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『謹啓 班目一流斎殿
晩春の候、お元気でいらっしゃるでしょうか。
お変わりはありませんか。
こちらは大きく変わりました。あらゆることが、まったく以前と違っています。
戸惑うことも多いですが、でも、俺は相変わらず、あなたと生活していたときと同じように絵を描いて過ごしています。
だからという訳ではありませんが、俺の作品を撮影したものをお送りします。
これを見て、先生は怒るかもしれません。こんな未熟なものをと。
あるいは、また苦しむのかもしれません。あなたがしてきたことを思い返して。
それでも俺はこれを贈ります。
あなたに思い出して欲しい。
俺が芸術を志したきっかけは母だったし、あなたはその母を見殺しにした。
それでも、俺に絵の描き方を教えてくれたのはあなただった。
だから、思い出して欲しい。
こんな未熟者に言われるのは屈辱の極みでしょうが、それでも……
思い出して欲しい。あなたもまた芸術の徒であったことを。
時節柄、ご自愛専一にてお願い申し上げます。敬白 喜多川祐介』
……
ぼむ、と間の抜けた音が鳴り響いた。耳にした者は皆既視感を覚えてその状態に関わらず目を細める。
待ちに待ったゴールデンウィーク、怪盗団は某国系マフィアが日本の指定暴力団に工作員として送り込んだ男のパレスに挑んでいた。
そこは無数の集合住宅が合わさって巨大な城のように折り重なり、内部に入り組んだ迷路を形成している。九龍城ともウィンチェスター屋敷とも言えるような難所であった。
そして彼らは、その通路に並ぶ数百の扉のうち一つに飛び込んだところだった。
油断していたわけではない。警戒して、罠を確認し、ナビのサーチも済ませてから侵入してこれなのだから、まったく手の打ちようもなかった。
そういうわけで、先頭を行って部屋に足を踏み入れたスカルとフォックス、そしてノワールは音とともに煙に巻かれ、変じて床に転がった。
「前にもあったなこんなの」
ジョーカーがぼやくのに、パンサーが渋い顔で頷いている。
煙が晴れるのを緊張の面持ちで見つめるクイーンとブレイドは、しかし現れた仲間の姿を見て目を丸くした。
「あなたたち……?」
「なんだ、これ……?」
奇妙な反応を示したのは、床に転がっていたのがネズミではなく三匹の猫だったからだ。
「おっ、なんだ、ワガハイとお揃いじゃないか」
わははと笑うモナに、やたらと目つきの悪いサビ柄の毛並みにカギしっぽ、ドクロ面を付けた猫が
「うっせーよ! ああクソ、なんだこりゃ、今度はネコかよっ」と喚いた。
その隣ではふわふわとした真っ白な毛並みの猫が、マスクの下の丸い目を瞬かせて己の身体の変化を確認するようにくるくると回っている。
「まあ、今回は猫なのね。うふふ、にゃ〜ん、なんて……」
のんきなものだと呆れるが、しかしノワール・キャットは間違いなく愛らしかった。
さて、狐面を着けた猫という紛らわしい生き物と化した、スラリとした身と長い尾をもった黒猫が言う。
「ブレイド、猫だ! 猫だぞ!」
何故か自慢げに。嬉しそうに。
ブレイドは小さく震えながら幾度も首を縦に振る。
「どうだ、かわいいだろう」
「う……うう……っ」
誘われるように震える手が伸ばされる。つやつやの毛並みを誇らしげに見せつけるフォックス・キャットは今か今かとその手が己を撫でるのを待った。
しかし手は触れるより前に掴まれて止まる。
「ストップだブレイド」
「へあ」
ジョーカーの赤い手が彼女の細い手首を掴んでいた。
「なぜ止める」
「気が付いてないのか、バカ」
「ん?」
馬鹿呼ばわりも気にせず、黒猫は視線を巡らせる。
自分の目の前、ブレイドとジョーカーの横。パンサーの腕のなかにはいつの間にかふわふわの毛並みの白猫が抱えられていた。
「ちょっとどうすんのよ、部屋出たのに戻んないんじゃん……」
「うわわわ、抱っこってけっこう高いのね。パンサー、落とさないでね」
彼女は部屋の外、うす汚れた廊下に立っていた。
「うげ、マジかよ。効果範囲から出たら戻るわけじゃねぇんか」
追って部屋を出たスカル・キャットもまた、かぎしっぽ垂れ下げて動揺を示している。
「時間経過で戻るタイプかもしれんな」
「測ってる。スキルは?」
「ワガハイのはダメだ。クイーン、そっちはどうだ」
「……こちらも効果なし。この点はネズミのときと同じね」
淡々と状況を確認する三者の足元をすり抜けて、黒猫もまた部屋を出る。やっぱり彼も猫の姿のままだった。
「うーん、ステータスの変動が激しい……すばやさはぐーんと上がってるけど、他は戦えるようなもんじゃないな」
三匹を眺めてナビが言う。その手はスカルのカギしっぽに伸びていた。
