29:Every dog has his day

 雪の中を歩いた二人が向かったのは、洸星高校の男子寮であった。
 ある程度予測はできていたが、いざ連れてこられるとなんと反応したらいいのやら。は困り顔で傍らの少年を見上げた。
「これ、正面から入っていいの?」
「駄目だろうな」
「だよねぇ……絵って、部屋にあるの?」
「ああ。だから、入ってもらわねば始まらん」
 言うなり、喜多川は着ていたジャケットをの頭に被せた。
「窓から入ってくれ。それなら誰にも見つからんだろう」
「本気?」
「いつもやっていることだ」
「それはパレスでだからね」
「現実もそう大して変わりはしないさ。そこで待っていてくれ、鍵を開けてくるから」
「いや全然違……ちょっと祐介」
 追う暇もなく駆け出して行ってしまった少年に、はがっくりと肩を落とした。内申稼ぎと維持のため、一年は大人しくしていようと決意を固めたばかりだというのに……  彼に付き合っていたらそれも難しいんだろうな。
 思えど、しかし少女は辛抱強く彼を待った。
 手袋をした指先もブーツの下で靴下に包まれた足先もじんわりと冷えて痛みを覚えるのに、その胸には暖かなものが溢れている。
 緊張もしていた。
 なんとなくそうだろうなとは思っていたが、まさか部屋に招かれるとは。しかも今日この日に。
 どうせ彼のことだから、日付に意味なんて見出してはいないんだろうけど。
 ふっと自嘲気味な笑みをこぼすのと、窓から喜多川が身を乗り出すのはほとんど同時だった。
、手を」
「ん……バレないよね、これ。ああ、私の内申点……」
「安心しろ、お前の夢が潰えたら、約束通り面倒は見てやる」
「気軽に言ってくれるよ、本当に」
 苦笑しつつ、苦労しつつ、そして苦心しつつ、それでもは窓から部屋に忍びこんだ。
 ある意味で部屋は想像通りと言えた。整頓はされているが、雑然としている。
「あ、これ、杏だ」
 壁に立てかけられたままの画板に挟まれたままのラフスケッチを見つけてしゃがみ込む。物言わぬ友人の横顔は本当に美しかった。
 作者の腕云々の前にそもそもの素材が良いのだから当然か。そんなことを思いながら高巻の横顔に笑いかけると、背後で重いものを動かしたような音がした。
「そっちじゃない」
 声をかけられて振り返る。
 佇む少年の傍らには布の掛けられたイーゼルが彼の相棒と言わんばかりに立っていた。
 は声を弾ませて問いかけた。
「それ?」
「ああ、うん。ええと……」
「見せて見せて、結局なにを描いたのか、きみ、教えてくれないからずっと気になってたんだ」
「わかった。わかったから、うん。いや、ちょっと待ってくれ……」
「なに? まだ完成してなかったとか?」
「いや、それはない。終わっていないのは覚悟のほうだ」
「なんだそれ」
 怪訝な顔をしてみせるに、喜多川は項垂れて胸を押さえる。
 彼の視線が外れたのを良いことには腕を伸ばしてイーゼルとその下にあるであろう絵を隠す布に手を伸ばした。
「……あっ! こら、待て、、お前というやつは……」
 手は触れる直前に捕らえられた。
 しかしは唇を尖らせて、拗ねたような、底意地の悪さを窺わせるような顔を見せるから、少年は思わずと顔を引きつらせたてしまう。
「いいじゃないか。なに? イヤらしいものでも描いたの? それも芸術でしょう。大丈夫、気にしないよ」
「違う! お前は俺をなんだと……待てと、おいっ!」
 掴まれたままの腕がぐっと力を込めて前に突き出され、ついに人差し指と中指が器用に布を挟んだ。進退窮まって、少年は困り果てる。捕らえた手首を握り潰すわけにもいかないだろう。
 それを知ってか知らずか、少女は今度こそ意地悪な笑みを浮かべた。
「声が大きいよ。いや、きみなら独り言として処理されるのかな?」
「ああ、もう、分かった。分かったから、、本当にお前はどうして……」
「なに?」
「……もういい。見せれば嫌でも、分かるんだ」
 諦観の念とともに少年の手が離され、代わりに覆い隠す布にかかる。
 夜の帳のような濃紺の薄布は一息で取り払われた。
 そこにあったのは美人画のようだった。ただしはこれを美人画と呼ぶのに強い抵抗を感じる。
