謹啓
 春寒料峭のみぎり、お元気でいらっしゃるでしょうか。
 お変わりはありませんか。
 こちらは大きく変わりました。あらゆることが、まったく以前と違っています。


……

 満開の桜が風に煽られて花びらを散らし、幻想的な光景を作り出している。
 川面を渡ってきた涼やかな風が足元を通り抜ける心地よさに、少女は髪を押さえながら目を細めた。
 強すぎない春の日差しと辺りを包む甘やかな香りはどんなものよりも心を浮き立てる。
 いつもこの季節は憂鬱だったはずなのに、春の訪れを喜ぶ日が来るなんて思ってもみなかった。
 胸の内で小さく呟いて、少女は少しの間だけ過去へ想いを馳せる。新学期、新学年、進学……いずれも多大な変化をもたらすそれに、彼女はいつも諦めとともに小さな期待を抱いていた。もしかしたら、新しい環境に移ればこの苦境からも抜け出せるのではないか……
 そして彼女はいつでも裏切られてきた。誰も自分のようなものを助けてなど、気にかけてくれたりなどしないのだと思い知らされてきた。
 今ならば、それは仕方のないことなのかもしれないと思える。
 何故なら彼女は誰にも助けてと言わなかったし、期待しているくせに助けそのものを拒絶していた。母親からの束縛や筆舌に尽くし難い扱い、行き過ぎた躾という細い糸に縋り付くうち、それが全てとなって他へ手を伸ばすことに忌避感を抱くようになってしまっていたのだ。
 彼女の母親もまた、己が垂らすその細い棘だらけの糸に絡め取られていた。
 矛盾した想いと行動は破綻をきたし、双方を歪めて心にパレスを作り上げた。
 歪な心の具現化であるそこは母娘の狂った関係を表すように重なり合い、虚飾に満ちた楽園として表れていた。
 その心の世界に存在する少女の影もやはり救いを求めず、助けなど必要ない、どうせ誰も助けてなどくれないとなにもかもを拒絶していた。触れれば傷つくのは手を差し伸べるほうであろうことは明らかだった。
 それでも、今少女の隣を歩く少年は手を差し伸べ、腕を突き刺すように深く抉って、彼女の本音を引きずり出した。傷つくことを恐れず、想像すらもしないで、まったく無遠慮に。
 彼がそのように行動したのは複雑な事情があり、そこに至るまでには同じく複雑な道が折り重なっていたが、もとをたどれば単純な話だった。
 ただ互いの存在を失い難いと思っていた。
 それだけのことが一人の少女を失意の底から救い出し、意志のある人間として蘇らせた。戦う力を伴わせて。
 そして二人はここに至る。
 やっぱり紆余曲折を経て、周りが呆れるほどの緩やかな速度で、ゆっくりと並んで歩いている。

