← ↑ →
28:Come Rain or Come Shine
怪盗団の面々はこれ以上なく難しい顔をして額をつき合わせていた。
正確に言えばそれは全員ではなく、怪盗団の内で『余裕』のない一人であり、そしてそれに付き合う『教師役』であった。
「……嘘でしょう……」
「イヤ、あの、はい。え? そんなに酷い?」
両手で顔を覆って呻いたに、坂本は全員の顔を見回しながら狼狽してみせる。
答えはノーでもあったし、イエスでもあった。
「やめてくれ……こっち見んな……」
項垂れた坂本が言うのに、全員がため息をついた。
「うん、竜司、きみ……きみは……」
ルブランのテーブルの一つを占領する怪盗団のメンバーのうち、の前には一枚のコピー用紙が置かれている。それには無数の数式や文章が書き連ねられていた。
坂本が期末の面倒を見てくれとに両手を合わせたのは一週間と少し前のことだ。これを承諾したは比較的まともに板書を取っていた同級生二人と同校の先輩二人の助力を得つつ、坂本に一枚の課題プリントを作ってやった。
これ自体は大した手間でもなかった。ただ、翌日に返された答案には絶句した。
言葉があるとすればそれは『マズい』とか『ヤバい』といったものだろう。
少女と友人たちは再び―――少し難易度を下げて―――課題プリントを作り上げた。そして愕然とした。
同じことが三度繰り返されて、そして今日に至っている。期末試験は翌日に迫っていた。
「どこまで……どこまで遡れば竜司がどこで躓いたのかを知ることができるんだろう……もう駄目だ、おしまいだ……」
絶望して項垂れる少女に、坂本こそが焦って両手を振った。
「え、ヤベーの? 俺そんなにヤベーの?」
「平均よりは下かな」
真剣な顔でサイフォンを睨みつける少年がバッサリと切り捨てた。
そのあまりの無慈悲ぶりに、対面からコーヒーではなく少年の顔を覗き込んでいた佐倉がけらけらと軽い調子で笑い声を上げる。
「んふふ、竜司、わたしと同級生してもいいんだぞ。一緒に卒業しちゃおうぜ」
「、俺が悪かったわ。今日は徹夜する覚悟でいくんで、よろしく」
「それは私も徹夜する羽目になるんじゃ……?」
首を傾げたは、しかし心意気を汲み取って立ち上がった。
「とにかく、竜司、きみを根本から立て直すのは次の機会としても、今は目の前の問題だけを考えよう」
「よし、やってやろーじゃん!」
ぐいっと腕まくりをしてみせた高巻は、しかしすぐ隣に腰かける新島に肩を掴まれて押し黙った。
「杏はこっちね。人にかまけてる余裕はあなたにもないわよ」
「あ、はい……」
高巻は引きずられて隣の席に移り、喜多川とともに先輩からありがたい指導を受けることとなった。
さて、はコーヒーとにらめっこを続ける少年から借り受けたノートを開いて次々に別紙へ書き付けていく。
「とりあえずヤマだけ張って……春、去年の期末の答案、持ってきてくれた?」
「うん。はい、どうぞ」
差し出された用紙の束を受け取り、じっと己の書き出した部分と見比べる。
コーヒーの抽出を見守る少年を見守ることに飽きたらしい佐倉がモルガナを抱えたままひょこりと脇から顔を出してそれを手伝った。
「出題傾向はあんま変わってなさそうだな」
「うん、これなら必要そうなところだけでも拾っておけば平均点くらいは……」
ああだこうだと言い合いながら二人は次々に坂本の前に張ったヤマを放り投げ、受け取ったほうはそれを眺めたり書き写したりしながら黙々と暗記する。
モルガナはいつのまにか奥村の膝の上に移っていたし、その奥村は佐倉の代わりに渾身の一杯を入れようと悪戦苦闘する少年の見張りに入った。
「あなたは試験勉強しなくていいの?」
課題に目を落としつつ奥村が問いかけると、相変わらず黒い液体に目を向けたまま少年は答えた。