となれば時間経過による回復を期待するしかないか。一度セーフルームに戻ったほうがいいかもしれない。この状態で三匹を守りながらの進行は難しいだろうし……
「さ……触っても、いいの……?」
考えごとを遮るように漏らされたブレイドの声は、明確な興奮によって震えていた。
ヤバい、とモナなどは身を退いたが、効果時間を測るために時計に目を落としたままのジョーカーはゴーサインを出した。
「いいよ。ただし五分経ってもそのままなら一度入り口まで戻る。それまでの間な」
言いつつジョーカーの目は時計から離れて件の部屋の内部を探る。仕掛けの類や抜け道を探しているらしい彼にナビが付き添って本格的な探索を始めると、パンサーやクイーンは通路の奥へ目をやって見張りを務めた。
意思は共通していた。
関わり合いになるまい、と。
「じゃあ、うう、フォックス……い、いいんだよね?」
「うむ、いいぞ。さあこい!」
意気揚々と応えた彼に、モナだけが心の中で告げた。後悔するなよ、と。
床にパサっと音を立てて小さな布地が落ちる。それはブレイドの白く細い手指を隠す無粋なグローブだった。
晒された指先がフォックスの喉元に伸ばされ、すくうようにひと撫でする。たったそれだけのことであるのに、二人は甘やかな吐息を漏らした。
「どうした、それだけか? もっと触れてくれ」
「そんな……ううっ、暖かい、やわらかい……」
「ふっ、こそばゆい。モナに普段するようにしてくれて構わないぞ?」
「でも、ああぁ、フォックス、きみ、こんなに……」
どういう会話だ。背を向けた仲間たちは歯を食いしばって声を大に訴えたいのを堪えた。
またその胸にはジョーカーに対する恨み言も生まれつつある。なんで許可を出した、このバカ。と。
「こんなところにも個性というものがあるんだね。きみ、つるつるですべすべだ。ああ、触れているだけなのにこんなに心地よいなんて……」
スカル・キャットが振り返りそうになるのをクイーンの手が押さえ込んだ。
「うっ、ブレイド、そこは……」
「どうしたの。モナにするようにしていいと言ったのはきみじゃないか」
「そうだが、性急すぎる。もっと優しくしてくれても……あっ!」
「ほら、ここ、気持ちいいでしょう。どんな子でもこうをされるとこうなるんだよ」
どこをどうされるとどうなるというのか。
ジョーカー以外の全員が意思を一つにした。
「えっ? ちょっと待て、ブレイド、そこはやめ―――」
「えへへ、かわいいなぁ、このフォルムがたまらないんだ」
「待て、いくら今俺が猫だとしても、そんな、いかにもまずい、ひいっ!?」
「よ〜しよしよしよし、ほ〜ら、バンザイしようね〜」
「うなっ、んな……」
「はぁ……今まできみのことを侮っていたよ……フォックス、きみは最高だ……」
「にゃ、うなぁん……ゴロゴロ……わあぁぁ……!」
ちょうど五分が経過して、廊下にぼむ、と間の抜けた音が鳴り響いた。
「きゃっ」
悲鳴を上げたのはパンサーだった。彼女の腕の中にはノワール・キャットが抱かれていたはずだが、そこにはすっかり人の姿を取り戻したノワールがいる。
「あらら……戻っちゃったみたいね」
どことなく残念そうに言って、ノワールはパンサーの腕の中からそっと離れた。
またクイーンの足元には同じくスカルがあぐらをかいて座っている。
そして、一同が背を向けていた場所で、フォックスが声もなく仰向けになって倒れていた。
「……時間制限系か。フム、やっぱり一度セーフルームまで引き返そう。この仕掛けを利用して行ける場所があるかもしれないし……地図を見ながら作戦会議だ」
了解と応えて立ち上がったスカルが先頭を務めて来た道を引き返し始める。入り組んだ廊下のあちこちには、迷子にならないようにとつけたマーカーのサインがある。
「生きてるか、フォックス」
続く仲間たちの背後、ジョーカーは放心していたフォックスに手を差し伸べてやる。傍らではブレイドがあからさまにがっかりして肩を落としていた。
「開いてはいけない扉を開くところだった……」
補助を受けつつ起き上がるフォックスがどこか遠くを見つめながら漏らす。その瞳はなんの感情も湛えていなかった。
やれやれと頭を振ったモナがその足元に近寄ってふんぞり返る。
「ワガハイの苦労がちったぁ分かったか?」
「ああ……今まですまなかった……」
「お。はじめての理解者」
素直に頭を下げたフォックスに、何故かジョーカーが手を打ち鳴らす。彼は感慨深げに何度も頷いたりもした。その隣でブレイドが、じっと仕掛けのある部屋を見つめてる。
「安心してくれモナ。二度と彼女をお前に触れさせん」
「ゼヒともそうしてくれっ!」
奇妙な友情と共感が生まれつつあった。
しゃがみこんだフォックスの手を、モナの肉球が包み込んで縦にブンブンと振っている。
