翌日の放課後、は一人の少年を伴って多摩川の河川敷を歩いていた。
 家からも学校からも、普段の行動圏内からずいぶん離れた場所を人とほっつき歩いているのにはもちろん訳がある。
「どこにいるんだろうね」
 つぶやいて、目線を下げる。傍らを歩いているのは和光圭太少年であった。
 はかつて苦難の最中にあったこの少年を救い出すために奔走したことがある。彼女がそのために多少の無茶を押し通したことに仲間たちは大いに憤り、一部は苛烈な『おしおき』を施したりもした。
 それでも結果として和光少年は救い出されて、傷こそ負ったが今は新しい環境で健やかな生活を送っている。
 その場所がこの多摩川近くの土地であり、と、少年を挟んで反対側を歩く喜多川がここにいる理由でもあった。
 喜多川が唐突に天啓を享けて跪いたその日の夜、のもとにしばらくぶりの和光少年からメッセージが届いた。
 それは救難を求める声であった。
 ただし対象は和光少年ではなく―――
「タロウ、だったか。その犬の名前は」
 一匹の犬である。
 聞き及んだ話によると、タロウとやらは十三歳のゴールデンレトリバーで、和光少年が新たに通うこととなった学校でできた友人……しかも同じクラスの女の子……の飼い犬であるらしい。普通ゴールデンレトリバーの寿命は十歳から十二歳程度だから、かなりの高齢であると言えるだろう。
 それが数日前、どこかに姿を消してしまったらしい。
 老衰によって歩くのもやっとという身体でどこへ行ったのか、案ずるあまりに涙する同級生を見かねて、和光少年は怪盗団に助けを求めた、ということだった。
 もちろん、犬探しなんて怪盗団のシゴトじゃない。
 けれど家族の行方が知れないと涙する少女がいると知って立ち上がらないほど無粋でもなかった。
「おーい!」
 河川敷沿いの道路から声がかかる。三人が揃って目を向けると、一台の車から見覚えのある制服を身にまとった佐倉が身体を乗り出して手を降っている。
 小走りにそこへ駆け寄ると、車からぞろぞろと怪盗団の面子が姿を現した。
「遅れてごめんなさい。杏を捕まえるのにちょっと時間がかかってしまって」
 申し訳なさそうに新島が言うと、隣の高巻もまた両手を合わせて頭を下げた。
「ごめんっ! ちょっと撮影が押しちゃって……でも、今日はもう予定ないから、ワンちゃん探し、手伝えるよ!」
「ついでに駅周辺もぐるっと回ってきたけど、それっぽいのは見えなかったぜ」
 少年を怯えさせないためだろう、一歩下がった場所から坂本が言う。気を遣うくらいなら髪色を元に戻せばいいのに、とは誰もが思うことだった。
「かなりのご高齢なのよね? ゴールデンレトリバーが脱走するという話はあまり聞かないし……なにか事情があるのかしら」
「どうだろな。聞いてる感じじゃ、ストレスや好奇心からって印象は受けないけど……おジジイじゃメスに釣られてっちゃったってこともないか」
 春めいたパステルカラーのワンピースで身を包んだ奥村と、まだ糊の効いた制服の佐倉は見た目的にちょうど正反対だ。
 額を突き合わせてうーんと唸る一同に、和光少年は深々と頭を下げた。
「あのっ、ありがとうございます。おれのワガママに付き合ってもらって……忙しいのに、すいませんっ!」
 これに高巻が明るく応えた。
「いいっていいって! こーいうのもウチらのシゴトのだって、リーダーも後押ししてくれたし」
 その通り、さすがに駆けつけることはできなかったものの、怪盗団の頭目はこの『依頼』を受けるべきであると判断した。
 その理由は多岐にわたる。先述の通り泣いている少女に手を差し出さないような振る舞いは紳士、あるいは淑女に許されないし、なにより和光は未だ見習いとはいえ怪盗団の末席に連なる人物だ。人材の育成という意味でも、ここいらで地味なシゴトの一つもその目で確かめさせねば―――
 先輩風は台風のごとく強烈だったが反対する者もおらず、全会一致となったのである。
「飼い主の子の家の位置、大まかでいいから教えてもらえるか?」
 いつの間にか取り出していたラップトップを膝の上に構えて佐倉が問う。液晶ディスプレイには衛星写真で構成される忠実なマップデータが表示されていた。
「えっと、うん、この辺……」
