11:Where there’s Smoke, There’s Fire

「モルガナ! ごめんなさい!」
 勢いよく頭を下げた少女に、靴下猫はびっくりして目を見開いて、少しだけ毛を逆立てた。
「猫扱いがそんなに嫌だったなんて……も、もうベタベタ触ったりしないから……」
 ごめん、と消え入るような声で言われてしまうと、モルガナは怒る気にもなれなかった。
 確かに、彼女の己に対する扱いに関しては言いたいことはいくらでもある。しかしそれは素直な反省を示す彼女をこれ以上責め立てる理由にはならないだろう。猫は精神的に大人だった。尻尾を一振り、ふんと居丈高に鼻を鳴らし―――
「いいよ。ワガハイの見た目が猫であることは間違いないんだ。まあ、その……」
 恐る恐ると顔を上げた少女に、モルガナは優しく言ってやる。
「ちょっとくらいなら撫でてもいいぜ?」
 そして彼は己の迂闊さを悔いた。

……
 数日後、モルガナと無事に和解を果たした怪盗団は奥村邦和のパレスへ挑んだ。
 最奥まで至っても廃人化事件への関与へ繋がる手がかりは見つけられず、これは空振りかと覚悟もしたが得たものもあった。
 奥村邦和の娘、奥村春が新たな仲間の一人として加わったことこそが怪盗団にとって得難い宝の一つと言えるだろう。
 後は予告状を突きつけ、改心と廃人化事件の情報を引き出すのみ―――と、いうところになって、再び怪盗団は足止めを余儀なくされた。
「無理……ほんとムリ……」
 とは佐倉の弁である。年単位で引きこもっていた彼女は急激な運動を行ったせいか、現在その全身を筋肉痛に苛まれている。確かに奥村邦和のパレス内ではずいぶん走りまわされたり、宇宙空間を遊泳させられたりはしたのだが……
「お前が一番動いてねーだろ!」
 坂本の罵声に同調する者は一人もいなかったが、誰もが心の中で似たようなことを思ってはいた。
 とはいえ、佐倉に負担をかけたくもないというのは共通した認識である。一日二日の休憩を挟んでお宝を頂戴しに参ろう、ということで怪盗団の意思は固まった。

 せっかくやる気に溢れていたというのにと、お預けを喰らった喜多川は気力と体力を持て余して渋谷の駅前広場で何をするでもなく人の流れを観察していた。
 通り過ぎる人の顔をいくつも眺めては想像する。過去を持ち、意志と記憶を抱え、疲弊し、あるいは楽しげな横顔はどこから来て、そしてどこへ向かうのだろうか。なにを見ているのか、なにを感じているのか。そういうことを考える。もしかしたらこの中に、自分と同じように人には決して言うことのできない秘密を抱えている者もいるのかもしれない。
 それはとても楽しい想像だった。
 きっと、誰もが大小を問わず何かを隠し持っているのだろう。今目の前を通り過ぎたスーツの女はCIAのスパイかもしれないし、小走りで駆け抜けて行った男はスーパーパワーを持ったヒーローかもしれない。そんな大仰でフィクションめいたことでなくても、いかにも甘そうな見た目のドリンクを手にしていた壮年の男は糖尿病予防に甘いものを控えるよう言い渡されているのかもしれないし、苛立たしげにヒールの踵を鳴らして早足に通り過ぎた女は誰かにまったく理不尽な理由で急かされているのかもしれない。
 答えは無いが、だからこそ面白いものとして映る。秘すれば花とはまさしくこのことか。
 小さく笑った彼を時折胡乱げに見る者もいたが、たいていはそのまま歩き去った。まるで幽霊か透明人間にでもなったような気持ちになって、また次の人間に目を向ける。
 それでもきっと、怪盗なんてふざけた秘密を抱えるのは自分くらいだろう、と思いながら。
 しかし考えてみれば、怪盗は彼一人ではないのだ。
「あれ、祐介じゃん。なにしてんの?」
 声をかけてきたのは、同じ怪盗団の仲間の一人、高巻だった。
「それはこちらの台詞なんだが……今帰りか?」
「うん、そう。あんたは? 誰か待ってんの?」
「いや。ただ人波を観察していただけだ」
「あんたも好きだね、楽しい?」
