12:It's a Piece of Cake

 なにごともなく三日が経過して、すっかり筋肉痛から解放された佐倉が高らかに宣言する。
「プランB発動だ! 怪盗団、出動!」
 曰く、プランAは先日の高巻主催の報告会であるらしい。
 集められた以外の面々は渋谷の駅前広場に集合して、双葉と彼女を迎えに行った少年の到着を待つこととなる。
 呼び出しておいて号令をかけた者が一番最後に登場するのはどうなのかと議論することしばし、佐倉は少年が背負っているモルガナ入りの鞄と背中の間に顔を突っ込んだ状態で現れた。
「助けて」
 腰にしがみつかれた少年がよたよたと一同に歩み寄りながら両腕を伸ばす。誰もそれを取ろうとはしなかった。
「フタバ、転ぶぞ。オマエじゃなくてこいつが」
「うっ、うう……人、人、人の群れが……」
 もがもがとする佐倉を眺めながら、新島は誰に聞かせるつもりもなく呟いた。
「もっと荒療治が必要かしら……」
「スパルタァ!!」
 叫び、佐倉は素早く鞄と背中の間から飛び出した。新島の発言によって引き出される前は背中と鞄の間で蒸されていたのだろう、その顔は赤かったり青かったりしている。
 そんな少女に息つく暇もなく高巻が詰め寄った。
「集合ってことは、、また……?」
「お、お、おう。えっと……あうー……」
 迫られた佐倉は困ったように隣の少年を仰ぎ見た。すっかり乱れた制服の裾を引かれると、彼はため息をついて代弁を務める。
「例のオッサンらしき人物からに連絡が入ったって。場所は同じとこ。時間は……」
 ちらりと視線を左腕に巻いた腕時計に落とす。
「あと十分くらい」
 ぐらりと高巻と喜多川が傾ぐのを奥村と坂本の腕がそれぞれ支える。少年は前髪をいじりながら全員の顔を見回した。
「行ってみる?」
「早くここ離れよぉ……」
「私は行くわ」
 佐倉と新島が真っ先に反応する。遅れて坂本と奥村が頷いて、高巻と喜多川もまたよろめきながらそれに倣った。


 さて、たどり着いた先はなんてことはない、まったくいかがわしい点の無いごく普通の外観のシティホテルであった。
「あれ?」
 声を上げたのは高巻である。彼女は目を丸くして首を傾げている。
 じっ、と視線が己に集中するのを感じて、高巻は
「まだわかんないじゃん!? もしかしたらもしかするかもよ!?」と言い訳めいたことを口にする。
「いや、もしかしない方がいいだろ。なに言ってんだお前は……」
 呆れたような坂本の言葉を聞いているのかいないのか、高巻は腕を振り上げて気合を入れている。
「パパ活の証拠掴んでやめさせるんだから!」
「おーい……」
「行くよあんたたち! ついてきなさい!」
 ずかずかとホテルの正面玄関に一人立ち向かう少女の背を見送り、残された者たちは顔を見合わせた。笑い話になりそうだ、と。
 ―――もちろん、そんな訳はなかった。

 ホテルのラウンジに併設されたカフェは人気がなく、静かなたたずまいと相まって落ち着いた雰囲気を醸し出している。
 一同は入り口から最も遠く、また死角になるテラス付近の席を選んで占拠し、と男の到来を待った。
「……遅くない?」
「約束の時間は過ぎたな」
 そわそわと落ち着きのない高巻に、再び腕時計に目を落とした少年が応えた。
 その隣では佐倉がラップトップのキーボードをひっきりなしに叩いている。ちらりと正面に座る喜多川に目を向けると、彼は相変わらず虚ろな目をして無言を貫いている。平静を保とうと努力しているらしいことは察せられるが、成功しているとは思えない。細い手指が先程からずっとテーブルを叩いていた。
 佐倉はラップトップの液晶モニタに目を戻して、意地悪を口にする。
「カフェじゃなくて直接部屋に行ったのかもな」
 音を立てて立ち上がったのは佐倉にとって残念なことに高巻だった。
「どどどどうしようどうしよう? わっ、私フロントで聞いて―――」
「ああもう、杏、落ち着いて。座りなさいってば」
「ほら、あーんして、あーん」
 新島が着席させ、奥村が注文してあったケーキを一切れ口に運ぶ。高巻はまったく素直に口を開いた。
「あー、ん……あまぁい……」
「おいしい?」
「うん……」
「もう一口どうぞ。あーん」
「あー……」
 一先ず高巻の沈静化には成功したと見て、新島は息をついて佐倉をじろっと睨みつけた。
「双葉ぁ?」
「ひえっ、ごめんなさい」
 質の悪い冗談はやめなさいと叱りつけられて、佐倉は呻きながらテーブルの上に小さな機械を六つ転がした。
「なんだこりゃ」
 黙って炭酸飲料をすすっていた坂本が真っ先に手を伸ばす。つまみ上げた物はどうやら無線式のイヤホンのようだった。
「盗聴内容を垂れ流すわけにはいかないだろ。それつけて。こっちで中継する」
「ワガハイのは?」
「モナはぁ……入るかコレ? ほれ、こっちゃこい」
 するりと鞄から抜け出したモルガナの小さな頭に手を伸ばし、クリップ式のそれをどう装着したものかと苦心する少女と猫を横目に、少年たちの視線はテーブルの上に注がれる。
 これまでしてきたことだって十分犯罪の範疇だが、仲間に対して仕掛ける日が来ようとは……
「主役のご登場だ」
 モルガナの耳にどうにかしてイヤホンを取り付けた佐倉が己の長い髪をかき上げて同じ物を叩いた。視線の先を皆が一斉に追うと、そこには確かにと楽しげに歩く男の姿があった。
「よーし感度良好。オラお前らつけろ、ガチの盗聴ってのを見せてやるぞ。くひひ」
「聞かせてやる、じゃないのか」
 茶々を入れつつコーヒーカップを傾ける。手早くイヤホンを取り付けた彼の耳には、なるほどノイズ混じりの二人の会話がしっかりと聞こえていた。心なしかこの店のコーヒーはルブランと比べて酸味が強いように感じられる。