 少女―――はちらりと彼の顔を横目で窺いながら、今日の出来事を思い返した。

 始業式が終わり、レクリエーションを済ませた正午前。また同じクラスになれたことを東郷一二三と喜び合いながら通用口を目指していたときのことだった。
 まだ着慣れない制服の新入生たちがあのぅと遠慮がちに声をかけてきたのだ。
 二組の女子二人連れは相対して、そして先輩のほうは優しく新入生たちを促した。どうしたの? なにか分からないことがあるの? と。
 新入生の二人組はお互いの顔を見合わせて、そっちが言いなよ、あっちが言いなよなどとやり合った後、声を揃えて言い放った。
先輩が美術科の喜多川先輩と付き合ってるって噂、ホントですか?』と。
 膝から崩れ落ちそうになるを、東郷は慣れた様子で支えてやった。
 東郷は数ヶ月ほど前から友人の特権としてその事実を知らされていたから驚きもしないが、さて、どこから漏れたのやら。もちろん東郷は人に吹聴して回ったりしていないから、犯人は別にいる。そして彼女はそれが誰かを知っていた。
 その犯人も口と言葉でもって喧伝したわけではないだろう。
 そうではないのだ。人に想いを伝えるとき、なにも言葉ばかりが有用ではない。
 東郷にはこんなふうに誰かが尋ねて来ることは読めていた。簡単な打ち筋だった。
 仕方のないことなのかもしれない。
 東郷などはこう思う。
 自分だって人のことを言えるほど中庸な人間ではないけれど、喜多川くんはそのはるか上を行くほどの……ええと……その……うーんと……そう、目立つ人ですから。良い意味でも悪い意味でも。あの容貌では強く人目も引きますし。
 そして彼女も……
 隠そうとしていたけれど、みんな気が付いていた。彼女が傷付けられていたことに。なにかをすべきだと思っていた。でも、どうしたらいいのか分からなかった。彼女自身が拒むように人との接触を最低限に留めて、一定以上にはけして踏み込ませなかったから……
 不思議な二人ではあると誰もが思っていた。
 見た目からしてちぐはぐで、凸凹で、どちらもなかなか本心が知れないから。
 しかし二年次の夏休みが終わるころになると、二人は大分、その関係性についてではなく人格や人当たりに変化が見られるようになる。人をはね除けるような硬さが取れて周りに馴染むように、あるいはその努力が見れるようになったのだ。
 時を同じくして、二人が人目を避けて会う姿が度々目撃されるようになる。
 それでも付き合っているんじゃないかと囁かれなかったのは片方があの喜多川であるし、のほうが否定していたからだ。
 ところが去年の年の瀬にまた変化が訪れた。
 喜多川が一枚の絵を描き上げたのだ。
 これ自体はまったくいつものことであると言えた。そもそも彼の他にも絵を描く者はたくさんいたから、珍しくもなんともなかった。
 ただ、モチーフにされた少女は皆が知る姿より、なんだかずいぶん、かわいらしくてきれいだった。あの子、こんな表情もするんだ、と人に思わせた。
 本当に単純な話だった。誰もが一目見れば分かるようなことだった。
 ああ、この絵を描いたやつは、この子のことが好きなんだな。そう思わせる力があったのだ。
 おそらくとしては隠しておきたいか、あるいはそっとしておいて欲しかったことだろう。
 しかしあの絵を見れば誰もが分かってしまうのだから、なんとも滑稽な話であった。コンクールにまで出しておいて隠す気はあるのかとすら思わせた。
 新入生にまで広まっているのはそういうわけだろう。きっとこの子たちは展示会場であの絵を見て、そしての姿を見て仰天したことだろう。なにしろ絵のモデルがその辺をほっつき歩いているのだから。
 苦笑して、東郷は硬直し続けるの肩を優しく叩いた。
さーん……」
 ぽんぽんとあやすようにされて我に返ったは、まるで反省を強要された犬のようにしょぼくれて項垂れながら新入生たちに
「そうです……」と答えてやった。
 かわいらしいひな鳥たちは驚いたりがっかりしながら、キャーキャー言って走り去った。
 手を振ってそれを見送りながら、自分も二年前はあんなものだったかしらと感慨深くなれたのは東郷だけだった。