「うい。したら……おジジだもんな、行けて半径二キロってとこか……?」
 受けて佐倉の手が淀みなくキーボードの上を滑る。和光が指し示した地点を中心に、地図上に円が広げられた。
「うし、マップデータ転送するぞ。けーた、お前のIDも寄越せ。送っちゃる」
「う、うん」
「けっこう広えな。住宅街に、学校、神社に寺……河のらへんも入ってるし、森もあんな……」
 坂本が唸る隣で、奥村が眉をしかめる。
「保健所もあるね。もしかしたらもう誰かに捕まえられて、預けられてるって可能性もあるかしら……」
「じゃあ、春はまずそちらをお願い」
「ええ。ここからそう遠くないし、行ってみる」
 応えて頷いた奥村に、坂本と高巻が続く。
「んじゃ、俺は森のほう行ってみるわ」
「私はもう一度駅前を見て回るね」
 佐倉はまた、鞄にラップトップを押し込みながら和光の背中を引っ張った。
「けーた、わたしを街道沿い方面に連れてってくれ。学校のほう」
「わ、わかった」
 それならば、と新島は車のキーを手の中で確かめながら言う。
「私は住宅街を中心に回るわ。中継役も務めるから、なにかあったらまず私に連絡して」
 最後に喜多川とが応える。
「じゃあ、私と祐介で河川敷を探るよ」
「ちょうどこの辺りが範囲の端だな。上流に向かう形になるか」
 それぞれが担当する場所が決まると、怪盗団は素早く散開した。そのまま走り出す者もいれば、距離の関係で新島の車に同乗する者もある。
 少なくとも喜多川とは、この場に残される形となった。
「よし。行こう、祐介」
「ああ……」
 気合いを入れて、再び河川敷に降りる。背の高いヨシの鋭い葉が茂る場所だ。もしも犬が伏せってるとしたら見つけ出すのはなかなか難しい。
 時刻はちょうど四時になったところだ。四月の終わりごろ、日の入りは伸びつつあるからしばらくは明かりに苦労することはないだろう。
「あ、セキレイ」
 水辺に目を向けた喜多川がどこかぼんやりとつぶやいた。
 なるほど確かに、白地に黒のラインが入った尾の長い鳥がなにかを啄んでいる。
「鳥じゃなくて、犬だよ」
「分かっている」
 二人はしばらく、川端を流れに逆らうようにゆっくりと歩いた。
 時折川べりにまで降りて周囲を見回したり、草の中に踏み込んだりするが、犬の姿どころか、獣の痕跡らしきものさえ見つけられなかった。
「うー、難しい」
「それはそうだ。簡単に見つかっては動物もたまらんだろう」
「そうだけど、相手は老犬だ。もう歩きも達者じゃないという話だったのに……」
 本当にどうして姿を消してしまったんだろう。
 つぶやいて眉尻を下げたに、喜多川はふうむと唸って口元に手を添えた。
 なにかを考え込むように遠くを見て、やがて川岸と川岸を繋ぐ橋の『げた』に視線を置くと、物憂げにまぶたを閉じる。
「猫は死期を悟ると己の死に場所を自ら定めてそこへ向かうと言うな」
「それ以上は言わないで。それに、何度も言うけど探しているのは犬だ」
「古くは犬も猫と同じくしてひっそりと死を迎えたと聞いたことがあるぞ」
「祐介」
 咎める声に、喜多川は首を左右に振った。
「すまん。ただ、そういう可能性もあるなと思ったんだ」
「それ、皆の前で言っては駄目だよ」
「分かっている」
 否定はしたが、とてその可能性は十分あり得ると考えている。言葉にはしなかったが、別れて散った皆も同じことを考えているだろう。ただ和光少年とその友人を慮って言わなかったというだけだ。
 喜多川はまた少し思索に耽る。
 もしも己の考える通りだったなら……と。
 老犬の最期の意志として誇り高い孤独を選ぶのであれば、それを人の手が遮るのは許されることなのだろうか。
 詮のない考えであった。
 人に犬の考えなど分かるはずもない。まして喜多川は写真でしかそのタロウとやらを知らぬのだ。ますます分かるはずがなかった。
「うわっ!?」
 ふと、が悲鳴を上げて姿を消す。喜多川はほとんど反射的に腕を伸ばして足を滑らせた彼女を抱きすくめていた。
「あ、あ、ありがとう……危ないところだった……」
 見れば、彼女の足は折り倒されたオオイヌタデの葉を踏んでいる。その下にもオオバコやツメレンゲが顔を覗かせている。これらが彼女の足を滑らせたのだろう。