「ねえ」
まるで幽霊のような声を上げて、ブレイドがジョーカーの背をつついた。
彼女はじっと、床についたフォックスの尾っぽ―――の・ようなもの―――を見つめている。
「セーフルームに引き返すのなら、フォックスだけでも」
ジョーカーはにっこり笑って、先を行く仲間たちに足を向けながら応えた。
「いいよー」
極めて軽い調子で吐かれた肯定に、誰の反論も差し挟まれる余地はなかった。
反射的に立ち上がって身構えようとしたフォックスの膝裏に、ステータス的な優位性を無視してブレイドの足がかかる。
「うあっ!?」
がくっと体勢を崩した彼の身体に、ブレイドの小さな身体が絡みついた。
彼は愛しいはずの少女が理解し難い感情を瞳に湛え、憎たらしほど愛らしい笑みを浮かべているのを見た。
そしてぼむ、と間の抜けた音が鳴り響く。モナは両の前足を合わせて合掌した。
「フォックス、オマエの尊い犠牲……忘れないからなっ!」
ぴゃっと身を翻してすでに仲間たちに追い付いてたジョーカーの、その背中に飛び付いて爪を立てる。
「あいてて……モナ、仲間を売った感想は?」
「イイ気分だ! 最高だな!」
ニャーッと声を上げる彼と仲間たちの足元を、狐面を着けた猫がすり抜けて駆けていく。
「モナ! ジョーカー! 覚えていろよ!」
「どうして逃げるんだフォックス! きみが撫でていいと言ったんじゃないか!」
そしてそれを追って少女が一人。
前方にシャドウが沸き立つが、狐猫はバネ細工のように飛び上がってその顔面を踏み付け、さらなる跳躍のために全力で後ろ足を叩き込む。衝撃に耐え切れなかったらしい仮面が引き剥がされて床に転がると、シャドウが真の姿を露わにする―――
しかしそのものはなにかを言うことも、得物を構える隙も与えられず、滑り込んだブレイドの逆袈裟の一撃によって真っ二つになって崩れ落ちた。
「待て!」
「嫌だ!」
逃げる一匹と追う一人は、それでも目印を辿ってはいるらしい。ゴールは少し手前のセーフルームだと分かっていたから、仲間たちは慌ててこれを追うつもりはなかった。
ただパンサーが少しだけ名残惜しげに、ノワールのふわふわの髪の毛に優しく手を触れた。
「あら、なあに?」
「んーん。ノワール、ふわふわのふかふかだったなーって」
「まあ、ありがとう。ふふ、後でまた触らせてあげるわね」
「ノワール、わ、私もいいかしら……」
恥じらってクイーンがその輪に加わる横で、ナビの手がべちべちとスカルの尻を叩いている。
「あンだよ。セクハラすんな」
「かぎしっぽ〜……」
「わあったわあった、後でな。そっとな」
そしてジョーカーがモナの尾を掴みながら言う。
「俺にはお前が一番だからな、モナ」
ウィンクのおまけ付きだった。
モナは毛玉を吐き出しそうになりながら応えた。
「オゲェ……いらねーわ、その評価……」
「なんで! お前……俺を選んだんじゃないのか」
「消去法でしかねえし。オマエんち、周りに田んぼと竹藪しかねえし……」
「大型のモールだってあるだろ!」
「車で一時間いったところにな! このクソ田舎もん!」
ワーとか、ギャーとか、騒ぎながら進むわりに、彼らの前にシャドウは姿を現さない。
おそらく先を行くブレイドがすべて片付けてしまっているのだろう。その道のりはまったく平らかで、穏やかなものだった。
丸二日をかけてパレスの隅々までを探索し尽くした怪盗団の面々は、大量の測量道具と複雑化した図面を手にして帰還した。
途中から情報の探索よりもあの複雑怪奇な建造物の構造を明かすことに夢中になってしまっていた気がする……
満足げに完成した多層構造ダンジョンのマップを眺めて鼻歌を響かせる佐倉以外は疲労困憊して、懐かしい屋根裏部屋にひっくり返っていた。
「……本国とのやり取りの記録」
「ここにあるよ……」
作業机に頭を乗せた屋根裏の主人が言う。するとまず、豹がうつ伏せになって額をテーブルの上につけたまま、複数枚のコピー用紙が挟まれたクリアファイルを置く。
頷いて、次に
「送金記録」と言うと、金色頭が床に転がったまま、ポケットから小さな感熱紙の束を取り出して、腕を伸ばしてテーブルの上に置いた。
「ほい、これな……」
主人はまた頷いて、
「美人局の証拠品」と言った。
「ここに……」
狐が応えて、将棋や囲碁の駒のようにパチリと音を立ててマイクロSDカードをテーブルの上に置く。彼はすぐに椅子の背もたれに体を預けて、天井と見つめ合った。
主はさらに続けて
「イムなんとかの手記」と述べる。女王が頬杖をついたまま一冊の手帳を置いた。
「これね、はい……」
「あとなにかあったっけ……」
ぼんやりと主が問いかけるのに、オレンジ頭がベッドを占拠しながらこたえる。
