07:It's not rocket science

……
 パレスの攻略が完了して三日が経過する。
 夜半すぎに、怪盗団の面々が集うSNSにブレイドがこのように発言を残した。
『お母さんと話した』
 ほどなくして既読の文字がつき始める。
 ブレイドはそれを確認しながら続けた。
『泣きながら謝られた』
『今までごめんなさいと』
『たくさん酷いことをしてきたと』
『自分でもわかっていたはずなのに止められなかったと』
『改心ってこういうことなんだね』
 滝のように流れる文面を追いながらクイーンが発言する。
『それで、どうしたの?』
 しばしの沈黙。
 やがてブレイドは答えた。
『もう一度やり直そうって言った』
『母親はなんと?』
 これはフォックスが。
『わかった、って』
『明日から病院とかを探そうってことでまとまった』
 これにジョーカーが反応する。
『その辺りは少し心当たりがある』
『必要なら連絡して』
 ブレイドはすぐに『わかった』と返信した。
『なんにせよ、良かった』
 パンサーが言う。
『そだな』
『でも色々治すのには時間がかかるって言ってたよな』
『うん』
『ちょっと竜司』
『いや、真面目な話。、なんかあったら言えよ』
『ありがとう』
『全員にだよ?』
『うん』
『みんな』
『本当にありがとう』
『誰かが助けてくれるなんて想像したこともなかった』
『祐介以外は私の名前も知らなかったのに』
『この上で図々しいとは思うけどお願いがある』
 これにジョーカーが応えた。
『どうした?』
 意を決するような間を置いて、ブレイドは言った。
『私を怪盗団に入れてほしい』
 もちろんこの発言は予測できていたことだった。
 であれば当然、答えは予め用意されている。
『いいよ』
『んじゃこっからもよろしくー』
『やった女子増えた』
『こちらでもよろしく頼む』
『歓迎するわ、
 ブレイドは呆然としながら返した。
『すごくあっさり』
『そりゃそうよ』
『普通に入ってくれると思ってたもんね』
『言われなかったらどう勧誘しようか迷ってた』
『作戦会議までしたのよ』
『したか?』
『祐介ほとんど聞いてなかったし』
『すまん。だが、どうせこうなると思っていた』
『言えよ!!』
 ひょうひょうとしたフォックスの態度に一斉にツッコミがはいる。
 ブレイドは笑ってテンポよく流れるレスポンスを眺めていた。

……
 このようにしては怪盗団の一員となった。
 季節はまだ夏。長期休暇の最中である。
 さて、には懸念事項が一つあった。
「ずっと気になっていたけど言えなかったことがあって」
「ん?」
 二人は渋谷の駅地下モールいる。二人とはもちろん、と喜多川の二人である。
 が怪盗団の一員となったその夜、喜多川は個人的に彼女にコンタクトを取った。内容はシンプル極まりなかった。
『いつにする?』
 は聡明な少女だった。たった12バイトの情報から数日前にパレスでした約束―――服を見に行こうという口約束を思い出し、直近の予定を教えてやった。
 それに目を通して考える。早いほうがいい。喜多川は即日の約束を取り付けると速やかに眠りに落ちた。のほうは緊張からあまり良く眠れたと言えないだろう。
 それでも精一杯に着飾って約束の時間に駆けつけ、ここに至っている。
 心の片隅でひっそりと考えるのは己自身のことだ。
 以前はこんなことなかった。なんの気もおけない友人として接することが出来ていた。恋い慕う気持ちに変化は何一つ無いはずなのに、諦めなくてよいのだと思うと深度が増したように思える。
 恋愛は先に惚れたほうが負けだという。その通りだとは痛感している。自分は敗北者だ、と。
 それでも、は勇気を振り絞って一歩喜多川に近づいた。
 辺りは喧騒に包まれている。それに囁きがかき消されてしまわないように、手を添えて―――
「メジエドの件、どうなったの?」
 密やかに伝えられた言葉に、喜多川は目を見開いた。
「あ」
 今の今まで忘れていたと言いたげに吐き出された呼気には気の抜けた母音だけが乗せられている。
 は離れて、肩を竦めた。
「Xデーまで時間がないよね? 一員になって即解散とか、アレだよ」
「どれ?」
 切り返しに少女は小さく唸った。率直な意見を言うべきか誤魔化すべきか……迷った挙句、彼女は出かけた言葉を厳重にオブラートに包んだ。
「困る」
 とは言え、その目には呆れの色が大いに含まれている。