 一同は意を決して、仲間の極めてプライベートな時間に侵入した。それは心の中を歩き回るよりもよっぽど抵抗感のあるものだった。
『度々呼びつけて悪いね』
 低く落ち着いた声は男のものだろう。ソファ席に座ったその顔はちょうど店内の調度品に隠れて見ることはできないが、どちらかと言えば爽やかと形容していい声質である。
『別にいいよ。パパこそ大丈夫なの?』
 機械越しに聞こえるの声はいつも通りに思えた。緊張や高揚は感じ取れない。
『時間の余裕って意味なら、まだしばらくはこっちにいるからね。大丈夫だよ』
『そっか。……友達いないの?』
『この時間に呼び出して応じてくれる人はいないね』
『ふーん……ああ、カフェラテお願いします』
『エスプレッソで』
 ウェイターに注文を言い渡し、会話はそこでしばらく途切れた。
 ひと際強いノイズが混じる。どうやらの手が鞄を漁っているらしい。
『……それで、、あー……学校の方はどう?』
 ようやくの一言に、一同は妙な緊張感をもってお互いの顔を見回した。
『突然なに? 父親みたいなことを言って』
『そんな言い方はないだろう?』
『……学校、普通だと思う。成績も悪くはないよ』
『そうか』
『なに? 本当にどうしたのパパ……あー、また言っちゃった……』
『さっきも言ってたよ』
 男の声が小さく笑う。
 ん? と声を上げて首を傾げたのは坂本だった。
『もうやだ……小さい頃の癖が抜けない。お父さんのせいだからね』
 確信を得て、彼は高巻を睨みつける―――
『子供の頃に出てったきりだから、あの頃の感覚で……小さい子みたいで嫌だ』
『別に親子なんだから気にしなくっていいのに』
『お母さんはお母さんなのにお父さんだけパパなんてファザコンみたい。変な誤解もされそう』
 まったく、その通りであった。
 坂本はイヤホンを乱暴に取り外し、テーブルを……叩こうとして、しかしに勘付かれまいと拳を握って静かに置いた。
「おい? お前ら?」
「えっとぉ……」
「なにがパパ活だっ、マジの親父さんじゃねーか!」
 声を潜めて怒鳴るという器用な真似をする坂本に、高巻はわざとらしく身をくねらせてこつんと己のこめかみを叩いてみせた。
「てへ」
 ウィンクのおまけつき。たいへん愛らしい仕草ではあるが、いかんせん古臭いし、今さら見た目のあれこれに騙されるような関係でもなかった。
 少年たちは揃って脱力する。
「勘違いだったのね。よかった……」
 ほっとして胸に手を当てる奥村に、頬杖をついた新島がこたえる。
「そうみたいね。まったく、人騒がせな……」
「ごめん……だってがオヤジと腕組んで歩いてるとか衝撃的過ぎて……」
 それは確かに、と同意して首肯する。
 するとこれまで一言も発さずにいた喜多川が、妙に気障ったらしい仕草で前髪を払って言った。
「ふっ、俺はこんなことだろうと思っていたがな」
 奥村とモルガナ以外の全員が手近なものを彼の顔面に叩きつけた。
「お前あんだけぐっだぐだになっといてなに言ってんだ」
「そもそも勘違いしたのもアンタのせいだかんね」
「ちくわ大明神」
「死に体だったくせによく言えるわ」
「それもうわたしがやったやつ」
 顔からおしぼりやら砂糖の空き袋やらを払い落としながら、喜多川はそれでも涼しげな態度を崩さなかった。
「うっれしそーだなおイナリぃ」
「なんのことだ。そもそもがそんな汚らわしいことをするはずが……」
「とうっ」
「ん゛ッッ!!」
 唐突に佐倉がテーブルの下に滑り込んだかと思うと、喜多川が奇声を上げて体をくの字に折り曲げる。額をテーブルにぶつけた際に小気味の良い音が響いたが、幸いなことにたちには聞こえていなかったのだろう、向こうは穏やかに話を続けている。
 のそのそとテーブルの下から這い出てきた佐倉に一睨みをくれて、喜多川は苦労して長い脚を折りたたんで膝を抱えた。どうやら佐倉が強かに彼のすねを蹴りつけたらしい。
 まったく騒がしいことだと嘆息を一つ。それでも仲間たちがいつもの調子を取り戻したことに怪盗団の長は喜び、またコーヒーを啜った。先ほどの強い酸味はもう感じられなかった。
 それではお役御免かとイヤホンに手を伸ばす。親子の会話にこれ以上無粋な真似をすべきではないと彼は考えていた。
『―――だから、それはもう、大丈夫なんだ』
『なら、その痣はなんだ』
 不穏な会話が飛び込んできたのはその時だった。
 少年は肘をやって坂本に再びイヤホンを取り付けさせた。
『これは……確かに痣がつくようなことはあった。それは否定しない。でも、もう何もないよ』
『あいつに殴られてたってことだろう。何もないって、どういうことなんだ』
『今はお母さんも私も問題の解決に動いてる。一緒にカウンセリングも受けてるし、相談できる人も場所もある』
『問題? 問題があるんじゃないか。なあ、俺にもその問題にかかわる権利があるんじゃないか?』
 イヤホン越しに、が息を呑んだのが全員によく聞こえた。続く声は震えていた。
『今さら父親みたいなことを……私とお母さんを捨てて出て行ったくせに』
『だからこそだ。償いたいんだ』
『償いならもう十分。養育費の支払いが滞ったことがないことは私も知ってる。それで十分。他にして欲しいことなんてない』
 少年はちらりと佐倉へ目をやった。音量が上がったように感じたのだ。しかし佐倉は首をかすかに横に振ってなにも操作していないと訴える。
 つまり、自身が声を抑えられずに段々とボリュームを上げているということだ。
『必要なものはもう、お父さんもお母さんも関係のない人たちが支払ってくれた。私を助けてくれたんだ。その時パパは何をしてた? 仕事? 今の奥さんとデート? 私みたいな子供を捕まえてお茶でもしてた?』