 ……スタンダール症候群という単語が頭を過った。フランスの小説家スタンダールが教会の壁を飾るフレスコ画を見た際に、多大な幸福感と共にめまいや動悸に襲われて失神しそうになったことを語源とする原因不明の疾患である。
 まったく同じように軽いめまいを覚えて呆ける少女に向かって、喜多川は一度小さく息をついてから問いかけた。
「この絵から、お前はなにを感じ取る?」
 これには思わずと俯いた。
 とても答えられない問いだった。彼女にとってこれ以上の難題はそう無いだろう。
 だってそんな、ありえない。
 必死になって否定する胸中は少年の促すような、懇願するような声に打ち壊された。
「教えてくれ。俺はちゃんと描けただろうか。見る者に想いを伝えられるほどの実力は、俺にはまだ無いのか?」
 答えないわけにはいかなかった。自分本位な考えのために、彼の絵に対する情熱と信念を否定することは誰にも許されないことだと彼女は知っている。だからこそ今日ここに立っているのだ。
 顔を上げて、改めて描かれたものに向き直る。
 窓辺に佇む少女が幽かに笑っていて、窓の向こうには霧状の雨が降っているのか、拡散された鈍い光が彼女自身をほのかに輝かせている。
 どこからか吹き込む風に少し乱された髪を手で抑えながらじっとこちらを見つめる瞳。
 その中に人影がある。
 にはこの少女の瞳に映る人物が誰なのかも分かっていた。
 その人物がどんな気持ちをそこに籠めたのかも。
「しゅ、主題とされている女の子への……その、好意、かな」
 少年はふっ、と口元を綻ばせて息を漏らした。そこには多大な安堵と、そして恥じらいが含まれている。
「……正解だ。解釈ができるようになったんだな」
「まあ、うん。少しは勉強の成果が出たのかな」
「そう言うのなら、誰を描いたのかもわかるだろう」
 まったく底意地の悪い問いかけであった。そんなものは考えるまでもない。毎日鏡で見ている顔ではないか。
「あ、あの……」
「うん」
 つまりこれは、私だ―――
 は小さな小さな声で答えた。
「わ、私……ですね……」
 喜多川はいかにも嬉しそうに笑った。愛おしそうに絵を撫でもした。
「でも、なんで。きみ、こんなのは……あ、ありえない」
「なぜ?」
「だって、知らなかった。全然」
「え……全然なのか? まったく? 全部?」
「勘違いだと思って。き、きみはデリカシーがないし、誰にでも同じようにしているかもしれないし」
「失敬な。俺をなんだと思っているんだ」
「ごめん。でも、私はきみに、まだなにも与えられていないじゃないか。こんなふうに描かれる理由が解らない……」
 耐えられないと視線を落とした少女に喜多川はため息をついてその手を取り、分厚い裏起毛の手袋を取り去って素肌を晒させる。少女は抵抗しなかった。
、顔を上げてくれ」
「うう……」
 呻きつつやっとのことで顔を上げた少女の瞳は潤み、頬は真っ赤に染まっている。窓の向こうで瞬く明かりが、そんな彼女の姿をぼんやりと照らし出していた。
 少年はそれを見て、己の腕もまだまだだと考える。
 自分が描いたものと比べて、現実に存在するこの女の子のなんて可愛らしいことだろうか。ただ見ているだけで胸が締め付けられ、郷愁にも似た気持ちを抱かせる。
 郷愁は麻薬と同じだと言ったのは誰だったっけ……
 あるいは、そう思うのは己が彼女に惚れているからなのかもしれない。好意バイアスというやつだ。
 けれど、でも、もう、そんなことはどうだって良かった。
「俺がこの絵を描いた理由が解らないはずがないだろう。お前はたった今、読み解いてみせたじゃないか。ただそれだけだ。お前の目に見えるもので全部だ」
 は小さく、何度も首を縦に振った。
 その胸には、目の前のこの少年と出会ってから今日に至るまでの記憶が一気に返り、溢れてうずを作ってぐるぐると回っている。
 初めはきっと歪んだ相互扶助でしかなかったはずだ。お互いにお互いの姿を鏡のように捉えてなんの益にもならない自己憐憫に浸っていただけ。
 しかしそんな浅はかな試みが長く続くはずもない。
 どれだけ似ていたとしても、仮に全く同じ経験をしていたのだとしても、二人はそれぞれまったく異なった人格を宿した個なのだから、いつしか互いの相違に気が付いてしまう。
 それは例えば自分には無い一本芯の通った情熱や、施されたことにすら気がつけない滅私の思いやりだった。
「解るんだろう」