「これが終わったらやる……おじさんを唸らせる一杯を出せたらこの店くれるって……」
「まあ、そうなったら私たちライバルかしら」
「そうかも。お手柔らかに頼む」
「ふふっ、どうしようかなぁ」
意地の悪い笑みでもってこたえつつ、隣のカウンターチェアに丸まったモルガナを一撫で。奥村は細くやわらかな指先でのど元も撫でてやる。
「なに? お前ここ継ぐつもりでいんの?」
ふ、と課題から顔を上げて坂本が言う。
少年は唸って腕を組んで難しい顔をしてみせた。
「色々スッキリはしたけど前科があることに変わりはないし……普通の就職は難しいだろ。コーヒーのこと調べたり、店のことやらせてもらうのは楽しいし。それに……」
クラウンパントの奥の瞳が、ぐるりと店に集う仲間たちを見回した。
一人ひとりの顔の形や表情を確かめるように見つめ、少しだけためらってから、彼は告げた。
「みんなここに集まる」
照れくさそうなその様子に、仲間たちは肩をすくめた。
時を経るごとに全員で顔を合わせる機会は減るだろう。それは進路や就職といった各々が選択すべき道によるものだ。自由な時間は減り、社会人として果たさねばならぬ勤めに多くを割くようになる。
それでも、この店があって、ここに彼が居るとなれば、怪盗団の活動はいつまででも続けられるだろう。
そんな確信があった。
たとえなにがあろうとも……
意図をすっかり読み取っているだろうに、しかし坂本は揶揄するように彼に応えた。
「へ、ンだよ意外とマトモに考えてんじゃん」
「将来設計は必要だろ」
「ほー……じゃあ、お前はさ」
坂本は笑って、なんの意図も思惑もなく、特大の爆弾を投下した。
「結婚願望とかあんの?」
ドカン! という音を聞いたのは坂本ではなくだった。
きつく目をつむって口をへの字に曲げ、心の中で坂本を口汚く罵りもした。
このバカ竜司、よりにもよって全員集まってるところでなんてことを聞くんだ。だからきみはモテないんだよ―――
うっすらと目を開けて店内の様子を伺う。
カウンターの向こうで少年は相変わらず腕を組んでうーんと唸っている。
その目の前に腰かけた奥村はチラチラと落ち着きなく彼の様子を伺い、ソファ席からは高巻と新島がじっと彼に視線を注ぎ、またの傍らでは佐倉が振り向きこそしないものの落ち着きなく身体を揺らしている。
にとって彼女たちが背後の少年に懸想しているのはもはや疑う余地のない真実だ。高巻からは直接気持ちを教えてもらっていたし、新島もまたその常に冷静な瞳が彼を見つめるときだけ揺らいでいるのが分かる。佐倉はちょっと分からない。ただ、彼と別れ難く思っているのは明らかだったし、本物の家族になりたがっているのかもしれないことは推察できた。奥村などは言うまでもないだろう。花嫁をさらって、手元において、それでハイおしまいなんて、あまりに無惨な仕打ちではないか。
問題は―――
あの少年が全員に対して友人としてのスタンスを貫き通したことだろう。
つまり、彼女たちは、告白して、断られる機会すら与えられなかったのだ。そうなる前に、彼から友だちだろうと言われてしまった。
それで、じゃあずっと友だちでいようね! なんてなるものか。そんなに簡単に諦められたら世の中で痴情のもつれの果ての刃傷沙汰は起こらないし、こんな極上の人物を知ってすぐ次になんて行けるはずもない。
が思うことは一つだ。自分には祐介が居てくれてよかった、と。
しかし彼女はそのように想う相手によって不意打ちされる。
「はあるのか?」
アンブッシュは効果的で、そして致命的だった。
「……は?」
辛うじてそれだけ返して目を向ける。
ソファの背もたれ越しに彼女を振り返って見る瞳には何某かの期待が輝いていた。
「だから、結婚願望だ。今、そういう話だったろう?」