 冷ややかな声に一同は青ざめる。誰もこんな彼女の声を聴いたことがなかった。憎しみと殺意に満ちていた彼女のシャドウだって、こんな冷徹な声を発したりはしなかった。
「おい、やべーんじゃねーかコレ」
 言って、坂本が腰を浮かしかける。誰もそれを止めようとはしなかったが、ただ唯一受信機の向こうのの父親だけが制止を呼びかける。
、やめなさい。座って。落ち着くんだ』
 沈黙と呼吸音。
 やがてノイズが走り、の着席を教える。
『ずっと言おうと思っていたんだ』
『なにを……』
『お前が虐待されているんじゃないかという話を聞いてからずっと考えていた。妻……今の妻も賛成してくれた』
『だから、なにを』
『一緒に暮らそう。今問題が無いとしても、昔問題があったことは確かなんだ。私たちには子供もいないし、お前を不自由させることもない。もちろん、傷つけるようなことも、もう二度と』
『なにそれ』
『お前が私たちと関わり合いになりたくないというのなら最低限の接触で済ませる。とにかく、お前はあいつから……母親から物理的に離れるべきだ。お前のカウンセラーや支援者はそうは言わなかったか?』
『それは』
『そうだろう?』
 はこれに沈黙でこたえた。
 それでも一時の感情の高ぶりは落ち着いたと見ていいだろう。怪盗団の長は触れることもなく片手で仲間たちを着座させた。
『一緒にって、愛知でしょう。学校はどうするの』
『転校すればいい』
『今の時期に?』
『お前ならできるさ』
 無責任な。と嫌悪感をにじませて呟いたのは新島だった。高校三年生の二学期に位置する時期を今まさに経験している彼女だからこその発言かもしれない。とはいえ、彼女の言葉も苛立ちも、彼女だけではない、仲間たちの想いは受信専用の機器越しには決してには届かない。
 はため息をついて父親に答えた。
『考えさせて。今日はもう、帰る』
 衣擦れとノイズ。目には少女が立ち上がって席を離れている姿が映る。
 思わずと喜多川が立ち上がるのを奥村が止める。唇を固く引き結び、ふるふると首を左右に振って彼を押し留めるその瞳には年上らしい威厳があった。
 ―――今はやめておきなさい。
 叱りつけられたような心地になって、喜多川は脚から力を失ってソファに戻った。
「……え、今の、なに?」
 間の抜けた声で言ったのは坂本だ。彼はしきりにまばたきを繰り返し、仲間たちの顔を見回している。
「テンコーって……転校だよな?」
 モルガナが尻尾をふりふり問いかける。答えず、坂本が問いかけを重ねた。
「愛知……ってどこだ?」
 これには直ちに答えが与えられる。
「名古屋」
「あー……名古屋ぁ? え、遠くね? 嘘だろ、こっから何時間かかんの?」
 知らない。とこたえて、少年は高巻に目を向けた。彼女は呆然とが立ち去ったホールを見つめている。
 よりにもよって。少年は誰にも聞こえないように細心の注意を払って舌打ちをする。
 高巻の親友が『転校』したのは夏休みの終わり際、つい二週間ほど前のことだ。暗澹とした別れではなかったが、辛くなかったと言えば高巻にとっては嘘になるだろう。なにしろ事情が事情だ、彼女は大人たちの理不尽な振る舞いによって親友と物理的な距離で別たれたと言っていい。
 もしもが父親の言うことに従うとなれば、同じ経験の反復になる。それはきっと、彼女にとっての重荷だ。
 少年は指先で長く伸びた前髪をいじりながら考える。戦力的な損失としては、小さくはないがカバーできないほどじゃない。そこはさしたる問題ではないのだ、はじめから。
 彼はイヤホンを外してテーブルの上に置いた。
「どうしたもんかな」
「どうするって……どうすんだよ」
 いつの間にか鞄の中に戻っていたモルガナが非難がましげに言う。よく見れば耳に取り付けられてていたイヤホンも無くなっていた。
「改心でもさせるか?」
 冗談めかした言葉に佐倉が素早くスマートフォンを手繰るが、すぐに放り出してテーブルに突っ伏した。
のパッパにパレスない」
「あってたまるか。一家全員パレス持ちかよ」
 ぐいっと気の抜けた炭酸飲料を飲み干して坂本が言う。テーブルの上には沈黙が降りかかった。
 これだ、と仲間たちを見渡して思う。戦力的な問題ではないのだ、と。
 怪盗団の面々は皆、少なからず集団からつまはじきにされた経験のある者の集まりだと少年は考えている。己がその最たる例であるとも。虚しい傷のなめ合いにならずにすんでいることこそが各々この事実を意識している結果だろう。
 きっと皆分かっている。自分たちは危ういバランスの上に成り立っていると。
 不思議な力を手に入れて、他者の心を縦横無尽に走り回る。それは誰もが望んでできる経験ではないはずだ。力の行使に伴う万能感、全能感……そしてそれによって得られる称賛の声も。
 それでも、所詮自分たちはただ一介の高校生に過ぎない。
 つまり、仲のいい友達、あるいはそれ以上の存在が唐突に自分の元を去ると知って、動揺しないはずが無い。
「私、か、帰る……」
 鞄を抱え、立ち上がりながら言ったのは高巻だ。
「帰るってお前、どーすんだよ」
「わかんない。でも、私もちょっと考えたい。一人で」
「おい、杏―――」
 坂本の制止を振り切って、高巻は店内から足早に立ち去ってしまう。
 唖然としてそれを見送った一同の前、テーブルの中央に音と共に一万円札が叩きつけられた。次いで、佐倉の膝の上にモルガナ入りの鞄が放り出される。
「竜司、祐介、双葉とモルガナをルブランまで送ってやってくれ。頼んだ」
「え? は? お前は?」
「杏と帰る」
「でも一人で考えたいって」
「子供かお前は。ああ、子供か……とにかく、行くから。夕飯ここで食べてってもいいけど、ちゃんと佐倉さんに連絡するんだぞ!」