「楽しいよ。こうしていると、まったく同じ人というものは一人としていないことがよくわかる」
「そんなん当たり前だとおもうけど……」
 呆れつつ、それでも彼女は面白がって喜多川の隣に並び、通り過ぎる人の群れをぐるりと見回した。
 喜多川にとって面白いのは、彼女が隣に立つだけでこれまでちらほらとしか向けられなかった視線が一斉に集まることだった。
 高巻はとにかく目立つ。髪の色も瞳の色も、その整った容姿とプロポーションは性別を問わず人を惹きつける。己もその一人だと思うと、おかしくて仕方がなかった。
 彼女を美しいと思う気持ちは今でも変わらないし、中身を知ってさらに好ましく思うのに、初めて見たときの『完璧』さはすっかり失われてしまっている。
 喜多川にとって幸いなのは、それが悪いことではないことだろう。
 隣でうーんと唸って人の群れを観察しようと努力する少女がまったくどこにでもいるありふれた女子高生で、ただの女の子だと知ることができたのは、本当に幸せなことだ。彼女はただの人間で、ごく普通の少女で、そして高潔な精神を持っている、と。
 感慨深さすら感じて、喜多川は首を左に右にと捻る少女を見下ろした。彼女はこの遊びの楽しみ方がさっぱりわからず、すでに飽き始めているらしい。
「あんたたちってほんと変わり者」
 そして彼女は唐突に失礼なことを口にした。
「悪かったな。というか、なぜ複数形なんだ?」
もやるでしょ、こういうの。でもちょっと祐介のとは違うのか。あの子は服装とか持ち物から推理するのが楽しいって言ってたし」
「あー」
「実際どうなの? 的中率高いの?」
「知らん。たいていあれこれ言っている間に通り過ぎるし、聞くわけにもいかないだろ」
「だよね。って、あ……」
 噂をすれば影。
 なんだと高巻の目線を辿ると、ちょうどが改札からやってきたところだった。
「ちょうどいいや。ね、暇でしょ? も誘ってどっかで駄弁ってかない?」
 魅力的な申し出だ。喜多川は頷いて、に声をかけようと手を上げて―――中途半端な姿勢で凍りついた。
 雑踏の中だというのに、少女の楽しそうに弾んだ声は二人の耳朶を強くたたいた。
「パパ! 遅くなってごめん!」
 硬直した二人の前を素通りし、は一直線に一人の男の前に駆け寄った。
 肩で息をする彼女の前に立つのは三十代半ばほどの背の高い男だ。仕立ての良さそうなスーツにしわはなく、足元の革靴はよく磨かれて輝いている。
 一目見た印象は『お金持ってそう』だった。
 喜多川の脳裏にいつぞやの彼女の説教が蘇る。
『ん……お金とか……?』
 彼は膝から崩れ落ちた。視野の中央で男が極めて親しげに少女の肩に腕を回し、顔を寄せてなにごとかを囁いている。のほうも満更ではなさそうに笑っていた。そして二人はそのまま歩き出した。この暑いのに、ぴったりと寄り添ったまま。
 喜多川の脇腹に、えぐるような一撃が叩きこまれた。振り抜かれた高巻のつま先を目で追うと、スカートの下が視界を掠める。堪能する間もなく喜多川は道の上に倒れ伏した。人々の好奇の目線が集中するのを感じるのと、強烈な痛みに胃がひっくり返りそうになるのはほとんど同時だった。
「あんたがボサッとしてるから!!」
「なっ、なぜ……」
「うっさいうっさい! 祐介のせいでがオヤジに走っちゃったぁ!! 祐介のせいで! 祐介のせいで!!」
 どうして俺のせいになると反論するだけの気力も体力も、あったはずなのにすでに枯れ果てていた。
 遠ざかるの背をぼんやりと見送りながら、喜多川は問いかける。どうして俺のせいなんだ、―――
 答えは返らない。
 わんわんと泣き喚く高巻と転がる喜多川の不審な様子を見咎めた警察官が駆け寄ってくるのは、その五分後のことだった。

……
 喫茶ルブランの屋根裏、怪盗団のアジトに集った若者たちは沈黙を保っていた。
 ベッドには未だ筋肉痛に苦しめられる佐倉がうつ伏せになって転がり、ソファには新島と奥村が。テーブルの上にモルガナが陣取り、二脚のダイニングチェアに坂本と屋根裏の主。そして部屋の中央の床の上に喜多川が転がり、その側で高巻が膝を抱えてすすり泣いている。