俺はちゃんと空気を読んだぞと言わんばかりに胸を張る彼に、は脱力して膝から崩れ落ちそうになるのを懸命にこらえた。
確かにたいへん珍しいことに空気を読んでくれている。喜多川の問いかけによって店内に満ちていた緊迫感は霧散していたし、カウンター側に向けられていた期待と願いのこもった視線は今やに集中している。
ただ、これは問題の先延ばしでしかなかったし、矛先を変えただけとも言える。
「どうなんだ?」
「な―――バ―――あ―――」
追求に少女は言葉にならない罵倒を彼に向けた。
カウンターからは益体もないからかいの声が投げかけられる。
「北ナバア共和国」
「どこだそれ」
「ないわよそんな国」
少女たちも坂本も、はじめに投げかけられた、投げかけた問いからすっかり意識を逸したようだった。
流れを変えるのならば今しかない。しかし犠牲は大きい。
は仲間のために己の羞恥心を生贄に捧げた。
「あ……あるよ、そりゃあね……ああ、あるとも……」
か細い声で答えると、喜多川以外の全員がどよめきと歓声の中間のような声を上げた。
小さく打ち震える少女は、がっくりと肩を落として、安堵と恥じらいによって俯いて両手で顔を覆った。
「そうか、よかった」
喜多川はそんな彼女の煩悶などどこ吹く風と満面の笑みを浮かべている。
そして彼は今度こそ空気を読まなかった。
「俺にもある。覚えておいてくれ」
それってどういう意味? などと尋ねる勇気を彼女は持ち合わせていなかった。
打ち震えて恐怖と恥辱に耐えるしかない少女は、しかし己の成し遂げたことにどこか満足げな笑みを浮かべて崩れ落ちる。
尊い自己犠牲精神に気が付いたのはモルガナだけで、彼は珍しく自ら崩れ落ちた少女にすり寄って彼女をよく労わった。
少年の淹れた渾身の一杯に対する佐倉惣治郎の判定は「百年早い」だった。
落ち込んだ少年もまた教師役に加わって坂本はますます締め上げられ、その隣では高巻が新島にたっぷりと試験対策を詰め込まれる。
店を退出する頃には、二人はフラフラになってくたびれていた。
とはいえこれだけやったのだから、明日の試験では芳しい結果が得られることだろう。疲労感には充足感も伴っていた。
「期末が終わったら尋問するからね」
別れ際、にそう言うだけの気力もすっかり取り戻していた。
はがっくりして、しょんぼりとして、足を引きずって家路についた。
杏たちのためだったのに……
報われないことによる苦しみを改めて痛感した少女は、次はもう助けまいと心に決めたのであった。
少女が決意を固めた他方で、ルブランにはまだ喜多川が一人で居残っていた。
課題があると言うわけでも、試験対策をするというわけでもなく、ただ彼はルブランに寄贈した『サユリ』をまた少し眺めてから帰ろうと朝から決めていた。
しばらくあまり寝ていなかったから、静かなところで休みたいという意図もあった。
とは言え喫茶店のカウンター席で睡眠を取るわけにもいかないから、少年はまんじりもせずじっとして体力の回復を図ってた。
「お前さんは帰らなくていいのか」
カウンターの向こうで本を読んでいた惣治郎が、ふと顔を上げて問いかけてくる。
「ご迷惑ですか」
「ンなこたぁねえよ。ただ、試験は大丈夫なのかってさ」
少しだけ眉尻を下げて答えた少年に、壮年の男は笑ってみせる。
「ああ……俺のところはもう終わってますから」
「なんだ、それじゃあ今日は付き合いで一緒にやってたってのか?」
「そういうことになりますね」
「悪ぃな、うちのに突き合わせちまってよ」
惣治郎の言い様に喜多川は少しだけ驚いて目を見開いた。
その言い方ではなんだかまるで……
「まるであいつの父親みたいですね」
からかうように言ってやると、惣治郎はいかにもしまったと言わんばかりに苦みばしった笑みを浮かべる。