 財布とスマートフォンだけをポケットに突っ込んで、少年は慌ただしく走り去った。
 残された六名は顔を見合わせて脱力する。
「はぁ……どうする?」
 新島の手が一万円札を取り上げて、全員に見えるように広げた。
「お兄ちゃんぶりやがって! なにが連絡するんだぞ、だ!」
 バンバンとテーブルを叩いて訴える佐倉に、しかし意外なところから不意打ちが飛ぶ。
「でも、一人で帰れるの?」
 奥村である。佐倉は項垂れて小さく首を左右に振った。
 誰にともなくため息が漏れる。思わぬ方向に話が進んでしまったことに誰もが疲労感を覚えていた。
「……わたしも、帰る。帰りたい。そうじろうのコーヒーが飲みたい……」
 この消沈した声に逆らえる者は誰もいない。少なくとも新島は頷いて伝票を手に取り、立ち上がって皆を促す。
「今日はここまで。あなたたち、ちゃんと双葉を送り届けるのよ」
 ぽんと奥村の肩を叩いて歩き出す。奥村はしばらく彼女の背中としょんぼりとした佐倉とを見比べていたが、モルガナが安心させるように頷いているのを見て、
「きっと大丈夫だから」と言い残して新島の後を追った。
 今度こそ取り残された三人と一匹も、佐倉がラップトップやイヤホン、細々とした機器の類を鞄にしまいこむのを待って立ち上がった。
 カフェを出る折、ちらりとの父親に目を向ける。
 そこにはやっぱり高級そうなスーツに身を包んだ偉丈夫がいて、何かを思い悩むような顔をしていた。


……
 三人と一匹は暗くなり始めた路地をとぼとぼと歩いている。目指す先は佐倉惣治郎が経営する喫茶店だが、会話は散発的で盛り上がりに欠けていた。
 仕方のないことだった。
 坂本とモルガナはそこまでではないが、佐倉と喜多川は明らかに悄然として足元もおぼつかない。話しかけても生返事が返ってくるばかりだ。
 もちろん、坂本もモルガナも、喜多川を気遣って先に帰っていいと言ってやった。その上で彼は言いつけを忠実に守って佐倉を送り届けようとしている。けなげな忠犬と見るか融通の利かない駄犬と見るか……
 どちらにせよ、坂本には鬱陶しいことこの上ない。彼は渾身の力を籠めて喜多川の背中を引っ叩いた。
「いつまでぐじぐじしてんだ女かおめーは!」
「いっって!!」
「あ、男女差別」
 喜多川の苦悶の声に隠れて佐倉がぼやく。坂本はふんと鼻を鳴らし、大股でもって彼らの先へ歩み出た。
「あーもーっ、どーなってんだよ最近は……どいつもこいつも怖気づきやがって!」
「リュージ、よせ」
 足元から窘めるような声が飛んで坂本は口を閉ざす。またこの靴下猫とけんかになっては不味いとさすがの彼も理解していた。
 頭をかき、後ろ歩きで佐倉たちを見ながら進む路地はすっかり夏の終わりを告げる虫たちの音に包まれている。心配そうに見下ろしてくる視線を受けながら、少女はようやく顔を上げた。
「ぐじぐじするのは、しかたない」
「……あんでだよ」
「だって、、転校しちゃうかもしれないんだぞ」
「それは……けどよ、まだそうと決まったわけじゃねーだろ。あいつだってしたいとは言ってなかったじゃねえか」
「関係ない」
 佐倉は断然と言い切った。
「こういうとき、優先されるのは大人の都合ばっかりで、こっちの意思なんて関係ない。周りがこうだって決めたら、もうわたしたちはそれに逆らえない」
 じわっと少女の目じりに涙が滲み始めるのを見て脚を止めるが、フォローはモルガナの方が早かった。するりと足元にすり寄った毛皮のかたまりを佐倉の手が持ち上げて抱きしめる。
「ううう」
「ぐえ、フタバ……タップ、タップだ、ギブギブ……」
 言葉が彼女自身の経験に基づくものだと察しがつかないほど坂本も鈍くはなかった。背を向けて小さな謝罪の言葉を口にする彼に、猫を優しく抱きかかえ直した佐倉が問いかける。
「転校しちゃったら、やっぱり怪盗、辞めんのかな?」
「そりゃ……無理だろ」
「だよな……」
 また肩を落として、佐倉は続ける。
「なあ、お前らはなんで怪盗やってんだ?」
 それは唐突な問いだった。坂本も喜多川もモルガナも、軽く目を見開いて言葉に詰まる。
「怪盗団結成のいきさつとか、おイナリが加わったときの顛末は知ってる。アレやコレやで、聞いたり見たりしたから。だからそういうんじゃなくて……動機が知りたい。なあ、目立ちたいからか? モテたいからか?」
「それは……」
 すぐに答えることはできなかった。否定することも。
 目立ちたい、注目されたい、異性に好かれたい……どれも褒められた理由ではないが、確かに動機の一つだ。
 でも……
 振り返ってみたとき、そんなものは全て後付けでしかないと気づかされる。賞賛も栄誉も副次的なものでしかないと。
 モルガナは何も言わなかった。二人の少年をちらと見て尻尾を振りこそすれ、アドバイスをするつもりもフォローするつもりも無いと言わんばかりにあくびまでする。当然だ。彼はとっくに己の恥ずかしい本心を、全員の前で、つい先ごろに吐露したばかりだ。細められた猫の目はまた、お前らの番だぜ。とも語っている。
 坂本は顎をしゃくって喜多川を促したが、しかし受けたほうは肩をすくめて両手を上げる。こういうのはお前の役割だとその目は訴えていた。
「ちぇっ、ンだよ……はあ、なあ、双葉。そんなつまんないこと聞くんじゃねえよ」
「つまんないとか、そんなの、わたしが決める」
 唇を尖らせて人差し指を立てた少女に、坂本は渋面を作った。
「大した理由じゃねえもん。確かに、怪盗団サイコーって言われんのは気分いいし、モテてえよ、俺だって! 女子の手作り弁当とか差し入れされたいわ!」
「つまらん嫉妬をするんじゃない」
「やかましいわ。お前言っとくけど相当だかんな。女子からの差し入れとか、ものっそいレアな経験だからな」