 じとっとした目に見上げられて、喜多川はほんの少しだけ困ったように眉尻を下げる。
「その件は……片付いている、と言うべきか……いや、片付いてはいないのだが、しかし解決はしているんだ」
「んん?」
「寝てるんだ」
 ますますわからない、とは首を傾げた。そうする他なかった。
 喜多川はどこから話すべきだろうかと腕を組み、足を踏み鳴らす―――
 起こった出来事を説明するのは彼の得意とするところではない。本人に自覚は無いが、しかし己が何かを説明すると、大抵の者が呆れるか困った顔をすることは理解している。恐らく客観的な視点で物事を観察することができていないか、あるいは単純に説明下手なのだろうと彼は結論付けていた。
 この結論には続きがある。しかし、と接続詞が用いられる。
 しかし、なら大丈夫だろう、と。思えば今まで目の前の少女と意思の疎通において困難だったことはほとんど無い。
 ありがたいことだと胸中で手を合わせ、喜多川は彼女を伴って地下を出た。
 夏休みも終わりに近づいた渋谷の駅前は人でごった返している。芋洗いとは正しくこのことかとうんざりしながら、それでも人通りの多い日陰に立ち止まる。
 木を隠すなら森の中、だ。人通りの多い場所こそ密談には相応しいだろうとして、喜多川は夏休みに入ってからのことを語ってやった。
 それは即ち、佐倉双葉という少女のまだ短い人生についての話だ。
 父親不在の家庭、孤独な幼年時代、認知訶学の研究に明け暮れる母親、その不可解な死―――
 喜多川が知る所のすべてを語り終えた頃には、その喉はすっかり渇いていた。アスファルトから立ち昇る熱気が風景を歪めさせている様は佐倉双葉のパレスを思い起こさせる。
 今更になって屋外で話すのは失敗だったと首筋に浮かんだ汗を拭いながら思う。本当は話の途中にも何度か場所を移動しようとは考えたのだが、続きをせがむの真剣な様子にそれも躊躇われたのだ。
 そのはと言えば佐倉双葉某の境遇に思うところがあるのだろう。口元に手をやって口内で何事かを呟いてこね回している。
 やがて咀嚼が終わったのか、顔を上げて喜多川に目を向ける。
「それで、その子はまだ寝ている、と」
「そういうことだ」
 頷いてみせるとは肩を落とし、壁に背を預けて脱力する。
「なるほどね、だから待つしかない訳だ」
「あ、別に、暇だったからお前の問題に首を突っ込んだわけではないからな」
「わかってる、わかってるよ。しかし、認知訶学に、『黒い仮面』か……」
「ああ。双葉の前に改心を行った金城も、先生もその存在を示唆するようなことを言っていた。あの時は出まかせとも思ったが、ことここに至って信ぴょう性を帯びてきている」
「ふうん……」
「何かわかる事はあるか?」
「今のところは何も」
 それもそうだ、と一つ頷いて喜多川は通り行く人の群れに目を向ける。
 彼がキャンバスに向かう以外の時間を人間観察に費やすのは珍しいことではない。それは趣味のようなものだったが、しかし友人と共に居る時にまですることではないだろう。その目は集中しているとは言い難い。
 そんな彼を眺めて、ふっとは小さく笑った。
「なんだ?」
「いいや」
「気になるだろう」
「なんでもないよ」
「ある。なんだ?」
「……そう大したことじゃない。ただ、また祐介とこうしていられるのが嬉しいと思っただけ。きみが寮に入る前は、時々この辺りでこうして人を見ていたでしょう」
 言われて、ああ、と喜多川は納得してみせる。
 学校帰りのほんのわずかな間。が予備校へ向かうのに時間割の関係でいつも少し時間を持て余すと言うから、なんの気もなしに幾度かそれを潰すのに付き合ったことがあった。
 そうしたときはこのように、並んで雑談に興じたものだ。
 そうやって思い返していると本当に今更なことに、喜多川はやっと彼女を救うことができたのだという実感を覚えることができた。
 自分は失い難い日常を取り戻せたのだ、と。
 そう思うと誇らしげな気持ちになって、自然と背筋が伸び、視線は日常の一端へ向かう。彼女は無秩序な人の流れを見つめていた。

「んー?」
「触れてもいいか」
「へあっ!? ふっ、触れ? どこに?」
 唐突な喜多川の発言にの声は裏返った。
 もちろん、喜多川とてなんの脈絡もなくこのような発言をした訳では無い。彼の中には彼なりの理路整然とした理屈があるのだが、それを説明出来る能力が彼には欠けていた。
 あるいは、わざとやっているのかもしれない。