 ……また噂の片割れである喜多川がわざわざ校門でを待ったりするから、彼女は大いに人目を気にして、彼が余計なことを言い出す前にそこを離れる羽目にもなった。
 それでも喜多川のほうは春の陽気に誘われるようにご機嫌で、満開を迎えた桜を見に行こうなどと言い出すのだ。
 としては同じ学校の生徒がいないところならどこでも良かったから、二人は東郷に手を振りながら同校生の群れから遠ざかった。
 そのようにして、この川辺の桜並木が続く道に至ったのである。
 目的を同じくする人の姿は多かったが、ほとんどの者は満開の桜と舞い散る花弁が作り出す光景に魅入られて余人のことなど目に入らない。はやっと人心地ついて、平静を取り戻した。
「やっぱり出すべきじゃなかったんだよ」
「なぜだ? 渾身の傑作だぞ」
「そうだね。そうであって、嬉しいよ……でも、私は放っておいてほしかった」
「そんなに俺が彼氏だと知られるのが不満か?」
「そういうわけではないけど。不必要な注目は避けたい。きみは校外にまで名を馳せるレベルの変人だし……」
「なるほど……ん? 今なにか、ひどい罵倒を受けた気が……」
「気のせいだよ」
「そうか? そうか……」
 うーんと考えこむような素振りを見せて、少年はしばらく沈黙する。その目は雪のように降り積もる薄桃色の花弁を眺めているようでもあったし、まったくなにも見ていないようでもあった。
 やがてなにかを思い出したように手を打ってに向き直るころには、その黒髪には花弁がいくつか絡みついていた。
「なあ、選択授業……」
 は満面の笑みで先を言わせず答えた。
「嫌です」
「なぜ」
「ぜっ……たいに嫌! 人前で絵を描くなんて……無理!」
「えー……」
 腕を交差させて大きなバツ印を作ったに喜多川は不満の声を上げた。
「私にそんなに恥をかかせたいの」
 不満の声にこそ不満げにする少女に、彼はまったく素直に答える。
「一緒にいたかった」
 そうと言われてしまうと白旗を上げるしかない。
 とはいえ戦力は拮抗しているから、は停戦条約をもちかけた。
「……他のところで埋め合わせします」
「そうか、ならいい」
 少年はこれを受け入れた。
 そしてまた思索にふける。のんびりとした歩みこそ止まらないが、その目は幻想的な春の風景などちっとも見てはいない様子だ。
「今日はいつもよりぼうっとしているね。なにか気になることが?」
 は率直に問いかけた。
「お前はどうしてそう……ついに人の心が読めるようになったのか?」
「なるわけないでしょう。なったとしても、きみだけだよ」
 二人はたっぷり数十秒間沈黙した。喜多川は薄桃色の天井を、は同色のカーペットのような花弁を眺めて。
 やがて喜多川のほうが視線を下ろして告げる。
「恥ずかしいことを言ったな」
「自覚はある……」
 つまり、あなただけをいつも関心を持って見つめているとは言ったのだ。ちょっとキザっぽい台詞ではあった。
 けれど不快というわけではない。背筋を伸ばして襟を正さねばという気持ちにさせる効力があった。
「今はまだ話せない……と言うより、話したくないと言うべきか。だが、時期が来たらお前にも報告する」
「分かった。約束だよ」
「ああ、必ず」
「うん」
 頷いて、は勢いよく喜多川の背を叩いた。大した痛みではなかったが、衝撃は彼の背をますます伸ばして真っ直ぐにさせる。
「よし、シャキっとしよう! 三年になったんだから、最上級生らしくしないとね」
「お前は俺の母親か」
「なに? ママと呼びたいの? ん?」
「やめろ」
 質の悪い冗談だったが、喜多川が顔をしかめるのが楽しいと言わんばかりには口角を上げる。
 とても上品とは言えない口と振る舞いもすっかり板についてしまったらしいとため息をつく。
 諸悪の根源がこの土地を去ってからまだ数週間かそこらしか経っていないというのに、喜多川はもう彼の帰還を願った。戻ってきて、そして一発、殴らせてくれ、と。
 そんなことを考えていたからだろうか、ふとのポケットから通知音が鳴り響いた。
 マナーモードにするのを忘れていたとが申し訳なさそうにするのに、喜多川は目で許しを出して促してやる。火急の要件である可能性もある。見るだけ見ておけ、と。
「ん……あ!」
 は目を剥いて驚きの声を上げる。
「どうした?」
 憤懣遣る方無いと言わんばかりの表情で、はスマートフォンを喜多川の鼻先に突き付けた。
 その画面には布団の上で腹を見せて寝転がる靴下猫の姿が映されている―――
 結局、モルガナは当初の予定通りあの少年にくっついて彼の実家に帰り、そこで生活することとなった。の情熱的かつ執拗なアタックは功を成さなかったのだ。
 添付された画像には『羨ましい?』などという挑発的なメッセージまで添えられている。
「うう〜、悔しいよぉ……っ」
 腕を振って地団駄を踏む少女の姿に喜多川は笑いをこらえることができなかった。言葉通りよほど悔しいらしい彼女の姿が、彼にとっては微笑ましくてたまらなかったのだ。
 口元の笑みを手で隠し、恨み言を聞き流す。
「私のほうが彼に贅沢な暮らしも快適な住処の用意もしてやれたのに! 傷病の際にも手厚く看護をするのに!」
 しかしいつまでも他の男の話ばかりをされるのも癪だ。

 名を呼んで注意を引くと、また少し背が伸びて近くなった目線が喜多川のほうへ向かう。
 彼は自信満々に胸を張って、いたずらっぽく笑いながら言い放った。
「俺がモルガナの代わりを務めよう」
 だから、撫でてもいいぞ。
 告げるがしかしは怪訝な顔で呆れるばかりだ。
「どうしてきみがモルガナの代わりになれると思うのか」
「え? ならないのか?」
「モルガナみたいにふかふかじゃないし、かわいくもないし、ニャンとも鳴かない」
 これに喜多川は少しだけ考えて
「ニャーン」と鳴いてみせた。
「ぶっ! っふふふ、あはっ、きみ……うくく……」
 途端に吹き出して身体をくの字に折り曲げた少女に、喜多川は首を傾げる。
「なにか面白かったか?」
「だってきみ……ふは、あはは……」
「お前が楽しそうならそれでいいが」
「ふ、ふ、ふ……もう、撤回しないとね。きみはふかふかじゃない」
 それ以外はモルガナと同じか、あるいはそれ以上だと言外に告げて、はやっと背筋を伸ばす。
「ふむ、やっと分かってくれたか。よし、こい」
「やらないよ」
「えっ!?」
 桜並木の切れ間にたどり着いても二人はしばらく目的もなく歩き続けた。その足取りはやっぱり遅々としていて、のんびりとしたものだった。