「やっぱ駄目かね。こんなオッサンに言われちゃ、アイツも恥ずかしいか」
「あいつがそんなことを言い出したら、俺が殴ってやりますよ」
「へ、熱いねぇ……ありがとよ」
どことなく照れたように語尾を掠れさせた壮年の男に、喜多川は目を細める。
目の前のこの男がどれだけ情の深い人であるかとっくに知っていたはずであるのに、改めて目の当たりにして心が強く揺さぶられたのだ。
彼は素直にそれを口にした。臆することなく、欲しがるわけでもなく。
「羨ましい」
「あん?」
首を傾げた惣治郎に、喜多川は静かにまぶたを閉ざし、口元を緩めて答えた。
「羨ましいんです、あいつが。俺たちは皆、どうにも……その、父親というものには縁が浅いので」
惣治郎は口をへの字に曲げて押し黙った。彼をしてなんと応えるべきか迷ったのだ。
ただ、喜多川に寂しがるような様子はない。彼は己の置かれた境遇を直視していて、理解している。その上で淡々とその目に映る事実を受け入れて、そして友人に惣治郎のような存在があることを喜んでいた。
「そう思ってもらえるってのは、なんだ、嬉しいもんだな」
「照れてます?」
「よせやい」
快活に笑って、惣治郎は本をカウンターに放り投げた。
店内に相変わらず客の姿は無く、話題の中心である少年は仲間たちを駅に送りがてら所用を済ませてくると出て行ったきりだ。
喜多川の視線は再び母の幽玄な笑みに戻り、惣治郎はテレビのリモコンを取り上げてニュース番組に目を向けた。
しかし惣治郎という男は話し好きというわけでもないだろうに、程なくしてまた口を開いた。
「なにか悩みでもあんのか」
喜多川ははっとして、息を呑んで彼を見る。
「悩み、というほどのことでは」
そんなに分かりやすかっただろうかと頭をかくと、惣治郎はしたり顔で肩をすくめた。
「そうかい。お節介を焼くつもりはねえが、そういう風には見えなかったぜ。だが、まあ……」
「なんです?」
「悪い感じじゃなさそうだな」
亀の甲より年の功とは正しくこのことかと苦笑する。自分も年を経ればこのような境地に辿り着けるのだろうか?
思ったが、しかし想像は上手くいかなかった。
代わりに問いかける。
「マスターは読心術の心得が?」
「ねえよそんなもん。あったらとっくにお前らのことだって気が付いてただろうさ」
「それもそうだ」
納得して頷いて、少年は少しだけ考える。
この人ならば、と思えた。
「うん、あなたに聞くのが一番いいのかもしれない」
「ん、なんだ。やっぱなんかあんのか?」
意外そうな顔をしてテレビの音量を下げる惣治郎に確信する。やはりこの人を頼ったほうがよさそうだ、と。
「マスターは女性経験が豊富と聞きました」
「誰だンなことをお前に吹き込んだのは」
喜多川は黙って人差し指を立てた。天井を見上げて、惣治郎はちっと舌を鳴らした。
「あの野郎。まったく肝心なことは黙ってるくせに、余計なことばっかり口にしやがる」
「あいつはそういうやつです」
「へ、嫌だねえ最近の若いもんは」
「俺も最近の若者ですよ」
「ちげえねえや。んで? そういう切り口上で入るってことはなんだ、女関係か?」
なんだか面白そうじゃねえかと身を乗り出して、惣治郎はにんまりと笑ってみせた。
そこにはたっぷりの好奇心と、お節介が詰まっている。
喜多川は臆することもなく首肯してみせた。
「ほお……お前さんがねえ」
「意外ですか?」
小首を傾げた少年に、男は深く頷いてやった。
「そりゃあもう」
「えー……」
「お前さんはモテるが入り口が狭すぎるタイプと見た」
「そんなことは……いや……あれ……?」
控えめに言っても自分の容姿が一定以上である自信はあった。なにしろ顔を褒められることだけは多かったから、そういうことなのだろうと納得して生きてきた。
