『言うて今の時代に距離ってあんま関係ないよな』
 趣も情緒もなく言い放った佐倉双葉に、通信回線の向こうの少年はカメラの位置を調節しながら『まあな』と軽い調子で応えてみせた。
 興味深げにそれを覗き込むモルガナの鼻先がカメラに大写しになって影が落ちる。
『モルガナ~』
 即座にが黄色い声を上げた。
『ン、久しぶりだな』
『う〜、う〜、モルガナぁ、触りたいよお撫でたいよお』
 恥も外聞もなく喚く少女に、グループ会話に集った一同は苦笑するしかなかった。
『だから俺が代わりを務めようかと言ったのに』
 先日の一件を蒸し返す喜多川に、事情を知らぬ高巻と坂本が呆れ返った声を上げる。
『なるかっつーの』
『ンだな。毛皮生やしてからこい』
 想像したのか、奥村が小さな笑い声をマイク越しに漏らした。
『うふふ、そうしたら名実ともにフォックスね』
『猫じゃなくなっちゃってるじゃない……ほら、みんな、真面目にやるわよ』
 音頭を取って進行役を務める新島が言うと、一同はそれぞればらばらに声を返した。
『資料には目を通してくれたわよね。次のターゲットはイム・サリャン。名前でわかると思うけど、日本人じゃないわ』
『日本人として活動するときははやし史良ふみよしと名乗っているみたい』
 奥村が補足すると、カメラの向こうで新島は頷いてみせる。
『指定暴力団川尻組の幹部の一人ね。実際には本国から工作員として送り込まれた内の一人のようだけど……まだ確証は無し。とにかく情報を固めたいわね』
『こいつの連絡先は多分これ。イカメシに登録しとけよー』
 佐倉の声とともにチャット画面がポップする。そこには十一桁の番号が羅列されていた。
『あとは場所かぁ……まさか海外ってことはないよね?』
『さすがにないと思う。現状絞り込めた候補はすべて日本国内ではあるから、安心して』
 不安げな高巻の声にが答えて、いくつかの位置情報を送信した。
 これを眺めて坂本が唸る。
『一発で正解引き当てねえとヤバいんじゃねーの、これ』
『そうだな。いずれもターゲットの近辺に踏み込むことになる。長居をすれば逆にこちらが目を付けられることになるだろう』
『予告状を出す前から睨まれると厳しいかもな。ワガハイはともかく、オマエらは沈められかねん』
『うへー……』
 誰にともなくげんなりとした声が上がった。
 ただ一人、靴下猫のヒゲをしつこく弄んで指を噛まれた少年だけが明るい声で述べる。
『竜司、おつかいを頼んでいいか』
『あー? どこよ?』
『岩井さんのとこ。ガンショップ。ちょっと待って、メモ書くから……』
 ガサガサとカメラとマイク越しに散らかったテーブルの上で何かしらを書きつける。これに呆れた声を上げたのは佐倉だった。
『相手さん、おまえの手書き文字が読めるのか? そろそろいい加減に美子さんに教えを乞えよー……』
『美子さんって誰? リーダーの新しい女?』
 からかうようにが言うと、グループ通話内に呆れたような、感心したような声があちこちから上がる。
『二次元平面上のキャラクターだから……』
『ついに次元を越えたのか?』
 どことなく言い訳めいた声にものボケをかましたのは喜多川だった。
『さすがリーダー、次は四次元の壁の突破だね』
 そしてそれにが乗る。彼女は完全に彼にまつわるゴシップを面白がっていたし、悪辣な意趣返しとして利用していた。幸いなのは彼女の『口撃』があくまでも冗談であると全員が承知していることだろう。
 槍玉に上げられた少年は手を動かしながら反撃を試みた。
『うるさいぞそこのラビダビ。これみよがしにイチャついてんじゃねーぞ。というか、俺の本当のコードネームはデッ』
『うわマジで読めねぇ』
 言葉は途中で遮られる。坂本の手元にはカメラアプリで撮影されたらしい直筆のメッセージが送りつけられていた。
『……岩井さんなら読んでくれるもん』
 少年は、がっかりして肩を落として、力なく訴えた。
 とはいえ、彼の悪筆ぶりは彼を知る者共通の認識であるから、このみみずののたくったような筆跡こそが彼の存在の証明であるとも言えるだろう。あとはそれを許せる心の広さと解読力を各々が持ち合わせているかいないかという問題だった。