 時刻は十六時を過ぎたところで、の姿はどこにも見当たらない。
 屋根裏にはただ、うら若い乙女が鼻をすする音ばかりが響いていた。
「……が知らないオジサンと仲良く歩いてた?」
 呆れたような調子で言ったのは新島である。隣で紅茶に口をつけていた奥村が、戸惑ったように首を傾げた。
「それは、お知り合いだったんじゃ……?」
 坂本は腕を組んでうーんと唸る。彼は高巻が嘆く理由も喜多川が抜け殻のようになって転がる理由にも察しがついていたが、しかしそれと彼の知るという少女がいまいち結びつかない。
「他人の空似ってやつじゃねえの?」
「もしくはドッペルゲンガー」
 背もたれに体を預けてスマートフォンをいじっていた少年が口を差し挟む。彼は全く二人の証言を信じていない様子だった。
 そもそも、そんなことがある訳ないじゃないか。あの小柄で痩せっぽちの少女が見知らぬ年上の男と仲睦まじく歩いていたなんて性格的にありえない。だって彼女は―――
 思いながら、少年は床に転がる喜多川に目を向けた。よろよろと力なく起き上がろうと努力している姿は涙を誘う。まるで生まれたばかりの小鹿から愛らしさをすべて奪い取ったかのようだ。
 涙声で高巻が呟いた。
「二人が歩いてった先、ホテルとか多い道だった」
 ゴン、と鈍い音を立てて喜多川は轟沈した。彼はもうピクリともしなかった。他の者たちも、誰も。
 屋根裏の空気はコンクリートを流し込まれたかのように固結した。
 しばしの沈黙の後、硬直を解いたのは奥村だった。
「えっと……さんって、さんよね? そ、そういう……そういう、子なの……?」
 知り合ってまだ日の浅い彼女ならではの疑問である。怪盗団の面々は、極めて慎重に首を横に振った。そんなはずはない、と。
はそういう、ううむ、だから、そーいう……ことを、するタイプじゃないと思うぜ」
 尻尾の先端だけをゆらゆらとさせながらモルガナが言った。奥村は困ったように目を細め、腕を組んだ。
「それなら、真剣なお付き合いなんじゃないかしら」
「いや、それこそ無いんだわ」
「んん?」
 首を傾げた奥村に、屋根裏の主が手元のスマートフォンを掲げて見せる。そこには個人名とハートと矢印が表示されていた。奥村は息を呑み、口元に手を当てて「まあ」とどこか嬉しそうに感嘆の声をもらした。
 疑問は氷解した。しかし、ならば何故……
、パパって言ってた……あのおっさんのこと……」
 業務用超低温冷凍庫、ツンドラ気候、零点振動。屋根裏は今度こそ凍りついた。吹きすさぶ雪の幻覚すら見ることができそうだった。
 幻の雪に横から顔を叩かれた屋根裏の主が呻く。
「ラーメンのおつゆ、飲んどくべきだった……」
「今大長編の話してねーから!!」
 坂本のツッコミに若者たちは息を吹き返した。しかし、決して正気とは言い難い有様である。
「パパ活ってやつ!? がァ!? あいつ双葉とどっこいどっこいだろ!? ロリコンじゃねーか!!」
「都条例上この場の全員アウトだから! あでも婚約関係や付き合ってる場合は……」
「え、え? えっと、でも、そんな、なにか事情があるのかもしれないよね!?」
「おちおちおちおちつけオマエら! 気をしっかり保て!」
「ちくわ大明神」
「やだあぁなんでぇ、そんなにお金に困ってたのぉうわああん」
「誰だ今の」
「わたしだ」
 こたえて、のそりと起き上がったのは佐倉だった。その腕にはラップトップが抱えられている。
「とりあえず、、今はもう家に帰ってる」
「なんでわかんだよ」
「GPS。位置情報を基地局からぶっこ抜いた」
 それは犯罪では―――と、言おうとして、彼らは口を閉ざした。
 佐倉はまた更にキーボードの上に指を滑らせながら続ける。
「どこに行ってたのかっていうログも出せるぞ」
「そ、そんなこともできるの……?」
 新人の驚嘆に、怪盗団の情報処理担当はにやりと口角を持ち上げ、高らかにエンターキーを叩いてみせた。