しかし少年は誰か異性に直接的な言葉を向けられたことはないし、校内で孤立気味であることもしっかり自覚している。最近はちょっと気にしてもいて、色々改めようと努力した結果、挨拶や雑談を交わす程度の相手も増えてきたつもりだったのだが。
これを意識して行わねばならないところが惣治郎の言うところの入り口が狭すぎると言うことなのだろうか……
「自覚が無いのがなお悪いってのも追加しといてやる」
畳み掛けられて、喜多川は項垂れる。
「ぐ……」
「そんな調子で恨まれでもしたか? 女の嫉妬は怖いぞ」
揶揄するような笑みと声に、喜多川は慌てて首を振った。
「ち、違います。俺は……その、好きな子がいるんです」
「へぇ! ほぉ! お前さんに!」
「なんですか、その反応……」
「いいやなんでも。ってぇことは、なんだ、どうやったら気を引けるかとか、そんな話か」
「まあ……そうです。口説き文句の一つでもご教授いただければと」
「そういうのはかえって同じ年頃の連中に聞いたほうが良さそうなもんだけどなぁ」
ふうむと唸った惣治郎に、喜多川はふっと鼻を鳴らした。それは冷笑であった。
「あいつらは駄目です。なんというか……駄目です」
「駄目だったか」
「駄目でした」
「あー……聞く相手を間違えたな」
「反省しています」
項垂れた少年に同情の目を向けて、男はまた呻る。
この少年の力になってやりたいという思いは当然あるが、しかし……
とっくに遠ざかった青春に思いを馳せるが、自分の体験が即ちこの子供に役に立つのかと問われれば、さて。
「そうさなぁ……」
難しい顔をしてみせた惣治郎に縋るような目が突き刺さる。
男はなだめるような調子で言ってやった。
「まあ、年寄りの戯言程度に受け取りなよ。惚れた女の前でかっこつけたいって気持ちは俺にもよくわかるけどよ、でも、無理したってどっかでボロが出るもんだ」
心当たりがあるのか、少年は小さく呻いて視線をテーブルに落とした。
「変に気取った口説き文句なんてものより、案外普段通りのお前さんでいたほうがウケが良かったりするもんだ。あんまり意識しなさんな」
含蓄のある言葉であった。全力で誤魔化しにかかってもいた。
それでも少年は納得したような、納得していないような表情をしてなるほどと首を縦に振るから、惣治郎はほっとして密かに安堵の息をつく。どうやら若者を挫かせることなく済んだようだ、と。
とはいえ不安や懸念を払う力まではなかったらしい。少年はまだ少ししんなりとしたまま男を見上げて言った。
「でも、普段通りの俺はつまらない男ですよ。絵を描くことしか能がない。気の利いた言葉の一つも言えず、どうにも困らせるばかりで……」
項垂れる少年に向けられる目は微笑ましささえ宿していた。男は結局振り向いてくれなかった女の横顔を思い返して、古傷が疼くのを感じている。
あの頃の自分も、こんな風にもがいていたのだろうか? 惚れた女の気を引きたくて必死になって、惨めたらしく項垂れて、馬鹿みたいに悩んで……
そして女というものは、たいてい男のそういう努力には気が付いてくれないのだ。たぶんきっと、それは女側も同じことなのだろう。努力というものはおおむね、本当に見て欲しい相手の目には入らない。
では無駄なのかと問われれば、もちろん違うと男は答える。少なくとも、この世にある光るものすべてを集めたって引き換えにならないお宝が、笑顔で彼の作ったカレーを食べてくれている。
惣治郎は陽気な笑い声を上げて、少年の頭を力いっぱいかき混ぜた。
「自信を持ちな、お前はいい男だよ。なにも言葉ばかりが気持ちを伝える手段とは限らないさ」
少年はあの靴下猫のように目を見開いて、ぐしゃぐしゃに乱されてしまった前髪を押さえている。惣治郎は彼の前に一杯のコーヒーを差し出してやった。
