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戸惑うことも多いですが、でも、俺は相変わらず、あなたと生活していたときと同じように絵を描いて過ごしています。
だからという訳ではありませんが、俺の作品を撮影したものをお送りします。
これを見て、あなたは怒るかもしれません。こんな未熟なものをと。
あるいは……
……
時は春、日は朝、朝は七時……まだ気温も上がりきらぬ午前の狭い室内に書き物をする音が響いている。少年はその手に筆ではなくペンを握り、ひたすら文字を書き連ねていた。
淀みなく進む筆跡は、しかし紙面の中ほどまでやってくるとくしゃくしゃに丸められてくずかごに投じられてしまう。そこはすでに同じ姿の先客でいっぱいで、丸められた紙くずは溢れて床に転がり落ちた。
静止して沈黙すると休日の午前中特有の気だるげな喧騒が壁越しに耳に届いた。
そのだるさに任せるままに脱力して腕と足を放り出す。書くべき文章はもう何一つとして思い浮かんではこなかった。
夜更けの手紙はよろしくないと聞くから朝早くに取り掛かったが、これは失敗だったかもしれない。もう起き出してから二時間は経過しているはずなのに、脳も心臓もまだ眠いのか、動きが鈍い気がするのだ。
ぼんやりとそんなことを考えながら、喜多川は手の中のペンを机の上に投げ出した。
こんなことはやめてしまおうかとも思う。
なにも無かったことにして、放り出してしまえばいい。きっとむこうもそれを望んでいる。もう、放っておいてくれ。関わらないで、忘れてくれと……
どこか自虐的な思考は鳴り響いた通知音によって遮られた。
ハッとして目を向けると、充電器に繋げたままのスマートフォンの通知ランプがチカチカと瞬いている。手に取って確認すると、メッセージの送信主は坂本竜司とあった。
文言はたった一単語。
『ヒマ?』
なんたる簡潔さか。それは坂本の長所でもあったし、短所でもあった。今の喜多川にとっては救いでもあるかもしれない。
『暇じゃないが、付き合ってやってもいい』
返して、喜多川は息をついた。
こんなのは一時しのぎで、根本的な解決にはなっていない。ただ、坂本の誘いは即ち身体を動かすことだろうから、まだ目覚めきれない身体に喝を入れるという意味では最良だろう。
返事も待たず、少年は縋るような気持ちで部屋を出た。
坂本の用件は予想通り、スパーリングの相手を務めろということだった。
マスとはいえ坂本の相手を努めさせられるのは骨が折れるし、新島やあの地元に帰ってしまった少年のように特別格闘技の心得があるわけでもないから、どれほど体力があっても消耗が激しく、そう長続きするものでもない。
身を素早く屈められて金髪頭が視界から消えたことを警戒して飛び退るが、これは誤りであった。坂本の防御技術もパンチングも、所詮は他のスパー相手から盗んだ付け焼き刃でしかない。彼の本領はその爆発的な瞬発力を活かした低位置からのタックルである。
これほど喜多川にとって嫌なものはない。下方からの切り上げや足元を狙った突きよりよほど対処がし辛いのだ。
飛びつくように体重の乗ったタックルが腰元に入る。それで終わりではないことは、喜多川自身がその身をもってよく知っていた。
大した力を籠められたわけでもないのにつま先が浮く感覚は何度味わっても慣れることはないだろう。
気が付けば彼は天を睨み、公園の砂場の上に引き倒されてしまっていた。
「く……っ、ああ、耳に砂が……」
入った、と身を横たえたままぼやく喜多川に、坂本は荒い息を整えつつ手を差し伸べてやった。
「っはー、あー、重っ! お前太った?」
「そういえば最近測ってないな」
よいしょと起き上がって、砂と汗を払い落とす。
二人はジムではなく、坂本の住処近くの公園を訪れていた。
大きな砂場があるわりに子供が遊ぶ姿を見かけないからという理由で、簡単な手入れと引き換えに坂本がよくここを利用しているのだ。
以前はもう一人の少年がここで振り回されたり殴り返したりしていたらしいが、心の底から残念なことに、喜多川はその現場には居合わせることはなかった。
ただ時々、怪盗団の作戦参謀を務める少女や同じく諜報部員がふらりと現れて、坂本が女相手に反撃できないのをいいことに彼を砂に沈めるのだ。その技はおおむね、対人型シャドウ戦に役に立ってはいる。
閑話休題。喜多川にとってはそこまで楽しいものでもない。身体を動かすこと自体は好ましいが、相性の問題か、力や慣れの差か、あまり勝ち星を挙げられないからだ。
「お前ももっと鍛えろよ」
そんな彼の悔しさを読み取ったわけではないだろうが、坂本は用意してあったスポーツドリンクを投げつけながら言う。
「シゴト中に遅れを取った覚えはないが」
どことなく拗ねたように応えて受け取り、まだ前髪に絡む砂を手櫛で落とす。
坂本は快活な笑い声を上げた。