 その証拠に彼は動揺するを眺めて楽しそうに喉を鳴らしているではないか。
 は肘で彼の脇腹を突いた。少しも痛くはなかった。
「かっ、からかうのはやめて。祐介、きみは少し前から変だ」
「変? そんな風に言われるのはいつものことだと思っていたが、にとってはそうではなかったのか。それに、そんなつもりはない」
「からかってないって? 確かに祐介は変人のカテゴリーに属してるタイプだとは思うけど、近頃はいつにも増して……いや、違うそうじゃない。からかっていない方がこの場合は問題がある」
「ほう」
「分ってないみたいな顔をしない。そういう勘違いをさせるような言動は慎むべきだとおもう」
「勘違いじゃない」
「うあっ」
「ごく自然な情動と思っていたが、違ったか」
「その一時的なものに籠められる感情次第だけど……」
 蚊の鳴くような声を残しては沈黙した。その頬が朱に染まっているのを満足げに見つめ、喜多川は手を伸ばす。
 影が落ちたことでそれを察知したのだろう。少女の肩が小さく跳ねて縮こまり、かすかに震え始める。
 籠められた感情だって? 少年は考えたが、言語化は容易くなかった。
 指先が本当に触れる前にどうにか言葉にしようと頭を回転させるが、それはやはり上手くはいかない。根本的なところで感情と言語を司る部分が接続不良を起こしているのだろう。
 ならば別の手段を取ればいい。彼はいつでもそうしてきた。それこそ物心ついたときから―――
「あ」
 艶やかな黒髪に触れる直前、少年の骨ばった指がぴくりと痙攣した。
 が恐る恐ると見上げると、彼は何かに気が付いたような顔をして硬直している。
「……祐介?」
「降ってきた」
「え?」
 言われて思わず天を見上げるが、空は相変わらず晴れ渡り、夏の強い日差しが降り注いでいる。
 となれば、他にないだろう。は緊張を解いて言った。
「インスピレーション?」
「ああ、そうだ! これだ、今この……これを描かねば!」
「インスピレーションは降るんじゃなくて湧くものだけどね」
「そうか。そうだな。では、湧いてきた! すまない、、俺は……」
 言わんとするところを手で制して、少女は笑ってみせる。
「いいよ。消える前に描かなきゃね」
「いや、消えることはない……はずだ」
「そうなの?」
「ああ。だが、それでも今この瞬間の感覚をキャンバスにぶつけたい」
 申し訳なさそうにする一方で、彼の瞳は何かを掴み取って煌いている。
 もちろん、これはにとって面白いことではない。
 目の前の少年はせっかくの約束を反故にし、己の欲求を優先しようと言うのだ。少女にはこれに怒りを露にする権利がある。
 しかし彼女はそうしなかった。
 考えるまでも無い、が好意を寄せる喜多川という少年はこういう人物なのだ。ここでを優先して残るようなら、それは同じ見た目をした別の誰かであって彼ではない。はそれをよく理解している。だからこそここにいるのだ。
 改めて、しみじみと思う。自分は敗北者だ、と。
「じゃあ今日はこれで解散。完成したら見せてね」
 双方にとって幸いだったのは、彼女がどのような心地で帰宅の許可を出したのかを少年もまた理解していることだろう。
 彼は深く頷いてに言う。
「ありがとう。必ずそうする。楽しみにしていてくれ!」
 軽やかに手を上げるなり、踵を返して走り出す―――しかし数歩行ったところで立ち止まると振り返り
「この埋め合わせは必ず。また連絡する!」と言った。
 次の約束があることを知って、は心から喜んで手を振った。


……
 佐倉双葉が目覚めたという知らせが届いたのは翌日のことだった。メジエドの件はこれで片付いた、と。
 一同は安堵して胸を撫で下ろしたのだが、問題はもう一つあった。
 やはり佐倉双葉のことである。
 彼女は母の死から紆余曲折を経て長らく自室に閉じこもり、コミュニケーション能力に於いて大きな課題を抱えていた。
 秘密を知った以上怪盗団に所属してもらいたいとは新島の弁であるが、共に活動する上でこれは見過ごせない懸念事項だ。少なくとも怪盗団の面々には打ち解けてもらわなければならない。
 話し合いは佐倉双葉と面談を行うということでまとまった。極小人数でお喋りをしよう、ということである。
 双葉はこれに若干の拒絶を示したが多数決には逆らえず、渋々了承したことでその日はお開きとなった。
 さて、初日は新島と喜多川が、次の日に坂本と高巻、更に保護者である佐倉惣治郎の営業する喫茶店、ルブランを手伝うことに一日を費やし、予備校の日程の都合で最後にが彼女と過ごすこととなった。