「ほれ、ここは俺のおごりだ。景気づけに一杯やってけ」
少年は髪も乱れたまま、ぽかんとしたまま、それでも礼を言って差し出された黒色の液体に手を付けた。
「ありがとうございます……そうか。そうですね」
穏やかな声に惣治郎は口元を綻ばせる。子供の役に立てたということがなにより喜ばしく、そして誇らしく思えたのだ。
惣治郎は胸の内で、かつての想い人に語りかけた。俺もまだまだ捨てたもんじゃないだろう、と。
当然、返る言葉などありはしない。死者は何も語らないものだ。語るべき口を持たず、ただその想いを秘すばかり……
けれど、想いとはなにも言葉ばかりで伝えられるものではない。
二人はそれを良く知っていた。
少年はごちそうさまと言って立ち上がる。コーヒーのおかげだろうか、眠気はすっかりどこかに消え去っていた。
「上手くいってもいかなくても、またご報告に上がります」
「おう、吉報を待ってるよ。頑張んな」
「はい!」
満面の笑みでこたえて店を飛び出して行った少年に、壮年の男は煙草をくわえてしみじみと呟いた。
「……青春だねぇ……」
俺にもあんな頃があったっけ。
紫煙を燻らせて、男は再びはるか彼方の青春時代を胸に返した。
……
試験も無事終わり、赤点も出ず、追試を受ける者もなく済んで、若者たちはほっと胸を撫で下ろしつつ渋谷の駅前に集合した。
目的は一つ、メメントスの最深部に向かうことだ。
獅童正義の改心がつつがなく行われたことはもはや衆生の知るところになっている。人々がまた怪盗団に強い関心を向けた今ならば、閉ざされた扉も開くだろう。
十二月の二十四日。普段ならば気にならない、気にしないでいられるはずのカップルの姿が嫌に目につく日付であった。
「よりにもよってイブにメメントスかよ……」
行きたくないわけではないが思うところはあるとスカルがぼやくのに、いつもより目つきを悪くしたジョーカーが応える。
「イブだからだ。浮かれたカップルを全員改心してやる」
それはまさしく負け犬の遠吠えであった。駅の改札口の形をとるメメントスの入り口に虚無がこだました。
「悲しいなあ」
そんな様子を眺めて、ブレイドがぽつりと漏らす。彼は振り返って少女の鼻先に指を突きつけた。
「なんならブレイド、お前も改心してやろうか」
「なんで」
疑問には答えずつんとそっぽを向いた少年に首を傾げる。
一同を見回すと、スカルもまたなにか感慨深げな目をして彼女に視線を注いでいる。
「なに?」
「なーんでも。ンまあ強いて言うんなら……儲けさせてもらいました、ありがとなっ」
両手を合わせて頭を下げる。さっぱり意味がわからないが……
「またなにか、私をダシに賭けをしたな」
「へへっ、また今度メシでも奢らせてもらいますゥ」
「焼肉なら行く」
「んじゃ肉な。いつにするかは……お前の都合次第かな」
また意味ありげな目が向けられる。ブレイドは思い切り顔をしかめたが、仮面の下に隠されてスカルには上手く伝わらなかった。
そんな二人の間にパンサーが割って入る。小柄なブレイドを背後から抱きしめて、彼女はテンションも高めに言った。
「今日はダメだかんね! 女子だけで朝までカラオケしよっ、ねっ?」
背に当たる柔らかな感触に目を細めるブレイドはさておき、スカルは得物を担ぎ上げて鼻を鳴らした。
「へえへえ、好きにしろよ。俺は今日とは言ってねーし」
「そりゃそうよ。せっかくのイブにアンタなんかと二人で焼肉とか、ブレイドがカワイソーじゃん」
「ンっだとコラァ!?」
「ホントのことでしょー!?」
また始まった。と思う余裕こそあれ、ブレイドは若干うんざりしながら二人のじゃれ合いを観戦する。
実際のところカラオケも辞退したいところではある。