「大したことはしてない。ただちょっと……たいていのスマホに標準搭載されてるアレのコレをソレして、抜き出すだけだ」
「犯罪じゃねーかっ!」
 今度こそこらえきれずにツッコミを入れたモルガナに、佐倉は何故か自慢げに胸を張った。
「今さら、だろ? んで、どうする。 がどこ行ってたか、見るか? わたしも引っこ抜いただけでまだ見てない」
 若者たちはごくりとつばを飲みこんでお互いの顔を見合わせた。疑問の答えがすぐそこにあるが、しかしもし真実が悪い想像の通りだったら……
 戸惑いと躊躇、失望感とわずかな期待。そして恐怖。張り詰めた緊張感が場を支配している。
 これを破ったのはここまで無言を貫いていた少年だった。
「やってくれ……どうせいずれは知れることだ。と……とどめを刺すのなら早くしてくれ……」
 足元で首だけをもたげて見上げてくる目は虚ろだが、必死な様子だ。佐倉はあいよと軽く応じてタッチパッドを撫でた。
 ドライブが答えを与えるのには一秒もかからなかった。
 液晶のディスプレイが放つ光を反射する眼鏡がふうむと呻いていくつかのキーを叩く。少年たちは堪え切れなくなってベッドに押し寄せた。
「ぎゃっ暑苦しいっ!」
「ごめんね……う、これ、分単位で場所が分かるんだ……」
「……を見かけたのは何時ごろ?」
 佐倉の右隣りに陣取りタッチパッドに手を伸ばした新島が鋭く問いかける。四つん這いで佐倉の膝に取りついた高巻が
「五時くらい」と、ベッドに上体を乗り上げながら答えた。
「俺のベッド……」
「細かいこと気にすんな。あったか?」
 しわくちゃになったタオルケットやシーツを悲しげに眺めながら歩み寄る少年に並び、坂本が身を乗り出す。新島は困り顔だけで応えた。
「……ホテルには確かに滞在してるな。でも、三十分だけだ。これは……どうなんだ?」
 言ったのは佐倉だった。彼女はちらりと二人の少年を見上げ、ついでにと足元の半死半生を一瞥する。
 三十分か―――
 少年たちは目だけでお互いの思うところを探り合った。まず、坂本が人差し指を立てて喜多川を指差す。すると喜多川はかすかに首を左右に振って屋根裏部屋の主を同じように指差した。彼もまた、渋面で首を振り、人差し指を坂本へ。首は左右に振られた。
「すいません、ちょっとわかんないです」
 回答に佐倉は両手を上げて喚いた。
「役立たず! 非モテ三銃士! 童貞フレンズ!」
「どどどど童貞じゃねーし!!」
「えっ?」
 視線が集中するのを感じて、少年たちは頽れる。デリケートな話題だ、もう触れないで欲しいとその背中には書かれていた。
 こほんと咳ばらいをして新島が仕切り直す。
「ともあれ、その後は真っ直ぐ家に……」
「あ、薬局に寄ってるね。これはお家のすぐ近くかな」
「薬局で……何を買ったの……!?」
「過敏になりすぎ! 薬局くらい私たちでも行くでしょ!」
「でも、でもぉ……うっ、うえぇ……」
 ぼろぼろと涙をこぼし始めた高巻を、奥村が優しく抱き寄せる。よしよしと背中をさする様は我が子をあやすかのようだ。
「バブみを感じる……カオスだな、この空間」
 言って、佐倉は屋根裏を見回した。何かを考え込んで暗い表情を見せる新島、泣きじゃくる高巻とそれをあやす奥村、その足元をモルガナが所在なさげにうろうろとして、男子は三人そろって床に伏せてまったくなんの役にも立たない。
 めんどくさい、というのが佐倉の正直な感想だ。がパパ活なんてありえない、と。根拠もある。彼女の家は裕福で、母親が失職したような事実もない。トラブルを抱えた様子も見当たらないし、精神的にも不安定なところは見受けられない。
 そんなことよりも早く自分の部屋に戻って痛みを訴える患部に湿布を貼りたかった。
「なー、もう直接聞けばいいんじゃね? にさぁ」
「答えてくれると思うか?」
 いつの間にか起き上がって床の上にあぐらをかいていた喜多川が首を振る。いくらかは回復したようだが、顔色は良いとは言えないだろう。