 自室、他人の部屋、自宅近くの保護者が営む喫茶店と少しずつ範囲を広げてきているのだから、次はどうするべきだろうか……
 頭を悩ませた末、は駅近くにある複合商業施設のコーヒーチェーンを指名する。
 佐倉双葉はこれに何故か
『いいだろう。首を洗って待ってろよ』と喧嘩腰で応じた。

 約束の時間になって現れた佐倉双葉は同じく佐倉惣治郎の保護下にある少年を伴っていた。
 正しく表現するのであれば、伴われているのは佐倉双葉のほうだ。彼女は少年の背中に顔をうずめ、両手で彼のシャツの裾をしっかりと握り、己の顔と視線を完全に隠してしまっている。
 されている方の少年の疲れ切った表情からここまで連れてくるのに相当な苦労があったことが偲ばれて、は彼にコーヒーを一杯奢ることを進言した。
「いや、いい。双葉のためだ。……いい加減離してくれない?」
「ううう、スパルタ二号……」
「はいはい……ディス、イズ、スパルタ」
 ジェラルド・バトラーの物まねらしき声と共に引き剥がされた佐倉は呻き声を上げ、ぷるぷると小さく震えている。
 その目は落ち着きなく店内の様子を見回していたが、やがて奥まった席を指し示すと
「あそこっ、あの席っ! じゃなきゃ帰る!」と若干裏返った声で言った。
 よくよく見ればその目じりには涙すら滲んでいる。少年と少女は顔を見合わせて苦笑するしかなかった。
「了解。じゃあ、私は注文してくるから先に席を取っておいてくれる? やっぱり奢るよ。双葉ちゃんもコーヒー平気だよね」
「平気」
「いいの?」
「いいよ。なに飲む?」
「ん、ありがと。じゃあ、そうだな……」
 財布を取り出した少女に少年はアメリカーノと応え、佐倉はまた
「トゥーゴーパーソナルリストレットベンティツーパーセントアドエクストラソイエクストラチョコレートエクストラホワイトモカエクストラバニラエクストラキャラメルエクストラヘーゼルナッツエクストラクラシックエクストラチャイエクストラチョコレートソースエクストラキャラメルソースエクストラパウダーエクストラチョコレートチップエクストラローストエクストラアイスエクストラホイップエクストラトッピングダークモカチップクリームフラペチーノ」と、一息で言った。
 まるで呪文のように滑らかに吐き出された謎の言葉に、二人は怪訝な顔をする。
「今なんて?」
「だから、トゥーゴーパーソナルリストレットベンティツーパーセントアドエクストラソイエクストラチョコレート……」
「やっぱり一緒に行こうか。席お願い」
「わかった」
「ごめんなさいごめんなさいっ! 同じのでいいですっ!」
「アメリカーノね。トールでいい?」
「うう、お願いします……」
「はいはい。じゃ、席で待ってて」
 カウンターへ向かうの背中に、佐倉は小声で呟いた。
「スパルタ三号……」
「こら双葉」
 まるで兄のように𠮟りつける少年に、しかし佐倉はべっと舌を出すばかりだった。

 コーヒーを抱えて戻ったに佐倉は背筋を伸ばす。は完全にスパルタ三号……新島と同じカテゴリに分類されしまったらしいと見て、少年は苦笑する。
 四人がけのシート席、その通路側に盾のように少年を配置し、対面にが腰を下ろす。
「はいどうぞ」
「ありがとう。ほら、双葉」
「あ、ありがとう……」
「どういたしまして」
 莞爾と笑うに、少なくとも敵意や害意はない。佐倉はほんの少しだけ緊張を解いてコーヒーを口にした。
「……勝ったな」
「なにが?」
「そうじろうのコーヒーのほうが美味いっ」
「そりゃそうだ」
 自身もコーヒーを口に含みつつ応え、少年は肩を竦める。
「マスターのコーヒーか。そういえば飲んだことないな」
「あれ、そうだっけ」
「飲むべき。そうじろうのコーヒーとカレーは絶品なんだからなっ」
「それはおじさんに直接言ってやれ」
「やだ」
「なんで」
「恥ずかしい……」
 それこそなんでだと呆れる少年と佐倉のやり取りは仲のいい兄妹のようだ。は思わずと喉を鳴らしていた。
「ふっ、なんだ、手強いって聞いてたのに、全然そんなことないね」
「お? や、やるか? かっ、か、かかってこいっ」
「いいよ。何を話す……の、前に改めて自己紹介しようか。怪盗団では私だけあなたのパレスに入ってないし……」
「ん」
、洸星高校の二年です」
「わっ、わたしは、佐倉双葉……その、双葉で、いい」
「じゃあ私のこともと。えっと……私のことは聞いてる?」