「それでぜんぶのはずだぞ」
「あとはそれをどうやって受け渡すかだね」
当てはあるのか、とソファの上で膝を抱えた大剣使いが問いかけるのに、主はやっと体を起こし、腕を組んでふうむと唸った。
代わりにもう一人の女主人が膝の上の猫を撫でながら答える。
「私のほうでやりましょうか?」
「春はヤバいでしょ」
「んだな、まだオクムラ・フーズの話は完全に消えたわけじゃねえし……真の姉ちゃん、まだケーサツカンケーと繋がりあんの?」
「辞めたら一切会っちゃいけないなんてことはないでしょ。お願いすれば手紙の一通くらい渡してくれると思うけど……」
主はまたふうむと唸った。
「ぜんぶ電子化して送りつけちゃろか? そう簡単にバックトレースなんてさせないし」
よっと掛け声とともに上体を起こしたオレンジ頭が言うのに、主はやっと首を縦に振った。
「復帰間もないし、まだしばらくはこっそりやっていきたい。双葉、確実に頼む」
「ラジュ。したら取り込みと文字起こし作業するぞ、おまえら全員起きろ〜」
呼びかけられて、少年たちはのろのろと起き上がる。まるでゾンビのようだと、オレンジ頭は己の巣に彼らを先導しながら思った。
諸々の作業が完了して、送付まで済まされたのはゴールデンウィーク最終日の早朝のことだった。怪盗団の頭領が夕方には帰らねばならないからと、彼らは眠らないまま街に繰り出し、夕方までを遊んで過ごした。
次の対面はいつになるのかと思うと暗く沈んだ気持ちにもなりそうなものだったが、いつか佐倉も言った通り、イマドキ距離は大した意味をなさない。
問題は時間だけだ。
新幹線の改札の向こうで手を振る彼を見送って、一同はそれぞれの思惑によって願った。
早く時間が過ぎて欲しい、と。
最も早くその願いが叶ったのは喜多川だった。もちろん彼もまた頭目の帰還を強く願っていたが、今回叶ったのはそれとはまた別の望みだった。
そして彼はまた、あのあばら家の前に立っている。
「先生に手紙を出したんだ」
いつもの如く、傍らに立つ少女に語りかける。彼女は少しだけ首を傾けて応えた。
「先生って……班目先生?」
「うん」
「そっか。なんて?」
「元気ですかとか、こちらの近況報告とか……それから俺の絵を……お前を描いたものを、写真で撮って現像したものを送った」
「どうして?」
少年は少しだけ困った顔をして、不思議そうにする彼女を見下ろす。
「どうしてだろうな。ただ、それがいいと思えたんだ」
「ふうん……きみがそう思うのなら、きっとそれが正解なんだろうね」
曖昧で、突き放したような物言いだった。
けれど少年はそれを悲しんだりはしなかった。彼女がただ恥ずかしがっているだけなのだとはその表情から読み取れたからだ。
「ただ、思い出して欲しかった。先生もかつては、俺と同じ志を有していたことを」
あばら家を見上げる喜多川の目は、五月晴れの空のように清々としている。
それは少女に、彼が己の連れ合いであることを誇らしく思わせる力があった。
「祐介の気持ち、届いた?」
「どうだろう……返事はきたんだが、ここの天袋を一箇所そのままにしてきてしまったから整頓しておいてくれとしか書かれていなかった」
「それは……なんだろう。隠し財産……?」
「それは俺も考えた。そしてここに鍵がある」
「ほ〜」
にやり、と二人は顔を見合わせて笑いあった。
もちろん本当に金品の類があるとは思ってはいない。少しくらいは期待もしたが、そういったやり取りは刑務所から手紙を送る際の検閲によって塗り潰されるか書き直しを要求されるから、まずあり得ない。
であれば、これは本当になにか忘れ物だろうか。具体的な物品の指名がないことが気にかかるが……
立て付けの悪い玄関扉の開け方を遠く離れた土地の友人からなんとか指南してもらいながら開け放ち、どうにかして乗り込んだのは辺りがすっかり夕闇に包まれるころになってからだった。
『はい、ぶきっちょさんたちお疲れさま〜』
スマートフォン越しに響く明るい声に、喜多川とは膝が汚れるのも構わず、埃まみれの床板の上にくずおれた。
「くっ……なんという屈辱……!」
「覚えてなさい、この色事師……!」
『あつらさって二時間も付き合ってやりゃあてそのごらんまくかよ! けったくそわりぃな!』
「方言が出ているぞ、田舎者」
『おまっちなんぞよっちゃつかれんわ、ばーか!』
「バカは全国共通と」
両手を合わせつつおざなりに礼を言って通話を終了させる。彼は最後まで謎の言語で二人を呪っていたが、その意味するところはまったく理解できなかった。
さておき、これは不法侵入だ。言い訳はできるが、見つかれば厳重注意の上学校にも連絡されるだろう。それは二人共にとって都合が悪い。ことはさっさと済ませるべきだと素早く動いた。
「天袋って、どこの?」