「そうなのか……?」
「はー、もう、あー……」
 がりがりと乱暴に頭をかき、ふり返って坂本は言った。
「ムカついてたからだよ。大人なんて、どいつもこいつもいい加減なやつばっかりだ。俺らが子供だからって、ちょっと見た目が人と違うからって、父親がいないからとか、前科があるとか……そんなんで平気で見下してきやがる」
 だから、やり返してやろうと思ったんだ。
 同じような理不尽、不条理に苦しんでる者はどこにでもいる。殴り返すこともできずにただ耐えるだけの者たち……顔も名前も、声すら知らない誰かの代わりに反撃をしてやろう。
「ただそれだけだよ。他のもんは、全部そのオマケだ……」
 きまり悪そうに脱色した髪をかき回しながら、坂本は大股で歩き始めた。その頭上では彼らよりもよっぽど年を経た街灯がチカチカと瞬き、辛うじて足元を照らし出している。
 早足気味に彼を追いながら佐倉は頷いた。
「うん。そうだよな。えらいな竜司は」
「うるせえ。あーくっそ、なんでこんな話……」
「お、なんだ? 照れてんのか?」
 揶揄するような猫の声に少年は振り返ってがなり立てる。
「うっせーっつってんだろ!」
「竜司、近所迷惑」
 追いついた佐倉がすり抜け様に注意する。少女はそのまま小走りになって、護衛たちを置き去りにするように前へ進んだ。
 振り返る。
「わたしはそんな御大層な理由じゃない。もう言ったから、知ってるだろうけど。お母さんを殺した奴を突き止めて……それで、それで……」
 少女は決して、その先を語ろうとはしなかった。
 続くであろう言葉がポジティブなものでないことは猫にだって察しがついている。それでも、誰もそのことを責めようとは思わなかった。それだけのことを彼女はされたのだ。
 佐倉は目を伏せて、しばらく口を閉ざした。
 その小さな身体の中を長大かつ膨大な思惟が巡っているとは彼女をよく知るものでなければ思いもしないだろう。母から継いだ天稟とも言える明晰な頭脳は、しかし滅多に言葉として現れることはない。コミュニケーションを不得手とする性質は遺伝か、それとも彼女固有のものだろうか。判然としないが、たいていの場合それは彼女を苦しめてきた。
 それでも、佐倉は顔を上げ、目を開いて考えたことを並べ始める。
「どうしては怪盗やろうって思ったのか考えてた。ある程度の推察はできる。おまえらに助けられたからだ。これは、が人間社会の規律を重視する向きがあるから。なにが正しいか、正しくないかの基準を、相互契約に委ねてる。つまり、社会通念的に見て、そうするべきだ、ということをしようとしてるんだ。恩を受けた、だから、人として、返すべき」
 でも、と区切って、佐倉は大きく息を吐いた後に続ける。
「そう考えると、矛盾していることがある。わたしたち―――怪盗団の活動は、決して『善』では無いからだ。という人物像を考えれば、怪盗団の活動の実際のところ……他者の精神を無理やり捻じ曲げるやり方を知って、肯定するはずがない」
「だが、あいつは元々怪盗のファンだったと言っていた」
 喜多川の言葉に、佐倉は大きく頷いた。
「そう。でもそれは、ちゃんと説明できる。は知らなかったんだ。怪盗団がどうやって悪人たちを改心させていたのか、その方法を。そうだろ?」
 少年たちと猫は顔を見合わせて、首を縦に振る。
「当然だ。理性のあるやつなら、心の中に入りこんで、そいつの悪い部分を盗み出すなんて考えない。証拠を集めて脅迫して、自白を迫ったって考えてたんじゃないか。認知世界なんて、言っちゃなんだがファンタジーだ。だから、は怪盗団の活動を肯定的に捉えていたんだ」
「今はそうではないと?」
「そう思うか?」
 喜多川は直ちにこれを否定した。
「いいや、それは無い。仮にもしそうだとしたら、もっと態度に出るはずだ」
「完全に同意。それに状況もあった。ファンタジーにすら縋りたい気持ちは、わたしも、よくわかる。嫌ってほど。そんで、おイナリがそう言うことこそが、この話の結論」
「なに?」
「人間は、あらゆる善悪を覆す最強の屁理屈を誰もが抱えてる」
 なんだそれは。と、少年たちと猫は顔をしかめた。
 佐倉はその内の一つに指を突きつけて、高らかに宣言する。
「恋だ」
 沈黙が降りかかった。
 ただ虫の音が響き、坂本だけが怪訝な目を少女に向けて首を傾げている。彼はちっとも佐倉の語る所を理解していなかった。
 しかし問いかけたのは指し示されたほうの少年だった。
「……どういう意味だ」
 苦々しく吐き出された台詞に、佐倉は鼻を鳴らす。
「二回言わせる気か? す、すき―――」
「すきやき?」
「お約束かよ! すっ、好きなやつと一緒にいたいっておもうのは当たり前のことだろっ!?」
「俺はお前にそーいう感情に対する理解があったことに驚いてるわ」
「竜司うるさい!」
「近所めいわくぅ~」
「うるさいっ!」
 叫んで、佐倉はモルガナを把持して走り出す。猫は悲鳴を上げた。
「あ、猫さらい」
「いやもうルブランすぐそこだからいいんだけどよ」
「うるさーいっ! いいかおイナリ! をその気にさせるのもさせないのもお前次第なんだからなっ! なんとかしろーっ!」
 叫んで、小柄な少女の影は角を曲がって消える。少し遅れて軽やかなドアベルが鳴り響いたのを確認して、護衛たちは役目を果たしたと息をついた。
「なんだったんだ……」
 踵を返した喜多川のぼやきに、坂本もまた振り返ってこたえる。
「わかってんだろほんとは」
「……まあ」
「え、うそ。マジ?」
「分かってなかったのか?」
「カマかけただけだったわ……」
「ええ……」