「ここ来るまでの間に、こいつから、少し……」
「そっか。なんて?」
 は少年に向かって問いかけた。
 彼はただ、彼女と母親にもパレスがあり、その問題を解決したのだとだけ語ったと答えようとして―――
 佐倉が先んじた。
「おイナリのカノジョ」
 奇しくもはカフェラテを口に含んだところだった。コーヒーの香りとミルクのなめらかな舌触りは感じる間もなく吹き出された。
「ぶはっ! ごほっごほっ! げふっ!」
 人的被害が出なかったのは幸いだったと、むせ返る少女に哀れみの目線を送りつつ少年は思う。
 さて、おイナリとは佐倉が喜多川につけたあだ名である。
 狐の面を被っていたからという安直な名付けではあるが、それが彼女なりの心の開き方なのだとすれば悪いことではないだろうとして咎めることなく済ましていた。
 しかしカノジョと言った憶えは彼にもない。であれば、またこいつはどこから二人の関係性を嗅ぎつけたのやら……頭痛を覚えて少年はこめかみに手を当てた。
「ちっ……違う、から」
 やっと回復したが言う。
 これに少年はえっ、と驚嘆の声を上げた。
「違うの? なんで?」
「な、なんでってなに?」
「だってあの後……祐介、の家に行ったんだろ? それで二人で過ごしたって」
「どうして知ってるの!?」
「祐介が教えてくれた」
「口が軽い!」
「わたしはチャットのログを遡っただけだかんな」
「とにかく、何もない! 付き合ったりとか、してない!」
「おイナリに確認する」
「やめて!? なんで!?」
「やれ双葉」
「ちょっと―――」
「返信きた」
「早いなぁもお!」
「なんて?」
「おはよう、だって」
「挨拶は大事。ていうか今起きたのか。となればチャンスだ双葉、思考が回らないうちに問い詰めろ」
「ラジャ」
 佐倉がビシッと敬礼した隙をついては素早く腕を伸ばし、その手からスマートフォンを奪い取った。
「ぎゃっ、なにすんだ!」
「こっちの台詞! き、きみたち、こういうからかい方はよくない! 感心できない!」
「あーん、返せよー」
 テーブルの上に身を乗り出してへ手を伸ばす佐倉を一睨み、はその手が届かぬようスマートフォンを掲げて言う。
「もうしない?」
「しないぃ」
「本当に?」
「ほっ、ほんとほんと」
 沈黙。
 やがては少年のほうを睨みつけて言う。
「きみは?」
 二人のやり取りをひょうひょうとした様子で見守っていた少年は、コーヒーを啜りながら首を縦に振った。
「はぁ……もう、ほら」
「うう。スパルタ三号、わたしからネットを取り上げるなんて、鬼、悪魔っ」
「双葉が言う……!?」
 やり取りになにかのツボを突かれたのか、少年はこらえきれない笑い声を漏らした。
「笑い過ぎ。きみたちは二人揃って、はあ……」
「海に行くためだ。我慢しろ」
 未だ口元を緩めたままの少年に、はほんのわずかに眉を寄せる。
 そうとも、海だ。打ち上げも兼ねた夏の思い出作りに海に行きたいと言い出したのは高巻だったか坂本だったか……どちらにせよ、この場に揃う女子二人は一様に物憂げな顔になる。
 言外にあまり気が進まないと語っているのは少年の目にも見て取れた。
「おっ、微妙な反応。、一緒にボイコットしよう!」
 一方で同士を見つけたと佐倉は喜色を浮かべる。
「楽しみじゃないわけじゃないよ?」
「えー」
「泳ぐのは好きだからね」
「祐介もいるし」
「だからそういうからかい方は、感心しない。それに、たとえ祐介が行けないとなっても、ちゃんと行くよ」
 佐倉は同士を失ったと見てテーブルに突っ伏した。
「まあ……は無理するなよ」
「ん」
「うううー……裏切者ぉ……」
 意味ありげな二人のやり取りをじっとりとした目で睨みつけた佐倉は、しかしすぐに気を取り直してばね細工のように上体を起こし、シートの背もたれに体を預けた。
「双葉は泳ぐの嫌い?」
「別に……」
「人が多いところが嫌なんだろ」
 唇を尖らせた佐倉の表情はそれを肯定している。はなるほどと一つ頷いてみせた。
「ちょっと分かる。騒がしかったり、身動きが取れなかったりは怖いよね」
「別に、怖くねーしっ」
「そう? ラッシュ時の電車とか、足がつかないんじゃないかってたまに思うことあるよ」
「あー、俺は平気だけど、ときどきモルガナが潰されそうになってる」
「ひえ……」
 想像してしまったのだろう、佐倉は震えあがって口元を思い切り歪める。
 日本の首都東京を走る路線の通勤時間における混雑ぶりは海外にも名を馳せる程であることは誰もが知っていることだろうが、敢えて経験したいと思う者は少数派だろう。