 佐倉は少しだけ考えて、やがてラップトップを新島の膝の上に押し付けてゆっくりと立ち上がった。
「なら、勝手に聞いてやる」
 え? と誰もが首を傾げる中、少女は慎重な動きでしゃがみこんでベッドの下に手を差し込む。時折痛みを訴えるような呻き声を上げながら、小さな手で指先ほどの大きさの黒い箱を摘まみ出した。一見すると殺虫剤の類にも見えるがそれにしては小さすぎるし、そもそもベッドの主はそんなものを設置した覚えがなかった。
「ちょっと待て」
「ん?」
「それはなんだ」
「盗聴器」
 ぶわっと汗をかき始める。滝のように流れ、滴らせながら、少年は震える手で佐倉を指し示した。口を金魚か鯉のようにしきりに開閉させながら、彼は言った。
「お前―――双葉―――なにか―――聞いて―――」
 佐倉は口角を吊り上げて目を細め、囁いた。
「こってますねぇご主人さまぁ?」
 再び、彼は崩れ落ちて床に倒れ、うわ言を繰り返すだけの装置となり果てた。思春期の只中にある少年にとって、己のプライベートが他人に筒抜けであったという事実はいささか衝撃的過ぎた様子だ。
「お前あのメイドさん酷使し過ぎだろ。掃除以外全部やらせてんじゃねーか」
 鼻を鳴らして説教を一つ。さてと佐倉は手の中で弄んでいた小さな機械を喜多川に放り投げた。
「おっ、と……」
 反射的に受け取ってまばたきを繰り返す彼に、佐倉は大上段から命じた。
「やれ」
「は?」
と接触する機会が一番多いのはお前だろ。鞄とか、財布とか、必ず持ち歩くような物に取り付けてこい」
「いや、しかし……」
「だいじょーぶ、こいつみたいに四六時中拾うつもりはない。必要なときだけ」
「四六時中拾ってるのか……!?」
 戦慄して顔を上げた伊達眼鏡の少年のほうに一瞥をくれ、佐倉は彼にだけ聞こえるように呟いた。
「……あのメイドさんにちゃんとお礼したほうがいいって、わたしでも思うレベルだかんな?」
 ゴトンと鈍い音を立てて突っ伏した少年はもうなにも言わなかった。
「……いいだろう、やってやる」
「エラソーに。だいたいお前が不甲斐ないからこんなことになってんだろ」
「やっぱり、俺のせいなのか?」
のせいでもある」
「あー?」
 首を傾けた少年を捨て置き、佐倉は高々と指を掲げて宣言した。
「やるぞお前ら、ミッションスタートだ! 期限は―――」
 言いながら、唐突に少女はその華奢な体を寝台の上に横たえて呻く。
「わたしの筋肉痛が治まるまで……イテテテ……」
 新島は深々と奥村に向けて頭を下げた。ごめん、あなたの問題が片付いていないのに、と。奥村はおっとりと笑って気にしなくていいよと答え、倒れ伏す佐倉の脚をつんとつついた。
「ひぃん」
 情けない悲鳴が上がる。
「仕方がないよ。大丈夫、期限はまだずっと先だもの」
 屋根裏部屋にはぴくりともせず床に倒れた男子が一名、膝を折ったまま頭を抱えるのが一名、手渡されたリーサルウェポンを胡乱げに見つめるのが一名、筋肉痛で動けない者が一名、残りの一人は猫を抱きかかえてうーうーと呻いたままである。いずれも戦力になるとは思えない。ため息をついて、新島は呟いた。
ってトラブルメーカーよね」と。

……
 任務完了の報が入ったのは翌日の放課後に入ってからだった。
 佐倉は執拗に『遅い』と喜多川を罵ったが、言われる方は意にも介さず次の行動を問いただす。
『ちゃけばあとは例のオッサンと接触するまでできることない』
『急かしておいてそれか』
『安心しろ。それらしい動きがあったらすぐに教えてやる』
『心底口惜しいが、頼む』
『まかせろ!』

『ところで寝息とか録音しとく?』
『よし、動画にして広告付けて稼ごう』
『あなたたち?』
『しません』
『ごめんなさい』

 さて、空いた時間を狙って立ち上がった者がいる。
「待つだけって性に合わないんだよね!」
 高巻である。
 あれだけ消沈していたというのに、この変わり身の早さは見習うべきか否か……思いつつ従って、新島はカラオケボックスのソファに身を置いている。