 オオイヌタデは荒れ地やこういった河川敷に生える大型の植物だ。冬に枯れたものが春になってまた芽吹き、ここまで伸びてきたのかもしれない。夏頃になれば花も見れるが、まだ早い。
 喜多川はじっと倒れた緑を見つめた。赤紫の斑点が浮いた少しふくらんだ幹……
 立派なものだ。人の手も入らないだろう場所で、己の縄張りを主張するように直立していたのだろう。
「そろそろ離して欲しいんだけど」
 腕の中の柔らかな感触が訴えるが、彼はそのまま慎重に足を進めた。倒れたタデの上に足を置き、滑らないように。そういう意味では抱えたものの重みは役に立った。
 果たして彼は、屋根のように折り重なった背の高いタデ科植物の下に探しものを発見した。
 年老いた犬。もつれた金の毛皮には泥が付着し、くたびれたように横たわった背は丸まって小さくなっている。
「あ……」
 声を上げたのはだった。彼女は相変わらず抱えられたままポケットを探り、スマートフォンを取り出してタロウの写真と目の前の毛皮とを見比べている。
 やがて彼女は喜多川を振り仰いで首を大きく縦に振った。間違いない、ということらしい。
「こんなところに居たんじゃ見つからないはずだ。でも良かった、さっそく圭太くんに連絡を―――」
「待て」
「なぜ?」
 喜多川はまだじっと老犬の背を見つめている。その瞳には感傷的な色があった。
「きみ、まさか」
「……すまん。俺はそうっとしておくべきではないかと思うんだ」
 はなにも言わずに悲しげな顔をしてみせる。
「ここが彼の定めた場所だから?」
「ああ。最期の時くらい、彼の意志が尊重されるべきじゃないのか?」
「心配しているひとがいるのに?」
 疑問系に疑問系で返して、は小さく頭を振った。それは問いかけているというより、喜多川の発言を否定しにかかっている。
 それに悲しい気持ちになりこそすれ、喜多川は多弁にはなれなかった。己の発言がただの……あの老人の姿を思い返したことによる感傷だと分かっているからだ。
 そして彼はこの感傷をどこか心の片隅で否定して欲しがってもいた。
 果たしてはそれに応えた。彼が彼女にとっての、遠く距離を置くことになった誰かさんの代わりを努めようとするように、彼女もまた『彼』の言うべきことを代弁するように努めた。
「確かに昔はそうだったのかもしれないけど、でも、あの犬は二十年近くも人と共にいて、そのルールに則って生きてきたんじゃないか」
「だから、最期まで従うべきだと?」
「従うとか従わないという話ではないよ。そうじゃなくて、家族なんだから。いつも一緒にいて、いなくなったら必死になって探して……心配したり悲しんだり……そういうのが家族というものではないの」
 喜多川は小さな声で「分からない」と返した。
 本当に分からなかった。彼にとっての家族と呼ぶべき者はもうとっくにこの世を去っていたし、あの老人が家族と呼べるのかと言われれば、それも違うような気がした。
 知らないものは、分からない。
 は言い聞かせるように言を重ねた。
「ではこういう考えはどうかな。犬には犬の流儀があるように、人にも人の流儀がある。そしてあの老犬はここで私たちに見つけられてしまった……彼は人に負けたんだ。であれば、敗者のならいとして、彼は人に従うべきでは?」
 どうだ、と言わんばかりに見上げられて、喜多川は項垂れた。
「……反論が思いつかん」
 しかしその口元には笑みが浮かんでいる。安堵によって生み出された柔らかなものだった。
「勝った」
 ブイサインを掲げて、少女は未だ己を抱えるままの腕を叩く。
「さあ、私ではなく、彼を捕まえて」
「えー」
「早くする」
「はい」
 厳しく言い放たれて、やっと彼は少女を開放した。
 足音も密かに歩み寄るが、それでも老犬はかすかに頭をもたげて振り返る。
 すると、その頭の向こう、背の高い草の切れ目には川の流れが見えた。夕暮れ時の橙に染まった川面がきらきらと輝いている―――
 なるほど、死に場所としては最良だ。
 頷いて、それでも少年は手を差し伸べて彼に語りかけた。
「タロウ、君の家族が心配している。一緒に来てくれるか」
 老犬は横たわったまま起き上がらなかった。ただ、まるで笑うように目を細めて、力なく尾を一度だけ振った。