 首は縦に小さく振られた。
「それなら……お前も、同じ気持ちだと言ってくれ」
 ねだるような言い方と声だった。まるで小さな子供が菓子を欲しがるような……
 は目を瞬かせて、浅い呼吸を幾度も繰り返している。
 焦れて、少年はその手を強く握った。
「頼む」
 乞われて少女は己の本心を吐き出した。
「は……はい。うん。同じです」
 大して広くもない部屋に沈黙が満ちる。外ではまだ雪が降り続いていて、それが降り積もるしんしんという音さえ聞こえそうなほどだった。
 やがて少年が喉を引きつらせて、感嘆の声とも、ため息ともつかない音を漏らした。
「ほ……」
「え?」
 なにか不備があったかと不安がる少女に、彼は信じられないといった様子で問いかけた。
「ほんとうに?」
「へ……」
 なにが、と小首を傾げる細い肩を掴んで、喜多川はまた問いかける。
「だから、俺と同じなんだな? お前も俺と、ああ、その……つまり……」
 言葉にならないうめき声を重ねる少年に、少女は幾度も首を縦に振ってこたえてやった。
「う、うん。はい。その、ええと……はい。そう。私はずっと……」
「や……」
 喜多川はふらついて、よろよろと後退ったかと思うと、背中からベッドに倒れ込んだ。
「うわっ、祐介!?」
 驚いて駆け寄るを他所に、少年は拳を握って天井に向けて掲げてみせる。
「……った! やった! あははっ! やったぁ!」
 彼はまるで本当にただの子供のように喜んでみせた。嘘偽りなく、心の底から。まるでサンタクロースの手から直接プレゼントを受け取ったかのように。
「っはあ、よかったぁ……」
 そしてまた唐突に脱力してだらりと腕を下げると、案じて隣に付けられたの手を取って顔を寄せる。
 彼はまるきり、夢見心地の表情と声で言った。
「そんなはずはないと知っていたのに、断られたらどうしたものかとずっと緊張して……はは、まだ、心臓が……」
 胸を押さえて笑うその肌はあまり日に焼けておらず、窓から差し込む光を浴びてほのかに輝くさまはまるで月の光そのものだ。あるいは銀の矢じりか、象牙か、百合の花……
 は息を呑み、横たわった少年の左胸に手を伸ばした。
 ―――もっとそばによって見てみよう。
 そう囁いたのは彼女のペルソナだ。誰もが持ち、意識すらせず使い分ける精神の仮面……
 抗うことすらせずには喜多川の心臓の上に手を置いた。
 ヒヤリとした感触の下にかすかな鼓動を感じる。
「ん? どうだ? わかるか?」
 少年は無邪気に問いかけた。
「わかんない、かな」
 少女は本当のことを言っていた。手で触れるだけで鼓動が分かるほど手指の感覚は優れていなかったし、彼女自身の手がそもそも震えていた。
「そうか? 今もまだこんなに……」
 言葉を無視して身を乗り出し、その左胸に耳を押し当てる。そうした瞬間に鼓動が強くなるのを感じて、少女は小さく喉を鳴らした。
「ふっ、本当だ……」
「お、おい」
「ん?」
「離れてくれ。この体勢はちょっと……良くないと思わないか」
「そうなの?」
「そうに決まっている。だから……」
 肩を押して促すと、はゆっくりと上体を起こした。その表情はいかにも残念がっているふうで、少年の心臓がまた跳ねる。
「信じられないんだよ、祐介」
「なにが?」
「私は夢を見ているのかもしれない」
「これは現実だ」
「そうかな」
 淡々と応えて、は額をその胸に押し付けた。ずっと肩にかかったままだった喜多川のジャケットが床に落ちるかすかな音がいやに響いた。
「きみのことを諦めなくていいんだと知ったときも夢みたいだと思ったのに、今こうして……きみの気持ちすら知ることができるなんて」
 一年前の自分に教えても絶対に信じない。
 言い切って、少女はぐっと額をその胸に押し付ける。少しだけ息苦しかったが、肺腑を圧迫される感覚もさえも今の少年には喜びとして捉えられた。
 すぐ間近にある少女のつむじを眺めて少年が思うことは一つだった。
 信じられないなんて言っても彼女が疑っているのはこの状況であって、彼の言葉自体を疑っているわけではないのだろう。
 都合の良い夢か幻とでも思っているのか。どうしたら信じてもらえるだろう。
 触れて確かめさせてやればいいのか、口付けやそれ以上のことでもすればいいのか。
 生殖行為とか?