「うーん……おそらくここだと思うんだが……」
慣れた足取りで明かりの乏しい中先導する少年に従って向かったのは、かつての弟子たちの寝室であった。当然構造に変わりはないが、最後に見たときより埃が積もっている。
畳敷きの上を土足で歩くことにわずかな違和感と申し訳なさを感じながら押し入れを開く。
視界の端を虫かなにかが横切った気がして、は小さく悲鳴を上げた。
「ひえ……」
「しがみつかれると動けないんだが」
「ごめん、虫はちょっと……いや、クモやムカデくらいなら平気なんだけど……アレだけは……」
「襲いかかってくるわけでもあるまいに」
「きみは平気な人?」
「いや?」
「なのに言うのか」
「ビビってるやつがいると平気になったりしないか?」
「あー……それはある」
「だろ」
言って、喜多川はモバイルライトを点灯させての手に押し付けると、さっと飛び上がって押入れの棚板に足をかけた。前框に手を掛けてバランスを取りながら天袋を開け放ち、後ろ手を振る。意図を察したがその手に明かりを返してやると、彼はそれを用いて天袋の奥を照らし出した。
果たしてその奥、壁に同化するように立てかけられていたのは暗色の布に包まれた板のようなものだった。
腕を伸ばして指先を包みの結び目に引っ掛けた際、なにか虫のようなものが逃げていった気もするが、それは気のせいだと思うことにして、少年はそれをに受け渡した。彼自身は律儀に天袋を元通り閉ざしてから床に降りる。
作業には数分もかからなかった。だというのに、鼻先や手腕に髪はすっかり埃にまみれてしまっている。
掃除の必要性を改めて思い知らされながら、喜多川は今や少女の腕の中に抱え込まれたものに目を移す。
これが、師の言っていたものなのだろうか?
厚みはないが、高さは七十はあろうか。長方形をつくるそれは、なんだかキャンバスのように思えた。
「もしかして、絵かな」
が言う。確かに、あの老人がわざわざ獄中から探せと示唆した物だ、その可能性は高い。
しかしだとしたら、なにを、誰が、いつごろ描いたものなのだろう。
この場で確認したい気持ちをぐっと堪えて、喜多川はの手を引いて退散を促した。
そうとも、忘れそうになるが不法侵入だ。見つからないに越したことはない。
一先ず発見の報を協力者の田舎者に送り、二人は埃を払い落としながら落ち着ける場所、そしてなるべく人目につかずに済む場所を探した。
「お邪魔します」
「はいどーぞ」
結局、時間よりも安全性を取って家に乗り込むことと相成った。
家の家長は近頃年下の―――例の田舎者ではない―――恋人ができたとかで、家に帰る時間が更に遅くなったのだとか。娘曰く、『好きにしたらいい。ただし私はその人のことをパパともお父さんとも呼ばないよ』とのことだった。
さて、改めて埃を落とした二人は好奇心と期待、そしてわずかな不安を押し殺しつつ包みを開く。
現れたのは予想通り、一枚の絵画であった。
ある意味で、喜多川は大きく落胆した。しかし一方で、予想だにもしなかった不意打ちを食らって、猫のような、鳩のような反応を見せている。
「これは……」
驚嘆の声を上げる喜多川の隣で、は小さな笑い声を上げた。
「ふふ、やだ、かわいい」
それは、緑の上に一人の幽霊のようなものがいる絵だった。幽霊は、五、六歳ほどの子供の姿をしている。
お世辞にも至妙とは言えない。線の強弱は弱く、陰影も雑に感じる。構図から見た人体はどこかいびつだった。カリカチュアライズされていると捉えることもできたが、やはり稚拙さは否めない。
それでも、誰が描かれているのかはよくわかった。
青々とした芝生の上に佇む幽霊のようなうっすらとしたその人物は、間違いなく喜多川祐介の子供のころの姿だった。
幽霊と称したのは、鮮やかな色彩で描かれる周りの風景に対し、人物だけは色が乗せられておらず、ただ黒一色で輪郭や表情が描き込まれているだけだからだ。
それでも小さな喜多川祐介は笑っている。こちらを向いて、物も言わず、なにかを訴えるように目を細めている。
「きみ、子供のころはこんなだったんだね。わー……」
は呆然とする喜多川の隣に膝を着いて、もっとよく見ようと身を乗り出した。
その細い肩越しに絵を見つめる喜多川の目は、隅に記された書き判に落とされている。
彼は確信していた。これは間違いなく、かつての師がその手で描いたものだ、と。
誰の作品だろうかと首を傾げるに、喜多川は喉を鳴らしてその事実を告げてやった。
「先生の絵だ」
「そうなの? ああ、本当だ、班目先生のサインがあるね。これがあの人の絵か……へえ……」
感慨深げに呟くに、喜多川は何度も頷いてみせた。
「先生が俺を描いたことなんて……一度も……」
震える指先が花押を撫でる。
「あったみたいだね」