 子供たちは顔を見交わしてうんざりとした表情をする。
「夏休みが終わったらまたあれか……」
 悄々たる声を漏らして、少年は項垂れた。もそれに倣う。
 ただ一人佐倉だけがその憂鬱さに共感できずに取り残され、何とも言えない顔を作った。
 寂しさか、怒りか、悔しさか……あるいは引け目を感じているのかもしれない。
 少年と少女はそれを敏感に感じ取った。
「……双葉、お腹は空いてる? ドーナツは好き? それともスコーンかサンドイッチか……」
 気がつけば時計の短針は十一を指している。
 佐倉は少しだけ考えて
「キッシュがいい」と応えた。
 は頷いて立ち上がり、席を離れる。
 それを見送る少年の瞳には軽い驚きが宿っている。
 彼は少しだけ意識を思索の中に放り込んだ。隣で佐倉が落ち着きなく体と足を揺らしていたが、それも気にかからない。
 やがてがキッシュを手に戻ると、彼は徐に言い出した。
「気になっていたんだけど」
「なにが?」
 フォークを受け取りながら佐倉が反応する。少年は軽く首を左右に振った。
「お前じゃない。は俺たちと知り合う前から祐介と友達だったんだろ」
「うん」
「あいつとどういう話するの?」
「……またからかうつもりなら」
「そうじゃない。ただ気になっただけ。俺だってあいつと遊ぶことはあるけど、そういう時は大抵絵の話ばかりだから」
「そんなの、私だってそうだよ」
「退屈じゃない?」
「そうでもない」
「日本画に詳しい?」
「全然」
 口いっぱいにキッシュを頬張った佐倉の視線が二人の間を行き来する。口を差し挟もうと思ったが、物理的に不可能だった。
「よく飽きないな」
「それは、きみも。思い返すと、一緒にお昼食べてる時にきみの話を聞いていたもの」
「……なんて?」
 これには、にやっと口角を吊り上げた。初めて見る表情だった。
「知りたい?」
「おお、悪魔がおる……」
 すかさず入れられた佐倉のツッコミにくすりと笑い、は頬杖をついた。
「やり返しただけ。もう殴られるだけではないからね」
 少年は苦笑して両手を上げる。敵わないと言うことらしい。
 それを見て良しとして、は語る。
「別に大したことを言っていた訳じゃない。ただ、友達だって。興味無さそうにしてるくせに付き合ってくれる奇特なやつ……そういう相手を得られる機会はそうないから、大事にしたい、と」
 他者から聞かされる評価は思っていた以上に少年の心をくすぐった。
 喜多川から友人と思われていることを確信していても、改めて言葉として差し出されてしまうとなんとも……
 たまらなくなって眼鏡のブリッジを押さえた彼を、佐倉が横から覗き込んでいた。
「こやつ照れてやがる」
「ほっとけ」
 指先で少女の額を押し返し、少年はふう、と息を吐き出した。
「もし祐介が俺のことを聞いたら、俺があいつを好きだと言ってたって伝えて。それで、あいつがどういう顔したか教えてくれ」
「うわっ、お前ホモか」
「双葉ちょっと黙ってろ」
 どこからか取り出した飴玉を佐倉の手の中に押し付けて少年は続ける。キッシュはもう後一口分しか残っていなかった。
「なんか、羨ましい。ちょっとだけ」
「なにが? あ、飴? 食べる?」
「そっちじゃなくて……男の子同士の友情? って言うの? 時々考えるよ、もしも私が男だったら……って」
「やっぱりホモじゃないか」
 何故か喜色を浮かべて吐き出された台詞に、の手が佐倉の前に置かれたキッシュとコーヒーを回収する。もはやほとんど残ってはいなかったが佐倉は素早くごめんなさいと頭を下げた。
「双葉は男だったほうが良かったかもな」
「なんで?」
「こういう時さっさと引っ叩けた」
「ひどい! 男女差別! ……あれ?」
「うん。そこで男女差別と言うと叩いていいことになるね」
 の言葉に、少年は深く、深く頷いた。
「なるほど」
「ごめんなさい」
 プルプルと震えるふりをする佐倉に向けて取り上げた物を押し返しつつ、は肩を竦めた。
「まあ、とにかく……話を戻すけど、杏たちはともかく、俺や竜司はそこまでのことも知らないし、親しいと言い切ることもできないから。本当は、今日は双葉だけを寄越すつもりだったんだけど」
「ちょっ! マジかスパルタ二号!」
 素っ頓狂な声を上げる佐倉を横目に少年はシートの背もたれに身を預け、両手を広げる―――