 考えて、その馬鹿馬鹿しさに喜多川は苦笑する。
 なにをどうしたらいいのかなんて分かるはずもなかった。知らないことが分からないのは当然のことだということこそを、彼はもう知っていた。
 かっこつけていかにもキザっぽいことをする必要もない。できることをすればいいだけだ。
 少年は腕を伸ばして優しく少女の背を叩いた。赤子をあやすように繰り返すと、縮こまって硬くなっていた少女の身体からゆっくりと緊張が解けていくのが分かった。
「お前をどうやって納得させたらいいのか、俺にはさっぱり分からん」
「正直者……」
「それが取り柄だ。なあ、、知らないことは悪ではないんだろう。真に悪いのは知ろうとしないことだと言うじゃないか」
 少女はじっとして、言葉に耳を傾けている。
「だから、一緒に考えよう。二人でなら、お前を納得させる方法も、信じさせるやり方も分かる日がくるはずだ」
 ぽんと仕上げするように頭を叩かれて、はやっと顔を上げた。泣いているわけではないことに安堵して息をつく彼に、少女はかすかに首をふって肯定を示した。
 手始めに触覚に訴えることにしたのか、少年は腕を回して少女の身体を抱きしめる。
 彼女はやっぱり、信じられない。と言った。

 そのようにして、二人は朝までの時間のほとんどを沈黙して過ごした。
 時折思い出したように会話するが、いずれも長くは続かなかった。互いの胸の内を打ち明けたからといって大きな変化があるわけでもなく、結局二人はいつも通りに過ごしただけだった。
 ただこの日は大きな戦いをこなした後だったから、気が付けばどちらともなく眠りに落ちてしまっていた。

……
 喜多川祐介は夢を見た。
 自分にどことなく似た顔の女性が笑っている夢だった。
 なにかを言われたような気もするが、うまく頭に収まらず、風のように通り抜けてなにも残らない。
 ただ、彼はなんとなく、褒められたような気がした。
 照れくさくなって頭をかく。女はやっぱり、ただ幽玄な笑みを湛えるばかりだ。
 少年はその人に自分が成したことを語った。
 言葉にするとなんとも馬鹿馬鹿しい話だった。
 苦しみがあり、挫折があって、でも友達ができて、好きな子がいて……それから、どうやら自分たちは世界を救ったらしい。
 すっかりなにもかもを語り終えても、女は変わらぬ笑みを浮かべていた。
 これ以外に知らないのだから仕方がないかと喜多川は思って、少しだけ悲しくなった。
 もっと違う表情もあっただろうに。探せば写真の一枚くらいは見つかるだろうか。
 あれこれと考えている間に女は彼のすぐ間近に迫り、腕を伸ばしていた。抱きしめられたことに驚きはしても、彼は決して抵抗はしなかった。
 どうせ夢なんだから恐れるものはなにもない。
 優しく頭を撫でる手にきつく目をつむって、喜多川はまた口を開いた。
 好きな子に想いを伝えたら、イエスと答えてもらえたんだ。
 女はまたなにか言ったようだが、やはり声は聞こえなかった。
 そうとも、彼はこの人の声すら知らない。どんなふうに話すのかも。
 それは悲しいことだった。最も近しい他人であるところの人物が一番遠くに感じるのだから、これほどの悲劇はないだろう。
 でも……
 過ぎたことは帰らないし、死んだ人間は生き返らない。己が誰かになることも、失われてしまったものを元通りにして本当に完璧な状態にすることも叶わないということを、彼はもう知っている。
 悲しくはあっても、彼は心の底から『大したことじゃない』と言い切ることができた。
 喜多川はその人に言ってやった。
 胸を張って尊大に、傲慢さすら伴って。
 あなた一人がいないからといって、それがどうした。そんなの全然、大したことじゃない。
 すると女の表情に変化があった。少年の強がりがいかにもおかしくてたまらないと言いたげに口元に手を添えて、顔中で笑ってみせている。鈴を転がすような笑い声すら耳に聞こえた。
 彼が見ているのは間違いなく夢だったが、もしかしたら霊夢の類かもしれなかった。


 目が覚めると隣には誰もいなかった。
 慌てて飛び起きてやっと寝ていたことを自覚するほど自然に眠りに落ちていたのだと思いつつ視線を巡らせると、ちょうど窓際に探していた人物が佇んでいる。
 ほっと息をついた彼に気が付いて少女は顔を上げた。彼女は照れくさそうな笑みを隠すようにマフラーを巻きつけて、手にしていたスマートフォンを掲げてみせる。