かわいい、とまたつぶやいて、少女は目を細めた。
小さな頃の己の姿がかわいいかどうかは分からない。素直で利発そうなお子さんだと褒められた記憶はあるが、それは子供を褒めるのによく用いられる表現だ。特別優れたなにかを指しているわけじゃない。
正直に言えば、喜多川は拍子抜けしていた。師がわざわざ探せと言うほどのものなのだから、あんなふうに隠しておいたものなのだから、もしかしたら母が遺したまた別の作品なのではないかと期待していたのに。しかもこの題材だ。俺なんかを描いて、なにが楽しいんだろう。
ぽかんとする喜多川に向かって、は笑いかけた。
「いい絵だね」
「え……そうか?」
「あれ、きみとしてはやっぱり、先生の作品と言うだけでマイナスだったりする?」
「そういうわけでは。ただ、題材が俺では……」
「んー?」
首を傾げて、は少し困ったような顔をしてみせた。
「それを言ったら、きみ、私が私の描かれた作品を褒めてはいけないみたいじゃないか」
「え……」
彼女が去年の暮れに完成させた美人画を指しているのであろうことは分かっていた。彼女そのものを写し取ろうと、彼女への想いを一つの形にしてやろうと渾身を籠めたあの絵だ。
喜多川は、困惑してまた目の前の師の作品を見つめた。
「え? そういう……ことなのか?」
「いや、分からないけど」
「えー……、お前の目にこれはどう映っているんだ?」
「わ、私に聞くのか。ううーん……」
唸って、少女は立ち上がって一歩下がり、全体を俯瞰するような形でもって不思議な絵画を眺め下ろした。
色の無い少年は笑っている。は純粋にその子をかわいいと思う。たとえ喜多川のことを知らなくとも、今このような関係に至っていなくとも、きっとそう思うことに変わりはないだろう。
しかし、なぜ彼には色が乗せられていないのだろう。不自然なくらいに周りの風景は鮮やかな色彩で描かれているのに……
「色を塗れなかったのかなぁ……」
「俺に?」
「そう、子供のころのきみに。ええと、でも、すごくいい笑顔だとはおもう。うん。なんというか、純粋な好意を感じる」
「なぜそう思う?」
「だって……」
少女は少しだけ恥じらって言葉を濁した。
「教えてくれ。俺には、分からない」
「うー」
「頼む」
乞われて少女は応えた。
「時々、きみに見られているなと感じることがある。学校とかで。それで、そちらを見ると、やっぱりきみがいて……こういう顔をしてる。なんだかすごく、好かれていると実感するというか……ああ、もう」
「すまん。見ていたことではなく……いや、だって仕方がないだろう。科も違うから、昼にでもならなければほとんど会えないのだし」
「別にそれはいいよ。私だってきみのことを見ているし」
「え、そうなのか?」
「はぁ……」
ため息をついた少女に、少年は頭をかいてまた絵に目を向けた。そうか、こういう顔をしているのか、と。
確かに彼女の言う通り、学内で彼女の姿を見つけると思わず目で追ってしまうことがある。ただそういうとき、目線に込めるのは必ずしも恋慕の情というわけではなかった。ああ真剣にやっているなと感心したり、元気そうにしていることに安堵したり、怪我をしたりしやしないかと心配になったり……
どちらかと言えば、保護者のような心地であることの方が多い気がする。
そう、つまり、例えば家族に向けるような……
思い至って、少年は生まれて初めて椅子に座ったかのような心地になった。それは生まれてからずっと立ち続けて落ち着きなく歩き回っていたのが、すとん、と収まるべきところに収まれたような感覚だった。
しかし、分からないことはまだある。どうしてこの子供には色が塗られていないのだろう。何某かのテーマ性や意図が籠められているというよりかは、なるべくしてなったと言うべきか……
「どうしてこの絵だったんだろうね」
「え?」
「だって、お金になりそうなって意味なら、あのサユリの贋作だっていいじゃないか」
「良くはない」
「まあね。でも、確かにあの絵の価格は相当下がったけど、あの絵の価値に変わりはないのだから、お小遣いくらいにはなったよ」
「あー……」
「贋作だとか詐欺ってことを抜きにすれば優れたレプリカだし。まだ売りに出されていなかったものはすべて押収されてしまったから、市場に出回る数にも限りがあるし……これからまだじわじわ価格は高騰するだろうね。そういう曰くってみんな好きじゃない? 『あの』斑目一流斎が描いた偽物の一つ、てさ」
「その発想はなかった。はあ……大衆にとっての芸術とはその程度のものか、口惜しい……」
「希少性と話題性ってものは強いよね。でも、きみならそんなものなくたって大成するさ」
「ふっ、当然だ」
「ヨイショしたところで話を戻すけど」
「えっ!?」