 気を取り直して彼は告げる。
『あの人に俺からの使いだと言ってそれを見せてやって』
『了解。んでも、お前が直電するんじゃだめなん?』
『バカ、俺からの使いってやったほうがカッコイイだろ』
『……あ! マジじゃん! よっしゃ行く行く!』
 まったく子供なんだから。誰にともなくこぼれたぼやきに、少年たちは耳に手を置いてそっぽを向いてみせた。
『それで、おつかいはいつごろ片付きそうかしら?』
 訪ねたのは奥村で、彼女の手元には付箋の貼られたガーデニング雑誌があった。近頃は家庭菜園の他にもいわゆるナチュラル・ガーデンにも興味を抱いたのか、そういった方面への知識も蓄えているらしい。
『今日はさすがに無理だし、明日帰りに寄ってく。あとは向こうさん次第だな』
『ゴールデンウィークまでになんとかしてくれと伝えて』
『あいよ』
 軽く応えて、坂本はカメラの向こうでカレンダーに目を向けた。
『四日から来るんだっけ?』
 弾んだ声で高巻が問いかける。彼女の手の中には手帳があり、なにかを確認するように翠の瞳が忙しなく動いている。
『うん。一応日曜の昼まで滞在予定だから、シゴトする分には十分だと思う』
『ダメダメ、ちゃちゃっと終わらせて遊びに行く! 言っとくけど、私もうスケジュール空けてんだからね!』
 返答にまたさらに明るい声と、花の咲くような笑顔が返される。
 仲間たちは苦笑して、頷いてみせた。
 今回の目的はターゲットの改心ではなく、あくまでも情報の収集である。相手が相手であるから直接の仕置ではなく、可能であれば司法の手に委ねたいというのが怪盗団の総意だった。
 またそこには昨年の轍は踏むまいという思いもあった。
 いたずらに人心を乱すような真似は避け、利用できるものは利用しよう。と、そういうことであった。
 大人というものに裏切られ続けてきた彼らではあるが、そろそろ分かってきてもいるのだ。
 全部が全部、敵というわけじゃない。中にはいい人もいて、自分たちを助けるためにあらゆる苦難を厭わず引き受けてくれる。
 それに、自分たちだっていつか大人になる。いつまでも子供のまま、大人なんてみーんな信用できない、なんて言ってはいられなかった。
 大人と子供の中間に立つ年ごろの自分たちこそが、その架け橋になるべく行動しようじゃないか……
 とまではさすがに考えないが、しかし頑なさは皆抜け落ちている。
 つまり、立ってる者は親でも使え、ということだった。
『岩井さん次第だけど、そのイム某が本当に例の組織と繋がりがあるのであれば、警察も川尻組の古参連中も黙っちゃいないだろうし……念の為に冴……さん、にも連絡しておくか』
『あら、お姉ちゃんには私がするわよ?』
『え? あ、うん、はい。そうですね。お願いします』
『橋渡しをお願いすればいいんだよね。まあ、まずはパレスに潜ってからだけど……』
 新島は、にっこりと笑ってカメラに手を振った。
『直接会えるのが楽しみだわ、リーダー』
 通信回線越しのプレッシャーは、無関係であるはずの三人と猫をも圧迫した。カメラ越しの新島の背後に、闘気のようなものさえ見た気がして、彼らは震え上がった。
 そしてまた坂本などは強く思う。
 誰にでも彼にでも愛想よくはしまい。俺は一人を見極めて、それだけを追い求めよう、と。
『あー、シゴトは五日から取り掛かろうか。初日は……みんなでデートでもしてきたら?』
 が苦し紛れに提案する。
『そうさせてもらおっか』
『んじゃ、わたしみんなに連絡しておく』
『ちょっと人数多いね、先生あたりにも車出してもらいましょ』
『場所の手配は私に任せて。静かなところがいいよね』
 中心人物を置いて盛り上がり始める少女たちから、対岸の三人と猫はそっとそこを離れた。
 誰がために鐘は鳴るのかなどと問うなと言うが、しかしこれは葬送ではなく恋人たちのために鳴らされる鐘だ。やや割合がおかしいが。
 放蕩の報い、年貢の納めどき、もはやこれまで。呼び方はなんだっていいが、女たちは一人でも全員でも構わないと言ってやっているのだから、周りの者がわざわざ口を出すことでもなかった。