 すると枕元で通知音がする。見ればジャケットに放り込んだままにしておいたスマートフォンがきっちり充電器に繋がれているではないか。
 少女の指が焦れたようにそれを指差した。見ろ、ということらしい。
 慌てて取り上げた拍子にそばの本に腕がぶつかって落ちるが、少年は拾い上げることもせずメッセージに目を通した。
『電車動き始めたから帰るね』
 口で言えばいいのにと戸惑って顔を上げると、少女はいたずらっぽく笑って口元に人差し指を立てている。
 忍び込んで来たのだから静かにしようということか。得心して頷いて、少年は手元を手繰る。
『駅まで送る』
『いいよ。しっかり休んで』
 返信は早かった。
『もう眠くない』
『私が色々しても起きなかったくせに』
 色々? 少年がぎょっとして顔を上げると、少女は窓の外に身体を滑り出しているところだった。
 慌てて立ち上がって追いすがるが、一瞬の差で取り逃してしまう。
 危なげなく地上に降り立った少女はいたずらが成功したと言わんばかりの笑みを浮かべて手を振った。
『じゃあね』
 こうなってしまっては追う間に遠ざかってしまうだろう。少年は諦めて彼女に手を振り返した。
『気をつけて帰れよ』
『きみはちゃんと休むんだよ』
『お前が家に着くまで起きてる』
『頑固者め』
『お前ほどじゃない』
 笑って、少女は今度こそ背を向けて小走りに遠ざかった。
 閉ざされた門扉を飛び越えて小さくなる背に、登り始めた朝日がかかる。
 喜多川は手でフレームを作ってそれを中央に収めて、はたと気が付いた。
 まるで夜明けを引き連れてくるかのようだと。
 終わりのない夜の闇の中にある者を否応なしに光明の中に引きずり出して照らし出す。強い陽の光はときに誰かを傷つけることもあるが、そこに意思は伴わない。無意識というわけでもない。ただそういう存在だというだけだ。
 彼女もきっとそのようなものなのだろう。
 暖かさも痛みももたらす存在というのは彼女のイメージにしっくりくる気がして、少年は直ちに翻ってペンとスケッチブックを取り上げる。なんでもいいから今この瞬間の閃きを書き留めなければならなかった。
 ちょうど冬休みに入ったところだ。製作に取れる時間はいつも以上にある。
 そうでなくたって今ならいくらでも、なんだって描けそうな気がする―――

……
 そういうときに限って邪魔が入るのはもはや定番となりつつあったから、きっと呼び出しなりが掛かるんだろうなぁとは誰もが予測していたことで、掛けられた集合に皆が集まるのに時間はかからなかった。
「殴りたい……」
 物騒なことを言い出したのはである。
 まだ少し眠たげな彼女を宥めるように肩を叩いたのは奥村で、その隣の坂本は同意するように深く頷いている。
 怪盗団は一堂に会して集っていた。場所はルブランではなく、どこにでもある安価なチェーンのファミリーレストランだ。
「とりあえず私ドリンクバー頼むけど、他になんか頼む?」
 メニュー片手に高巻が軽い調子で言うのに、奥の席で膝を抱えて小さくなった佐倉が手を上げて「わたしもドリンクバー頼む」と答えた。
「あー待って杏、私なにか軽く食べたい。イライラするのはお腹が空いてるからだ、たぶん……」
 制止の声をかけてメニューに目を落とすの隣で、喜多川があくびをかみ殺している。
「祐介、きみもなにか頼む?」
「ん。んー……食欲より睡眠欲が勝っている……」
「だから寝ておきなよって言ったのに」
 呆れたような調子で応えて、は適当な軽食に目星をつける。
 対面からそれを見つめる高巻が目を細めるが、彼女は特別なにかを言おうとはしなかった。
 そういう場合ではないのだ。
 ずっと沈黙を保ち、苦悶によって俯いていた新島が顔を上げて、のろのろと口を開いた。
「ごめんなさい、お姉ちゃんが彼に……」
 かすれた声には疲労が滲み、目の下には濃いくまがある。
 この場に集っているのはこれで全員だった。靴下猫も、その相棒にして自動餌供給機兼運搬役たる怪盗団の頭目も、どこにも姿が見当たらない。
 新島の言葉がすべてを示していた。
「真のせいじゃねえよ。もちろん、真のあのおっかねーオネエサマのせいでもさ」
 坂本の言葉に全員が首を縦に振った。
「どっちかってーと、アイツの手前勝手なスタンドプレーだろ。ポジションどこだって言ってたっけ?」
「フォワードじゃなかったかしら」