「それでも来たのはこいつがしつこかったからもある。でも、と話ができればと思ったんだ。ただ何を話したらいいのか……それで、祐介と普段どんな話をするのか知りたかった」
「話……」
「一緒に戦うなら、ちゃんと把握しておきたい」
 把握、という言葉にかすかな不快感を抱いたのだろう。の眉がわずかに揺れる。
 言葉の選び方が悪かったかと少年が頭を掻く内にそれは消えていた。
「わたしは、ナビができるぞ」
 えへん、と平坦な胸を張って佐倉が主張する。キッシュはきれいに平らげられていた。
 それは仲間たちにとっては周知の事実であるから、今更言うこともない。少年はスルーを決め込んでの反応を待った。
 さて、彼女は困ったように口元に手を添えて唸る。
「うーん、話、と言っても……祐介と……やっぱり絵の話とか……」
「おイナリ、引き出しすくねーな」
「いや、そんなことは。その辺を歩いてる人を観察して遊んだりも、するよ?」
「なんだそれ」
 首を傾げた佐倉の視線が店内を一巡し、次にすぐそばの大開口部―――大きな窓ガラスの向こうへ移る。
 ぎらつく夏の日差しに目を細めた人々がアスファルトの上を行き交う光景がそこには広がっていた。
 その内の一人、白いTシャツに浅黄色のベストを着用した男を指し示してが言う。
「例えばあの人。たぶん、塗装関係の仕事で、新人さんじゃないかな」
 え、と少年たちは口を開き、歩き去っていく男の後ろ姿を注視する。しかし、何故が塗装の新人と言い切ったのかは分からない。二人は揃ってへ視線を戻した。
「まずあの人、下はジーンズだったよね。その裾に塗料が付着してた」
「み、見てなかった」
「俺も。そもそも、そういうデザインの物もある」
「確かに。でも大抵、水性のアクリルペンキとか、シリコンアクリルとか……少なくとも油性はまず用いられない」
「そーなの?」
「え、わかんない」
「油性だと人によっては肌に触れたときにかぶれたりするから。平気な人がオリジナルで作ったものなら……でも、やっぱり普通はやらないんじゃないかな」
 あー、と二人は揃って感嘆の声を漏らした。
「んでも、なんで油性だってわかるんだ? ニオイがしたとかならともかく、チラっと見ただけじゃわかんないだろ?」
「分かるよ。付着していた塗料はジーンズのしわに合わせて割れていた。水性塗料は硬化しても軟度をそこまで失わないから割れたりはしないんだ」
「スプレーでどこかに落書きをして来たって可能性は?」
「それは無いね。スプレーならもっと塗料は散らばるはず。これも合わせて考えると、工場なんかでエアーを用いて作業したのではなく、屋外でハケやローラーを使ってのお仕事だということもわかる。新人というのは、言わなくても分かるよね。長年勤めていれば仕事着は汚れる。それこそ、何気なく見ただけで分かるくらいに。でも、きみたちは気が付かなかった……」
 今度こそ言葉を失って、二人は黙り込んだ。もう一度窓の外を覗いても、もう件の男の姿は影も形も見えないが……
 しかしちらりと見ただけでここまでわかる事があるとは、驚いた。
 これは思っていたよりも楽しい遊びなのではなかろうか?
 にわかに二人のテンションが上がり始めたのを見て、は忍び笑いを漏らした。
「ふっ、ふふ、ネタ晴らしをすると……ふふふっ」
「え?」
 二人はまた声を揃えた。
「ここに来る途中、本屋の前の階段で手すりを塗装し直してたよね。その時、あの人が「おい新人!」と呼ばれていたんだ」
 沈黙。
 やがて二人は盛大に脱力してテーブルに突っ伏した。
 は声を上げて笑う。
「あはははっ、ははっ、くっ、ふふふふふ……!」
 両手を口に当て、店内に響く笑い声を抑えようと必死になる彼女の目じりには涙すら滲んでいる。
「なんだよもー! もー! わたしの感心と期待を返せ!」
「ごめ……っ、ふふっ、あはは……」
「許さない。今、頭のなかで……モーリス・コステロとか、ジェレミー・ブレッド、クリストファー・リー、ベネディクト・カンバーバッチ、ジョニー・リー・ミラーが……許さない!」
 訳の分からないことを喚きたててテーブルを叩く少年はさておき、は涙を指先で拭いやっと平常な呼吸を取り戻す。
「分かってくれた? こういう遊びなんだ」
「しょーもな」
「そうかもね。でも、それなら双葉は普段何で遊んでるの?」
 短く一度唸って、佐倉は答えた。
「ネトゲとか……」
「ねとげ?」
 はて、とは首を傾げる。
 年頃の子供らしい遊びのほとんどを経験してこなかった彼女に、佐倉が言うゲームを想像するのはいささか難題に過ぎると見て少年が口を挟んだ。