なにしろ『尋問』はまだ行われていないのだ。どうやって逃げ出そうか、はぐらかそうか、誤魔化そうか……
考えているとにゅっと腕が伸びて、パンサーの腕からブレイドを奪い取った。
「すまないがこちらが先約だ」
「あ?」
目をぱちくりして見上げると、そこには狐を模った面がある。
フォックスがつまみ上げるようにブレイドの首根っこを捕まえていた。
「……そうなの?」
訝しげなパンサーの問いかけに、ブレイドはなんと答えることも出来ずに彼女とフォックスの顔を見比べる。
そんな事実はなかったが、しかし渡りに舟ではある。ただし、その舟は泥製だ。
肯定すれば、後の追求はより激しいものになるだろう。否定すれば一時で済むが、しかし……
「約束しただろう。お前に一番に見せたいと」
あ、とブレイドは間の抜けた声を上げた。
これには心当たりがある。つい一週間ほど前、ちょうど日の出の時間にした約束だ。
ブレイドはもう一度パンサーの顔を見て
「ごめんね、確かにこっちが先だ。また今度、一緒に行こ」と、申し訳なさを滲ませて言った。
そうされてしまうと、パンサーはもちろん、初めからそんなつもりもなかったスカルも当然、身を引くしかない。
「うー……じゃあ仕方ないか……でもっ、次は私が優先だからね!」
可愛らしい悋気でもって応えて、パンサーはスカルを引っ張って改札の向こうに駆けていった。
見ればホームの向こう、路線の上ではモナがすでに車に変じて一同を急かしているではないか。ついに彼の正体が知れるやもとなって気が急いているのだろう。そばでジョーカーが仲間たちを待ちつつも、落ち着かせるようにバンパーを軽く叩いている。
「あまり待たせて、モナの機嫌を損ねてもいかんな。行こう」
ぱっと首を捕まえていた手が離されて、ブレイドは先を行く少年を小走りで追いかける。
そして、他の者に聞こえないよう小さな声で囁きかけた。
「完成おめでとう。結局、なにを描いていたの?」
隣に並んだ少女の期待に輝く瞳を見下ろしながら、フォックスはうーんと唸る。言うべきか言わざるべきかで迷っている様子だ。また彼はいつもなかなか見せることのない緊張もしているようだった。
「見れば分かる」
それだけ答えて、少年は小さく息をついた。
ブレイドはそれだけで、なるほど、見ることそのものが何かしらの仕掛けの一部になっているのだなと推察する。
「それもそうだね。楽しみにしてるよ」
「俺もお前に見せるのが楽しみだ。……緊張もしてる」
「きみが? 珍しいね」
「こればかりはな。なにしろ初めての試みだから」
「ふうん? 新しい技法でも試したの? ますます楽しみだな」
朗らかに応えて、ブレイドは足音も高く先を行った。
モルガナカーにはすでに仲間たちが搭乗して、二人を早く早くと急かしている。
フォックスは、ブレイドの小さな背中に囁きかけるように、己に言い聞かせるように呟いた。
「ああ……見れば分かる」
少年の手指は、本当に珍しいことに緊張とわずかな恐怖によって震えていた。
まるで一世一代の大勝負に挑むかのように。
……
………
何故そうなったのかは分からないが、気がつけば若者たちは神の如きもの、あるいは神そのものと対峙することになっていた。
とはいえ今までも散々不思議な目にも悲惨な目にも遭ってきたから、今さらこの事態に驚きはしても絶望まではしなかった。
思わぬ仕打ちに失望はしても、彼らの手元にはいつでも切り札である《ジョーカー》があって、そして彼はやっぱり『それがどうした、大したことない』と言うから、子どもたちは不精不精、血を吐きながら、折れた手足を引きずりながら、それでも笑って彼についていくしかなかった。
それが彼らのやるべきことであった。思い返せば、他に選択の余地のない状況だったかもしれない。