 しかもワントップ。佐倉の問いにおっとりと答えながら、奥村の手が卓上のオーダーコールに伸びる。
 即座に間の抜けたコール音が鳴り響いて店員が駆け付けると、少年たちはそれぞれ好き勝手に注文を言い渡した。
 短いハーフ・タイムの後、飲み物や軽食が揃ったのを見て新島がまた口を開く。彼女の前には頼んでもいないのに、謎の混合によって生じた液体が置かれていた。
「私やお姉ちゃんのせいじゃないと言ってくれることには、その、礼を言うわ。ありがとう……」
 心のこもった声に乗せられた照れを隠すようにドリンクに口をつける。新島は硬直した。
「……実際、真たちのせいではないからな。あいつは本当に……あ、駄目だ。すまん、眠い」
 言葉の途中でテーブルに突っ伏して、喜多川はうーんと呻いた。寝入ったわけではないだろうが、しかし微動だにしないところを見るに眠気と戦っているらしい。
 言葉を継いだのはだった。
「殴りたい」
 やっぱり物騒なことを言い出す彼女に、しかし今度は半数以上の者が首肯してみせた。
「自己犠牲っつーの? 誰も頼んでないってのよあんのやろー」
「それな。カッコつけてんじゃねぇよってマジで。フザケやがって……」
「ほんとあいつは周りのやつのキモチってのを考えねーな」
 口汚く罵る三人に奥村は苦笑する。咎めようとしなかったのは罵倒の裏に多大な悲しみと苦しみが垣間見えたからだ。
 それに、口にしなくたって彼女も同じ気持ちだった。
 ここまで皆で力を合わせて、チームとして、仲間としてやってきたのに。彼が皆に立ち上がる根拠を見出しているのと同じように、皆も彼の姿から己の為すことの意義を見出していたというのに。どれだけ傷ついても、血反吐にまみれて、汚泥の中を這いつくばって辛酸を舐めることになっても……
 そうやってここまでやってきたのに、最後の最後で彼は全員を裏切ったのだ。
 奥村は静かに、暖かな紅茶を冷ますように息を吹きかけながら、誰に向けるわけでもなく呟いた。
「私だって引っ叩いてやるんだから」
 風船のように頬を膨らませたその姿に緊張感を削がれたのか、突っ伏した喜多川以外の全員が小さく笑う。
 奥村ははっとして、照れたように紅茶に口をつけて「あちっ」と小さな悲鳴を上げた。彼女の動作の一つ、言葉の一つが少年たちから怒りや失望、落胆や無力感を忘れさせた。それこそが彼女の天稟と言うべき素質だろう。
 とはいえ奥村自身はそんな己をおっちょこちょいと評しているのだろう、こほんと咳払いをして誤魔化して
「それで、どうしようか?」と誰にともなく問いかける。
「それ、聞く必要あるかー?」
 問いに問いを返したのは、笑いをかみ殺しながら新島の前に置かれた謎の混合液を喜多川のほうへ押しやった佐倉だった。彼女は作業を終えたその手で手元の炭酸飲料にレモン果汁のポーションを垂らしながら重ねて問いかける。
「どうせみんな、ここは一致してるだろ? 降りるつもりなら最初から来なきゃいいんだし」
「それもそっか……」
 ならばと述べたのは高巻だった。
「じゃあ、どうやろうか?」
 意志ではなく手法を問いかけて、少女は莞爾と笑ってみせた。
 そこには何者にも崩すことのできない輝きがある。それは彼女だけにあるものではなかった。ここに集う子供たちのうち、それを持たない者は一人としていなかった。
 この『集まり』に参加条件があるとすれば、それはこの輝きのみだ。
 そしてそれは、誰もが大小を問わず持ち、些細なことで失われたり取り戻したりする。表す言葉は無数にあったが、言葉にする必要はなく、またそうする気も彼らにはありはしなかった。
 ただ、のそりと頭をもたげて眠たげな目をこすった喜多川が、いつの間にか手元に置かれた謎の液体に気が付いて手を伸ばす。その目が飲んでいいのかと問いかけていたので、友人たちは素知らぬ顔で頷いてやった。
「ッッッ!?!?!?」
 声にならない声をあげて、喜多川はまたテーブルに沈んだ。
 その手から謎の液体を回収しながら、が言う。
「とりあえず……脱獄でもさせる?」
「いやいやいや、ここでボケるかフツー」
 即座に坂本からのツッコミが入って、呻きながら顔を上げた喜多川がさらに重ねる。
「穴を掘るんだな。三つ。なんという名だったか」
「トムとディックと……」
 なんだったっけ、と首を傾げる奥村の隣で新島が呟いた。
「ハリーじゃないかしら」
 こたえて、新島は手を叩いた。与太話はおしまいと仕切り直して考える。