 それはあたかも、『よかろう。若造の言うことに従ってやろうではないか』と言っているようだった。
「衰弱しているね」
 喜多川の肩越しに犬の様子を窺ったが言う。
「時間はあまりなさそうだ。俺が抱えるから、真に連絡を。拾ってもらおう」
「うん」
 は素早く立ち上がると、手にしたままのスマートフォンを操作しながら草の波から抜け出していく。
 また転ばないかと心配しつつそれを見送って、膝をにじって老犬に近付いた。
「抱き上げるが、よいだろうか」
 問いかけると、老犬はまた尾を振った。許すということだろうか? 分からないが、少年は年老いた大型犬を抱えて立ち上がった。
 想像していたよりもずっとその身体は軽かった。歩くこともままならない身体と聞いている。きっと筋や骨が衰えて、かさを減らしているためだろう。
 少年は、ふと皮と骨ばかりの老人の手を思い返した。
 あの手が恐ろしかった。お前などいつでも簡単に叩き潰せるのだと言われているようで、触れられるたびにおぞけが走ったものだった。
 いい加減限界だと払い落として殴り返したあとも、それは変わらなかった。跳ね除ける自信はあっても、それと長年に渡って刻まれ続けた恐怖は別の話だ。
 けれど、なによりも恐ろしいのは……
 立派な身の丈をしたその男は、しかし一度だけ小さく震えて、縋り付くように老犬を抱く腕に力を籠めた。
「放っておいてくれとは思わないのか?」
 人生の黄昏に、独り佇んで望んだ最期を迎えるのに、邪魔が入ることをどう思うんだ?
 問いかけに、老犬は静かな瞳で彼を見つめ返した。
 それはまるで、『差し許す』と言われているかのようだった。


 老犬が静かに息を引き取ったと連絡を受けたのは翌日の昼を過ぎてからだった。
 報は怪盗団にも至り、少年たちに不思議な感覚を残した。悲しいような、寂しいような、しかしまったくの他人事のような……
 事実他人事だった。ただ、老犬の家族は彼が息を引き取る最後の瞬間を共にしたと聞かされて、喜多川は安堵に似た気持ちを抱いた。
 もはや日常の象徴ともなった少女と過ごす昼時の時間。人目を避けた校舎裏で、彼は柔らかな春の陽射しを見上げてあの静かな瞳を思い返していた。
「彼は最期になにを考えただろう」
 独り言のようなそれに、隣に腰掛けた少女は膝の上に広げた弁当の包みを片付けながら大した感慨もなさそうに答える。
「さあ……『放っておいてくれ』とかかな」
「そう思ったのに、連れて行ったのか?」
「まあね」
「勝手なことではないのか。他者の意思によって死に場所すら選べないというのは」
「そうかもね。でも……」
 ぎゅっと包みの口を結んで、少女は彼を真っ直ぐに見つめた。逃げる気も逃がす気もないと言いたげな、勝ち気な瞳だった。
「何度も言うけど、あの老犬はあの子の家族だった」
 喜多川は受けて応えた。
「家族ならば許されるのか? それが正しいとどうして言い切れる。放っておいてくれと思われていたのなら、家族であっても、そうしたほうがいいんじゃないのか?」
 切り返しに、はふむと唸ってあごを掻いた。
「きみが言うの?」
「え?」
「家族でもないのに私の事情に首と腕を突っ込んで、勝手に心の中にまで踏み込んで……なにもかもを変えてしまった。もちろん、それは私が決めたことでもあるけど……」
 思わぬ反撃に、喜多川は言葉を失って目をそらした。
「それは、だって……」
 足元にはどこかから飛ばされてきたのだろう桜の花弁が落ちている。それを睨みながら、彼はつい今しがた己が述べたこととまったく矛盾することを口にした。
「放ってなんておけなかった」
「そっか」
「意地悪しないでくれ」
「ごめん」
 軽い調子の謝罪に喜多川は唇を尖らせる。まるきりすねた子供のする仕草に、は小さく喉を鳴らした。
「私はきみがああしてくれて嬉しかったよ。おかげで、今こうしていられるんだから」
 言って、機嫌を取るようにその腕に寄りかかる。
 少年のほうもそれがご機嫌取りであると分かっているはずなのに、腕にかかる重みと暖かさには逆らえない。
 ただ、彼はまたあの老人のことを考えた。
 あの人はどうなんだろうか、と。
 家族であっても、そうでなくても。もう放っておいてほしいと思っているんだろうか?