 よりにもよってこの男に嵌められるとはと呻いて、喜多川は両の手で顔を覆ってよろめいた。ぶつかられてはたまらないと距離を起きながら、坂本は前々から抱いていた疑問を彼にぶつける。
「なぁ、何が嫌なんだよ」
「何がって何が」

「どうして」
「こっちの台詞だよ。なんなんだよお前」
「誤魔化してるんだ」
「ゴマかすなっつーの。双葉も言ってただろが。を転校させたくないんならどーにかして引き止めりゃいい。そのどーにかがお前だって話だろ」
の意志は関係ないとも言っていたぞ」
「あいつが全力で拒絶すりゃ、まだなんかやれることはあるんじゃね」
「それはそうかもしれないが」
「だろ? もーめんどくさい。杏もすげーヘコんでるし、俺こういう空気ムリ」
「お前の都合なぞ知るか」
「知れよ! お前はほんっと少し空気読め! ついこの間モルガナに言われたばっかだろが!」
「モルガナには言われてない。美少女怪盗に言われたんだ」
 ぶっ、と坂本はふき出して口元を己の手で覆った。肩を小刻みに震わせて立ち止まる彼を訝しげに眺めつつ喜多川も立ち止まる。
「マジメな話してる時に美少女怪盗って言うのやめね?」
「なぜだ」
「……笑っちゃうだろ」
「なぜ」
「だってお前……ああもうやめやめ、春パイセン無限に面白いの卑怯だわ」
「そうか。良かったな」
「どーも」
 噛み合わせの悪い会話を中断し、二人はしばらく無言で来た道を黙々と歩き続ける。路地を抜け、車通りの多い道へ出るのに時間はかからない。地下へ降りる階段に足を差し出すころになって、喜多川がようやく口を開いた。
「杏も双葉も俺のせいだとかどうにかしろだとか言うが、実際俺はどうしたらいいんだ」
「告ればぁ?」
 回答は軽かった。その調子にか地下から吹き上げる風に前髪を乱されてか、喜多川は顔をしかめる。
「こ……そ、それで解決する問題なのか?」
「知らね。んでも、まあ、なんか変わるだろ」
「例えば?」
「さあ……」
「無責任な」
「どーも」
 ホームは混雑しているとは言えないものの、まだ多く人の姿がある。二人はそれを避けて奥まで進み、端近くの壁に寄りかかってまた話し続ける。坂本の手にはいつの間に購入したのか、すでにふたの開いた炭酸飲料のペットボトルが握られていた。
「まーでも、俺はお前らほど心配してねえよ」
「なんで」
「お前がなんもしなくても、アイツがフォローするだろって思ってるから」
「あー……」
 二人が思い描いているのは一人の少年の姿だ。癖っ毛に伊達眼鏡、やや猫背気味の背中が杏を追いかけて飛び出して行った姿……
 なるほど確かに、と喜多川などは思う。彼がこの集団のリーダーと指名されたのは消去法によるものであることは聞き及んでいるが、ここに至って彼ほど頭領を務めるのにふさわしい人物もいまいと確信している。
 なにしろ彼はまめまめしい。人の心の機微に敏感で、誠実だ。そうそう簡単にへこたれないところも好ましい。あれで普段のふざけた振る舞いがなければ彼自身が望む通り、浮名を流すこともできるだろうに。
 けれど、しかし、だが。
 考えて、喜多川は眉を寄せた。
「あいつは駄目だ」
「まあな。アイツは駄目だわ」
 何故か坂本も同意する。
「だからお前がどうにかしろ……ってことじゃね?」
「く……納得してしまった……」
 呻いてしゃがみこんだ喜多川を見下ろしながら炭酸飲料を一口、坂本はやれやれと息をついて壁に預けていた背を離し、点字ブロックの黄色い線まで前に進んだ。
 どうやら喜多川があれこれと考えているうちにアナウンスがあったらしい。彼が立ち上がって並ぶのを待ちながら、坂本はゆっくりとホームに進入する電車の騒音に紛れさせるように低く囁いた。
「俺だって、が転校するのはヤだよ。でも、一番大事なのはあいつがどうしたいかだろ」
 意外なくらいに理性的な発言だった。よもや偽物かとまじまじ見ても、そこにいるのは坂本竜司以外の何者でもない。
 そして彼は視線の意味するところを敏く読み取り、口をへの字に歪めて睨み返した。
「おいコラ」
「すまん」
 停車した電車の車内はガランとしていたが、二人は座席には落ち着かず扉近くのつり革を掴んで車外の景色に目をやった。
 この光景にもいつの間にかずいぶん見慣れたものとおもう。四月に彼が転入してきてからまだ半年も経っていないというのに、周辺を取り囲む境は大きく変化したものだ。認知世界だとか、怪盗団だとか、仲間だとか……
 喜多川はずっと物思いに耽っていた。
 とは怪盗団としての活動以前からの友人ではあったが、以前はここまで彼女のことで思い悩むことはそうなかった。
 車窓に映る己の顔に胸中で吐きかける。
 ―――ずいぶん薄情なものだな?
 そうとも、喜多川はずっとに負い目のようなものを感じていた。なぜなら、彼は初めて彼女に出会ったその時から彼女の境遇に勘付いていた。だと言うのに自分を誤魔化し、気が付かないふりをしてずっと言い聞かせてきた。ただの気のせいだ。勘違いだ。他人の事情に踏み込む余裕は己にはない、と。
 もちろん、これを責め立てられるいわれもまた彼にはない。彼だって本当に追い詰められていたのだし、そもそも彼はただの高校生に過ぎない。そうでなくたって、誰でも尻込みするだろう。
 そして自身もまた、救いを求めてはいなかった。
 喜多川は過日を胸に返した。
 俯いて表情のうかがえない少女が言う。もう一緒にはいられないと。
 過去の出来事だというのに、喜多川は胸を締め付けられたような心地になって奥歯を強く噛んだ。
 彼女はどうして、父親と会うことを誰にも言わなかったのだろう。きっと恐らく、母親にも告げてはいまい。それは心配させたくないとか、無用な言い合いを避けるためだろうが……
 だとしても、自分にくらいは教えてくれてもよかったんじゃないのか?