「処分が出るのってこれからでしょ? 前科があるっても色々考慮されるんじゃないの?」
「いやーどうよ、シゴトやってた時点で反省って意味じゃアウトじゃね?」
「成績は悪くないのだから、学生生活という点では問題無いだろう」
「でも校内の評判は悪いのよね。鴨志田が流した噂は結局完全には払拭されなかったし……」
「私生活って意味ならそーじろーが証言してくれるはずだぞ。店も手伝ってたし、イヨク的だった!」
「獅童正義の殺人教唆が立証できれば、冤罪に関してもかなり有利に運べるはずだけど……」
「そこだよね。彼が収監されてしまうとしたら理由は突き詰めれば前科があることに集約されるのだし」
 話し合いはそう長くは続かなかった。そもそも『彼』が作り上げた『集まり』はこの場に集った者で全てではないのだ。
 初めからやるべきことは決まっていると言えた。
 子供たちは程なく三々五々に散って各々のやりたいことに取りかかった。
 誰に強制されるわけでも、義務としてでもなく、ただ友達のために誠実であろうとすることは、間違いなくこの世の至宝だった。
 ただし、中にはやや後ろ暗い手段を取る者もいた。
 例えばなどは、こっそりと控えておいた連絡先にメールを送ったりする。返信があればよし、無くても別に構わない程度の心持ちであるが、それは地獄の釜の蓋を開けるようなものだった。

……

 路地裏に足音が響いている。
 喧騒は遠く、ちょっと鼻が曲がりそうな異臭がするそこで少女は立ち止まった。
 左腕に巻いた時計に目を落として時間を確認するのと背後に人の気配を感じるのは同時だった。
 振り返りざまに踵を背後の気配に向けて振るう。
 体幹と勢いの乗せられた細い脚は、しかし狙いに叩き込む前に硬い棒状のもので遮られてしまった。
「そっちから呼び出しておいてコレかよ。ほんっとうに躾がなってないな」
 苛立たしげな声に目を細めて、少女は飛び退って体勢を整える。
 彼女の前に立っていたのはまだ痛々しい傷をガーゼや包帯によって覆い隠し、手には杖をついた少年だった。
 鼻を鳴らして腰に手を当て、いかにも不服そうな表情をつくる少女に彼は低く喉を鳴らしている。
「こっちの台詞。よくもおめおめと顔を出せたね。というか、本当に生きてたんだ」
「『彼』に出来たことが僕に出来ないとでも? そもそも顔を出さなきゃ困るのは君だし、僕の復讐にも繋がるって誘いをかけたのも君だ。ここでの最後の仕事にはちょうどいいとも思えたし」
「最後ね。高飛びでも?」
「それもいいかもね。アメリカと韓国以外ならどこでもいいかな」
 肩をすくめた少女に、少年は冷笑を向けた。
「なんにせよ、最後の仕事が怪盗団の手助けだなんて皮肉が効いてると思わないかい? もっと感謝してくれてもいいんだよ」
「きみに感謝するくらいならこの場で舌を噛み切って死んでやる」
「じゃあ死ねよ。ほら」
 唇の端を釣り上げて、少年はどこからか取り出した封筒を彼女に向かって放り投げる。
「っと、これで全部?」
「なに? もっと欲しいの?」
「そう言うってことはまだ隠し玉があるってことでしょう。全部出して」
「かわいくねェなホントに……」
 舌打ちをして、少年はコートのポケットに手を突っ込んだ。
 取り出されたのはラベルもなにもない、小指ほどの大きさの円柱状のプラスチックケースだった。中には白い粉末が収められている。少女は思いきり顔をしかめて彼を睨みつけた。
「……ついにそっちにまで手を出したの。堕ちるところまで堕ちたな。いや、初めからだっけ?」
「ふざけんなよ。これはただの……いや、確かにアウトなんだけど……とにかく僕はそういう目的では使わない」
 それに、と言って少年はまた手の中の物を彼女に向かって放り投げた。
「けど、君は必ずこういうものに手を出す。なにしろこれは君が求めているものの答えだからね」
 危なげなく受け取ったくせに、少女は嫌そうに顔を歪めた。
「なにもかもご存知って言い方、キモチワルイ」
「ブッ飛ばすぞ」
「冗談だよ」
 受け取った物をまとめて鞄に押し込みながら応えて、少女は手を差し出した。
「え、なに」
「握手。どうせあなたと会うのはこれが最後だろうし。仲間たちから最後くらいは仲良くしなさいって言われてるんだ」
 少年は引きつった笑みを浮かべて目を眇めてみせた。
「……冗談だろ?」
「なに? 女子のと手を握るのが怖いの? 散々彼をヘタレと罵ったくせに」