「……放っておいてくれなんて、言わないで欲しい」
 言ったのはだった。その手は喜多川のシャツの裾を掴んで、離すまいと懸命に力を籠めている。
「本音を言えば、当然、言わないで欲しいに決まってる。私はきみのことが好きだ。だからそう思うのかは分からないけど……でも、多少なりとも縁のある相手にそんなふうに思われるのは、とても悲しいことじゃないか」
 実感を伴って彼は応えた。
「ああ……そうだな……」
 そうか、俺は悲しいのかと、彼は得心して頷いた。
 あの老人にもう放っておいてくれと言われるのが、恐ろしくて、そして悲しいんだ。と。
 そして彼はまた、己の腕に身を預ける少女のことを考えた。彼女に放っておいてと言われたらどう思うのか、どうするのか。
 彼女だけではない。仲間たちや友人に、もう放っておいてくれと言われたとき、己はなにを思い、どのように行動するだろうか―――
「相手の意思なんてものは……家族という関係の中であっても、それ以外の枠の中であっても、どうでもいいものなのかもしれないな」
 ぽつりと落とされた言葉には顔を上げる。
 喜多川は彼女の手を取り、前をまっすぐ見て、そこにあたかもあの老人が佇んでいるかのように背筋を伸ばして告げてやった。
「どうだっていいんだ。人なんてものは本質的に自分勝手で、わがままで……きっと犬や猫なんかの、動物のほうがよほど広い心を持っているに違いない」
 想像の中の老人はなにも返さない。ただ背を丸めて、卑屈な光を湛えた瞳で彼を見つめ返してくる。
「俺は俺のしたいようにして、この考えを貫き通すだけだ。だからそちらも、好きにすればいい」
 老人は消えて、あとには少女が残された。
 彼女は呆れたような顔をして、脱力して言う。
「きみは本当に傲慢だ」
「なにがいけない?」
「いいや……その傲慢さに救われたんだから、文句なんてないよ。それに、きみの言う人のわがままや自分勝手さをどれだけ許容できるかが、相手との関係を判別する一つのものさしなのかもね」
 そしてそれは、差し込んでみなければ長さが分からないものだ。
 独り言のようなつぶやきに、喜多川は首肯する。
「あの年寄りは……彼らのわがままを許しただろうか」
「さあね。そんなものは、もうなにをどうしたってわからないよ。でもまあ……」
「ん?」
「ああいう家族っていいものだね。私も猫を飼おうかな……」
 どこか遠くを見つめて、の指がなにかを求めるように宙をさまよった。
 どうせ、あの靴下猫の暖かな毛皮の感触を求めているのだろう。
 ……俺が隣に居るというのに。なんてやつだ。
 思って、喜多川は思い切り顔をしかめて少女に詰め寄った。彼は完全に、己がいつも製作に熱中して彼女をほっぽりだすことを棚に上げていた。
「俺は?」
「え?」
「俺では不足か?」
 むくれた様子で言う彼に、は眉を寄せて困り顔をつくった。
「不足ではないけど、きみを私の家に置いておくわけにはいかないじゃないか」
「円さんが許してくれるのなら今日からでもご厄介になるが」
「……きみを猫じゃらしで遊ばせるわけにはいかないし」
「喜んでやってやろうじゃないか。追えばいいんだろう」
「ブラッシングをさせてもらうわけには」
「してもらって構わない。なんなら、今すぐにでも」
「き……きみを私の布団で寝させるわけにはいかないし」
「お前が許してくれるのなら、俺はいっこうに構わない」