……
 なんだかんだ言ったって、女たちもあの少年も、追いかけっこな状況を楽しんでいる節がある。
 つまり彼らはこちらが緊張する様子を眺めて楽しんでいるに過ぎないのだ。薄々それを感じ取っているからすれば、怪盗団の活動も日常生活も、おおむねほとんどのことが順風満帆と言えた。
 すべて世は事も無し、である。
 しかし一方で、ただ一つ気がかりなものがある。
「どうしたの、それ」
 それは目の前の、制服の右足側だけを膝まで汚した少年の姿をとっている。
 彼は応えて言った。
「側溝に片足だけ落ちた……」
 答えは端的で明快だったが、納得できるかはまた別の話だろう。
「あー、それで泥まみれなんだね。でもどうして落ちたの」
「わからん。気が付いたらガクッときていた」
「気が付いたらって……怪我は?」
「無い。強いて言うなら明日は下だけジャージで過ごすことになるくらいか」
「換えの制服は……」
「無い……」
 萎れた様子で答えた彼に、は困惑しつつも笑って
「ええと……私の換えのスカート履く? なんて……」と告げてやった。
 もちろんそれは冗談だ。腰回りのサイズも違うし、足の長さも違う。うっかり彼が履いたりした日には、にとっての膝丈がどこまで縮むのか。
 想像して、少女はごくりとつばを飲んだ。
 そして少年はある意味でその期待に応えてみせた。
「それだ! スカートなら足元が汚れることを気にしなくていいじゃないか! 、お前のスカートを貸してくれ!」
 瞳を輝かせて迫る恋人を、は渾身の力で押し返した。
 ……すっかり葉桜に切り替わる四月の終わりごろ、一日の課程を終えた喜多川はの呼び出しに応じて待ち合わせ場所に現れた。時間より少し遅れて、前述の情けない姿でもって。
 春の陽気ゆえか、それとも近頃頭を悩ませている事情ゆえか、漫画の中の登場人物のような真似を仕出かした恋人の姿にため息をつきつき、は彼を伴って近くのコンビニエンスストアに向かった。
 目的は店外に設置された清掃用の水道だ。は彼を犬のようにそこで待たせて店員に事情を説明し、なんとかして水道の使用許可をもらい、タオルを購入して戻った。
「ほら靴脱いで。あーあ、泥だらけだ」
「うー、気持ち悪い……」
 唸って脱ぎ捨てられたローファーに容赦なくホースから流れる水を浴びせかける。
 そのままズボンについた泥も落としてやろうとホースの先を潰して水流を強めさせ、当てて汚れを落としてやる。
「冷たい。、優しくしてくれ」
「はいはい。ほら、靴下も脱いで」
「う、少し待ってくれ。貼り付いて抜けん……」
 壁に背を預けて片足を上げ、水気と泥で皮膚に吸い付く布地を剥がそうと苦心する。
 はなんの気もなしにホースを地に起き、その足元に跪いた。
「押さえてるから、足を引いて。ほら早く。……祐介?」
 促すのにいっこうに動かない喜多川に焦れて見上げると、少年はなぜかひさしを仰いで手で顔を覆っていた。
「遊んでないで」
「いや、すまんちょっと待ってくれ……なんだか恥ずかしいんだが……」
「恥ずかしがるのならそもそものび太くんみたいな真似をした時点で恥ずかしがって」
 言葉にならないうめき声を上げる彼を放って、は強引に足から布地を引き剥がした。
「あ! だからやめろと……冷たっ!」
 晒された素足には直ちに水道水が浴びせられた。
 ほとんど日の当たらないすねやふくらはぎは、他の箇所よりもっと白いように思えた。
「……そういえば……」
 ふ、と蘇った記憶に、は声を低くして立ち上がり、再び少年を見上げた。
「私も水を浴びせられたことがあったね」
「え?」
「夏休みの、登校日の帰りに。きみに呼び止められたと思ったら―――」
「あ……あれは、ちゃんと理由が……」
「理由?」
「だから、水を浴びると、シャツが透けるだろう。双葉のパレスで、汗だくになった杏と真の素肌と下着が透けて……うわっぷ!」
「き、き、きみと言うやつは!」
 怒りと羞恥によって顔を赤く染めたの手から放たれた水流が喜多川の顔面に襲いかかった。一度で済んだのは彼女がここを店先だと忘れていないからだろう。