 とはいえこの場合は変わり身というよりは不安を押し隠すための擬似的な高揚だろう。可愛らしい虚勢と見るか反動による躁状態と見るかは人それぞれだろうが、少なくともここまで来て帰ろうとは思えない。新島は薄暗い照明に目を細めてドリンクメニューを眺めながら高巻に問いかけた。
「二人はいつ来るって?」
「さっき合流したって。すぐ来るよ」
「ふうん……双葉は?」
「ヒトカラなら行くとか抜かしたから置いてきた」
「あ、そう……」
 やれやれとこぼしながら顔を上げる。高巻は備え付けのハンガーに上着をひっかけているところだった。
「どうするつもりなの?」
「んー、直接聞いても、は絶対に言わないと思うんだよね」
「それは同感」
 彼女の意固地ぶりは二人の共通認識だ。にわかに芽生え始めた自立心の反動か、は過剰なまでに自分のことを自分でしたがる……あるいは、中々人を頼るという発想が身につかないでいるのだろう、自分の問題を他者に委ねることを嫌がるふしがある。
「だから今日は報告会」
「報告会?」
「そう。ほら、ハワイのとき、報告しろって言ったでしょ」
「ああ……そういえば。それっきりだったわね」
 それどころではない状況だったのだ。これに関してはに非も他意も無いだろう。
 しかし……ふ、と高巻は表情を暗くしてソファに腰を沈めた。
「……もしかしたらそれでオヤジに走ったんじゃないかなって」
「あー……え? フラれたってこと?」
「それならまだいいかも。最悪なのは、例えば、祐介に好きな人がいるって言われて、そ、それが……私たちの中の誰かで……」
「やめて怖い。すごい怖い。え、えー……それを今日聞くの? ここで?」
「お願い真付き合って! 一人で聞くの怖い!」
「嫌よ! わ、私帰る!!」
「やだーっ!」
 立ち上がりかけた新島を逃すまいと、高巻は素早く彼女に覆い被さった。狭いソファの上、転がり落ちそうになってお互いの裾を掴み、背もたれに手を伸ばす。自然と二人は密着する形になった。
 するとタイミングを図ったかのようにドアが開けられる。
「まあ……二人は、そういう関係だったの?」
「お邪魔しちゃったみたい……? 奥村先輩、ちょっと出ていましょうか」
 そうね、と頷き合って踵を返そうとする奥村とに、あらぬ疑惑をかけられた二人は必死になって制止を呼びかける。
「待って! 違うから! 誤解よ!」
「置いてかないで! 帰んないで!」
 大声に閉じかけた扉が改めて開かれる。奥村とはからかうような笑い声を上げて腰を落ち着けた。
「双葉は?」
「まだ難易度高いって」
「そっか」
 頷いて差し出されたドリンクメニューを受け取り、奥村と肩を寄せ合って眺める様はいつも通りの彼女だ。以前と比べると少しの変化はあるが、それはどちらかと言えば良い方向だと細く白い腕を眺めながら思う。
「よし」
 気合を入れ直し、高巻はリモコンを取り上げた。
「とりあえず歌う!」
 杏、目的は? と問いかけたくなるのを飲みこんで、新島は代わりに内線用インターホンに手を伸ばしつつ聞いた。
「なに飲むか決めた?」
「ウーロン茶!」
「私も」
「アイスティーで」

……

 マイクが四、五順したところでようやく高巻は本来の目的を思い出し―――忘れてたわけじゃないから!―――さてと手を打って皆の視線を己に集めた。
「歌うのもいいんだけど、、なんか忘れてない?」
「ん? 何かあったっけ」
「これガチで忘れてるやつだわ。とぼけてるとかじゃなくてマジのやつだ」
 ふーっと長く細い息をつく高巻に代わり、新島が切り出す。
「ほら、修学旅行で……約束したでしょう?」
 あ、と呟いては目を見開いた。どうやら本当に忘れていたらしい。
 彼女は戸惑ったようにちらりと奥村へ目線をやる。事情を知らない者の前で話すことを躊躇している様子だった。
 すると奥村は、柔らかく微笑んで両手の拳を握り、小さくガッツポーズのようなものを取ってみせる。
「私のことは気にしないで。大丈夫、話は聞いてるわ」
