……
 翌々日のことである。
 午前十時を回った頃、家のチャイムを鳴らす者がいる。ちょうど在宅していた少女がインターホン越しに誰何したところ、その人物は明らかに異様なテンションで
! 俺だ! 開けてくれ! 完成したんだ!」と言った。
 玄関正面を映すモニターにはらんらんと目を輝かせた喜多川の姿がある。
 は驚きつつもドアを開け、彼を迎え入れた。
「どうしたの? 今日は一人?」
「ああ、俺一人だ。そんなことより、お前の部屋に用があるんだ、入ってもいいか? いいよな? よし、いいな!」
「え? え?」
 目を白黒させる少女にお構いもなく、喜多川は勝手知ったる我が家のごとく他人の家をずんずんと進んで行く―――
 構造はのパレスに酷似しているのだから、彼女の部屋の位置を知っているのは不自然なことではなかった。
 とは言え唐突すぎる。は事態についてゆけず、混乱したまま先を行く喜多川を追った。
 そしてふと気付く。身一つで乗り込んできたかと思いきや、彼はその脇に何やら正方形の形をした薄い板切れのようなものを抱えているではないか。
 それとこの突然の訪問に繋がりがあるのだろうか?
 首を傾げた彼女に応えるように、喜多川は階段の途中で振り返って彼女を急かした。
「早く来い! お前に見せたいんだ!」
 よく見れば輝きを宿した瞳とは対象的に目の下にはくまができている。もしやパレスの攻略が完了した日から寝ていないのだろうか。
 は不安になって階段を駆け上がった。
「ねえ、祐介、どうしちゃったの。いつも変だけど、今日はいつもより変だよ」
「いいから来い!」
 片手で少女の部屋のドアを開けて踏み込む。そこに遠慮や躊躇は一切存在していなかった。
 進入を果たした少女の部屋は相変わらず飾り気がなく、きちんと整頓されて生活感を感じない。パレス内のセーフルームで見た光景そのままだった。
「よし、変わりないな。そしたら、ここだ……」
「あのぉ……」
、壁に穴を空けても?」
「平気だけど」
「ではいざ。……金槌かなにか、あるか?」
「……ちょっと待ってて」
 探し出した金槌を手渡すと喜多川は直ちに、迷いなく部屋の壁になにやらを打ち付けていく。後ろからそっとそれを確認すると、どうやら額釣金具のようだ。
 事ここに至って理解が及び、は黙って部屋を抜けると飲み物と軽食を用意して戻る。
 するとちょうど作業が終わったところだった。
 金具に支えられた一枚の額縁はそう大きなものではない。大人の顔がすっぽり収まる程度の大きさかと目算しつつ、ローテーブルにトレイを置く。満足げに頷く喜多川の隣に立つと、彼女の顔には意図せず笑みが浮かんだ。
「見せたいって、これ?」
「そうだ。、こっちに……」
 喜多川の手がごく自然にの肩を掴み、額縁の正面、ベッドサイドに誘導する。
「座って」
 言われるがまま、寝台の上に腰を下ろす。スプリングが軋み、ギシッとかすかな声を上げた。
 額縁に収められていたのは予想通り、喜多川の特徴的な筆使いで描き出された一枚の日本画だった。
 抽象的で、前衛的。にはそれくらいしか解らないが、しかし今回の作品はいつもの彼の作品とは一味違っているように思える。
 ギシッと再びスプリングが鳴いて、喜多川もまたベッドに腰を下ろしたことを教える。
 彼は清々とした顔で壁を、額縁を、その中の己の描き出した―――
 写実的な、しかし現実離れした美しい風景を描いた絵に見入っている。
 これはパレスだ。あの楽園の光景だ。
 しかし、決して張りぼてや作り物によって構成された世界ではない。
 葉や花びらの一枚一枚が細部まで緻密に描画され、レースのカーテンのように落とされる陽光の重なり、その奥にある岩や木の幹、その足元の影でひっそりと広がる苔やシダ植物、あらゆるものの質感が生き生きと表現されている。
 そのくせ、時折サイケデリックな彩色が差し込まれて現実に引き戻される。まるでこれは現実ではない所の風景だと教えているかのようだった。
 鮮やかな色使いと筆の運びが命の輝きを描き出している。
 芸術の類にはとんと疎いではあったが、それでも思考を忘れて魅入られる。
「お前の部屋を……」
 かけられた声はどこか遠くからのもののようですらあった。囁きかける低音は心地よく、ゆっくりとしている。
「お前の部屋をパレスで見たとき思ったんだ。何もない、と。確かにベッドや机はあるが、それだけだ。ここにはお前の命を感じるものが存在しない」
「命……」
 反芻する声に頷いて、喜多川は続けた。
「はじめにお前のパレスに足を踏み入れたとき、そこにあった光景はとても美しかった。楽園と呼ぶのに相応しい……それが、俺には腹立たしかった」