「じゃあ、なに、わ、私の」
「待て、誤解だ。俺が見ようとしたのはお前の身体だ」
「なお悪いじゃないか! あの頃は付き合ってもなんでもなかったのに、か、身体を見ようだなんて、それもきみの言う芸術だとでも!?」
「そうじゃない、ただ俺は確証を得ようと……いや、待て、その言い方だと今なら見ても良いのでは―――ぶわっ!」
 再び水を浴びせかけられて少年は沈黙した。
 足元だけで済むはずの水害は、今や彼の全身を湿らせている。
 水道を借りた礼を述べに再び店内へ消えた少女を見送って、喜多川は濡れ犬のごとく項垂れてすっかりきれいになった己の足元を睨みつけた。
 そして呆然としながら呟く。
「さっぱりわからん……」
「なにが?」
「うっ……なんでもない」
「ふーん? はい、ほら、拭いて」
 ぽいと開封されたタオルが投げつけられる。どことなく冷たさを感じるのは身体が冷えてしまったからというだけではないだろう。
 喜多川はすっかり濡れてしまった頭を拭きながら、かつての奇行のわけを説明してやった。
「お前の身体にあるだろう虐待の証拠を見ようと思ったんだ。見せてくれと言って見せてもらえるものではないし……すまなかったとは思っている。だが、あのときは他に方法は思い付かなかった」
「なるほど。見せろと言わなくて正解だったね。あの頃の私なら、うーん……良くて全力できみを避けるか、悪くて通報だ」
「やっぱり水しかなかったんじゃないか」
 満足げな顔で過去の己を称賛する喜多川に、はつんとそっぽを向いた。
「私ならそんな姑息な真似をせずとも、正攻法で杏と真のブラの色くらい知れるもん」
「え? そこ?」
 驚きとともに、少年はほんの少しだけ彼女のことを羨ましく思う。いや、だいぶ、かなり―――
 あらぬ方向に走り始めた思考を引き止め、頭を振る。髪にしがみついた最後の一滴はそれで弾き飛ばされた。あとには湿り気が残されているが、それもこの陽射しの下では直に乾くだろう。
「うん、きれいになったね。よしよし」
 満足げに頷いて機嫌も戻ったらしい彼女が言うのにひっそりと息をつく。
 素足を湿った靴に差し入れるのには抵抗感があったが、他に履けるものがあるわけでもなし。彼は黙って湿った感触の中に足を突っ込んだ。
「靴はなぁ……どうしようか。きみ、帰ったらもう一度よく洗って、しっかり乾かさないと駄目になるよ」
「ああ、心得ている。明日までになんとかできればいいんだが」
「運動靴と来客用スリッパでなんとか凌ぐしかないね」
 こっくりと頷いて、ずっと地面に置きっぱなしにしていた鞄を取り上げる。
 こうなっては今日はもう帰るしかないだろうか。受験に備えて前より勉強時間を増やした彼女と過ごせるのは貴重だ。今年一年我慢すれば良いのかもしれないが、ここでも我慢しなければならないか。そう思うと、彼はまた少し落ち込んだ気持ちになった。
「少し乾くまで、散歩でもしようか」
 だからがこう言ってくれることに、また見透かされたのかと恥ずかしくなるのと同時にどうしようもなく嬉しくなる。
 喜多川は子供のように素直に彼女に従った。
 そして彼は少しだけ面食らう。誘われるまま向かった先がかつての住処だったからだ。
 錆びついた斑模様のトタン板、年季の入った滑りの悪い引き戸に、もはや手入れする者もなく伸びっぱなしの植え込み……あばら家はすっかり人の手を離れた空き家と化している。
 次の買い手が付かないのは以前の持ち主の曰くのせいだろうか。斑目が刑務所に送られることとなったときに身辺整理の一環として不動産屋に売り払われたはずだが、建屋すら取り壊されないままとは思わなかった。
 そうとも、喜多川はずいぶんここを訪れていなかった。あの老人の処罰が決定したと耳にしてからは、特に足が遠ざかっていた。
 ほんの数か月。それだけでこんなに寂しい佇まいになるとは……
、どうして」
 心の底から意図がわからないと問いかけると、少女はいつかのようにガードレールに腰を預けて彼を見上げた。
「私には特に深い意味はなかったけど……ここに来るのがいいって」