「そーいうんじゃないって。お前が弱いなんて思ったこともねぇし」
「お前にとってのあいつの代わりを務める気もない」
ならばと推測を述べると、どうやらこれは当たりだったらしい。今度は坂本が拗ねたように口を尖らせた。
「ちぇー……じゃあなによ、にとってのあいつの代わりはすんの?」
「なぜそこでの名が出るのかは分からんが……そのつもりだし、そうしているつもりだ」
「ふーん……」
奇妙な沈黙が横たわった。
珍しいことではなかった。基本的に何事もなければ物静かな喜多川と、騒がしいがおしゃべりというわけでもない坂本が二人だけになるとこのように沈黙し合うことのほうが多い。
ここに件の少年が加わると三倍以上の喧しさになるのだが―――
そういう類の沈黙ではなかった。なにかを探るような、面白がるような、はたまた悪ガキがたちの悪いいたずらを思いついたかのような……
「お前らってどこまでいったの?」
質問の意図を汲み取れぬほどの朴念仁とはなれなかった。喜多川は友人の顔を睨みつけて、うんざりしながら名前を呼んでやる。そこには脅しの意味も含められている。
「竜司……」
しかしそんなものが坂本に通用するはずもなかった。当然だ、ちょっと一睨みされただけで引くような男に、己が何度も土をつけられるはずはない。
忌々しいが、その胆力は確かなものだ。
ことさら明るい声でもって迫る坂本に、喜多川はため息をついた。
「なーなー、いいじゃん聞かせろよ。その具合次第で俺の方針も変わるんだからよー」
「なんの方針だ」
「夏までに彼女作るか作らないか、みたいな……」
「勝手にしろ。俺を指針にするな」
「冷てえの」
「俺はそういう人間だ」
ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向き、砂場を保護するためのシートを取り上げる。坂本の手は直ちに端を掴んでそれを手伝った。
「じゃあ寿司食べ放題。回るやつ」
喜多川はピタリと動きを止めて、息を呑んだ。
正方形を描くブルーシート、その対角線上で坂本がしたり顔をして笑っている。
「ぐらついてんじゃねーよ」
「くっ……」
呻いて項垂れつつも、風によってシートが飛ばされないように重石を設置する手は淀みない。
続けて彼らは大して広くもない公園の美化活動に取り掛かった。
「ンで、行く? 奢るけど?」
雑草取りのための軍手を差し出しながら問いかけられて、喜多川は思い切り顔をしかめた。
激しい運動によってエネルギーを消費した身体は、空腹と疲労を訴えている……
彼は己自身に敗北した。
「……行く……」
「おーよしよし、んじゃこれ終わらせて、汗流したら連れてってやっから」
な? と肩を乱暴に叩かれる。
人と人との間には相性というものがあって、それによって上下関係が決まることがあると言う。
喜多川はこの瞬間だけ確かにそれを実感していた。
回る寿司でも寿司は寿司。
昼時の混雑を避けたいと早めに掃除と手入れを切り上げた二人は、身支度もそこそこにチェーンの回転寿司店に駆け込んだ。
「で、どうなん?」
「え?」
着席一番、坂本が問いかけるのに、喜多川はわざとでもなんでもなく首を傾げた。
忘れたわけではなく、目の前で回るベルトコンベアの上の物にしか興味がなかった。
「だからぁ、カノジョと最近どーですかーってェ」
「あー、忘れてた」
「はえーよ。三十分も経ってねーよ」
「うむ、まだ始まったばかりだ。あと一時間近く食べていられるぞ……デミマヨハンバーグ……?」
「あ、俺ししゃもっこ食お」
「おい、味の濃いものを先に食うな」
「あー? なんで?」
「味の薄いネタが楽しめなくなるだろう」
「最初からわかんねーし」
「……それもそうか。好きに食え」
「俺の奢りですからね?」
「はい」
毒にも薬にもならないやり取りの間、すでに皿がそれぞれ三枚積み重ねられていた。
「で?」
「ん?」
「ループさせんな」
「回転寿司だけに」
「うま……くねえよッ!」
「えー? ……まあ奢ってもらっているし、構わんが」
妙に薄くて粉っぽい緑茶で口の中をすすぎ、また次のネタに手を伸ばしつつ考える。
坂本が聞きたがっているのはつまり下世話な方面の進捗状況であろうと察しはついていた。しかし、さて……記憶を探りつつ、喜多川はゆず塩赤いかを口に放り込んだ。
うーんと唸ったのはうまいとかまずいという口内の感覚に対するものではなく、記憶の中に坂本が求めるような艶ごとめいたものがなかったからだ。
彼は正直にそのことを明かした。
「お前が期待しているようなことはなにもないな」
これに坂本はいくらの軍艦巻きを頬張りながら驚愕の表情を見せる。
「えっまひへ?」
「口の中にものを入れたまましゃべるんじゃない」
「ほめん、ひょいまひ……」
もぐもぐ、ごくん。ついでにと熱い茶を取って一口。すっかり口の中が空になったらしい彼は、はっきりとした発音でもって言った。
「マジかよ奢り損じゃん。あーくっそ……」
