかに響かせて詰め寄った。
「なんのつもりで連れて来たの」
 言葉の意味を図りかね、少年は無言を返した。武見の唇からため息が漏れる。
「あの子、虐待されてるんだろ」
 脅しつけるような目つきと語調に少年はたじろいだが、しかし言わねばならぬと口を開く。
「その問題は解決した」
「解決? 素人が勝手に判断するんじゃない」
「本当だ。はもう殴られることはない」
「だから素人だって言ってんの。まったく……面倒な患者連れ込んでくれちゃって……」
 がりがりと乱暴に頭を掻く武見に、少年はなおも食い下がった。
「信じてくれ。本当にもう虐待されることはない」
「……はあ、いい? よく聞きなさい。君の言う通り、もう彼女が殴られることはないとしよう。でも、それは解決なんかじゃない」
「え?」
「あの子、背が低いね。高二の女子平均よりかなり。体重も少ないし、骨も細い方だ」
「あ、ああ……」
「あんたたち子供が大きくなるのに必要なもの、何かわかる?」
 言いながら武見はソファを指し示し、彼に座るよう言外に促した。従わなければならないだろう。
 再びソファに腰を据えた少年は少しだけ考えて先程の質問に答える。
「牛乳とか、肉? あと、野菜?」
「それらも大事なものだね。キチンと摂ってる?」
 直近の食生活を思い返して少年は押し黙った。
「……まあ、いいとしようか。でも、言っとくけどサプリで補える範囲には限界があるよ」
「はい……」
 うなだれて応えた少年にやっと武見は口元を緩ませる。
「成長には確かに食事が欠かせない。大切なことだ。でも……」
 ふわ、と暖かなものが頭部を撫でたのを感じて、少年は身を固くする。
 なんだと見やれば何ということはない。立ったままの武見が腰をかがめ、少年の側頭部に頬を寄せ、その頭を優しく撫でているのだ。
 心臓が大きく跳ねる。顔に血が集まるのを感じる。
 しかし……それはほんの少しの間のことだった。
 頭を撫でる手は慈しみに溢れていた。毛髪越しに触れている頬の暖かさ、耳の近くにある心臓の鼓動、消毒液の強いにおいの奥にある女の体臭……
 少年は胸を締め付けられたような心地になる。それは決していやらしい気持ちではなく、どこか郷愁に似た、切なさによるものだった。
「勉強ばっかして、友達の面倒まで見て……無理してない? きみは大丈夫なの?」
 目の奥にひりつくような熱さを感じて、少年は慌てて顔を手で覆った。
 武見の言いたいことが嫌というほど理解できる。
 彼女が体現しようとしたのはきっと母親からの愛情というものだろう。
 危うく泣くところだった。
 離れていく武見の手にそう言ってやると、彼女はふんと鼻を鳴らして口角を釣り上げた。
「じゃ、分かったってことね。子供の成長に必要なのは食事ももちろんだけど、親からの愛情も大きく影響するの。もちろん例外はあるし、そもそも遺伝ってのもあるけど……でも、愛されず育った子供はその影響によって成長ホルモンの分泌が抑えられ、成長不全を呈することがある。あの子の身体の小ささはまさしくこれ」
 それに、とカルテに目を落として武見は続けた。
「外傷性骨折が自然治癒した形跡も見られる。子供には珍しいことじゃないけど……でも、このせいであの子は日常的に痛みやしびれを感じてる」
「そんなこと一度も」
「彼女にはそれが日常なんだよ。当たり前のことをわざわざ人に言ったりする?」
「けど、でも……」
「もう一度聞くよ。何が解決してるって?」
 返す言葉を失って、少年は沈黙した。
「ショック? そんなに重篤な問題じゃないと思ってた?」
 腰を下ろしたままの少年の頭に軽くカルテをぶつけ、武見はしゃがみこんで俯いたその瞳を見上げた。
「きみが何かしてあの子を救い出した。立派なことだ。でも、もう手を引きなさい。ここから先はプロの仕事。なんなら、きみにもカウンセラーを紹介する……」
 武見の瞳にはやはり高潔な輝きがあった。それは何ものにも勝るとも劣らない、苦しむ誰かを救おうとする意志の表れだ。
 少年は一時それに魅入られた。怪盗団として秘密裏に活動していることを武見は知らないだろうが、それでも言われているような気持ちになる。『君は誰かを助けているけど、君を助けてくれる人はいるの?』と。
 少年はそれに縋ることもできた。何もかもを打ち明けて、耐えられない、助けて欲しいと跪き、その脚に触れることも。武見は決して拒絶しないだろう。確信があった。
 それでも彼は首を横に振った。
 その瞳には武見と同じ輝きがある。顔も名前も、声すら知らない誰かを助けるために己が傷つくことを厭わない者だけが宿すことを許された光が、少年を立ち上がらせる。
「ここで逃げたら、俺は一生あいつらに顔向けできない」
 決然と言い放った。
 あいつら、と言ったとき、彼の頭を過ぎったのは仲間たちの顔だ。
 仲間たちが少年の姿に立ち上がる理由を見出しているのと同じように、彼もまた仲間たちに己の為すことの意義を見出している。あいつらの前で無様な真似はしたくない。どれほど傷つこうとも、血反吐を吐こうとも。
 そして武見は、まだ年若い少年のそんな使命感じみた決意をいなすことはしなかった。ただ眩しそうに目を細め、小さく笑う。その笑みは皮肉めいていた。彼にではなく、己に対する冷笑だった。
「馬鹿な子。苦労するよ?」
「構わない」
 重々しいため息が武見の優艶な唇から落ちる。彼女はもう笑っていなかった。いつもの呆れたような、人を値踏みするような目つきに戻る。
「やるねえ少年。惚れてんの?」
 この問いに、少年は少しだけ考えてから答えた。
「有りか無しかで言ったら無し寄りの有り」
 すると武見の手が少年の耳を捻り上げる。
「女を選り好みするにはまだ経験値が足りないんじゃない、坊や」