 まるで預言者や占い師のように茫洋としたことを言う少女に、喜多川はますます困惑を強めた。
「この間、当たるって評判の占い師さんのところに行ってみたんだ」
「占いの類は信じないのでは?」
「まあね。だから、はじめの目的は占ってもらうことじゃなくていろんな意味での好奇心を満たすためだったんだ。でもなんでかな、いつの間にか占ってもらうことになって……」
「それで、ここへ行ってみろと言われたのか?」
「そう。その……私の一番大切な人を伴って、と」
「え」
「……正確には、私にとって転機となった場所に、大切な人と、だったかな。うん。ええと……」
 言いつつは照れくさそうに足先を揺すっている。
 ここに至ってやっと喜多川は何故と待ち合わせをしていたのか、その理由を思い出した。彼女のほうが行きたい場所があるから付き合ってほしいと言い出したのだ。
 なるほど、はじめから今日ここに来るつもりだったのか。得心して、しかし納得できずにまた問いを重ねる。
「なにを占ってもらったんだ?」
「そりゃあ……きみ、私くらいの年ごろの女子が占ってもらうことなんて、そう多くはないよ」
「受験か?」
「それもあるけど。でもそうではなくて」
 だから、と言って、は己と喜多川とを交互に指し示してみせた。
 私ときみのことを。
 言外に示すところを読み取って、それでも喜多川は首を傾げた。
 今度は占いの結果に対する疑問だった。
 彼女―――にとって転機となった場所がここというのは分かる。喜多川はその耳で確かに彼女が生まれて初めて助けを求める声を聞いたのだ。
 そして大切な人として己が指名されるのも。これは自惚れというより、二人のことを占ったのだからという合理的な判断によるものだった。
 けれど二人揃ってここへ来てなにがあるというのか。
 ここにはもう、何も無い。
 思い出は確かに少年の胸にあって、場所や時間を選ぶ必要はないのだ。
 そしてそれは、彼女も同じことだろう。
 どこへ行ったって、そばには必ず己が居る。喜多川にはその自負があった。もう二度と、決して目の前の少女を離しはしない、と。
 だから不思議でならなかった。ここになにがあるのか。
「祐介」
 名を呼ばれて我に返る。
 は喜多川を見てはいなかった。その目はさらに傷んだあばら家を見つめている。
「人が住まなくなると、家というものは普通より早く悪くなるんだってね。人の身体から発せられる脂や水気なんかが失われて、乾燥するからだとか、なんだとか……」
「へえ……」
 そうなのか、と喜多川もまた彼女に倣う。
 雨戸の閉ざされた窓にガラスを見ることは叶わないが、割れていることはないだろう。けれどそれも、数年後どうなっているかは分からない。
 胸が締め付けられる。
 ここは俺の家だったのに。どんなに苦しくても、辛くても、それでも、ただいまと言える場所だったのに……
「分かったような気がする。あの占い師の人が、どうしてここへ向かえと言ったのか」
「え……」
「ここって、いくらくらいするのかな」
 唐突に上げられた疑問の声に、喜多川は目をむいた。
「そこまで広くないけど、地価はかなり高いよね。何千万円ってレベル?」
「なぜそんなことを?」
「そりゃ、きみ、ここはきみの家でしょう」
「そうだが。けど、それはかつての話だ」
「本当に?」
 言って、は喜多川を見上げた。その瞳には相変わらず、観察者としての鋭い輝きがある。見つめる者の心のうちを暴かんとする、容赦のない光だ。
 喜多川はそれに逆らうことができない。また逆らう気もなかった。ただ正直になって、まるで魔法をかけられたかのように胸のうちを明らかにする。
「分からない。でもきっと、ここは確かに俺の家だった。先生は、たぶん俺を……弟子としてだけではなく……」
 それでも、先を言うことはできなかった。
 無いだろうが、万が一にでも彼女に否定されるのが恐ろしかったのだ。
 あの少年は、師の複雑な心境を推察して情があったのだろうと評した。喜多川の才能だけを欲したのではないと……