 そこまで考えてはたと気付く。自嘲的な笑みが浮かぶような考えだった。
 己は並列化された他の者たちと同じく扱われたことが気に食わないでいるのか。
 少年はちらりと横に並ぶ友人の姿を見る。彼は手元でスマートフォンをいじり、誰かに―――おそらくは母親に―――連絡を取っている様子だ。帰宅の旨を伝えているのだろう。彼はきっとそれを煩わしいと言うだろうが、喜多川は羨ましく思う。帰る時間を伝えなければならない相手が少年にはいないのだ。誰にでも当たり前にあるはずのものが……
 思考はまたのことに戻る。彼女はどうだろう。近頃は母親との会話が上手くいかないことを思い悩んでいた様子だが、家に帰った彼女は母親に今日のことを語るだろうか。
 わからないが、しかしわかることもある。またあんなことになるのはごめんだと、己が強く思っていることははっきりしていた。
 佐倉は大人の都合が優先されると言った。坂本は自身の意志を尊重すべきと言った。
 喜多川は苛立ちとともに考える。そんなものはどちらもどうだっていい、と。
 それは極めて利己的な考えだった。まったく他者を顧みない、独りよがりで、己の欲するところだけを優先している。
 しかし彼にはそれが正答に思えた。
 他の誰が、何の権能をもってそれを阻害しようとするのか。そちらの方がまったく理解できない―――本当は理解しているが、しかし解りたくない―――
 連絡を終えたらしい坂本が問いかける。
「そんで、お前はどうすんの」
 喜多川は何も答えなかったが、坂本にとってはそれで十分だった。


 一夜明けた翌日の学校で、先に声をかけてきたのはのほうだった。
 彼女は人目を避けるように特別教室棟の片隅で喜多川を捕まえると、より人気のない方向へ導いてから声を潜めて語りかける。
「予告状、まだ出さない? なにか聞いてる? それとも双葉はまだ筋肉痛?」
 連続した問いにお前のせいで滞っているんだとは言えず、少年は肩をすくめて分からないと誤魔化してみせた。
「おそらく、今日明日には出されるはずだ」
 その上で断言する。は軽く目を見開いて壁に体の片側を預けた。
「そうなのか。じゃあ、準備しないとね」
「そうだな」
 頷いて、喜多川もまた倣う。ひんやりとしたコンクリ製の壁はまだ暑い初秋の気温を忘れさせてくれた。
 そうとも。準備をしなければならない。それも今日、今ここで。声をかけてきてくれて本当に良かった。己から切り出したのではボロを出しかねないと思っていたところだったのだ。
 心の内で呟いて、少年は特になにも考えずに手のひらを上にして少女の前に差し出した。それと顔とを交互に見て怪訝そうな表情がつくられるのを見て、思わず口元が緩む。
 彼はからかうようなつもりで言ってのけた。
「お手」
 たちまち少女の顔が不快そうに歪められる。拳を作り、差し出された手のひらを叩きもしたが、少しも痛くはなかった。
 離れる前に掴んで捕まえると、また怪訝そうな顔に戻る。
「なに?」
「ん?」
「手」
「ああ……嫌だったか」
「そんなことは」
 ない、と言いつつも、少女は俯いて黙ってしまう。
「なら、このままで」
 握られた拳全体を包み込むように指を伸ばすと細い肩がピクリと震え、心なしか手の温度が下がったような気もする。緊張するようなことだろうかとは思えど、離してやろうとは決して思わない。
 じわじわと耳が紅潮していくのを見守りながら言う。
、お前はなぜ、怪盗団に入ろうと思ったんだ?」
 言葉に反応して上げられた顔は耳と同じく赤く染まっていた。彼女はまた不思議そうな顔をしている。
「と、突然どうしたの」
「昨日、双葉と竜司とそういう話になった」
「仲良いね」
「そうでもない」
「照れてる?」
「照れてない」
 むすっとして言い返されて、はやっと緊張をやわらげて喉を鳴らした。
「ふっ、ふふ……」
「笑うなよ」
「ごめん」
 少女の目線はじっと握られた手に注がれている。なにを思っているのかを探ろうとして見つめても、喜多川には毛ほどもわからなかった。
 ただ、今彼女の意識の中にあるのが己だけだと思うと気分がいいのは確かだ。
 しかし彼は恐れも感じている。
 仲間たちは口を揃えてどうにかしろとか、どう思っているのかとか、どうしたいのかと聞いてくる。それが何に起因しているのか解っている。だが彼らの言う通り、この高揚感が好意によってもたらされるものなのだとしたら、なんてさもしく、みじめで情けない感情だろうか。
 年頃の少年らしい潔癖さで己の内に湧き上がったものを否定しつつ、どうしても手を離そうとは思えない。離すべきだとは分かっていた。こんな卑怯な振る舞いは即刻止めるべきだと。彼女の感情を利用して意志を奪うような真似は……
 けれど同時に、それがどうしたとも思う。
 彼女が、佐倉が、坂本が、それぞれ別のことを考えているが、だから、それがなんになるのか。の父親がなんと言おうが、母親がどう思おうが、そんなものは少年の意志を曲げる材料にはちっともならなかった。
 今握っているこの手の暖かさを逃すくらいなら、誰の意志もなんということはない。優先されるべきは他でもないこの自分だ。
 それはあらゆる善悪を覆す最強の屁理屈だった。
 握った手に力を込めると、それを契機には口を開く。彼女は昨日佐倉が予測した通りのことを口にした。
「上手く言葉にはできない。ただ、きみたちに恩を返すべきだと思ったんだ。皆気にしなくていいと言うけど……でも、なにもしないでいることこそが悪徳と思う。それに……」
「それに?」
 問いかけに少女はすぐには答えなかった。握られた手をじっと見つめて戸惑う姿もまた、佐倉の予見通りだ。もしかしたら彼女は人の心を見通す力をもっているのかもしれない。それとも、がわかりやすいだけだろうか?
 そしてまた、少年は考える。
 彼女も己が感じているみじめさを覚えているのだろうか、と。
 そこにはほの暗い喜びが付随していた。嫌悪すべき感情を抱えているのが自分だけではないという安心感だ。水底に足がついたことに安堵するような……
 だが少年は直ちにそこから引き揚げられた。目の前の少女が拳を開き、彼の手を強く握り返したのだ。
「きみは多分、きみが思っているより危なっかしいよ」
「え?」
「きみの助けになると言ったでしょう。そのためには、きっと同じところにいたほうが良い」
 発言には大きな矛盾があった。が喜多川の助けになると言ったのは、彼女が怪盗団に加わってからのことだ。
 喜多川はそれを指摘してもよかったが、元より答えは察せられている。問い詰める必要はなかった。
「つまり……俺のためだと?」
「感謝してよ」
 冗談めかして言いながら胸を張る。
 もちろん、彼女が全力で誤魔化しにかかっていることは理解している。どうして誤魔化したがるのかも。
「なあ、
「なに?」
 少年は手のひらに意識を集中させた。すっかり緊張を解いたらしい彼女の手は、ちょっと驚くくらいに暖かい。冷え性とは無縁の体質なのだろうか。己の筋ばった手とは違い、柔らかく滑やかな……女の手だ。