 そう訴えるその目はなぜからんらんと輝いている。
「なんで……知ってるの……」
「万が一、いや、億万に一があったらいけないと思って」
 これは適当なでっち上げであるが、はそんなことに構っていられる余裕がないようだった。
「万が一ってなに……?」
「ライバルは生まれる前に潰しとく、みたいな?」
「怖いよ!」
 バンと音を立ててテーブルを叩いたの肩を奥村が優しく叩く。彼女の瞳はやっぱりキラキラと輝いていた。
「心配しないで、私、応援するからっ」
 握りしめられた拳が彼女の誠実な―――そして夢見がちな乙女としての一面を表している。奥村が言うところの、これもまた私、ということだろうか。
 は遠い目をして天井を仰ぎ、白旗を上げた。
「報告って、何を言えばいいの」
「聞いたんでしょ? 好きな人はいるかって」
「まあ……でも、分かんないって言われたよ」
 なんじゃそりゃ。少女たちは揃って眉をひそめた。
「分かんないんだって、人の気持ちってものが。たぶん、好きとか嫌いとか、そういうのに係う余裕がないってことじゃないかな」
「はーなにそれ。あいつぅ、が勇気出して聞いたってのに……」
「でも、祐介が誤魔化すために言ったとも思えないよね」
 言って、新島もまた背もたれに身体を預けて天井を仰いだ。
「まあね。あの正直者がテキトーこくとこも想像できないし……はぁ」
 ため息をつきつつ、しかし高巻と新島は安堵していた。の様子から話に嘘はなさそうだ、と。それはつまり、彼女が喜多川にフラれた訳ではないということだ。喜多川の想い人が別にいて、それが仲間の誰かという可能性も。
 しかしそれはそれで問題がある。ならばなぜは見知らぬ男性とべったりして歩いていたのか……
 二人の思考を押し留めるように奥村が明るい声を上げる。
「でも、分からないっていうのは意味深だね。普通、何もない……特別な誰かがいないのなら、いないって答えるんじゃないかな?」
 それをわざわざ分からないとしたのは心の中には誰かの姿があって、しかしその者に対する感情を決めかねているということなのではないのか―――
 奥村の言葉に少女たちは目を丸くする。その発想は無かった、と。
「ということは、それが誰かって話だよね……あれ、ふりだしに戻ってない?」
「そうね」
「私余計なことを言っちゃったかしら……?」
「んーん、全然。あー、うー……」
 高巻は頭を抱えて身悶えた。そもそも彼女に腹芸など土台無理な話なのだ。それが長所でもあり短所でもある。
 そしてそんな彼女を止めるのが己の役目だとして、新島は優しく、しかし力をこめて高巻の額を指先で弾いた。
「あいたっ、な、なにすんのぉ」
「妙な真似をしそうと思ったから」
「しないから!」
「そう? じゃあ何を考えてたのか言ってみて」
「……もう祐介に直接聞けばいいかなって……」
「ほらみなさい」
 凍りついたを横目に、新島は肩をすくめた。
 仕方のないこととも思える。きっとこの件だけでなく、見知らぬ男と歩いていた件も直接問い詰めたくてたまらないのだろう。
 結局のところ、いずれの問題も勘違いならばそれで済む。ただの笑い話として処理できるだろう。しかし、もしも悪い想像の通りだったら、問いかけること自体が新たな問題を引き起こしかねない……
 フラストレーションの蓄積を感じて、新島はマイクを手に取った。
「あれ? 真?」
「話はおしまい。今は―――」
 空いた手でリモコンのタッチパネルを操作する。その動きは滑らかである。なんの淀みもなかった。
「声が枯れるまで歌うわよ!」
 前奏が流れ始めるのと同時に薄暗い照明がさらに絞られる。
 高巻はしばしの逡巡の後立ち上がった。その手には二本目のマイクが握られている。
「時間勿体ないもんね!」
 二人の若干唐突なテンションの上げ具合に奥村だけが楽しそうに手を打ち鳴らした。は―――
 今日ほんとにカラオケするためだけに集められたのか、と呆れと困惑が混じった瞳で二人をしばらく見つめていた。