「ネットゲーム。オンラインで対戦したり、一緒に冒険したりするやつ」
「あ、CMで見たことがある。お母さんが絶対にやるなって……」
「なんだと! やろうぜ! ドン勝しよう! それともチョコボ乗るか? あっ、戦車でもいいぞ!」
「双葉、を悪の道に引きずり込むな」
「ネトゲは悪じゃないっ! ……もちろんわたしも、マクロもツールもデータ改竄もしてないぞ」
 そもそも怪盗団の活動はある意味悪なのではないだろうか―――
 思ったが、しかし口を閉ざしてはあいまいな笑みを浮かべた。
「やってみたい気もするけど、そういうのってパソコンやゲーム機がいるよね? 私、スマホくらいしか……」
「じゃっ、じゃあソシャゲで妥協してやる!」
「そしゃげ?」
 少年はもう一度口を挟んだ。
「ソーシャルゲーム。スマホで遊べるやつ」
「ああ! 積み上げて消す奴ならちょっとだけ……」
「そういうのじゃなくて、マスターとか、騎空士とか、プロデューサーになろうぜ! ハンターでもいいぞ!」
「双葉……お前まさか……」
 少年は佐倉に向き直り、眼鏡のつるを抑えて言った。
「課金してないだろうな?」
 沈黙。昼時が近づいて込み合いつつある店内の喧騒が二人の間に横たわった。
 佐倉は目を逸らし、どこか遠くを見つめながら
「し、して、ないし……」と、上ずった声で答えた。
 これに少年は笑みを浮かべる。佐倉はほっとして脱力し―――
「惣治郎さんに確認させてもらう」
「ぎゃーっ! やめろやめろやめてぇ!」
 悲鳴を上げた。
 少年の手に握られたスマートフォンをどうにか奪い取ろうと腕を伸ばすが、悲しいかな佐倉の身長では掲げられてしまうと飛び上がっても届かない。
 は声を上げて笑った。
「笑いごとじゃないぞ! そうじろうにバレてネットを切断されたら、されたら……」
「されたら?」
「……死ぬしかない……っ」
 呟いた少女の瞳には悲壮な覚悟が湛えられている。はテーブルに突っ伏し、声を潜めて震え、笑っている。
「だから笑うなって……あーっ! あーっ! 待って! やめて! 常識的な範囲だから! 天井とかしてないから!」
「……本当だな? 信じていいんだな?」
「信じていいぞ、だいじょーぶだ!」
 二人はしばし睨み合っていたが、やがて少年が掲げていた腕を下ろしテーブルの上にスマートフォンを置いて終戦を迎える。
 信用しようと決めたらしいと見て、はやっと顔を上げた。
「兄妹みたいだね」
 荒い呼吸の中で告げてやると、二人は声を揃えて反論する。
「こんな妹は嫌だ」
「こんな兄貴嫌だっ!」
「息ぴったりだよ。はー、おかしい」
「ぐぬぬ……他人事だと思って……」
「他人事だからね。課金もしたことないし」
「じゃ、じゃあもやろっ! そしたら課金したくなる気持ち、わかるからっ」
「こら双葉」
「やってみればわかるって、なあやろ? 一緒にやろうよお~」
 裾を掴んで揺さぶってくる手に辟易とした表情を浮かべつつ、少年は一度は置いたスマートフォンに再び手を伸ばす。もこれに倣った。
「わかったわかった、なんてやつ?」
「一緒に遊んでくれるならやるよ」
 佐倉は飛び上がって喜び、二人に幾つかのゲームタイトルを告げた。どれも一度は耳にしたことがあるような有名タイトルである。マイナーなものをチョイスしなかったのは彼女なりの気遣いだろうか。
 わからないが、しかし今日ここに来て初めて佐倉と共通する楽しみを見つけられたことには喜びを感じている。
「手強いって聞いていたのに、本当にそんなことはないね」
 思わずと漏らした言葉に、佐倉はむっと眉を寄せ、唇を尖らせた。
「言ったな? 強くなろうとすると大変なんだぞ。欲望との戦いを甘く見るなよ」
「ゲームじゃなくて……」
「よし、スタートだ!」
 テンションも高く液晶画面をタップする一つ年下の少女の姿に、はもう何も言うこともなく従った。
 そこには自分の見たことも無い、触れたことも無い世界……文字通りの意味で……が広がっている。
 ほんの少し前であれば、こんなものを始めたと知られたら叱責されると怯えていただろうに、今はどうだ。目の前の全く馴染みのない遊びに心を躍らせている。
 ……友達と一緒に。
 は改めて己が得たものを胸に返して微笑んだ。
 その対面で少年が言う。
「チュートリアル長くない?」
 彼は隣に座る少女によって強かに脇腹を突かれ、しばらく悶絶していた。