 喜多川は握った手を一度解き、手のひら同士を合わせて指と指が絡むように握り直した。
 はぎょっとして、猫のように目を丸くする。前屈気味だった背筋がぴんと伸ばされる様もまた、緊張したときのモルガナのようだった。
 笑いだしそうになるのをこらえて囁きかける。目論見が知れないように、慎重に、さも自分は何も知らないというふうに。
「どこにも行くなよ」
 は少しの間硬直した。
 どうしてそんなことを言うのか。今このタイミングで……
 そう言いたげな瞳に、喜多川は成功を確信して笑いかけた。いつもの彼の、涼やかな笑みだ。
 果たして少女は、また頬を赤くして
「はい」とこたえた。
 最初からこうすればよかったな、と喜多川は息をつく。そう思えるのはここに至ったからだろうが、それにしても徒労感が強い。なんだかずいぶんと遠回りを強いられたような気がする。
 けれど得られるものもあった。
「も、もう話は終わり! 次の授業始まっちゃうから……」
 手を離してくれと消え入りそうな声で訴えるのを、喜多川は都合よく聞こえないふりをして押し流す。
「たった今行くなと言ったはずだが?」
「なにを馬鹿な」
「そうでもない。これはたぶん、重要なことだ」
「また、わけの分からないことを……」
「いつものことだろう」
「自覚があって止めないのは質が悪いよ」
「気にするな」
「するよっ! ああもう!」
 喚いて、は手を振りほどいた。
「さっさと教室に戻るっ! 駆け足!」
「えー」
「口答えしない! じゃあね!」
 スカートの裾を翻して走り去る少女の後ろ姿を見送って、喜多川は再び息をついた。
 たぶん、きっと、これで問題は解決しただろう。あるいは最初から……問題なんてなかったのかもしれない。


……
 それでも、怪盗団のメンバーは再び例のカフェに集合していた。各自の耳にはすでにイヤホンが取り付けられている。
 再びの盗聴に難色を示す者がいない訳ではなかったが、しかし確実な結果が欲しいと訴えられては黙るしかない。その上で、欲した者だけに罪を負わせまいと全員が集う結果になったのだった。
 注文した飲み物が揃ってから十分ほどで二人は姿を現した。
 先日と同じ調子で、同じ注文が繰り返される。
 やがて二人は穏やかな様子で話し始めた。
『お父さん、やっぱり本当に、もう全部終わったことなんだ』
 父親は沈黙でこたえた。あるいは、続く言葉を待っているのかもしれない。
 は息をつき、ゆっくりと己の気持ちを語り始める。
『その、今更そっちに来いと言われても、困る。ここを離れられない理由があるんだ』
『理由?』
『色々。勉強とか進路とか、友達とか……好きな人とか……』
 怪盗団のほうの座席は一人を除いて時間が止まったかのように凍りついた。
 は独り言のようにもらす。
『……そばを離れたくない。色んな意味でね』
『へぇ……どんな子?』
 視線だけが動き、素知らぬ顔でお冷を口にする喜多川に注がれた。
『んー、少なくとも、お父さんみたいに結婚相手や血の繋がった娘を捨てて他所に走るような人じゃないかな』
 声は多分に冗談めいてはいたが、痛烈である。父親は苦笑するしかないのだろう。乾いた笑い声が受信機越しに響いた。
『厳しいな』
『本当のことじゃない』
『はは……ほかには?』
『え?』
『俺はフラれたんだぞ、ライバルのことをもう少し教えてくれたっていいじゃないか。どういうところが好きなの?』
 奥村が困った様子で、隣に座った佐倉の手元……ラップトップの液晶画面と喜多川とを見比べている。その佐倉はといえば、唇を尖らせてつまらなさそうに喜多川の反応を窺っている。どうやら彼がまったく動じないでいることが不服らしい。
『……難しいよ、どこがいいとか、好きになった理由って』
 坂本はすでにイヤホンを取り外してフードメニューに集中している。新島はまた、そんな彼に倣うべきか否かで迷っているのだろう。耳元に手をやったかと思えば腕を下ろしてを繰り返して忙しない。
『気が付くと彼のことばかり考えてる……一緒にいると楽しくて、ずっとそこにいたいって、いつも思ってる』
 猫入りの鞄の中からイヤホンが蹴り出された。それを受け取って、鞄の持ち主はなぜか満足げに幾度も幾度も頷いている。
 向こうの座席で父親が娘に問いかける。
『告白しないの?』
 立ち上がりかけた高巻を、その左右に座した新島と坂本がそれぞれ肩を掴んで抑え込む。
 は恥じらいつつこたえた。
『む、無理。私みたいなのにされても困らせるだけだよ』
『なに言ってんだ、はかわいいよ』
 大きなため息をついて、娘は低く押し殺した声で返す。
『親の欲目』
 再び父親の笑い声が響いた。今度は苦笑ではなく、心の底から愉快そうなものである。
『それに、彼にはやることがある。その邪魔をしたくない』
『そっか……』
 穏やかな声で応える父親は、どうやらそれで納得したらしい。
『なんて子?』
『うん?』
『名前だよ』
『えー』
『誰にも言わないからさぁ』
『まあ、言ったところでお父さんの知り合いじゃね』
『だろ?』
『はぁ……だからね―――』
 ブツッと音がして、それ以降受信機からはなにも聞こえなくなった。何事かと目をやると、驚愕の表情を浮かべた佐倉の隣で奥村が困ったような笑みを浮かべてラップトップに手を伸ばしていた。
「さすがにこれ以上はだめです。プライバシーの侵害とか、そういう問題以前にフェアじゃないよね?」
 反論できる者は一人としていなかった。
 少年たちはイヤホンを取り外し、それぞれテーブルの上に放り投げる。その手はすぐにフードメニューに伸びて、場は穏やかな歓談にすり替わった。
 少年は正面でデザートを真剣に吟味する高巻に目を向ける。すっかり安心して笑い合う姿はいつもの彼女だ。それにこそ安堵して、今度は隣に座る喜多川を見る。
 彼はじっと離れた席の親子を眺めているようだ。ここからでは父親の顔は見えないし、娘のほうも背中しか窺えないが、それでも彼は満足しているらしい。
 そっとしておこうとも思ったが、瞳に羨望の色を見つけて手を伸ばす。
 人差し指を伸ばしたまま肩を叩くと彼は思惑通り振り返り、その頬に指が突き刺さった。
「……穴が空いたらどうしてくれる」
 非難がましげな目に手を引いて肩をすくめる。隣の佐倉が楽しそうな声を上げた。
「ジャンケン強くなりそうだな」
「なんで?」
「四部」
「あー」
 何かを納得しあう二人に喜多川は呆れながら頬を擦る。するとちょうど見終わったらしい奥村がフードメニューを差し出した。
「俺はいい」
「そうなの?」
「金が無い」
 端的なやり取りに、少年が振り返って言う。
「今日はおごるよ」
「なに……!? いいのか!?」
「いいよ。皆も、好きなだけ食べて」
 気前の良い発言に、しかし対面の座席の三人は顔をしかめた。やはり彼には出納帳をつけさせたほうがいいのではないか……
 そんな彼らの思いなどつゆ知らず、少年は手を掲げて店員を呼びつけた。