それでもきっと、他に選択肢があったとしても、彼らは吸い寄せられるように続いていただろう。
そして、ドロシーが銀のくつをはいてお家に帰ったように、ピーターパンが涙ながらに窓の鍵を外したように、アリスがお姉さんに自分が見た不思議な夢の話をするように、物語は一つの約束事として、「めでたし、めでたし」で終わるようにできている。
苦難の末に巨大な敵を打ち倒した少年たちは家路につく者もいれば、そのまま夜一夜遊びに向かう者もあり、静かに佇んで己の成し遂げたことを噛み締める者もいた。
一同の胸には寂寞とした想いが残されたが、立ち止まるものはいなかった。ばらばらになって行動することになっても別段これを寂しいと思う者もまた。
だって、明日になればまた、何事もなく顔を合わせることができるのだから。
いつでもそうしてきたように。雨が降る日も、晴れの日も、なにがあろうとも。
けれど、喧騒の中独り足を止めて沈黙し、ばらばらに歩き去る仲間たちの背を見送る少年だけが、そうではないことを知っていた。
「最後になるかもしれないというのに、誰か誘うような子はいないの?」
静謐な沈黙を破ったのは怜悧な声だった。
少年は降りしきる雪の中を振り返って、声の主に穏やかな目を向ける。
「いません」
きっぱりと言い切ってやると、そこに立っていた妙齢の女は芝居役者のように大仰でわざとらしく肩をすくめた。口元には少しだけ馬鹿にしたような、上から憐れむような笑みがある。
「寂しいわね」
それが見せかけであることは分かっていた。
だから少年は、大した寒さも感じていないのに己の身を抱きしめて、悲しみをたっぷりと装って言ってやった。
「冴さん、寂しい青少年に寿司でも奢ってくださいよ」
言葉に、新島冴はむっと眉を寄せて、腰に手を当てて唇を尖らせた。大人の女にはちょっと似合わない、子供っぽい仕草だった。しかし不思議と様になっているから、少年は改めてこの女性を利用……救出……支援……したことを正解と思う。美人は彼にとってそれだけで『オタカラ』だった。
冴はやれやれと頭を振って、ため息をつきつき、少年の脇をすり抜ける。
「……回るやつね」
「たった今偉大な試練を乗り越えて、これから自己犠牲に走ろうっていう少年へのはなむけとしては安すぎませんか」
ねえ冴さん、と子犬のようにまとわりつく少年に冴は小さくため息をついた。
そうされているとなんだかあの忌々しい、しかし悔恨の念を呼び起こさせる少年を思い出してしまうではないか、と。
冴は鼻を鳴らして、少年に呼びかけた。
「その呼び方―――誰かを思い出して複雑になるのよ。やめてちょうだい」
ぴしゃりと言い放つと少年は叱られた子犬のように身を縮こませて困り顔をしてみせる。
「新島さん」
不満げな呼びかけに冴は鼻を鳴らして目を細めた。
「私の心を盗み出した男がする呼び方ではないわね」
「う……」
今度こそ困りきって、頭をかき、恥じらって顔を俯ける少年に冴は勝ち誇ったように笑い、先を行って歩き出した。少年は降参と言わんばかりに両手を上げてそれに従って、困惑の色も濃く呼びかける。
「待って下さいって。あー、だから……冴、でいいんですか? 本当に?」
「さあね。あなたがいいと思うのならいいんじゃない?」
「そんな無責任な」
ため息とともに隣に並んでついて歩く少年に、冴は口元に手を添えて低い笑い声を漏らして手を差し出してやる。
それは手を繋ぐことを求めている様子ではなかった。少年は少しだけ思案して、肘を突き出すような格好を取った。
冴は満足げに頷いて、そこへ手を差し込んだ。
「いいでしょう。最後の晩餐をご一緒できて光栄だわ」
「寿司ですか?」
「回るやつよ」
少年は肩を落として、それでも健気にエスコート役を務めようと背筋を伸ばした。