 言うたびに困惑を強めていた少女は、ついに敗北を認めて黙り込んだ。俯いて顕になった首筋までを赤くしているさまを見て喜多川は鼻を鳴らす。彼は心の中で勝手にあの靴下猫に勝利宣言をしていた。きっとこの場に彼がいて、それを聞いていたならば、『いや、ワガハイかんけーねーし。勝手にしてろよ。むしろやっといてくれ。タマキを抑えとけ、離すな』と言ってやったことだろう。
「ううう、きみはまた勘違いをさせるような……」
 つま先を落ち着きなく揺らしながら呻くのに、喜多川は被せて告げる。
「勘違いじゃない。俺は常に真剣だ。それに撫でていいとも言っただろう」
 ずっと握ったままだった手を取り上げて、己の頬に触れさせる。少女は困りきって眉尻を下げて、それでも自由になった手で彼の頬を優しく撫でてやった。
 柔らかくてすべすべした感触が指先にある。手を伸ばして前髪に触れ、側頭部へ滑らせる。
「ん」
 指に絡む滑らかな髪を耳の後ろにかけてやると、くすぐったかったのか、少年は小さく息をついた。
 そのまま、頭頂部へ手を添える。子供にしてやるように撫でてやると、彼は心地よさそうに目を細めた。
「んー……」
 手に触れる黒髪の感触は確かに悪くはない。悪いはずがないのだ。
 しかし……
「やっぱり猫とは違うよ」
「気に入らないか」
「……まさか」
 そんなことがあるはずがない。そもそも、彼ときみに求めるているのはまったく別のものだ。愛玩と恋慕を一緒にされては困る。
 思い、しかし口にはせずに手を引いて膝の上に置く。
 羞恥によって小さく震えるさまはまるで叱られた子犬のようだ。
 ブレイドなのに、ハウンドだ。ふっと口元をほころばせて、喜多川は彼女に向き直った。
「これもものさしか」
「え?」
はどれくらいまでなら、俺の勝手な行いを許してくれるのかな、と」
 は器用に片眉を跳ね上げさせて口をへの字に曲げた。またその指先は己の膝を強く叩いている。
「……ずいぶん許しているつもりだけど」
 不満げな語り口に、喜多川は鼻を鳴らした。
「まだ半分、いや、四分の一程度だ」
「ええ……今のも十分すぎるくらい恥ずかしかったのに―――」
 先を言わせないつもりで、少年は彼女に抱きついた。
「うわっぷ」
 奇妙なうめき声を上げた少女に構わず、その肩口に顔を埋めて息をする。甘やかな香りと、かすかな汗のにおいがした。
 不思議なのは、こうしているというだけで恐ろしい気持ちも、悲しい想像も、なにもかもが溶けて消えるということだった。
 この小さな女の子と共にいると、きっと本来なら考えなくても済むような些事に悩まされたり、遭わなくてすむトラブルに巻き込まれたり、負わなくていい傷を負わされたりするのに、彼女こそがそれをすべて癒やすのだ。
 まるでマッチポンプだ。予めそう動くように定められた機械じかけの舞台装置だ。
 でも、抱き返してくれる腕の暖かさは本物だったし、彼にはそれで十分だった。
「……きみは案外、甘えたがりだよね」
「どうやらそのようだ」
「確かに甘えろとは言ったけど、きみ、ここは学校だって分かってる?」
「もちろん」
「ああ、もう……仕方がないな……」
 少女の手が少年の後頭部を優しく撫でた。その手に返される感触は、やっぱり猫とはまったく違っているが……
「私も……きみのこと、放ってなんておかないよ。勝手にさせてもらうさ」
 彼女にとってもそれで十分だった。
 少年のわがままや自分勝手な振る舞いを許容して、その上で放っておいたりなんかしないと彼女は言う。
 その意味が分からないほど、彼も寝ぼけてはいなかった。