 明らかな挑発であった。その証明に、少女の顔には小馬鹿にしたような笑みが浮かべられている。
 しかし、それでも、男として少年はこれに乗らないわけにはいかなかった。こんな小魚に侮られるわけにも。
 罠であることは重々承知で差し出された手を取って握る。
 一秒、二秒、……十秒、二十秒……
 二人は笑顔を顔に張り付けてマネキンのように動かない。
 しかしやがて少年の右足が後ろに下がり、少女の手を強く引いた。
 バランスを崩した彼女の顔面に、左手に握られた杖の持ち手が突き込まれるのには時間がかからなかった。少年に杖術の心得があるのかないのかは分からない。ただ様にはなっていたし、予備動作は小さくとも威力は十分と言えた。
 けれどそれも上手く決まればの話だろう。
 少年は息を呑んで少女の顔を見下ろしていた。彼女はちょっと無理な姿勢を取って顔をそらし、強烈な突きを右前頭部に擦過させるだけに留まらせていた。
 とはいえ、彼女は完全にバランスを崩している。初撃を回避したとて、膝を着いていては続く攻撃を避けることは不可能だろう。
 勝利を確信した少年は歪に笑うが、長くは続かなかった。少女の目的は初めから彼に一撃を叩きこむことではなかったのだ。
 ガチャンと硬質的な音が響いて、少年は己の右手首を見下ろした。
 彼がぎょっとしたのは己の手首に食らいつくその物自体に驚いたからではなく、それがいかにも派手派手しい色をしていたからだ。
「……これって私物? やっぱり君の彼氏ってそうなの? それとも君が使われるほう?」
 じりりとすり足でもって後退したのは逃亡のためというより、精神的な意味合いが強かった。なにしろ彼の手首を捕えているのはピンクゴールドのメッキが施された、カリーニョピンクのファーで飾り付けられた頑丈そうな手錠なのだ。
「使われたことがないわけではないけど、祐介は関係ない」
「使ってンのかよ! うわ……」
「仲良くしようよ、名探偵さん」
 言葉とともに傷があるらしいほうの脚に少女の腕が巻き付いた。その手が膝の裏を掴み、すくい上げながら押し込まれる。元より杖を突く身だ、つま先が浮いた時点で彼に再起は不可能だった。
 けたたましい音が響いたのはそばに捨てられていた空き缶がもろともになって倒れた拍子にぶつかって転がったからだ。
 苦悶の声を上げる少年の身体に膝で乗り上げ、そばの壁を伝う細いパイプに手錠を繋げてやる。
「……よし。私の復讐は終わりっ」
「ッてぇ……クソ、こっちは怪我人だぞ……!」
「きみこそさっきの突き、私の目を潰す気だったでしょう」
 パンパンと手を払って立ち上り、耳に指を押し当てたかと思うとまた左腕の時計を確認する。
「警察が到着するまであと三分だってさ。じゃあね名探偵さん。きみのしたことを考えたら執行猶予は付かないだろうし……今生の別れだ。しっかり反省して罪を贖って」
 二人の望みはそれだけだ。
 言い残して、少女は踵を返して路地のさらに細い道に身を滑り込ませた。その腕に抱えられた鞄にはこれ見よがしに手錠と同じ色の鍵がぶら下げられている。
 姿が見えなくなるのと同時にパトカーのサイレンが少年の耳に聞こえ始めた。
 舌打ちを一つ。忌々しげに顔を歪めて、それでも彼は笑ってみせた。
「本当に、『彼』に出来たことが僕に出来ないと思っているんだから、甘いよなぁ」
 解錠には三分も掛からなかった。彼は立ち上がり、手錠を放り投げ、杖を振って、自慢げに髪をかきあげた。見る者がいないことこそが彼にとって残念だった。
「逆もまた然り、か。ふん……」
 カラン、と音を立てて杖が放り捨てられる。
 少年は背筋を伸ばして、痛む足を無視して歩き出した。
 何をすればいいのかは分からなかったが、捕まるつもりもなかった。反省する気は……少しくらいはあるかもしれない。
 ただ彼は考える時間が欲しいと思った。
 『彼』と彼の率いる『集まり』が帰ってきたとき、自分がなにを思うのか知りたかった。
 歯ぎしりをして、少年もまた路地の暗がりに滑り込んでサイレンから遠ざかる。
 認めたくはなかったが、しかし認めざるを得ないだろう。今日ここに、危険を承知で現れたことこそがその証明だった。
「あなたの心を頂戴します、ってやつかな。オエ、気色悪ぃ……」
 悪態をつきながら、少年は煙のように姿を消した。
 そして明智吾郎という名の人物はこれ以降、世界中のどこを探しても二度と見つかることはなかった。