 なるほど、この絵はその時喜多川が目撃した風景なのだろうと得心して、はゆっくりと現実世界に帰還し、話に耳を傾ける。 「お前は辛い思いを強いられていると言うのに、何故パレスはあれほどまでに美しかったのか……きっとお前がそう思い込んでいることが嫌だったんだろうな。今はそう思うよ」
「そっか」
「うん。それで……そこからずっと考えていたんだ。この殺風景な部屋に命を吹き込むにはどうしたら良いのか……」
「それで絵を?」
「そうだ!」
「でも、楽園の光景は嫌だったんでしょう。どうしてそれを描いたの?」
「あの絵は俺の手が作り出したものだ。俺の命が宿っている。だからいいんだ」
 よく分からない理論だった。しかし少なくとも、精魂を籠めてくれているらしいと知って、は再び絵画に目をやった。
 ロマン主義と印象派、写実主義のちょうど中央に位置しているとでも思えばいいのだろうか。にはやはり絵画のことはさっぱり解らない。
 解るのはただ、彼が自分のためにこの絵を描き上げてくれたということだけだ。
「ありがとう……」
 唇からごく自然に漏れた感謝の言葉こそが報酬であると言わんばかりに喜多川は胸を張った。
 そしてやっと目の前のローテーブルに麦茶とサンドイッチが置かれていることに気付く。
 ぐう、と腹の虫が鳴いた。
「う……」
「熱中し過ぎて、なにも食べてないんでしょう。どうぞ」
「すまん……ありがたく頂戴させてもらう」
 おかわりもあるよと言い添えてやれば、喜多川は喜んでサンドイッチに齧り付いた。
 本来ならば少女の昼食になる予定だったのだが……構いはしない。また作ればいい。
 の目は三度絵画に戻り、喜多川がおかわりを要求するまで離れなかった。

 どれほどそうしていただろうか。
 気がつくと喜多川はとっくに食事を終え、少しだけ照れくさそうに彼女の横顔を眺めている。
「あ、ごめん。夢中になって……」
「構わん。気に入ってくれたようで安心していたところだ」
「そっか」
「ああ」
 膝を並べて楽園の絵に正対する。
 その膝がかすかに触れ合った瞬間、は何かに気がついて目を見開いた。
 それは己が今置かれている状況であった。
 自分の部屋―――母親は仕事に出かけて、今家に居るのは己と喜多川の二人のみ―――ベッドの上で―――お互いの体温すら届く距離に―――
 顔に一気に血液が集まるのを感じて、は硬直する。
 隣で何事かをつらつらと語り続ける少年は全く意識もしていないのだろう。時折あくびなどしては、また語り出す。
 顔が赤くなっているのを悟られないうちに、なんとか、少しだけでも距離を取ろう。
 心に決めるのはわずかばかり遅きに失した。
 のしっと肩に重みがかかる。
 はますます身を固くして、喉の奥で悲鳴を上げた。
……すまない……」
「なっ、なにがっ!?」
「……聞いていなかったのか……?」
「なにをっ!?」
「ん……」
 肩に乗った重さの正体は喜多川の頭部であった。
 柔らかな黒髪が近くにあるせいだろう。嗅いだことのない匂いが少女の鼻孔をくすぐった。
 洗髪料の匂いか整髪料か、それとも制汗剤か何かだろうか。それらに混じってかすかに顔料や膠液、墨の香りがする。
 これが喜多川という少年のまとうものだと意識すると、少女の顔はますます朱に染まる。
「あ、あの、祐介」
「静かに」
「へあ」
 たった一声で少女を黙らせ、少年はゆっくりと寝台にその身を乗り上げ、膝立ちになって少女を見下ろす。
 静かにと言われた以上、彼女は声を発することができないでいた。
 ぱくぱくと口を開閉させては俯き、また見上げてはぱくぱく……
 三度ほどそれを繰り返したところで、少年が動き出した。
 二人分の体重に耐えきれぬと言わんばかりにひときわ大きくベッドが鳴き―――
 喜多川はその身を横たえ、頭をの膝の上に置いた。
「……祐介?」
「パレスから戻ってから、寝ずにあれを描いて……腹が膨れたら、眠気が……悪いがこのまま少し……」
「へっ……」
 すう、と寝息を立てて少年は眠りに落ちた。
 長い手足を窮屈そうに折りたたみ、それでも膝を枕とするその顔は平らかだ。
 は拍子抜けして、脱力する。
 一体自分は何を勘違いしていたのだろう。そう思うとまた違った意味で顔に血が集い始める。
 腹いせにとすっきりと通った鼻筋をつまんでやる。
「んが……」
「ふん」
 一瞬だけ浮かんだ苦悶の表情に鼻を鳴らして溜飲を下げる。
 寝入り端に鼻をつままれても文句の一つも飛び出さない辺りを見るに、眠りは深そうだ。夢も見ずにいるのだろう。
 乱れた前髪を手ぐしで整えてやってから、腕を伸ばして枕元に置かれた読みかけの本を手に取る。
 読み終わるまでには流石に目覚めてくれるだろう。
 そう期待して、は栞をページから抜き取った。