「どうしてこの絵なのか、ということが重要なのではないかな」
「うん……」
「拗ねないでよ」
「拗ねてない」
「もー……」
はやっと彼の隣に座り直した。機嫌を取ろうと頭を撫でてやりながら、また己の考えを述べる。
「きみの元お師匠さまは、曲がりなりにも長年世間と画壇を欺いてきた人なんだよ。私たちのリーダーよりよっぽど年季が入ってる。そういう人が、他者になにかをやらせるとして、それがまったく意味の無いことってのはあり得るか?」
「ああ、なるほど。ふむ……あの場に行かせるためではないだろう。不法侵入をさせることで俺を嵌めようとしたにしては不確定要素が多すぎる。そもそも改心によって先生は……」
はっと息を呑んで、少年は幾度目かも分からぬ幻影を見る。それは老人の姿だ。横たわって、丸まった背中。弱々しく発せられた謝罪の声……
『すまなかった……許してくれ……』
収まりのよい椅子の上で、少年は深く思考に沈んだ。頭の上を撫でる手の暖かさはそれをよく促した。
そうとも、改心だ。自分たちはずっとそれを行ってきた。
罪を犯した人間には罰が与えられる。それが人の世の流儀だ。そして、怪盗団とはそのような流儀を外れた悪人たちに裁きを与えるべく動いてきた。彼らを再び人の世のルールの中に返すべく。
罪人には罰を、罰を与えたならば、次には……
老人の声が少年の中にこだまする。
『許してくれ……』
そして彼はまた深く納得した。
何故あの老人は主題でもあるだろうこの子供に色を着けなかったのか。答えは簡単だった。着けなかったのではない、着けられなかったのだ。
きっと後ろめたかったのだろう。なにも知らずに己を慕ってくる幼子を無下に扱うこともできず、途中でこれを放り出したに違いない。
愚かなことだ。そんなふうに感じる心があるくせに、破滅に至るまで立ち止まろうとしなかった。あるいはこの子供の母親を見殺しにした瞬間から引き返す道を失っていたのかもしれない。
推知する少年の心は凪いだ海のように落ち着いていた。怒りや憎しみが心を支配するときはとっくに通り過ぎている。
そして二人の間にはこの未完成の絵が残された。
―――どうしろと言うんだ? 少年は心の奥底で師に問いかけた。
今さら、こんなものを見せられて、俺にどうしろと? あなたはどうしたいんだ? なにを求めているんだ?
「祐介」
暖かな手が彼の名前を呼んだ。そうすることが当然として、意図してではなく、雨が降るように、陽が差すように、ただそのような存在としてあるかのように隣に座した少女は、彼に答えを差し出した。
「そもそもきみはどうして、先生に手紙を出そうと思ったの?」
喜多川はきつくまぶたを閉じて、その裏に焼き付いた老人の後ろ姿を見つめた。
答えなど差し出されるまでもなく、はじめから分かりきっていたことだった。彼はすでにそれを行っていた。
「もう怒ってないと言いたかった」
「そっか」
「許す、と」
「うん」
「先生は罰を受け入れたのだから。改心を成して、二度と間違えることもないだろう。それなら、これ以上あの人を罪の呵責に喘がせるのは間違いだと思ったんだ。俺一人くらいは、許してやったっていいじゃないか、と」
ふっ、と少女は口元をほころばせて、ため息のような、感嘆の声のようなものを漏らした。呆れているようにも感じられた。
「きみは本当に優しいね。私なんか、お母さんはともかく、唐津のことはまだしばらく許せそうにもないよ」
「別に、俺だって、思うところがないわけじゃない。あの人を憎む気持ちも、恐れる気持ちもまだここにある。それでも、だとしても……」
少年は苦しみを吐き出すかのように喉を引きつらせて、絞り出すようにして、もつれて絡まったなにもかもを押し出すように、ようやっとのことで言う。
「放っておくことなんてできない……!」
は苦笑して、また彼の頭を撫でてやる。情に厚いことは本来長所であるはずだが、しかし苦しみをもたらしもするものだな、と。彼女はまたきんきらの頭をした異性の友人のことも思い出していた。彼も情に厚いほうで、そしてそのせいでいらぬ苦労を負っている姿を度々目撃している。
少なくとも目の前の少年は、やっと喉の奥につかえていたものが出たと見える。
「はー……」
息をついて、すっきりとした表情でソファに体を沈めてもいる。
は満面の笑みで手を引っ込めて、立ち上がった。
「ご飯食べる?」
「食べる」
即答であった。
「じゃあ着替えてから、支度するね。きみはシャワー浴びてきたら」
「えっ」
「頭に蜘蛛の巣ついてるよ」
「うっ……」
着替えも適当に用意するからと彼女が告げると、彼ものろのろと立ち上がって慣れた様子で風呂場に足を向ける。
その背中にまた声がかかった。
「ご飯食べたらすぐ帰る? お夜食作ろうか?」