 そうでなければ、膝の上に乗せ、歩き方を、筆の握り方を、言葉を、住む場所を、着る物や食事を、なにもかもを与えるだろうかと。
 そしてはまたあばら家に目を向けて言う。
「だから、この家が欲しいんだよ」
「……確証のために?」
「それもある。でも、それ以上に……きみが側溝に足を突っ込むほどぼんやりしているのはここが原因でしょう。きみ、ずっとなにかを考えてる。抽象的な言語化されない思考ではなく、文言として、ずっと言葉を連ねているね」
 喜多川は心底驚いて、恐怖すら抱いて少女の横顔を見つめた。
 まさか、本当に、ついに読心術を身に着けたのか―――
「……気が付いてないみたいだから教えておくけど、きみ、ここのところずっと利き手の小指側が汚れてる」
「えっ? あ、本当だ……」
 言われて見ると確かに手の小指側、小指屈筋群、主に小指の外転、屈曲、対立運動を補助する働きのある筋の群れ付近が薄っすらと黒く染まっている。
「それはデッサン用の炭や柔らかい鉛筆なんかの跡じゃない。なぜなら、きみはさっき水を被って、タオルで手を拭いた。それでも落ちないし、タオルの方にも粉末が付着していなかった。ということは、それは油性のインクである可能性が高い。逆に顔料である可能性は低い。筆を持つ場合は、そもそもそこだけに色が付くことはないだろうからね」
 一息で言い切って、はどうだと言わんばかりに胸を張った。
 喜多川は感心しきり、手を打って彼女を称賛した。まるで一端の探偵のようだ、と。
「ふふん! ……だからね、祐介。その、ずいぶん長いこと思い悩んでいるようだったから、急かしたいわけではないけど……でも、その……」
 黒く汚れた手に少女の指が触れる。
「もう少し、私にも甘えてくれていいんじゃないかな」
 照れたように言われて、喜多川はギュッと心臓を握り込まれたような心地になった。
 それは一度心臓が強く縮こまり、そして次の瞬間に膨張して全身に血液を一気に送り出す。そんな感覚だった。
 今すぐこの小さな少女に縋り付いてしまいたいほどの心細さと、それとはまったく正反対の万能感が胸を支配する―――
 そしてその言葉に表し難い感覚は少年に一つのビジョンを与えた。
「ああっ!」
「えっ!?」
 素っ頓狂な声を上げた喜多川に、少女は小さく肩を震わせて竦み上がった。
「て、天啓!!」
 叫んで、喜多川はの手を握り込んだ。
「天啓って……まさか、きみ……」
「すまん、、ああぁ……本当にすまない、今、この……これを!」
「描かねば?」
「そうだ! か、紙……ッ! ペン……ああ、どこだっ!?」
「……2Bでいい?」
 慌ただしく鞄を探り、首尾よくスケッチブックを取り出したものの筆箱が奥底に紛れ込んでしまったらしい。
 見かねて筆箱から鉛筆を取り出して差し出してやると、喜多川は短く礼を述べて一も二もなく受け取ると直ちにアスファルトの上に膝をついて、広げたスケッチブックに取り付いた。
 傍目には少年が少女の前で土下座しているように見えるかもしれない。
「これはなんだ。込み上げる熱情と、それ以上のもの寂しさ……足場が見つからないような不安感……いいや、そうじゃない! これはもっと恐ろしく、制御のできない怪物のような……」
 ぶつぶつと何事かを喚きながら忙しなく動く手を見守りながら、少女は一歩だけ後退った。
 これはしばらく動かないだろうし、一人でほっぽりだすわけにもいくまい。それにしても、こういう振る舞いは久しぶりに見るかもしれない。そばに私が居るというのにひとりの世界に没頭するなんて、まったく失礼な話だ。
 それでも咎める気にも、離れる気にもなれないのだから、結局は己も彼と同じ類のものなのだろう。
 つまり、なにかに夢中になっている。
 は苦笑して、這いつくばって楽しげにする少年を見下ろした。
 人目が気にならないわけではなかったが、仕方がない。幸いなことに人通りは少ない。は喜多川のそばからそっと鞄を奪い取って、中から濡れたままの靴下を取り出してガードレールの上に引っ掛けた。
 彼が納得する頃には、きっと降り注ぐ陽射しが靴下くらいは乾かしてくれることだろう。