「残念だったな」
「えー……マジかぁ……」
ホントのホントになんにもないの? と諦め悪く食いつく友人に、喜多川はまた少し考え込んだが、やはり該当するような記憶は存在しなかった。
「というか、仮にあったとして」
「うん」
「お前に言ったとに知れたらどうなることか」
坂本は行儀悪く箸の片割れを立てて答えた。
「腕の一本」
喜多川は箸を二本とも立てて
「あるいは足の二本」と応じた。
重苦しいため息が二人の口から同時に漏れる。
……心身ともに健やかな成長ぶりを見せる件の少女は、新たな敵との戦いに備えてさらなる戦術を身に着け、ますますその苛烈さを増している。
もちろん、それは現実の中であれば滅多なことでは発揮されないのであるが……
「俺さ、に一番悪影響与えてんの真だと思うんだよ」
新島がを弟子にしたとか、してないとか。そんな話も耳に入ってきている。
喜多川は身に覚えを伴ってこたえた。
「ムーンサルトプレスニイジマ式」
仰向けに倒れた相手の上に腹部から落下する技である。本来であればコーナーの最上段から飛び降りるものだが、パレスにそんなものはない。よってニイジマ式ではまず相手を引き倒した後、その場での宙返りからのプレスという方式が取られている。
坂本は応えて言った。
「ニイジマスープレックス」
背後から相手の身体をクラッチして反らし、ブリッジの姿勢で固める技である。ただしシャドウとの戦闘は基本多対多であるから、悠長に固めている暇はない。このためニイジマスープレックスは反らす際にクラッチを切り、捻りを加えた投げを追加して相手を地に叩きつける方式を採用している。
「誰だ真にプロレスを見せたのは」
「俺だわ。すいませんでした」
素直に頭を下げる金色頭に、喜多川は実験台にされた技の数々を思い返して首をさすった。
「首に来るんだよな……」
「あーね……手加減してくれねーもんな……」
二人はしばし沈黙する。黙々と口に運ばれる寿司は安価な割に美味いと評して遜色ない。
喜多川のほうは、冷凍と解凍の方法がそのへんのご家庭と違うんだろうなとか、どこの海で獲られた魚なのかなとか、話の流れとは関係ないことを延々と考えていた。
しかし坂本はそうではないらしい。ちょっと言いづらそうにしながら、それでも好奇心を抑えきれないと口を開いた。
「……したくなんねーの?」
なにを、と開けっぴろげに問い返す度量はさすがの喜多川にもなかった。ただ彼はどことなく感心したように頷いて、甘エビの上に醤油を数滴垂らしつつこたえる。
「突っ込むな。さすが特攻隊長と言うべきか?」
「混ぜっ返すなバカ。マジメな質問ですゥ」
なにがどう真面目なのか。下世話極まりない話題を続けることに抵抗もあったが、しかしよい機会でもあると喜多川には思えた。どうにも己は世間一般の感覚とズレているらしいから、そういう意味で平衡感覚の優れた坂本に意見を求めるのも楽しいかもしれない、と。
「まあ正直……ならんわけではないが、そこはこう……なんとか。お前とリーダーの水着姿なりを思い描けばそんな気も失せる」
「直球でディスってきやがった。いや、それでその気になられても困るんだけどよ」
「うむ。いつも助かってる、ありがとう」
「その感謝いらねー……えー、我慢してんの? マジで? しなきゃダメ?」
「逆に聞きたいんだが、しなくていいのか?」
問いかけに、坂本は困ったように頭をかいた。
「分かんねぇ……そんな経験ねーもん……」
役立たず、と喉まで出かかった言葉を飲み込んで切り返す。
「だから参考にしようと。残念だったな、俺のほうが教えを乞いたいくらいだ」
「カノジョ持ちのくせに」
「だからだろ」
ため息が同時に漏れる。どちらかといえば喜多川のほうが切実そうではあった。
「まあ……頑張れよ」
「他人事と思って。お前もせいぜい夏までに相手を見つけるんだな」
「おーやってやらぁ」
気のない返事であった。
お互いにそれほど頑張るつもりはないのだ。
坂本は若干の焦りを抱いているが、身近な存在を見ていると急いだほうが凶であると感じているし、目の前の友人はご覧の通りだ。慌てて見栄を張る必要性は感じられない。
喜多川はもちろん、今以上を望むつもりはあまりない。求められれば応えねばと思うだろうが、焦る必要はどこにもなかった。
腹具合が落ち着いてきてやっと完全に身体が動き出したのか、喜多川の頭は朝方思い悩んでいたときよりよく回った。
しかしそうなって思うのは悩み事の解決方法ではなく、好きな女の子のことばかりだった。
はどうなんだろう。俺のことを不甲斐ない男だと思っていたりするのだろうか。だとしたらそれは是正したいところではあるが、傷つけるくらいなら情けない男という扱いで良い。
どうせ己は彼女の前では道化も同然だ。正直者になって、愚かな振る舞いをするしかない。それはそれで楽しいと思うのは、坂本が言うところの『カノジョ持ち』の特権だろう。