「いや、いい。今日はやりたいことができた」
「なんだ、すぐ帰るのか」
どことなく残念そうな声に、少年は思わずと振り返る。
少女は照れたような、困ったような、恥じらうような様子を見せつつ言った。
「今日、お母さん帰ってこないのに」
「ッ!?」
少年は息を呑んで硬直した。
ちょっと待って、それってどういう意味? 帰ってこないから、だからなに? と。
そういえば、金曜の放課後だった。彼女の自宅に二人きりで、並んでリビングのソファに腰掛けて、大切な時間を過ごしていた。
それだけだ。べつに、ほんとに、神かけて、そんなつもりは毛頭無かった。そもそも彼女の母親の帰りが遅いのはいつものことで、この状況自体は珍しくもなんともないではないか。
しかし―――
少年は、血を吐くような思いで首を横に振った。
「今日は駄目だ……ッ、やるべきことがある……!」
「知ってる」
「く、ぬ……つ、次はいつだ?」
「さあてね。お母さんに聞いてみたら。次に家を空けるのはいつですか、って」
少年はほとんど叫ぶように言い返した。
「聞けるわけないだろ、そんなこと!」
少女は高らかに笑ってみせた。
しばらくして、一通の手紙が検閲官の元に預けられた。
飾り気のない便箋に綴られたきっちりとした字体に文章は、お育ちの良さを伺わせる。内容にも不審なところは見当たらなかった。
しかしどうやら差出人は思春期の少年らしく、恋人がいて、その恋人への対処に思い悩んでいるらしい。
検閲官は鼻を鳴らした。人を羨む気持ちがそこにはあった。
また検閲官は差出人のリストを確認もする。初めて見る名前であれば、囚人に知り合いかどうか確認する必要があったのだ。
しかしその手間は必要ないようだった。差出人はすでに一度この囚人に手紙を送っている。手続きの手間が一つ減ったことに安堵の息をつきつき、検閲官はまた封筒の中をさらった。
すると、一枚の写真が現れる。それは何某かの絵画を撮影したもののようだった。
手紙に再び目を通す。なるほど、確かに文章の中に絵画を撮影したものを送付すると記述されている。であれば問題はなかった。
検閲官はまた写真に目を向ける。
鮮やかな色彩で描かれた緑と子供の絵だ。自然と笑みがこぼれた。
爽やかな五月の風のなか、暖かな日差しを浴びた、健康そうな肌色の少年が、青いシャツを帆のようにはためかせて満面の笑みを湛えている。
それは見る者に訴えていた。
あなたを許す、と。
そこに居ることを、そこに在ることを、息をして、ものを食べ、なにかを思い、口ずさみ―――
あらゆるものすべてを許す純真無垢な微笑みがそこにあった。
検閲官は問題無しとして写真と手紙を封筒に戻して、検閲済みの判を押してやった。
検閲官は気が付かなかった。絵には見る者によってもう一つの意味を持つことに。
微笑む少年の手に、赤と黒の強烈なコントラストがあることに。
それは訴えている。
あなたを傷つけることになっても、苦しめることになっても、逆にこちらが傷つくことになろうとも……
でも、それがどうした。
決して、あなたを放っておいたりなんかしない。
だってあなたは、俺の……
……
…………
『祐介、あまり思い悩んだり、急いたりすることのないように。物事には時勢というものがある。急ぐあまりに機を逃し、男の本懐を遂げられぬ事以上に不甲斐ないことは無い』
『ですが先生、男として、女性を待たせるのも如何なものでしょうか。それとも俺は、男としての気概すら期待されていないのでしょうか。それはあまりに、口惜しい』
『祐介、焦れば必ず失敗する。落ち着きなさい。まずは相手をよく見ることこそが肝要。目に見えるものが全てではないが、目こそものを知る初めの端緒。口惜しいなどと言っている内は青二才の証。心を広く持ちなさい』
『しかし先生、それではいつになったら一人前になれるのでしょう。近頃は遊ばれている気さえするのです。知り合った頃はこうではなかった筈なのに。どうしたわけかあの娘に振り回されて、しかしそれが楽しいとさえ感じられる。俺はどうしてしまったのでしょうか』
『祐介、一人前などと言うものは、悟りの如きもの。在ると思えば無く、無いと思えば在るものだ。なろうとしてなるものではないのだ。精進しなさい。そして思い知りなさい。我々男などと言うものは、女人の手のひらの上で転がされるくらいが丁度いいのだと……』
『けれど先生、抗い難いものもあるではありませんか。このままでは筆に迷いが……』
検閲官は最後まで目を通すことを放棄して判を押した。馬鹿馬鹿しい。いったいなにを長々手紙でやりとりしているんだ、こいつらは。
まったく、くだらない。どうせいつかは思い知らされるのだ。
なんだこんなもんか。思ってたより、なんてことないな、と。